海坂へ⑥
六話 夏の名残り
六話 夏の名残り
お盆も過ぎて、夏休みの終わりが見えてきた。
朝からセミの大合唱で目が覚めた。
部屋の窓を開けると、むわっとした熱気を潮風が運んできた。
「あつぅ……」
窓枠に顎を載せて、とろけきった頭を働かせた。
今日は特に予定がない。
でも溜まっている夏休みの宿題をやる気は、ちっとも起きなかった。
コウちゃんは朝からお父さんの漁の手伝いに行ってるし、シロさんも町をぷらぷら歩いていてどこにいるのか分からない。
とりあえず顔でも洗おうと、閉じていた目を開けた。
いつもと同じ、坂と海と空。
なのに何か足りない気がした。
風に煽られてカモメがふらふら飛んでいる。
しばらく眺めて気がついた。
「あっ」
おかしいのは目じゃない。耳だった。
今日は風の声が静かだった。
いつものざわめきがない。
(こんな日もあるのかな……)
私は考えるのを止めて、大きく欠伸をした。
リビングに行くと、もうお父さんもお母さんもいなかった。
もうお昼に近い時間。
用意されていた朝ごはんを食べて、適当に身支度を済ませる。
用はないけど、とりあえず外に出た。
太陽はもう、てっぺんにあった。
「溶けちゃうよぉ……」
ぺたぺたと、サンダルの音を立てて坂を上っていく。
私はつい癖で、地面を見ながら歩く。
でもなぜか、今日は神様を見かけない。
ミチさんが神様って呼んでるから、私もそう呼んでる。
いつもならこの辺で、くるぶしぐらいの小さな神様たちが大名行列をつくって横断しているのに。
それが今日は、一人もいない。
私は足を止めて辺りを見渡す。
踏んじゃったのかも。
思わずサンダルの裏を見た。
セミたちの声ばっかり大きく聞こえる。
私はまっすぐ、喫茶店へ向かった。
神様でも人でも誰かに会いたかった。
喫茶店には髭面のマスターと、予想していなかった人がカウンター席にいた。
「あれ?コウちゃん漁じゃないの?」
「何時だと思ってんだ、とっくに終わったよ」
コウちゃんは欠伸を噛みころした。
カウンターには半分ほど減ったアイスコーヒーと、食べかけのピザトーストが置かれていた。
「朝からご苦労様です」
私が茶化すと、コウちゃんは無言で小突いてきた。
「はい、ジンジャーエールね」
マスターは私が注文する前にジンジャーエールを出してくれた。
「ありがとう、マスター」
グラスの中で泡が弾ける。
マスターの作るジンジャーエールからは、いつも賑やかな音がしていた。
それなのに今日は、耳を澄ましても、しゅわしゅわと、泡の音しか聞こえなかった。
「マスター、レシピ変えた?」
「まさか、いつもと同じだよ」
髭面のマスターは笑った。
隣のコウちゃんもこっちを見る。
「飲む前から、なに言ってんだ」
私は首を傾げて、ストローに口をつけた。
味はいつも通りだったけど、琥珀色が少しだけ薄く見えた。
グラスが空になっても、なんとなく帰る気になれなかった。
一人になりたくなかった。
外は蝉の声しか聞こえなくて怖かった。
ずーっと、どうでもいいテレビの話や、天気の話を二人に振り続けた。
話題が尽きそうになった時、カランコロンと、扉が開けられた。
振り返ると、大きなバッグを肩に掛けた、写真のお姉さんが立っていた。
「お姉さん、こんにちは」
お姉さんは軽く手を振り返して、いつものソファ席へと座った。
「ナギちゃん、こっち来て」
お姉さんに手招きされて、私は対面の席へ移る。
お姉さんはバッグから一冊、冊子を取り出すとテーブルに置いた。
「はい、これどうぞ」
渡された冊子をぱらっとめくると、そこには海坂町の写真がたくさんあった。
「アルバム出来たんですね!」
私が写真を見ていると、気になったのかコウちゃんも隣に来て覗き込む。
どれも見たことある町の風景だった。
少し寂しい駅前、色褪せたアーケード街、錆びついた漁港。
猫たちのいる路地、町を見下ろせる神社、綿菓子みたいな入道雲。
私は「すごい」とか「きれい」とか、そんなことしか言えなかった。
もっと他にも言いたかったけど、言葉が見つからない。
隣でコウちゃんも時々「すげー」って漏らす。
写真には、神様も鯨も写っていない。
ただの町だった。
しばらく眺めてから、私は次のページをめくった。
風景は少しずつ人へと移っていった。
私、コウちゃん、マスター、シロさん。
最後の写真は、海へ続く坂を下っていく、私とコウちゃんとシロさんの背中。
「良かったら、ナギちゃん貰ってくれる?」
「いいんですか?大切にします」
受け取ると、お姉さんは少しだけ寂しそうに笑った。
「そろそろ、帰ろうかなって」
「えぇ、もう帰っちゃうんですか?」
「もう有給、使い切っちゃったからね」
お姉さんの夏休みは、もう終わりちゃったんだ。
「今度来る時は夏以外にしようかな」
「また写真撮りに来てくださいね」
「うん、その時はまた案内してね」
お姉さんはアイスコーヒーを飲み終えた。
代金を置いて、手を振った。
扉のベルが鳴って、まだ暑い外へ出ていった。
窓の外はだいぶ日が傾き始めていた。
お姉さんが居なくなっても色々考えたけど、もう話のネタが尽きちゃった。
私は諦めて家へ帰ることにした。
コウちゃんも一緒に帰るみたいで、代金をまとめて払って私たちは外へ出た。
空はもう夕方みたいな顔をしていた。
喫茶店から家に帰るには、一回上り返さなきゃいけない。
二人並んで坂を上る。
つい癖で地面を見ながら歩いていると、頭上から「ニャー」と猫の声が聞こえた。
顔を上げると、橙色に染まったシロさんが行儀よく座っていた。
そのシルエットは鏡餅みたい。
「シロさん、どうしたの?」
私はシロさんの頭を撫でる。
「……ナギ」
シロさんの低い声で名前を呼ばれた。
白い頭を撫で続ける。
「なあに、シロさん?」
私を見つめるシロさん。
夕焼けに染まる瞳が一瞬だけ細くなる。
長い沈黙のあと、額を私の手のひらに擦り付けてきた。
シロさんが甘えたような仕草をするのを初めて見た。
「そうか」
それだけだった。
シロさんは、のそのそと大きな体を揺らして坂を下りていく。
その背中から私は目が離せなかった。
「帰ろう、ナギ」
先を進むコウちゃんがぶすっと言う。
「うん」
そう言いながら、私はまた振り返った。
涼しい秋風が海から吹いてくる。
もう夏も終わりみたい。
茜色の海と空の境目を、輪郭のぼやけた鯨が泳いでいた。
遠くへと。
海坂へ⑥