ブルーベリーの庭

この物語には、特別な事件はありません。

誰かが世界を救うわけでも、奇跡が起こるわけでもありません。

あるのは、一人の女の子が恋をして、傷ついて、泣いて、そして自分の本当の気持ちに気づくまでの物語です。

けれど私は、この物語は恋愛小説ではないと思っています。

人は時々、自分でも気づかないまま「足りなかったもの」を探しています。

愛情だったり、居場所だったり、安心できる時間だったり。

その探しものは、ときに恋という形をして現れることがあります。

主人公もまた、自分では恋をしていると思っていました。

でも、最後に彼女が見つけたものは、恋の答えではありませんでした。

もし読み終えたあとに、あなた自身の「帰りたい場所」や「憧れていた景色」を少しだけ思い出していただけたなら、この物語を書いた意味があったと思います。

どうか最後まで、お付き合いください。

冬の匂い

私が初めて「節約」という言葉を覚えたのは、たぶん小学校へ入る前だった。

もちろん、その頃は意味なんて知らない。

ただ、家には「してはいけないこと」がたくさんあった。

電気をつけすぎてはいけない。

テレビをつけっぱなしにしてはいけない。

冷蔵庫は何度も開けてはいけない。

ストーブは、お母さんが帰ってくるまで我慢する。

誰かに教えられたわけじゃない。

私は勝手にそう感じていた。

冬になると、アパートの窓には白い息が張りついた。

古いサッシの隙間から風が入り込んで、カーテンが小さく揺れる。

ランドセルを床に置くと、私は真っ先に炊飯器の前へ向かった。

昨日の夜、お母さんと一緒に研いだお米。

内釜をそっと持ち上げる。

「よし。」

水の量をもう一度確かめてから、スイッチを押す。

ピーッ。

その電子音を聞くと、少しだけ安心した。

今日もちゃんとできた。

弟はまだテレビを見ている。

「お姉ちゃん、お腹すいた。」

「もうちょっと待ってね。」

母が帰ってくる頃には、ご飯だけは炊けているようにしたかった。

それが私にできる仕事だった。

時計を見る。

午後五時二十分。

まだ帰ってこない。

外では雪が降っていた。

毛布を肩まで引き上げる。

寒い。

足の先がじんじん痛い。

ストーブの前まで行って、スイッチに手を伸ばす。

……やめた。

灯油が減る。

お母さんが困る。

毛布をもう一枚重ねれば大丈夫。

そう自分に言い聞かせる。

子どもは、寒いからストーブをつける。

私は、寒いからストーブを我慢した。

その違いに気づいたのは、大人になってからだった。

玄関のドアが開く音がした。

「ただいま。」

その一言で、家の空気が変わる。

「おかえり!」

私は駆け寄った。

母のコートには外の冷たい空気の匂いがついていた。

少しだけ煙草みたいな匂いと、洗剤の匂い。

「今日もご飯炊いてくれたの?」

「うん。」

「ありがとう。」

その一言だけで嬉しかった。

私は母が好きだった。

世界で一番好きだった。

だから母が疲れている日は苦しかった。

母がため息をつく日は、自分が悪いことをした気がした。

母が笑う日は、今日はいい日だと思えた。

夜になると、私は布団の中で想像した。

もし、お母さんが死んだら。

その想像をした瞬間、胸がぎゅっと苦しくなる。

涙が勝手に出てくる。

隣では弟が寝息を立てている。

私は声を殺して泣いた。

父親の顔は覚えていない。

写真もない。

記憶もない。

だから私にとって家族とは、お母さんだった。

たった一人。

その一人がいなくなったら、私はどうやって生きていけばいいんだろう。

そんなことを、小学生の私は本気で考えていた。

学校では、友達の話を聞いているのが好きだった。

「昨日、お父さんとキャッチボールした。」

「日曜日は家族で温泉行った。」

「お父さんにゲーム買ってもらった。」

私は笑って聞いていた。

へえ、いいなあ。

そう言いながら、心の中ではその景色を想像していた。

父親って、どんな人なんだろう。

家族旅行って、どんな感じなんだろう。

私には分からなかった。

だから想像するしかなかった。

知らない景色ほど、綺麗に見える。

その頃からだった。

私は、人の機嫌を見るのが得意になった。

教室でも。

家でも。

スーパーでも。

「あ、この人今怒ってる。」

「あ、この人は笑ってる。」

そんなことばかり考えていた。

誰も気づかないような小さな表情まで見えてしまう。

今なら、それは私が優しかったからだけじゃないと分かる。

嫌われないためだった。

捨てられないためだった。

大好きな人がいなくならないように。

私は無意識に、人の心を読む子どもになっていた。

春になると、桜が咲く。

みんなは春が好きだと言う。

私は少し苦手だった。

新しいクラスになるから。

新しい先生になるから。

新しい友達になるから。

また最初から、人の顔色を覚え直さなきゃいけない。

それが、とても疲れた。

だから私は、冬のほうが少し好きだった。

寒かったけれど、変わらないから。

大人になった今なら分かる。

あの頃の私は、寒さに耐えていたんじゃない。

寂しさに耐えていた。

ストーブをつけなかったのは、お金のためだけじゃない。

私は、小さな子どもなりに家族を守ろうとしていたのだ。

守られるはずだった年齢で。

これは、私がまだ「恋」を知らなかった頃の話。

そして、私が人生でいちばん欲しかったものの名前を、まだ知らなかった頃の話でもある。

透明な人

中学生になった春。

制服を着ることよりも、新しい教室へ入ることのほうが怖かった。

教室の前で深呼吸をする。

「失礼します。」

誰に言うでもなく、小さく呟いて扉を開けた。

もう何人かは席についていて、友達同士で笑っている。

私は誰とも目を合わせないように、自分の席を探した。

窓際、一番後ろから二番目。

少しだけ安心した。

後ろには誰もいない。

誰かに見られている気がしなくて済む。

ランドセルの代わりに学生鞄を机へ置く。

その音だけが、やけに大きく聞こえた。

「おはよう。」

隣の席の女の子が笑った。

私は反射的に笑い返した。

「……お、おはよう。」

ちゃんと笑えていただろうか。

声は小さすぎなかっただろうか。

変な顔をしていなかっただろうか。

たった一言話しただけなのに、頭の中では反省会が始まっていた。

家へ帰ると、いつものように母はまだ仕事だった。

制服を脱ぎ、洗濯機を回す。

炊飯器のスイッチを押す。

弟に「宿題やったの?」と聞く。

毎日同じことの繰り返し。

だけど学校だけは、毎日違った。

「今日、○○ちゃん怒ってたよね。」

「え?」

「私の勘違いかな。」

そんな会話を友達がしていても、私は心の中で答えを知っていた。

怒っていた。

笑っていた。

悲しそうだった。

全部分かる。

分かってしまう。

でも、それを口にすると「考えすぎ」と笑われるから言わなかった。

ある日、体育祭の練習中だった。

クラス全員で輪になって話し合いをしている。

誰かが意見を言う。

先生が聞く。

「他にある人?」

教室が静かになる。

私は思いついていた。

でも言えなかった。

もし変なことを言ったら。

もし笑われたら。

もし空気が凍ったら。

考え始めると、心臓だけがどんどん速くなる。

「じゃあ、これで決まりね。」

話し合いは終わった。

結局、一言も話せなかった。

帰り道。

自転車を漕ぎながら思う。

なんで言えなかったんだろう。

言えばよかった。

次はちゃんと話そう。

でも次の日になると、また同じことの繰り返しだった。

中学二年生になる頃には、教室の中で自分が少しずつ透明になっていく気がした。

誰とも喧嘩はしない。

嫌われてもいない。

だけど、誰かの「一番」でもない。

休み時間になると、みんなは誰かの机へ集まる。

私は本を開く。

読んでいるわけじゃない。

本を読んでいるふりをしているだけだった。

「一人が好きなんだ。」

そう思われた方が楽だった。

本当は違う。

話しかけられないだけだった。

鏡を見る時間が増えたのも、この頃だった。

朝、家を出る前。

学校のトイレ。

ガラスに映る自分を見るたびに、気になる場所が増えていく。

鼻が変。

目が小さい。

輪郭が変。

笑った顔が気持ち悪い。

友達は「全然普通じゃん」と言う。

母も「気にしすぎ」と笑う。

でも、私には普通には見えなかった。

鏡の中だけ、別の人間がいた。

高校へ入学すると、少しだけ世界が変わった。

知っている人がほとんどいない。

それが逆に楽だった。

「初めまして。」

その一言から始まる関係には、過去がなかった。

少しずつ友達もできた。

笑う時間も増えた。

文化祭で写真も撮った。

「あ、この高校に来てよかった。」

そう思えた日もあった。

でも、一つだけ変わらなかったことがある。

男の子と話せない。

同じクラスの男の子に「おはよう」と言われるだけで、顔が熱くなる。

返事ができない。

廊下ですれ違うだけで緊張する。

好きだからじゃない。

怖かった。

嫌われることが。

変だと思われることが。

自分を見られることが。

高校三年生の秋。

ドラックストアでアルバイトを始めた。

「いらっしゃいませ。」

心の中の練習では言えた。

笑顔も作れた。

でも実際にレジの前に立つと頭が真っ白になる。

袋は必要ですか。

ポイントカードはありますか。

ありがとうございました。

たったそれだけ。

何十回も練習した言葉。

なのに、お客さんが目の前に立つと口が動かない。

「……あ。」

声だけが漏れる。

何も言えない。

お客さんは不思議そうな顔をして帰っていく。

店長が優しく言った。

「緊張しなくて大丈夫だから。」

その優しさが、余計につらかった。

期待に応えられない自分が情けなくて、帰り道で泣いた。

アルバイトは長く続かなかった。

次の仕事も。

その次も。

「向いてないのかな。」

何度そう思ったか分からない。

周りのみんなは当たり前にできることが、私にはどうしても難しかった。

笑って話すこと。

目を見て話すこと。

雑談をすること。

それだけのことが、私には高い壁だった。

その頃から、私は少しずつ思い始めていた。

普通になりたい。

ただ、それだけなのに。

どうしてこんなに難しいんだろう。

そして私は、まだ知らなかった。

もうすぐ、「女であること」だけで、お金を稼げる世界を知ることになる。

人と話せなくても。

笑顔が作れなくても。

そこでは、私にも価値があると言ってくれる人がいた。

私はそれを、「救い」だと勘違いしてしまう。

女でいるだけで

高校三年生の冬。
家へ帰ると、母は相変わらず働いていた。

少しずつ生活は楽になっていたけれど、贅沢なんてできなかった。

私は、お金が欲しかった。

ブランド物が欲しいとか、高級なご飯を食べたいとか、そういうことじゃない。

「お金があれば安心できる。」

そう思っていた。

子どもの頃からずっと。

寒い冬も。

母の疲れた顔も。

全部、お金がないからなんだと思っていた。

だから、お金さえあれば幸せになれると信じていた。

その世界を教えてくれたのは、スマートフォンだった。

「ご飯だけ 二万円」

「顔合わせ 一万円」

画面をスクロールするたびに、知らない世界が並んでいた。

最初は驚いた。

こんな世界、本当にあるんだ。

でも驚きは、すぐに興味へ変わった。

そして興味は、ほんの少しの勇気だけで現実になった。

待ち合わせ場所は、駅前だった。

相手は四十代くらいの男の人。

優しそうな笑顔で、

「寒かったでしょ。」

と言った。

私は少し安心した。

怖い人じゃなさそう。

それだけで十分だった。

カフェで話をして、お金を受け取る。

その日は、本当にそれだけだった。

帰り道、財布の中を見る。

一万円札。

アルバイトなら何時間も働いてようやく手に入る金額だった。

「こんなに簡単なんだ。」

その一言が、心のどこかに根を張った。

二回目は、もっと簡単だった。

三回目は、迷わなかった。

人は慣れる生き物なんだと知った。

最初に感じた罪悪感も、恥ずかしさも、少しずつ薄れていく。

「これでお金がもらえるなら。」

そう思うようになっていた。

ある日、帰り道に化粧品売り場へ寄った。

欲しかった化粧品を、値段を見ずにレジへ持っていく。

店員さんが言う。

「三千二百八十円です。」

昔なら、一度棚へ戻していた。

今日は、そのまま財布を開けた。

「ありがとうございます。」

その言葉を聞きながら思う。

お金があるって、こんなに安心するんだ。

母には言えなかった。

もちろん友達にも。

「最近どうしてるの?」

「普通だよ。」

嘘はどんどん上手くなっていった。

ある夜、鏡の前でメイクを落としていた。

ファンデーションを拭き取る。

アイラインを落とす。

鏡の中の自分と目が合う。

「……私、何してるんだろ。」

そう思ったのは一瞬だった。

すぐに心の中でもう一人の私が言う。

「でも、お金があるじゃん。」

その声のほうが、少しだけ強かった。

私は、自分の身体を売っているとは思っていなかった。

そんな言葉は使いたくなかった。

ただ、自分にできる仕事をしているだけ。

そう言い聞かせていた。

「誰にも迷惑かけてない。」

「私が選んだことだから。」

何度も何度も、自分に言い聞かせた。

今振り返れば、それは嘘だった。

一番傷ついていたのは、私自身だった。

でも、その頃の私は気づかなかった。

お金が心の穴を埋めてくれると、本気で信じていたから。

少しずつ、私は思うようになる。

「もっと稼ぎたい。」

もっと。

もっと。

もっと。

その言葉だけが頭の中で大きくなっていった。

恋も、友達も、将来も。

全部あと回し。

お金だけが、私を裏切らないと思っていた。

だけど、人はお金だけでは生きられない。

それを教えてくれたのは、お金では買えない「好き」という感情だった。

18歳春。

私は、一人の男の子と出会う。

警察官になる夢を、本気で追いかけている人だった。

その出会いが、私の人生を少しだけ変えていく。

初恋

人生には、あとから振り返って初めて「あの日が分岐点だった」と気づく日がある。

私にとって、その日はマッチングアプリで一人の男の子から「こんにちは」と届いた日だった。

画面には、少しぎこちない笑顔の写真。

黒髪で、短髪で、何より顔がかっこよかった。

私は何気なく「いいね」を返した。

その時は、それだけだった。

ここから一年で私は初めての感情を知ることになる。

最初のデートは、水族館だった。

私は朝から何度も服を着替えた。

鏡の前で髪を巻いて、前髪を整えて、また崩して。

「変じゃないかな。」

家を出る直前まで鏡を見ていた。

待ち合わせ場所には、十分前に着いた。

すると彼はもういた。

「おはよう。」

その一言だけで分かった。

写真より格好いい。

それに、笑うと少し目尻が下がる。

その笑顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。

「緊張してる?」

彼が笑う。

「……うん。」

「俺も。」

その一言で、少し肩の力が抜けた。

水族館では、ほとんど魚なんて見ていなかった。

クラゲの前で立ち止まっても、見ていたのは水槽じゃない。

隣にいる彼の横顔だった。

「クラゲってさ。」

「うん?」

「なんにも考えてなさそうで羨ましい。」

私が言うと、彼は笑った。

「俺も今、何話そうかしか考えてない。」

また笑った。

その笑い方が好きだった。

帰り道、駅まで歩く。

春の風はまだ少し冷たかった。

信号待ちをしていると、彼が少しだけ私の手に触れた。

偶然なのか、わざとなのか。

分からなかった。

でも、その一瞬だけで十分だった。

心臓がうるさいくらい鳴っていた。

私達はその日のうちに付き合った。

数週間後、彼は警察官になるという夢を叶えるために、警察学校へ入った。

「携帯、預けるんだ。」

「そんなに厳しいの?」

「うん。」

「じゃあ連絡できないね。」

「週末だけ返せるから待ってて欲しい。」

私はその時初めて、「会えない恋」があることを知った。

毎日、携帯を開く癖は変わらない。

でも、通知は来ない。

来るはずがない。

分かっている。

それでも何度も画面を見る。

金曜日の夜になると、少しだけ期待した。

「今日、携帯返ってくるかな。」

そんなことばかり考えていた。

ある土曜日の夜。

通知が鳴る。

『ただいま。』

その四文字だけで泣きそうになった。

『おかえり。』

たったそれだけ送るのに五分も悩んだ。

重く思われたくない。

でも嬉しい。

そんな気持ちを全部消して、

『おかえり😊』

そう送った。

すぐに返信が来る。

『会いたい。』

私はベッドの上で顔を埋めた。

こんなに嬉しい言葉が、この世にあるなんて知らなかった。

会える日は限られていた。

だから、一日が特別だった。

映画を観る日。

ラーメンを食べる日。

公園を歩くだけの日。

何をしたかは、もうあまり覚えていない。

でも、笑っていたことだけは覚えている。

いつも笑っていた。

私は手紙を書いた。

今日あったこと。

仕事のこと。

テレビで見た面白い話。

本当は会って話したいこと。

便箋は何枚にもなった。

「一日一枚ずつ読んでね。」

そう言って渡すと、彼は嬉しそうに笑った。

「宝物にする。」

その言葉を、本気で信じた。

彼も愛情表現を惜しまない人だった。

「かわいい。」

「好き。」

「会いたい。」

恥ずかしいくらい真っすぐだった。

私はその真っすぐさに、少しずつ救われていった。

「私なんかを、こんなに好きでいてくれる人がいる。」

その事実だけで、自分を少し好きになれた。

あの頃の私は、まだ知らなかった。

愛とは、相手を疑わない時間でもあることを。

携帯を見たいなんて思わなかった。

他の女の子を心配したこともなかった。

ただ、彼を信じていた。

信じられた。

それが恋なんだと思っていた。

けれど、恋だけでは生活はできない。

少しずつ、私の中の不満が増えていった。

彼は悪い人じゃない。

むしろ、とても良い人だった。

一年後、別れを切り出したのは、私だった。

「ごめん。」

その一言を言った瞬間、胸が張り裂けそうになった。

彼はしばらく黙っていた。

「……そっか。やり直したくなったら言って。いつまででも待ち続けるから。」

それだけだった。

怒らなかった。

責めなかった。

最後まで優しかった。

あの日初めて知った。

恋が終わる時は思っていたよりずっと静かなんだと。

何年も経ってから、ふと思うことがある。

もし、あの時別れていなかったら。

もし、私がもう少し大人だったら。

もし、彼がもう少し恋愛に器用だったら。

そんな「もし」は、今でも時々夢に出てくる。

でも人生は、「もし」を選べない。

選ばなかった道だけが、いつまでも綺麗に見える。

この恋は終わった。

だけど、この恋は私の中から消えなかった。

誰かを本気で好きになること。

誰かの帰りを待つこと。

誰かの未来を願うこと。

その全部を教えてくれたのが、彼だった。

私は彼が立派な警察官になるところを
見届けることが出来て本当に良かった。

だから私は、この恋を「失敗だった」とは一度も思ったことがない。

ただ、少し出会うのが早すぎた恋だった。

空白を埋める人

失恋は、時間が解決してくれるものだと思っていた。

だけど実際は違った。

時間は傷口を塞ぐ代わりに、その場所を少しずつ麻痺させていく。

痛みを忘れた頃には、何が痛かったのかも思い出せなくなっていた。

私はまた、マッチングアプリを開いていた。

画面の中には、何百人もの男の人がいた。

笑っている人。

スーツ姿の人。

犬を抱いている人。

プロフィールを読んでは閉じ、また次へ進む。

気づけば、恋を探しているというより、「誰か」を探すことが習慣になっていた。

彼と出会ったのは、そんな頃だった。

動物関係の会社で働いているという、二つ年上の男性。

プロフィールには猫の写真が載っていて、それだけで優しい人なのかもしれないと思った。

「今度、遊び行かない?」

そのメッセージに、私は軽い気持ちで返事をした。

最初のデートは、ドライブだった。

今思えば、彼は物凄く女性慣れしていた。

車のドアを開けてくれたり、荷物を持ってくれたり。

私はそんな姿を見て、「大人だな」と思った。

年齢はほとんど変わらないのに、不思議だった。

帰り際、彼が言った。

「また来週会おう。」

その言葉が嬉しかった。

来週も、その次の週も会った。

火曜日になると、決まって彼から連絡が来る。

「今日、何時なら大丈夫?」

ご飯を食べる日もあれば、そのままホテルへ行く日もあった。

最初は何も気にならなかった。

好きな人と一緒にいられる。

それだけで十分だった。

でも、三か月が過ぎても、彼は一度も「付き合おう」とは言わなかった。

私は勇気を出して聞いたことがある。

「どうして付き合ってくれないの?」

彼は少し困ったように笑って、

「今のままでも良くない?」

と言った。

その言葉が、胸に小さく刺さった。

今のままでいい。

その言葉は優しいようで、とても残酷だった。

私は「好きな人」だと思っていた。

でも彼にとって私は、「都合のいい人」だったのかもしれない。

その頃の私は、まだそんな言葉も知らなかった。

恋愛に「遊び」があることも知らなかった。

好きなら付き合うものだと思っていた。

だから、彼の気持ちが分からなかった。

友達に相談した。

「付き合ってないの?」

「うん。」

「それ、遊ばれてるんじゃない?」

私は笑った。

「違うよ。」

そう言いながら、心のどこかでは不安だった。

ある火曜日。

「じゃあまた。」

私はその横顔を見ながら思った。

私がいなくても、この人は何も変わらないんだ。

そう気づいてしまった。

その夜、家に帰ってから、何度もインスタグラムのダイレクトメッセージを開いた。

彼とのトーク画面。

写真。

スタンプ。

「おやすみ。」

全部、そこにある。

でも、それ以上には進まない。

私は静かに連絡先を削除した。

画面に表示された文字。

『本当に削除しますか?』

指が止まる。

涙が落ちる。

好きだから別れる。

そんな別れ方もあるんだと、その日初めて知った。

しばらく恋愛はしたくないと思った。

もう傷つきたくなかった。

でも、人は寂しさに慣れることはできても、寂しさを好きにはなれない。

1ヶ月後

年上の男性と付き合うことになった。

飲食店で働く人だった。

最初は順調だった。

「やっと普通の恋愛ができる。」

そう思っていた。

付き合って三週間ほど経った頃だった。

彼に呼び出された。

ファミレスの窓際の席。

アイスコーヒーの氷だけが、カランと音を立てた。

彼は長い間黙っていた。

私は嫌な予感がした。

「ごめん。」

その一言で分かった。

「なんか違う。」

彼は、それしか言わなかった。

なんか違う。

たった五文字。

それだけで、恋は終わった。

家へ帰る途中、私は何度もその言葉を繰り返した。

なんか違う。

私の何が違ったんだろう。

顔?

性格?

話し方?

全部?

鏡を見るのが怖くなった。

一週間後。

彼から連絡が来た。

「やっぱりやり直したい。」

私は嬉しかった。

「やっぱり私を選んでくれた。」

そう思った。

でも、その恋は長く続かなかった。

また数週間後。

同じ言葉だった。

「なんか違う。」

今度は涙も出なかった。

人は、同じ傷を二度つけられると、痛みより先に諦めを覚える。

そのあと付き合った大学生の男の子は、友達の紹介だった。

優しい人だった。

誠実だった。

でも、私は恋をしていなかった。

「付き合えば好きになるかもしれない。」

そう思っただけだった。

ならなかった。

手をつないでも。

キスをしても。

心だけが遠かった。

身体を重ねる前に、私は別れを告げた。

彼は何も悪くなかった。

悪かったのは、誰かを好きになれなくなっていた私だった。

恋愛を繰り返すたびに、心の中の空白は少しずつ大きくなっていった。

誰かが埋めてくれると思っていた。

でも違った。

空白は、誰か一人では埋められなかった。

私はまだ、その理由を知らない。

だからまた、新しい場所を探し始める。

もっとお金が稼げる場所。

もっと必要とされる場所。

十九歳の夏。

私は「デリヘル」という仕事を知ることになる。

居場所

十九歳になった夏。

「デリヘルやってみない?」

そう言われたのは、またもマッチングアプリで知り合った男性からだった。

「知り合いが店やるんだけど。」

軽い口調だった。

私も軽い気持ちで頷いた。

お金が欲しかった。

それとほんの少しの興味。

それだけだった。

店はできたばかりだった。

部屋はまだ新しい匂いがしていた。

スタッフも慣れていない。

お客さんもほとんど来ない。

三日で辞めた。

「これなら援助交際のほうが稼げる。」

そんなことを思っていた。

もう、その感覚がおかしいことにも気づかなくなっていた。

その数週間後。

私は、キャバクラの面接を受けた。

派手な照明。

甘い香水。

ヒールの音。

笑い声。

全部が知らない世界だった。

「ここで働くの?」

そう思うと、お腹が痛くなった。

初出勤の日。

ドレスを着る。

鏡の中には、今まで見たことのない自分がいた。

少しだけ大人に見えた。

でも席へ着くと、何も話せなかった。

「緊張してるの?」

お客さんが笑う。

私は笑えない。

何を話せばいいのか分からない。

沈黙だけが流れる。

隣では先輩たちが楽しそうに笑っている。

どうしてみんな、あんなに自然なんだろう。

私はまた、一人だけ取り残されている気がした。

営業が終わる頃には、トイレへ駆け込んで泣いていた。

「向いてない。」

「やっぱり無理だ。」

鏡を見る。

涙でアイラインが滲んでいた。

その時だった。

ノックの音がした。

「大丈夫?」

店のオーナーだった。

三十四歳。

正直に言えば、見た目は私のタイプではなかった。

少し太っていて、お腹も出ていた。

顔もお世辞にもかっこいいとは言えなかった。

年齢も十五歳離れていた。

恋愛対象になるなんて、その日までは思ってもいなかった。

「そんなに泣くなよ〜」

そう言って、彼はポケットからティッシュを取り出した。

私が何も言えないでいると、

黙って涙を拭いてくれた。

「最初からできる子なんていない。」

「焦らなくていい。」

たったそれだけだった。

励ましの言葉も。

特別な慰めもなかった。

でも、その手は温かかった。

私は、その日の帰り道で気づいた。

好きになっている。

理由なんて説明できなかった。

格好いいからじゃない。

お金を持っているからでもない。

優しくされたから。

ただ、それだけだった。

今思えば、恋だったのかも分からない。

あれはきっと、

「安心」

という感情だった。

付き合うことになったのは、そのすぐ後だった。

あまりにも自然だった。

気づけば毎日一緒にいて、

気づけば同じ家で暮らしていた。

いわゆる風紀というやつだった。

同棲が始まる。

部屋は少し狭かった。

ソファも古かった。

でも私は幸せだった。

仕事が終わると、

「おかえり。」

と言ってくれる人がいる。

朝になれば、

「いってらっしゃい。」

と言ってくれる人がいる。

そんな生活が、私には夢みたいだった。

夜、隣で眠る彼の寝息を聞きながら思う。

「やっと家族ができた。」

もちろん結婚しているわけじゃない。

血も繋がっていない。

それでも私は、

初めて「帰る場所」を手に入れた気がしていた。

私は彼が好きだった。

誰よりも好きだった。

だから怖かった。

失うことが。

携帯を見る。

女の連絡先を消す。

SNSをブロックする。

彼が怒る。

私は泣く。

「だって不安なんだもん。」

その言葉しか出てこなかった。

彼は何度もため息をつきながら、それでも別れなかった。

「またか。」

と言いながら携帯を返してくる。

普通なら、とっくに愛想を尽かされていてもおかしくなかった。

それでも彼は隣にいてくれた。

私はその優しさに甘えていた。

一年ほど経った頃だった。

少しずつ変わっていくものがあった。

夜、一緒に寝ても何もない日が増えた。

手もつながない。

キスもしない。

私は最初、仕事で疲れているんだと思った。

でも違った。

気づいてしまった。

彼はAVを見ていた。

その夜、私は眠れなかった。

「私じゃ、もうダメなんだ。」

その考えが頭から離れない。

鏡を見る。

お腹。

脚。

顔。

全部が嫌になる。

「魅力がないんだ。」

そう思うようになった。

「なんで私とはしないの?」

私は何度も聞いた。

彼は困った顔をして言う。

「違うんだ。」

「前よりも太ってきたし、年齢もある。」

「勃たないだけ。」

「魅力がないわけじゃない。」

でも私は、その言葉を信じられなかった。

信じたいのに、信じられなかった。

あの頃の私はまだ知らなかった。

愛されることと、

欲望を向けられることは、

同じではないということを。

私はその二つを、

ずっと同じものだと思っていた。

二年半の終わり方

別れは、喧嘩から始まるものだと思っていた。

違った。

本当の終わりは、静かだった。

朝起きる。

隣に彼がいる。

「おはよう。」

「おはよう。」

それだけ。

前みたいに抱きつくこともない。

キスもしない。

仕事へ行き、お互い帰ってきて、ご飯を食べて、眠る。

まるで夫婦みたいだった。

でも、恋人ではなかった。

付き合った頃の写真を見返す。

画面の中の私は、今よりずっと幼い。

彼の腕にしがみついて笑っている。

「写真撮ろ。」

そう言うのはいつも私だった。

今はもう、一枚も増えない。

セックスレスになってから、私は毎日鏡を見るようになった。

化粧を落とした顔。

横顔。

鎖骨。

お腹。

脚。

どこが駄目なんだろう。

何を変えたら、また抱きしめてもらえるんだろう。

美容系の動画を見る。

ダイエットをする。

下着を変える。

香水を変える。

髪を巻く。

彼は気づいていたのかもしれない。

でも何も言わなかった。

「ぎゅーは?」

ある夜、ベッドの上で私は聞いた。

彼は大きく息を吐いた。

「ん、おやすみ。」

その「おやすみ」が、一番苦しかった。

嫌いだと言われたほうが、諦められた。

でも彼は、申し訳なさそうな顔をする。

だから私は責め続けてしまった。

「AVは見るじゃん。」

「私とはしないのに。」

「私じゃ駄目なんでしょ。」

彼は何度も首を振る。

「違うって。」

「俺の歳も考えてくれよ。」

「最近、本当に駄目なんだ。」

「お前に魅力がないわけじゃない。」

その言葉は、きっと本当だった。

でも、当時の私は受け止められなかった。

愛されていることより、

求められていることのほうが、大事だった。

泣いて。

責めて。

謝られて。

また泣いて。

その繰り返しだった。

今なら分かる。

あの頃の私は、「彼」を見ていなかった。

見ていたのは、自分だった。

「私は愛されているのか。」

「私は女として魅力があるのか。」

その答えを、彼に求め続けていた。

ある日、私は他の人と会った。

ほんの出来心だった。

寂しかった。

それだけだった。

相手の顔は、もうほとんど覚えていない。

会話も思い出せない。

でも、一つだけ覚えていることがある。

家へ帰る途中、涙が止まらなかった。

違った。

やっぱり違った。

私が会いたいのは、この人じゃない。

私が触れてほしいのは、彼だった。

そのことだけは、はっきり分かった。

浮気をしたことは言えなかった。

言えるはずがなかった。

だから何もなかったように隣で眠った。

彼も何も聞かなかった。

それでいいと思った。

それしかできなかった。

時間だけが過ぎていく。

二年。

二年半。

不思議なものだった。

あれほど好きだった人なのに。

あれほど嫉妬していた人なのに。

ある朝、ふと気づいた。

「あれ……。」

携帯を見たいと思わない。

誰と連絡を取っていても気にならない。

帰りが遅くても心配しない。

他の女の子と話していても、何も感じない。

好きじゃなくなったんだ。

その事実は、驚くほど静かに胸へ落ちた。

それから立場は少しずつ逆になった。

今度は彼のほうが抱きしめてくる。

キスを求めてくる。

私は少しだけ身体を離した。

「ごめん、疲れてる。」

嘘だった。

疲れてなんかいない。

ただ、もう気持ちが追いつかなかった。

「最近、冷たいよな。」

彼がぽつりと言った。

私は笑って誤魔化した。

本当のことなんて言えなかった。

「もう好きじゃない。」

そんな残酷な言葉を、私は言えなかった。

店を辞めることにした。

彼がオーナーの店。

ずっと辞めたかった。

でも辞められなかった。

彼がいたから。

昼の正社員を辞めてまで、休まず働いた。

好きだったから。

それだけだった。

今は違う。

時給のいい店へ移った。

理由はそれだけ。

彼は、私が店を変えたら別れると言っていたのに、結局別れたくないと言った。

それでも私は別れたいと伝えた。

恋が終わったあとには、生活だけが残る。

そんなことを、二十二歳で知った。

新しい店は、前より賑やかだった。

女の子も多い。

お客さんも多い。

毎日が忙しく過ぎていく。

私は割とすぐにこの店にも慣れていった。

そしてある夜。

扉が開く。

「いらっしゃいませ。」

その人は、ごく普通に入ってきた。

スーツ姿。

背筋の伸びた歩き方。

左手の薬指には、小さな指輪が光っていた。

私はその指輪を見て、

「あ、結婚してるんだ。」

そう思った。

そのはずなのに。

なぜか目が離せなかった。

人生には、理由の分からない出会いがある。

この人とは、きっと何もない。

そう思った。

その予感だけは、見事に外れることになる。

薬指

新しい店で働き始めて、一か月ほど経った頃だった。

店の空気にも慣れてきた。

新しい店に来たとはいえ、キャバクラ歴自体はもう3年が経とうとしていた。

そのため前のお店から来てくれるお客さんも多く、とても順調だった。

その日は金曜日だった。

週末ということもあって、店は賑わっていた。

ドレス姿の女の子たちが忙しそうに店内を歩く。

グラスの音。

氷の音。

誰かの笑い声。

香水と煙草が混ざった空気。

私はいつものように席へ案内された。

三名で来てるお客さんのうちの一人だった。

「こちらです。」

顔を上げた瞬間だった。

「あ。」

思わず声が漏れそうになった。

向かいに座っていた男性が、ゆっくりこちらを見た。

灰色のスーツ。

白いシャツ。

時計はシンプルで、高そうだった。

姿勢がいい。

話す前から分かる。

この人は仕事ができる人なんだろうな、と。

「こんばんは。」

低く落ち着いた声だった。

私は少しだけ緊張して、

「こんばんは。」

と返した。

その人は笑った。

派手に笑う人ではない。

口元だけが少し緩む。

それだけだった。

でも、その笑顔が妙に大人だった。

グラスを持つ手に目がいく。

薬指。

銀色の指輪。

結婚している。

その事実だけはすぐに分かった。

話は仕事のことが中心だった。

会社のこと。

出張のこと。

好きなお酒のこと。

私はほとんど聞いているだけだった。

でも、不思議と沈黙が苦にならなかった。

話を無理につなげなくても、この人は困った顔をしない。

それが心地よかった。

帰り際に彼は言った。

「またすぐ来るね。」

社交辞令だと思った。

夜のお店では、そういう約束はいくらでもある。

「またね。」

「今度ね。」

そのほとんどは、本当に「今度」にはならない。

だから期待はしなかった。

一週間後。

本当に来た。

しかも、私を指名して。

「ほんとに来てくれたの!」

「逆に嘘だと思ったの?」

彼はそう言って、優しく笑った。

私はそれを見て何故か少しドキッとした。

そこからだった。

LINEを交換したのは。

仕事終わりに届く、

『今日もお疲れさま。』

朝になると、

『今日も仕事頑張ってね。』

たったそれだけのやり取り。

でも毎日続いた。

私は少しずつ、この人のことを考える時間が増えていった。

「今、何してるんだろう。」

「仕事かな。」

「家に帰ったかな。」

画面を開く回数が増える。

通知が鳴るたびに期待してしまう。

恋なんて、こんなふうに始まるんだ。

久しぶりに思った。

不思議だった。

彼は一度も言わない。

「ご飯行こう。」

「店の外で会おう。」

「飲みに行こう。」

何も言わない。

ただ店へ来る。

LINEをする。

それだけ。

私は少し拍子抜けした。

同時に、もっと知りたくなった。

「どうして誘わないんだろう。」

私は鏡を見ながら考える。

タイプじゃないのかな。

営業だと思われてるのかな。

既婚者だから線を引いてるのかな。

答えは分からない。

分からないから、気になった。

私は、自分で人を好きになりやすい方だ、ということは十分理解してるつもりだった。

ただ、彼女持ちや奥さんがいる人となると、
どんなに好みの容姿だとしても「じゃあいいや」となるのがいつもの事だった。

でも、人の心は理屈では動かない。

彼が来店する日は、少しだけ嬉しかった。

髪を丁寧に巻く。

リップを塗り直す。

鏡を見る回数が増える。

自分でも気づかないふりをしていた。

ある夜。

彼が帰る時だった。

「じゃあ。」

立ち上がる彼を見送る。

その背中を見ながら、私は思った。

帰る家があるんだ。

今頃きっと、

「ただいま。」

って言うんだろうな。

奥さんがいて。

子どもがいて。

温かい家がある。

そう想像すると、不思議と胸が少しだけ苦しくなった。

私はまだ、その苦しさの正体を知らなかった。

恋だと思っていた。

でも本当は違った。

その答えに気づくのは、ずっと後になる。

その日から私は、ほんの少しだけ勇気を出すことにした。

今までは待ってばかりだった。

この人には、自分から近づいてみよう。

そう思った。

その小さな決意が、二人の距離を少しずつ変えていくことになる。

十分

出会って三か月が過ぎていた。

毎日LINEをしていた。

彼は仕事が終わると、

「今日もお疲れさま。」

と送ってくる。

私も、

「お仕事お疲れさま。」

と返す。

そんなやり取りが当たり前になっていた。

店へも定期的に来てくれる。

それなのに。

彼は一度も私を店の外へ誘わなかった。

アフターもない。

ご飯もない。

「今度会おう。」

その一言さえない。

私は少しだけ寂しかった。

本当に営業だと思われているのかな。

それとも、ちゃんと線を引いてくれているんだろうか。

分からない。

分からないから、余計に知りたくなった。

その夜も、彼は店へ来てくれていた。

閉店時間が近づき、お会計を済ませる。

「じゃあ、帰るね。」

「うん。」

彼は店を出ていく。

私はその背中を見送りながら、胸の中でもう一人の自分と話していた。

今しかない。

言うなら今しかない。

でも迷惑かな。

断られたら恥ずかしいな。

何度も心の中で迷って、私は意を決して彼を追いかけた。

店の外へ出ると、夜風が少し冷たかった。

「ねえ。」

彼が振り返る。

「どうした?」

私は少しだけ笑って言った。

「今日さ……。」

「うん?」

「代行来るまで、一緒に待っててもいい?」

言った瞬間、顔が熱くなった。

重かったかな。

困らせたかな。

沈黙が怖い。

彼は一瞬だけ驚いたような顔をした。

でもすぐに優しく笑った。

「いいよ。」

たった二文字。

その二文字だけで、私は胸がいっぱいになった。

二人で駐車場へ歩く。

店の明かりから少し離れると、夜は驚くほど静かだった。

虫の鳴き声だけが聞こえる。

彼は車にもたれかかり、私も隣に立った。

「今日も忙しかった?」

「うん。でも楽しかった。」

「そう?」

「だって来てくれたから。」

彼は照れたように笑う。

「そういうこと普通に言うよね。」

「本当だから。」

彼は何も言わなかった。

でも少しだけ視線を逸らした。

その仕草が、なんだか可愛かった。

沈黙が流れる。

不思議だった。

この人とは、何も話さなくても苦しくない。

同じ空気を吸っているだけで安心する。

そんな人は初めてだった。

私は、この時間を終わらせたくなかった。

「ねえ。」

「ん?」

「こっち向いて。」

彼は素直に私のほうを向く。

街灯の光が横顔を照らしていた。

私はもう我慢できなかった。

一歩近づく。

彼の胸へそっと身体を預けた。

自分から抱きついたのは初めてだった。

彼の身体が少しだけ固くなる。

「……。」

何秒だったのか分からない。

その沈黙が永遠みたいに長く感じた。

やりすぎた。

そう思った、その時だった。

彼の腕がゆっくりと私の背中へ回る。

強くもなく、弱くもなく。

壊れ物を抱くみたいな抱き方だった。

私は顔を上げた。

目が合う。

彼は困ったように笑った。

「ずるいな。」

その声は小さかった。

私は笑ってしまった。

「ごめん。」

そう言いながら、少しだけ背伸びをする。

彼は何も言わなかった。

静かに私を見つめて、それから優しく唇を重ねた。

長くはない。

ほんの一瞬。

それでも、その一瞬が胸の奥へ深く残った。

その時だった。

彼のスマートフォンが震える。

画面を見る。

「代行です。」

二人で顔を見合わせる。

思わず笑ってしまった。

時計を見ると、まだ十分しか経っていなかった。

「え、もう?」

私は思わず声を上げた。

「今日は早いね。」

彼も苦笑する。

いつもは三十分くらい待つと聞いていた。

今日だけ。

今日に限って。

たった十分。

神様は、本当に意地悪だと思った。

代行の車がゆっくり入ってくる。

彼はドアへ向かいながら、一度だけ振り返った。

「帰りたくないね。」

その一言に、私は何も返せなかった。

嬉しかった。

ただ、それだけだった。

車が見えなくなるまで見送ってから、私はようやく歩き出した。

夜風が少し冷たかった。

でも胸の中だけは、不思議なくらい温かかった。

境界線

あの夜から、彼との距離は少しだけ変わった。

劇的な変化ではなかった。

次の日も、いつも通りだった。

「おはよう。」

「おはよう。」

仕事が終われば、

「今日もお疲れさま。」

そんなLINEが届く。

店へ来れば、他のお客さんと変わらないように席へ座る。

周りから見れば、何も変わっていない。

でも私だけは知っていた。

あの夜、確かに何かが変わったことを。

彼は時々、私を見つめる時間が長くなった。

話している途中で目が合うと、少しだけ照れたように笑う。

その笑顔を見るたびに、胸が温かくなった。

私は、自分でも分かるくらい素直になっていた。

「今日もかっこいいね。」

「またそんなこと言う。」

「本当だもん。」

「営業でしょ?」

彼は笑ってそう言う。

私は少しだけむっとした。

「違う。」

「え?」

「営業じゃない。」

彼は冗談だと思ったのか、また笑った。

「はいはい。」

その軽い返事が悔しかった。

私はテーブルに肘をつき、彼をまっすぐ見た。

「本当にタイプなの。」

「初めて会った日から。」

「モテる男は困っちゃうなー」

彼は冗談っぽく言って笑った。

でも、その笑顔は少しだけ照れていた。

店が終わる頃、彼からLINEが届く。

『今日も会えてよかった、おやすみ』

たったそれだけ。

でも、その短い文章を何度も読み返してしまう。

数日後。

初めて店の外で食事をすることになった。

彼からではない。

私から誘った。

「今度、ご飯行きたい。」

送るまでに十分くらいかかった。

送信ボタンを押してからも、スマートフォンを伏せて見られなかった。

しばらくして通知が鳴る。

『いいよ。』

その二文字だけで、嬉しくて笑ってしまった。

待ち合わせは、普通の居酒屋だった。

店の中は静かで、仕事帰りの人たちがぽつぽつと飲んでいる。

キャバクラとは違う空気だった。

私は私服で、彼も仕事帰りのスーツ姿だった。

ドレスじゃない私を見て、彼は少しだけ驚いたように言った。

「なんか新鮮。」

「似合わない?」

「いや。」

彼は首を振る。

「そっちのほうが好きかも。」

その何気ない一言で、私は一日中幸せになれた。

お酒を飲みながら、仕事の話をした。

子どもの頃の話をした。

好きな食べ物の話。

休日の過ごし方。

他愛もないことばかりだった。

それなのに、時間があっという間だった。

「もうこんな時間か。」

時計を見ると、三時間近く経っていた。

「全然気づかなかった。」

「俺も。」

二人で笑った。

店を出ると、夜風が少し冷たかった。

「送るよ。」

「ありがとう。」

並んで歩く。

手が触れそうになる。

でも触れない。

私はその距離がもどかしかった。

信号待ちで立ち止まる。

私は少しだけ勇気を出して、小指を伸ばした。

彼の小指に、そっと触れる。

彼は驚いたように私を見た。

でも、手を離さなかった。

そのまま、ゆっくりと指を絡めてきた。

恋人繋ぎではない。

ただ、手をつないだだけ。

それだけなのに、涙が出そうだった。

歩きながら、彼がぽつりと言った。

「男は夫婦仲良くて、たまにキャバクラ行くくらいが丁度いいよな」

冗談っぽく言った。

私は笑った。

笑ったけれど。

胸の奥が少しだけ痛んだ。

しばらく歩いていると、彼のスマートフォンが鳴った。

画面を見て、彼は少しだけ笑う。

「奥さん?」

「うん。」

「『まだ帰ってこないの?』だって。」

彼はその場で、

『もう帰るよ。』

と返事を打った。

その姿を見て、私は何も言えなかった。

隣にいるのは私なのに。

帰りを待っている人は、私じゃない。

その当たり前の事実が、胸に静かに沈んでいく。

駅に着く。

「今日はありがとう。」

「こちらこそ。」

少しだけ見つめ合う。

人通りが少ない夜だった。

彼は周りを見てから、そっと私を抱き寄せた。

ほんの数秒。

それだけだった。

「またね。」

「うん。」

私は笑って手を振った。

電車の窓に映る自分は、幸せそうだった。

でも、その幸せには、小さな影が差し始めていた。

この頃の私は、まだ知らなかった。

彼を好きになればなるほど、彼の「家族」という存在も、同じくらい大きくなっていくことを。

そして、その「家族」に、私が勝てないことを。

まだ、知らなかった。

ブルーベリーの庭

彼と店の外で会うことが増えた。

月に一度だった食事は、二度になり、三度になった。

ご飯を食べて。

少しだけドライブをして。

他愛もない話をして帰る。

その繰り返しだった。

不思議なくらい穏やかな時間だった。

ホテルへ行くこともなく。

手をつないで歩くだけの日もあった。

それでも私は幸せだった。

彼と一緒にいられるなら、それだけで十分だと思っていた。

ある日、車の中で信号待ちをしていた。

夕方の空は、少しずつ茜色に染まっていた。

彼がふと笑った。

「昨日さ、娘と庭に出たんだ。」

私は窓の外を見たまま、

「へえ。」

と返事をした。

「ブルーベリー育ててるんだよ。」

私は思わず彼を見た。

「ブルーベリー?」

「うん。あと枝豆も。」

彼は楽しそうに話す。

「娘が毎日見に行くんだ。」

「まだ赤いね、とか。」

「今日は増えた、とか。」

その顔は、お店で見る彼とは全然違った。

会社で働く人でもなく。

私といる男性でもなく。

誰かのお父さんだった。

「いっぱい実がなる?」

「なるなる。」

彼は子どもみたいに笑った。

「冷凍すると美味しいんだよ。」

「娘がすごく好きでさ。」

私は笑って頷いた。

「そうなんだ。」

それしか言えなかった。

家へ帰ってからも、その話が頭から離れなかった。

庭。

ブルーベリー。

枝豆。

娘。

笑う彼。

頭の中で何度も繰り返される。

私はベッドの中で目を閉じた。

そして、気づいてしまった。

私はあの庭へ行くことはない。

あのブルーベリーを食べることもない。

彼の娘が笑う姿を見ることもない。

当たり前のことだった。

なのに、それが苦しかった。

数日後。

彼はスマートフォンを取り出した。

「見て。」

そこには、小さな女の子が写っていた。

ランドセルを背負って笑っている。

「かわいいでしょ。」

「うん。」

私は笑った。

本当にかわいいと思った。

次の写真。

家族旅行だった。

海を背景に並んで立つ三人。

奥さんが笑っている。

娘が笑っている。

そして、その真ん中で彼も笑っていた。

次は結婚式の写真。

白いドレス。

タキシード。

次は、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている写真。

彼はその一枚一枚を、とても大切そうに見せてくれた。

「懐かしいなあ。」

その横顔は、本当に幸せそうだった。

私は笑っていた。

「素敵ですね。」

そう言った。

ちゃんと笑えていたと思う。

でも家へ帰った瞬間、涙が止まらなくなった。

どうしてこんなに苦しいんだろう。

奥さんが憎いわけじゃない。

娘が嫌いなわけでもない。

むしろ、幸せそうでよかったと思ってしまう。

なのに胸が痛い。

どうして。

鏡の前に座る。

泣きながら、自分に問いかける。

私は何が欲しかったんだろう。

彼?

違う。

彼だけじゃない。

もっとずっと前から、心の奥にあったもの。

思い出す。

小学生の頃。

真冬の部屋。

ストーブはつけなかった。

寒いからじゃない。

灯油代がもったいないと思ったから。

毛布にくるまって、お母さんの帰りを待っていた。

ご飯を炊いて。

洗濯物を畳んで。

暗くなる部屋で、弟と二人で夕方を過ごした。

母に少しでも負担をかけたくなくて、子どもなのに子どもらしくいられなかった。

あの頃の私は、ただ毎日を過ごすことに必死だった。

彼が見せてくれた家族写真は、私から何かを奪ったわけじゃない。

ただ、心の奥にずっとしまい込んでいた気持ちを、静かに照らしただけだった。

父がいて。

母がいて。

子どもが笑っていて。

「おかえり」と「ただいま」が毎日交わされる家。

休日には家族で出かけて、

庭ではブルーベリーや枝豆を育てて、

実がなればみんなで笑いながら収穫する。

そんな、ごく普通の幸せ。

私には知らない景色だった。

だから、彼の話を聞くたびに苦しかった。

娘の話。

奥さんの話。

旅行の話。

どれも私を傷つけるための言葉じゃない。

むしろ、嬉しそうに話す彼を見るたびに思った。

ああ、この人は本当に家族を大切にしているんだ。

だから苦しかった。

私の入る場所なんて、最初からどこにもなかったから。

その夜、私は一人で泣いた。

彼に会いたいからじゃない。

奥さんに嫉妬したからでもない。

私はようやく気づいた。

あの人を好きになったと思っていた。

でも、本当に心を奪われていたのは違った。

あの人が帰っていく家。

「おかえり」と迎えてくれる人がいて、

休日には家族で出かけ、

庭でブルーベリーを育て、

何気ない毎日を笑って過ごしている。

そんな温かい家庭だった。

私は彼を奪いたかったわけじゃない。

壊したかったわけでもない。

ただ、ずっと憧れていた。

私が子どもの頃、一度も手に入らなかったものに。

私は確かに彼に恋をしていた。

だけど一番は

彼が帰っていく、あの温かい家庭に恋をしていた。

春を待つ

春になると、スーパーにブルーベリーが並ぶ。

私は今でも、あの日の話を思い出す。

「凍らせると美味しいんだよ。」

そう笑った彼の横顔。

昔は、その笑顔を見るたびに胸が苦しくなった。

でも今は違う。

憧れ。

ただ、それだけだ。

母は子育てが終わり、少し生活に余裕が出来たように見える。

弟も大人になった。

そして私も、少しだけ大人になった。

昔の私は、誰かに愛されることばかり求めていた。

誰かの一番になりたかった。

誰かの帰る場所になりたかった。

でも、本当に欲しかったものはもっと単純だった。

温かい食卓。

「おかえり」と「ただいま」が毎日交わされる家。

休日には家族で笑い合って、

庭には小さなブルーベリーの木が一本ある。

そんな、ごく普通の家庭。

私はきっと、その景色に憧れていた。

人は、幼い頃手に入らなかったものに憧れる。

そして、その憧れは、ときどき恋の形をして現れる。

あの人を好きになったと思っていた。

でも、本当に心を奪われていたのは違った。

あの人が帰っていく家。

「おかえり」と迎えてくれる人がいて、

休日には家族で出かけ、

庭でブルーベリーを育て、

何気ない毎日を笑って過ごしている。

そんな温かい家庭だった。

私は彼を奪いたかったわけじゃない。

壊したかったわけでもない。

ただ、ずっと憧れていた。

私が子どもの頃、一度も知らなかった景色に。

いつか私にも、大切な人ができたなら。

「おかえり」と言える家をつくろう。

疲れて帰ってきた人が安心できる場所を。

子どもが笑って、

休日には庭でブルーベリーを摘んで、

「今年もいっぱい実ったね」と笑い合えるような家を。

その時はきっと、

毛布にくるまって寒い部屋で母を待っていた小さな私も、

少しだけ救われる気がするから。

ブルーベリーの庭

最後まで『ブルーベリーの庭』を読んでくださり、本当にありがとうございました。

この物語を書き終えた今、私が一番強く思うことがあります。

人は、必ずしも「人」に恋をするわけではないということです。

誰かの優しさ。

誰かの笑顔。

誰かの生き方。

そして、ときには、その人が持っている日常に恋をすることがあります。

主人公が惹かれたのは、一人の既婚男性でした。

けれど本当に心を奪われていたのは、その人が帰っていく家庭でした。

「おかえり」と迎えてくれる人がいて、休日には家族で笑い合い、庭でブルーベリーを育てる。

そんな何気ない日常は、誰かにとっては当たり前でも、誰かにとっては一生憧れ続ける景色なのかもしれません。

この物語には、正しい人も、悪い人もいません。

誰もが不器用で、誰もが自分なりに誰かを愛し、自分なりに幸せを探していました。

だから私は、この物語を「不倫の話」ではなく、「憧れの正体に気づく物語」として書きました。

もし読んでくださったあなたにも、心の中にずっと忘れられない景色があるのなら。

いつかその景色を、誰かから与えられるものではなく、自分自身の手で築いていけますように。

そして、いつの日か。

あなたの庭にも、小さなブルーベリーの木が実りますように。

ブルーベリーの庭

人は、幼い頃手に入らなかったものに憧れる。 そして、その憧れは、ときどき恋の形をして現れる。 『ブルーベリーの庭』 これは、不倫の物語ではない。 「家族」に恋をした、一人の女の子の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2026-07-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 冬の匂い
  2. 透明な人
  3. 女でいるだけで
  4. 初恋
  5. 空白を埋める人
  6. 居場所
  7. 二年半の終わり方
  8. 薬指
  9. 十分
  10. 境界線
  11. ブルーベリーの庭
  12. 春を待つ