海坂へ④
四話 喫茶さざなみ
四話 喫茶さざなみ
店内の冷房は、ついさっき入れたばかりだった。
昨夜の暑気がまだ残る中、僕は誰にも邪魔されずに自分のためだけにコーヒーを淹れた。
狭い店内に香ばしい香りが立ち込めた。
今から数十年前。
内陸の地域で生まれ育った僕は、海の見える場所で暮らすのが夢だった。
それは大人になってからも同じで、ずっと海辺の町を探し続けていた。
海坂町に初めて来た時、すぐに思った。
この町は坂が多くて、老後には不向きだろうと。
なのに坂の途中でふと振り返った時に見えた、穏やかな海が心を離さなかった。
気がつけば仕事も辞めて、僕はこの町へ移り住んでいた。
冷房が効き始めてきた店内。
朝というにはもう遅い時刻。
僕はようやく、扉の看板をOPENにひっくり返して、店を開けた。
この小さな店を訪れるのは大抵、この町に住む常連さんだ。
最初に来たのは近所のご婦人方。
店のボックス席に座り、お昼まで話し込む。
彼女らは昨日も集まって喋っていたが、話は尽きない。
悪いと分かっているが、狭い店内、嫌でも僕の耳にも入ってくる。
たいてい彼女たちが話すのは、自分たちの身内のことや町の噂話だ。今日は噂話の方だった。
「ねえ、古川旅館に泊まっている東京のお姉さん知っとる?もう三週間ぐらいおるなぁ」
「知っとるわよ。いっつも大きいカメラ持って歩き回っとるやろ」
「ただの坂道撮って、何が楽しいんかねぇ」
「他所の人には珍しいんじゃないの? この町、迷路みたいに入り組んどるから」
「そういえば最近、夜の浜で男の人を見かけたんよ」
「私も見た。遠くだったからよう分からんけど、なんか海に向かってぶつくさ独り言言いよってたわ」
「いやだ、あんたそれ、久しぶりに『視たん』じゃないん?」
「何言いよるんよ! 本物の人間やったわ!」
どんなに些細な変化も、町の人たちにとっては面白いニュースなのかもしれない。
昼前になると、ご婦人方はようやく腰を上げた。
彼女たちが帰った後、噂の人物がやってきた。
古川旅館に泊まり込んでいる彼女は、Tシャツにジーンズとラフな格好でやってきた。
昨日と同じ窓際のソファに座り、同じようにアイスコーヒーを注文した。
僕がコーヒーを淹れている間、彼女はテーブルの上で写真を広げていた。
考え込むように一枚、一枚写真を手に取ってじっと見つめている。
ここ二週間、彼女は毎日のようにこの店を訪れていた。
もうすっかり常連さんだ。
どんな事情でこの町へ来たのだろうか。
そう思うことはあっても、余計な詮索はしない。
僕は飲み物を提供した後、定位置のカウンターの中へ戻った。
店内には、僕のグラスを磨く音と、彼女が写真をめくる音だけが響いていた。
その心地よい静けさは思いのほか、早く終わった。
カランコロンと、扉のベルを叩きつける勢いでナギちゃんが入ってくる。
「マスターいつもの!」
この子も幼い頃から通ってくれている、常連さんの一人だ。
ナギちゃんは、ジンジャーエールと決まっていた。
冷蔵庫から、グラスと自家製のシロップを取り出す。
他のお客さんは大抵コーヒーを頼む。
だからこのジンジャーエールは、彼女のために作っているようなものだった。
「もう夏休みに入ったの?」
「そう今日からなんだよー」
ナギちゃんはカウンター席へ向かおうとして、窓際の女性に気づいた。
「あっ、お姉さん!」
「ナギちゃん」
どうやら知り合いらしい。
「今日は迷子になってないですか?」
「なってないよ」
彼女は苦笑しながら答えた。
その言葉にナギちゃんは満足そうに頷く。
「よかったです。海坂って迷うから」
僕がジンジャーエールを運ぶと、ナギちゃんはテーブルに広がる写真を眺めていた。
「マスターありがとう」
ナギちゃんはお礼を言って、写真に再び視線を落とした。
つられて僕も目を向けると、テーブルの上には、この町の景色が広がっていた。
僕がカウンターの中へ戻ると、
「この写真キレイ!」
と、ナギちゃんは歓声を上げた。
「私もそれ気に入ってるんだ」
写真家の彼女は表情を緩ませた。
「そうだ、お姉さんはいつまで海坂にいるんですか?」
ナギちゃんの質問に、彼女はわずかに視線を落とした。
「えっと……夏の終わりまでかな」
「そっか、お姉さんも夏休みなんですね」
ナギちゃんの言葉に、彼女は少し目を丸くした。
「夏休み、か」
そして、おかしそうに肩を揺らした。
二人の話がひと段落した頃。
ふと視線を外に向けると、一匹の丸々とした白猫が黄色い目でじっと店内を見ていた。
ナギちゃんも白猫の存在に気付いたのか、席を立ち上がった。
「じゃあね、お姉さん!また写真見せてくださいね」
「うん、今度はちゃんとアルバムにするよ」
「楽しみです!」
ナギちゃんは代金をぴったり払うと、大きな白猫を伴って坂道を上がっていく。
海坂町には猫が多い。
その中でもあの大きい白猫を、みんな「シロさん」と呼ぶ。
この町では、あの猫が喋ると言う。
他所から来た僕には、この町の人が口にする「空飛ぶ鯨」や「海の人魚」といった不思議なものの姿は、何ひとつ視えない。
シロさんの声だって、ただの「ニャー」という猫の鳴き声にしか聞こえない。
そんな不思議な話をよくしてくれた人がいた。
ミチさんはどこか浮世離れした、上品な人だった。
彼女は坂上の立派なお屋敷に一人で住んでいて、買い物に町へ下りてきた時によくお店へ来てくれた。
ミチさんはいつもカウンター席に座り、コーヒーを飲みながら話してくれた。
「今日は風の声が賑やかだわ」
「庭に咲いた花がいい音色なの」
「シロさんは相変わらず口が悪いの」
そんなおとぎ話のような話を。
僕には理解できない世界だったが、楽しげに話す彼女の姿が僕は好きだった。
だがここ数年、脚を悪くしてから彼女は町へ下りてこなくなった。
あの不思議なお喋りを聞けなくなって久しい。
さっき通り過ぎていったシロさんは、あのお屋敷へ涼みに行ったのだろうか。
僕は手元に残ったグラスを、ゆっくりと、丁寧に磨き続けた。
いつの間にか蝉の声に紛れて、遠くからひぐらしが鳴き始めていた。
海坂へ④