【第五話】なにもない世界からの脱出



 また、閉じ込められた。
 折原がトイレから出ようとドアを開けると、目の前に彼女が立っていた。そして、どーんと折原を押した。押し相撲でとどめを刺すようだった。彼は後ろへよろめき、便座の蓋へ腰を落とした。「なにを──」抗議の声を上げると同時に、トイレへと入って来た彼女が、後ろ手にドアを閉めた。
 そして、カチャリ、と鍵も閉めた。
 折原は慌てて立ち上がり、サムターンを回した。しかし、スカッ、と手応えが無い。施錠されたままなので扉も開かない。この一瞬で、偶然にも壊れたのだ。
 彼は溜息をついた。そして責めるような目つきで彼女を見た。
 彼女は悪戯っぽく肩をすくめた。
「そんなに怒んないでよ」彼女もガチャガチャとトイレのノブを揺らしてみる。「へぇ、本当に偶然の力が働くんだね。これが儀式かぁ」
 先ほど、折原は儀式について彼女に話した。軽い雑談だった。しかしそれは迂闊だったと、今、分かった。彼女の好奇心を舐めていた。
 まさか実践されるなんて。
「このまま二人切りでいたら、私が君のことを好きになってくんだね?」
「うん。だから、今すぐ脱出しないと──」
 折原は大声を出すべく息を吸い込んだ。
 その唇に、彼女の人差し指が当てられる。
「…………する必要、ある?」
 言われて、折原はハッと気がついた。そして、息をそのまま吐きだした。
 脱出の必要は無いのだ。
 何故なら、彼女は、
「だって君──私を目指して頑張ってきたんでしょ?」
 彼の追い求めていた〈想い人〉なのだから──。

「──あの、覚えてる? 僕が穴に落ちたときのこと。あの日もこんな雨だった」
「もちろん」
 幼い記憶を共有出来て、彼は嬉しくなった。
「君が穴から僕を助けてくれた直後に本降りになったんだ。あのときは本当にありがとう」
「危機一髪だったよねー。ま、人として当然のことをしたまでよ」
 雨野がくいっと得意気に眼鏡を直した。
 そして、気まずそうにグラスの縁を指でなぞり出した。
「……ぶっちゃけさ。私のことを調べて探し当てたのは、正直気持ち悪いなって思った。ストーカーじゃん、君ヶ園ちゃんの言う通り」
「う……」
 図星を突かれて折原にダメージが入った。
思わず視線を周囲へ逃がした。店内には植物が多く置かれて、天井にも蔦が張っていた。店の中央に置かれた小さな噴水のオブジェからは、涼やかな音が聞こえていた。どこかに隠されたスピーカーでは鳥が鳴いている。
 人工的に作られた自然に囲まれている。
想像上の楽園、といったコンセプトの内装だった。
 折原は、ショッピングモールを通り抜ける度に店の内装をちらっと目にして、素敵な場所だと心のなかにメモしていた。それで今回、再会の場所に選んだのだ。
 ──彼はデジャブした。こうして店を見回すのは二度目であった。雨野と話していると、ここがどこだかふと忘れるような感覚に襲われるのだ。
 彼がぼうっとしているのを落ち込んでいると勘違いしたのか、雨野が慌てて付け足した。
「ま、まぁ、でも? 正面切って好きとか言われると……悪い気はしない……かな」
「……そうなんだ」折原は心のなかでほっと息をついた。
折原は空のジンジャーエールを啜った。その冷たいグラスを頬に当てて冷ましたかった。
 折原は先刻の発言を悔いていた。何故、好きだなんて言ってしまったのだろう。久々に会っていきなり告白だなんて、愚の骨頂だ。早まった、口走ってしまった。
ウケが良いからと脱出の話を繰り返したことも、どこか恩着せがましくて最悪だ。あなたに会うためにこれだけ頑張ったのだ、と見せびらかしているようじゃないか。
 実際、彼女に会うため自分はとても頑張った。折原にはそんな自負があった。
 しかし、それを彼女に示すのは良くない。自分がどれだけ好きで、どれだけコストをかけたかなんて、相手には関係ないからだ。それを示すことは幼稚な脅迫にすぎない。すべては自分が自分のために行ったことであると、ちゃんと認識しなくてはならない。
 折原の脳内に、ある人物の言葉がよぎった。中学生の従妹の言葉である。彼女は、三十九人いる親戚の一人であった。
──男は妄想のなかで恋愛をする。
 この三年間、折原は彼女のことを考え続けていたが、それによってなにか関係性が変化していると勘違いしてはならない。自らの認知を歪めてはならない。
 相手からしたらただの旧友。
 そのことを忘れず、距離感をもって接するべき。
 折原はそう心に決めていた。なので、自身の早々とした告白や、脱出の話を、とても悔いているのだった。
 浮かれている。とても、浮かれている。
 やっと報われたのだから、当然かもしれない。
「ちょっとお手洗い」
「あ、はい」
 彼女が立ち上がる。厚底の靴のせいか、急に背が伸びたような印象を受けた。
 そして出口の方へ向かっていく彼女を見ていると、
「──あ」
 近くの壁に、トイレの場所を示す矢印が掲示されているのを見つけた。それは店の奥を指していた。
 折原は彼女を呼び止めようとした。
 が、
「……っ」
 一瞬、言葉が出てこなかった。そしてすぐ、
「──あ、あの! あっちですよ。あっち!」
 と声を投げた。彼女は振り返り、「おぉー、ありがと」くるりとスカートを翻しながら矢印に従った。
 折原は席に座り直し、グラスを煽って小さな氷を口に入れた。
 そして、今の出来事について考えた。
 言葉に詰まったのは、彼女の名前が出てこなかったから。
 では、あの人の名前は何だ?
 ──分からない。
 どう頭を捻っても、記憶を辿ってみても、彼女の名前が思い出せなかった。雨野円という偽名しか分からない。
 浮かれすぎて記憶まで曖昧になっているのか? なんてポンコツなんだ、と折原は窓に映った自分へ顔をしかめた。雨のせいで、大量の汗を掻いているように視えた。
 まだ訊いていないだけか? 
 しかし、ここへ来てから結構な時間が経っている。脱出の話だって何度もしている。普通なら、そういう雑談の前にまず本名を紹介し合うのではないか? 少なくとも、自分ならいの一番に気になって訊くはずだ。
 ──分からない。
「お待たせー」
 彼女が戻って来たので、入れ違いで席を立った。机の端にかけてあった傘が邪魔だったので、背もたれへと移動させる。
「あれ? そっちも手洗い? いってらー」
 彼女に会釈してから、折原は矢印を無視して出口へ向かった。
 歩きながら、自身のポケットを探った。スマホを確認するためだ。今日ここに集合することができたということは、SNSやラインなどで連絡を取り合っているはず。アカウントの名前から思い出せるかもしれない、と考えた。
 だがスマホは持っていなかった。リュックのなかだろうか?
彼は店を出た。ここはショッピングモールの一階。右を見れば、遠くに自動ドアが視える。大雨から逃れるように次々と人が駆け込んできていた。
 左を見れば、大きな吹き抜けがあり、上下に続くエスカレーターが休まず人を運んでいた。地下を指す案内板には地下鉄のマークが書かれている。駅から直通なのだ。
 折原は店の客待ち名簿をちらっと覗いた。この店はいつも並んでいるから、自分たちもそうであったはず。なら、彼女が名前を書いているかもしれないと踏んだのだ。
 確かに彼女は名前を書いていた。しかし──『折原』という二文字であった。
 折原は内心で舌を打つ。彼女は、彼の苗字を使ったのだ。
 店員が来たので、彼はさっと身を避けた。「松野様~」呼ばれたカップルが、店の前の椅子から立ち上がって受付へと向かう。
 随分若いな、と高校生の分際で思っていると、
「すみません。なにか年齢を確認できるものをお願いします」
 と止められていた。
 カップルはそれぞれ免許証を取り出して店員に渡した。
「はい。松野様と、吉野様でございますね。……確認できました、お返しします」
 そしてカップルは店の奥へと案内されていった。
 一連の様子を傍で眺めていた折原の胸中に、猜疑の念が膨らんでいく。
 自分の記憶力に対しての猜疑、ではない。
 もっと大きな──漠然としたものへの猜疑だった。
 彼はちゃんと考えようと思い、店内を少しうろついてから、本当にトイレへ行った。
 鏡と向き合いながら彼は考えた。
 これは、名前を訊いてしまえば済む話ではない。確かめなくてはならないことが、一つできてしまった。
 彼は憂鬱を感じて溜息をついた。
 ──もっと浮かれていたかった。
 知りたくなかった。気がつきたくなかった。調べなきゃよかった。
 だけど、もう、仕方ない。
「……よし」
 と、折原は臍を固めてから、トイレのドアを開けた。
 目の前に彼女が立っていた。

「だって君──私を目指して頑張ってきたんでしょ?」
 その一言で、折原は全身から力が抜けていくのを感じた。
 その通りだ。今日まで必死に足掻いてきたのは、今目の前にいる彼女と出会うためだ。他の人と縁が結ばれないようにしてきたのは、やはり、付き合いたいという気持ちがあったからだ。
「ホントにお疲れさま」
 彼女は座ったままの折原の頭へそっと手を置き、優しく撫でた。
「あるときは窓も扉もない部屋から……。あるときは狭いロッカーの中から……。あるときは夢のお城から……。あるときは監禁された部屋から……。いつもいつも脱出しなきゃいけなかったんだもんね」
「…………うん」
 折原は頷いた。ずっと個人で奮闘してきたことを労わられて、何だか報われたような気分が沸いた。
 彼の内側で幾重にも張り詰めていた緊張の糸が、ふつふつと切れていく。
「……大変だった……」
 自然と溢れた言葉だった。
「本当は、ずっと、大変だなって思ってた……。だって──知るのはつらい。調べるのは怖い。考えるのは──面倒臭い」
 自分で呟きながら、これが本音だったのかと折原は驚いた。
 長距離ランナーが疲労を忘れていくようなものだろう。脱出をがむしゃらに繰り返すなか、ネガティブな感情はどんどん心の奥の方へ沈められていた。
 本当は嫌だったのか、自分は。当然だ。身体を縮められて弁当箱に閉じ込められていたなんて、そんな恐ろしい真相があるか。巨大な獣に校内を追い回されて、挙句の果てには世界征服を謳う組織の幹部と二人切りだなんて、生きた心地がしなかった。夢の世界に閉じ込められたときは、もし出る手段がなかったら──なんて恐ろしい想像と戦いながら調べてなくてはいけなかった。品村の部屋へ向かうときは、彼女が何をしてきてどう切り抜ければいいのか考えても考えても安心は得られず、本当に面倒だった。
 知るのはつらい。調べるのは怖い。考えるのは面倒臭い。
「でも、もう頑張らなくていいよ」
 苦痛の棘をそっと抜くように囁かれる。
 折原が顔を上げると、彼女は黒マスクを顎まで下ろしていた。
 儀式の意味を、キスの意味を、彼女は知っている。
 たとえ何もかも折原の冗談だと思っているとしても──それは。
 承諾。
 口走った告白への返事だった。
 彼女は折原の両肩に手を置き、顔を降ろしてきた。
 折原も目を閉じてそれに応えた。
 走り続けた彼に、ようやくゴールテープが迫る。あと二十センチ、十センチ、五センチ、四センチ、三センチ、二センチ──と、彼女の唇が肉薄する。
 そのとき。
 ──でも、本当にそれで良かったのでしょうか?
脳内にある人物の言葉がよぎり、折原は我を取り戻した。リアル謎解きゲーム店でスタッフとして長年働いている従姉の言葉である。彼女は、三十九人いる親戚の一人であった。
彼はやっと思い出した。彼女がトイレに押し入って来る前、自分が何を考えていたのか。
「待って」
 折原の声に、彼女が停止する。パッと顔を上げて「なに、どうしたの。怖気づいた?」とからかうように言った。
 折原はじっとその顔を見た。マスクの下は初めて見た。やはり、目の前の女性が〈想い人〉であるという確信は揺るがない。幼い記憶とも相違無い。
 だからこそ、確認する必要があった。
「──今日さ。この店に来るとき、相合傘をしてくれたよね」
「急にどうしたの?」
「穴から助けてくれたときのことを思い出したよ。まるで、あの瞬間に戻ったような気分だった。……君もそうだった?」
「……」
 突然の歯の浮くような台詞に、彼女は怪訝な顔をした。彼の真意が分からず、ベルトに手をついて悩みだす。
 そして「あっ」と何かを思い出した。
「──何を言ってるの。折原くんは自分の傘をさしていたでしょ。だって、席にあなたの傘が置いてあったし」彼女は不愉快そうに言った。「……何で急に私を引っ掛けようとしたの?」
「すみません。でも、これでハッキリしました」
「なにが?」
 彼女の質問に答える代わりに、折原は自身のポケットへ手を入れた。
 取り出したのは──この店で使われているコースター。彼女のカクテルが置かれたときも敷かれていた。先ほど受付からトイレに向かう際、客がいなくなったばかりの席を見つけてこっそり回収しておいたのだ。
 カシスと同じく赤い色。コースター然として丸いかたち。
 すなわち──赤くて丸いもの。
彼は噛みついた。この夢の世界から逃げ出すために。

 折原は目覚めた。彼を覆っていた透明なカバーが自然と開いていく。
 痛む頭を抑えながら周囲を見回す。窓も無ければ扉も閉まったままなので、室内は薄暗かった。透明なカバーのついた金属製のベッドが六つ並び、それらの頭部からコードが伸びて巨大な機械へと接続されている。幾つもの明滅を浮かび上がらせながら、ピッ、ピッ、と規則的な音を鳴らしていた。
やはり、この部屋だった。
頭に靄がかかったような感覚がした。折原は、どうして自分がここにいるのか思い出せない。服装は、夢のなかと同じく平凡な私服姿であった。左手はリュックを掴んでいた。
 隣のベッドには彼女が腰掛けていた。
「おはよ」
 と声をかけられる。折原は警戒したままじっと睨んだ。
「なんで夢だって分かったの?」
「……あなたの名前を忘れたからです」
「どゆこと?」
「あの店は、酒類を提供するので受付で年齢確認を行っていました。僕はどう見ても未成年ですから、僕たちが入るときも必ずされたはずです。あなたが免許証かマイナンバーカードを出しとき──店員は名前を読み上げて確認したと思うんです」
 ただ見比べるだけのときもあるだろうが、あの店員は律儀なタイプだ。カップルが入店する様子から分かった。
 それに折原と雨野の場合、二人いるのに一つしか渡されず、内一人は眼鏡とマスクで顔を隠している。たとえ律儀でなくとも、名前を読み上げて確認したくなるだろう。
「絶対ではありません。しかし可能性は高いと考えました。僕は、年齢確認のタイミングで、既にあなたの名前を聞いているはずだと」
「……じゃあ、まぁ、聞いたんじゃない? で、単に忘れたんでしょ」
「探し続けた〈想い人〉の名前を、この短時間で忘れるとは思えません。……なので、忘れさせられている、というケースを思いつきました」
 ここまでの考えは、すべて憶測に過ぎなかった。店員が名前を読み上げているという可能性と、自分が想い人の名前を忘れるはずがないという自信。確実ではないが、しかし無視できない確率の上で仮説を立てている。
 だから、彼は確かめた。その結果だけは憶測ではなかった。
「忘れさせられている……? え、なに。どういうこと? 私が催眠術かなにかを使ったとか言うの?」
 彼女の白々しい態度に、折原は軽く苛立ち始めた。
「人から記憶を奪う方法を、僕は一つだけ知っています。──〈楽園システム〉の非常事態モードです」
 楽園システム。それは、コネリの乗って来た宇宙船に搭載されている、夢を見せる機械のこと。
 コネリと脱出したとき、彼女は二つのことを忘れていた。
 一つは、自分が夢のなかへと入った経緯。
 もう一つは、自分が夢から覚めるための〈覚醒符号〉と呼ばれる行為。
 この二つは、楽園システムが非常事態を検知すると記憶から消去してしまう。夢の永続のため、夢だと自覚すること、夢から覚めること、それらに関する記憶を取り除くのだ。取り戻すには、記憶に関するものを実際に目の当たりにするなど強いショックが必要となる。
「ここは〈楽園システム〉の夢の中で、どういうわけか非常事態モードになっている。経緯か〈覚醒符号〉、そのどちらかに、あるいはどちらもに、あなたの名前が関係している。だから記憶が奪われている。──そう考えれば、知っているはずの状況で忘れていることにも納得できます」
「待ってよ。あまりに飛躍しすぎてない? それだけのことで……夢の中だって考えたの? 折原くん、儀式のやりすぎでおかしくなっちゃったんじゃない?」
 それは実際、そうだろう。折原は自嘲気味に肩で笑った。
「……ここが夢かもしれないと怪しんで、すぐに気がつきました。……窓際の席であなたと座っているあの瞬間より前の記憶が全然無いんです。そして、記憶が無いことに違和感を覚えないまま、それを前提にあれこれ考えていたんです」
「緊張のし過ぎで忘れたんでしょ?」
「はい。そうであったらいいな、と思いました。だから確かめたんです。──この店に来るとき相合傘をしましたよね? と」
「どういうこと? 一瞬頷きそうになったけど……違うでしょ? だって、席に傘が一本置いてあるじゃない。立ち上がるときも、机から背もたれに移動させてた。つまり折原くんは自分の傘をさしてここまで来ている」
「違うのは、その発言です。僕は自分の傘なんてさしていません。少なくとも、今日あなたの前では」
「どうして? 外は大雨で、あなたは傘を──」
「あのバルがあるショッピングモールは、地下鉄と直通で繋がっています。今日、改札前で待ち合わせたのなら、駅から店に来るまで外に出ることはなかったはずです」
「……!」
 白々しく笑う彼女の表情が、ようやく崩れた。
 その額に、亀裂がぴしりと走る。
「それなのに、あなたは僕が傘をさしていたと言ってしまった。何故か? ──〈店に来るまで〉が存在しないから、です。あの世界は窓際の席から始まったんです。だからあなたは店外の様子を知らなかった。だからあなたは僕の言葉に合わせるしかなかった。僕のなかではそういう認識になっているかもしれませんからね」
「……はは」
 彼女が諦めたように笑った。
 ピシ、ピシ、とその顔中がひび割れていく。眼鏡も、マスクも、斜めの前髪も、バンドTシャツも、両脚も、まるでイラストの描かれた紙を徐々に破っていくように、割れていく。
「ほんとヤバイよ、君」
 もう正体を隠す気はないようだった。
 その仮面の向こうにいる人物に、折原は勘づいていた。故に、少し前から敬語を使っている。
「では──誰がこんなことをしたのか? 誰が意図的に非常事態モードにし、僕を夢のなかに閉じ込めたのか? ……夢のなかでの姿は、このベッドに横たわって入眠したときの姿がスキャンされて反映されるそうです。楽園システムの説明書にそう書いてありました」
「じゃあ、ほら。私の姿はどう見ても、君の〈想い人〉──雨野円だよ」
 彼女は見せびらかすように身体を捻った。そのせいで、全身が亀裂で割れていく。
「いいえ。僕の知っている人物に一人だけ、自由に姿を変えられる能力を持った者がいます」
 折原は思い出す。あの宇宙船で仕方なく彼女を呼び出したとき、折原の姿で現れたり、親戚の姿に変わったりとやりたい放題だった。
 ──そう。
 今、目の前にいる彼女の正体は──。
「──綾子さんです」
 亀裂から赤い光が漏れ出す。想い人の姿はディテールを失ってたちまち茶色く染まり、土塊人形となった。そしてぼろぼろと崩れ去っていく。
 内側からは、折原の憎き宿敵──この運命の元凶たる、縁結びの神様が現れた。

「君があんまり脱出しまくっちゃうからさー、多忙極める私が直々にやってきたってわけ」
 綾子はひょいっとベッドから立ち上がると、折原の隣に座った。親し気な雰囲気で、彼の首に肩を回した。
 生物とは思えないその冷たさに、彼はぞわりと鳥肌を立てた。
「ご推察の通り、あれは〈楽園システム〉の見せた夢。そしてここは、コネリちゃんの乗ってきた宇宙船のなかさ」
「……離れて下さい」
 折原はするりと彼女の腕から逃げて、立ち上がった。そして正面で対峙する。
 綾子は短い銀髪で、その上に学生帽を被っていた。学ランに黒いマントを羽織っている。装いはまるで大正時代の男子学生であったが、顔つきは女性だった。
「やれやれ。まったく、つれないな。あんなに乗り気だったのに」
 彼女は、まるで気の知れた友人のように話す。
「雨野円の振りをして、それで、……自分と儀式を成そうと?」
「良い考えだろ?」
「最悪です」
 折原は怒りを隠さず、強い口調でそう言った。
 綾子は肩をすくめておどけた。
「どうやって僕を眠らせたのですか」
「君が自分から眠ったんだ。自分でここに来て、自分でベッドに寝転んだ」
「そんなわけありません。あなたに騙されたり、偶然の力を使ったりしたんでしょう」
「んー」彼女は微笑を浮かべながら、悩む素振りを見せた。「まぁ、そうかもね」
「……もう正体はバレたんですから、諦めてはどうですか?」
「あははっ、なにを言ってるんだよ」と彼女が笑う。「諦めるのは君の方さ。たとえ夢から覚めても、この宇宙船のなかで私たちは二人きりだ。君のことも、だいぶ好きになってきたところだよ」
 臆すな、と折原は自分に言い聞かせた。裏を返せば、彼は怯えているのだった。まさか脱出を繰り返した果てで、とうとう神様と対峙することになるとは思わなかった。
「あなたには、さんざん語って聞かせたはずですけどね。僕はこれまで、どんな状況だろうと必ず脱出をしてきたんです。それは今回も同じです。……たとえ相手が神様でも」
「いいねぇ。それでこそ君だ」
 綾子がビッと両手で彼を指す。友人同士でおどけるような態度だった。
 綾子は神様の癖に馴れ馴れしい。折原はその振る舞いにうんざりしていた。
「でも、今回ばかりは駄目だね。……ほら、部屋の外に出てご覧。鍵は閉まってないよ」
 妙に自信のある言い方を怪訝に想いながら、折原は扉の方に目線をやった。
罠かもしれない。しかし、ここから出なければお話にならない。彼は警戒しながら、ゆっくりと近づいた。
 生物の接近を検知して、扉が開いた。部屋に光が差し込み、二人を照らした。目の前にはコックピットらしきスペースがあり、正面には天井近くまで届く巨大なフロントガラスが据え付けられていた。その向こうには、宇宙船の外の景色が広がっている。
折原の記憶が正しければ、コネリが乗ってきた宇宙船は壊れており、あの小さな砂浜に漂着していた。
だから、ガラスの向こうには美しい海景色が広がっている──はずだった。
「なっ……!?」
 折原は開いた口が塞がらなかった。その光景をすぐには受け容れられず、その場で呆然と立ち尽くしてしまう。
漆黒の闇が永遠に広がっていた。無数の星が砂を撒いたように散りばめられ、静寂の中で瞬いている。
月も、地球も、惑星も、他の宇宙船も、何もかも見当たらない。ただひたすらに、奥行きすら失わせる暗黒が続いている。この恐ろしくなにもない空間を見れば、自分が宇宙にぽつりと取り残されているということが嫌というほど理解できた。

 コックピットを右に曲がり、折原は舷側に沿って通路を歩いた。と言っても、この宇宙船は釜のように膨らんだ円盤状なので、その表現で正しいのかは分からない。操縦席を船首としたとき、舷側にいる。折原はそう認識した。
 左側の壁には、まず外へと通じるハッチがあり、その後は四角い窓が規則正しく配置されている。目線をやれば、やはり茫洋たる宇宙空間が広がっていた。
 彼はリュックを背にふらふらと歩いた。船尾の方へ用があったわけではなく、脱出のために探索をしているのだった。だが足取りは覚束なく、熱意は感じられない。いつもそうしているのだから、取りあえずそうしている。そんな、自身の習慣に従っているに過ぎない人形のような動きだった。
「落ち込んでる? 悩みがあるならきくよ……」
 折原の隣を、綾子が後ろ手に組んで歩いている。彼の顔を覗き込み、心配そうな表情を浮かべた。
 どの口が、と折原は目を細めて睨んだ。
「……この宇宙船は壊れているとコネリさんから聞いていたのですが。どうして動いてるんです?」
「さぁね。私の力で、偶然直って偶然動いて偶然ここへ来たのかも」
「ここはどこなんです?」
「分からないなぁ」
 綾子が両手を上にして、首を振った。演技がかった動作がキザっぽい。
「窓から見える宇宙の景色は、実は全部スクリーンかなにかで、本当はまだ砂浜にいるとか……? 今も重力を感じて、こうして歩いていますし」
「いや、それは無いよ。ここはマジで宇宙のどこかさ。重力は、発生装置が働いているからだね」
「景色もずっと止まっています」
「この宇宙船の長距離航行はジャンプ方式なんだよ。車みたいに空間を前進するんじゃなくて、短いテレポーテーションを繰り返すことで遠くの星へ向かうんだ。今は、次のジャンプ先を計算してるから止まってるだけ」
「……既に何回ジャンプしたのですか」
「知らない。三十回とか?」
 三十……。
 折原は気が遠くなりそうだった。自分が寝ている間に、一体どれだけ地球から離れてしまったのだろう。現代の人類の技術では、折原を迎えに来ることはできないだろう。試みるにしても、それは国家規模の大規模プロジェクトになってしまう。
 そして、地球に一つだけあったオーバーテクノロジーの宇宙船は──今乗っているこれだった。コネリが異常事態に気がついて自分の船で追いかけてきてくれる、なんて展開も封じられている。
 救いの可能性があるとするなら、コネリの母星だろうか。彼女が両親に連絡を取って、宇宙船を新しく借りるのだ。
 だがそうなっても、次の問題が浮上する。折原は今どこにいるのか、という問題だ。近くに知っている惑星も見当たらず、綾子に訊いても教えてくれない。広大な宇宙のなか、ノーヒントで宇宙船を一つ見つけるなんて不可能に近い。
 例え折原が超人的な頭脳を覚醒させてこの宇宙船を操縦できるようになったとしても、その問題が付き纏う。ここからどうやって地球に帰ればいい? 方向は? 座標は? たった一人で挑むには、膨大な時間がかかるだろう。キスなんて百回はされてしまう。
「あ、危ないよ」
 ──ガンッ、と折原は額をぶつけた。考え事のせいで、前を見ていなかった。舷側通路の突き当たりには部屋があり、その扉にぶつかったのだ。
「大丈夫?」と手を伸ばしてきた綾子をかわしつつ、折原は痛む頭を撫でながら辺りを見回す。
 側面に続く窓の配列。その一番向こうには、ハッチが視えた。コネリとの脱出の際、メイドキューブに開けて貰った懐かしの出口だった。
 宇宙船から脱出するならあれを開くしか無いだろう。
 だが出たところで待っているのは、暗黒と真空の世界。これを開けば、たちまち船内の空気が吸いだされ、その勢いに巻き込まれて死の世界へ投げ出されてしまう──。
「この状況は詰みだって、そろそろ分かったかい?」
 折原は何かを言い返す気力もついに無くし、「……かもしれませんね」と憂鬱そうに溜息をついた。
 くつろぐように窓枠へ腕を乗せ、宇宙の闇を眺めた。ガラスには、綾子のニヤついた顔が反射していた。
「無理矢理キスしてこないのは、どうせ詰みだからって余裕があるからですか? それとも、縁結びの神様本人には儀式が効かないとか?」
「あはは、すっかり諦めモードだね」綾子が慰めるようにばしばしと背中を叩いた。「いいや、私は君にめろめろぞっこんさ。我ながら儀式の効果ってのは凄いね。でも──君が思い出すのを待っているのさ。雨野円の正体を」
 折原は息を呑んだ。
「……何故ですか。何故、そんな必要が」
「縁結びの神様ならさ、できるだけロマンティックに──互いの意思が重なった瞬間にキスをするべきじゃん? 〈楽園システム〉に奪われた記憶が復活して、すべてを思い出したら、──君はきっと、私にキスがしたくなるだろう」

 綾子の言葉の真意が分からず、折原は混乱した。
 彼女にキスをしたくなる? 自分が? まさか、あり得ない。彼女には腹が立って仕方がないというのに。
 でもそこまで言い切るのなら、なにか自信があるのだろう。記憶を取り戻したら、自分に不利な状況が発生してしまう……。
 しかしだからといって、記憶の扉がゆっくりと開かれていく現象に抗うことはできない。自分の意思ではどうしようもないと悟り、彼は窓の向こうへ目線を戻した。今考えるべきは、取り戻した後にどう動くかだ。この猶予を使って、宇宙船からの脱出方法を考えなくては。
「……」
 ──宇宙を直接見るのは初めてだった。
 しかし折原は、この暗闇に懐かしいものを感じていた。自分はこれを知っている気がする。そんな不思議な感覚を、根を掘り起こすように辿っていくと、幼少期の記憶が浮かんできた。
 中二の秋頃、彼は父親の都合で現在の住居である都内のマンションに引っ越してきた。それまでは、神奈川県にある一軒家に住んでいた。その二階には、彼が幼少期を過ごした子供部屋があった。
 懐かしむほど時間が経っているわけでもない。目を閉じれば、あの乾いた匂いと共に間取りを仔細に思い出せる。キャラクターものの薄いカーペットが敷かれ、壁際には学習机と大きな本棚。硬いマットレスのベッドは、窓へ足を向けるように置かれていた。
 折原は一人っ子なので、その広い部屋を好きに占有していた。
 というより──籠城といった方が正しいかもしれない。彼はほとんど外へ出なかった。……極度の怖がりだったからだ。ニュースや新聞を見て、日々起こる恐ろしい事件や悲しい事故、暗雲の垂れ込める世界情勢、そんなものに怯えていた。
 彼は昔から想像力の逞しい子供だった。それ故に、ニュースのちょっとした文言や映像にすぐさま想像を掻き立てられ、悪い予感が頭から離れなくなってしまう。すると身体が震えて、何も出来なくなってしまう。あの頃の折原にとって、世界とはトゲだらけの怪物だった。どうか自分に牙を剥かないようにと、子供部屋で息を潜めてじっと蹲るしかなかった。
 そして、他人も怖くなっていった。家族以外を前にすると、恐怖と緊張で息が詰まってしまい、何も話せなくなった。だから仲良くもなれなかった。休日や放課後は、この部屋でカーペットに頬をつけて、ずっと寝転んだり、窓から空を眺めたり、本を読んだり、ゲームをしたり、……そうやって過ごしていた。
 だが小学生の体感時間はすこぶる長く、一人遊びにはすぐ限界が来た。
 なので、折原はよく無聊を託っていた。部屋にある本をすべて読み終わり、買ってもらう予定もしばらく無いとくれば、砂を噛むような思いで天井を見つめるしか無かった。
 暗闇。
 そう、それが暗闇だった。そのとき見つめた天井が──消灯された室内が──昼寝ばかりしているせいで眠れずにベッドから見上げた深夜の空が──この宇宙にそっくりなのだ。
 この部屋にいれば、怖いことは何も無い。危ない目にも遭わない。変化も刺激も存在しない。それこそ彼の求めた安寧の暗闇だった。世界の恐怖から隠れるには、こうするしか無かった。

 はじめはそれでも良かった。しかし、小二、小三、そして小四にもなれば、それは心を押し潰すほどの退屈となった。
 休み時間。寝た振りなどをして時間を潰していると、周囲の喋り声が耳に入ってくる。昨日はアイツの家に行った、今日は公園でドロケイをする、私と自由帳で漫画を描こう、今からここで押し相撲をしよう──。
 折原は叫びだしたくなるほど羨ましかった。そこに参加できたなら、この憂鬱も晴れるだろう。
 仲間に入れてくれ、と言ってみようとしたことくらいあった。
 だが……会話がすっかりできなくなっていた。何年も他人と関わることを避けてきたのだから、当然だ。急に出来るようになるわけ無かった。考えていることも、感じていることも、何一つ喉から出てこないで黙ってしまう。
 そんなやつを仲間に入れてくれるほど、小学生はお人好しじゃなかった。
 夏休みの宿題の一つで、一週間ぶんの日記を書いてこいというものがあった。たった七日間なのに──折原は書くことがなくて困り果てた。だから、存在しない友達を創作し、彼と祭やプールに行ったことにした。存在しないグループを作り、皆で公園で遊んだことにした。そうやって、自分がしたかったことを、でもできなかったことを、書いた。
 日記は無事に提出できたが……怪しんだ担任の先生が、母親に連絡してしまった。すぐに嘘がバレたが、怒られることはなく、放課後にカウンセリングを受けることになった。母親も、担任も、しばらくは嘘みたいに優しく話しかけてきた。今思い出しても、とても……恥ずかしく……情けなく……泣きたいような気持ちになる出来事だった。
 両親は何度もどこかへ連れ出そうとしてくれた。
 だが家から出るのが怖く、学校にもやっと行けているような状態だったため、遠出なんて以ての外だった。……代わりに、家のなかではよく遊んでくれた。ペーパークラフトやボードゲームなんかを、よく一緒にやってくれた。

 そんな折原が初めて自分の意思で外へ出たのは、小四の秋のことだった。
 十月に入ってから、毎日のように家の前から声がした。窓からそっと覗けば、同い年くらいの小学生たちが集団でわらわらと歩いていくのが視えた。まるで探検隊だった。彼等は決まった時間に家の前を通った。そしてフェンスを乗り越えて、子供が入ってはいけない山の方へと進んでいった。
 どこへ行くのか折原は気になった。
 だから、とうとう外へ出て、この目で確かめようと考えた。彼等が山の中でいったい何をしているのか。どんな遊びをしているのか。
 参加できないのなら、せめて──見るだけでも。その後、頭のなかで一緒に遊べばいい。
 幼い折原はたっぷり二週間ほど葛藤した。玄関先まで行って部屋へ引き返すのを、十回くらい繰り返した。そして最後には好奇心が勝って、震える手で玄関の扉を開けた。
 初めての冒険。それは──運命の転換点だった。

 単身で山に入った結果、折原は古井戸に落ちてしまった。
 全身が痛み、立ち上がるまでに時間を要した。口には土が入り込み、血と混ざってひどい味がした。
 見上げると、高い木々の隙間から曇り出した空模様が視えた。その灰色は雨の気配を纏っていた。
 落下音を聞きつけたのか、井戸の上から数人の小学生が顔を覗かせた。
 折原は助けを求めようと口を開いたが、声が出なかった。そう、それは彼にとって会話だった。手を伸ばしてくれ、助けてくれ、そう伝えることは、折原にとって無理に近い行為であった。
 彼が何も言わないのを見て、彼等は首を傾げてどこかへ去ってしまった。助けを求めてこないのなら、別に大丈夫だろう。そう判断したのか、あるいは、見知らぬ少年のことなんてどうでも良かったのかもしれない。
 ぽつり、ぽつり、と雨が降ってきた。
 折原は寒さに震えながら、暗い井戸の底で自らの人生を振り返っていた。これは罰なのだと思った。世界から逃げ続けてきた、罰なのだと。
 すると、「君、大丈夫!?」と頭上から声がした。見上げると、女性がこちらを覗き込んでいた。「ちょっと待ってて!」と彼女は一瞬だけ姿を消すと、どこからか青いホースを入手してきて、井戸のなかへ垂らしてくれた。
 折原はホースを掴み、井戸の内壁を歩くようにして、引っ張り上げてもらった。
 井戸から出た途端、雨は本降りとなった。彼女が相合傘をしてくれたので、折原は肩を濡らすだけで家に帰ることができた。
 それが雨野円との出会いである。

 彼女とまた会えることを期待して、折原は公園に通うようになった。
 雨野はたまにしかいなかったが、会えた日はもう有頂天であった。彼女はブランコや滑り台の下などで何をするでもなくぼーっとしており、子供たちにわいわいと囲まれながら献上された駄菓子を食べていた。
「みんな、家でも学校でも、私のことは内緒だからね」
 真っピンクの冴えた髪。斜めにざっくりと切られた前髪は、一度もその長さが変わることはなかった。
 丸眼鏡と黒マスクをつけて顔を隠しているので、お忍びで来ている芸能人かと噂された。しかし服装は目立つバンドTシャツなので、隠れる気は無さそうだった。
「君、喋るの苦手なの?」
 雨野は、輪の中に入れずにいる折原を見つけると、そう言った。
 彼は頷いた。
「じゃ、合図を作ろう。ここだけの合図だ。まず感謝の気持ちは──こう」
 と言って、彼女はワキワキと片手を動かした。手話にも満たない、簡単な手遊びであった。最初は冗談だと思った子供たちにけらけらと笑われていたが、雨野は真剣な顔つきでいくつもの合図をレクチャーした。だんだん子供たちも本気で覚え始めて、自らの手を動かし始めた。
 もっと良く見たくて、折原は彼女へ近づいた。すると自然と輪の中に入っていた。
 合図はたった三日で公園に浸透した。そこで遊ぶ小学生たちの共有の独自言語となり、学校でも話題になった。交わしあえる内容はスタンプのような簡単な感情だけであったが、大人には分からない暗号でこっそりと会話をするのは非常に痛快であった。
 その合図があれば、折原はなんとか会話することができた。これは彼にとって革命的な出来事であった。教室で、前の席の男子が落とした消しゴムを拾ってあげたとき、例の合図で礼を述べられた。そこで折原も、震える手で「どういたしまして」と返したら、男子は嬉しそうに小突いてきた。折原はたったそれだけのやり取りで、眠れなくなるほど感動した。自分がどれだけ他者に飢えていたのかを思い知った。
 集団のなかに入っていくのはまだ苦手で、公園を覗いて雨野がいなければ自室に戻った。だが彼女がいれば、
「お、君か。おいでおいで」
 と手招きされるので、自然と入っていくことができた。一度入ってしまえば、あとは鬼ごっこなり缶蹴りなりと遊びに参加できる。遊んでいれば、否応なく声は出た。リアクションにすぎなかった発声は、やがて意味を成し、徐々に会話へと変貌していった。彼はそうして、喋れるようになっていった。
 小五に上がる頃には、友達と呼べそうな関係性も少しは出来ていた。

 全部、彼女のおかげだった。
 突如世界に舞い降りて、彼を穴から救いだし、導いてくれた。言語も機会も作ってくれた。彼女は、折原と世界の繋ぎ手であった。
 彼女がいれば安心だった。
 もう、あの暗闇を見ずに済んだ。
 あの孤独を──味わわずに済んだ。

 ──折原が十二才のときだった。
 中学生になった彼は、部活には怖くて入れず、新天地で友達も作れず、かといって公園で遊ぶ年でも無かったので、また部屋に閉じこもって独り切りの日々を過ごしていた。
「話があるんだ」
 そう言って、雨野はなんと折原の部屋へと上がりこんできた。
 どういう経緯で彼女が入って来たのか、詳しく覚えていない。驚愕と緊張が閾値を超えたせいで、記憶が朧気になっているのかもしれない。
 彼女は何かを打ち明けようとしていた──ような気がする。
 そして眼鏡とマスクに手をかけ、外そうとした──ような記憶もある。
 だが結局、外されることはなかった。
「ここから出よう」
 雨野はそう言った。そうか、それが目的だったのか、と折原は気がついた。
 彼女はまた、自分を外の世界へ連れ出しに来てくれたのだ──。
 折原は感動し、そして、自身のなかに生まれた好意に気がついた。
「……うん。ここから出るよ」
 そうして二人で部屋から出た。折原はもう、あの子供部屋にいるのは止めようと心に誓った。彼女がここまでしてくれたのだから、応えなくてはならないと思った。それに、あの部屋にはもう──なにもない。
 大丈夫。
 たとえ世界が怖くても、どんなに恐ろしくても、──彼女がいる。それが今日、分かった。
 彼女がいれば、自分はまた勇気を持つことができる。そして、あのなにもない部屋から抜け出すことができる。
 折原は自身の成長を感じ、清々しい気分で外の空気を吸い込んだ。
「ありがとう、外に出してくれて。取りあえず……なんか部活にでも入るよ」
「おうおう。君って、皆でわいわいやるのが本当は好きなタイプだろ。応援してるよ」
 雨野は眼鏡の向こうで目を細めて笑い、「じゃ!」と元気よく駆けていった。それが、彼女を見た最後の姿だった。

 その後、折原は何の部活にも入らなかった。なにかあったとき雨野に相談できないからだ。
 もう公園には行かなかった。どれだけ待っても雨野は来ないからだ。
 友達を増やすこともしなかった。あの合図を使う人間は、もういなかったからだ。
 彼女は折原の家のポストに、置手紙を一つ残して消えた。お別れとお礼が簡潔に書かれただけの、住所も名前も書いていないものだった。
 彼女はどこかへ引っ越したらしく、もうこの街には来ないそうだった。
 あまりにあっさりとした最後だったので、受け容れるのはむしろ早かった。
 彼はまた、教室と子供部屋を行ったり来たりする生活に戻った。しかし、一つだけ目的ができた。それは強烈で、熱烈な目的だった。──大好きな雨野を探す。彼女の正体を当てる。そのためなら何でもしようと思った。折原は恋心を燃やし続けた。

 だって彼女がいなければ、また自分は……。

「──あ」
 折原はバッと耳を塞いだ。
 何か大きな音がしたわけではない。綾子も口を閉じたままだ。宇宙も舟も沈黙している。
 だけど彼には声が聞こえた。その輪郭はまだ不明瞭で、曖昧だった。まるで底なし沼の奥から響いてくるような声だった。
 ──聞きたくない。
「あぁ……っ」
 彼の本能が拒否反応を示した。彼はより強く耳を塞いだ。
 しかし声は、近づいてくる。徐々に意味を帯びてくる。海馬を這い上がって、脳の隙間から顔を出した。

 彼女の、正体は、あの人だ。

「思い出してきたのかい?」
「嫌だ……」
 綾子の囁きに、折原は頭を振った。しかし、記憶がぽろりと抜け落ちることは無かった。
 窓ガラスを見れば、怯えた自身の顔が写っていた。すぐに顔を逸らし、横にある部屋へ飛び込んだ。
 がらんとした部屋だった。使われていない倉庫のようで、壁沿いに配置された棚には何も置かれていなかった。薄暗く、開いた扉から廊下の明かりが差し込んで、折原の影が伸びている。
 彼はリュックを床に置いた。
 取り出したのは二つのファイル。これまでの脱出についてまとめた『脱出記録』。そして雨野円についての『調査記録』。どちらも、想い人のために積み重ねた努力の集積であった。
 ──なぜ、こんなものを持っている?
 彼はその疑問を夢の中でも抱いていた。
 理由は簡単で、調査しに来ていたからだ。今乗っている宇宙船が漂着していた砂浜は、彼が昔住んでいた家の近くだった。雨野円の現地調査に訪れて、その帰りに乗ったのだろう。
 折原は『調査記録』をぱらぱらとめくっていく。すると、「いいねぇ」と綾子が肩を組んできた。
 知りたくない。
 本人のそんな思いを無視して、彼の指は勝手に動いた。

 雨野円。彼女はいつも同じ服装で、いつも同じ髪型だった。
 斜めに切りそろえたピンク髪。大きな丸眼鏡。黒マスク。そして、目立つバンドTシャツ。
 それだけ特徴的なら、目撃している人間がいるかもしれない。彼はそう考えて、何度か地元で聞き込みを行った。
 確かに目撃証言はちらほらとあった。だがそのどれもが、違う背丈や、違う顔つきや、違う性格を述べていた。風貌以外の特徴が一致しないのだ。挙句の果てには「男だった」と言い出す人間もいた。
 これは一体どういうことか?
 〈雨野円〉とは、視る人間によって姿を変える怪異なにかだろうか?
 儀式によって異常な世界観に慣れていた折原は、真剣にそう怪しんだ。そこで、その街を映した映像や写真を集めた。ユーチューブの投稿動画やドラマの撮影などに映り込んででいないか目を皿にして探した。
 映り込んではいなかった。
 だが幾つかの作品を見ている内、あることに気がついた。
 同じ髪型のキャラがいる。あの、斜めに切られたピンク髪──。その髪型をしたモブキャラが、複数の作品で登場していた。
 折原はその髪型をしていた役者を調べた。
 すると全員、同じ事務所に所属していることが分かった。調べてみると、それはあの公園から十五分程度歩いた場所にある事務所だった。近くには、レッスンスタジオまである。
 あれはウィッグだ、と気がついた。衣装だったのだ。目撃証言ごとに特徴が食い違ったのは、ウィッグを共有して使っていたからだ。撮影後などに見かけたのだろう。
 雨野円はその事務所に所属している子役だった。衣装を盗んで変装し、あの公園へサボタージュしに来ていた。つまり有名人説は当たっていたわけだ。眼鏡とマスクなんてありがちな変装スタイルなのだから、もっと早く思いつくべきだったと折原は反省した。
 ならば。
 その事務所の所属一覧を見れば、そこに雨野円がいるはず。
 問題は、折原の記憶にある彼女は、いつだって眼鏡とマスクをしていたことだ。本当の顔は分からない。だがとにかく確認してみないことには始まらない。
 もう辞めてしまった役者は事務所のホームページに載っていない。なので品村に頼み、過去の情報を掘り起こし『リスト』にしてもらった。それを餌にされて、彼女に監禁されたのだ。
 そしてその後、激辛の麻婆豆腐を出す町中華の店で。
 彼は見た。
 雨野円の芸名と写真を。
 芸名は、よくある感じの当たり障りのないものだった。
 だが写真は、一目見て──折原は絶句した。落雷に打たれたような衝撃が走り、しばらく身動きが取れなかった。
 よく見知ったある顔が、幼い笑顔で写っていたからだ。

 リュックに『脱出記録』と『調査記録』を入れて、折原は何度目かの帰郷を行った。
 伯父の家を尋ねるためだった。足取りは重く、その先に断崖絶壁が待っていることを知りながら坂を昇るような気分だった。
「……これって、伊深だよね?」
 印刷された写真を見て、伯父は懐かしむように目を細めた。
「あぁ、俺の娘だな。本人が嫌がったから、俳優をやってることは親戚にもあんまり言ってなかった。よく見つけたな」
「今はもうやってないよね?」
「あぁ。三年くらい前に辞めて、引っ越した。……わざわざこんなこと訊きに来たのか?」
 彼の柔和な笑みに、折原は「ちょっと気になってさ」と口角を上げた。そして麦茶の入ったグラスに手を伸ばし、次の瞬間には、夜の砂浜にいた。呆然と時間が飛んでいた。
 折原は色を失った眼で、ぼんやりと海岸線を眺めていた。故郷へ向かう船のチケットを持たない少年のように、石段の上でいつまでも蹲っていた。
 そう。
 折原が求め続けた想い人──偽名を雨野円。
 彼女の本名は──『折原伊深』。
 彼女は折原の従姉である。もちろん、三十九人いる親戚の一人であった。彼女はリアル脱出ゲーム店でスタッフとして長年働いており、脱出のための特訓に訪れた折原とよく顔を合わせていた。折原家の集まりでも、よくお喋りする仲だった。
 夫婦仲は順風満帆だと聞いている。当時付き合っていた彼氏と儀式によって閉じ込められ、そのまま自らの意思でキスをしたという話を何度も聞いている。
 探し続けた女性は、すぐ近くにいた。そして、既に誰かと運命を結んでいた。当然ながら、彼女の心に折原の入る余地は無い。
 折原の追い求めた未来は最初から存在しないものだった。
 そんな真相を、彼は知ってしまった。

「お、あのときの顔になってる」
 折原は部屋を出て、通路を歩いていた。今度はコックピットの方へと戻っていく。
 その手はだらんと垂れて、空っぽだった。あれだけ大切だった『脱出記録』も『調査記録』も、リュックごとあの部屋に置いてきた。
 捨ててきた、と言った方が正しい。
「まぁまぁ、元気出せって。まだ若いんだから」
 綾子が肩を組み、彼を慰める。ポーズだけなので何も心には響かない。折原は今にも転がっていきそうな足取りで歩を進めていた。あの大きな窓から、宇宙の広い景色が見たかった。そういう単純な目的を目の前に置いて動いていなければ、たちまち身体が崩れ去ってしまいそうだった。
「さて、この辺で教えておこう。神様である私とキスをしたら、いったいどうなるのか?もちろん、儀式によって運命が結ばれる。だがそれは、君たちの言う恋人や夫婦と言っ
た関係性ではない。──眷属だ」
「……眷属?」
「私は普段、ここからもっと遠いところにある小惑星でずっと仕事をしている。多忙を極めるから、君にも手伝って欲しいのさ。あとはたまに、私を癒せ」
「小惑星……」
「暗くて静かでいいところだよ。君は眷属として、そこで一緒に仕事をしてもらう。それは、宇宙を永遠に漂うような美しい日々になるだろうさ。不要な情報が排除された、楽園のような場所さ。生命の安全についても、完璧に保証しよう。衣食住について悩むことは一生無くなる」
 そんな生活は人間的と言えず、幸福を感じられるとも思えない。
 頭ではそう分かっていながら、しかし折原は惹かれていた。
 危険のない安全な世界。それは──幼少期に求めた理想郷だった。
「当然、報われない恋路をそうとは知らずに邁進するなんてことも、絶対に無いよ。だって私の寵愛を受けるんだからね。君はもう、何も知らなくていいのさ」
 もう何も知らなくていい。
 その誘惑は、打ちのめされた折原の心のヒビへじわじわと沁み込んだ。己を殺す毒であると分かりながら、その甘味が今は嬉しくて受け容れてしまう。思考が、感情が、蝕まれていく。
 そして彼は思い出した。無気力だった顔をはたと上げて、綾子を見つめる。
「もしかして……。僕は自分から〈楽園システム〉に……? 自分の意思で……?」
 彼女は同情するように唇を噛んで、頷いた。
「──砂浜で絶望していた君に、コネリちゃんの振りをして話しかけたのさ。〈楽園システム〉の非常事態モードなら、その嫌な記憶を消せるよってね。そして君は乗ったんだ。知りたくなかった真相をいっとき忘れて、夢の世界で雨野と話したいと。それを最後の別れとしたい──と」
 折原は、彼女の言葉に沿って記憶をはっきりと取り戻した。コネリがあの場にいるのは不思議では無かった。彼女の根城である宇宙船がすぐ近くなのだから。
 そして、記憶を消して夢に入りたがった自分の意思も、今ならよく分かる。
「いつまで? と私は訊いた。君は答えなかった。その代わり、しばらく宇宙船には入ってこないで欲しいと釘を刺してきた。当然、二人切りになればまた儀式が発生してしまうからね。君は私が外にいるのを確認してから、ハッチを閉めて内側からロックした」
 ロックのやり方や非常事態モードの設定などは事前に聞いていた。
「じゃあ、綾子さんはどうやって入って来たのですか」
「三角形を使ったのさ。私を呼び出すときに使うアレさ。……君がコネリちゃんと閉じ込められたとき、ルールを確認する目的で私を呼び出しただろう? そのとき描いた図形を使って侵入したのさ」
 つまり、使った後にちゃんと消さなかった折原に原因があるのだった。身から出た錆に、彼は苦い顔をする。
 まぁ、もし消していても、綾子のことだから別の手段で侵入しただろう。
「そのあと、君が万が一目覚めても脱出できないように──宇宙船を空の彼方へ飛ばした。偶然直って、偶然飛び立って、偶然遠くの宇宙へ行くようにした。準備が整った頃には、君はもう夢の世界に入っていて、ベッドのカバーも閉じていた。だから私も後を追ったのさ。雨野の姿となって夢に登場すれば、ロマンティックに──互いの意思が重なった瞬間にキスできると思ってね」

 コックピットに椅子のようなものはなく、代わりに平均台のようなものが縦向きに置かれていた。高さは低く、合成皮革のような柔らかい素材で包まれている。数本のベルトがぶら下がっていた。
 コネリたちは四足歩行だから、ここへ腹ばいになって身体を固定するのだろう。
 折原はそこへ腰を落とし、広々としたガラスを見上げた。
 茫漠とした宇宙。
 初めて見たときの衝撃や絶望感は無く、一転して落ち着くような気分となった。なにもない世界は折原の心に平穏をもたらした
 奪われた記憶はすべて取り戻した。ここへ至る経緯も、雨野円の正体も、すべて。
 取り戻さずにいれば幸せだったのかもしれない。あのバルで語らい合っていたときのように、浮かれたまま過ごせていたのかもしれない。
 知りたくないことを知ってしまった。
「ちょっと詰めて詰めて」
 綾子が強引に尻をねじ込んで、折原の隣に座った。二人の二の腕がぴったりと合わせる。
「私、一つ疑問なんだけど……。どうして伊深ちゃんは正体を明かさなかったんだろ? タイミングはいつでもあっただろうに」
「僕の部屋へ来たときに明かそうとしてくれたんだと思います。彼女が眼鏡やマスクを取ろうとしたのを覚えてます」
「でも結局しなかった。手紙だけ残して、その後すぐに引っ越してしまった。どうして心変わりしたのかな」
「……多分、それは……」
 儀式が発生したからだ。折原伊深もまた、同じ血筋の人間だから。
 自らの正体を明かすために子供部屋へ来たとき、儀式が始まってしまったのだ。だから彼女は自分の手を引いて、あの家から出ていかなくてはならなかった。
 その瞬間から、折原は伊深に好意を抱いた。つまり、それは品村と同じく──残滓だったのだ。儀式の効果で上がった好感度が、そのまま尾を引いてしまい、本心と綯い交ぜとなった。
 伊深はそれを察したのだろう。だからすぐに引っ越して、彼から遠ざかったのだ。
「……嫌だったんだと思います。生まれた頃から顔を合わせている親族から、恋愛的な目を向けられるなんて」
 儀式だって、まさか起こるとは思わずに部屋に入って来たのだろう。
「ずっと正体を秘密にしていたのは?」
「無かったことにしたいからです。正体を明かして、それで気まずくなるのも、僕から恋愛的な目を向けられてしまうのも、嫌だった。気持ち悪かった。そうとしか考えられません」
 これまで伊深とお喋りしていたときも、ずっと心の奥では嫌悪していたのだろうか。
 今に正体がバレて、仲のいい親戚としての関係性が壊れてしまうことに怯えていたのだろうか。
 それなのに、自分は正体を探ってしまった。彼女が嫌がっているなんて露ほども想像できず、自分の恋心だけを優先し、調べてしまった。
 僕は。
 僕は、なんて──。
「……気持ち悪い……」
 折原は自己嫌悪に包まれて蹲った。立てた膝の間へ顔を隠す。
 もう何も見たくなかった。
 折原の脳内にある言葉がよぎった。それは折原自身の言葉だった。
──僕は……自由になりたいんです。この感情から、この過去から! そのためには──知るしかない。知ることでしか、考えることでしか、僕たちは自由になれません。
 しかし、彼が夢の世界で吐露したように、知るのはつらい。調べるのは怖い。考えるのは面倒臭い。
 それでも、それでも──と歯を食いしばってここまで来てみたが。
 待っていたのは悲劇だった。
 無意味だった。
 これまで頑張ってきたことはすべて、こうやって絶望するためだった、なんて……。
 何もしなければよかった。
 何も知らなければよかった。
 あの、なにもない部屋から出なければよかった。
 子供の頃に想像したような恐怖は正しかった。世界は自身に牙を剥く。その姿を見ようとすればするほどに。
 ならば、もう──。
「…………あなたの言った通りでした」
 折原が顔を上げると、待ち兼ねていたように綾子の顔がすぐ目の前にあった。
「あなたとキスがしたくなりました」
 綾子は頷いた。その眼には星々が煌めいていた。果てしない宇宙の片隅で、折原は小さな口づけを交わすことに決めた。
 呪いのような、祝福のような、神様のキスを──。
「──……おや」
 唇が触れ合う寸前、顔を止めたのは綾子だった。彼女は銀髪の隙間から覗く片耳をぴくりと動かして、身体を伸ばした。侵入者に気がついた猫のような動作だった。
 彼女は不快そうに眉をひそめながら、コックピットから立ち上がり、そのまま通路の方へ歩いていった。折原は頭上に疑問符を浮かべながら、その後を追った。
 そして舷側の通路、ハッチの横を通り過ぎたとき。
 正面から、ぞろぞろと足音が近づいてきた。
「あら、凄いわ! 本当に宇宙じゃない!」
「ひぇぇぇ……。暗すぎて怖いです……!」
「うぎぎ……。我が船を勝手に使いおって……! 不敬な!」
「──感動、だな」
「やっば、マジで宇宙じゃん。やばすぎるデビ」
 口々に喋るその声すべて、折原はとてもよく知っていた。
 彼は目を疑った。夢か幻覚かと何度も顔を擦った。それが間抜けに視えたのか、先頭にいたコネリがくすりと笑った。
「なにをたじろいでおるのだ、オリハラ! この我がわざわざ出迎えに来てやったというのに!」

 そう叫ぶ彼女は、二足歩行であった。折原と同じ高校の制服も着ている。身体の毛はほとんどなく、つるりと人間らしい肌をしていた。残った獣らしい箇所と言えば、金髪ロングの頭に出っ張った獣耳、猫のような顔つき、そして首輪であった。その首輪は母星から取り寄せたもので、付けているだけで日本語を話したり理解したりできるようになる優れものであった。
 彼女の人間らしいその姿も、とある特殊なスーツのおかげである。宇宙人のテクノロジーは実に何でもありであった。
 コネリは、でんっ、と効果音が聞こえそうなほど、小柄な体躯で胸を張っていた。幼き威厳を示すが如く、頭には小さな王冠が光っている。
 そんな彼女の横には、立方体のマシーン──メイドキューブが浮かんでいた。
「──しかしお嬢様。実際、ここへ来るのにお嬢様は大した活躍をなさっていません。あまり調子に乗ったことを抜かさぬほうがよろしいかと」
「うぎぃーーーーっ! ぬ、抜かすってなんだぁ! 失礼だぞ!」
「……ホントうっさいデビね、このチビネコ。マジでずっと騒いでるデビ」
 君ヶ園が呆れたように肩を落とした。彼女はいつもの制服姿だったが、ショートボブの上には悪魔っぽい角のカチューシャが乗っていた。きっとまた、友人から罰ゲームを食らい、それを律儀に遂行しているのだ。
「チビネコとはなんだ、地球人! 我は王女であるぞ! 敬えー!」
「はいはい、まじリスペクトするデビねー。可愛いデビねー」
 君ヶ園はぽんぽんと小さな王女の頭を優しく叩いた。
「ば、馬鹿にしおってぇ……! がるるるっ!」
コネリが飛び上り、彼女の手に噛みついた。
「嫌ーーーーっ!? 痛い痛い痛い痛い! 何してんのよーっ!」
君ヶ園が涙目でぶんぶんと腕を振り回す。しかしコネリは獣然とした咬合力でなかなか離れなかった。
 大騒ぎする二人を、由紀島は愉快そうに目を細めながら見物していた。もぞもぞとマスクが動いているのは、他人の不幸に舌舐めずりをしているからだ。
「ちょっと由紀島! 笑ってないでこいつ引っ張ってー!」
「あら? 君ヶ園さん、語尾を忘れていますよ」
「今はそんなこと気にしなくていいデビ! 指が千切れちゃうデビーッ!」
「うふふふふ、今助けてあげるわ」と上品に笑って見せてから、由紀島は品村へこっそりと小声で囁いた。「──なんて滑稽なのかしら。しばらくこのままにしておきましょう。品村ちゃん、撮影してちょうだい」
「ひぇぇ……!」由紀島の本性に彼女が震え上がる。「で、でもあの、これ早く止めた方がいいんじゃ……? こんなことしてる状況じゃないですしぃ……」
 品村はあわあわと狼狽えながらも、ジャージのポケットからスマホを取り出した。頼まれたら断れない性格なのだ。
 すると彼女たちの背後から、
「──溜息だ」
 と、低い声が聞こえた。二メートルはありそうな大きな女性──アベリアが、一歩前に出た。船内の天井が低いので、とても窮屈そうであった。紫のボディスーツ姿は目立っていたが、この宇宙船の景色にはどこか馴染んでいる。
「静かにしろ」
 冷たくて言って、君ヶ園とコネリの首根っこを掴んだ。そのままひょいっと引き剥がす。
「あぅ……」
「す、すみませんデビ……」
 親猫に運ばれる子猫のように、二人はたちまちしおらしくなった。
 そんな様子を見て、アベリアはそっと二人を解放してから、「──はははははははは!」と例の空笑いを発した。イントネーションのないあからさまな嘘笑いだった。怒っていないことを示すためだろう。彼女はひとしきり発してから、周囲を見回し、伝わったとばかりに「うむ」と頷いた。
 しん、と場が静まり返った。他の全員がドン引きして、言葉を失っていた。
「……なんとも騒がしい客人だね」
 綾子が学帽をつまんで、やれやれと首を振った。折原の肩に肘を乗せ、顎で彼女たちを指す。
「君が振った子たちが勢揃いじゃないか」
「いや、言い方……」
 折原はそっと綾子から距離を取った。そして友人たちへ顔を向ける。彼女たちと順番に目が合ったが、ついさっき綾子とキスをしてしまいそうになった手前、なんて言ったらいいのか分からなかった。
 取りあえず、一番の疑問をぶつけてみることにする。
「──どうやってここに?」
「私から説明するわ」由紀島が手を上げた。「最初に異常事態に気がついたのはコネリさんよ。自分の宇宙船に戻ろうとしたら、砂浜から消えていたらしいの」
「その通りだ! さすがの我も冷や汗を掻いたぞ。それでメイドに調べさせたら、どうやら数分前に発進していることが分かった」
「彼女から連絡を受けて、私はすぐにピンと来たわ。また折原くんが儀式に巻き込まれたんじゃないかって。それで、折原くんの居場所について、君ヶ園さんと品村ちゃんに調べて貰ったの」
「まったく、迷惑な話デビ」君ヶ園は怠そうにショートカットの毛先を弄っている。「それで、家にも学校にもいないって分かったデビ」
「か、神奈川に住んでる、ご親戚の家にも電話したんです……。勝手なことして、すみません……。」品村は背を丸め、由紀島にくっついてもじもじとしていた。初対面の人間に囲まれて怖いのだろう。「それで、数時間前までここにいたって教えてもらったんです。だから、宇宙船に乗って消えた説が濃厚になりました」
「……そんな経緯でしたか」
 由紀島が各人物とコネクションを持っているおかげとも言えた。
「でも……。宇宙船にいるかもしれないってなっても、来る手段が無いじゃないですか。たとえもう一台宇宙船を用意できたとしても、居場所が分からなかったはずです」
「──私の力だ」
 アベリアが言った。
「私がブリーダーであることは記憶しているな? 折原」
「はい……」
「では、ブリーダーがどのようにサニィを召喚するのか、覚えているか?」
 折原は記憶を探った。覚えてはいたものの、訊かれてすぐには出てこなかった。
 それを見て、アベリアが説明する。
「魔法陣だ。魔法陣同士をワームホールとして繋ぎ、別世界から呼び込むのだ。それがブリーダーの持つ能力」
「つまり……ワームホールでここまで来たってことですか?」
 アベリアが頷く。
「体育館裏にもう一度魔法陣を描いて、ここと繋げたのだ。これなら宇宙を飛ぶ必要が無いだろう?」
「いや、でも……。繋げると言っても、向こう側に出口となる魔法陣が無いと駄目ですよね? この宇宙船には、そんなものありませんでしたよ」
「それがあったのよ」と由紀島。「というか、君が持ち込んだの」
 彼女は両手の人差し指を立てると、胸の前で長方形を描いた。
 それの意味するところは──。
「……──『脱出記録』?」
「そう。叔父さんに電話したとき、あなたが何をしに来ていたのかも訊いたの。それで、あなたが雨野円の件で訪れていたと分かった。ならば持っているはずでしょう? 『調査資料』と『脱出記録』を──」
 折原はロッカーに閉じ込められた日のことを思い出した。夜の学校へ侵入するとき、体育館裏で魔法陣を見つけ、その写真を品村へ送った。品村がその日のことも『脱出記録』にまとめていたのなら、魔法陣もそこに描かれている……。
「──いや、待って下さい。僕は写真を共有しただけです。いくら記録を作っていると言っても、魔法陣をわざわざ手書きで描いておくなんて──」
「いや、描きましたよ私! み、見てないんですか? 見たけど、忘れてるんですか?」
「……忘れてるかもしれません」
「そんなぁ……。頑張って描いたのにぃ……」
 品村が悲しそうに肩を落とした。
「本当に申し訳ないです。でも、なんでわざわざ……?」
「あの……私が先輩を監禁した日のこと、覚えてますか?」
「えぇ」
 君ヶ園とコネリとアベリアが目を剥いて、品村の方をバッと振り向いた。そして一歩だけ距離を取った。このおどおどとした年下の少女が、まさかそんな恐ろしい犯罪行為に手を染めていたとは思ってもみなかったのだろう。
「家から出るとき、由紀島さんが私に頼んだんです。『脱出記録』を見せて欲しいと。魔法陣についても気になっていると話していました。最初は、先輩から来た写真を、そのままラインとかで送ればいいやって思ってました。でも──」
「私はスマホを持っていないの」
 引き継いで、由紀島が言った。
「だから品村さんは気を利かせて、わざわざ魔法陣を紙に模写して、『脱出記録』のファイルだけで詳しく分かるようにしてくれたの。偉いわね」
 と品村の頭を撫でる。
「ふへへ……。ひ、人から褒められるのなんて、二十四日ぶり……」彼女は恍惚として喜んでいた。「……印刷とかも考えたんですけど、家にプリンター無いですし、まだコンビニ行けるほど外に慣れてもなかったので……。頑張って描きましたぁ……」
 折原は感心するような気持ちで相槌を打った。いくつもの偶然や必然を経て、魔法陣は宇宙船まで運ばれてきたのだ。
「……すると、魔法陣はファイルのなかに描かれていたのですよね? だったら大きさはせいぜいA4サイズ……。皆さんが通り抜けてくるには、流石に小さいのではないですか?」
「そこは、これの出番デビ」
 君ヶ園は肩にかけていたエナメルバッグから瓶を取り出した。折原には、とても見覚えのある瓶であった。
 彼女が、ちゃぽん、と揺らす。まだ多少は中身が残っていた。
「──分かるっしょ? 弁当箱から出るとき、一緒にたっぷり浴びたから」
「不思議の国のアリスの……!」
 小さくなる方は、ロッカーの件で折原が使い果たした。
 だけど大きくなる方は──まだ残っていたのだ。
「……面倒事が起こらないように、僕の家へ持ち返ったはずなんですが……」
 その指摘に皆が首を傾げた。ただ由紀島だけが、ふいっと目をそらした。なにかしら顔向けできない手を使ったに違いない。
 アベリアが口を開く。
「そもそも今日、私はそれ目的で高校へ来たのだ。すると由紀島に呼び止められ、折原の捜索を手伝って欲しいと頼まれた。そうして今に至るというわけだ」
「『脱出記録』の紙に描かれた魔法陣は確かに小さかったデビ。でも、腕くらいなら出すことができたデビ。だから瓶の口を開けた状態で腕だけ出して、紙そのものに振りかけた──というわけデビね」
 君ヶ園は誇らしげに顎を軽く上げた。もしかすると、彼女が思いついた方法なのかもしれない。
 折原は呆気に取られながらも、その目を輝かせた。彼女たちの発想と行動力に驚かされていた。
「とまぁ、こんな感じね」由紀島がぺちっと手を合わせてまとめた。「この場の誰が欠けても、ここまで来られなかったと思うわ。折原くんは皆に感謝ね」
 折原は今一度、全員の顔を順に見た。君ヶ園、アベリア、コネリ、品村、そして由紀島──。それぞれとの脱出の記憶が脳裏に蘇る。時には味方として、時には敵として、心に抱えているものを折原に打ち明けながら、共に奮闘した仲である。そんな彼女たちがここへ集結し、不可能かと思われた宇宙船からの脱出に一筋の光を垂らした。
「──ありがとうございます。皆さん、本当に凄いです」
 賞賛の気持ちを込めて彼は言った。
 だが、すぐに目を伏せた。その表情が罪悪感に曇る。
「しかし──」
「もう、脱出する必要も動機も無いよな」
 綾子が折原の顔を覗き込む。彼は顔を逸らすも、否定しなかった。
「蜜月を味わっていたというのに、まったく君たちは……。もう振られたんだから、早く帰ってくれよ」
「……というかあんた、誰デビ?」
 君ヶ園が眉をひそめて言った。
 綾子は学生帽をひょいと掲げて銀髪を現しながら、マントをはためかせ礼をした。
「私は『縁結びの神様』さ。綾子って呼んでくれ」
「神様……!? さ、さすがにそれは無いっしょ」
「品村ちゃん、写真写真写真!」
「ひぇぇ……っ。ば、罰が当たるんじゃ……!」
 由紀島に急かされた品村が、震える手でパシャリと撮影した。綾子は足を伸ばしてポーズを決めていた。
「おいメイド! 神ということは……あの者は、王女である私よりも偉いのか?」
「お嬢様、失礼ですが……折原様の隣に誰かいらっしゃるのですか? 私の視覚センサーには何も映っていないのですが……」
 コネリの顔に恐怖の色が浮かんだ。
「──お前が神様かどうかなんてどうでもいい」アベリアが声を上げた。「ウチの秘密結社には、そういうことを自称する阿呆が沢山いる。……それより、脱出の必要も動機も無いとはどういうことだ」
「想い人が見つかったのさ。そして、その正体は──彼の従姉だった。儀式によって既に他の男と運命が結ばれており、折原くんの恋心は決して成就することはないと判明した」
 品村が驚愕で目を見開いた。
「……そ、そうなんですか……?」
 恐る恐る折原に質問する。否定してくれ、と懇願するような目つきだった。しかし彼は床に目をやったまま頷いた。
 一同は言葉を失った。駆けつけた全員が、折原の想い人に対する熱意に一度は触れている。彼がどれだけ気を沈ませているのか想像に難くなかった。
 折原は申し訳なさから彼女たちを直視出来なかった。この宇宙船に辿り着くまでどれだけの思考や行動を重ねたのか、今さっき聞いたばかりだ。それぞれの持つ情報やアイデアを繋ぎ合わせることで、奇跡的に来られたというのに……。当の自分がすっかりその気を無くしていた。彼女たちの思いを無碍にしてしまった。
 宇宙船の通路は水を打ったようになった。重たい雰囲気の中、ただ一人綾子だけが飄々とした態度で体を揺らしている。
「だから折原はね、もう私とキスすることにしたんだよね? それで神の眷属になって、もうなにも知らなくていい世界で暮らすのさ。それが一番いいって気がついたんだ。だよね?」
「……ごめん、品村さん。ずっと手伝ってもらったのに」
「いや、私は……。せ、先輩を監禁するチャンスを狙っていただけで……」
「でも最後まで丁寧に調べてくれた。この数年間、本当にありがとうございました」
 品村の唇がわなわなと震えだした。
「……なんで、そんなお別れみたいこと言うんですか……? わ、私は、脱出をする先輩が好きです。何度も脱出をする先輩が格好いいんです。それを教えてくれたのは、先輩自身じゃないですか! こ、これからも……そうして下さいよ!」
「脱出なんて最初から意味は無かったんです。あんなに大変な思いをする必要なんて無かったんです。……全部──無駄だった」
「…………無駄?」
 と、君ヶ園が一歩、折原に近づいた。
「いまあんた、無駄って言った?」
 怒気のはらんだ声に怯んで、折原は口をつぐんだ。だがすぐに、あなたに何が分かるんだ、と拗ねるような気持ちが湧き上がった。
「……だって、そうじゃないですか。結局叶わない願いのために、知りたくもない真相を求めていたんですよ。僕は……何のために頑張って来たんですか。大変な思いをしてきたのは、一体何だったんですか」
 吐露するほどに、感情が昂っていく。言葉にするほど、自分自身の怒りや失望がくっきりと浮かび上がってくる。
「僕だって、絶対に成就するなんて思ってはいませんでしたよ。想い人を見つけさえすれば絶対に結ばれるとか、そんなことはさすがに思っていませんでした。でも──従姉だったんです。分かりますか? 親戚なんですよ! その人は、僕に好かれていると分かった途端に引っ越した。その後正体を明かすこともなかった。……僕のことが気持ち悪かったからです。僕はずっと、憧れの人から気持ち悪いと思われていた! そんなことを知るために脱出を繰り返していたなんて……無駄以外の何物でも無いじゃないか……!」
「じゃあ──あたしらは何でここに来たと思ってんの!?」
 君ヶ園の大声が通路に響いた。折原がはっと顔を上げる。
 ようやく二人の目が合った。
 彼女は肩を怒らせながらも、その眼はどこか泣き出しそうだった。折原の発言に傷ついて、その悲しみを訴えていた。
「普通に考えてさぁ、こんな宇宙船までわざわざ迎えに来るわけ無いでしょ!? 危なすぎるから!」
「その通りね」
「由紀島はちょっと黙ってて!」と、君ヶ園が唯一の例外を黙らせる。「でも、ここにいる皆、あんたのためなら迎えに行ってもいいって思った。危険を冒してもいいって思った。……由紀島は別に説得なんてしなかった。折原がピンチだって言ったら、誰もがすぐに行動し始めてた。──何でだと思う!?」
「……っ」
 折原は彼女の勢いに圧倒され、何も言えないまま首を振った。
 君ヶ園は舌打ちをし、わずかに頬を赤く染めながら、更に声を張り上げた。
「──あんたに世話になったからよ! あたしはね、あんたに言われて……自分がなんで窮屈な思いをしてるのか気がつけた。ママとパパの問題から目を背けるんじゃなく、ちゃんと向き合おうって思った。本当はそうしたかったんだと分かった。……チビネコはどうなの!?」
「チビネコって言うなッ!」がうっ、とコネリが吠える。そして折原へ向き直り、優しい顔をした。「──オリハラが来てくれなければ、我は今でも宇宙船で眠ったままかもしれない。あるいは母星から迎えが来て、そのまま連れ帰られていたかもしれない。だけど折原が──海を見せてくれた。本当に世界は繋がっているのだと教えてくれた。……その恩を返すためなら、我はなんでもしてやるぞ」
 彼女はにっこりと笑い、威厳たっぷりに胸を張った。
「──ふふふふふふ」とアベリアが笑い声を出した。「折原。お前は思った以上に女たらしのようだな。私も感謝しているぞ。お前のおかげで、サニィとは上手くやれている」
 彼女は右手を上げて、人差し指と中指をくいっと曲げた。あのとき折原が教えた感謝のジェスチャーだった。
「あ、あのっ、私もです!」品村が一生懸命に声を出した。「せ、先輩は……私を外に連れ出してくれました。 あんなことしたのに、それでも私の手を引いて……。だ、だから私、今中学に通えてるんです。先輩のおかげです!」
 一気に言い切って、品村がはぁはぁと息を切らす。そしてちらっと隣を見た。
「ゆ、由紀島さんも、なにか言いますか……?」
「折原くん。あなたといるとドーパミンが溢れまくって助かるわ。ありがとう」
「一人だけ私利私欲だぁ……。あの、先輩。憧れの人に気持ち悪いと思われていたっていうのは……本人に直接訊いたんですか?」
「え? い、いえ……。別に……」
「じゃあ……先輩の憶測なんですよね?」
「しかし、そうとしか考えられません! でなきゃ、あのタイミングで引っ越したことも、今日まで正体を教えてくれなかったことも、辻褄が合わない──」
「先輩はこたえに捕まっています!」
 品村から思わぬ喝が飛び、折原は二の句が継げずにたじろいだ。
 それは、あの監禁の件で折原が発した言葉だった。品村が中学校に通うなか、本当はこの人に嫌われてるんじゃないか、実は嫌がられているんじゃないか、なんてネガティブな考えに取り憑かれたとき──脳裏によぎっては彼女を助けていた。
 それを、今度は本人に返したのだ。
「ひ、人の気持ちなんて、そう簡単に分かりません! ヒントを集めてなにかを導くのは危ないって、先輩が言ったんですよ!」
「……言ったかしら」
「いや、言っては無いかもしれないですけど、でもなんか、そういう感じの雰囲気でした! じゃ、邪魔しないで下さい!」
 頬を膨らませる品村を見て、由紀島が楽しそうに肩を揺らした。
「先輩は、従姉さんの真意を確かめに行くべきです。本当に気持ち悪いと思われていたのか。本当に、先輩の恋路は悲劇でしかないのか。それはまだ確定してません!」品村は大きく息を吸い込んで、一世一代といった勢いで声を上げた。「だから、私たちとここを出て、ちゃんと知りましょう!」
 折原は愕然としていた。冷や水を連続で浴びせられ、やっと酔いから覚めたような気分だった。

 ──あんたに世話になったからよ。

 君ヶ園の言葉が頭のなかでリフレインする。
 彼女たちが宇宙船に現れて……どうやって来たのかという方法ばかり気にしていた。
 でも重要なのはそこじゃなかった。
 何故、来たのか。
 どうして危険を承知で来てくれたのか。
 自分のために、宇宙まで。
 その理由こそが重要だった。
 それは──何度も脱出を繰り返してきたから。それによって、彼女たちと関わって来たから。彼女たちに、なにか少しでも影響を与えることができたから。

 折原は気がついた。
 自分は、いつの間にか孤独ではなかった。

「……でも、怖い」折原は両手を震わせながら呟いた。「確かめに行って……本当に気持ち悪いと思われていたら? やっぱり知らなきゃ良かったって思ったら? また、こんな絶望を味わうのは嫌だ……」
「でも、知らなくちゃ──あんたは自由になれない。本当に、自由になれない。……でしょ?」
 折原は虚を衝かれた。そして、やられた、とばかりに小さく笑った。最早彼の言い分は無い。ここでうじうじしている理由は、すべて喝破され消え去った。
 君ヶ園が手を差し伸べた。
「さぁ、来て。ここから脱出するよ。無駄だったなんて、二度と言わせないんだから」

 折原が彼女の手を掴むや否や、一同は踵を返して走り出した。
 目的は一直線に視線の先──。舷側の長い通路の突き当りにある空っぽの部屋である。折原はそこで雨野円の正体を思い出し、そのままファイルやリュックを放り出していた。故に、ワームホールと化した魔法陣はそこにあった。
 開いた扉の向こう側から、眩い光が漏れている。近づくにつれ、かすかな土の匂いが折原の鼻腔に舞い込んだ。体育館裏と空間が接続されている証左であった。
「──あでっ!?」
 先頭で由紀島がすっ転んだ。彼女のドジに、アベリアは眉一つ動かさず身体を持ち上げて起こしてやる。
 コネリはいつの間にか四つん這いになって走っていた。すぐに皆を抜いて先頭へと躍り出る。反対に品村は疲れを見せ始め、段々と減速していた。
「ははは。帰っちゃ駄目だよ、折原くん。まだ私とキスしてないだろ」
 綾子の笑い声に、折原が振り向いた。
 彼女は左手を窓に向けて、なにかを掴むような仕草をした。その指先から──赤い糸のようなものが伸びて宇宙空間へと走るのを、彼は見た。
「運命を手招き──偶然を重ね合わせ──縁を結ぶ。辺鄙な宇宙空間なら、他の神様に気を使わなくていいからさ。こんなこともできるんだ──よっと!!」
 綾子が豪速球でも投げるように左腕を思い切り振り下ろした。
 瞬間。
 黒い岩石の塊が──引き寄せられるように宇宙船へと衝突した。
 船体が激しく揺れ、綾子以外の全員が床へ膝や尻をついた。品村やコネリの高い悲鳴が響く。折原はよろけた勢いで君ヶ園と繋いだ手を離してしまい、窓側の壁へと半身を強く打ち付けた。
 けたたましいサイレンが船内に鳴り始めた。合成音声が異星の言葉でなにかを警告している。そして、お誂向きにも通路が赤いランプの明滅に染まった。
 折原は痛む身体を起こしながら、愕然とした目で綾子を見た。
 これが、縁結びの力……!
 視界の端で──めきめきと──ハッチが剥がれていくのが視えた。岩石は、最もぶつかってはならない箇所を狙ったのだ。この宇宙船はそもそも壊れていたのだから、こんなこともあるだろう。なんて、折原は頭の片隅で納得した。
 納得した瞬間、ぶわり、と総毛立った。
「どこかに掴まれーーーーーッ!!」
 彼が叫ぶと共に、ばごんっ、とハッチはひしゃげて宇宙へ旅立った。真空世界と隔てるものが無くなり、船内の空気がとてつもない勢いで吸い出されていく。
 猛烈な暴風が船内を駆け抜ける。まるで、いきなり台風の最中へ放り込まれたかのようだった。
「きゃあああああああああっ!?」
 誰の悲鳴かも分からぬ甲高い声が聞こえた。折原は窪んだ窓枠へ両手をかけてなんとか踏みとどまりながら、皆の無事を確認した。分厚い風が顔面を打ち、目を開くのもやっとである。
 君ヶ園は反対側の壁で、柱の出っ張りのようなところへ手をかけていた。今にも足が浮き上がりそうなのを、腰を落として耐えている。
 品村は折原の少し前方で、床に転がってしまっていた。だが彼女の左手を、アベリアがどうにか捕らえていた。彼女も折原と同じく、片手で窓枠を掴んでいた。
 コネリはゴールとなる部屋の扉に両手を──前脚をかけていた。そして服の下から触手も出して、二本は同じく扉へ、もう二本はメイドキューブを掴んでいた。
 扉の反対には由紀島が掴まっている。全員が苦悶の表情を浮かべて吹き飛ばされないよう必死に耐えているなか、彼女だけは大はしゃぎで笑っていた。
「これこれこれこれこれ~~~~~!」
「なにを笑っておるのだ、この地球人はぁ! と、飛ばされる……ッ!」
「ひぇぇぇぇ……! は、離さないで! 離さないで下さいっ! あの私、お金ならありますからぁ……!」
「──ピンチ、だな」
「マジで……っ、やばいデビ……!」
暴風域と化した通路で、各々が吸い込まれていかないように踏ん張っている。その場に留まるのが精一杯であり、一歩たりとも進むことは出来ない。
 空気の濁流は、ワームホールの眩い光の向こうから来ていた。草や土、またはコンクリ片などが混じって、ぱちぱちと折原の頬を叩いている。あの先は体育館裏のため、地球の大気が絶えず流れ込んで来ているのだ。そうでなければ、今頃船内の気圧は一気に下がり、全員気絶していただろう。
「おいで、折原」
 綾子が両手を広げて、彼を待ち構えていた。学帽は手に持ち、マントは激しくはためいている。しかし、そんな突風に晒されながらも、彼女は通路の真ん中で仁王立ちしていた。
「このままでは全滅するぞ? さぁ、私の元に来い! 私に身を委ねよ!」
 言いながら、一歩、また一歩、と近づいてくる。このカオスな状況に似つかわしくない、悠然たる態度であった。折原は畏怖を覚え、彼女が〝神様〟であることを再認識した。
「外へ出て──また同じ絶望を味わうつもりか? また怖い世界で怯えて生きるのか?」
「き、聞いちゃ駄目です!」と品村が叫んだ。「絶対にここを出て、本当のことを聞きに行くんです……っ!」
 折原は歯を食いしばりながら、必死に頭を回していた。少しでも油断すると、風は身体の内側へと舞い込んできて、巨大な手のように彼をすくい上げようとするのだった。指先へ、二の腕へ、懸命に力を込め続ける。
 時間は無い。すぐにでも誰かに限界が来て、宇宙へ放り出されてしまうかもしれない。そうなる前になにか思いつくか、あるいは綾子へ降伏し皆を助けてもらわねばならない。
 ──メイドキューブのハックを使えば、ハッチを閉められるだろうか? いや、ハッチは剥がれたのだ。そこを閉じることは物理的にできない。ワームホールの向こうから強靭な紐を垂らし、それで引き上げてもらうのは? いや、向こう側に協力者はもういない。それに、強靭な紐なんてそう都合よくは見つからない。では、ワームホールの先を切り替えてサニィを召喚し、あの巨体でハッチを塞ぐのは? できそうだが、アベリアが魔法陣へ辿り着かなければならないだろう。片手で品村を掴んでいる今、それは難しそうだった。
 ──駄目だ、思いつかない。
 自分の指も、汗で段々とズレてきた。他の皆も、もう無理だろう。
 ……皆がここに来てくれて、自分は孤独じゃないと思えた。そんな実感は初めてだった。
 なら、その記憶で充分かもしれない。自分はなにもない宇宙でも、やっていけるかもしれない。
 そもそも、自分が皆を巻き込んでしまったのだ。自分と関わらなければ、こんな危険な目に遭うこともなかった。
 自分一人の犠牲で済むなら、もう、それで──。
「折原!」
 諦念に染まりかけた彼の思考を、君ヶ園の声が割った。
 彼女は強風に顔をしかめながらも、折原を真っ直ぐに見ていた。
「あたし──ちゃんと喋った! ちゃんと訊いた! ……だから……っ!」
 折原は一瞬の後、彼女の意図を察した。
 危険を承知で、一か八か壁を蹴り上げる。そして君ヶ園の元へ──飛び移った。
 彼女を両腕で強く抱き締めた。
「うぐ……っ!!」
 折原のぶんの体重が加わり、君ヶ園は苦しげな声を漏らした。
「あ、あたしの鞄の……」
「分かってます!」
 折原は、彼女の肩にかけられたエナメルバッグから、例の瓶を取り出した。それでなにかを巨大化させて、ハッチまでの通路を塞ぐ。それが君ヶ園のアイデアだった。しかし一人では取り出すことができないので、折原へ合図したのだ。
きゅぽん、と蓋を開けて、折原は周囲へ目線を走らせる。
 ──なにを巨大化させればいい?
 液体の残量から、巨大化は一度しかできないだろう。ならば、確実に通路を防げるようなものでないと駄目だ。通路のかたちに収まって、ある程度の重さや密度のあるもの。それはどこだ。どこにある。折原は血眼で探した。しかし通路に物は少なく、あっても既に宇宙の彼方へ消えている。ならば、誰かの持ち物か? そんな都合のいいものを、誰かが所持しているのだろうか。例えばこのエナメルバッグはどうだろう? かたちは申し分ないが、密度が心許ない。すぐにべこっと凹んでしまいそうだ。じゃあ、スマホはどうだろう。薄いかもしれないが、他に思いつかないのなら仕方ない。
 と、折原が自身のポケットへ手を伸ばしたとき。
「──オリハラ!」
 コネリが叫んだ。そして彼と目を合わせると、素早く頷いてから、パッとあるものを手離した。
 二本の触手が──メイドキューブを手離した。
「……!」
 すぐさま空気に流されて、ハッチの方へ吸い込まれていく。銀色で、立方体で、密度のあるマシーン。通路を塞ぐのにこれ以上ないほどの逸材が、折原に迫ってくる。
 彼は瓶を投げつけた。
 銀色のボディに当たって砕け散り、中身が飛散する。全身に御伽噺の液体を被ったメイドキューブは、たちまちその身を膨らませ、「──やれやれ」綾子の眼前で、通路いっぱいに拡がった。
 みしり、と天井と床が軋む。巨大なメイドキューブは通路へめり込んで、空間を二分することに成功した。
 暴風が止んだ。再び静寂が訪れる。各々が胸を撫で下ろし、思わず床へとへたり込んだ。
 折原はメイドキューブを見上げて、「……ありがとうございます。助かりました」と礼を言った。しかし何も反応がない。
「メモリチップを抜いたのだ」と、コネリが触手を掲げた。その先端に、小さなチップがくっついている。「こいつの人格や記憶はここにある。近々スマホに移そうと思っていたところでな! ちょうどよかったぞ、うむ」
 コネリの声はどこか空元気であった。折原が罪悪感を抱かぬように振る舞っているのだ。だから彼は礼を述べるだけで、今はそれ以上訊かなかった。
「……皆さん、綾子が来ます! 早く行きましょう!」
 折原の声にハッとして、皆が立ち上がる。
まずはコネリが、銀の壁と化した従者を振り返ってちょっと眺めてから、扉の向こう──白い光へと飛び込んだ。
次に由紀島が、「あー、満足だわ」とほくほく顔で歩いていった。
品村は腰を抜かして、半べそをかいていた。アベリアの助けを借りながら足を動かしている。「ありがとうございます……ありがとうございます……。命の恩人です……。あの、いくら払えばいいですかぁ……?」「──百万だ」「ひえぇぇ……!」「はははは……。冗談だ」二人も光のなかへ消えていった。
 君ヶ園は乱れきった黒髪を気にしながら、折原と共に光へ向かった。悪魔の角は流石に飛ばされてしまったのか、消えている。
抱き締められたせいか、二人は少し気まずかった。
「……なんとかなったね」
「えぇ、間一髪でした」
「果たしてそうかな?」
 その声に二人は戦慄した。
振り返ると、さも当然のように綾子が立っていた。
「なぁ、折原。そのまま逃げても、儀式が消えるわけじゃないぜ。これからも、何度も、続いていくんだ。それでもいいのか?」
「……はい」折原は頷いた。「望むところです」
「そうかい。カッコいいね!」綾子は口角を上げ、一歩近づいた。「じゃあ次は、どうやって私から逃げてくれるのかな──」
 ──と。
 ばこんっ。
「あ痛っ!?」
 綾子の後頭部が、何者かによって叩かれた。
「もう、なにするんだよ──」
 彼女が振り返る。頭上で、空間の一部が三角形に切り取られ、暗黒が覗いていた。そこから一本の手が伸びている。
紫色の広袖で、ほっそりとした女性らしい手であった。古びた和綴じの本を丸めて、メガホンのようにしている。それで綾子を叩いたのだ。
「あー……。織姫ちゃんかー……」
 綾子が気まずそうな声を出す。
「そっか、もう休憩時間終わりかー……」
「織姫って……あの七夕伝説の?」
 君ヶ園が折原に耳打ちをした。彼は「……さぁ?」と首を捻った。
 綾子は織姫の手から本を受け取った。どうやら仕事道具らしい。
彼女は残念そうにがっくりと肩を落とした。折原をさんざん苛めた軽い調子は消えており、日曜日を終えようとするサラリーマンの如き悲哀に満ちていた。
「次の休憩はいつかなぁー……」
 彼女の多忙アピールは本当だったのだ。折原は少しだけ同情した。
 綾子はどんよりした雰囲気のまま、人差し指で空間に大きく三角形を書いた。暗黒に切り取られた向こう側へ、ひょいと渡る。
 最後に折原の方へ顔を向け、
「じゃあ──。また遊ぼうね」
 軽く手を振ってから、消えた。
 残された折原と君ヶ園は顔を見合わせ、小さく溜息をついてから、光のなかへと帰っていった。

「脱出成功です! おめでとうございますー!」
 伊深がピッと壁のタイマーを止める。やや大袈裟な拍手で扉から出てきた折原を称えた。
 彼女は落ち着いた黒のセミロングで、店名の描かれたスタッフTシャツに身を包んでいた。
「記録は六分三十一秒! 十分以上残しての脱出ということで、非常に早かったですね。……なんか調子良かった?」
 客を相手にする敬語から、慣れ親しんだ従弟へのタメ口へ滑らかに移る。折原は態度を崩した。「まぁね」
 ここは、とあるリアル謎解きゲーム店。雑居ビルを丸々使って、十五分から一時間くらいのテーマをいくつか用意した中規模の店だった。伊深はここでスタッフとして働いており、折原はその伝手で来店するようになった。脱出の特訓も兼ねて、よくこうして遊びに来ている。
 夏休みの只中ということもあり、店は混んでいた。受付の方からは絶えず人の声がする。折原は予約もせずふらりと来てしまったので、開いているのはこの一番短いテーマだけだった。難易度も易しく、彼には少々物足りなかった。
「是非、パネルで記念撮影していってください」
 伊深に勧められ、折原は『脱出成功!』と描かれたパネルを持った。パシャ、とスマホを渡してないのにすぐ撮影された。彼女が自分のスマホで撮ったのだ。
「あとで送っとくねー」
 スタッフと従姉のペルソナを忙しく行ったり来たりする彼女に、折原は相変わらずだなと苦笑した。
 ゲームの行われる部屋とロビーとの間に、玄関のような小さな空間がある。客はそこに荷物を置いたり、事前のルール説明を受けたりする。またゲームの解説もその空間で行うことで、ロビーにいる客へのネタバレ配慮になっていた。
 この場で伊深と二人切りになるのは、単に偶然であった。だが、もしかしたら、とも思っていた。彼女に例の質問をする勇気がほんの少し足りなかった折原は、その偶然に──あるいは運命に委ねてみたのだ。
 運命は彼の背中を押した。
「来てくれるの久しぶりじゃん? 高校生になったら、やっぱ忙しいの?」
「そうだね。というより、なんか儀式が頻繁に起こっちゃって」
「うわー災難だ。そう言えば、部活は何入ったの?」
「いや、何も……」
「えー入りなよ」
 などと喋りながら、伊深は棚からラッピングされたファイルを取り出した。
「これ、持ち帰り用の謎つきクリアファイルです。千二百円となります。よろしければどうでしょうか?」
「あー……。いや今回は要らないかな……」
「そんなぁ。今回は私も作るの協力したんだよ。買ってよー」
「分かった、買うよ」
「よっしゃあ! では受付の方でお買い求め下さい」
 伊深がガッツポーズをする。折原は笑いながら、その手に光るものに目が留まった。薬指に、やはり結婚指輪が嵌められている。
 まだ傷心から回復し切っていない折原は、気分が下の方へ引っ張られていくのを感じた。途端に笑みがぎこちなくなってしまう。
 彼女が何かを察する前に、折原は切り出した。
「……伊深ちゃん」
「ん? なに?」
「雨野円って、伊深ちゃんなんだね?」
 ロビーに続くドアを開けようとしていた彼女が、ぴしりと硬直した。ばつが悪そうに目線を折原から逸らしていく。
「──なんで?」
「子役やってたの知っちゃって。そこから……」
 折原は詳細を省き、まるで偶然知ったかのように言った。
「なるほどねぇ……」彼女は葛藤するようにしばし黙ってから、「……隠し通すなんてできないのかぁ」と脱力した。
 そしてすぐ、折原に勢いよく頭を下げた。
「──ごめんなさいっ!」
 彼は面食らい、慌てて両手を振った。
「え!? い、いや。大丈夫。謝らなくていいよ」
「ううん。ずっと騙してたわけだから……本当にごめん」伊深は唇を噛み、後悔を滲ませていた。「こんな、バレてから謝るなんて、凄くずるいんだけど……」
 折原は彼女に対して怒りや失望を感じていなかった。あくまで運命に落胆していただけだ。
 なので困ってしまい、「顔を起こして」と慌てて言った。別に謝罪が欲しいわけではない。彼女の本意を知りたいのだ。
「僕が雨野円を探していることは知ってた?」
「めっちゃ最近知った。てっきり、もう気にしてないものだとばかり……」
「僕が従弟だってことは、最初から分かってた?」
「えーと……」伊深が頭を傾けて記憶を探り出す。「……確か、穴に落ちたのを助けたのが最初だったよね? 上から見たときは暗くて分からなかったけど、ロープで引っ張り上げたときにすぐ気がついたかな」
「どうしてすぐに折原伊深だって名乗ってくれなかったの? その後も、偽名まで使って……」
「本当にごめんなさい……」
 再び頭を下げた彼女を、折原が止める。
「いや全然、怒ってるとかではないから!」
「怒っていいんだよ……こんな女には……」
 伊深は自嘲気味に笑った。
 そして、ちらっと時計を見た。彼女は今仕事中であり、時間が来たら次の客を案内しなくてはならない。だが折原がかなり早く脱出したので、もう十分だけ話せそうだった。
「──あの公園にはサボりで来てた。レッスンとか脚本覚えるのとかが凄い嫌で、我慢できなくなったときにね……。大事なサボり場だから、バレたくなくて噓ついてた。私がここにいるの内緒ねって言っても、子供だから口に戸は立てられないなって思って」
 家が近いので、折原家は親戚同士で会う機会が多かった。そのとき折原がぽろっと言ってしまうことで自分の家族に気がつかれるのを恐れたのだ。
「でもそんなの、私の都合じゃん? だから悪いなって思えてきて、それで、一度は打ち明けようと思った」
「僕の部屋に来たときだね?」
「そう。そしたら……儀式が発生した。親戚同士だからあり得ないと思ってたけど、神様って価値観古いのかな? 私たちは二人で協力して、なんとか家の外まで出た」
「そして、僕が伊深ちゃんを好きだってことに……気がついた」
「……うん」
 二人は俯いた。気まずい沈黙が流れる。
 しかし時間が無いことを思い出し、折原はすぐ口を開いた。
「なんで、そこで、……正体を明かさずにいなくなったの?」
「──つらい思いをさせるんじゃないかなって思った」伊深は自分自身に向けて溜息をついた。「従姉だから付き合えないし、そもそも私には好きな人がいたし……。その事実で、傷つけてしまうんじゃないかって思った。……私がずっと騙してたせいなのにね」
 折原は首を振った。相手が自分に惚れてしまう可能性なんて、普通考えないだろう。
彼女にとって、公園でサボることはきっと精神衛生上必要なことだった。それを護るために嘘をついてしまうのも、仕方のないことだ。
「このまま正体不明の女として消えたら──。この子は嫌な真相を知らずに生きていけるんじゃないかと考えた。よくある幼い失恋として……。でもまさか、その後ずっと、私のことを探してたなんて……」
 彼女の誤算はそこだった。目の前から去ってしまえば、すぐに諦めて忘れるだろうと考えていた。しかし折原は熱意を持ってしまった。そして高校生になろうとも、協力者まで得て思い出の人を探し続けた。
 ──知らない方が幸せだから、正体を明かさなかった。
 その考え方は、折原にとって覚えのあるものだった。あの暗い宇宙で、まさにそのショックを味わったのだから。
「もう一度謝らせて。……ごめんなさい」伊深がより深く頭を下げた。話しながら、より罪悪感に苛まれたのかもしれない。「色々言ったけど、結局騙してたとバレるのが怖かっただけかもしれない……。私に向き合う勇気が無かったのが悪い。本当にこれで良かったのかなって、とずっともやもやしてた」
「──正直に話してくれてありがとう。そんなに謝らないでよ。ホントに、怒ったりはしてないから」
 折原は息をついた。いつの間にか肩に力が入っていたのを、脱力させる。
「……いなくなった理由が分かって良かった」彼は場が沈まぬよう軽い調子で言った。「実は、もっとひどいことを想像してたんだ。従弟に好かれたのが気持ち悪くて、どこかに行ったんじゃないかって」
「気持ち悪いなんて、全然違う!」
 伊深が顔を上げ、強い口調でそう言った。
 折原が驚いて目を点にする。
「私──君にすごく勇気づけられたんだよ。喋るのが苦手でも、手の合図を使ってどうにか友達を作ろうとしてたり。外へ出るのが怖いって話してたのに、公園まで頑張って来てくれたり。部屋に閉じ込められたときも、諦めずに脱出しようと頑張ってた。そんな姿を見て──励まされた。だから私も、親に正直に話せた」
 折原は彼女の勢いにぽかんとしながらも、「……なにを?」と訊いた。
「──子役を辞めたいってことを。元々、ほとんど無理に入れられたようなものでさ。でも時間もお金もかけてもらってるから今さら嫌だととか言えないし、だけどレッスンは苦痛だから公園に逃げちゃうし、そんなに仕事があるわけでもなく……。……とにかく限界だった。もっと別の場所へ行きたかった。そのための勇気を、君から貰った」
 溢れだした言葉は、伊深が溜め込んでいたものだった。
「ずっとお礼がしたかった。でも正体は明かせないから言えなくてさ。……本当にありがとう」
 折原は呆然としていた。気持ち悪いと言われる覚悟で質問をしたのに、まさか感謝をされるとは思わなかった。
 彼のなかで、雨野円という人間は神格化していた。だから、そんな葛藤や決断を抱えていたとは想像もしていなかった。
 彼女に自分が救われたように。
 自分も彼女を救っていた。
 彼は心のなかで品村に礼を言った。今度、直接伝えようとも思った。こたえに捕まったままだったら、もう何も知りたくないとただ蹲っていたら、こんな素敵なこと知る由もなかっただろう。
 折原は失恋の寂しさと共に、胸のなかが満たされていくのを感じた。悲しくて、嬉しい。そんな相反する気持ちに翻弄された。
 ピピッ、とタイマーが鳴った。客が入れ替わる時間が来たのだ。
「──以上となります。お忘れ物ございませんでしょうか?」
 伊深が仕事モードに切り替わった。顔つきも元に戻っている。たった今起こったドラマを脇に置いて、今日この後もスタッフとして働くのだ。折原はそこに大人を感じた。
 トートバッグを手にして、彼は頷く。もう訊きたいことは何も無かった。
「では、お疲れ様でした! 持ち帰り謎は是非ともレジでお求めください~」
「──来て良かったです」
 彼の言葉に、伊深は片手を上げて人差し指と中指をくいっと倒した。そして、ガチャリ、とドアを開いた。

 折原は儀式の無い平穏な日々をしばらく過ごした。
 夏休みなので高校にほとんど行かなかったから、というのもあるだろうが、それにしても起こらなかった。
 綾子が自粛しているのではないか。何となく、折原はそう思った。特に根拠は無かったものの、なんだか腑に落ちた。
 彼は自宅で読書をしたり映画を見たりして過ごした。それ以外は床に頬を付けて寝そべるか、単発バイトで金を稼いだ。
 とても退屈な日々だった。
 なので、その誘いにはすぐに乗った。
『由紀島さんから伝言です! 学校で教室を借りたので今回の振り返りをしないか、だそうです!』

 翌週の火曜日。照り付ける灼熱の太陽光に命の危機を覚えたので、折原は日傘をさして高校へ向かった。
 野球部の掛け声や吹奏楽部の合奏を聞きながら、正門をくぐり、校内へと進む。廊下の蒸し暑さに汗がだらだらと流れた。
 向かう途中で由紀島と品村のペアに合流した。二人も熱にやられてぐでっとしていた。
 由紀島はこの暑さのなかでもマスクを忘れていなかった。品村は由紀島の体操服を借りて着ていた。この学校の生徒ではないのだが、それで誤魔化しているのだ。通りすがった教員は何も気にしていなかった。
「返すわ」
 由紀島が折原に『脱出記録』と『調査記録』のファイルを渡した。あの宇宙での一件を品村が仔細に書き加えていた。また雨野円の正体や顛末についても、折原自らが書いてまとめた。関係した人が知りたがったときに読んでもらうためだった。
 それは今や、由紀島お気に入りの読み物となっていた。
「早いですね。昨日渡したばかりなのに。一晩で読んだのですか?」
「えぇ。また一通り全部ね。相変わらず面白いわ」
「い、一気読みするには、情報量多くて混乱しませんか……?」
「そうね。でも、カオスなのがいいんじゃない。というか、私はもうこれくらいじゃないと……! あぁ、もっとカオスを……!」
 由紀島の眼が怪しく光り、折原と品村は頬を引き攣らせた。
 そして教室へと辿り着いた。二階にある国語科準備室だった。扉を開けると、古紙とコーヒーの匂いがした。狭い部屋の四方に置かれた本棚には、授業で用いる資料や辞典などがぎゅうぎゅうに詰まっている。
 クーラーがよく効いており、涼しげな風を受けて折原は思わず目を瞑った。品村も「ふへぇ~」と情けない声を漏らして猫背を悪化させている。
 部屋には先客がいた。中央に置かれた折り畳みテーブルを囲んで、君ヶ園、アベリア、コネリが座っていた。
「こらっ! このアイスはあたしのだから! チビネコはもう食べたっしょ!?」
「いいではないか、一口くらい! 我はその、チョコ味とやらが気になるのだ!」
「だめだめだめ! あんたネコっぽいし、チョコ食べるの禁止!」
「何故だ何故だ! 王女が寄越せと言っているんだぞ!」
 君ヶ園から片手に持った棒アイスを奪おうと、コネリが飛びついていた。二人は騒ぎながら取っ組み合いをしている。
 すると、机の上に置かれたスマホがパッと明るくなって喋った。
「──お嬢様がうるさくして申し訳ありません。このようにご友人と集まることが珍しく、はしゃいでいるのです」
 スマホカバーにはホワイトブリムのような装飾があった。メモリチップは無事移行できたのだろう。
「ばっ、ばか! 言うでない! ばかメイド!」
 コネリが顔を赤くして、自分の椅子に戻った。
「──問題ない」とアベリア。彼女は腕を組んで、瞑想するようにじっと目を瞑っていた。「我の秘密結社も、幹部会議の度にこんな感じだ」
 由紀島はニヤニヤしながらアイスを頬張った。
「へぇ~、可愛いとこあんじゃん。帰りに別のアイス買ってあげる」
「ふ、不敬な者ども……。……でもアイスは献上せよ……」
「よしよし、集まってるわね」
 由紀島が満足そうに頷いて、教室の奥へと進んでいく。
「え……。由紀島さんが集めたのですか?」
「そうよ」
 折原は怪訝な目つきでその顔ぶれを見回した。よくも、これだけ世界観の違う面子を今日ここに揃えたものだ。アベリアへの連絡先も、宇宙から返ってきたあとにちゃっかり訊いていたのだろう。
「ひぇぇぇ……」
 品村は恐縮しながら、テーブルの隅に椅子を持ってきて座った。折原も、いわゆる誕生日席と言われる箇所で腰を落ち着けた。
「──さて、皆さん。今日集まって頂いたのは、皆さんからアイデアを募集したいからです」
 由紀島以外の全員が首をひねった。
 彼女は臆せずに話し続ける。礼儀正しくも図々しいのが彼女だった。
「折原くんの身には、これからも儀式が起こるでしょう。脱出を繰り返せば、時折品村ちゃんのように残滓が発生してしまいます。とんでもない女の敵として生きてく羽目になるわけね」
 残滓の概念について、特に質問は挟まらなかった。事前に由紀島が色々共有していたのだろうか? と折原は疑問に思った。
「そうならないためには、二つの方法が考えられます。一つは、折原くんが誰かとくっついてしまうこと。もう一つは、この呪いを解呪すること」
「……!」
 折原は驚いた。根本を断つ、という発想が彼には無かった。あの綾子という神様には人間である限り歯が立ちそうにないし、この呪いあるいは祝福は自然現象のようなもので、どうにかできるものとは思っていなかったからだ。
 しかし由紀島は、
「儀式のルーツなどを調べていけば、もしかしたら解呪の方法が分かるかもしれません」
 恐らく好奇心に突き動かされて、そんなことを言い出した。
「ということで! 私はここに、その二つの方法を目的とした新しい部活を作ろうと思います。そこで皆さんには、部活の名前を考えて頂きたいのです!」
 しん、と教室が静まり返った。誰もついていけていないからだった。
 対照的に、由紀島はふんふんと興奮気味であった。
「……部活を作る?」
「えぇ、そうよ折原くん。儀式の条件である〈二人切り〉を極力避けるには、集団行動が基本でしょう?」
「いや、でも……。気持ちは嬉しいですけど、僕一人で調べますよ。皆さんに協力してもらうなんて悪いですし……」
 折原はなんだか嫌な予感がして、立ち上がった。
「駄目よっ!」
 しゅばっ、と由紀島が素早い動きで駆けつけてきた。
「……こんな愉しそうな機会、逃さないわ……!」
「じゃ、じゃあ由紀島さんが普通に調べたらいいんじゃないですか? 何も部活にして皆を巻き込まなくても……。それに、二つの目的って、どういうことですか? 一つ目は目的にならないですよね?」
「うふふふ!」
 由紀島がもぞもぞとマスクを動かした。良くないことを考えている証拠であるのは分かっていたが、久しく儀式も無かったためすっかりポンコツ化していた折原には看破できなかった。
「あなたのそういうところが、より部活を愉しくしてくれそうなのよ……! ──ねぇ皆さん、どうかしら?」
 由紀島が振り返って訊いた。
「……まバレーと兼部していいなら。ちょっとは顔出せるけど」と君ヶ園。
「わ、我はやるぞ! 参加させろ!」とコネリ。
「──了承だ。その代わり、学校をサニィの餌場にさせろ」とアベリア。
「ひぇぇ……。それ私、毎回忍び込んでくるんですかぁ……? 頑張りますぅ…!」と品村。
 折原は唖然とした。何故全員がOKを出したのか、まったく分からなかった。
 由紀島が得意顔を浮かべる。
「ほらね? 皆、気がついているのよ」
 折原がさらに首をひねったのを見て、由紀島はニィ……と蛇のように目を細めた。
「というわけで、さっそく部活の名前を考えましょうか! 教員を納得させられるもので無いと駄目ね! 活動内容が一瞬でわかるようなものの方が、クリーンなイメージ出るわよね……」
「いや、僕は帰りますから──」
 折原は扉の取っ手に指をかけた。
 その瞬間、由紀島が手を伸ばしてカチャリと鍵を閉めてしまった。
 また、閉じ込められた。


 第五話 なにもない世界からの脱出 終

【第五話】なにもない世界からの脱出

【第五話】なにもない世界からの脱出

  • 小説
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  • 青春
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-13

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