疑似神道信奉者(自称・国際ケシスタン)による祝詞


曰くケシストによれば政治とは政治ではなく景勝であり、その景勝的な政治機構が自ずと必要な景勝を果し続けてゆくのだという。
曰くケシスタンによれば景勝とは信仰ならざる信仰であり、そのような仮想宗教風の仕組みや強制力でしか景勝は果されないというらしい。

曰くケシストによれば景勝的でない者は野蛮なれども、景勝が身の周りを取り囲めばひとりでに正しい道に目覚めることだろうという。
曰くケシスタンによれば野蛮なる者は敢て嘗ての宗教のように宗教的に導き感化し軌道修正してやらなければいけない存在なのだという。

曰くケシストによれば、技術的可能であり続ける限りもう集会やデモ行為などは禁止されるか自粛されるべきであるのらしい。
曰くケシスタンによれば、或る意味で極端な方向を向いて居るケシズムが社会にすんなりと受け入れられるには結局は対面など人肌を感じ合う状況を利用していかなければならないという。

曰くケシストによれば世界から差別や優越感はもちろんのこと、いかなる善からぬ競争も戦争もなくなることはないのだという。
曰くケシスタンによれば世界から差別や戦争は確かになくならないとは認められようとも、もしかしてそれも可能かも知れないように敢て我々自身が宗教的にケシズム的方向性を以て人類を導いていかなければならないのだという。

曰くケシストによれば目に見える人類文明のありとあらゆる建築物や作品や事象などはすべて空虚であり、それらを齎した地球の自然環境こそのみが注目すべきものなのだという。
曰くケシスタンによれば、地球上の人類のありとあらゆる創造物にはそれそのものに価値どころか数々の意志が宿って居り、いまいちど深くそれらに恰も宗教的に思いを馳せる必要があるという。

曰くケシストによれば文明自体や国や社会は地球の自然環境に単に由来するものであるが、人間ひとりひとりは環境ではなくあくまでもその者自身に由来するものであるという。
曰くケシスタンによれば、人間ひとりひとりもすべて地球環境の賜物であるとして皆で認識共有しておくべきであり、何も誰も自分の責任を自分自身で負い続ける必要はないという。



ケシストは言う

景勝とは精神的なものではなく、専ら視覚的な物理的なものに過ぎない。
しかもそれは、敢てである。
精神的なもの、内なるものは何時までたっても不変であり、それはつまり永久に変らないという意味ではない。
我々には変えようのないものだということであった。長い何千年以上の月日に育まれ形作られた各大陸劃文明各人種民族たちのこびりつく「癖」は、同じように何千年やそれ以上の時間を以てしても変えられるのか定かでない。変えようとするな。そんなものより、今その時に我々にできることがある。
それが景勝であり。景勝とは映えであり、その共有であり、映える趣向と態度であろう。
よって宗教。そいつは映えない。いや何、信仰はこれからも持ちたい者は持つがいい。
だが景勝なる表向きにはそなた達はあくまでも景勝の一部をなす歴史的な素材に過ぎない。敢てである。
それは単なる文化遺産か?いや違う。そなた達を信心深くたらしめたその宗教の脈々と受け継がれてきた教えという歴史的事実そのものが指し示す「映えの傾向」に沿って然うした映える宗教であろうとする、極めて、極めて敬虔なそなた達の日常風景。
我々は目の敵にするのではない。宗教信者に、是非とも然うした景勝的責任と自覚を約束し続けてほしいに他ならないのだ。



ケシスタンは言う

主よ(あ~、ぽい)
主よ、恵みを与えたまえ(うん、ぽい。すごい、ぽいわ。てか恵みを与えるも与えへんも神次第なんやから何で神に命令しとんねん話やけどええわ、ぽいわ)
神よ(うわ~敢て宗教宗教した宗教やって自分も認識しとるし周りも認識しとる上で宗教宗教してる風の人間を演じれてるぅ~)
わたしはあなたを愛します(うわ~ええ歳した成人男性が愛とか言うのって幾ら宗教めかした儀式中やいうても何かキモない?大丈夫?)
神よ、皆を愛されよ(いや別に神が愛するも愛さへんも神が神なんやったら最初から決まっとるんちゃうのん?まあ、まあええけどな別に、映えたらええねん映えたら)
神はともにあられよう(まあ、ともにあるいうだけで色々な試練が降りかかってくるのを止めてはくれへんねやけどな)
神よ永遠なれ(別にわてらが言わんでも永遠やのに、丸でほんまは永遠やないみたいやんか)
神よ、神よ感謝します(利害関係、やったんか?わてらって)
皆々よ、神へ平伏せ(まあ平伏さへん奴も神が然うさせてる思たら、もっと器の広い人間になれる思うけどな)
神のために、我が子よ、羊たちよ(まあ、感動してもええ思う。嘗てのほら、ガチで神を信じとる人とか、いやこんな宗教ごっこやめよや!いうて敬虔な人たちを妨碍する人とか、そんなんわかった上で日常の心の支えとして宗教を利用しとるだけなんやから然うムキにならんとそっとしといたろや?言う人とか、色んな人がバラバラに宗教に向き合ってたのと比べたらさ、「いやもう宗教がどうとかそんなん理解した上でこの国この社会この景勝が映えるために一市民として責任もって協力しましょや!」いう感覚の下でみんなが合意して一つになって宗教宗教できてる感じがもう素晴らしいやん!めっちゃ嬉しいわ)



そして、我々、日本人

神さま神様!(一禮二禮)
私たちは時々にケシストであり、また時々にケシスタンなり。
断言する。
神に祈り神に尽したいわけでもなく、神社に参り仏寺のイイ感じの雰囲気を味わいたいだけであることを。
本当に心の底から神に祈りを捧げる人が居たら、決して軽蔑はしないにしても、少しばかり距離を取る。
逆にこれらすべてが景勝行為であり地球という「場」を盛り上げるために敢て然ういう感じに振舞ってることが手に取るようにわかるようなら、私もそれに同調しよう。
見様見見真似で言ってみるのです。神さま神様!神様ってね。
不敬な者だと思いましょうかね?
何れ誰もが気づくというより認めるところではないんですかね。これこそが本来の我々が追い求めてきた信仰であると。
世界が追いつくだの、我々に感化されるだのでもありません。ほんの偶々自然の成行のそのままにして、我々が正解のすぐ近くに居たというだけでしょう。
映え。映えですよ。而もそれは意識されて我々の手で、丸で神の業を再現するかのようにまた一からつくり上げられるものなのでしたよ!ですから映えつつ、斯うして参るわけですよ!
(一禮二禮)
(両手でパンパン)
何か知りませんが、何かイイことを叶えて下さい。畏み畏み、、、。
ば、映えたか?映えましたかね。然ういうことならそれは良かった。また映えたい時に参りますから。それまでちょっと、待ってて下さい。

疑似神道信奉者(自称・国際ケシスタン)による祝詞

疑似神道信奉者(自称・国際ケシスタン)による祝詞

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-09

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