東山界隈 ―ビヨンドレイニー―

短歌にかんしては許可を得ました
つもりです。
美しい短歌
素敵です。
得ているつもりですが
短歌中川さん
ありがとうございます

レインブーツ

カタツムリみたいだと思った。
会社へ行っても、家へ帰っても、背中に家を背負ったまま歩いている。
重い。
殻の中には、終わった恋も、失敗した仕事も、送れなかったメッセージも詰まっている。
全部、乾かない。
六月の京都。
傘を差して鴨川を歩いていると、小学生の列が向こうからやってきた。
黄色いレインブーツ。
青いレインコート。
先生が何か言う前に、一人が水たまりへ飛び込む。
ばしゃん。
もう一人。
また一人。
笑い声が、雨より先に弾けた。
私は思わず顔をしかめる。
そんなことをしたら濡れるじゃない。
そう思った瞬間、自分がおかしくて笑った。
雨の日に。
濡れることを心配している。
子どもたちは虹を見ていない。
虹の中にいた。
跳ね上がる水しぶきは、まるで誰かが世界を祝福しているみたいだった。
祝の雨。
その言葉が、どこからともなく浮かんだ。
私はいつからだろう。
雨を避けることばかり覚えて、
雨を浴びることを忘れてしまったのは。
カタツムリみたいに全部が駄目になったと思っていた。
でも違った。
駄目になったのは私じゃない。
空を見上げなくなっただけだった。
雨は、今日も誰かを祝っている。
私の番は、まだ来ていない。
そう思っていた。
すると、頬に落ちた一粒だけが少し温かかった。
祝われる順番なんて、最初からなかったのかもしれない。雨は誰かを選ばない。
私は傘を少し閉じて、ゆっくり歩き出した。

高架下

高架下へ駆け込む。
雨脚だけが、急に速くなる。
車が頭上を走るたび、コンクリートが低く唸る。
知らない町の匂いを吸った。
濡れたアスファルト。 排気ガス。 誰かの夕飯。
雨に冷やされた鉄。
私たちは同じ柱にもたれて、何も話さない。
アイツは、ときどき私を見る。
たぶん、私がアイツのカウンターなんだろう。
私といると、少しだけ自分を疑える。
でもさ、おっぱい見るなよ。
台無しじゃん。

私のカウンターは、アイツじゃない。
私を揺らすのは、もっと遠くから来る雨だったり、知らない町の匂いだったり、 まだ出会っていない誰かだったりする。
信号が青に変わる。
雨は少しだけ弱くなった。
「行くか」
アイツが先に歩き出す。
ちょっとカッコいいのがムカつく。

私は一拍遅れて、高架下を出た。
同じ雨に濡れながら、 もう、見ている景色は違っていた。

ヘリングガーデン

「先生、雨ですよ。」

返事はない。

窓の外では、中庭のハナミズキが風に揺れている。

私は車椅子を押して、ガーデンテラスまで出た。

施設の職員は、この庭をイングリッシュガーデンと呼ぶ。

でも私の中では違う。

ヘリングガーデン。

白い花びらが風向きひとつで群れを変える。まるで銀色の魚が海の底で一斉に向きを変えるようだった。

高校二年の春。

私は先生が好きだった。

好きと言っても、触れたいとか、付き合いたいとか、そんな言葉では収まりきらない。

黒板に字を書く横顔。

チョークの粉で白くなった指。

「本は答えじゃない。人に会うための橋だ。」

そんな一言を、二十年以上忘れられなかった。

卒業式の日も、何も言えなかった。

言わなくてよかったと思っていた。

先生は先生のままでいてくれれば、それでよかったから。

「寒くないですか。」

膝掛けを少しだけ引き上げる。

先生は私を見た。

いや、私を見たのではない。

私の向こう側を見ていた。

名前も。

学校も。

黒板も。

たぶん、もうない。

それでも私は週に一度、この庭へ先生を連れてくる。

雨の匂いがすると、昔の先生が少しだけ帰ってくる気がするから。

ぽつり、と最初の雨粒が手の甲に落ちた。

先生の視線が、ゆっくり空へ向く。

そして、かすれた声がした。

「……夏、来るな。」

それだけだった。

たったそれだけ。

私は笑ってしまった。

泣きながら笑った。

あの日、授業で季節の短歌を読んでいた先生の声と、少しだけ同じ響きだったから。

ガーデンに雨待つ君の純白の裾がたなびき夏くるを知る。

誰にも見せたことのない一首を、私は心の中だけでそっと唱えた。

先生はもう意味なんてわからないだろう。

それでも構わない。

人は忘れる。

でも、誰かが覚えている限り、その人の時間は完全には終わらない。

雨脚が少しだけ強くなる。

白い花びらが風に流され、群れになって揺れた。

だから私は、大丈夫です。

さくらもよう

娘は、新しい傘を手に入れてからというもの、雨の日を待つようになった。
桜色だった。
小さな花びらが散るような模様で、店で見つけた瞬間から離そうとしなかった。
俺に似て頑固。

「新学期までしまっておこう。」
そう言っても、何度も袋から出しては開き、部屋の中でくるくる回していた。

雨の朝。
ランドセルを背負った娘は玄関を飛び出す。
傘を開いた瞬間、春が一輪咲いたようだった。

「いってきます!」
その声が角を曲がるまで見送る。
あんなに小さかったのにな。

少し前まで、私の指を握ってさ、おっかなびっくり歩いていたのに。
気づけば、雨の日の歩き方まで一人前になっている。

会社へ向かう途中、信号待ちで子どもたちの列とすれ違った。
桜色の傘が一つ。
くるり。
いや。
グルン、と一回転した。
娘だった。
友だちと笑いながら、世界に何の遠慮もなく傘を回している。
思わず笑ってしまう。
危ないぞ、と注意するべきなのかもしれない。
でも、その一回転には、今日という日を全部好きになってしまう力があった。

私と目が合った。
娘は少し照れくさそうに笑って、また友だちの方を向いて歩いていく。

友だちの前では、父親なんて背景でいい。
そのほうが格好いい年頃なのだ。
私は足を止め、背中が見えなくなるまで見送った。

じゃーね。
心の中で、一首だけ浮かぶ。

新学期 さくらもようの傘をふり 名も知らぬ子は笑みをこぼしつ

死骸譚

八戸には、私の死骸がある。
誰も通報しない。
もう四十年以上、駅前を歩いているからだ。

十七歳の私。
父に怒鳴られ、雪を蹴り、コンビニの前で煙も吸えない煙草をくわえていた私が、まだそこにいる。
新幹線で帰省すると、必ず会う。
駅のガラスに映る。

港へ向かう坂道に立っている。
横断歩道の向こうで、誰かを待っている。
誰も気づかない。
死骸は動かないものだと思っているからだ。
違う。

人間は、生きたまま死骸を残していく。
就職した日。
結婚した日。
子どもが生まれた日。
京都へ引っ越した日。
そのたびに一人ずつ死んで、置いてきた。
だから故郷は墓場によく似ている。

会いたい人より、会えない自分のほうが多い。
冬の海へ行く。
風が強い。
カモメは笑っているみたいに鳴く。
煙草に火をつける。
吸い差しで北を指してみる。
北は、もうこれ以上ないくらい北だった。
私は笑う。

「元気か。」
死骸は返事をしない。
当然だ。
返事をするのは、まだ生きている者の役目だから。
列車の発車ベルが鳴る。
振り返らない。
あの町には、私の骨も肉も埋まっていない。

埋まっているのは、捨てきれなかった季節だけだ。
新幹線がゆっくり動き出す。
ホームの向こうで、十七歳の私はポケットに手を入れたまま立っていた。
追いかけても来ない。
あいつは八戸から出られない。
私は八戸へ戻れない。
その距離だけが、生きてきた時間だった。

マントファスマ

京都では、人は歩いているのではない。
思い出されながら歩いている。
四条大橋を渡るたび、私は少しずつ人間ではなくなる。 

最初は背筋だった。
次に首が伸びた。
信号待ちで肩が軽くなり、祇園白川へ入るころには、膝の関節が一つ増えたような気がする。

カマキリとも、バッタとも違う。
祈るように前脚を畳みながら、何かに呼ばれると跳んでしまう、生き物。

カカトを見つけるためだけに進化した虫だ。
雨が柳を濡らしている。
軒先から落ちる雫が、石畳の上で静かに砕ける。
「そうやね。」
不意に声がした。
振り返る。
誰もいない。
京都では、声は人の口から出ない。
壁が覚えている。
正面橋が覚えている。

だから、忘れたつもりの囁きだけが、街角で私を待っている。
顔は思い出せない。
目も。
髪も。
笑った口元も。
なのに、その人と話していた私だけは、妙にはっきりしている。
恋をしていたのではない。
私は、あの囁き方に生かされていたのだ。
そのことに気づいた瞬間、身体がふっと軽くなった。
まただ。
肘が逆向きに折れそうになる。
胸の奥で、見えない羽が乾いた音を立てる。
カマキリバッタになる。
人間なら立ち止まる場所で、私は跳ぶ。
人間なら諦める距離を、私は飛び越える。
夕暮れの鴨川で、風が一度だけ草を揺らした。
その揺れ方が、あまりにもあの人に似ていて、私は笑ってしまった。
ああ。

シートン動物記

あの日、私はショウリョウバッタの大腿をもいで食べた。
確かに海老みたいだった。
そんなことを一生忘れない。

お父さん。
年末。
桐箱のおがくずへ指を差し込む。
白い木屑が爪のあいだからさらさら落ちる。
一尾つまみ上げる。
頭から半分に折る。
「上物だ。」
それだけ。
口の中で、夏が音を立てて砕ける。
私は父の真似をしたかった。
父みたいな人になりたかった。
だから食べた。
美味しかった。
それが一番、嫌だった。
帰り道、バッタが跳ねるたびに、太腿ばかり見ていた。
あそこだけ、食べ物だった。
それ以外は虫だった。
家に帰ると、シートン動物記が机の上にあった。
動物は美しく描かれていた。
狼王ロボ

何も食べなかった。

本の中の世界は、ずっと優しかった。
なのに私の夏は、おがくずの匂いしかしない。

乾いた匂い。
桐箱の匂い。
父の指の匂い。
セイラーピアニッシモの乾いた匂い。

あの匂いだけが、大人になっても腐らない。

腹足は足なのだろうか。
それとも、内臓が世界へ触れるために裏返ったものなのだろうか。

そんなことを考えるようになったのは、きっとあの日からだ。
父はもう覚えていないと思う。
「上物だ。」
たぶん、その一言も。
忘れた人と、忘れられなかった人。
親子って、だいたいそういうものなのかもしれない。

私はロボになりたい。
父みたいなロボになりたい。

キルクルス ブルーバード

「認識を歪ませる薬は危険です。」
YouTubeが言う。

私は片方脳頷きながらコンビニへ入る。
入口には酒。
奥にはストロング。

レジ横には糖分とカフェイン。
眠れない人にはエナジードリンク。
眠りたい人にはアルコール。
疲れた人には甘いもの。
痩せたい人にはゼロカロリー。

少しだけレギュレーションを編集してくれる。
羽ばたけない負け犬の。

「違法薬物は人生を壊します。」
その横で、缶ビールは二本買うとさ。

なんだろう、三本目がうまい。
ってバガヤロウ!

なんて親切なんだろう。
認識を歪ませるものは、特別な裏路地にはない。
ポイントカードが使える。
レシートも出る。
駐車場も広い。

二十四タイム営業。

昨日の揚げ物の世界カンが延長して。
今日は大丈夫な感じだったのに。
仕方がない。

世界は正気を売っているのではない。
自分に都合のいい現実を、一口サイズに小分けして売っている。
私は財布を閉じる。
今日は買わない。
外へ出ると雨だった。

傘を差す。
雨粒は、認識なんて歪ませなかった。
ただ、世界が最初から少し滲んでいたことを思い出させるだけだ。

ボツボツは身体感覚

マーグメル

祭りってぇのは、不思議なもんだ。
神さんを迎えるなんざ建前で、本当は人間が、人間を見失いに行く日なんじゃねぇか。
浴衣なんてもんァ着ちまえば、背筋が勝手に伸びる。
帯ァ苦しい。
下駄ァ痛ぇ。
なのに皆、妙に嬉しそうな面ァして歩いてやがる。
おかしな話だ。
「いてぇ。」
「だから言ったろ。」
「うるせぇ。」
三人で笑う。
笑った拍子に人波へ呑まれる。
四条ぁ海だ。
鴨川なんざ川だが、この日の四条は海になる。

人が寄せて、人が返す。
あっしらぁ舟でも漁師でもねぇ。
流木みてぇに、ぷかぷか流されるだけよ。
屋台の煙が鼻をくすぐる。
醤油だ。
焦げたイカだ。

甘ったるい綿飴だ。
腹ァ減ってんだか、胸が鳴ってんだかわからねぇ。
鉾が見える。
高ぇな。
何百年も、こんな騒ぎを見物してきた顔して立ってやがる。
人間なんざ、ひと夏ごとに入れ替わるってぇのによ。
祭りが済みゃ、地下へ潜る。
さっきまでの喧騒が嘘みてぇに消えちまう。
「撮るか。」
「ああ。」
改札の前で足ァ止める。
山鉾ァ写らねぇ。
八坂さんも写らねぇ。
写るのァ、浴衣を着た三人だけだ。
カシャリ。
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、
あの一枚ァ、どこの国でもねぇ場所を写しちまった。

夢ってぇほど大げさじゃねぇ。
現ァ抜かすほど若くもねぇ。
けどよ。

あの一瞬だけぁ、確かにここじゃねぇどこかへ流れ着いてた。
帰りゃまた仕事だ。
浴衣ァ畳む。
下駄の傷ァ治る。
祭りなんざ、何事もなかったように終いになる。
それでも時々、写真を見る。
「ああ、あの日ァあったな。」
それだけでさ。

ののさんとの出会いがしら

朝の京都は、夜より静かに嘘をつく。

「今日も頑張りましょう」

駅の電光掲示板より先に、その言葉が街に表示されている気がする。

私は会社へ向かう足を止めた。

行きたくない。

理由はいくらでもある。

理由なんて一つもない。

その両方が本当だった。

鴨川まで歩いた。

橋の欄干にもたれていると、後ろから声がした。

「今日は歩く速度が遅いですね」

振り向くと、ののさんだった。

白いシャツ。

紙袋。

相変わらず、昨日までこの世界にいなかったみたいな顔をしている。

「会社ですか」

「そうです」

「行きたくない?」

「ええ」

ののさんは頷いた。

慰めない。

励まさない。

説教もしない。

ただ川を見ていた。

しばらくして言った。

「川は毎日流れます」

「はい」

「でも、水は毎日違います」

私は黙っていた。

「人も同じですよ」

「昨日と同じ会社へ行くようで、昨日と同じ自分は行けません」

風が吹いた。

柳が少し揺れた。

遠くで観光船がゆっくり進んでいく。

「だから、今日は今日のあなたが行けばいいんです」

「昨日みたいに頑張れなくても?」

「昨日は昨日の担当です」

その言葉で、少し笑ってしまった。

「担当制なんですね」

「ええ。案外、世界は分業ですよ」

ののさんは紙袋から缶コーヒーを一本取り出した。

「甘いですよ」

「今日は甘いほうがいいです」

缶はよく冷えていた。

手の熱を吸い取っていく。

「ところで」

「はい」

「もし本当に限界の日は、休んでください」

「……」

「頑張ることと、壊れることは違います」

私は缶を開けた。

小さな音が、朝の空気に溶けた。

時計を見る。

まだ間に合う時間だった。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

振り返ると、ののさんはもういなかった。

いや。

最初から、いたのかどうかも分からない。

ただ、甘い缶コーヒーだけが手の中に残っていた。

今日は、それで十分だった。

ヴァサゴ 2172

二一七二年。
人類は肉体だけでは生き延びられなくなった。

最後の避難先は、膨大な演算資源で維持されるデジタルスペース。
そこへ移住するには、一枚のアクセス権が必要だった。
しかし、その権利は一般には発行されない。

理由は単純だ。
汚れるのを恐れていたから。
未来を。
秩序を。
理想郷を。

人間で汚すことを。
インド亜大陸西方、マクラン海岸に築かれた国家アシアナ。

世界物流の心臓部となった巨大運河を擁し、二百年もの繁栄を誇る国家。
その繁栄は、一人の女から始まった。
議会は笑い、軍は反対し、宗教は異端と断じた。

それでも彼女は海を切り裂き、世界を変える運河を完成させた。
歴史は彼女を英雄ではなく、
マッド・オーバー・ハイプリエステス
――狂った大巫女――
と記録した。

二百年後。
物流はAIが管理し、飢えはなく、戦争さえ最適化された。
退屈なディール前の殴り合い。

豊かさは極まり、人々は生きる理由を失う。
余った知性は互いを裁き、
余った正義は互いを傷つけ、
爛熟したエネルギーは行き場を失い、噛み付いていた。
柔らかい肉に、柔らかい魂に。

私は、デジタルスペースへのアクセス権を発行できる数少ない管理官である。
耳元には、誰にも聞こえない声が響く。

ヴァサゴだ。
裏返るゴエティア。
パラノイアが相転移して元の形がわからない。
幻覚なのか。
それとも未来そのものなのか。

ヴァサゴはただ問い続ける。
「お前は出来るだろ?」
「なぜ、やらない?」

私は恐れる。
一枚のアクセス権で、国家を裏切ることになる。
秩序を壊すことになる。
歴史に犯罪者として名を残すことになる。
彼はその声を振り払うように、妻のもとへ帰る。
「私は、おかしくなる。」
妻は静かに首を振る。

「あなたがおかしくなるんじゃない。」
「世界が、正気を失っているだけ。」
震えながら言う。
「私は未来を汚すかもしれない。」
妻は彼の手を握る。

「あなたが、それをやるなら。」
「私は今夜、あなたの味方でいる。」
その瞬間、凍りついていた血液が流れ始める。
寒気。
鼓動。
恐怖。
そして決意。

あぁ、それならばダンスをレディ。

アクセス権を発行する。
一人のためではない。
未来そのもののために。
運河を造った狂人が世界の海をつないだ様にさ。

ビヨンドレイニー

雨は、止むために降るんじゃない。
そう思うようになったのは、京都へ来てからだった。

四条大橋を渡る。
傘は差している。
でも、靴の中は少し濡れている。
それでいい。
完璧に濡れない人生なんて、どこにもない。
鴨川は何も言わない。
昨日泣いた人間も、今日笑った人間も、 同じ水面を覗き込んで帰っていく。
公平だ。
だから私は、この街が好きだ。
あぁ本当に好きだよ。
愛している。
好き。

木屋町へ曲がる。
雨粒が提灯を滲ませる。
赤も、青も、白も、境界がほどけて、街全体が水彩画みたいになる。
酒場の扉が開く。
「いらっしゃい。」
その一言だけで、人間に戻れる夜がある。
私はグラスを受け取る。
冷えた白ワイン。

安いやつでいい。
高い酒は履歴書を読もうとする。
安い酒は、今日だけを信じてくれる。
カウンターの隅では、誰かが恋を終わらせていた。

入口では、誰かが恋を始めていた。
その真ん中で、店主は黙ってグラスを磨いている。
京都は、誰かのフィナーレと、誰かのプロローグを、同じ夜に並べるのが上手い。
雨脚が少し強くなる。

誰も慌てない。
この街では、雨は災難じゃない。
記憶をゆっくり現像するための時間だ。

西雨が街灯を映している。
空と地面の区別がつかない。
私は笑う。
きっと人生も同じだ。
上を向いて歩いているのか。
下を向いて歩いているのか。
案外、誰にもわからない。
それでも歩く。
雨の中を。
ね。

三日月

会社を休んだ。
世界は私がいなくても始業していた。
悔しいとも違う。
安心とも違う。
ただ、私だけが時間から降ろされた。
雨が降る。
七月の京都とは思えないほど涼しい。
こんな日に、私を私にしないのは暴力だよ。
傘を差してセブン-イレブンへ行く。
店に入ると、冷房が少しだけ現実を薄くした。
竹輪を一袋。
ライターを一本。
レジへ置く。
外を見る。
「本降りかね。」
私が言う。
レジの姉さんは笑って、
「ですね。」
と言った。
それだけだった。
なるほど。

人間って、案外それだけでいいのかもしれない。

店を出る。
河原へ歩く。
ライターを鳴らす。
竹輪を少し炙る。
焦げる。
少し焦げすぎる。
一口かじる。
うまい。

あーはいはい。
そういうことね。

人生って、案外こんな味だった。
格好いい日は、ちゃんと生きなければならない。
ちゃんと働いて。
ちゃんと笑って。
ちゃんと未来を信じる。
今日は違う。

スーパーかっこ悪いを嗜む日だ。
雨は降り続く。
鴨川は何も言わない。
竹輪は少しずつ短くなる。
私は少しずつ人間へ戻る。
何とかなる。
何とかならない日もある。
でも今日は、何とか何とか。
ライターを閉じる。
細い煙が雨に溶ける。
大げさなものじゃない。

七月の京都で雨に打たれて、
竹輪をかじって、
知らない誰かと
「本降りかね。」
「ですね。」
そんな言葉を交わせる。
今日の私は、それだけで存在していた。
アルペジオ死にたい。
死にたいアルペジオ。

ラッセン

ラッセンを好きだと言うのは、うちの学科では、デッサンが下手だと告白するより少し恥ずかしかった。

「ラッセンみたい」

講評でそれを言われたら、その作品はもう助からない。

彩度が高すぎる。
説明しすぎている。
感動を先回りしている。
余白がない。
批評性がない。

私たちは「伝わるデザイン」を学びながら、一目で伝わるものを軽蔑していた。

8月28日。

岡崎に海が来た。



京都市勧業館みやこめっせ。

第1展示場B面。

入場無料。
予約特典あり。

極彩色のシースケープ。
極上の可愛さのドルフィン。
極限の生命美のアニマル。

「極」が三つあった。

コピーの授業なら、一つに絞ってください、と赤字を入れられる。

地上へ出れば、京セラ美術館がある。
少し南へ歩けば、国立近代美術館がある。

美術史は地上に展示され、
ラッセンの海は地下のB面で販売されていた。

しかも、その日。

京セラ美術館では、歌川国芳展をやっていた。

江戸エンタメの最高峰。

浮世絵スーパークリエイター。

こちらにも「最高」があった。

ゼミのグループチャットにURLを貼られる。

《国芳のあとラッセン行く? 教材として笑》

私は笑っている猫のスタンプを返した。

それから一人で来場予約をした。

午前中、私は学生証を見せて国芳展に入った。

猫がいた。
役者がいた。
武者がいた。
骸骨がいて、人の顔をした寄せ絵があって、画面からはみ出しそうな鯨がいた。

《宮本武蔵と巨鯨》。

鯨は大きすぎた。
余白は、ほとんどなかった。
見る者を驚かせる気に満ちていた。
感動を先回りしていた。

それでも、その作品は百年以上、助かり続けていた。

やりすぎは「奇想」と呼ばれていた。

一世紀半は、
やりすぎを奇想に変えるのに、
十分な時間らしかった。

国芳は、江戸っ子を喜ばせるため、エンターテインメントに徹した。

そこが偉いのだと、解説には書いてあった。

ラッセンも、たぶん同じ方向を見ていた。

ただ、まだ歴史になっていなかった。

国芳には「奇想」という額縁がついていた。
ラッセンには、まだ値札しかついていなかった。

私は《宮本武蔵と巨鯨》をもう一度見た。

鯨はガラスの向こうで、
美術になったことなど知らない顔をしていた。

本館北回廊一階に国芳の巨鯨を残し、
私は地下の海へ降りた。

母の部屋には、昔、ラッセンの海があった。

絵ではない。

千ピースのジグソーパズルだった。

母が三週間かけて組み立てた。
右下の黒い岩だけ、一ピース足りなかった。

それでも母は額に入れた。

小学生の私は、その海の奥に道があると思っていた。
波を越えれば、紫色の山まで歩いていけると思っていた。

十八歳になった私は言った。

「これ、もう外したら。人が来たら恥ずかしいし」

次に帰ったとき、壁は白くなっていた。

会場の受付で、白い手袋をした女性に聞かれた。

「ラッセン、お好きですか?」

「いいえ」

私はすぐに答えた。

本当は、好きなのか嫌いなのか、もうわからなかった。
わからないと答えるには、右下の欠けた一ピースから説明しなければならなかった。

「いいえ」なら、一秒で済んだ。

プラチナ

月曜日と水曜日と金曜日、私はスタバに寄ってから出勤する。

早番の日だ。
京都駅からホテルまで歩く途中にある店で、新作のフラペチーノを買う。

桃なら桃。苺なら苺。さつま芋なら芋。
季節は、だいたい先にスターバックスへ来る。

飲み終わっても、カップは捨てない。
透明な蓋の内側にクリームが残っていても、ストローが少し潰れていても、更衣室まで持っていく。

制服に着替える直前まで、私はスターバックスのカップを持って出勤する女だった。
そこまでがワンセットだった。

「先輩、新作飲んだんですか?」
ロッカーの前で、後輩が聞く。
二十三歳。入社二年目。私のことを、まだ迷いなくお姉さんだと思っている。
「飲んだ」
「どうでした?」
「桃。すごく桃」
「紅茶も入ってるやつですよね」
「ベルガモットは途中で退散したよ」
後輩は笑った。
私はカップを捨てて、制服に着替えた。
三十二歳。
そんな感じ。

役職はない。でも新人よりは何でも知っている。
マネージャーより先に気づくこともある。 誰かが休めば、その穴に入る。
誰かが泣けば、見なかったことにしてコーヒーを渡す。

お姉さん、と呼ばれるには少し疲れていて、おばさん、と呼ばれるにはまだ準備ができていない。
そういう年齢だった。

八月、休憩室でサマーソニックの映像を見た。
ステージの前で、何万人もの人が手を上げていた。
その中央で、山口一郎が歌っていた。
大学生の頃から好きだった。
好きだけれど、ライブへ行くほどではないと言い続けてきた。

正確には、一人で行くほどではない。
炎天下に耐えるほどではない。
トイレに並ぶほどではない。 知らない人の汗に挟まれるほどではない。
好きには、いろいろ言い訳が必要だった。
画面の下に、来年の開催予定が出た。
大阪。
万博記念公園。
通常チケット、一万九千円。
プラチナチケット、三万一千円。
専用観覧エリア。
専用ラウンジ。
専用トイレ。
専用クローク。
グッズ売場ファストレーン。

「玉座じゃん」
私は声に出していた。
「何がですか?」
後輩が隣から画面を覗いた。
「プラチナ」
「高っ」
「でも近い」
「先輩、行くんですか?」
「五万円かかる」
チケット。往復のバス。飲食。Tシャツ。
一日のために五万円。

払えない金額ではなかった。
払えないわけではない金額というものが、いちばん高い。
その夜、計算した。
スターバックス、一回だいたい六百円。
月、水、金。
週に千八百円。
三十週で、五万四千円。
私は電卓の画面をしばらく見ていた。
翌朝は月曜日だった。
いつもの店の前まで来た。
ガラスの向こうに、新作のポスターがあった。
シャインマスカット色のソースが、白いクリームの上から流れていた。
おいしそうだった。
私は自動ドアの前を通り過ぎた。
六百円ぶん、来年の夏が近づいた。
更衣室へ入ると、後輩が私の右手を見た。
「先輩、今日スタバないんですか?」
「ない」
「え、ダイエット?」
「サマソニ」
後輩は少し黙った。
「意味わかんないです」
「これを三十週間やめると、プラチナになるの」
「金属に?」
「人間が」
それから私は、月曜日と水曜日と金曜日にスターバックスを素通りした。
店を避けることはしなかった。
わざと同じ道を歩いた。
栗。 林檎。チョコレート。桜。苺。

季節がポスターになって、私の横を通り過ぎた。
飲みたい日もあった。
ホテルへ着く前に、もう帰りたい朝もあった。
以前の私は、六百円でその朝を起動していた。
甘いものを持って歩く。
カップを見た後輩が話しかける。
新作の味を、少し意地悪に説明する。
その小さな手順で、働ける私になっていた。
カップがなくなると、右手が軽かった。
軽すぎて、何者でもないような気がした。
「先輩、今日で何スタバですか?」
ある水曜日、後輩が聞いた。
「四十三」
「二万五千八百円」
「計算早いね」
「経理なもんで」

「もう普通のチケット買えますね」
「私はプラチナになるの」
「欲深い」
「三十二歳だからね」
「関係あります?」
「ある。若さで補えないものは、金で補うのさ」
後輩は笑った。
私は笑わなかった。
半分は本気だった。

プラチナは、スペイン語で「小さな銀」という意味らしい。
銀に混じって出てくる、加工しにくい白い金属。
最初は価値のないものとして捨てられていた。
銀もどき。出来損ない。取るに足らないもの。
私みたい。
それが後になって、銀よりも希少で、熱にも錆にも強いことがわかった。
私じゃねぇな。

価値は、発見される順番を選べない。
月水金の六百円も、たぶん同じだった。
一杯ぶんなら、何にもならない。
けれど私は、小さな銀を集めた。
紙のカップを持った私も、嫌いではなかった。
流行りの味を知っていて、後輩に少し笑われて、更衣室まで元気そうに歩く私。
でも、それだけが私ではなかった。
チケットの発売日。
私は休憩室でスマートフォンを握っていた。
画面が何度も止まった。
残りわずか。
プラチナチケット、三万一千円。
購入する。
指が少し震えた。
決済完了。
「取れた」
後輩が身を乗り出した。
山菜うどんと、大盛りふりかけご飯。
若いなあ。
可愛い。

「プラチナですか!?」
「プラチナ」
「おめでとうございます、先輩」
その言い方が、昇進祝いみたいだった。
八月。

新大阪からシャトルバスに乗った。
窓の外を、朝の大阪が流れていった。
万博記念公園に着くと、空はもう暑かった。
リストバンド交換所で、係員が私の左手首にプラチナのバンドを巻いた。
紙より少し丈夫なだけの、安っぽい素材だった。
それでも私は、しばらく手首を見ていた。
専用ゲートを通る。
柵の内側へ入る。
ステージが近かった。

近すぎて、笑ってしまった。
一般エリアの人たちは、まだ遠くで場所を探していた。
私は専用ラウンジで薄いジントニックを飲み、ほとんど並ばずにトイレへ入り、クロークに荷物を預けた。
玉座だった。
王冠はなかった。

代わりに、紙のリストバンドがあった。
サカナクションがステージに現れた。
本当にいた。

画面の中ではなく、同じ暑さの中にいた。
私は後輩に写真を送った。
ステージではない。
左手首だけを撮った。
すぐに既読がついた。
《先輩、それ何スタバですか?》
私は数えた。
月曜日。水曜日。金曜日。
桃。栗。桜。苺。
カップを持たずに更衣室へ入った朝。
何者でもないように感じた右手。
その全部が、いま左手首に巻かれていた。
《九十二杯》
送信した。
ステージで音が鳴った。
私はスマートフォンを鞄にしまった。
右手を上げた。
何も持っていない手だった。
左手も上げた。
プラチナが、夏の夜を反射した。

レンズフレア

「大丈夫」
って、なんなん。
いや、意味はわかるよ。
日本語だし。こっちも一応、高校は出てるし。
でもさ。
「大丈夫」って、音として短すぎるんだよね。
だい、じょう、ぶ。
最後の「ぶ」が弱い人は、ほぼ二音で終わる。
大丈夫。
それだけ。

なのに、言い方ひとつで意味がクソほど増える。
ほんとに平気な大丈夫。
心配しないでの大丈夫。
ほっといての大丈夫。
もう聞くなの大丈夫。
あんたには関係ないの大丈夫。
あと、たぶん。
気づいてほしいときの、大丈夫。
音が多い。
ジョッキを置く音。
製氷機が氷を吐く音。
ハンディの送信音。
八人席の笑い声。
誰かの、すみませーん。
店長の、生ふたつ。

全部が壁と天井に当たって、ぐちゃぐちゃになって返ってくる。

私は、PAになりたかった。
ウケるでしょ。
毎晩「喜んでー」とか言ってる女が、卓の前に座って、演者の音を客席へ届けたかった。

専門にも行った。
クソ真面目に勉強した。
音には、直接届く音と、反射して届く音がある。
マイクの位置が数センチ違うだけで、拾う音は変わる。
客が入れば、箱の響きも変わる。
誰もいない客席と、満席の客席では、同じ音を出しても同じには聞こえない。
人間が、音を吸うから。

それ、ちょっといいなと思ってた。
人がいると、響きすぎない。

「三番、ポテトまだ?」
店長が言った。
はいはい。
冷凍庫からナチュラルカットポテトを出して、フライヤーに落とす。
油が一気に騒ぎだす。
こういう音も、嫌いじゃない。
歓声みたいじゃん。

さっきまで凍ってたくせに、急に世界の中心みたいな音を出す。
数分したら静かになるのに。
これやりたいな。

トングですくって、バットに上げる。
風呂上がりのナチュラルカットポテトは、浮かれてる。
私にはわかる。
皮つきのまま油から上がって、まだパチパチ言ってる。

塩なんか振られてさ。
テカテカして。
見るからにご機嫌。
でもさ。

ご機嫌なふりして泣いてる。
あー、もったいない。
そんなにうまく光れたら、誰も泣いてるって気づかないじゃん。
「ポテト」
後ろから声がした。
良い響き、みんな好き。
振り向かなくてもわかる。
あいつだった。
専門のとき、一個上だった人。
今は近くのライブハウスで音響をやっている。
たまに仕事終わりに来る。
たまにっていうか、木曜。
毎週木曜日。

私はシフト表を見る前に、木曜日だけわかる。
別に待ってないけど。
「いま出る」
「大丈夫?」
「何が」
「いや、なんか」
それを言った本人は、たぶん深い意味なんかなかった。
「無いんだよ、これが本当に」

客席から厨房をのぞき込んで、私の顔を見て、少し眉を下げただけ。
マジでそれだけ。
「大丈夫」
私は言った。
あいつも言った。
「そっか。大丈夫ならいいけど」
大丈夫が二つ重なった。
最悪。
ハウリング。

あいつの大丈夫は、どの大丈夫だったんだろう。
ほんとに平気だと思った大丈夫。
これ以上聞かないための大丈夫。
心配してるよの大丈夫。
それとも、私が何か言うのを待っていた大丈夫。
人の声って、フェーダー一本じゃどうにもならない。

下げれば消えるわけじゃない。
ミュートしても、頭の中では鳴ってる。
私はポテトを紙を敷いた籠に盛った。
ケチャップを添える。
それだけで急に、誰かを喜ばせるものみたいな顔になる。

ほらよ。
フライドポテトだよ。
「熱いから気をつけて」
「ありがと」
あいつは一本つまんで、すぐ口に入れた。
「熱っ」
「だから言ったじゃん」
「でも、揚げたてが一番うまいし」
笑ってる。
私も笑った。

死ねよ私。

店の照明が、あいつの肩の向こうでにじんでいた。
昔、授業で聞いたことがある。
強い光がレンズに入ると、内部で反射する。
輪っかとか、筋とか、虹色の丸とか。
光源にはない形が、撮った写真には残る。
なんだっけ。
光の形じゃない。
見る側の機材が勝手に作った形。
だから、本当はノイズ。
失敗。
でも映画とかライブ映像では、わざと入れることもある。
綺麗だから。
本物っぽいから。
あいつの「大丈夫」に見えたものも、全部、私のレンズが作ったのかもしれない。
心配。
未練。
期待。
まだ間に合うかも、みたいなやつ。
そんなもの、あいつは一個も置いてないのかもしれない。
ただの照明。
ただの油。
ただの、大丈夫。
「来月さ」
あいつが言った。
「うん」
「うちの箱、人足りなくなるんだけど」
店内の音が、一瞬だけ遠くなった。
ジョッキ。
製氷機がらがら。
笑い声。
ハンディ。
フライヤー。
全部鳴っているのに、そこだけ穴が開いたみたいだった。
「バイトからだけど、来る?」
「私、もう二年も卓触ってないよ」
「大丈夫」

また、それ。
なんなん。
今度はどの大丈夫なん。
腕のこと。
仕事のこと。
二年間のこと。
それとも、私のこと。
聞けばいいのに。
PAになりたかったのか。
まだなりたいのか。
あいつに会いたいのか。
でもさ。
そんなの、音にしたら形になっちゃうじゃん。

形になったら、もう、なかったことにできないじゃん。

「考えとく」
私は言った。
クソださい。
あいつは一本残っていたポテトを食べて、笑った。
「うん。大丈夫」
閉店後、客席の照明を落とした。
BGMを切る。
無音。
には、ならない。
冷蔵庫は鳴ってる。
換気扇も鳴ってる。
製氷機の奥で、氷がひとつ崩れた。
音は、消えない。

聞こえなくなったあとも、どこかで反射している。

グラスを拭きながら、黒くなった窓に映る自分を見た。
髪適当。
アイラインもちょっと落ちてる。
でも、笑っていた。
ご機嫌なふりして泣いてる。
あー、もったいない。
こんなに泣いてんのに、誰にも見えない。
いや。

一人だけ、見えたのかもしれない。
知らんけど。
強い光があったのか。
私のレンズが汚れていただけなのか。
そんなの、もうどうでもよかった。
映っちゃったものって、なかったことにはできなくない?

私はフライヤーの火を落とした。
油の表面で、最後の光が揺れた。

短歌

七条滑らか流れ
正面パーマネント
チリチリのチリチリ
化石あばき

アクリラブル

六年前にも、二人で来た。
あの日は雨だった。
濡れた傘を細長い袋へ押し込みながら、あなたは笑っていた。

うまく入らない、と。

そんなことがおかしかった。
世界はまだ、私たちを傷つけるためにはできていなかった。
巨大な水槽の前で、ジンベエを見上げた。
魚は水の中にいるのに、空を飛んでいるようだった。

私たちは陸にいるのに、ゆっくり沈んでいくようだった。
間にあるのは、ガラスではない。

アクリルだと、あなたが教えてくれた。
何枚もの透明な板を重ね、熱と圧力をかけ、一枚の厚い壁にする。
「割れないの?」
「簡単にはね」
あなたは、そう言った。
簡単には。

その言葉を、私は長いあいだ信じていた。
今日も、ジンベエザメは泳いでいた。
六年前と同じ個体かどうか、私にはわからない。
同じに見えるものが同じであるとは限らない。
違ってしまったものが、すべて嘘だったとも限らない。
あなたの隣には、もう私ではない人がいる。

写真で見た。
よく笑う人だった。
あなたも笑っていた。
私といた頃より幸せそうだ、とは思わなかった。
馬鹿みたい。

不幸そうだ、とも思わなかった。
ただ、あなたは次の筏を見つけたのだと思った。
六年か。
長かったのかもしれない。
短かったのかもしれない。
海の底には時計がない。

沈んでいる者だけが、時間を数える。
「しょうがないね」
水槽に向かって言った。
声は透明な壁に当たり、こちら側へ戻ってきた。
向こうには届かない。
魚たちは何も知らずに泳いでいる。
マンタレイの白い腹が頭上を通った。

小さな魚の群れが、一つの生き物のように折れ曲がった。
美しかった。
美しいものは、なんだっけ。

こちらがどれだけ失っても、少しも曇らない。
私は壁に手を置いた。
ザラザラだ。

冷たくはなかった。
ガラスではないから。
割れもしない。
こちらと向こうを隔てながら、何もないような顔をしている。

ギヤマン。
古い人は、透明なものをそう呼んだ。
光を通し、景色を通し、触れられそうな錯覚だけを通すもの。
けれど、これはアクリルだ。
人が海を閉じ込めるためにつくった、厚くて、やさしくて、壊れにくい透明。
アクリラブル・ギヤマン。
お前みたい。

愛せるほど美しく、
愛したままでは越えられない。
ジンベエザメが、ゆっくりこちらへ近づいてきた。
大きい、恐い。

そして私の手のひらを通り抜けるように旋回し、青の奥へ消えた。
追わなかった。
出口の表示に従って歩いた。
海遊館の外は、もう晴れていた。
傘は持ってこなかった。
もう、うまく袋へ入らないものを、
二人で笑う必要もなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい。

バベルリバイバル

母の作ったおにぎりは、今日も少し湿っていた。
海苔はご飯の水分を吸って、弁当箱の蓋に貼りついている。
剥がそうとすると、黒い膜が途中で破れた。
台所には食品成形機がある。
米の密度、塩分、海苔の湿度まで指定できる。握りたての状態を六時間維持する保全モードもついている。
それでも母は手で握る。

「こっちのほうがおいしいから」

科学的根拠はない。

母の手の常在菌が腸内環境へ好影響を与えるという論文はあるらしいが、母はたぶん読んでいない。

二時間目は社会だった。
「今日は《バベルリバイバル》について勉強します」
先生が言うと、教室の照明が少し暗くなった。
正面の壁に、二百年前の地球が浮かび上がる。
今より国境が多い。
赤や青や黄色の線で、地表が細かく切り分けられていた。
「二〇四八年、人類は《バベルルネッサンス計画》を開始しました」
空中に古い映像が現れた。

拍手する人々。
握手する各国の代表。
同時翻訳された言葉が、それぞれの耳へ、それぞれの母語で流れている。
世界中の国や企業が、一つの巨大なソフトウェアを分担して作る計画だった。

ある地域は医療。
ある地域は物流。
ある地域は認証。
ある地域は気象予測。
設計する国と、検証する国と、監査する国は別々だった。
言葉の違いはAIが埋めた。
法律の違いも、商習慣の違いも、価値観の違いも、すべて共通仕様へ変換された。


「当時の人々は、これによって戦争がなくなると考えました」
教師が人体の図を表示した。
心臓に東アジア。
肺に欧州。
肝臓に南アジア。
眼球に北米。
血管に、海底通信網。
「一つの国を攻撃すれば、自国の産業も停止する。彼らは相互依存が抑止力になると考えたのです」

窓際の男子が手を挙げた。
「実際、戦争は減ったんですよね」
「減りました」
「じゃあ、成功じゃないですか」
教師は人体図を消さなかった。
「彼らは仲良くなったのでしょうか」
誰も答えなかった。

「違います。仲良くする必要がなくなったのです」

言葉を知らなくてもよかった。
相手の顔を見なくてもよかった。
何を食べ、誰を愛し、何を恐れているのか知らなくても、正しい形式へ変換してくれた。
相手を理解しなくても、愛さなくても…理解したのと同じ成果物が出力された。
世界は一つになった。
正確には、
一つになったように、見えた。
「二〇五六年、北方認証セルが停止しました」
地球上から、一つの光が消えた。
停止の理由は教科書にも書かれていない。
経済制裁への報復。
国内の政変。
単純な障害。
意図的な攻撃。
今も結論は出ていない。
でもみんな知ってる。


ただ一つの認証セルが止まり、病院は患者を患者として認識できなくなった。
物流車は荷物の所有者を確認できず、道路脇で停止した。
冷蔵倉庫は扉を開ける権限を失った。
発電所は交換部品を受け取れなかった。
爆弾は一つも落ちなかった。
建物も壊れなかった。
それでも、たくさんの人が死んだ。
「これを《第一次同期停止》と呼びます」
教師が言った。

「テストに出ますか」
誰かが尋ねた。
「出ます!」
教室中で記憶補助端末が起動した。
第一次同期停止。二〇五六年。
その二つが関連語として保存される。
休み時間になった。
私は弁当箱を開けた。
湿った海苔が、三つのおにぎりを黒く包んでいた。 
隣の席の子が言った。
「それ、手で作ったやつ?」
「うん」
「衛生的じゃないね」
「母さん、こういうの好きだから」
一口かじる。
少し塩辛かった。
右側はしょっぱく、左側にはほとんど味がない。食品成形機なら起こらない偏りだった。
正面の壁には、授業の消し忘れで、二百年前の停止都市がまだ映っている。
信号の消えた交差点。
動かない配送車。
開かない自動扉。
その歩道を、一人の女が走っていた。
古い映像なので顔は分からない。
女は胸に何かを抱えている。
教師用資料には、「食料を運ぶ市民」とだけ説明が出ていた。
映像が拡大された。
女が抱えていたのは、小さな弁当箱だった。
どこへ運んでいたのだろう。
子どもへ。
夫へ。
病院にいる母親へ。
それは記録されていない。
弁当箱の中身も分からない。
けれど私は、おにぎりだったと思う。
食品認証が止まり、物流が止まり、世界中の言葉が互いへ届かなくなった日。
誰かが米を炊いた。
塩をつけた手で握った。
海苔を巻いた。
たぶん、目的地へ着くころには湿っていた。
私は残りのおにぎりを食べた。
世界は二百年かけて、壊れた塔を低く作り直した。
一つの機能が止まっても、別の機能が代わる。
誰も世界の心臓にはならない。
誰も世界の背景にはならない。
それが、あの日以降に人類が学んだことだと、教科書には書いてある。

母のおにぎりには、予備系統がない。
母が作らなければ、同じものは二度と出力されない。
形も、塩加減も、海苔の破れ方も違う。
不完全で、交換できない。
だから私は、少し急いで食べた。
午後になれば、もっと湿ってしまうから。

東山界隈 ―ビヨンドレイニー―

東山界隈 ―ビヨンドレイニー―

  • 小説
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  • 青春
  • 恋愛
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-12

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