影踏み
むかし、あるところに妙という親に逆らってばかりの娘がいました。お父さんは立派な藩士で、お母さんは高貴なお家の人でしたが、妙にはそんなこと、馬の耳に念仏です。由緒ある家の娘がお供を連れずに外を出歩いてはならないと、何度叱られてもまったく聞き入れず、人の目を盗んでは屋敷を抜けて遊んでいました。
ある日、妙はお堀の側の柳の下に子どもたちが集まっているのを見ました。気になって近づいてみると、杖をついたみすぼらしいお婆さんが恐い話をしているのでした。妙は子どもたちの後ろに立って、お婆さんの姿をしげしげと見つめました。灰色の頭はすすきの穂のようにぼうぼうとして、顔も着物も垢と埃にまみれて真っ黒です。子どもたちは真剣な顔をして墓場の泣き幽霊や橋の妖怪の噂に聴き入っていましたが、妙にはそのお婆さんの方が薄気味悪く思われました。ただ一つ、もう行こうと背を向けたときに始まった話が、妙の興味を引きました。
――古い屋敷の開かずの間には、あまのじゃくがいる。開かずの間を開けた子どもは、闇に引き込まれてあまのじゃくの餌食になってしまう。
妙は、曾婆さまのお付のおばばのことを思い出しました。幼い頃、屋敷の中を探検していて鍵のかかった部屋を見つけたときに、どこからともなく現れてそれは開かずの間だと教えてくれたのでした。
どうして鍵を掛けるの、と尋ねた妙に、おばばは何と答えたのでしょう。思い出せないことがさらに妙の心をくすぐりました。
あまのじゃくなんて嘘に決まっている。でも、本当だったら、おもしろい
妙は恐れを知らない娘でしたから、さっそく屋敷の開かずの間を調べてみることにしました。すると――、
戸に掛けられた錠前が、開いているではありませんか。いつか見たときにはがっちりと閉まってびくともしなかった錠前が、うっすらと口を開けて金具に掛かっているのでした。まるで、妙が来るのを待っていたかのようです。
そこへ遠くから乳母の呼ぶ声がしました。妙を探して近づいて来る足音も聞こえます。見つかったら最後、開かずの間は再び永遠に鍵を掛けられてしまうでしょう。妙は慌てて錠前を外し、中に隠れました。
そこは使われなくなった古道具や古びた桐の箱が雑然と積まれた物置のような部屋でした。真っ暗に違いないと思っていたのが、そうではなくて、二階ほどの高さもある天井近くの明り取りから柔らかな初秋の日が舞い込んでいます。奥は思ったよりも深く、砂のような埃の匂いが立ち込めていました。
ふと、奥で物音がして妙は飛び上がりました。しかしすぐには逃げ出さずに、物陰から様子を窺うと、倒れ掛かった武具の下で何かがもがいています。
――妙、妙。助けてくれ
声を聞いて、妙はびっくりするのと同時に、少しがっかりしました。そこにいたのは、いとこの惣二郎だったのです。妙とは同い年で、同じくらいいたずらな子どもでした。入り込んで悪さをしているうちに、立ててあった武具の下敷きになって身動きが取れなくなってしまったのでしょう。妙は、
なんだ、惣二か
と笑って、桐箱の山を乗り越えて奥に進みました。でも、何か変です。惣二郎が物の下から這い出すのを手伝いながら、妙は考えました。そして、自分が入るときに錠前を外したことを思い出しました。錠前の口は開いていても、金具にはしっかりと掛かっていたのです。その部屋に惣二郎はどうして入り込めたのでしょう。どうやって外へ出るつもりだったのでしょう。
――さてはお前、あまのじゃくだな
妙が叫ぶと、自由になったあまのじゃくは正体を現し、いたずらな娘を捕まえようと毛むくじゃらの腕を伸ばしてきました。さあ、大変。
妙はひらりと身を翻して、出口に急ぎます。その時、雲が動いたのか、金色の夕日がひときわ強く開かずの間に射し込みました。妙は目が眩んで、戸を開ける間際、思わず後ろを振り向きました。そして、見覚えのある箪笥から飛び降りたあまのじゃくが、自分の影を踏むのを見ました。
――勢いよく戸を閉めて錠前を掛け、がちゃりと音を立てて閉まったのを見届けると、さすがの妙も腰が抜けてへたり込んでしまいました。戸の向こうは嘘のように静まり返り、あまのじゃくが悔しがる声も、物音も聞こえません。それでも妙は脚が震えて、あとからあとから冷たい汗が額や背中から噴き出すのを止められませんでした。妙の影を踏んだあまのじゃくは、にやりと笑っていました。その顔が、頭の中でぐるぐる回ります。悪寒がして、這うように戸の前を逃れました。自分の影が餅のように細く伸びて、その影の先が開かずの間の戸の下に吸い込まれていることに、気がつきませんでした。
その夜から妙は高熱を出して臥せりました。熱は幾夜も下がらず、医者には尽くす手がないので、ついに八日目の晩、名のある陰陽師が屋敷に呼ばれました。
陰陽師は人払いをして、目を覚まさない妙の寝所で夜が更けるのを待ちました。何か娘の周りに尋常ならざるものの気配を感じたのでしょう。ようやく下弦の月が昇った頃、心配でまんじりともせずに待っていた両親が呼ばれました。陰陽師が言うには、
娘の影に、邪鬼が取り付いている。邪鬼は離れたところから娘の影を通じてその魂を蝕んでいる。このままおけば、新月の夜に娘は魂を喰い尽くされて死ぬだろう。娘を救うには呪術によって娘から呪われた影を切り離し、鬼にくれてやるしかない。ただし影を失えば、娘は人ではなくなる。ご両人の考えはいかに
やつれ果てた両親は、まだ救う手があると知って喜びに涙し、
世に娘を失うほどの苦しみはありません。人でなくなろうとも、私どもが一生、屋敷の中で守ります。ですからどうか、どうか、あなた様のお力でお助け下さい
と、迷わずに答えました。
そこで陰陽師は再び人払いをして妙の周りに結界を張り、禁じ手のまじないを掛けました。蛹が殻を脱ぐように、影は妙の体からくるりと剥がれました。すると空蝉の影は手繰り寄せられるようにまっすぐに開かずの間に吸い込まれてゆきました。陰陽師は息もつかずに、影を脱いで青白く弱弱しい娘をじっと見つめていました。
そうして、妙は二度と人前に姿を現すことのできない体になったのです。
***
それから実に五年の歳月が流れました。
妙は青白い幽鬼の姿のまま、離れの奥に与えられた部屋でひっそりと暮らしていました。あの柳の下のおばばを見かけた日から、一度も外に出ていません。同じ年頃の娘たちはもう嫁に行く頃なのに、妙は嫁ぐどころか、屋敷を訪れる客人にさえ会うことができません。兄たちは皆立派に身を立て、自分の家族を持っています。あの惣二郎のところにもよい縁談があるといいます。一人取り残されて、妙は惨めでした。
両親は陰陽師に誓った通り、妙を大切にしてくれました。この頃では退屈しのぎにと、黄表紙のような娯楽本も差し入れてくれます。それでも年を重ねるごとに、娘を失うまいと必死になってくれた親の思いも薄れ、次第に心が離れてゆくのを妙は感じずにいられませんでした。年老いた両親には、親を苦しめてばかりいた娘よりも、今は孫たちの方が喜びであり、慰めなのです。その甥や姪たちとも、妙は会うことができません。一族の中で自分一人忘れられてゆくことが寂しくて、心細くてたまりませんでした。
そんなある日、中庭に出た妙は、ふと自分の体が透けていることに気がつきました。お日様に手をかざすと、掌に風穴が開いたように、仄白い光が透けるのです。
恐ろしくなって、薄暗い部屋に逃げ込みました。すると今度は、体が闇に溶けてゆくように感じます。
――誰か、誰か来て
大声で呼んでも、誰も来ません。今日は末の兄に生まれた女の子の百日のお祝いで、母屋には大勢の人が集まっているはずでした。
――このまま、誰にも顧みられず、私は消えてしまうのか
気がつけば、足は開かずの間に向かっていました。妙はほんの出来心で開かずの間を開けてしまっただけなのです。こんな体になっただけでも罰が重すぎるのに、この上自分が消えてしまうなんて、とんでもないことです。
必ずあまのじゃくから影を取り戻す
青ざめた顔は怒りに震え、固く決意した胸に恐れはありませんでした。もしあまのじゃくに敗れて今度こそ喰われてしまっても、消える運命ならば同じことでしょう。人に戻ってやりたいことが、妙には山ほどありました。何より、もう一度一族の輪に戻ることができるでしょう。よい娘になって、かつての親不孝を償うこともできるでしょう。
まるで砂岩が崩れるように、錠前は妙の冷たい手が触れると簡単に壊れました。
あまのじゃくは奥の書架の上で半跏に頬杖をついて、にたにた笑いながら妙が入ってくるのを見ていました。
自ら儂に喰われに来るとは、つくづく愚かな娘よ
憎たらしい声が嘲笑います。
私の影を返せ――
勇ましい声が響きます。あまのじゃくは爪の長い指で耳の穴をほじくりながら、やはり鼻で笑って、
いつの話をしておるのじゃ。うぬの影など、とうの昔に儂の腹になってしまったわい
と、醜い太鼓腹を叩いてみせます。妙は側にあった槍を取って応えました。
ならばあまのじゃく、お前の影をもらおう
ほう、とこれにはあまのじゃく、面白そうに身を乗り出します。
儂の影を奪って、どうするつもりじゃ
言うや否や、あまのじゃくはひらりと舞ってうずたかく積まれた桐箱の上に降り立ち、槍の先をがし、と掴みました。妙とあまのじゃくの、力比べです。
儂の影を奪って、どうなると申す
私は消えたくない。お前を倒して、人の世に還る――
妙の細腕が、じり、じりと槍を引き寄せます。あまのじゃくの腕が飴のように延びて、槍の先に絡みつく手は黒々とした影に変わりました。あらん限りの力を振り絞り、妙はついに一塊の影を引きちぎりました。両腕を失ったあまのじゃくは呻き声をあげてのたうちます。体に生気の戻った妙も、尻もちをついて荒い息を吐きました。消えゆく日の光が二人の間に静かに揺らめいていました。
――うぬの還る所など、ないわ
苦しい息の下で、あまのじゃくが言いました。怒りの目を上げる妙に、どこか憐れむような目を向けて顎をしゃくります。戸口の側の桐箱を指して、開けてみろと言うのです。
これは
蓋を開けた妙は愕然としてよろめき、埃まみれの床に膝をついてしまいました。中には、妙の雛人形が収められていたのです。その時、耳におばばの声が蘇りました。ここは開かずの間だと教え、なぜ鍵を掛けるのかと尋ねた妙に、答えた言葉。
この家の穢れを封ずる、それが開かずの間だからさ――
くの字に屈めた娘の体から、呻き声が漏れました。かきむしるままに黒髪が伸び、手足は柳のように長くなり、妙は背の高い女の鬼に変わりました。
おとなしく儂に喰われておればよかったものを
あまのじゃくの声が、弱弱しく聞こえたような気がしました。妙の鬼はあまりの苦しさ、無念に悶え、白い単の胸には血の涙が染みてゆきます。
陰陽師は私のために術を使ったのではなかった
そのことがようやくわかり、今日消え始めたわけも、すべてわかったような気がしました。陰陽師は、娘の不孝のために苦しまねばならない哀れな夫婦のために、夫婦が受け入れる時まで娘の死を引き延ばしただけだったのでしょう。開かずの間を暴いてしまったときに妙の運命は決まっていたのです。今になって、妙は自分がしてきたことの罪の重さ、それを罪とも思わなかった己の愚かしさを思い知りました。しかしどれほど悔やんだところで、挽回の機会はないのです。
立ち上がれないままに時は移り、いつしか鏡のような満月が明り取りに掛かっていました。あまのじゃくの息の音は、もう聞こえません。死んでしまったのでしょうか。
妙はついに顔を上げ、月明かりに浮かぶ部屋に首を巡らせました。
影を手にしても人にはなれず、これからどうすればよいのでしょう。人からもののけに変わり墓のない妙に、ゆくべきところはありません。新たな開かずの間の鬼になり、いたずらな子どもが禁を犯しに来るのを待ち受けましょうか。いいえ、いいえ、この上罪を重ねることなど、できるはずがありません。それに、居座ることはできても、自分の居場所はここにはないのだということが、妙にはわかっていました。
回廊に出ると、大広間から明かりが漏れて、宴もたけなわの賑わいが聞こえてきます。優しい末の兄の娘は、きっと愛らしい女の子でしょう。皆に囲まれて祝福を受けるまだ見ぬ姪に、末に生まれた待望の姫として常に皆の注目を浴びてきた自分を、妙は重ねます。
どうか私のように、思いあがって道を外れることがないように――
そっと祈りの言葉を囁き、妙は人知れず屋敷を去りました。
その後は諸国を巡り、行き場のない子どもの霊を率いる長になったということです。
影踏み
それは呪いか、裁きか。初出2016年8月
関連作品:「小説家になろう」にて公開中
シリーズ「十六夜」
『死を阻む死神』
『死神課のイザヨイ』
『その如月の望月の頃』