映画『スーパーガール』レビュー

 幼少期から地球で暮らしてきたクラークにとって、故郷の滅亡という事実が体験を介さないある種のフィクションのように処理できるのに対して、カーラにとっての「それ」は肌で実感した危機であり、耐え難い別れを生んだ現実であったことを思うと『スーパーガール』の出発点がかなり異質なのもよく理解できる。
 ヒーローでいる前に、自分自身として立つことが難しい状態にある彼女に誰かを救う余裕なんてある訳がなく、痛みの記憶を忘れるために飲酒を繰り返すから、アルコールに酔える私でいるために、黄色い太陽=スーパーパワーも積極的に忌避される。
 およそ観客の期待に応えられない状態から始まるストーリーにおいて事態が上手く進む訳がなく、無事に本命と会敵しても、誰かを助けることでクリプトを救うという自分の目的が果たせないというジレンマが頻発する。それにイラつくカーラの言動には激しく共感できるが、それは一般人である私たちの日常の感覚であって、スーパーガールたる彼女の口から聞きたいものなんかじゃ決してない。悩み方の次元でいえば、カーラは本当に等身大で、ヒーローのものになっていない。それでも、運命の時は迫る。
 クリプトも、結局は滅びた故郷の忘れ形見といえる愛犬だから、その存在が失われる恐怖と向き合わないと彼女は何も救えない。酩酊状態に陥っても、死の危機に瀕しても、無慈悲なほど等しく頭の中に浮かび上がる過去=記憶を脱しないと、未来を掴めない。
 意志を持ち、力を取り戻して臨む最終決戦の場に単身で飛び込んだカーラが、それでも変則的な戦闘スタイルをとる相手に翻弄されて、もう何度目だよって突っ込んでしまうピンチに見舞われる一方、復讐に燃えるルーシーがひとり敵に囲まれて、即死級の大ピンチに陥ったのを「救う」と決めた途端、まさにスーパーガールの活躍を見せたのは①ある意味、ルーシーが囮になる格好で敵をまとめ上げ、多人数戦において最も有効な奇襲をカーラが仕掛けられる状況を作り上げたという戦術的な正しさに加え、②「誰かを救える自分になれ」という両親の遺言どおりに行動選択できた私=スーパーガールであり続けることが、二度と還らない故郷に最も近づける道だったというカーラ自身のドラマを描写する手段になっていて、ひどく感動した。しかもここにおいて全ての人物のアクションが歯車のように噛み合い、それまで積もりに積もった鬱憤を吹き飛ばすほどのバトルを繰り広げられるのだからニヤつきがまぁ、止まらない。
 ヘロヘロの状態で堂々と小便するし、ゲロは吐くし、敵対する相手にもボコボコにされるしで、カッコいいシーンなんてほとんどなかったカーラが最後の最後で『スーパーガール』ビギニングの狼煙を上げる。その意味は、善性に満ちたクラークの活躍と異なり、復讐の刃をどうにか収めたルーシーに対して「気持ちが変わらないうちに、ここを離れて」と声をかけ、そのすぐ後でゲスい言葉を吐くヤツに対してカーラが問答無用の殺人を実行したことを踏まえると熱さが増す。
 彼は正しさを見るけど、私は真実を見る。
 その言葉どおりに両手を真っ赤に汚して戦場を去る姿がフツーのヒーロー映画じゃ描けない、最高のニュアンスを劇中で保持するのに大成功していて、ロボと肩を組んで彼女をひたすら褒めちぎってるトンデモ幻想すら抱いてしまった。
 前作と比べると、確かに面白さの点でスケールダウンしてる印象は否めない。けれど、あくまでカーラ自身の内面に焦点を当てると、全カットにとんでもない味が生まれる。クリプトが死ぬ可能性がより現実味を増して心が耐え切らなくなった時、たった一人で宇宙に飛び立ち、無音で泣いたあの子が残した涙の塊に覚える感情は、曇りなき眼(まなこ)で本作を鑑賞する時間を与えてくれるはず。どこの映画館でも軒並み上映回数が減っているけれど、まだまだ間に合う良作です。興味がある方は是非。

映画『スーパーガール』レビュー

映画『スーパーガール』レビュー

①内容に触れるネタバレを大いに含んでいます。事前情報なしに鑑賞されたい方はご注意下さい。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-08

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