坂の途中①
七話 海へ至る
七話 海へ至る
温暖な地域の海坂町でも、十一月の海は冷たい。
小さな漁船はエンジン音を立てて、どんどん沖に出る。
空はまだ暗い。
欠伸をすると、冷たい空気が鼻奥をツンとさせた。
「恒平!そろそろ着くぞ」
狭い操舵室から親父が顔を出した。
「はい、はい」
軽く返事をして、俺は持ち場へ向かった。
キィと、音を立てながら古びた機械でゆっくり網を巻き取る。
「今日はいけんかもな」
網に掛かった魚を外しながら、親父はぼやく。
小さなヒラメにカサゴ、名前も分からない小魚が、数匹しか掛かっていない。
親父が外した魚を、俺はタンクへ入れる。
「まあ、次のポイント行くけぇ」
網を巻き終わり、親父はまた操舵室へ戻って行く。
今日は全然捕れなかった。
早々に切り上げて帰港する中、デカい貨物船が前からやってきた。
俺たちとは逆に外海へ出て行く。
貨物船の作る波で、俺たちの小さい漁船は揺れた。
あの船はこの海を出て、どこまで行くんだろう。
俺は貨物船の背を見送る。
錆びた港に着いた頃、曇り空から少しだけ陽が差してきた。
陽を浴びる背中が暖かい。
港へ戻るとカモメと猫たちが集まっていた。
その中に、知った顔を見つける。
大福みたいな白猫は、昇ってくる太陽に目を細めている。
「シロさん、今日はダメだわ」
俺が話しかけると、不服そうに尻尾を地面に叩きつけた。
「シロさん、寒かったろう。今日はこれでどうや?」
親父が小魚をシロさんに差し出す。
でもシロさんは気に入らないのか、そっぽを向いて別の漁船へと行ってしまった。
「シロさんは、グルメでいかんなぁ」
親父は苦笑いを浮かべて、小魚をバケツに戻した。
親父は市場へ魚を運び、競りへ向かった。
漁師仲間のオヤジたちと笑って話している。
俺は輪に入らず、片付けをして先に帰宅した。
港から家まで坂を登る。
家の玄関を開けると、台所から味噌汁の匂いがした。
「おかえり恒平、今日はどうやった?」
「ダメだったわ」
台所へ行くと、目玉焼きを焼いてる母さんがいた。
俺が手伝いをした日は、こうして二度目の朝ごはんを用意してくれた。
「あんたお父さんに言ったん?」
「……まだ」
「それで間に合うん?」
ため息を吐かれた。
母さんは目玉焼きをテーブルに置いたあと、ご飯とみそ汁をよそってくれた。
「前にも言うたけどね。お金出すのはお父さんだから、あんたの口からちゃんと言わんと」
「分かってる」
母さんの言葉を遮るように言う。
言われないでも、俺が一番分かってた。
俺は目玉焼きをご飯に乗せると、箸で黄身を潰した。
夏休みが終わっても、親父は週末になると漁へ連れて行った。
手伝いに行く度、親父は道具の扱い方や船の操作、波が荒い時の対処法、漁場の見方を教えてくれた。
持っているものを、残らず俺に渡そうとするみたいに。
漁は嫌いじゃなかった。
船も好きだった。
醤油を垂らして、ご飯と目玉焼きをぐちゃぐちゃに混ぜた。
ご飯を食べた後、親父が帰ってくる前に家を出た。
「漁師を継がない」
たったその一言がずっと言えないでいた。
湿っぽい冷たい風が海から吹く。
坂の上から聞き慣れた声がした。
振り返れば、マフラーをぐるぐる口元まで上げていたナギだった。
「コウちゃん、お出かけ?」
「あぁ」
「どこ行くの?」
「決めてない」
俺がそういうとナギは笑みを浮かべた。
何か思いついた時の顔だ。
「じゃあ、着いてっちゃおう」
「……どこも行かんよ?」
「別にいいよー」
ナギは意気揚々と坂を下りだした。
また転ぶぞと、思った。
でも夏の終わりぐらいからか、ナギは不思議と転ばなくなった。
今もちゃんと前を見て歩いていた。
俺たちは坂を下り、アーケード街まで来た。
途中でナギがコロッケを食べたいとか言ったので、肉屋に寄り道しつつあてもなく歩いた。
気がつけば、浜までたどり着いた。
結局は海に至る。
二人で浜を歩く。
今日は曇っているからか、ずっと風が冷たい。
隣のナギの鼻先が赤い。
俺もポケットに手を入れた。
浜は人気もなく寂しいものだった。
「……ナギは進路どうすんの?」
ナギは眉を下げて笑った。
「うーん、ぜんぜんだよ。わかんないや」
「もう十一月だぞ」
自分で言った言葉にちょっと焦る。
「コウちゃんはどうするの?跡継ぐの?」
水平線を見る。
漁で出る沖より、もっと先へ。
陽の光を失った海は灰色にくすんでいた。
「町を出る」
隣のナギを真っ直ぐ捉えると、色素の薄い瞳とかち合う。
ナギの目には全部視えてんのか。
俺は視線を逸らし、また歩き出した。
「航海士になりたい」
砂に足を取られながら、前へ進んだ。
「……そっか。お父さんのお手伝いしてるから、跡継ぐんだと思ってたなぁ」
少ししてから、ナギは独り言みたいに呟いた。
「俺もそう思ってた」
ずっと、そのつもりだった。
けど漁に出る度に、強く思った。
もっと遠くへ、海の先へ出たい。
「まだ親父に言ってねぇ」
「怖いの?」
俺は黙って浜を歩く。
言えば、もうやるしかなかった。
退路を切って進むしか。
親父はきっと反対しない。
怖いのは親父じゃなかった。
揺らいでいるのは、きっと俺だ。
隣にいたはずのナギが立ち止まって、海を見つめてた。
最近、こんなふうに遠くを見ることが多くなった。
「コウちゃんのお父さん、優しいよね」
「は?」
「おじさんと、コウちゃんと釣りしたなぁって」
小学生の頃の話だ。
防波堤でたまに釣りをしてた。
仕掛けの用意や魚を外すのは親父で、俺とナギはただ竿を持ってただけ。
そんなこともあった。
「おじさんなら怒んないでしょ」
ナギは笑った。
「なんだよそれ」
俺はナギの肩を小突いた。
的外れなくせに、少しだけ気が楽になった。
風が強くなってきた。
以前より伸びたナギの髪が煽られている。
言いたいことは他にもあった。
けど、それを抱えて俺たちは来た道を戻る。
一度だけ振り返ると、海は静かにあった。
翌朝、俺と親父はまた漁に出た。
魚の量も昨日よりだいぶマシだ。
小さい漁船で次々ポイントの網を引き上げていく。
島影の向こうから陽が昇ってくる。
朝日が海を照らした。
網を手繰る手を止めた。
昨日の夜に腹は括ってた。
一呼吸置く。
息が白い。
「俺、親父の跡を継がない」
自分で思ってたよりデカい声で言ってしまった。
親父は何も言わなかった。
腰をかがめて、網に掛かった魚を黙って一匹ずつ外していく。
船のエンジン音がやけに響いた。
立派なヒラメだ。
慎重に網から外してから、ヒラメをタンクへ放り込んだ。
親父は立ち上がり、腰を伸ばした。
「母さんから聞いとったわ。もっと早う言わんかい」
親父はカッカッと、笑った。
「どっちみち海には変わらんけぇの」
親父はそれ以上何も言わなかった。
眩しそうに太陽を見つめている。
俺もつられて見る。
凪いだ海はどこまでも続いていた。
坂の途中①