東山界隈 ビヨンドレイニー

短歌にかんしては許可を得ました
つもりです。
美しい短歌
素敵です。
得ているつもりですが
短歌中川さん
ありがとうございます

レインブーツ

カタツムリみたいだと思った。
会社へ行っても、家へ帰っても、背中に家を背負ったまま歩いている。
重い。
殻の中には、終わった恋も、失敗した仕事も、送れなかったメッセージも詰まっている。
全部、乾かない。
六月の京都。
傘を差して鴨川を歩いていると、小学生の列が向こうからやってきた。
黄色いレインブーツ。
青いレインコート。
先生が何か言う前に、一人が水たまりへ飛び込む。
ばしゃん。
もう一人。
また一人。
笑い声が、雨より先に弾けた。
私は思わず顔をしかめる。
そんなことをしたら濡れるじゃない。
そう思った瞬間、自分がおかしくて笑った。
雨の日に。
濡れることを心配している。
子どもたちは虹を見ていない。
虹の中にいた。
跳ね上がる水しぶきは、まるで誰かが世界を祝福しているみたいだった。
祝の雨。
その言葉が、どこからともなく浮かんだ。
私はいつからだろう。
雨を避けることばかり覚えて、
雨を浴びることを忘れてしまったのは。
カタツムリみたいに全部が駄目になったと思っていた。
でも違った。
駄目になったのは私じゃない。
空を見上げなくなっただけだった。
雨は、今日も誰かを祝っている。
私の番は、まだ来ていない。
そう思っていた。
すると、頬に落ちた一粒だけが少し温かかった。
祝われる順番なんて、最初からなかったのかもしれない。雨は誰かを選ばない。
私は傘を少し閉じて、ゆっくり歩き出した。

高架下

高架下へ駆け込む。
雨脚だけが、急に速くなる。
車が頭上を走るたび、コンクリートが低く唸る。
知らない町の匂いを吸った。
濡れたアスファルト。 排気ガス。 誰かの夕飯。
雨に冷やされた鉄。
私たちは同じ柱にもたれて、何も話さない。
アイツは、ときどき私を見る。
たぶん、私がアイツのカウンターなんだろう。
私といると、少しだけ自分を疑える。
でもさ、おっぱい見るなよ。
台無しじゃん。

私のカウンターは、アイツじゃない。
私を揺らすのは、もっと遠くから来る雨だったり、知らない町の匂いだったり、 まだ出会っていない誰かだったりする。
信号が青に変わる。
雨は少しだけ弱くなった。
「行くか」
アイツが先に歩き出す。
ちょっとカッコいいのがムカつく。

私は一拍遅れて、高架下を出た。
同じ雨に濡れながら、 もう、見ている景色は違っていた。

ヘリングガーデン

「先生、雨ですよ。」

返事はない。

窓の外では、中庭のハナミズキが風に揺れている。

私は車椅子を押して、ガーデンテラスまで出た。

施設の職員は、この庭をイングリッシュガーデンと呼ぶ。

でも私の中では違う。

ヘリングガーデン。

白い花びらが風向きひとつで群れを変える。まるで銀色の魚が海の底で一斉に向きを変えるようだった。

高校二年の春。

私は先生が好きだった。

好きと言っても、触れたいとか、付き合いたいとか、そんな言葉では収まりきらない。

黒板に字を書く横顔。

チョークの粉で白くなった指。

「本は答えじゃない。人に会うための橋だ。」

そんな一言を、二十年以上忘れられなかった。

卒業式の日も、何も言えなかった。

言わなくてよかったと思っていた。

先生は先生のままでいてくれれば、それでよかったから。

「寒くないですか。」

膝掛けを少しだけ引き上げる。

先生は私を見た。

いや、私を見たのではない。

私の向こう側を見ていた。

名前も。

学校も。

黒板も。

たぶん、もうない。

それでも私は週に一度、この庭へ先生を連れてくる。

雨の匂いがすると、昔の先生が少しだけ帰ってくる気がするから。

ぽつり、と最初の雨粒が手の甲に落ちた。

先生の視線が、ゆっくり空へ向く。

そして、かすれた声がした。

「……夏、来るな。」

それだけだった。

たったそれだけ。

私は笑ってしまった。

泣きながら笑った。

あの日、授業で季節の短歌を読んでいた先生の声と、少しだけ同じ響きだったから。

ガーデンに雨待つ君の純白の裾がたなびき夏くるを知る。

誰にも見せたことのない一首を、私は心の中だけでそっと唱えた。

先生はもう意味なんてわからないだろう。

それでも構わない。

人は忘れる。

でも、誰かが覚えている限り、その人の時間は完全には終わらない。

雨脚が少しだけ強くなる。

白い花びらが風に流され、群れになって揺れた。

だから私は、大丈夫です。

さくらもよう

娘は、新しい傘を手に入れてからというもの、雨の日を待つようになった。
桜色だった。
小さな花びらが散るような模様で、店で見つけた瞬間から離そうとしなかった。
俺に似て頑固。

「新学期までしまっておこう。」
そう言っても、何度も袋から出しては開き、部屋の中でくるくる回していた。

雨の朝。
ランドセルを背負った娘は玄関を飛び出す。
傘を開いた瞬間、春が一輪咲いたようだった。

「いってきます!」
その声が角を曲がるまで見送る。
あんなに小さかったのにな。

少し前まで、私の指を握ってさ、おっかなびっくり歩いていたのに。
気づけば、雨の日の歩き方まで一人前になっている。

会社へ向かう途中、信号待ちで子どもたちの列とすれ違った。
桜色の傘が一つ。
くるり。
いや。
グルン、と一回転した。
娘だった。
友だちと笑いながら、世界に何の遠慮もなく傘を回している。
思わず笑ってしまう。
危ないぞ、と注意するべきなのかもしれない。
でも、その一回転には、今日という日を全部好きになってしまう力があった。

私と目が合った。
娘は少し照れくさそうに笑って、また友だちの方を向いて歩いていく。

友だちの前では、父親なんて背景でいい。
そのほうが格好いい年頃なのだ。
私は足を止め、背中が見えなくなるまで見送った。

じゃーね。
心の中で、一首だけ浮かぶ。

新学期 さくらもようの傘をふり 名も知らぬ子は笑みをこぼしつ

死骸譚

八戸には、私の死骸がある。
誰も通報しない。
もう四十年以上、駅前を歩いているからだ。

十七歳の私。
父に怒鳴られ、雪を蹴り、コンビニの前で煙も吸えない煙草をくわえていた私が、まだそこにいる。
新幹線で帰省すると、必ず会う。
駅のガラスに映る。

港へ向かう坂道に立っている。
横断歩道の向こうで、誰かを待っている。
誰も気づかない。
死骸は動かないものだと思っているからだ。
違う。

人間は、生きたまま死骸を残していく。
就職した日。
結婚した日。
子どもが生まれた日。
京都へ引っ越した日。
そのたびに一人ずつ死んで、置いてきた。
だから故郷は墓場によく似ている。

会いたい人より、会えない自分のほうが多い。
冬の海へ行く。
風が強い。
カモメは笑っているみたいに鳴く。
煙草に火をつける。
吸い差しで北を指してみる。
北は、もうこれ以上ないくらい北だった。
私は笑う。

「元気か。」
死骸は返事をしない。
当然だ。
返事をするのは、まだ生きている者の役目だから。
列車の発車ベルが鳴る。
振り返らない。
あの町には、私の骨も肉も埋まっていない。

埋まっているのは、捨てきれなかった季節だけだ。
新幹線がゆっくり動き出す。
ホームの向こうで、十七歳の私はポケットに手を入れたまま立っていた。
追いかけても来ない。
あいつは八戸から出られない。
私は八戸へ戻れない。
その距離だけが、生きてきた時間だった。

マントファスマ

京都では、人は歩いているのではない。
思い出されながら歩いている。
四条大橋を渡るたび、私は少しずつ人間ではなくなる。 

最初は背筋だった。
次に首が伸びた。
信号待ちで肩が軽くなり、祇園白川へ入るころには、膝の関節が一つ増えたような気がする。

カマキリとも、バッタとも違う。
祈るように前脚を畳みながら、何かに呼ばれると跳んでしまう、生き物。

カカトを見つけるためだけに進化した虫だ。
雨が柳を濡らしている。
軒先から落ちる雫が、石畳の上で静かに砕ける。
「そうやね。」
不意に声がした。
振り返る。
誰もいない。
京都では、声は人の口から出ない。
壁が覚えている。
正面橋が覚えている。

だから、忘れたつもりの囁きだけが、街角で私を待っている。
顔は思い出せない。
目も。
髪も。
笑った口元も。
なのに、その人と話していた私だけは、妙にはっきりしている。
恋をしていたのではない。
私は、あの囁き方に生かされていたのだ。
そのことに気づいた瞬間、身体がふっと軽くなった。
まただ。
肘が逆向きに折れそうになる。
胸の奥で、見えない羽が乾いた音を立てる。
カマキリバッタになる。
人間なら立ち止まる場所で、私は跳ぶ。
人間なら諦める距離を、私は飛び越える。
夕暮れの鴨川で、風が一度だけ草を揺らした。
その揺れ方が、あまりにもあの人に似ていて、私は笑ってしまった。
ああ。

シートン動物記

あの日、私はショウリョウバッタの大腿をもいで食べた。
確かに海老みたいだった。
そんなことを一生忘れない。

お父さん。
年末。
桐箱のおがくずへ指を差し込む。
白い木屑が爪のあいだからさらさら落ちる。
一尾つまみ上げる。
頭から半分に折る。
「上物だ。」
それだけ。
口の中で、夏が音を立てて砕ける。
私は父の真似をしたかった。
父みたいな人になりたかった。
だから食べた。
美味しかった。
それが一番、嫌だった。
帰り道、バッタが跳ねるたびに、太腿ばかり見ていた。
あそこだけ、食べ物だった。
それ以外は虫だった。
家に帰ると、シートン動物記が机の上にあった。
動物は美しく描かれていた。
狼王ロボ

何も食べなかった。

本の中の世界は、ずっと優しかった。
なのに私の夏は、おがくずの匂いしかしない。

乾いた匂い。
桐箱の匂い。
父の指の匂い。
セイラーピアニッシモの乾いた匂い。

あの匂いだけが、大人になっても腐らない。

腹足は足なのだろうか。
それとも、内臓が世界へ触れるために裏返ったものなのだろうか。

そんなことを考えるようになったのは、きっとあの日からだ。
父はもう覚えていないと思う。
「上物だ。」
たぶん、その一言も。
忘れた人と、忘れられなかった人。
親子って、だいたいそういうものなのかもしれない。

私はロボになりたい。
父みたいなロボになりたい。

キルクルス ブルーバード

「認識を歪ませる薬は危険です。」
YouTubeが言う。

私は片方脳頷きながらコンビニへ入る。
入口には酒。
奥にはストロング。

レジ横には糖分とカフェイン。
眠れない人にはエナジードリンク。
眠りたい人にはアルコール。
疲れた人には甘いもの。
痩せたい人にはゼロカロリー。

少しだけレギュレーションを編集してくれる。
羽ばたけない負け犬の。

「違法薬物は人生を壊します。」
その横で、缶ビールは二本買うとさ。

なんだろう、三本目がうまい。
ってバガヤロウ!

なんて親切なんだろう。
認識を歪ませるものは、特別な裏路地にはない。
ポイントカードが使える。
レシートも出る。
駐車場も広い。

二十四タイム営業。

昨日の揚げ物の世界カンが延長して。
今日は大丈夫な感じだったのに。
仕方がない。

世界は正気を売っているのではない。
自分に都合のいい現実を、一口サイズに小分けして売っている。
私は財布を閉じる。
今日は買わない。
外へ出ると雨だった。

傘を差す。
雨粒は、認識なんて歪ませなかった。
ただ、世界が最初から少し滲んでいたことを思い出させるだけだ。

ボツボツは身体感覚

マーグメル

祭りってぇのは、不思議なもんだ。
神さんを迎えるなんざ建前で、本当は人間が、人間を見失いに行く日なんじゃねぇか。
浴衣なんてもんァ着ちまえば、背筋が勝手に伸びる。
帯ァ苦しい。
下駄ァ痛ぇ。
なのに皆、妙に嬉しそうな面ァして歩いてやがる。
おかしな話だ。
「いてぇ。」
「だから言ったろ。」
「うるせぇ。」
三人で笑う。
笑った拍子に人波へ呑まれる。
四条ぁ海だ。
鴨川なんざ川だが、この日の四条は海になる。

人が寄せて、人が返す。
あっしらぁ舟でも漁師でもねぇ。
流木みてぇに、ぷかぷか流されるだけよ。
屋台の煙が鼻をくすぐる。
醤油だ。
焦げたイカだ。

甘ったるい綿飴だ。
腹ァ減ってんだか、胸が鳴ってんだかわからねぇ。
鉾が見える。
高ぇな。
何百年も、こんな騒ぎを見物してきた顔して立ってやがる。
人間なんざ、ひと夏ごとに入れ替わるってぇのによ。
祭りが済みゃ、地下へ潜る。
さっきまでの喧騒が嘘みてぇに消えちまう。
「撮るか。」
「ああ。」
改札の前で足ァ止める。
山鉾ァ写らねぇ。
八坂さんも写らねぇ。
写るのァ、浴衣を着た三人だけだ。
カシャリ。
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、
あの一枚ァ、どこの国でもねぇ場所を写しちまった。

夢ってぇほど大げさじゃねぇ。
現ァ抜かすほど若くもねぇ。
けどよ。

あの一瞬だけぁ、確かにここじゃねぇどこかへ流れ着いてた。
帰りゃまた仕事だ。
浴衣ァ畳む。
下駄の傷ァ治る。
祭りなんざ、何事もなかったように終いになる。
それでも時々、写真を見る。
「ああ、あの日ァあったな。」
それだけでさ。

ののさんとの出会いがしら

朝の京都は、夜より静かに嘘をつく。

「今日も頑張りましょう」

駅の電光掲示板より先に、その言葉が街に表示されている気がする。

私は会社へ向かう足を止めた。

行きたくない。

理由はいくらでもある。

理由なんて一つもない。

その両方が本当だった。

鴨川まで歩いた。

橋の欄干にもたれていると、後ろから声がした。

「今日は歩く速度が遅いですね」

振り向くと、ののさんだった。

白いシャツ。

紙袋。

相変わらず、昨日までこの世界にいなかったみたいな顔をしている。

「会社ですか」

「そうです」

「行きたくない?」

「ええ」

ののさんは頷いた。

慰めない。

励まさない。

説教もしない。

ただ川を見ていた。

しばらくして言った。

「川は毎日流れます」

「はい」

「でも、水は毎日違います」

私は黙っていた。

「人も同じですよ」

「昨日と同じ会社へ行くようで、昨日と同じ自分は行けません」

風が吹いた。

柳が少し揺れた。

遠くで観光船がゆっくり進んでいく。

「だから、今日は今日のあなたが行けばいいんです」

「昨日みたいに頑張れなくても?」

「昨日は昨日の担当です」

その言葉で、少し笑ってしまった。

「担当制なんですね」

「ええ。案外、世界は分業ですよ」

ののさんは紙袋から缶コーヒーを一本取り出した。

「甘いですよ」

「今日は甘いほうがいいです」

缶はよく冷えていた。

手の熱を吸い取っていく。

「ところで」

「はい」

「もし本当に限界の日は、休んでください」

「……」

「頑張ることと、壊れることは違います」

私は缶を開けた。

小さな音が、朝の空気に溶けた。

時計を見る。

まだ間に合う時間だった。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

振り返ると、ののさんはもういなかった。

いや。

最初から、いたのかどうかも分からない。

ただ、甘い缶コーヒーだけが手の中に残っていた。

今日は、それで十分だった。

ヴァサゴ 2172

二一七二年。
人類は肉体だけでは生き延びられなくなった。

最後の避難先は、膨大な演算資源で維持されるデジタルスペース。
そこへ移住するには、一枚のアクセス権が必要だった。
しかし、その権利は一般には発行されない。

理由は単純だ。
汚れるのを恐れていたから。
未来を。
秩序を。
理想郷を。

人間で汚すことを。
インド亜大陸西方、マクラン海岸に築かれた国家アシアナ。

世界物流の心臓部となった巨大運河を擁し、二百年もの繁栄を誇る国家。
その繁栄は、一人の女から始まった。
議会は笑い、軍は反対し、宗教は異端と断じた。

それでも彼女は海を切り裂き、世界を変える運河を完成させた。
歴史は彼女を英雄ではなく、
マッド・オーバー・ハイプリエステス
――狂った大巫女――
と記録した。

二百年後。
物流はAIが管理し、飢えはなく、戦争さえ最適化された。
退屈なディール前の殴り合い。

豊かさは極まり、人々は生きる理由を失う。
余った知性は互いを裁き、
余った正義は互いを傷つけ、
爛熟したエネルギーは行き場を失い、噛み付いていた。
柔らかい肉に、柔らかい魂に。

私は、デジタルスペースへのアクセス権を発行できる数少ない管理官である。
耳元には、誰にも聞こえない声が響く。

ヴァサゴだ。
裏返るゴエティア。
バラノイアが相転移して元の形がわからない。
幻覚なのか。
それとも未来そのものなのか。

ヴァサゴはただ問い続ける。
「お前は出来るだろ?」
「なぜ、やらない?」

私は恐れる。
一枚のアクセス権で、国家を裏切ることになる。
秩序を壊すことになる。
歴史に犯罪者として名を残すことになる。
彼はその声を振り払うように、妻のもとへ帰る。
「私は、おかしくなる。」
妻は静かに首を振る。

「あなたがおかしくなるんじゃない。」
「世界が、正気を失っているだけ。」
震えながら言う。
「私は未来を汚すかもしれない。」
妻は彼の手を握る。

「あなたが、それをやるなら。」
「私は今夜、あなたの味方でいる。」
その瞬間、凍りついていた血液が流れ始める。
寒気。
鼓動。
恐怖。
そして決意。
彼はアクセス権を発行する。
一人のためではない。
未来そのもののために。
運河を造った狂人が世界の海をつないだ様にね。

ビヨンドレイニー

雨は、止むために降るんじゃない。
そう思うようになったのは、京都へ来てからだった。

四条大橋を渡る。
傘は差している。
でも、靴の中は少し濡れている。
それでいい。
完璧に濡れない人生なんて、どこにもない。
鴨川は何も言わない。
昨日泣いた人間も、今日笑った人間も、 同じ水面を覗き込んで帰っていく。
公平だ。
だから私は、この街が好きだ。
あぁ本当に好きだよ。
愛している。
好き。

木屋町へ曲がる。
雨粒が提灯を滲ませる。
赤も、青も、白も、境界がほどけて、街全体が水彩画みたいになる。
酒場の扉が開く。
「いらっしゃい。」
その一言だけで、人間に戻れる夜がある。
私はグラスを受け取る。
冷えた白ワイン。

安いやつでいい。
高い酒は履歴書を読もうとする。
安い酒は、今日だけを信じてくれる。
カウンターの隅では、誰かが恋を終わらせていた。

入口では、誰かが恋を始めていた。
その真ん中で、店主は黙ってグラスを磨いている。
京都は、誰かのフィナーレと、誰かのプロローグを、同じ夜に並べるのが上手い。
雨脚が少し強くなる。

誰も慌てない。
この街では、雨は災難じゃない。
記憶をゆっくり現像するための時間だ。

西雨が街灯を映している。
空と地面の区別がつかない。
私は笑う。
きっと人生も同じだ。
上を向いて歩いているのか。
下を向いて歩いているのか。
案外、誰にもわからない。
それでも歩く。
雨の中を。
ね。

三日月

会社を休んだ。
世界は私がいなくても始業していた。
悔しいとも違う。
安心とも違う。
ただ、私だけが時間から降ろされた。
雨が降る。
七月の京都とは思えないほど涼しい。
こんな日に、私を私にしないのは暴力だよ。
傘を差してセブン-イレブンへ行く。
店に入ると、冷房が少しだけ現実を薄くした。
竹輪を一袋。
ライターを一本。
レジへ置く。
外を見る。
「本降りかね。」
私が言う。
レジの姉さんは笑って、
「ですね。」
と言った。
それだけだった。
なるほど。
人間って、案外それだけでいいのかもしれない。
店を出る。
河原へ歩く。
ライターを鳴らす。
竹輪を少し炙る。
焦げる。
少し焦げすぎる。
一口かじる。
うまい。
あーはいはい。
そういうことね。
人生って、案外こんな味だった。
格好いい日は、ちゃんと生きなければならない。
ちゃんと働いて。
ちゃんと笑って。
ちゃんと未来を信じる。
今日は違う。
スーパーかっこ悪いを嗜む日だ。
雨は降り続く。
鴨川は何も言わない。
竹輪は少しずつ短くなる。
私は少しずつ人間へ戻る。
何とかなる。
何とかならない日もある。
でも今日は、何とか何とか。
ライターを閉じる。
細い煙が雨に溶ける。
大げさなものじゃない。
七月の京都で雨に打たれて、
竹輪をかじって、
知らない誰かと
「本降りかね。」
「ですね。」
そんな言葉を交わせる。
今日の私は、それだけで存在していた。
アルペジオ死にたい。
死にたいアルペジオ。

ミキオジ・エンド

私は路地犬だ。
首輪はない。 代わりに言葉をぶら下げている。
東山を歩く。 七条を歩く。 鴨川を渡る。
私は何かを探しているのではない。
私そのものを探している。
会社へ行く男がいる。 購買の数字を合わせる男だ。
文学を書く男がいる。 悪魔に名前を与え、運河を掘り、二一七二年へ逃げる男だ。
痩せていく男がいる。 パンをやめ、 米をやめ、 それでも涙だけは減らない。
ライブ映像を見ながら、 四十をとうに過ぎた男が泣いている。
笑われても構わない。
声が、 「まだ終わってない」 と聞こえるからだ。
ののさんはアルファケンタウリへ行った。
ユミカさんは、 「ゴミを捨てられなくなったら行きますよ」 と言った。
テッシは、 「戻れなくなる前に」 と笑わずに言った。
私は全部覚えている。
人は案外、 優しい。
だから余計に、 私は壊れるのが怖い。
夜になる。
私はアストロラーベを回す。
カチッ。
カチッ。
この小さなクリック音だけは、 宇宙より正確に私を現在へ固定する。
城も、 悪魔も、 未来国家アシアナも、 東山界隈も、
全部、
私が生き延びるための装置だった。
陽光が憎い日もある。
何も食べたくない日もある。
「だいじょばない」
そう言うしかない日もある。
それでも私は路地へ出る。
路地は私を責めない。
ただ歩かせる。
歩いた分だけ、 言葉になる。
言葉になった分だけ、 私は少し人間へ戻る。
だから今日も書く。
書かなきゃ死ぬからじゃない。
書くたびに、
「まだ生きている」
と、

東山界隈 ビヨンドレイニー

東山界隈 ビヨンドレイニー

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-12

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

Public Domain
  1. レインブーツ
  2. 高架下
  3. ヘリングガーデン
  4. さくらもよう
  5. 死骸譚
  6. マントファスマ
  7. シートン動物記
  8. キルクルス ブルーバード
  9. マーグメル
  10. ののさんとの出会いがしら
  11. ヴァサゴ 2172
  12. ビヨンドレイニー
  13. 三日月
  14. ミキオジ・エンド