欠けたピース

 蝉が、けたたましく合唱を行っている。忍は、ピンクのセミロングをかき分けると、制汗剤シートで顔を拭った。
「暑い」
 と、一言漏らすと、近くのコンビニの喫煙所で、煙草に火をつける。
 スマートフォンをタップすると、電話をかけた。
「あ、あまね、起きてる? 今からつまみと酒買っていくから。ピザだけ注文しておいてくれない?」
 電話越しに、小さく「うん」という言葉が聞こえる。
「それじゃあ、また」
 と、忍は言うと、通話を切った。
 涼しい店内に入ると、制汗剤シートのメンソールで、顔面だけ北極になったように感じる。
 ビール、ストロング缶、レモンサワー。計一〇本を、カゴの中に入れていく。それに、ポテトチップスとサラミ、ジャーキーを入れると、レジに持っていった。
「これにレジ袋一つと、六二番の煙草を二箱」
 忍はそう言うと、レジの店員は煙草を持って確認する。スキャンをされると、スマートフォンで会計を済ませ、それを持っていく。
 コンビニから出ると、むわっと暑さがまとわりつく。
「ああ、あっちい」
 そう言いながら、忍はアパートに歩みを進めた。

 その日の夜。今日も熱帯夜だと、テレビのニュースでやっていた。
 忍は、ベランダで煙草を吸う。年季の入ったアパートのため、窓を開けると、相当な音がする。
 一口、息を吸い込む。肺に、有害物質が入るような、寿命を縮める呼吸が、心地よかった。
 三口吸ったところで、隣の住人が、ベランダに出てくる音がする。
「あ、あまね」
 衝立一つ向かいには、同じ音楽大学の同期のあまねが住んでいる。
「今日も煙草吸ってるね、忍ちゃん」
 と、張りのない声で、あまね。
「起きた? ピザ予約できた?」
 ハスキーボイスで、忍は顔の見えないあまねに尋ねる。
「勿論」
 あまねはそう言った。
「じゃあ、酒持ってそっち行くわ」
 忍は煙草をもみ消すと、部屋に入っていった。

 あまねの部屋は、アップライトピアノとベッド、それにテレビといった、質素なインテリアを飾っている。
「あまねの部屋はいつもきれいだね」
 部屋に上がった忍は、見渡すとそう言う。
「ありがとう」
 と、あまね。
 しばらくすると、ピザもデリバリーされ、小さな折り畳み机に、Lサイズのピザを並べた。
「あまね、何飲む?」
「レモンサワーもらおうかな」
 忍はあまねの冷蔵庫に酒を入れる。それを聞いて、レモンサワーとビールを取り出した。
 つまみは適当にキッチンに置くと、あまねと忍は、座布団へ座る。
「よっし、飲むかあ」
 と、忍はビール缶を開けた。
「忍ちゃん、来てくれてありがとうね」
 あまねは、ぎこちない笑みを浮かべながら、レモンサワーを飲んだ。

 忍とあまねは、同じ音楽大学の同期生。
 忍は作曲専攻、あまねは声楽専攻で学んでいる。たまたま引っ越した先の楽器可アパートの隣部屋になった。
 進学当初は、二人は一緒に大学に通う仲だった。
「私、歌うことが好き」
 そんなことを、純粋な目であまねは語っていた。
「あたしは、もう演奏者としてはやり切ったから、作曲で周りを支えたい」
 忍は、常々そう語っていた。
 忍とあまねは、それぞれ奨学金を借りており、バイトに学校と忙しい日々をこなしていた。
時には講義で「才能がない」とののしられ。時には仲間の背中を見て、自分を卑下にしたりして。
 一年生の冬。あまねはアパートから出られなくなった。
「あまね」
 アパートのインターホンを鳴らして、忍は声をかける。
「ごめん、今は誰とも話したくない」
 カーテンを締め切った部屋で、忍がかけた電話先であまねはそう言った。
「あたしみたいに、なってほしくない」
 忍は、そう小さく言う。
 あたしみたいに。家族に追い込まれ、嫌というほどピアノで成果をだし。それでも認められなくて苦しくてたまらなかった。そんなあたしみたいになってほしくない。
「音楽って、楽しむものでしょう? 楽しいと思えるまで休めばいいよ。でもね」
 忍はそう言うと、ドアを蹴った。
「早く治療しなよ。そのままだと留年だよ。あたしがついていってあげるからさ」
 だから、どうか開けて。
 その音に驚いたのか、あまねは恐る恐る扉を開けた。
 逃がすまい。その手を、忍は引っ張った。
「行くよ」

 忍に手をひかれて、あまねは、ぽつり、ぽつりと話し始める。
 家族から無視されていたこと。好きなことをやれなかったこと。その中で、幼少に歌だけは褒められたこと。
 だが、競争社会の大学で、歌うことの意味が分からなくなってきた。声が、出なくなってきた。だから、休んだ。そうしたら、ズルズルと大学に行けなくなって。
「私から、歌を取ったら、何にもなくなっちゃう」
 涙が、ぽろぽろと零れる。一言ずつが拙い。
 二人は、待合室でも、手を繋ぎ続けていた。
 医師を前に緘黙するあまねにかわり、忍が経緯を話す。あまねは俯いたまま、それに小さく頷いていた。
 うつ病。そう診断され、薬をもらって帰る。
「早くよくなるといいね」
「うん」
 手を引かれ、土手の上を歩く。
「あたしもさ、昔うつ病やって。なかなか治らなかったんだよね」
「え、忍ちゃんも?」
「うん。なんとか寛解に持ってきたけど、時々落ち込むね」
 忍はまっすぐ前を向いて言った。
「あまねなら、乗り越えられる。ゆっくり、あせらずね」
 そう言って、強くあまねの手を握った。

 酒が、回ってきたな。
 つい半年前のことを……あまねの受診について思い出す。忍はストロング缶を傾ける。
 横では、まだ身体に力が入っているあまねがいて、
「せっかくなんだから、リラックスしなよ」
 と、忍は肩を叩く。
「ちょっとあたし、煙草吸ってくるね」
 忍は立ち上がると、ベランダへ向かう。
「私も」
 と、あまね。
「声楽専攻でしょ、喉に悪いよ」
「今はただの私だから、いいよ」
 あまねはそう言って一緒にベランダに出た。
 忍は一本、あまねによこす。
「息を吸いながら、火を点けるんだよ」
 そう言って、ライターを貸す。あまねは、息を吸いながら、それに火を点ける。
 咽る。
「はは、そりゃそうだ」
 と、忍。
 月明かりは、優しく二人を照らしていた。
 沈黙。息を吐く音だけが、二人の耳に届く。
「言っても、あたしは夏にうつになりやすいから、今きついんだよね」
 忍は、そう言いながら、煙を燻らせた。
「何で?」
「ピアノのコンクールが、ちょうど今時なのさ。ピアニストの母親が、やいやい言って、ぼろぼろになるまで練習しててさ」
「そうなんだ」
 あまねの煙草は進まない。それを見かねて、吸い終わった煙草を始末すると、忍はそれをもらっていく。
「もうこりごりだよ。あんなすさんだ思いをしながら、音楽なんてしたくないね」
 笑いながら、忍。
「今は、煙草が精神安定剤かな。親に対するアンチテーゼってやつ?」
 息を吐く。
「まあ、さ」
 と、続ける。
「お互い、欠けているピースが違うんだよ」
 そう言った忍に、はっとしてあまねは顔を上げた。
「セロトニンなのか、ドーパミンなのか、アドレナリンなのか。それ以外にも、大事にしたいこと、苦手なこと、得意なこと。それぞれみんな違うでしょう?」
 忍の顔は紅潮しており、酒にやや酔っているところが見られる。
「だからこそ、そこは話し合ったりして洗い出してさ。一人じゃなくて色んな人と補い合いながら生きていけばいいんじゃないかな」
 そう言いながら、忍は月を見た。
「補い、合う」
「だって、ずっと一人だったんでしょ、あまね」
 そう言って、忍はあまねの顔を見た。
「頑張ったじゃん。あたしと、補いあおうよ」
 にっと悪戯っぽく笑う忍に、あまねは目を見開いた。
「忍ちゃん」
 名前を言うだけで、ポロポロと涙が零れていく。
「大丈夫。まだ戻ってこれるよ」
 灰が落ちた煙草をもみ消すと、忍はあまねを抱きしめる。
 あまねの目から、止めどなく涙が零れる。それは、赤子の様に泣きじゃくっていた。
「部屋に入ったら、飲み直しをしよう」
 そんなあまねの背中を、忍は優しく叩いていた。

 二人は部屋に戻ると、酒を煽った。
 補いあう。
 あまねは言葉を反芻しながら、忍の顔を見た。酒で泥酔した、恍惚とした表情が、印象的だった。
 普段はすかした、不良学生の忍が、欠けたピースを埋めてくれるのか。
「あまね」
 ストロング缶を持った忍は、あまねに声をかける。
「なに」
 あまねは、レモンサワーに赤らんだ顔で、忍を見た。
「あたしたちなら、卒業できるよ、きっと」
 その忍はどこか遠い目をしていて。それでも、覚悟は決まっているようで。
 忍は、どんな傷を背負って生きているのだろう。それは、あまねには知られざる領域だった。
「忍ちゃんはさ」
 ごくごくと喉を鳴らしてレモンサワーを飲むと、あまねは声を出した。それは凛とした、歌を歌うものの鈴だ。
「どうして私なんかを気にかけるの」
 その言葉に、忍は紅潮したあまねを見た。
「似たにおいがするし、あたしみたいになってほしくないからさ」
 忍は、斜めに顔をあまねに向けた。
 その姿は、耽美でいて。
「あたしもうつ病でさ。あんたと同じ。音楽にとらわれ過ぎた。そんなただの人だよ」
 続ける。
「あまねはまだ引き返せる。だから、あたしはあんたを気にかけるんだよ」
 喉を鳴らしながら、ストロング缶を空にする。
「音楽に罪はない。だから、心の拠り所にして、無理しないで」
 そう言い切ると、忍はフローリングに寝転がる。
「明日も休みでしょ? あたしもあしたの講義はさぼるよ」
 大の字になる忍をみて、その横にあまねも寝転がった。黒いロングヘアが、床に散らばった。
「あたしももっと回復するから。あまねもほどほどに頑張りな」
 そう言われると、あまねの心も軽くなって、瞼が落ちた。

 蝉の音で、あまねは目を覚ます。時刻は一〇時を回っていた。
「忍ちゃん、起きて」
「いいの、昼から行くから」
 忍は幸せそうな表情でそう言って、寝返りを打った。
 あまねは仕方なく、立ち上がるとキッチンへ向かう。パンケーキを作り始めた。
 忍ほど、自由に生きられたなら。否、いままでの凄惨な生き方により身についた、息の付き方なのだろう。
 しばらくすると、むくりと起きた忍は、ベランダで煙草を吸っている。
「今日も素敵な日になりそう」
 そう呟いていたのを、あまねはしっかりと聞いていた。

欠けたピース

欠けたピース

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-21

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