【第二話】密着したロッカーからの脱出


【第二話 密着したロッカーからの脱出】


 また、閉じ込められた。
折原はロッカーのなかに閉じ込められた。場所は、二ヶ月前から通っている高校の一年生の教室。その後方に置かれた掃除用具入れのなかだった。仕舞われていた箒や塵取は、入るときに外へ放り出した。それでも非常に窮屈であったのは、閉じ込められたのが彼一人だけではないからであった。
「…………驚愕だ。困った」
 折原より頭一つ分背の高い女性だった。胸のなかに折原を抱きしめるような体勢で、共にロッカーのなかへ押し込められていた。
 彼女の頭頂部はロッカーの天井を擦っており、彼女の両肩はロッカーの壁を突っ張り棒のように左右へ押している。まさに「ぎっちり」と収まっており、振り返ることはおろか身じろぐことも難しい。
 そんな巨躯へ正面から埋もれてしまい、折原は動きを封じられていた。ロッカーと肉体の間で押し潰されている。脚の間に差し込まれた彼女の太もものせいで、腰を落とすこともできない。顔面は柔らかいもので覆われており、声を上げることすらできない。呼吸が何とか可能な程度だった。
 これが〝密房の儀〟の仕業であることなど明白だ。
 だから折原は、早急にここから脱出しなくてはならない。キスによって縁が結ばれてしまう前に、抜け出さなくてはならない。
 ──だが、どうやって?
 狭いロッカーのなかで互いに密着し合っているため、どちらも身動きがとれない。
 いつものように調べることや、会話をすることすらできない。
 ここまで近ければ──キスを防ぐことも難しいだろう。
 折原は憂鬱を覚えて、心のなかで溜息を零した。
 そして思い出す。
 一体何故、こんなことになってしまったのかを──。

 深夜。折原は高校の廊下を忍び足で歩いていた。
 一週間後の衣替えを待てずして、彼はワイシャツ姿であった。捲り上げた袖から覗く白皙の手で、じっとりと滲むような汗を拭う。
 通学用のリュックは背負っておらず、代わりに小さめのトートバッグを左手で持っていた。真っ暗な廊下に、カチャカチャと音が響いていた。
 スマホのロック画面に目をやると、〝協力者〟からテキストメッセージが来ていた。
『先輩。リストの入手に成功しました』
 折原は思わず足を止めた。
それは、彼がずっと待ちわびていた報告であった。
『ありがとうございます。本当にありがとうございます』
『でも、〈雨野(うの)円(まどか)〉が載っているとはまだ限りませんよ』
──雨野円。それは、彼が三年以上探し続けている想い人の偽名である。なぜ偽名かどうか分かるのかというと、昔本人に訊いたからだった。彼女から薦められた小説のなかに「Unknown」をもじった「U.N.Owen」という名前があり、彼は気がついた。「U.N.O」で雨野。「wen」でエン──円である。本人に問い詰めるとあっさり偽名であることを認め、その後本名を教えてくれることは無かった。
『可能性はかなり高いと思います。さっそく送ってもらえますか?』
 折原は忍び込んでいるということを忘れて興奮気味にメッセージを打ち込んだ。
 すると、〝協力者〟からの返信がしばし止まった。
『……すみません。私の家まで来てもらえませんか』
『何故ですか』
 また、返信が止まった。
『直接じゃないと見せられません。今からとかはどうですか?』
 折原は首を傾げた。リストなんてパッとデータで送れるはずだ。直接じゃないと見せられない理由とは何だろう?
 もう少し問い詰めようかと思ったが、彼は止めた。〝協力者〟は善意で見返りなく雨野円の捜索に協力してくれているのだ。機嫌を損ねるような真似はしたくなかった。
『分かりました。ですが、今はちょっと学校にいるので、また後日伺います』
『? 学校? こんな夜遅くにですか?』
『はい。ちょっと忘れ物をしまして』
『明日取ればいいのに』
『いえ、すぐにでも回収しておかないといけないものでして』
 と、折原はトートバッグに目をやった。
自分が〝これ〟を忘れて帰宅するなんて、あり得ないことであった。そのため、折原はそこに〈運命の手招き〉を感じていた。
 だが〝これ〟を置きっぱなしにすることの方が気がかりだった。放っておけば、それもまた何かしらのファクターに成り得る。より面倒な事態のファクターに……。
 葛藤の果て、彼はわざわざ高校へ侵入し、こうして回収しに来たのだった。
『もう済んだので、これから帰る予定です。あぁ、そうだ。先ほどこんな落書きを見つけました』
 折原は写真を一枚送った。体育館裏の壁に、二メートルほどの魔法陣が描かれているのを発見したのだ。
『え、なんか落書きにしてはめっちゃ描き込まれてますね……。グラフィティアートでしょうか』
『そう視えますね。でも、わざわざ高校でやるのは分かりません。明日にでも見つかって消されてしまいます』
『ですねぇ……。ていうか、先輩。こういう変なものって、大体あれの予兆なんじゃないですか?』
『あれ、とは?』
『ほんと普段はポンコツですよね。儀式ですよ、儀式!』
「そこで何してる」
 折原はハッと顔を上げた。廊下の角に警備員が立っていた。今ちょうど曲がって来たのだろう。手には懐中電灯を持っていた。その光が近づいてくることに気がつかないほど、彼はメッセージに夢中になっていた。
「ここの生徒か? この時間は立ち入り禁止だ」
「えーっと……福田先生から許可は頂いていまして」
「そんな共有事項は無い」
 嘘はすぐにバレてしまった。儀式のこと以外では気が抜けるのか、折原は結構ポンコツだった。
「そもそもどうやって入った? センサーがあるから、すぐに通報が来るはずなのだが……」
 それは〈偶然の重ね合わせ〉による恩恵だった。儀式に導かれているのなら、センサーが壊れていたりオフになっていたりと〈偶然〉が働いて侵入できるだろう。彼はそう踏んで侵入してきた。
 飛んで火にいる夏の虫、であることは分かっていた。
 だが〝これ〟という火種を放置することの方が重いと判断したのだ。
「とにかく、一緒に守衛室へ来い。詳しいことはそこで──」
 はたと警備員が声を止めた。そして、誰かに呼ばれたように角の向こうへ顔をやった。
「……なんだ……?」
「?」
 折原には、警備員の目線の先が死角になっている。彼が何を見ているのか分からない。
 首を捻りながら、警備員が顔の向きを元に戻した。その視線が、折原から、折原の背後へと移され、「あ……、あ……!?」驚愕で目を見開いた。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
 と、悲鳴と共に尻餅をついた。そのまま腰を抜かしたのか、床の上でばたばたと両脚を暴れさせている。一体何を見たのだ、と折原が振り返るよりも早く、彼の頭上を──分厚い風が舞う。何者かが、飛び越した。
 目の前に着地したのは巨大な獣であった。
 三メートルはありそうなほど大きかった。たっぷりの黒い毛に覆われた、狼のような見た目の獣。獰猛さを示すように牙を剝いている。肉食であることは明白だ。
 折原は驚いて、思わずタタッと退いた。すると獣が振り返り、ギラギラとした赤い眼で彼を捉えた。
 その後は無我夢中だった。
 折原は走った。そのままタイムスリップができそうなほど走った。逃げるため、生きるため、存分に校則を無視して走った。
 獣は全速力では追って来なかった。どこか弄ぶようにゆっくりと、あるいは急に突進するなど、不規則に迫ってきた。
「──うわぁっ!」
 体育館の方へ逃げようとしたとき、彼は何かを踏んだ。そして滑って転んだ。見ると、布切れが廊下に落ちていた。つるつるとしたポリエステルのような素材だったので、滑りやすかったのだろう。
 折原は立ち上がりながら、外へのドアが施錠されているのを見た。そのガラスに反射して、すぐ後ろに獣がいることも分かった。仕方なく二階へと駆け上がった。強く打った二の腕が痛かった。
 掃除をきちんとしなかった生徒の誰かを恨む。もし転んでいなければ、ドアを破る時間くらいはあったかもしれない。
 これも〈偶然の重ね合わせ〉──なのか。
 折原は階段を上がった勢いのまま、正面の壁にぶつかった。そこにある窓から、階下の様子が見えた。
裏門の前に警備員がいた。道路へべったりと座り込んでいる。もう門の外へ脱出できたようだった。きょろきょろと顔を振っている。
 ──と、窓のガラスに穴が開いていることに気がついた。だが飛び出すには小さい穴であった。折原の腰では引っ掛かりそうである。
 では窓を開けて、一か八か落ちてみるか? 否、鍵はかかっている。そして、獣が、階段を昇ってくる気配もしている。
 助けを叫ぶ間も惜しんで、折原はまた駆け出した。
 そして、自身がいつも通っている教室に飛び込んだ。どこか帰巣本能があったからかもしれない。
 後方にある机の下へ身を潜ませた。
 口を手で覆い、呼吸すら我慢する。ばくばくと高鳴る心臓が痛む。
 ちらりとドアへ目をやった。
 その磨りガラスに、真っ黒な影が映る。のそり、のそり、と歩いていく。何かを探すように止まる度、折原は生きた心地がしなかった。
 そして獣は、ドアの間を通り過ぎて行った。折原はそっと机の下から這い出した。そのとき、椅子の脚に腕を当ててしまい──倒れそうになった。彼は咄嗟に背もたれを支えることで、床への衝突を防いだ。
 幸い、大きな音は鳴らなかった。
 だが油断した彼が、とっ、と一歩踏み出したとき。
 獣が教室へと飛び込んできた。
「…………っ!!」
 教室前方の扉を吹っ飛ばしながら、黒い巨体が現われる。身を硬直させる折原に、まるで笑うような顔で牙を見せつける。
 後方の扉は、閉めていた。隠れていたのだから当然だ。扉を開けて、廊下に出る。そんな動作を、果たして獣は待ってくれるだろうか。
 にじり寄る獣に、折原は祈るような気持ちを抱く。
 ──あぁ、早く。

 早く、儀式よ、起こってくれ──。

そんな都合のいい祈りが通じたのか、後方の扉をガラリと開けて、一人の女性が飛び込んできた。
 彼女は華麗な身のこなしで、折原と獣の間に立った。そして獣に「──止まれ」と冷たく告げた。
 その姿に、折原は目を見張った。
 銀髪がやや左寄りの位置でくっきりと分け目を作っており、首の中腹まで下ろされている。毛先はまるで刃物のように鋭利に切り揃えられていた。冷たく、タイトな印象を受けるセンターパートボブ。左耳だけ髪をかけて露出しており、非対称の色気があった。
 背は高く、筋肉質なシルエット。そんな肉体のラインを、ぴっちりとした紫のボディスーツが包んでいる。戦闘員のような、スパイのような、SF的な世界観の漂う出で立ちであった。
 彼女の言葉を無視して、獣は好戦的な態度を崩さなかった。ぐるぐると喉の奥で唸りながら、口をもぐもぐと動かし始めた。その牙の隙間から、白く揺らめく光が覗く。
「まずいな」
 女性は折原を振り返ると、背後にあった掃除用具入れを指した。
「ブレスが来る。そこへ入れ」
 折原は頷き、すぐさま中身を床へぶちまけた。
 そして身体をねじ込み、さて彼女はどう防ぐのかと顔を上げたら、視界が紫色で染まった。
 ぼうっ、という音がした。熱と風圧が襲い来る。ブレスが──巨大な炎が吐き出されたのだ。その勢いでロッカーの扉が閉まったので、折原と女性はぎりぎり消し炭にならなくて済んだ。
 そして獣の気配が消えるまで待ってから、ロッカーから出ようと折原が彼女の身体越しに扉を押した。するとビクともしなかった。
 折原が願った通り、こうして二人は閉じ込められて、儀式が始まってしまった。

 鍵が締まったのだ、と折原はすぐに分かった。
ロッカーの扉を強く閉めてしまうと、壊れかかった錠が変に動作して、カチリと締まってしまうのだ。そうなったら、黒板横にかけられた鍵を取りにいかなくてはならない。彼は教室の掃除当番を週一で勤めているので知っていた。
 だが、ロッカーの内側にいながら黒板横の鍵を取りに行くことは、できない。
 彼は両腕を伸ばして扉を探ってみることにした。スチールの感触はまだ熱く、指先に痛みが広がる。焦げ臭い香りまでしていた。
「動くな」
 と、頭上から冷たい声がした。追い詰めた凶悪犯に告げるような声色だった。
 折原は動きを止め、顔を上げようとした。「……むぐっ」不可能だった。彼の顔面は豊満な肉のなかへ深く沈んでいる。
「鼻を擦りつけるな」
 そんな声すら、乳房に塞がれた耳では聞こえにくかった。
 視えない、喋れない、聞こえづらい。
 屈んで抜け出すことも、彼女の太ももが邪魔して叶わない。
 鍛え上げられた腹筋の硬さが、まるで見せつけるように折原の腹へと密着している。
 自由なのは両手だけ。彼女の背中の向こうにある扉を、何とか触れるだけ。
 せめて彼女が振り返ることができたら──その逞しい膂力で鍵を蹴破れるかもしれない。殴り飛ばせるかもしれない。
 だが、どうやって? 先ほど見た身長と体格を思い出せば、それが今ロッカーに収まっていることが奇跡のように思えた。
「呼吸もするな。くすぐったい」
 そんな無茶な、と折原は思った。だが言い返そうと口を動かせば、まるで彼女の谷間を舐めるような動きになってしまう。じっと口を閉ざした。
 鼻だけで、できるだけ静かに呼吸する。
 ……汗と火薬の匂い。その奥に微かな甘い香りがした。
「──いいか? 命が惜しくば、余計な真似はするな」
 突き放すような彼女の言い方。しかし折原は、「良かった」と内心で喜んだ。
 儀式による好感度の上昇には個人差がある。
 嫌われているほど、無関心であるほど、キスに至るまで時間がかかる。彼女の冷徹な態度を見て、今回は猶予がありそうだと判断したのだ。
 ──ピピッ。
 と、電子音が鳴った。続いて、音質の悪い声が聞こえた。
『あー、あー、こちらベルフラ。こちらベルフラ。応答せよ』
 仲間からの通信だろうか。そういえば、彼女の首にヘッドセットのようなものがかけられていた気がする。そのスピーカーから聞こえているのだろう、と折原は考えた。
『エクメア? エクメアちゃーん? あれっ、もしもーし?』
 エクメア。それがこの女性の名前か、と折原は覚えた。
 しかし返答をしないのは何故だろう。そんな折原の疑問に、
『……まさか、またマイク壊れた?』
 すぐに答えが用意された。
『まー、位置情報も分からない安物だからねー……。早く成績上げて、いい支給品貰わなきゃ』
 明るい声色に、折原はじっと耳をすませる。今は少しでも情報が欲しい。
『それで、今どこにいるの? エクメアの方が向いてるから、先に侵入して見つけたらすぐ連絡って話だったでしょ? 全然通信無いから私入ってきちゃったわよ。あ、裏門はなんか人がいたから、正門からにしたわ。……もしかして、先に一人で手を出しちゃった……?』
エクメア本人は気まずそうに黙っている。
『あ、分かった。それでしくじってマイク壊したんでしょ? 駄目じゃない! あなたはまだまだ未熟なんだから! 私がいなきゃ、サニィには勝てないわ』
 サニィ──とはなんだ? と折原は考える。
『ヤツは人間を食べることで力を増すの。あなたが先走ってもし敗北したら、私や、別のハンターに迷惑がかかる。その辺しっかりと意識して動きなさい。いい? ──とにかく、一旦正門に再集合しましょう。サニィはさっき二階で見かけたわ。あとブリーダーにも鉢合わせないよう気を付け──』
 不意に、ベルフラの言葉が途切れた。
 同時に、獣の唸る声が一瞬だけ聞こえた。
 プツッ──と通信が終わる。
「……!」
 ──獣に襲われたのだ。
 エクメアがぶわりと緊張するのを、折原は肌越しに感じた。
 束の間の静寂の後、「……冷や汗ね」とエクメアが呟いた。そして、肘でガンガンとロッカーを叩き始める。かかとで扉を蹴り上げる。突然の荒々しい行為に折原は驚いた。
 だが四肢の可動域は高が知れており、ろくに振り被ることができない。エクメアは駄々を捏ねるように暴れたが、スチールの壁は揺れるばかりで穴を穿つことはできなかった。
「……焦っている。冷や汗だらだらだ」
 と言いながらも、彼女の口調は変わらず淡々としていた。
 しかし確かに心臓が早まっていた。密着している折原には分かった。
「早く出なければ相棒が危険だ。それに、サニィが校外に出たら……誰かを襲ってしまうかもしれない。──なぁ、お前」
 話しかけられて、折原は思わず頭を上へ傾けた。鼻先が胸を押すばかりで、視界が明るくなることはない。
 動くな、とは言われなかった。
「余計な真似はするなと言ったが、……前言撤回だ」
 エクメアが、ふぅ、と小さく息を吐いた。自分自身を落ち着かせるように。
「協力してくれ。多分、私一人じゃここから出られない。……態度が悪かったのは謝る。苛々している場合じゃなかった」
 もがもが、と折原は首を横にした。気にしないでくれ、と伝えようとしたのだ。
「……大切な相棒なんだ」
 それは、どこかしおらしく、棘の無い声色だった。
 折原は彼女の性格について少し認識を改めた。

 先ほどの通信で、色々な名前や設定が溢れだしてきた。折原は混乱しないように頭のなかで整理した。
 まず、今抱き合っている銀髪の女性の名前は〈エクメア〉。
 そして通信相手の名前は〈ベルフラ〉。やや高圧的な喋り方からして先輩だろう。
 二人は〈サニィ〉を倒すために学校へ侵入した。サニィとは恐らく──例の黒い獣だ。人間を食べる、と言っていたから間違いない。
 〈ハンター〉、というのは職業名か? 獣を狩るからハンター。シンプルなネーミングだ。そういう組織があるのだろう。
 突飛な世界観だったが、彼はすぐに受け容れた。こういうのはもう慣れっこだった。
「蹴っても押しても開かない……。やはり鍵がかかっているのか? お前、扉に手は届くか?」
 折原は頭を縦に動かした。
「壊せそうか確認しろ。お尻や脚に触れてしまっても構わない。……だが、背中だけは別だ。そこは絶対に触るな」
 折原はもう一度頷き、気を付けて手を伸ばした。人間、弱点の一つや二つはある。
 もう熱くはなかったので、ぺたぺたと探ることができた。すると錠の部分を指先でつまむことができた。
「じゃあ、そのまま引き千切れ」
 無茶な要求だった。折原は頭を横に振った。
「非力だな。落胆だ。……何か道具があれば、打ち付けて壊せるかもしれないな。私の腰に、シールド──鉄の棒みたいなものがぶら下がっている。それを使え」
 その存在に折原は気がついていた。自分の腰の左右に、硬い感触が二つ、ずっと押し当てられていた。
 だが、それはつまり、彼女の体の前面についているということだ。折原の両腕は今、肘の辺りがロッカーの壁とエクメアの脇腹に挟まれている。故に、その棒とやらには手が届かない。引っこ抜けるかと踏ん張ってみたが、靴を滑らせて彼女を蹴ってしまうだけだった。
 鍵は外せず、壊すための道具も取れない。彼は自らの非力を呪った。
行き詰まりを感じた折原の脳内に、ある人物の言葉がよぎった。登山家をしている叔父の言葉である。彼は、三十九人いる親戚の一人であった。
 ──進むべき道を示すものは、いつだって足元にある。
足元。今、自分の足元にあるものはなにか。
 トートバッグ。
 折原はその中身を思い出した。
 そして、〝それ〟がこの状況を変える一手であることに気がついた。
 折原は腕を下に伸ばし始めた。身を屈めることはできないので、肌を限界まで張り詰めた。すると指先が、トートバッグの持ち手にかすった。しかし、かすったことで、ぎりぎりのバランスで立っていた持ち手がくったりと倒れてしまった。彼は指先をしばし彷徨わせてから、その事実を察して心で舌を打った。
「何してる」
 エクメアの冷たい声が落ちてきた。
 折原は思わず手を引っ込める。トートバッグを取りたい、という意図を伝える術はない。彼女にとっては、突然裏腿をまさぐられたようなものだ。不快だったのだろう。
「……あぁ、待て。続けていい。ただ聞いただけだ」
 少しだけ早口に、彼女はそう弁明した。
 そして、はぁ、と溜息をつく。
「……別に怒っていない。私は生来、こういう喋り方になってしまうだけだ……」
 やはり、コミュニケーションが不得手なタイプだったか。冷たく突き放すような言い方も、きっとそう聞こえてしまうだけなのだ。
 折原は頷いて、承知したことを伝えた。
 するとエクメアは咳払いをして、
「んんっ、少し待て……。──あははははははははははははははは」
 あまりにも嘘すぎる笑い声を出した。イントネーションが一切存在せず、ピアノの鍵盤を一つだけ叩き続けたような、不気味な笑い声だった。
「──どうだ? 笑っているだろう? つまり、怒っていないということだ」
「……」
 折原はドン引きした。どこまで不器用なのだ、この人は。
「これを拾おうとしていたのか」と、彼女が爪先でトートバッグをつつく。「なら、好きに手を伸ばせ。背中さえ気をつければいい」
 許可が下りた。しかし届かないことはもう確認済みだった。
トートバッグの中身を手に入れるには、どうすればいい?
 折原は数秒考えてから、彼女の臀部を指でなぞることにした。
 つぅ、と。
 心のなかで謝罪をしながら、人差し指の先をボディスーツの上で滑らせる。つるつるとしていて柔らかい。
「ひぅ……っ」エクメアが声を漏らした。そして今度こそ冷たい声で、「──何を、して、いる」と言った。
 折原は頭上から感じるプレッシャーに負けじと、彼女の尻を撫で続けた。それは振り子のような軌道だった。右に、左に、弧を描いていく。
「……そういうことか」エクメアはすぐに理解した。「揺らす、のか」
 折原はもがもがと頷いた。
 ロッカーを二人がかりで前後に揺らして倒してしまおうという発想だった。そうすればトートバッグが倒れて手が届くかもしれない。
 試す価値は大いにあった。
 だが、エクメアは少し躊躇した。「そうか……」と悩む素振りを見せてから、「分かった、やるぞ」と覚悟したように頷いた。
 二人は前後に大きく身体を揺らし始めた。密着しているので、息を合わせるのは簡単だった。
 エクメアが身体を前へ傾ける度、折原はその肉厚に潰された。骨が軋む音を何度も聞いた。逆に折原が前へ傾くときは、自分から彼女の身体へ寄りかかることになるので恥ずかしかった。
 二人はコツを掴んでいき、前へ、後ろへ、重心を往復させた。最初は僅かな揺れであったが、徐々に振り幅が広がっていき、やがてロッカーは大きな音を立てて床へと倒れた。
「ぐぁ……っ!」
 と、エクメアが痛そうな声を出した。落下の衝撃でどこかを打ったのだろうか。そう心配する声を早く出すためにも、折原は腕を足元へ伸ばした。頼む、と祈るような気持ちで伸ばした。
 トートバッグの持ち手には、届かなかった。
 しかし、ころころころ……と音がして、折原の爪先にコツリと硬い感触が当たった。
 彼は慎重に指を動かして、それを手繰り寄せる。どうにか片手で掴んでしまえばこちらのものだった。振って、ぴちゃぴちゃという心許ない水音を聞き、目当てのものだと察する。親指と人差し指の爪をコルクに食い込ませ、きゅぽん、と引き抜いた。そして、小瓶の中身を一振り、自分の袖から露出した腕に──かけた。
 彼の身長が、少しだけ縮んだ。
「……ぷはぁっ!」
 縮んだことで、彼は密着状態から抜け出すことができた。脇腹から手を引き抜いて、小瓶を顔まで持ってくる。
 そして、痛みで顔をしかめているエクメアの頬に、数滴垂らした。
 それを最後に、小瓶の中身は空となった。また欲しくなったら、不思議の国のアリスの世界へ再び行かなければならない。

 ──折原が深夜の高校に忍び込んだのは、例の小瓶を教室に忘れたからであった。
 彼は今日の昼休みに君ヶ園と共に弁当箱のなかへ閉じ込められた。
 その後、由紀島からトートバッグごと小瓶を二つ没収したのだ。カチャカチャとうるさかったのは、瓶同士が擦れ合う音だった。
 今日の出来事だったからこそ、一階の廊下にはまだポリエステルの布切れ──つまり君ヶ園の体育館履き入れの残骸が残っていたのだろう。

 折原は「大きさを縮める魔法の液体」であるとエクメアに説明した。バッグのなかには逆の効果を持つ液体も残っているので、脱出後に使えば元に戻せることも伝えた。
 エクメアは渋々といった感じで頷いた。それ以外にリアクションの取りようが無さそうだった。
「とにかく、ロッカーを転がせ」
 扉が下向きなので、当然このままでは出られない。二人は先ほど同じ要領で、今度は左へと身体をぶつけて、ガタン、と九十度回した。
 そして右側に来た扉を見る。身体が少し縮んだことで腕を動かせるようになったエクメアが、錠の部分へ、自身の持っていた銀の棒を振り下ろした。
 一撃で、それは外れた。
 鍵が取れたので、折原は早速扉を押した。
 しかしビクともしなかった。
 今度はエクメアが扉を押した。やはり開かない。今度は殴りつけ、蹴り上げてみた。だが扉は開かない。鍵はもう、かかっていないはずなのに。
 折原は不思議に思い、スマホを取り出してライトを点けた。そして扉を隅々まで観察した。
「──あ」
 と、声が出た。そして扉の隙間を指でなぞり、彼は思わず苦笑した。
「どうした」
「……塞がってます」
 扉の隙間が無くなっている。スチールが溶けて、扉と壁が一体化し、そのまま冷えて固まっていた。
 ブレスのせいだ。
 あの獣の吐いた炎のブレスによって、扉が溶接されてしまっていた。
 出口は最初から存在しなかったと、二人はようやく気がついた。顔を見合わせ、深い深い溜息をつくのだった。

 縮んだと言ってもある程度余裕ができただけで、狭いことには変わりない。二人は相変わらず抱き合うような体勢だった。エクメアが上側を望んだので、折原に覆い被さっている。銀色の美しい横髪が流れて、毛先が折原の頬をくすぐっていた。
 まるで押し倒したかのような状態だった。実際には、身体があまりくっつかないよう腕と腹筋の力で浮いていた。いわゆるプランクの体勢であった。
「あ、そうだ。僕は折原といいます」
「そうか」
「……」
「……」
 エクメアがじっと見つめてくるので、折原は照れて顔を逸らしていた。彼女のボディスーツがたるんでズレ落ち、手首の辺りで重なっているのが見える。折原も、シャツが少しだぼついているのを感じていた。
 二人は分かりやすく落胆していた。
 早く次の一手を考えなくてはならないのに、脳のエンジンが一時停止してしまっていた。
 そんな気まずい沈黙を──ピピッ、と通信音が破った。
『聞こえる? 通信が遅れてすまないわ。サニィと鉢合わせてしまって……』
 エクメアの首にかかったヘッドセット、そのイヤーパッドから例の〝相棒〟の声が聞こえる。
『分かるでしょ? 戦いが激しいと、なかなか通信できなくて……。ほんと、欠陥品ばかり寄越してむかつくわ! これじゃ戦闘中に助けも呼べない! 全然意味無い!』
 ぷんぷんと怒る先輩の声を、エクメアはどこか緊張した面持ちで聞いていた。相棒の身を案じているのだな、と折原は同情した。
『……ヤツには逃げられたわ。それで、正門にやっと来れたんだけど……今どこにいるの?』
 二階にある一年D組の倒れた掃除用具ロッカーのなかです。
折原は心のなかでそう唱えた。もしマイクが壊れていなければ、今すぐ場所を伝えて迎え来てもらえるというのに。
 数々の偶然がそれを許さない。故に、儀式というわけだった。
『もしかして、負傷して動けない状況なのかしら? とにかくそっちの場所を探すから、そこから動かないで。……あと、そうだ……』
 ベルフラは躊躇うような間を置いてから、ちょっと早口気味に言った。
『……に、任務前……。ちょっと強く言い過ぎたわ』
 素直ではない謝罪の言葉だった。
『やっぱり私たち、二人揃っていないとダメね。あんたのシールドが無いと、私のバズーカをチャージする隙が無いわ。さっきの戦いも、サニィ一体だから良かったものの、ブリーダーもいたら負けていたわ……。じゃ、じゃあ。そういうことだからっ』
 そして、プツッ、と通信が終了した。
 エクメアが安堵の息をそっと吐いた。相棒思いなのはお互いのようだった。
 折原は未確認の登場人物がいることに気がついた。
「あの、〈ブリーダー〉って何ですか?」
「……サニィを使役している者のことだ。あの獣を召喚し、ここへ連れてきた張本人」
「召喚──。あ、そういえば! 体育館裏に大きな魔法陣のようなものが描かれていました。あれってまさか……」
「ブリーダーは魔法陣同士を繋いで空間を跨ぐワームホールを発生させられる。そうして別世界からサニィを呼び込むのだ」
 エクメアは敵のことながら詳しかった。
「えっと、つまり……悪い人なんですね?」
「あぁ」エクメアは即答した。「私らハンターは、世界征服を狙うとある秘密結社と戦っている。その幹部の一人がブリーダーだ」
「なるほど。理解しました」
「……なんか飲み込みが早すぎるぞ、お前」
 折原は肩をすくめて誤魔化した。
「ブリーダーの目的はなんでしょう?」
「パワーアップのためだ。サニィはものを食べれば食べるほど強くなる。それは電気であったり、建物であったり、何でもいい。だけど人間が──一番いい。だから私は、それを防がなくてはいけない。人払いをして結界も張ったというのに──お前は何故ここにいた」
 彼女が目を細めて折原を見下ろす。
 彼は責めるような意図を受け取り、「……すみません。偶然です、多分」と謝った。
「……あぁ、いや待て」
 エクメアは首を振った。そして息を吸い込むと、
「──うふふふふふふふ」
 真顔のまま空笑いを発した。それもお嬢様のような文字で。
「ほら、別に怒っているわけではない。な?」
「それ止めた方がいいですよ」
「え」
 折原はちらりとスマホの画面を見た。助けを呼ぼうかと考えたが、サニィのうろつくこの場所に呼ぶのは危険だ。
 やはり、相棒──ベルフラがここへ来てくれるのを待つしかないのか?
 先ほどの通信で、ロッカーの倒れる音についての言及が無かった。屋外にいたせいか、まだ戦闘中だったからか、気がつかなかったのだろう。彼女が一から探して辿り着くまで待てるのか? その道中で再びサニィに鉢合わせてしまい、もっと時間がかかる可能性もある──。
そのとき、折原の脳内にある人物の言葉がよぎった。天文学者をしている従姉の言葉である。彼女は、三十九人いる親戚の一人であった。
 ──この世の中で星だけが、何もせずともあなたを照らす。
 誰かが来てくれる可能性に期待などしては駄目だ。やはり、自分から行動を起こさなくては。彼は頭を回し続けた。
「……そうだ、小瓶。ものを大きくする方がまだ残っています。これで──その銀の棒とかを大きくして、内側からロッカーを壊すのはどうでしょうか」
 エクメアはしばし沈思した。
「却下だ。大きくなったそれとロッカーの内壁に挟まれて、まず私たちが潰れるかもしれない」
「……あり得ますね」
 折原は想像してゾッとした。
「それに、身長を伸ばす分は温存したい。他の案を考えろ」
「というか、その銀の棒が何なのか聞いてもいいですか。」
「これは──」と、エクメアは一つを腰のホルスターから外した。「シールドだ。通信でも話していただろ」
 折原はスマホのライトを当てて、反射に眇めながら観察した。
 銀の筒と、操縦桿のようなグリップが伸びている。グリップは半円状の金属に覆われており、トリガーガードのように見えた。そこへ指を差し込むことで、しっかりと握れて、シールドとして取り回しやすくなるのだ。
 グリップの根本に引き金のような出っ張りがある。それを押せば、SF的な感じでブイーンとシールドが展開されるのだろうか。と、折原は想像した。
「……あの、シールドを持っているなら、最初のブレスもこれで防げばよかったんじゃ」
「図星だ」
 エクメアは涼しい顔のままそう言った。
「……私の手にはこのグリップが小さい」彼女がトリガーガードのなかへ指を四本入れようとしてみる。しかしスペースが足りなくて、頑張っても三本といった感じだった。「だから咄嗟に構えるのが難しく、やむを得ずロッカーに飛び込んだ」
 通信機といい、この武器といい、彼女たちの組織はどうなっているのだ。
「もう一つの方は?」
「これはただのスプレーだ」
 エクメアはシールドをホルスターへ戻し、今度は反対からもう一つの銀の棒を取り出した。
 彼女の言う通り、スプレータイプの消臭剤、ないしは虫よけそのものに視える見た目をしていた。表面にはラベルを剥がしたあとがあるので、もしかすると本当にただの消臭剤なのかもしれない。
「これ、ちょっと使ってみても?」
「少しにしろ」
 彼は自分の手のひらに、ぷしゅっ、とかけてみた。特に色も匂いもしなかった。しかし飛沫が口の中へ飛んできた。
「苦っ!」
 と思わず叫んでしまうほど、たまらなく苦かった。
「嘲笑だな」
 エクメアがからかうように折原の頬をつんとつつく。
「笑わないでください。これ、何に使うのですか?」
「……まぁ、色々だ」
 エクメアは誤魔化して、さっさとホルスターへ戻してしまった。
 なにか隠しているな、と折原は思った。故にそれ以上は訊かないことにした。儀式において、共に閉じ込められる女性は敵でも味方でもある。
 シールドとスプレー。彼女は何故、この二つを装備していたのだろうか……。
 ──みしっ、と。
ロッカー全体から軋む音が聞こえた。まるで、何か大きなものに踏まれたような気配だった。
 折原とエクメアが口を閉じて耳を澄ませた。すると、ぐるぐると唸るような獣の声が、すぐ真上から聞こえてきた。
 サニィが戻ってきたのだ。
 これでは、たとえベルフラが来ても戦闘になってしまい、ロッカーを壊してもらう暇は無いだろう。
「溜息だな。どんどん悪い状況になる」
「──いや、これはチャンスかもしれません」
「どういうことだ?」
「サニィの力ならロッカーを壊せるかもしれない。ここにいることをアピールして、襲ってもらいましょう」
「却下だ。吹き飛ばされたり、このまま踏み潰されたりしたら、私たちごとぺしゃんこになる」
「食べてもらえば良いんです。上からの噛みつきなら、絶対にシールドで防げます」
「……なるほど」
 サニィは人間を食べる。ならロッカーのなかに人間がいると分かれば、貝を剥くように牙で壊すか、ロッカーごと噛みついてくるだろう。それに合わせて上向きに盾を展開すれば、餌食になることなくロッカーを破壊させられる。……はず。
 折原とエクメアは大声を上げた。ここに餌があることをアピールした。
 だが騒げども騒げども、サニィは無反応であった。またどこかへ行ってしまったのか? と叫ぶのを止めてみるも、確かに唸り声はしており、教室の床をのしのしと歩く音もした。
 どういうわけか、サニィは折原たちを無視していた。
「何故でしょう? さっきは僕や警備員を見るなり襲ってきたのですが……」
「……疑問だ」
 やがて叫ぶのに疲れて、二人は徒労感に黙った。

 やはり小瓶を使って、一か八か潰れずに脱出できるか試すべきか。折原はそんなことを考えていた。
 サニィの気を引くことができれば良いのだが……声には無反応だった。視認しないと餌だと思わないのかもしれない。
 折原の頬に──ぽたぽたと雫が垂れてきた。エクメアの汗だった。彼女は疲労に眉を寄せ、だらだらと汗をかいていた。プランクのような体勢を十分以上も続ければ、流石の彼女もへとへとだった。
「……ふぅ」
 エクメアはついに腕の力を抜いて、どさりと折原の上に寝そべった。息も軽く上がっている。
 彼女の体重が乗せられ、「うっ」と折原の息が詰まる。分厚い掛け布団を頭まで被ったようだった。筋肉を使い続けたことで体温が上がっており、その肌は熱かった。ボディスーツが彼にべたつく。
 折原ならくっついてもいい。
 エクメアはそう判断して、プランクを止めたのだ。それは儀式の進行を示していた。折原は彼女の首元の匂いを嗅ぎながら、焦燥感を疼かせた。
「私は寝るとき、こうやって布団を丸めて抱いている……」
「……そうですか」
「いや、何を言ってるのだ私は。羞恥だ……」
 明らかに気が緩んでいるな、と折原は警戒した。一応、いつでも口を守れるように身構えておく。
「やっぱり、ベルフラさんを待つしかないですかね。戦闘にはなるでしょうが、どうにかロッカーを破壊してもらいましょう」
「……そうだな」
 あまり気乗りしていないような返事だった。大切な相棒がサニィとまた相対することが不安なのだろうか?
踏み込んだ質問をしていいものか、折原は迷っていた。その脳内に、ある人物の言葉がよぎった。医者をしている大叔父の言葉である。彼は、三十九人いる親戚の一人であった。
 ──診察は問診から始まる。医者は話せなきゃやっていけねぇ。
彼は逡巡を捨てた。こういうときは、臆せず情報交換をするべきだ。
「そういえば、先ほどの通信でベルフラさんに謝られていましたね。なにか喧嘩でもしたのですか?」
 エクメアは少し沈黙してから、口を開いた。
「……うまく、いっていない。相棒と。私は、こういう喋り方だから。感情とか意図とかが伝わりづらくて……周りの人とよく壁ができてしまう」
 折原は頷いた。確かに、彼女は冷たく突き放すような口調だ。それに淡々としている。だから時々「羞恥ね」など感情をそのまま言って、健気にアピールしているのだろう。
「今の相棒とは組んだばかりで、コミュニケーションがうまくとれていない。だからすぐに喧嘩してしまう。……なぁ、お前。どうすればいいと思う」
 まるで友人かのように彼女が語りかけてきた。儀式の影響が如実に出ていた。
 その相談に、折原は冷たく応えることもできた。好感度を上げないためには、そうするべきだった。
 しかし彼は真剣に考えた。密着しているせいか、彼女が本気で悩んでいるのだと分かったからだ。本当の心の吐露だと察したからだ。
彼は、ここで冷たくあしらうような人間ではなかった。
「気持ちが伝わりづらいとき、いつもどうしていますか?」
「え? ……笑ってみたり、感情を言ってみたり、している」
 そのコミュニケーションが失敗していることを、折原は身を持って知っていた。
「自分のことは伝えていますか? そもそも話すのが苦手であることなど……」
「それは──」
 エクメアは黙った。図星を突かれたようだ。
「表面的なものでどうにかしようとしても解決しないと思います。まずは自分のことを、ちゃんと伝えるところからです。知ることでしか、相手を信用することはできません」
「知ることで、信用……か」
 エクメアがぶつぶつと繰り返す。ちゃんと有意義なことを答えられただろうか? と折原は心配になった。
「お前も、人から信頼を得たいときはそうしているのか?」
「そうですね……。僕も昔、他人と喋るのが苦手でした。他人が怖くて、緊張して声が出せなくなってしまうんです」
「それは大変だ」
「えぇ。だけど……ある人が、合図を教えてくれまして」
「合図?」
 ある人とは、雨野円のことだった。名前も素性も未だに分からないが、そういうエピソードは頭に焼き付いている。
 折原は昔、他人と喋るのが苦手だった。そもそも声が出てこなかった。そんな彼に、雨野円はこう言った。
「じゃ、ここだけの合図を作ろう。手でやれる簡単な合図だ。喋れないときは、代わりにこうして。まずはありがとうの合図だよ──」
 と、雨野は片手をピンと伸ばしてから、人差し指と中指を揃って根元から倒し、そして元に戻した。まさにお礼のジェスチャーだった。
「──こういう合図を使えば、無理に喋ったり表情を変えたりする必要なく、感情を伝えることができました。……とても助けられましたね。雨野が他の人たちにも合図を広めてくれたので、それを知っている人たちとは何とか話すことができました」
「感心だな。それはいい。私も参考にしよう」
「是非」
 折原はなんだか誇らしい気分になった。雨野円との思い出が、今日まで自分のなかで生きていることを再確認できた。
 ──合図。
 そう、合図を出したいのだ。サニィに、ここに餌がいるのだと教えて、ロッカーごと噛みついてきて欲しい。
「あの、エクメアさん。サニィは耳が聞こえてないのですか?」
「いや。耳はいい方だ」
 ふむ、と折原は考える。耳はいい。なのに叫んでも反応はない。
サニィは最初、折原を襲ってきた。校内を追い回し、教室に飛び込んできた。
 思い返せば──折原は声を出していない。
 悲鳴を上げる警備員がいたのに、後ろへ退いた折原を追いかけてきた。椅子が倒れるのを防いだが、その後足音を出したことで居場所がバレた。
 折原がはっと息を呑んだ。
「そうか、足音……! サニィは声ではなくて、足音に反応して襲ってきている……?」
 エクメアが息を呑む音がした。がばりと起き上がり、折原と鼻を突き合わせる。
「……ブリーダーはいつも、こういう夜の時間帯に人気の無い場所でサニィを召喚している。故に、出くわす人間は喋り声より足音が目立つかもな……。かなり有り得る話だ」
 仮説を裏付けるような情報を聞き、折原は小さくガッツポーズをした。
「では、僕がスマホで動画を探して足音を再生します。エクメアさんはシールドの用意を」
「分かった」
 折原は動画アプリを開いて『足音』と検索をかけた。それらしい動画はすぐに見つかった。
 エクメアは腰のホルスターへ手を伸ばし、銀の棒を手に取った。サイズの合わないグリップに指を二本だけ引っ掛けて、人差し指をトリガーに乗せる。
「……いつでも展開できるぞ」
 折原は頷いた。ようやく脱出への道筋が明確となり、彼の胸は高鳴っていた。
 サニィの気配はまだ近くにあった。このまま動画を最大音量で再生し、サニィが襲ってきたのに合わせてシールドを出す。それに守られながら、ロッカーが破壊されるのを待つ。そうすればようやく、この狭い空間から抜け出せる。
「では、再生します!」
 と、折原はスマホの画面に指先を近づけた。
 そのとき。

 ──でも、本当にそれで良かったのでしょうか?

折原の脳内に、ある人物の言葉がよぎった。リアル謎解きゲーム店でスタッフとして長年働いている従姉の口癖である。彼女は、三十九人いる親戚の一人であった。
「……どうした」
「いえ、ちょっと……」
 土壇場で動きを止めた折原を、エクメアが訝しむ。
 彼はスマホを下ろして、今一度考えてみることにした。この言葉が脳裏をよぎるときは、必ずなにか見落としがある。それは経験則から確かであった。
 今日一日のことを振り返ってみる。
 なにか違和感は無かったか。
 なにか考えきれていないことはないか。
 彼はぐるぐると思考を回した。そして、その目線はエクメアの手元へと吸い寄せられた。
 二本の指でシールドを持っている。グリップ部分が彼女の手より小さいので、ちゃんと掴めず、そういう持ち方になってしまう。そう話していた。
 サイズがおかしいのは──組織からの支給品が粗悪であるから。折原はそう解釈していた。もし、そうだとしても……ずっとその武器を使っているなら、流石に使い慣れるのではないだろうか。サニィの炎のブレスだって、防げて然るべきではないだろうか。
 折原は目線をスライドし、今度は彼女の首元を見た。ヘッドセットが首にかかっている。……ヘッドセットなのだから、普通は頭につけるのでは? しかし彼女はロッカーに入る前から首にかけていた。両腕を使えるようになった今でも、頭にかけようとはしない。
 サイズが小さいからだ。 
グリップも、ヘッドセットも、エクメアの体躯に見合っていない。だから五指で持てないし、頭にもかけられない。
本来の使い方ができていない。つまり、彼女の所有物ではない……?
 ──ぞわ、と折原の二の腕に鳥肌が立つ。
そう言えば、ベルフラは通信でなんと言っていた? 『それで、今どこにいるの? エクメアの方が向いてるから、先に侵入して見つけたらすぐ連絡って話だったでしょ? 全然通信無いから私入ってきちゃったわよ』──どうして『エクメアの方が向いている』のだろう? 目の前の彼女は身体が大きい。偵察に向いているとはあまり思えない。
 ……窓。あの、二階の窓はどうして割れていた? もしかして、エクメアはあそこから侵入してきたのでは? 二階から侵入したから、一階を歩いていた折原とは出くわさなかったのか? だけど、あの窓の穴は──小さかった。折原でも通り抜けるのが難しそうなほどだった。それでもあそこから入ったなら、そして偵察が向いているなら、──エクメアは小柄な人間なのか?
 折原は彼女に目を合わせた。
 銀髪で、背が高くて、筋肉質で、淡々とした冷たい喋り方の、相棒との付き合いに悩んでいる、そんな彼女に。
 目を合わせた。
 そして息を吸い込んで心を落ち着かせ、そっと尋ねた。核心的な、根本的な、最も重要な問いかけをした。

「──あなたは誰ですか?」

「私の名はアベリア。〈世界征服結社〉幹部が一人。ハンターどもからは〈ブリーダー〉と呼ばれている」
 彼女はあっさりと認めた。その徹底した無表情に、やはり動揺は見られない。
 まるで、そもそも明かす予定であり、少し早まっただけにすぎない──といった態度だった。折原は拍子抜けして、何となく会釈をした。
「でも、最初にブレスを食らっていましたよね」
「言っただろ。相棒とは喧嘩中だ、と」
 彼女の言う相棒とは、ベルフラではなくサニィのことだった。通信のとき不安気にしていたのも、サニィが無事かどうかを心配していたのだ。
「……その装備は奪ったものなのですね」
「そうだ。このシールドが欲しくてな。ついでに、ヤツらの動向が分かるように通信機も」
 スプレーだけは私物であるような言い方が、折原には引っかかった。
「どうしてエクメアさんのフリを?」
「ベルフラが勘違いして色々話したから、流れで。……ここから出るにはお前の協力が不可欠と踏んだ。なら、悪人だとバレない方が良い」
「悪人……」
 彼女は──アベリアは、自らを世界征服結社の幹部だと名乗った。そんな直球すぎる名前の組織が本当に存在するのかどうか、折原はあまり怪しまなかった。順応力。それは、儀式と脱出の繰り返しによって彼が得た大事な能力だった。
 重要なのは、あのサニィという獣が本当にそこにいて、彼女が使役しているらしいということ。
 彼女は悪人であるということ。
「エクメアさんから装備を奪うとき、戦闘は起きなかったのですか」
「侵入してきたところを待ち構えて、一発で気絶させた」
「その後……エクメアさん本人はどうしました?」
「縛って隠した。私たちと同じく、ロッカーのなかだ」
「……本当ですか?」
「どう思う?」
 折原を試す短い言葉が、刃物のように喉へ切っ先を当てる。
 ごくり、と硬い唾を飲んだ。
 サニィはあらゆるものを食べることでパワーアップする。一番いい餌は──人間。
 あの炎のブレスが、パワーアップしたことで得た能力であったら?
 サニィが一直線に折原を追ってこなかったのは、既に食後であったから?
 嫌な思考ばかりが巡る。否、思考なんてできていない。恐怖から、悪い想像を膨らましているだけだった。
 狭いロッカーに閉じ込められた──以上の窮地に、自分はずっと立たされていたのかもしれない。
「……お前はさっき、相手と知り合うほどに信頼関係が生まれる、と言っていたな」
 アベリアの眼が挑発的に細まった。
 初めて見せる表情筋の変化に、折原はぞくりと悪寒を覚えた。
「知った先で、相手が悪人だと分かったら? そんな相手に、自分のことを知られてしまったら? ……知るほどに信頼できる、なんてもう言えないだろ」
 たちまち恐ろしくなった眼前の女性から目を逸らし、折原はスマホの画面を見た。人の足音を流す動画がまだ表示されている。
 これを流せばサニィがロッカーを破壊する。
 そのとき、彼女は──自分まで守ってくれるのか?
 そのあと、彼女は──サニィから庇ってくれるのか?
 ブリーダーの目的がサニィのパワーアップなら、こんな絶好の機会は無い。ハンターが駆けつけてくる前に、少しでもパワーアップさせておき、勝率を上げたいだろう。
「取引だ」
 と、アベリアが折原に顔を近づけてきた。体臭はもはや混ざり合い、匂いはしなかった。
 彼はせめてもの抵抗に顎を引き、唇と唇を少しでも離した。
「今すぐ私の手下になれば、シールドで守ることを約束する」
「分かりました。なります」
「あははははははははははははははは」
 例の空笑いを折原は顔面に浴びた。マシンガンのようだった。
「……笑わせるな。聡い男の口約束など、信じない」
「じゃあ、どうすれば」
「……」
 アベリアはしばし黙ってから、少しだけ声量を落として言った。
「…………キスをしろ。忠誠を示せ」
 赤面せず、どもることもなかった。それでも照れていることは折原の眼に明白だった。
 儀式による好感度の上昇が、閾値を越えたのだ。
「さぁ選べ。相棒の餌か、誓いの接吻か」

 ──詰みだ。

 折原は一瞬、そう思ってしまった。
 脱出するためにはシールドで護ってもらわないといけない。
 しかし護ってもらうには、キスをしなくてはいけない。
 ハンターが来るまで待ってみるか? ……否。今すぐベルフラが駆けつけてきたら、より危険だ。焦ったアベリアがキスを強行するかもしれない。キスをしたなら、ゲームオーバーだ。運命は結ばれ、雨野円とは添い遂げられない。ようやくリストを得られたというのに。
 考えろ。考えろ。
目の前の女性は──本当に悪人か?
 また、賭けだ。
 今日の昼休みの件と同じだった。儀式の最後は、いつもそうなのだ。
 情報を集めて、思考を重ねて、そして最後には己が試される。
 賭けに、勝たなくては。
「…………分かりました」
 折原が頷いた。
「そうか。じゃあ、キスするぞ」
 アベリアが目を閉じ、顔をゆっくりと降ろしてくる。銀髪の毛先が折原の頬をなぞって耳へと入り込んだ。
 そんな彼女の口を、
「──むぎゅ、」
 折原は片手で抑えた。柔い感触が手の平にくっついた。
 そしてもう一方の手で、動画を再生した。音量ボタンを連打し、足音を響かせる。
「な、何故──」
 困惑するアベリアに、折原は抱き着いた。正面から密着した。うっかり唇を奪われないよう、その胸に顔を押し付けた。
 始まりの体勢に二人は戻った。
 そして、ごめんなさい、と心のなかで謝りながら、ぐるっと回転する。自分の背中が上に来るように身体を捻る。「うぐっ」とアベリアの呻く声がした。
 同時に、ロッカーが勢いよくひしゃげた。
 サニィは餌がそこにあることに気がついて、乱暴にもロッカーごと噛みついたようだった。
「…………舌打ちだ」
 アベリアはそう呟くと、片腕で折原を抱き締めながら、銀の棒──シールドを折原の背中越しに構えた。指を二本かけていたグリップ、その根本にあるトリガーを、──カチリ、と押し込んだ。

「…………早くどけ。くっつくな」
 冷たい声に急かされて、折原はアベリアの身体から起き上がった。その素っ気なさに儀式の終了を察し、彼はほっとしたような切ないような気分になった。
 彼女はサニィに向けてまだシールドを構えていた。銀の棒から青白い光が宙へ投射され、楕円形のシールドが浮かんでいる。半透明のホログラムにしか視えず、一見すると防御力は無さそうだった。しかし折原は身をもって有用性を知っていた。たった今、自らを食わんとする獣の猛攻から守られたばかりである。
 教室は散らかり、机や椅子がほとんど消えていた。ロッカーのなかでもぞもぞしている間にサニィが食べてしまったのだ。
「──何故だ」
 アベリアが振り返らずに呟いた。そのくしゃっと平たくなった後頭部の髪を見ながら、折原は答えた。
「何故アベリアさんを信じたのか、ですか?」
「……」
「アベリアさんは人を傷つけるような人ではない。そう判断したからです」
「私はブリーダーだ。世界征服結社の幹部だぞ」
「えぇ」
「この……サニィをパワーアップさせるのが目的だ。人も食わせるかもしれない」
「いいえ、それはありません。警備員を逃がしています」
 アベリアの肩に力が入るのが分かった。
「僕が鉢合わせてしまったあの警備員……。サニィに襲われて腰を抜かす前に、廊下の向こうへ何かを見ていました。……恐らく何者かがそこにいて、腰を抜かして動けなくなった彼を助け、校外まで連れて行ったのです」
 もちろん自力で回復して一人で逃げたとも考えられる。だが警備員は裏門前の道路でまだ座り込んでいたし、時間を考えても早すぎるだろう。
 何者かが肩を貸して、安全な校外へと連れて行った。そう考えるべきだ。
「僕は初め、それはハンターの方が行ったのだと考えていました。しかしベルフラさんは、裏門で人を──つまり警備員を見かけたので正門から入ったと話していました。そしてエクメアさんは、二階の窓から侵入した直後に気絶させられています。どちらも、あのタイミングで警備員の前に現れることはできません。なら、残る可能性はベルフラさんだけです」
「……気まぐれにすぎないとしたら?」
「いえ。人を襲わないことは、恐らくあなたの信条です。エクメアさんからシールドと通信機を奪ったそうですが、そのスプレーだけは私物であるような言い方をしていました。強烈な苦味をもったスプレー……。あなたがあの獣を使役しているなら、使用用途を想像することができます。──躾用の齧り癖防止スプレーなのでは?」
 アベリアが振り返った。その無表情からは、確かに驚愕が滲んでいた。
「あなたは、サニィが人間を食べないように躾ている最中だったのでは? だから〝喧嘩〟をしていたのです」
 相棒とは最近組んだばかりだ、と彼女は話していた。あれは言い換えると、最近召喚したばかりだ、という意味だったのだ。まだ躾の途中でもおかしくない。
 もしかすると、シールドを盗んだのも躾に使うつもりだったのかもしれない。人間に直接塗布して噛ませるわけにはいかないから、透明なシールドに塗り、その向こう側にいる人間を噛もうとしたときに苦みを味わわせる……。
「以上の考えから、あなたは他の人を傷つけるような人ではないと判断しました。あと、これは余談ですが……。アベリアさん、背中を火傷していますよね?」
 彼女は答えなかった。
 だが、ボディスーツが焦げている様子は背後の折原からばっちり見えていた。ロッカーへ入るとき僅かに間に合わず、焼かれたのだろう。
 背中に触れないよう釘を刺されたり、ロッカーを倒したときに叫んだりしたのは、この傷のせいだった。
「でもあなたは、そのことを僕に黙っていた。……気づかってくれたのですか?」
「……」
「優しいですね」
「口を閉じろ」
 アベリアはすっかり俯いていた。目の前にサニィがいるというのに。
 その反応を、折原は無言の肯定として受け取った。
 ──そもそもの話、人間を食べさせる気なら深夜の学校より適した場所があるだろう。ここには机や椅子を食べに来ただけだ。まぁそれも立派な器物損壊なので、悪人といえば悪人だが。
 不意に、アベリアがトリガーから指を離した。ヴン、とシールドが消える。
 たじろぐ折原の前で、彼女は自身のボディスーツを脱いだ。だぼついているので楽そうだった。
そして左の二の腕を露出した。
 そこには、大きな口と牙で噛まれた痛々しい傷痕があった。
「見ろ」
 一歩近づき、サニィへ見せつける。獣は牙を剥いたままじっと動かない。
「これは、お前の先々代にやられたものだ。……私は食われる痛みを知っている。この痛みを、他の誰にも味わって欲しくない」
 いつ噛みついてきてもおかしくない。折原は緊張して様子を見守った。
「だから、人間は食べないでくれ。他のものなら、腹いっぱいになるよう私が世話しよう。──分かってくれるか?」
 大きな獣は、主人の顔と傷を見つめていた。
 ──と、そのとき。
「いたわねーっ!」
「このやろうっ!」
 二つの声が教室へ飛び込んできた。折原が驚いて身体を跳ねさせる。前方の扉より現れたのは、女児向けのアニメから飛び出してきたような可愛らしい衣装に身を包んだ二人組だった。
「やっと見つけたわ……!」
 その声には聞き覚えがあった。ずっと通信を寄越していた先輩ハンター──ベルフラだ。青を基調としたコスチュームを着ている。
 ならばもう一人の小柄な方は──エクメアだ。こちらは薄桃色だった。やはり、食わせてなどいなかったのだ。
「私の武器返せよー! また怒られるでしょー!? 先輩ほら早く、いつものやつ撃って撃って!」
「分かってるわよ! 先輩に命令するな! ……ブリーダー、よくも大事な後輩をコケにしてくれたわね?」
 そう言って、ベルフラがバズーカのような銀色の巨大な筒を担いだ。キュィーンとエネルギーが可視化され、溜められていく。ような、ではなく、バズーカそのものなのだ。銃口がこちらへ向けられているのに、折原はどこか他人事のような気分でそう納得した。
 アベリアはどうするか少し悩む素振りを見せてから、数歩だけ窓側へ歩いて折原とサニィから離れた。そしてシールドを再度起動した。自分だけに狙いを集めるためだろう。
 眩い光がバズーカより放たれた。
 それはアベリアの持つシールドに当たる──前に、主人を庇った獣に当たった。
「──サニィ!?」
 自らの毛皮を焦がしながら、大きな獣はその身を呈してアベリアの代わりにビームを受けた。焦げ臭い匂いと、痛がるような唸り声が教室へ広がる。
 アベリアはシールドを消して、サニィに近づいた。彼の黒い毛並みを、労わるようにそっと撫でる。
 するとサニィが振り返り、彼女の古傷をそっと舐めた。優しく、癒すようだった。
 バズーカを放った二人組が、ぽかんとその光景を眺めている。
「……もう躾は不要か」
 と呟いて、アベリアは手に持った銀の棒を放り投げた。「わ、とととっ」エクメアがハッとして、投げ返された自身の武器をわたわたと受け取る。
 その隙に、アベリアは教室の窓を開いてその身を乗り出した。サニィも折原たちに背を向けてそちらを向いた。夜風がほうほうと舞い込んで、彼女の銀髪と、サニィの毛並みを、同じリズムで揺らしていた。美しいモノクロームだった。
「用は済んだ。帰る。お前らのボスにもよろしく」
「ま、待ちなさいっ」とベルフラが慌てる。そしてバズーカを構えながら、ちらっと折原を見た。「……というか、あなたは誰なのよ!? 結社の構成員!?」
「分かった、ブリーダーの手下でしょ!」
 エクメアにびしっと指を向けられて、折原は困った。アベリアとは身長を戻す約束があるし、今回の礼なども伝えたかった。しかし味方だと思われれば、このあとが面倒だ。
「そいつはただの人質だ」彼女は振り返らずに声を張った。「でも、もう用済みだ。餌にもならない雑魚だからな」
 言いながら、アベリアは左手を上げ、敬礼するようにピンと伸ばした。そして人差し指と中指を、揃って根元から倒した。
懐かしいお礼のジェスチャーを見て、折原は微笑んだ。彼女の気持ちは伝わった。
アベリアは、ひょいっと窓から飛び降りた。サニィも、その巨体を滑り込ませて階下へと消えた。落下音も着地音も無く、ヴィランのコンビは夜闇に消えていった。


第二話 密着したロッカーからの脱出 終


【エピローグ・2(あるいは、なにもない世界からの脱出)】

「アベリアちゃんが本当に悪人だったらどうしたのよ」
「そうだったら、アウト」
「いやアウトって」彼女は愉快そうに肩を揺らす。「よくそんな危ない橋渡ったね」
「どこかムキになったのかもしれない。知るほどに信頼できるなんて違う、って言われたから……」
「なるほどねぇ。君って、合理的に生きてますって澄ました感じ出してるけど、結構熱いとこあるね」
 彼女は中身の少なくなったグラスを揺らしながら言った。
 いや……彼女、じゃない。雨野円だ。そうだ、彼女の偽名は雨野円だった。折原は思い出した。
「世界観もなんか凄かったね。世界征服結社に、ハンターに……。あと登場人物も多めだった。もう名前覚えてないや。君はよく覚えてられるね」
「全部まとめてるんだ」
 折原は椅子にかけたリュックから、分厚いファイルを取り出した。
 表紙には『脱出記録』と書かれている。
「ここに、これまでの脱出のことをできるだけ詳細に残してる」
「わお。すごい量だ」
「どの情報が、次の脱出や雨野探しに役立つか分からないからね……。世界征服結社のことや、ハンターたちの名前、サニィの召喚方法、なんかもちゃんと書いてる」
 ふと、折原は違和感を覚えた。
 ──何故、自分はこのファイルを持っているのだろう?
 今日は雨野と再会する日だ。なら、彼女を探すためのヒントを持ち歩く必要は無い。
「じゃあ、もっと変な世界観の脱出はあった?」
 折原の思考を遮るように、雨野が言った。
「う、うん。あるよ」折原は我に返って、ファイルをめくりだした。
 いつもの癖で持ってきてしまっただけだろう。それより問題なのは、デートなのにリュックで来ている自分のファッションセンスの方だ。
「よし、これはどうかな。夢の中の世界で、王女様と一緒に脱出を目指したことがあってね──」


第三話へ続く

【第二話】密着したロッカーからの脱出

【第二話】密着したロッカーからの脱出

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-07

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