エミリの手紙のミステリー

  1
 永年勤めたちいさな出版社を定年退職し、わたしは数百程度という、元編集者としてはこぢんまりとした蔵書を、都内のマンションから地方でみつかったお気に入りのちいさな一軒家へと移した。
 朝陽を浴びながら珈琲を飲んだり、散歩をして花の美しさに微笑したり、けれどもやはり、暇さえあれば小説を読んだ。詩を読んだ。
 いまだに新人作家の文章の推敲不足にはいちいち反応してしまうけれども、毎度毎度ほほ笑んで、「けれどもあなたのことばには、鮮やかな才覚がみえますよ」、そう誰にいうでもなく口ずさんだりする。
 第一線から引いたのだという意識はいまのわたしにたしかにあるものだけれども、それはしずかな、老成のような淋しい満足をわたしにあたえている。
 このような気持によって生活を慎ましくまとめてしまえるということは、やはり、わたしはもう少女ではないのだと想う。大人になってしまったのだろうと想う。
 わたしは少女時代から愛読している、ある小説集を手にとった。
 太宰治の、短編集。
 わたしにもっとも愛される太宰の作品、『女生徒』が収録されている。本は茶色に変容していて、頁の紙はいまにもやぶれそうなほどいたんでいる。
 いつも、いつだって持ち歩いていたもの、当然だわ──と、昭和らしい上品な話し言葉を囁いてもみて、ひとり、にやりとする。
 大学の文学部にいた頃、わたしは強い意志によって編まれた三つ編みの黒髪を揺らして、一般にいわれている「清楚」とは程遠い激しい気持によって、紺色のカーディガン、白いブラウス、地味な色のロングスカートという服装をえらびつづけていた。
 わたしは文学少女、世俗なんかに染まらないわ──という戒めを込められた、わたしなりの「文学少女ファッション」がそれ。ひとから「もっとお洒落したら?」といわれれば、「いやよ」と喧嘩腰。
 この短編集をお守りのようにキャンパスで持ち歩くというルールを、それそのものが文学少女の貞節であると信じるように守りつづけていて、けっしてお嬢様ではないのに、お嬢様らしい言葉でお話ししていた。われながらかわいらしい、そうも想う。
 永遠の小説。
 そんな、傑作として残った古い名作は、まるで「時の洗礼」をうけたものであるようにも想われる。時間の淘汰によって磨かれ残ったわたしに愛される傑作を、なによりもいとおしいものであるように想う。
 主に小説を担当していたわたしは、ベストセラーを四度だけ編集したことがあるのだけれども、けっきょく、このような「永遠の小説」にかかわることはできなかった。…
 もう一冊、わたしは自分が二十代で編集した絶版の小説を手にとった。
 わたしだけの、永遠の小説。
 いたみが胸に走り、はっ、はっ、と息が切れる。いろいろな記憶、どっと脳裏に押し寄せてくる。
 この作家には、読むひとに伝わりやすい鮮やかな才能というものがほとんどみられず、文章力じたいはあるのけれどもその文体はあまりに無個性、簡素。ポップでキャッチーな魅力に決定的に欠けているところがあり、人物描写も、人間観への思慮深さ、追求心じたいはかなり感じるけれども、キャラクター性に惹きつけるものはない。
 というよりも、現実世界によくいるような平凡なひとたちを、エンタメとして面白がらせるために誇張したりすることなく、そのままに描こうとした気持ちを感じさせる描写のために、はっきりといわせてもらえれば、娯楽小説として読まれる分には退屈なひとたち。しかも彼女たち、心中で悩むばかり、みんなほとんど行動を起こさない。ストーリーはたいていのひとの実生活よりも平板、そんな慎ましい物語にピリオドを打たせるラストだけが、悲劇の過剰な印象。
 けれどもわたしは、作者が孤独な争いによって流した鮮やかな血から薫る透明な光が、くるしみながらも雫のように落とされた少女らしい良心が、ここに秘められていることをみてとった。
 この作者は生きづらさを抱えている、そんな雰囲気を感じとるひとは、けっして少なくはないだろう。
 わたしは十七歳の少女だったこの投稿者の作品に光を見て、結果は最終選考通過で終わったのにもかかわらず上司をつよく説得、わたしの手をかなりくわえた形で出版させ、新人小説家としてデビューをさせたのである。
 ほとんど、売れなかった。
 わたしは若さゆえの無理解で無責任な励ましをつづけて、何作も何作も「登校できなくなった高校生」であった彼女に新作を書かせたのだけれども、二作目を出すのはビジネスとしては絶望的。
 きわめて繊細、病的なまでに内気、いたましいまでにふわふわとしたおとなしい性格だった彼女は、そのまま高卒の年齢になって家出をしたらしく、わたしたちからも行方をくらました。もう連絡してこないでください、そう、親御さんからも言われてしまった。
 わたしはこのことを、よく想いだす。彼女が小説でいろいろなひとと繋がることができて、彼女らしい素敵さを彼女に発見するひとと交流する喜びをえて、それが、彼女に彼女らしい幸せをあたえるのだと伝えつづけたわたしは、落胆という形で終わった期待をさせてしまったのだろうか。わからない。そもそもいったい、彼女自身がそれを希んでいたの?
 わたしはやはり、押しつけていた。これからの人生でおなじようなことを起こさないように成長しなければいけない、そんな義務をわたしに教えたのがこの出来事ともいえた。
 わたしは当時、彼女に社会的な立場を与え、そこでひとと交流してもらうことが孤立状態の彼女を救うのだと信じ込んでいたのだけれども、彼女、作家という立場に立つことで救われるタイプの人間ではなかったのかもしれない。もっと浮世ばなれした、まるで社会に染まる能力を授からなかったがゆえの儚さを感じさせる詩人のような、そんなタイプだったのかもしれない。こんな想像だって、わたしの勝手な、独り善がりな美化。
 彼女はふしぎに綺麗に映る、ふわりと陽を淡く反映する絹の布のはためくような、淋しげで優しい表情をよく見せてくれた。透明な眸が、まるで透けてみえるようだった。
 犬や猫、そして小さい子供に、やたらと好かれていた。素直に話しすぎるところがあり、また聞かれたことに正直に答えすぎる性格は、もはやこちらをひやひやさせるほどだった。
 わたしには彼女のそんな個性がとてもかわいらしく映ったのだけれども、現実と闘うのには不適切な性格にみえてしまうほど、かよわい印象もあった。
 彼女のような素敵な優しさをもったひとは幸福にあたいする、そうであるはず、だからわたしが救わなきゃ──そんなわたしの気持ちは、やはり独善的だった。
 どこにいっても意地悪をされるんです、そんな風に言う彼女には、「ああ、こういう子が学校でいじめを受けるって、なんだかわかっちゃうな」と想わせてしまうような雰囲気が、たしかにあった。
 彼女は名を、冨田恵美といった。
 しかしペンネームにしたのは「氷理エミリ」、やや昭和らしい雰囲気はつよいけれども、現代の少女性にも通じる、夢みて現実に傷つく少女らしい透明感のある感性が、名づけのセンスにもみられるようだ。
 エミリって響きが好きなんです、と語りながらはにかむ彼女は、なんだか、守ってあげたくなるようないたましさがあった。
 わたしはこんな感情をはき違えたのだ、きっと。むしろ、彼女を、くるしめてしまったのだ。

  *

 その小説を読んで、無個性な文章やストーリーからむしろきわだつ稀有なセンスをやっぱり感じて、すこしだけ涙をながして、ちいさな家を出る。
 散歩をしようと想った。先にポストを見ると、一枚の手紙。驚くほどに古びて茶色い、数十年前の古本に挟まってありそうな一枚の葉書。
 手にとる。文字を読む。頭がまっしろになる。

 〇〇出版社 御中
 氷理エミリ様へ

 それはわたしが担当したかの作家へ送られた、あまりに古いファンレターであった。最近は少ないけれども、「この本の感想をください」という、本にはじめから挟まっている葉書である。
 なぜわたしの家に、しかもいまになって届いたのか。切手だけが真新しく、郵便局からの印字もしてある。
 怖い気持ちを起こさせたのは、字の形に、なにか既視感をおぼえること。昔の知り合い? なんだか、不気味。
 出版社の住所に線が引かれていて、わたしの家の住所が横に書き足されてある。送り主の名前も、住所も書かれていない。
 なんらかの悪戯でわたしへ送ったのだろうとまず想って、老眼鏡を掛けてペンの様子を注意ぶかく見たけれども、十中八九、古い筆致である。インクの痕が、とてもじゃないが最近に書かれたものとはおもえない。
 エミリに、ファンレターは、一枚も来なかった。
 わたしはこれを、いたみとともはっきりと憶えている。
 わたしは散歩をやめて、えたいのしれないものであることは確かだけれども、たしかにわたしにとって大切な手紙を大切に仕舞うため、家へ戻り、本文をしっかり読んだ。

 氷理エミリ先生へ
 私は二十四歳の会社員です。エミリさんの小説を読んで、情緒不安定と戦いながらも少女らしく生きようとしていたあの日々を、想いだしました。とても素敵な小説で、私の愛読書となりました。次作を楽しみにしています。

 本文は以上。意地悪な発想かもしれないけれども、なんだか内容が薄い。適当に書いたような雰囲気もあり、これだってすこし気になる。
 なぜ、この手紙がいまになって届いたのか。

  *

 わたしは探偵にでもなったつもりで、最寄りの郵便局へ調査に行ってみた。
「ああ、これね。わたしも不思議に思ったんです。こんなに古い手紙を、まさかいまさら送るなんてね。インクの感じも、あきらかに古いでしょう。でも、見てください」
「はい」
 時々雑談する程度にはなかよくなった、同世代の女性の郵便局員の、井上さん。普段柔らかい雰囲気の彼女が眉間にしわをよせ、送り先に書き足されたわたしの住所を指さす。はっとする。
「すごく似ているインクだけれど、これだけ、新しいペンによるものです。この筆致は、ほかの筆致を真似ているように見えます。そして、すこしだけ印字をひっかいたり、ティッシュかなにかで褪せさせたり、そんな作為がみられます」
「ううむ。すこし怖い気が…。なぜそこまでするか、それが分からないのが怖いですね。送り主の特定とか、可能ですか?」
 おそるおそるわたしが訊くと、
「それはできません。プライバシーなので」という返事。

  *

 わたしには悲願があった。これが、エミリからの悪戯でありますように。彼女がまだ生きていて、作家以外の生き方で幸せに暮らしていますように。わたしのことを想いだして、交友したいという気持ちでこれを送った、そんな意味でありますように。けれども、少女時代のエミリの性格を想いだすと、こんな、ずる賢くてひとを困らせるようなことをできるとはおもえない。
 エミリの筆致を確認しようと、わたしは押し入れから昔の仕事道具などをしまってある段ボールを出して、夢中でさがした。
「あ」
 わたしは発見した。「氷理エミリ関連」という、封筒を。中を開ける。確認しながら体がふるえはじめ、くずおれ、「ごめんなさい」と言いながら、嗚咽しはじめてしまった。
 わたしが書いた編集のためのノートが入っていた。エミリの小説の素敵なところを書き、改善すべきところを箇条書きにする。これは、作家さんみんなにやる。
 けれどもその横には、きっと「これをこう言うと彼女を傷つけるだろう」という意識でされたものだ、意見の上に線を引いて、言葉をやわらげる書き方に変えた跡がたくさんある。エミリが苦手な話題、質問されたくないことがぽつぽつとメモしてある。配慮の熱意が、わたしのほかの仕事のそれと比べ異様。しかも、エミリのかわいい発言のメモまでいっぱいしてある。
 最後に書いたページ、「エミリが家出。わたしの連絡先は知っているはずだから、連絡を待つ」という一文から後は空白であり、涙の跡のような紙のしわや染みがある。
 わたしは明らかに、プロとして問題のあるレベルで、彼女に愛着をもちすぎていた。
 ──わたしね、あなたに憧れていたの。だって、現実を生きるにはあまりにも少女性をもちすぎているようで、そんなあなたがそんなにも苦しみながら文章を書きつづけている姿が、くるしくなるほどに美しく映っていたの。わたしはそれをやるには、たぶん、器用すぎたのよ。
 封筒の中身を確認していると、ようやく彼女の筆致がみつかった。お手紙だった。
「先週はおうちに招待してくれてありがとう。本がいっぱいで、さすがプロだと感じました。お紅茶、おいしかったです。ひととお話することが久しぶりだったから、変なことばかり言っていた気がします。ごめんなさい。あと、わたし床にあるいろんなものを踏んじゃってました。ごめんなさい。またおうちに呼んでくれたら、うれしいです」
 ぜんぜん、違う。彼女の書く文字は、彼女のきゃしゃで儚い雰囲気や振る舞いと矛盾するように、角ばった、ゴツゴツとした筆致。
 この手紙を読んでいると、わたしの覚えている彼女の話し方がフラッシュバックされる。ごめんなさい、ごめんなさい。泣きながら何度も呟き、また嗚咽しはじめる。
 その日、わたしは深酒をした。わたしはふだんお酒を飲まないのだけれども、それは、飲み始めるととまらなくなって、しかも、泣き上戸であるから。あんまりにも飲み過ぎて、昨夜の記憶が飛んだりすることもある。

  2
 この謎は、意外とはやく解けたのだった。
 一週間後、インターホンが鳴り、わたしは扉を開ける。相手に、びっくりした。それは、郵便局員の、井上さんだった。顔見知りではあるけれど、友人ではないし、市役所職員ならまだしも、郵便局員さんが家を訪問というのは珍しい。
 なぜか、彼女は黙り込んだまま。
「郵便局員の井上さん、ですね」
「…はい」
 下をじっと見ている井上さんは、なんだか罰がわるそうな顔。
「ごめんなさい」
 井上さんは、うつむいたまま急に謝りだす。
「どうして謝るのですか? すこしびっくりはしましたけれども、いつもよくしてくださいますし、嫌ではないですよ。どうしてわたしの家をご存知なんですか?」
「郵便局員なので」
 ああ、それもそうか──と、納得したけれども、職務乱用の疑いはある。雰囲気は不穏。警戒心がわいてくる。
「そうですか。あの、なにかお話があれば是非中に…」
「ごめんなさい、ごめんなさい。でも、わたし、あなたにも謝ってほしい」
 こころがざわつく。
「あの、どういうこと?」
「謝っているのは、あの手紙を送ったのは、わたしだからです」
 息をのんだ。考えがあれやこれやといろいろな推測にひっぱられる。もしかして──。
「あの、まさか、井上さんって、氷理エミリ? エミリなの? あなたが、悪戯であの手紙を書いたのね? いわれてみれば、面影がある!」
 もし井上さんがエミリだとしたら、この不穏な雰囲気と、「謝ってください」という言葉で、恨みをもっているからこその悪戯であったことが推測できる。けれどもわたし、愚かなことだけれども、エミリに再会できたという気持ちに胸の奥がじんわりとなって、つい、うれしい笑みを浮かべてしまった。
「ちがいます。わたしは、氷理エミリではありません」
 井上さんは、わたしを睨みつけた。
「え? なら、どうしてあの手紙を書いたの?」
「何を言っているの? わたしは、あの手紙を書いたひとでもありません!」
 頭が混乱する。もう、扉をぴしゃりと締めちゃおうかしらとまでおもった。ここまできたら、このひと、なんらかの罪名がつくのでは?
「じゃあ、誰が書いたの?」
「忘れてるのね? あの手紙を書いたのは──」
 井上さんが声をつまらせ、きゅうに泣き崩れて、嗚咽しはじめた。
「あの手紙を書いたのはあなたです。担当編集者の秋山さん、あなたです。あなたの書いた手紙が、恵美を傷つけたんです。わたしは恵美の姉です。恵美の人生を返してください!」

  *

 井上さんを家にいれた。
 井上さんは、「ごめんなさいね、わたし、あなたを責めるなんてまちがってるって、頭ではわかってるの。でも、恵美がかわいそうで」と涙声でうめいている。
 わたしもまた、「わたしも、わたしの罪を理解しているつもりです」と泣きじゃくっている。
 井上さんを座らせ、お茶をいれる。井上さんは、いつもの表情に戻って、話しはじめる。
「さっきの言い方はひどかったわ、ごめんなさい。恵美の人生をあなたが壊しただなんてわたしの解釈は、実際はちがうのだとわかっていますし、とくに、恵美は絶対におもっていない。そんなふうに他人を恨める子じゃないし、あなたのことを楽しそうに、懐かしそうによく話していたんですから」
「そうですか。すこし楽にはなるけれど、わたしが楽になってもいいのかしら。よかったら、いままでの経緯を教えてもらえますか?」

  *

 井上さん(結婚して苗字が変わっている)の話を、要約する。

 エミリは数十年前──新進少女作家だった時期──わたしの家に遊びに来たときに、或る手紙をみつけた。
 それはエミリのこころを踏みにじり、落胆させ、申し訳ない気持ちでいっぱいにさせ、もう、小説家をつづけることができない心境にまで追い詰めたのだった。
 なぜってその手紙は、──おそらくや酔った勢いで──激情に駆られたわたしが嘘でもいいからどうにか励まそうとし、筆致を自分のものと変えようとしてまで書き綴った、架空のファンレターだったのだから。どこかで見たことのある筆致、当たり前だわ。
 わたしは書いた翌朝にはその記憶がなかったのだろう。けれども昔の自分に、そういう発想があったことじたいは憶えている。しかしその行動が、彼女の尊厳、もしバレたら心だって傷つけることは分かっていたから、自制していた記憶がある。
 エミリは散らかった部屋の床に落ちていたそれを拾い、筆致でわたしが書いたのだと見抜いた。その時、エミリの性格を考えれば、「こんなにさせてごめんなさい」と自分を責め、「売れない小説しか書けないし、もう、秋山さんや出版社に迷惑をかけられない」と、自発的にいなくなってしまうのではないか。井上さんの話によると、かなりそれに近い気持ちになったらしく、少しばかりの怒りはあったけれども、性格上その場で怒ることはできなかったから、手紙を持ち帰ってしまったのだ。
 エミリはわたしたちから消息を絶ったあと、じつは、ずっと実家にいた。ご家族が守ったのだ。高校中退のまま進学はできず、働くことはできず、精神科に通院しながらたびたび入院し、リハビリ療法のようなものを続けたり、行けなくなったりを繰り返し、三十で病死した。
「自殺じゃなかったのが救いでした。恵美は、ずっと優しいひとでした。繊細すぎるし、天然という言葉では言い足りないふわふわしすぎた性格でしたけれども、だからこそ看護師さんにも好かれていて、きっと、癒しも与えていたのかな。いろいろな患者さんに好かれていて、話しかけられすぎて疲れ気味なときもあったの。結局社会復帰はできなかったけれども、あの子、いるだけでまわりを素敵な気持ちにさせてくれたの。生産的な社会貢献はしていないと言えますけれども、わたしたちにとっては救われる存在だったんです」
「あの子の性格は、わたしにだって素敵な気持ちをくれました。わたしが、わたしのせいで…」
「やめてください。実際にあなたと話してみて、あなたが全然ひどいひとじゃないってわかりました。恵美の人生には、宿命のようなものが見えづらいところで働いていたんだと思います。わたしは、恵美の人生は素敵なものだったって肯定しています」
「そんなことを言ってくれて、ありがとうございます」
 井上さんだって、いいひと。彼女が、話をつづける。
「恵美は、小説家の立場から離れても、ずっと文章を書いていました。なにを書いているのか、わたしたちは彼女が亡くなって、彼女の部屋を整理しているときに知ったの。タンスの引き出しの中いっぱいに詰め込まれていたもの、それは詩でした」
 ノートを渡された。エミリらしい、いかにもな少女趣味のノートで、わたしは胸が締めつけられる想い。
「これは、亡くなる直前、秋山さんにもし会ったら渡して、って。中身は、詩じゃないかしら」
 そのときのわたしの気持ちをどう表現したらいいだろう。嬉しさ、かなしさ、なつかしさ、同情心、そうともいえない。いとおしさ、少し近い。けれどもむしろ名前をつけたくない、そう思わせるような、素敵な気持ち。
 エミリは、こんな観念的な気持ちを、平易な文章だけで表現するのがうまかった。わたしにとって、それは卓越して素敵な才能だった。
「秋山さんが出版社宛ての封筒をわたしに渡して、名前を見て秋山さんだと分かり、このノートを渡さなきゃって思いました。でも、わたしはあなたに恨みが正直あったから、それをせず、ひねくれた復讐をしてしまいました。秋山さんの書いた架空のファンレターであのことを想い出させ、ざわつかせたかった。悪意です。わたしは間違ったことをしました。秋山さんがこんなにも恵美のことで罪の意識をもっていただなんて。こんなこと、絶対にするべきじゃなった」
「わたしが恵美への接し方を間違えていたことは事実です。それに、井上さんは恵美のことを大切におもっていたから、わたしにそんな感情をもっていたんだって理解できます。ねえ、いま、これを読んでもいいですか」
「ええ」
 1ページひらくと、まえがきのようなものが書かれてある。
 ──わたしがとくに気に入っている自作の詩と、秋山さんが好きそうな詩をえらんで載せました。
 読みすすめる。昔からある平凡な比喩。綺麗な言葉を使った、素朴な文章表現。そこから木洩れ陽のようにわたしの心へ落ちてゆく、恵美らしい素直なやさしい気持ち。彼女の言葉がわたしの心が深いところで共鳴した時、いつだって素敵な気持ちをくれる、そんな、どことなく無名性を想像させる、だからこそ稀有な言葉たち。
 恵美の書く文章だ。
 わたしは、ずっと、彼女のこんな文章に惚れこんでいる。
 最後に、「秋山さんへ」というタイトルのメッセージがあった。

  *

  秋山さんへ

 わたしが秋山さんから去ったこと、小説家という立場から逃げたことで、きっと負い目を感じていると思います。わたしの回避的な心や行動にかなり責任があるのだと、わたしは理解しています。ごめんなさい。

 どんな心や行動が優しさなんだろう、優しさって何種類もあって、ひとそれぞれ得意な優しさと苦手な優しさがあるのかな、そんな答えが出ないことをいろいろ考えてみたりもするけれど、その時その時にはいい影響を出せなかった優しさがあとになって響くことって、たくさんあるんだと考えています。悪は連鎖するけれども、思い遣りだって連鎖することがたくさんあると思っています。たとえ、その場その場では傷つけ合ったとしても。
 わたしはひとに気を遣うのがどうしても苦手です。いっぱいひとを嫌な気持ちにさせてしまいました。けれども、わたしに優しくしてくれた家族や病院の方、そして秋山さんのおかげで生き抜くことができました。だから、わたしだってできるだけ丁寧に他人に接しなきゃいけないんだと意識してきました。
 秋山さんがわたしへ特別な気持ちをもってくれていたこと(うぬぼれ?)、時々迷惑な時はあったけれど(ごめんなさい)、わたしにたくさんのことをしてくれたこと、それを想い出すことは、秋山さんの見えないところで、わたしに、死にたい幾夜を生き抜かせてくれたんです。悲しいことが多い世の中だけれども、わたしは、人間に失望したことはありません。
 もうすぐ、わたしはこの世界からいなくなってしまいます。
 最近、世界がふしぎなくらいにきらきらとして見える瞬間があります。落としたペンを拾って渡された患者さんの、「ありがとうございます」といったときの愛らしい微笑み。電車で席を譲るひと。義務を超えたところでもわたしによく接してくれる看護師さんの、疲れたものだからこそもっと綺麗にみえる笑顔。そういう優しさが世界をきらきらとみせる瞬間が、好きです。そういう、無明の光みたいなものが好きです。
 わたしにとって、秋山さんはそんな存在になっていたんですよ。
 だから、どうか、自分を責めないでくださいね。

   ──元・あなたに愛されすぎてしまった、氷理エミリより

エミリの手紙のミステリー

読んでくれてありがとうございました。エミリのモデルは、大好きな詩人のエミリ・ディキンソンです。生き抜こうね。

エミリの手紙のミステリー

ライトノベル

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-04

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