海坂へ③

 三話 彼の世界  

 三話 彼の世界
 
 幼馴染のナギは、小さい頃から怪我が絶えないやつだ。
 気がつけば転ぶし、前を見て歩かないから電柱に頭をぶつけるし、側溝に落ちたことも何度かあった。
 あいつの膝や肘には年がら年中、絆創膏やガーゼが貼られている。
 その度に町の大人は皆、ナギに甘い顔をする。
 俺の親は、まさに典型的な海坂町の大人だ。
 「ナギちゃん膝どうしたの? また転んだの?」
 朝、登校しようと玄関を抜けると、母さんがナギを捕まえて質問攻めにしていた。
 そういえば先週も派手にやってたな。
 「この間小さい神様、踏みそうになっちゃって」
 「まあ、ナギちゃんまだ視えてんのね」
 ナギがこの手の話をすると、町の大人は決まって嬉しそうな顔をする。
 自分たちも昔は視えていたのだと、そういう顔だった。
 俺たちの世代で、視える子供はだいぶ少なくなった。
 普段の俺の目には、雲ひとつないただの夏空しか映らない。
 路地裏の猫はただニャーと鳴くだけだし、夕暮れの海はただの暗い水溜まりだ。
 それでもあいつが「神様」に気を取られて側溝へ落ちそうになるたび、文句を言いながら腕を引っ張ってやるのは、いつだって俺の役目だった。

 「早くしないと遅刻する」
 俺が二人の間に割り込むと、母親に軽く肩を叩かれた。
 「恒平、あんたちゃんとナギちゃん見とくんだよ」
 この台詞、もう何千回も聞いた気がする。
 「はい、はい」
 俺はぞんざいに返事をして、鞄を肩にかけ直した。

 俺とナギは高校へと坂道を上っていく。
 ナギはいつも通り、地面を見ながら歩いている。
 神様ってやつを踏みたくないんだとか。
 と思ったら、急に立ち止まった。
 学校に背を向け、海の方を見る。
 何艘も船が浮かぶ中、一際大きい貨物船が背を向け外海へ出て行った。
 「鯨がこっちに来てる」
 「あぁ、もうそんな季節か」
 「うん。なんか今年は早い気がするよ」
 まだ小学校の頃だったか、ナギに手を引かれて、視せられたことがあった。
 海と空の境目、遠いところで雲をかき分けて泳ぐ鯨の姿を。
 「コウちゃん、傘持った? 午後は雨が降るかもね」
 「ロッカーに折り畳みがあったかもな」
 あいつの視える世界に憧れていた時もあったけど、もうだいぶ昔に諦めた。
 その後は前日のテレビの話や、明日から始まる夏休みについて、どうでもいい話をだらだらした。
 同じクラスなので一緒に教室まで歩き、俺たちは分かれてそれぞれの席に着いた。

 暑すぎる。
 ナギの言うとおり、雨でも降ってほしいぐらいだ。
 窓側の連中は、ノートをうちわ代わりに仰いでいた。
 教卓で担任の山岡が「夏休みだからって浮かれるな」、「節度を持って楽しめ」など言っていた。

 「おい松野、また浦部がやってんぞ」
 後ろの席の吉田に小突かれる。
 別に俺はナギの親じゃねーけど。
 ナギを見れば、空をじっと見つめていた。
 今にも立ち上がりそうなほど、何かを視ている。
 あいつの目には何が映ってるんだか。
 
 雨は降らないまま放課後になった。
 今日は午後休で、早く家に帰れそうだ。
 ホームルームが終わるや否や、ナギは素早く席を立ち、まるで突風のように廊下を走り去っていった。
 「浦部コラァ! 走るな!」
 廊下から体育教師の井上の怒号が響き渡った。
 
 俺も帰り支度をして、廊下へ出た。
 途中で安田先生の猫背を見つけた。
 先週の夜、浜辺で一緒にびしょ濡れになって以来だ。
 先生も俺に気づいたのか、会釈をしてきた。
 俺も会釈を返す。
 「なんか浦部さん、慌ててましたけど?」
 「鯨がこっちにくるとか言ってましたけど」
 安田先生なら、何かわかるかと思ったけど、先生も分からないみたいで首を傾げていた。
 「あと午後に雨降るみたいですよ」
 俺は安田先生に別れの挨拶をして、昇降口へ向かった。

 校門を抜け、坂道を下ろうとした時だった。
 「コウちゃん! こっちこっち!」
 背後から大興奮した様子のナギに呼び止められた。
 あいつは大げさに手招きしている。
 ナギのいる方は、家とは逆の上り坂の方だ。
 「帰らんの?」
 「急いで!間に合わないかも!」
 ちょっと、いや、かなり面倒くせぇと思いつつも、俺は結局、ナギの後を追って駆けだした。

 ナギはまた、お得意の野良猫の通り道みたいな狭い路地へと俺を案内する。
 少しはこっちの体格を考えて欲しいもんだ。
 ナギがひょいと、くぐり抜けられる隙間も、今の俺の身体ではすんなり通れない。
 
 小さい頃からこうやってナギは俺を連れ回した。
 ナギに手を引かれた瞬間、世界が変わるのを俺は知っている。
 あいつはいつも、都合のいいときだけ、キレイな世界へと案内してくれる。

 俺はただ黙って、ナギの背を追いかけた。
 道と呼べない道を十分ほど駆けると、神社に出た。
 ここは子供の頃から何度もナギと来たことがある、町を見渡せる場所だ。
 息を切らせながら、ナギは空を見上げる。
 鯨の様子でも視ているのか。

 「コウちゃん、傘持って来た?」
 「あぁ、ロッカーから取ってきたけど」
 「さっすが! 傘貸して」
 俺がバッグから折り畳み傘を差し出すと、ナギはそれを受け取った。
 雲ひとつない快晴だというのに、あいつは躊躇わずバッと、傘を開く。
 「コウちゃん、こっち!」
 呼ばれて、神社の石段に並んで腰掛ける。
 狭い傘の中で肩が触れた。
 ナギの冷たい体温が肩口から伝わる。

 ——巨大な影が空を覆い、世界が急激に暗くなった。
 同時に、頭上から海鳴りのような鳴き声が、俺の鼓膜を、腹の底を揺さぶる。
 傘の縁をずらし、空を見上げた俺は、言葉を失った。

 本当に、デカい鯨だった。
 ゴツゴツとした巨体はどこか古びた船を思わせた。
 腹に無数のフジツボを張りつかせたまま、真夏の青空を悠々と泳いでいた。
 影が神社の境内をゆっくりと横切っていく。
 「まじで……?」
 「こっちきてるって言ったでしょ」
 ナギは得意げに言う。
 
 鯨はゆっくりと旋回し、今度は海の方へと向かっていくようだった。
 その時、別れを告げるように鯨が一層強く声を上げた。
 途端、その頭部から激しく潮が吹き出される。
 雨のようにバラバラと落ちてくるそれを、俺とナギは一本の折り畳み傘で必死に凌いだ。
 ただ、高校生二人を守るには小さすぎる傘だ。
 お互いの頭を守ることに必死で、気がつけば二人とも、外側の肩をすっかり濡らしてしまっていた。

 潮の雨は、鯨が去ると同時に止んだ。
 鯨はゆったりとその巨体を動かし、水平線へ向かって泳いでいく。
 「あぁ、帰っちゃうね」
 鯨の背を見送るナギは少し寂しそうだった。

 俺はナギから体を離し、傘を閉じた。
 途端に、世界は元の暑さを取り戻した。
 空を見上げてもあのデカい鯨はいない。
 ただ濡れた制服の肩に、ほんのりと潮の匂いだけが残っている。

 ふと顔を上げる。
 鯨が泳いでいった青空の通り道に、何本も虹が架かっていた。
 
 ナギの視ている特別な世界じゃなくたっていい。
 「ナギ、見ろ。虹だ」
 隣のナギが歓声を上げた。
 俺の視界にある、普通のちっぽけな世界でも、探し出せばキレイなものが見つかる。
 俺はそう思いたかった。

海坂へ③

海坂へ③

この町には、人には見えない小さな神様たちが静かに暮らしている。 喫茶店、港、商店街、坂道。 海坂町に生きる人々の日常を、それぞれの視点で見る短編連作。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-11

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