海坂へ①
一話 海坂へ
一話 海坂へ
一定のリズムで、電車に揺られる。
普段乗る電車は、ぎゅうぎゅうに押し込まれて息苦しいぐらいだった。
それなのに、場所が変わればこんなに違うのね。
今は閑散とした車内。
対面式のボックス席を、私は独り占めにしていた。
隣の席に置いたトートバッグから、一冊の写真集を取り出した。
もう十年以上前に買ったものなので、少し焼けてしまっている。
それでもページをめくれば、どこか懐かしい小さな港町が鮮明に浮かび上がった。
逃避行の行き先は、決まっていた。
この写真集の中にある町、海坂町。
顔を上げると、車窓には海が広がっていた。
「海坂(うなさか)駅です」
車掌さんの眠たげなアナウンスに促され、重い腰を上げた。
電車を降りると、エアコンの効いた車内から一転、熱気が肌を包んだ。
駅前には、「海坂町」と書かれた木製看板が立っていた。
ぬるい潮風がうなじを撫でる。
私はバッグから一眼レフのカメラを取り出して歩き出した。
駅前では色褪せたアーケード街が出迎えてくれた。お店は開いているけれど、平日の真昼のせいか人はまばらだった。
時代が止まったままの建物や、錆びた看板。
思うまま写真を撮りながら歩いた。
アーケード街を抜けると、商店は少なくなり、ぐっと生活の気配が濃くなった。
車も通れないような細い路地裏には、住人の植木鉢が並び、日陰では暑さから逃れるように猫が昼寝をしていた。
坂の両脇には小さな民家がひしめき合い、その間を細い路地がいくつも伸びている。
目に入るものすべてが魅力的で、つい立ち止まってシャッターを切った。
あみだくじを辿るように歩けば、見覚えのない坂へ出ていた。
まるでこの町は、人を迷わせるために作られたみたい。
そして予想通り、私は迷ってしまった。
駅前の観光案内所で貰った地図を広げるけれど、そもそも今いる場所が分からない。
私は諦めて空を仰ぐ。
シャッターを切りたくなるような、入道雲があった。
「もしかしてお姉さん、迷子ですか?」
ふいに頭上から声が降ってきた。
坂の上には猫っ毛のショートヘアの女の子が立っていた。制服を着ているから、学生さんみたい。
「迷子」という単語に少し引っ掛かったけれど、私は天からの助けとばかりに彼女へと歩み寄った。
「実はそうなのよ。古川旅館って知ってる?」
私は予約した旅館の名前を言うと、彼女はすぐ答えてくれた。
「えっとー、旅館なら坂を下って、別の道で行かないとですね」
地図を見せると、指で示しながら説明してくれた。
「ここを曲がって、そこをくるっと行って……」
真剣な顔で話すけれど、どうにも要領を得ない。
私が首を傾げていると、彼女は困ったように眉を下げて笑った。
「道知ってるから、一緒にどうですか?」
「本当にいいの?」
「この町、迷子になる人多いから」
そう答えると、彼女はさっさと坂を上り始めた。
私が戸惑い立ち止まっていると、振り返って笑顔で手を招いた。
「お姉さん、こっちこっち!」
どのみち、この子なしでは、目的地に辿り着けそうにない。私は慌ててその後を追った。
けれど、その直後に後悔した。
彼女が案内する道は、まるで野良猫の通り道のようだった。
急な坂を上ったかと思えば、突然くるりと向きを変えて、次は狭い民家と民家の隙間をすり抜け、さらに細い路地に入っていく。
若さなのか、地元の子だからか、彼女はトントンと軽やかに進んでいく。
私はカメラが壁にぶつからないように手で庇いながら、彼女の背中を必死に追いかけた。
息が上がり始めた頃には、もう自分がどこを歩いているのか分からなくなっていた。
炎天下の中、ずっと歩き続けた気がした。
額に滲む汗をハンカチで拭うと、彼女はくるっと回ってこちらを見た。
「お姉さんは、写真家さんですか?」
「……へ?」
突然の質問に私は少し面食らう。
「すごい大きなカメラ持ってるなぁって」
彼女は首から提げたカメラを指差す。
「あぁ、全然よ。昔はなりたかったけど、今はただの趣味」
私は笑ってみせた。
もう十年前、確かに学生の時は熱中していた。
このカメラもレンズも、その頃、必死にバイトをして手に入れた高価な物だった。
見た事ある構図、似た色彩。
私の写真は誰かの模倣に過ぎなかった。
今だって憧れだった写真集をカバンに持ってこの町へ来た。
さっきより少し広い道に出た。と言っても、ギリギリ軽自動車が通れるぐらい。
坂を上り切った先には、周囲の民家よりもひときわ立派な古いお屋敷があった。
彼女は門の前で振り返り、手招きして私を呼んだ。
まさか、と思った時にはもう遅かった。
彼女は門扉を開けて、ずかずかと入り込んでいった。
「ちょっと、他人の家でしょ? 勝手にいいの?」
「大丈夫! ミチさんと知り合いだから!」
親指を立てて見せる彼女。
そういう問題なのだろうか。
悩む私を置いて、彼女はどんどん進んでいく。
「ミチさーん! ちょっとお庭通るね!」
手入れの行き届いた庭の向こう、開け放たれた縁側に向かって彼女は叫んだ。
ミチさんの姿は見当たらない。
代わりに縁側で大福のような白猫が鎮座していた。
白猫はひとつ欠伸をして、尻尾を揺らす。
まるで「好きにしろ」とでも言うように。
あまりに絵になる光景に、私はシャッターを切った。
庭の垣根の隙間を抜けた瞬間、海と空が視界いっぱいに広がった。
私は思わずカメラを構える。
眼下には海坂の町並みが見えた。
あの写真集にも、こんな景色が載っていた。
「お姉さん、近道するね」
声がした次の瞬間、隣にいたはずの彼女の姿が消えた。
「えっ……」
海を切り取っていたファインダーの中に、彼女の姿が飛び込んでくる。
彼女は庭の先、一段下にある屋根の上で満面の笑みを浮かべ、こちらへ手を振っていた。
「お姉さんも来て来て!」
「いや! ムリだって!」
庭の端から屋根までは、せいぜい数十センチの隙間しかない。
けれど、その下は思ったより高く、足が竦んだ。
傾斜のある瓦の上で足を滑らせたら、大切なカメラもろとも無事では済まない。
ジリジリと太陽が肌を灼く。
庭の木々では蝉が鳴き続けていた。
その声まで「早く、早く」と私を急かしているように聞こえた。
私が立ち尽くしていると、さっきの白猫がのそのそと歩み寄ってきた。
白猫はじろりと黄色い目で私を一瞥した。
可愛げなくフンと鼻を鳴らすと、そのまま屋根の上で待つ彼女の元へ、いとも簡単に飛び移ってしまった。
「シロさん、足焦げるよ!」
熱された瓦屋根の上、彼女は猫をシロさんと呼び、急いで抱きかかえた。
抱えられた白猫のシロさんは、半眼で私を見つめていた。
「早くしろ」とでも言いたげに。
私は覚悟を決めた。
カメラのストラップを首にかけなおす。
もう、どうにでもなれ。
私はぎゅっと足に力を込め、地面を蹴った。
宙に浮いた瞬間、身体がひどく重かった。
イメージと違って、私の体は前へ飛んでいかなかった。
着地地点は、本当に屋根のギリギリの縁だった。
バランスを崩し、後ろへ倒れそうになる。
「うわっ!」
思わず叫んだ私の視界に、紺色のスカートが翻った。
差し出された手を、私は懸命に掴んだ。
その手は汗ひとつかいていなくて、驚くほどひんやりしていた。
「どんくさい女だ」
低い声だった。
私は反射的に辺りを見回したけれど、彼女しかいない。
足元では白猫が半眼でこちらを見上げていた。
「シロさん、口悪いよ」
呆然としたまま顔を上げ。
そして息を呑んだ。
——急激に世界の彩度が上がった。
海は深く、空は高く。木々の青葉は揺れ、その輪郭から淡い光の粒が揺らめき立っていた。
「あっ……」
潮風に誘われるまま海を見て、私は目を奪われる。
白昼の空、沸き立つ入道雲を掻き分けるようにして、巨大な鯨が泳いでいた。
大きな尾ひれがゆったりと上下するたび、太陽の光を反射した虹色の飛沫が、きらきらと世界に降り注いだ。
そう、私はこんなモチーフを探し続けていた。
カメラを構えようと、私は彼女の手を離した。
ひんやりとした感触が途切れた瞬間、空を泳ぐ鯨の姿は消えてしまった。
「お姉さん、あともう少しで旅館ですよ」
彼女は笑顔で指差す。
その方角には旅館と思しき建物があった。
「あっ……うん。ありがとう」
生返事で私は答える。
頭の中がまださっきの光景を引きずっていた。
塀伝いに屋根から下りると、坂の下に旅館はあった。
年季の入った建物には「古川旅館」と木彫りの看板が掲げられていて、心底ホッとした。
「ありがとう、着いて良かった」
素直に思ったことを伝えると、彼女は大げさに手を振った。
「いえいえ、どういたしまして! 写真、いっぱい撮ってくださいね」
彼女の足元には、庭で見た白猫が当然のようについてきていた。
私はしゃがみ、白猫にカメラをぶつけないように気をつけながら頭を撫でると、機嫌が良いのか悪いのか分からない、不思議な表情で見上げられた。
白猫がまたフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた先、日に焼けた男の子が坂を下りてきた。
「ナギ、何してるんだ」
「今ね、お姉さんを旅館に案内してたの」
ナギと呼ばれた彼女が私の方を見やると、男の子が小さく会釈をしてくれた。
「すみません、ナギが面倒かけたみたいですね」
彼のどこか保護者じみた言い方に、年下相手なのに、つい敬語になってしまった。
「とんでもないです! あの、道案内をしてくれて……」
「あいつの案内する道は、人の通れる道じゃないでしょ」
すべてお見通しなのか、彼はナギの額を小突いた。
ナギはへらっと私に笑いかけた。
「お姉さん、海坂へようこそ」
その言葉を背に、私は年季の入った旅館の戸を引いた。
ガラガラと鳴る懐かしい音が、私を迎えてくれた。
振り返ると、煌めく海へと続く坂。
ショートヘアを揺らす女の子と、日に焼けた男の子、そして一匹の白猫が、仲良く並んで坂を下りていく後ろ姿が見えた。
あの子のひんやりとした手の感触だけが、なぜかいつまでも右手に残っていた。
海坂へ①