海坂へ②

二話 潮の記憶

 二話 潮の記憶
 
 七月も半ば、期末試験も終わり、もうすぐ始まる夏休みへの期待からか、学校全体が浮ついた空気に包まれていた。
 その空気は職員室にも流れ込み、教師たちの表情も少し緩んでいた。
 去年の秋に定年を迎えた私は、数十年ぶりに生まれ故郷の海坂町へ戻ってきた。
 縁あって、今は地元の高校で非常勤講師をしている。

 夏休みの課題プリントを作り終え、定時までの時間を手持ち無沙汰に過ごしていた。
 そんな中、軽いノックと共に職員室の扉が開いた。
「失礼しまーす。中条先生いますか?」
 間延びした気の抜けた声の主は、三年二組の浦部凪(うらべなぎ)だった。
「浦部さん、また転んだの?」
 呼ばれた養護教諭の中条先生が席を立つ。
「中条先生、絆創膏欲しいです」
「あらあら、また派手にやったね。ちょっと保健室へ行こうか」
 中条先生が優しく促し、二人は連れ立って職員室を出ていく。
 すれ違いざまに彼女の足元に目を向けると、砂利が血で固まっていた。

「また浦部か……」
 隣の席の山岡先生が、机に突っ伏して頭を抱えた。
 まだ三十代の若い彼は、確か浦部さんの担任だったはずだ。
「浦部さん、何か問題でもあるんですか?」
「いやぁ、ちょっと落ち着きないというか。安田先生の授業ではどうですか?」
 山岡先生が苦々しく溜息をつく。
 思い返してみると私の授業中に船を漕ぐ生徒は多いが、彼女の目は開いていた。
 ただ、大抵は窓の外を熱心に眺めていて、そのたびに表情をくるくると変えていた。
 彼女の目は何かを追っているようだった。

「浦部さんって、海坂の生まれですか?」
「ええ……そうらしいですけど」
 山岡先生は「それが何か?」と言いたげな目を私に向けた。
「山岡先生は、海坂の生まれじゃないんですね」
「なんですかぁ、安田先生。勿体ぶらずに教えてくださいよ」
 私は窓の外をちらりと見た。
 かつてあの夏空に鯨が泳いでいた。
「この町じゃ、そういうこともあるんですよ」
「えっ?どういうことですか?」
 山岡先生はぽかんとしていた。
 ちらりと壁の時計を見ると、分針はすでに定時を回っていた。
「それじゃ、お先に失礼するよ」
 私は山岡先生の肩を軽くたたき、職員室を後にした。

 「安田先生、さよなら」
 昇降口で靴を履き替えていると、ちょうど帰るところだった浦部さんがひらひらと手を振っていた。
 膝の怪我はやはり絆創膏では済まなかったようで、大きな白いガーゼで覆われていた。
 「浦部さん、怪我は平気かい?」
 「絆創膏でいいって言ったんですけどね、中条先生が」
 彼女は困ったように笑う。
 「よく転ぶのかい?」
 「うーん、今日は急に飛び出してきた子がいて」
 そう話す彼女の目線は、会話の最中もずっと私の足元へと注がれていた。
 「……今も、私の足元にいるのかな?」
 そう尋ねると、彼女はぱあっと顔を輝かせて私を見上げた。
 「安田先生も視えるの?」
 「もう半世紀も前の話ですけどね」
 気が付けば、それほどの歳月が過ぎていた。
 私は彼女の視線をなぞるように、そこにいる何かを大袈裟に跨いでみせ、彼女と並んで歩き出した。
 
 夕日に照らされた古い町並みや海、空を見下ろしながら歩くこの帰り路を、私はとても気に入っている。
 隣を歩く浦部さんの足取りは軽やかだ。
 坂の途中で、私は意を決して彼女に問いかけてみた。
 「……浦部さんは、アマネを知っているかい?」
 彼女はすぐに大きく頷いた。
 「もちろん知ってますよ。いっつも意地悪なことばかり言ってくる」
 けらけらと笑う浦部さんを見て、私は思わず目尻を下げた。
 「そうだね。アマネは昔から、ちょっと口が悪かった」
 ふと坂下から潮風が上ってきた。
 潮の匂いを吸い込むと、その記憶は昨日のことのように蘇った。
 
 
 ひどく暑い夏の日だった。
 五十年以上前。
 あの頃、夏になれば町の子供たちは皆、海へ泳ぎに行ったものだった。
 泳ぎの苦手な私には、苦痛な季節だった。

 その日も兄やその友達に誘われて、私は嫌々海へ行った。
 最初は浅瀬で水をかけ合って遊んでいた。
 けれど、誰が言い出したのか、対岸の島まで泳ごうという話になった。
 私は必死についていったが、足の届かない場所まで来たところで、溺れてしまった。

 助けを呼ぼうにも口に水が入り込み、声にならなかった。
 藻掻けば藻掻くほど、海面が遠のいていく。
 息苦しさで胸が灼けそうになった時、アマネは現れた。
 海底から、銀の鱗をきらめかせて。
 頬まで鱗に包まれたアマネは、寓話に出てくる人魚とは違い、魚人のような姿をしていた。
 異形の姿でも、私には神秘的に見えた。

 アマネは私の手を取り、浜まで一気に連れ戻してくれた。
 「童が海へ入るな」
 そう低く言い捨てると、アマネは海へ身を翻した。

 それ以来、私はアマネにお礼が言いたくて何度も海へ通った。
 ようやく礼を言えた後も、気がつけば日課のように浜へ足を運んでいた。
 家族も、学校も関係ないアマネの存在は、どこか気安かった。
 私が日常のとりとめのない話をすると、アマネは愛想無く相槌を返してくれた。

 別れは唐突だった。
 夏の終わり、台風が過ぎた翌日だった。
 昨日まで当たり前のように視えていた空飛ぶ鯨の姿が、どこを探しても見当たらなかった。
 路地裏で楽しげに喋っていた猫たちの声も、ただの鳴き声にしか聞こえなくなっていた。
 私は海へ走ったが、いくら波間を凝視しても、もうアマネの姿を捉えることはできなかった。

 私は、ちゃんとアマネにお別れを言いたかったのだ。
 この五十年、その心残りだけが澱(おり)のように胸に沈んでいた。

 私がぽつりぽつりと過去を紐解く間、浦部さんはただ黙って歩いていた。
 傍から見れば、老人が独り言を呟いているように見えたかもしれない。
 「私の家は、この路地を入った先なんだ」
 私が足を止めると、彼女もまた足を止め、くるりと私を振り返った。
 「それじゃあ、浦部さん。また明日」
 私が手を挙げると、彼女は大きく手を振った。
 そして、へらっと笑ってみせた。
 「安田先生。明日の夜、浜に行きましょう! アマネに会いましょう!」
 そう言い残すと、彼女は大きなガーゼの貼られた膝を庇う様子もなく、半ば駆けるようにして夕闇の迫る坂道を下っていった。

 翌日、私は朝から仕事が手につかなかった。
 授業中も上の空で、気が付けば窓越しに海を見てしまっていた。
 浦部さんのクラスの授業でも、彼女は相変わらず窓の外を眺めていた。あまりにいつも通りなので、昨日の約束を覚えているのか、少し怪しく思えた。

 定時になり私は速やかに帰路へ着いた。
 坂道を下る足は自然と早くなった。
 今日ばかりは、あの太陽が一刻も早く沈んでくれることを願った。

 帰宅すると、食卓にはすでに夕飯が並べられていた。
 家内も私も、最近は早くに寝て朝早くに起きる生活だ。
 今夜の献立は好物のカマスの塩焼きで、気を利かせてくれたのか、傍らには冷酒も用意されていた。
 一杯やりたい気持ちをぐっと抑え、私は塩焼きと煮物に箸を伸ばした。
 自然と箸が早くなり、あっという間に平らげてしまったが、それでもまだ空には夕紅が残っていた。
 
 しかし、どうしても待ちきれない。
 私は家内の目を盗み、まるで逃げるようにして浜へ向かう坂道を下っていった。

 何をそんなに急いでいたのだろう。
 日が完全に暮れる前に、私はもう浜へ着いてしまっていた。
 はぁ、と小さく一息つき、私は適当な防波堤へと腰掛けた。

 空には濃紺の帳が下り、遠くで金星が瞬き始めている。
 街灯もぽつぽつと点り、海坂町に夜の気配がすっかり満ちた頃だった。

 「安田先生、早かったですねー」
 気の抜けた声がした。
 背後を振り返ると、半袖短パンのジャージ姿の浦部さんと、その二歩後ろで、闇に紛れるような日に焼けた少年がいた。
 確か、浦部さんと同じクラスの松野恒平(まつのこうへい)だ。
 「浦部さんと松野くん?」
 「安田先生、ごめんなさい。コウちゃんが『夜の海は危ない』って聞かなくって」
 浦部さんは親指で背後の彼を指差し、申し訳なさそうに笑った。
 「普通に夜の海は危ないでしょ」
 コウちゃんと呼ばれた松野くんは、ぶっきらぼうに答えた。

 そんな彼を気にした様子もなく、浦部さんはさっさと浜へ下りていき、暗い海面を見つめた。
 すると、すぐさま歓声を上げた。
 「あっ、アマネだ。ずっと待ってたの?」
 浦部さんが水際まで近寄ると、突如、大きな水しぶきが上がって彼女を襲った。
 「えっ、なに。不機嫌なの?」
 今度は松野くんが近づくと、先ほどよりもさらに大きな水しぶきが上がり、二人まとめてびしょ濡れになった。
 私は慌てて駆け寄った。
 「何があったんだい?」

 私の心配をよそに、二人はけろりとしていた。
 「ちょっとご機嫌斜めみたいで」
 浦部さんの短く切り揃えられた髪からは、ぼたぼたと水滴が滴り落ちていた。
 こんなことがあると予想していたのか、松野くんは手にしたビニール袋から慣れた手つきでタオルを取り出し、浦部さんに手渡した。
 
 「まぁ不機嫌かもだけど、先生、アマネに会ってあげて」
 浦部さんに促され、私は海へ近づいた。
 しかし、私の目に映る海面はただ暗く、時折寄せる波に月明かりが鈍く跳ね返るだけだった。
 あの日と同じ、私にはもう視えなかった。
 「アマネ、いるのかい?」
 半信半疑で、私は誰もいない海面に問いかけた。
 小さな波紋が広がった。
 姿は見えない。だが、そこにいるのだと信じて、私は胸の奥底にくすぶっていた言葉を絞り出した。
 「……すまない。ちゃんとお別れを言えずに」
 私はそう言い、深く頭を下げた。
 ささやかだった波紋が、今度は大きなうねりとなって足元に返ってきた。
 「安田先生、ちょっと肩お借りしますね」
 背後から浦部さんがそう言って、私の左肩にひんやりとした手が乗せられた。

 ――夜の海から闇が吹き払われる。
 空からは星が零れ、月は煌々と照る。月明かりを受けた波はステンドグラスのように輝きはじめた。
 その波間に、アマネはいた。
 銀色の鱗を纏った、昔と変わらない後ろ姿があった。
 返事とばかりに、尾ひれで激しく海面を叩いた。
 それから一度だけ私に振り返った。
 「帰れ」
 その声は震えていた。
 ただ、深海のような暗い瞳が私を射抜いた。
 「……すまない」
 私の言葉を遮るようアマネは身を翻した。
 泡立つ波と共に深い夜の海へと溶けるように消えていった。

 気がつけば、私の左肩から浦部さんの手が離れていた。左肩だけが、まだ冷えていた。
 途端に、視界からアマネの気配がすっかり消え去り、元の暗い夜の海だけが広がっていた。
 
 「安田先生、帰りましょうか」
 浦部さんが、濡れた髪を松野くんのタオルで拭きながら言った。
 その横顔にいつもの笑みはなかった。
 彼女は暗い海の一点を見つめている。
 もしかしたら、まだ、そこにアマネはいるのかもしれない。
 「……そうだね」

 びしょ濡れになった服の重みか急坂のせいか、一歩一歩がひどく重たかった。
 胸に沈んでいた澱は消えなかった。
 それでも、少しだけ海へ返せた気がした。

海坂へ②

海坂へ②

この町には、人には見えない小さな神様たちが静かに暮らしている。 喫茶店、港、商店街、坂道。 海坂町に生きる人々の日常を、それぞれの視点で見る短編連作。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-11

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