海坂へ⑤
五話 海坂に棲むもの
五話 海坂に棲むもの
百数十年、この海坂の坂道で寝そべってきた私から見れば、人の営みなど、夏の終わりに一斉に落ちる蝉と変わらない。
初めは私とほとんど変わらぬ大きさなのに、ほんの少し目を離した隙に、見上げるほど大きくなる。
次に気づいた時には腰の曲がった皺くちゃの老人になり、そのままどこかへ消えてしまう。
まだ夜の余韻を残す中、目を覚ました。
多くの人間たちがまだ起きていない。
この町はまだ眠っている。
私は大きく伸びをして、坂を下ってゆく。
海からはぬるい潮風が吹き、私のひげを揺らす。
海坂町には小さな錆びついた漁港がある。
船のエンジン音が遠くで重なっている。
小さな漁船が、カモメを連れて戻ってきていた。
岸では漁師たちが網をほどき、猫たちがその足元に群がっている。
「おうシロさん、おはよう!」
「シロさん、魚ならそこに入っとるよ」
男たちの挨拶に尻尾をひとつ振って返す。
バケツの中を覗くが、今日はいい物がなさそうだ。
私は仕方なく小アジを一匹齧ると、早々に港を後にした。
浜へ降りると見知った顔がいた。
アマネは波に身を委ね、陸の近くでぷかぷか浮いていた。
泳げない私からすれば、水中は冷たくて気持ちよさそうに思えた。
「久しぶりだな」
「シロか」
私が声をかけると、アマネは視線だけよこした。
「安田と会ったらしいな」
まどろっこしいのは性に合わない。
私の問いに、アマネは不機嫌そうに尾ひれをバタつかせた。
飛んでくる飛沫を私は避ける。
「余計なお節介は虫酸が走る」
「せっかくの再会だったのに勿体ないことをしたな」
私はからかい半分で言うと、またアマネは尾ひれで海面を叩く。
「お前には分からんだろ」
その声は怒りより、どこか遠い。
「そうだな」
否定はしない。
触れられるほど近くにいるのに、届かない私。
そこにいるのに、誰にも見つからないアマネ。
孤独の形が違う。
私はそれ以上言わなかった。
東の空が白み始める。
今年も鯨が空を泳いでいた。
波の音しかない浜で、砂を踏む音が近づいてきた。
「シロさん、おはよう」
その声は安田のものだった。
こいつの兄貴は昔、よく猫をいじめていた。
だからこいつのことも、私は少し距離を取っていた。
海を見ると、アマネは鼻先まで潜って、こちらをうかがっていた。
私の視線に気付いてか、安田も海を見る。
そのまま安田は浜に座り込み、海に向かってぽつぽつ話す。
アマネは目を閉じ、黙って安田の話に耳を傾けていた。
その様子はかつて見た風景によく似ていた。
「邪魔したな」
私は軽くニャーと鳴き、浜を後にする。
静かな路地で寝ていたら、また腹が減ってきた。
私は駅近くの商店街へ向かった。
潮風のせいで色褪せたアーケードの下を進む。
半分以上の店は昔と入れ替わったが、昼前になると魚屋や総菜屋の声が響き、食欲のそそる匂いが流れてくる。
気になる店は多いが、私は真っすぐ知り合いの店へ向かう。
今日は焼き魚を馳走になる。
ここ数年、夏場は焼き魚の方が旨いと知った。
長く生きていても、まだ知らんことがある。
腹ごなしにぷらぷら歩いていると、うるさい奴に見つかってしまった。
「シロさん、今日は商店街にいたんだ!」
ナギは手をぶんぶん振りながら近付いてきた。
少し後ろには松野の倅もいた。
「やかましい、近寄るな。学校はどうした」
「もう夏休みなんだよー」
へらへら笑うナギは、私の頭をわしゃわしゃ撫でる。
こいつの撫で方は荒くて敵わない。
よく見れば松野の倅は見たことのない洋服姿で、ナギに至ってはアッパッパみたいな服を着ていた。
「おいナギ、電車遅れるぞ」
松野の倅が商店街の時計を気にしている。
「町を出るのか?」
「えっ?シロさんなんか言った?」
どうやら聞こえなかったらしい。
ナギはしゃがんで顔を寄せてきた。
「……まじで時間ないわ、シロさん悪いな」
松野の倅はそう言って、ナギの手首を掴んで駅へと走り出す。
本当に町を離れる日もそう遠くないだろう。
二人の足音は、ナギの笑い声と松野の倅の小言と共にどんどん離れていく。
二人が去ると商店街は少しだけ静かになった。
茹だるような昼下がり。
路地の日陰でうたた寝をしていたが、暑さに耐えられなくなってきた。
昔と比べ年々暑くなるこの季節に辟易しながら、私は涼を求め町をさまよう。
坂道の中腹、いつもの店へとやってきた。
店に入ろうとして、私は足を止めた。
窓から店内を覗けば、またしてもあの女が私の席に座っている。
飽きもせず毎日入り浸って、相当暇を持て余しているのだろう。
もっとも、この町で迷子になっていた頃に比べれば、ずいぶんマシな顔色になってきたが。
私は鼻を鳴らして店に入るのをやめた。
石畳の坂を、なるべく日陰を選んで歩き出す。
路地裏で顔見知りの猫たちに挨拶をしながら、目的の場所へ向かった。
坂の町を一望できる立派な日本家屋。
ここは昔と変わらず、潮風がよく抜けるとっておきの穴場だ。
蚊取り線香の匂いが潮風に交じる。
縁側に向かうと今日も家主はそこにいた。
アッパッパ姿の老婆は、私を見るなり感嘆の声を上げる。
今日はミチの調子が良さそうだ。
「シロさん久しぶりやね、いつぶりやろ?」
「ミチ、久しぶりだな」
私は調子を合わせて答える。
本当は毎日この庭を訪れているが、ミチの頭の中はもう靄がかかってきているのだろう。
人間はそうやって、少しずつ時間がずれていくものらしい。
ミチは目尻の皺を深くして、嬉しそうに笑う。
私は遠慮なくミチの横に腰掛けた。
「最近は全然来ないから心配しとったよ」
そう言って、ミチは骨張った手で私の背を撫でる。
その心地よさに自然と尻尾が揺れる。
この庭にはミチが幼かった頃から来ていた。
ミチは長く視える側だった。
大人になってもそれが消えなかったことは、彼女の孤独を深くしていたのかもしれない。
彼女と同じ年頃の娘たちは次々に家を出て行ったのに、彼女は変わらずこの家に残り続けていた。
そして今もなお。
彼女は私の背を撫でながら話し続ける。
最近の話題は、週に何度か来てくれる介助者のこと。
自分と同じ世界を視る少女のこと。
何度も聞いたことのある話を、私は短い相槌を打ちながら聞いてやる。
潮風の匂いが変わる。
逢魔が刻になる。
もう寝床へ帰る時間だ。
「また明日来る」
私はミチの腕に額を擦り付けた。
海坂へ⑤