星結びのフィラメント

このお話は、昔から大好きな2つの楽曲をベースに作り始めた物語です。
作っている中で見聞きしたこと、新たに生まれた解釈や価値観をできる限り作品の中に込めました。この物語を少しでも楽しんでいただければ幸いです。

黒夜

なにもみえない。なにもきこえない。たっているのかも、すわっているのかも。うごいているのかも、とまっているのかも。なにも、わからない。もう、なんだかねむたい。いしきが、まっくらなやみのなかにとけていく。

—―――――かみさま、……どうか、どうかおねがいします。

とけきるまえに、こえがきこえた。
そんなきがした。

新月夜

 目を開ける。
 ぼんやりとした視界の中心に、オレンジ色の柔らかい光を捉える。じわじわと輪郭が浮かび上がり、ユラリ、ユラリと緩やかに揺れるそれが、電球であると認識した。ジリジリと、何かが燃える音。その音を聞いているうちに、指先にまで血が巡るように、ゆっくりと全身に力が入る。大きく息を吸う。グッと上半身に力を込めて、錆びついた身体を起こした。

「……ここ、は?」

 ぐるりと周囲を見渡す。しかし、どこを見ても暗闇しか広がっていない。光があるのは、今自分がいるこの場所だけのようだ。もう一度頭上を見る。真っ暗な天井から吊るされた、随分と古いフィラメント電球が一つ。人間一人分の柔らかな光は、周囲を探索するにはいささか心許ない。しかし、この電球を見ると不思議と心が落ち着く。ここが、どこかも分からない。現状も分からない。混乱する私にとっては、その小さな安心感は随分とありがたいものだ。視線を電球から正面へ戻し、息をつく。

 バチンッ、……ザザッ、…ザッ……。

「……っ!?な、何!?」

 突如、背後から響いた音。咄嗟に音のする方向へ振り向くと、そこには青白い光が揺らめいていた。その正体を確かめるため、恐る恐る光のもとへ近づく。ノイズが、大きくなる。それは、小さなブラウン管テレビだった。本体のあちこちは錆びつき、乾いた泥が付いているようで、触れた指先にザリザリとした感触が残る。何かを写そうと必死に光る画面を、砂嵐が覆いつくしていた。砂嵐の隙間から、何かが見えようとした瞬間だけ、ノイズの向こうに何かの音が聞こえる。

《……も、…………たが、……かっ……ど、…………る?》

 それは、誰かの言葉の断片だ。そう、直感した。この場所と、何か関係があるのだろうか。ノイズがあまりにも酷いため、何を言っているかは分からない。結局、謎が増えてしまっただけだ。

「……一体、何がどうなっているの?」

 目を閉じて、大きく深呼吸をする。頭の中を整理しようと試みるが、グルグルと思考は巡り、やがて闇の中へと溶けてしまう。そんなことを何度か繰り返していた時、ふと思い至る。
 私は、どうしてここにいるのか。そもそも、この場所へ来る前は何をしていたんだっけ。視線を、電球が照らしている元居た場所に向ける。私の記憶は、あそこで目覚めてからのものしかない。現状を変えるには、動くしかないと、頭に浮かぶ。帰る場所も、方法も、自分のこれまでも何もかもが分からないのだから。まずは、知らなければ。その第一歩として、このブラウン管テレビが鍵になるのかもしれない。未だに流れ続けているノイズと、言葉の断片らしきものに意識を再び向ける。どうにかして、このノイズを取り去って、言葉の断片を浮かび上がらせれば。確証はない。しかし、やるしかない。あらゆる謎を紐解くため、私は行動することを選んだ。
 さて、と気を取り直して周囲を探るが、やはり暗闇が広がるばかりで何もない。ブラウン管テレビを直すためには、何かの道具がいる。もっと先の闇の中に隠されているのかもしれない。あの電球何とか持ち運べないだろうか、と視線を元居た場所に向けた。

「……あれ?」

 オレンジ色の小さな灯りの真ん中。ポツリと置かれた箱。つい先ほど周囲を見た時には、こんなものは無かった。慌てて駆け寄り、その箱をまじまじと観察する。深い赤色の表面。年季が入っているようで、あちこちに傷が入っていた。金属製の箱の上部には取っ手が付いており、持ち運びができる形状だ。ブラウン管テレビと同じように、どうやら泥で汚れてしまっているらしい。手に取ってみれば、ずっしりとした重みと土の感触が伝わった。持ち上げた際に、中からはガシャンと大きな金属音がした。一旦ブラウン管テレビの前まで移動して、中身を確認する。そこには、修理に使えそうな道具が大量に入っていた。これは工具箱で間違いないようだ。道具が見つかったので、あとはこれを直すだけ。……なのだが、あいにく私はその方法が分からない。どうしたものか、と試しに工具箱の中から使えそうな道具を一つ取り出してみる。
 そこからは、自分でも不思議な感覚だった。ブラウン管テレビの中身を見るために、自然な手つきで解体作業を始める。どの道具を使って、どんな作業をすればいいのか、身体が覚えているような。そんな自然な動きで、修理が進められた。手にしている道具も、初めて持ったとは思えない程、手に馴染んでいた。頭では何も考えられないのに、作業の手は止まらない。そうやってしばらく不思議な感覚のまま、呆然とこの状況を眺めていた。そうしてしばらく時間が経ったとき。

「……終わった?」

 手が、ピタリと止まる。あれほど大きくなっていたノイズも、随分と小さくなっていた。代わりに、はっきりと聞こえてきたのは、波の音だった。一体、何が映っているのか。それに、あの言葉は何だったのだろうか。道具を箱の中にしまって、足早にテレビの正面に移動する。
 そこには、とても穏やかな浜辺が映っていた。これは、夜明けの海だ。ゆっくりと太陽が昇り、徐々に明るくなる風景。そして、優しく響く音。波の音ではない。誰かの、声。

《……はさ、……しも、明日……来なかっ……、……する?》

 目が、大きく見開かれた。胸の奥がギュッと締め付けられる感覚。呼吸は浅くなり、声にならない声が、こぼれ落ちる。口の中で何かを紡ごうとしても、形作られる前に、ボロボロと崩れてしまう。全身が、それを悲しいと訴える。大切だったはずなのに。大切だと、知っているはずなのに。

「…………っ!」

 どうして、何も、思い出せないのだろう。

鼓星

「おーい!君、どうしたの?」

 背後から響いた男性の声。身体が固まる。ブラウン管テレビから聞こえた、機械的な声ではない。たしかに、人間のものだ。

「ねえ、大丈夫?」

 柔らかな、声。先程、ブラウン管テレビから聞いた声と、まったく同じ声。
 私はゆっくりと振り返る。私が目覚めた、電球の下に声の主はいた。心配そうに、こちらを見つめている。その目を見た瞬間に、自然と足が動いた。フラフラと、力なくその場所を目指す。最初はゆっくりと、しかし次第に気持ちが急いてしまって、そのスピードが上がる。それが良くなかった。いよいよ目前に声の主が迫ったそのタイミングで、足がもつれてしまったのだ。

「わ、君、どうしたの」

 慌てながらも、私を支えてくれたその人。服越しに感じた手の大きさに、思いのほか男性らしいその腕の力強さに、心がゆっくりと解れていく。おずおずと顔を上げる。心配と、困惑。それと、なにかを堪えているような、複雑な表情を彼は浮かべていた。視線がぶつかる。とても、優しい瞳。冬の朝焼けのような、淡く澄んだ色を宿した、そんな瞳に目が奪われる。

「……えっと、そんなに見つめられると、流石に恥ずかしいんだけどなぁ」

 ふと、彼が視線を逸らした。気づけば随分と近い距離でまじまじと見つめてしまっていた。彼に身体を預けてしまったままの態勢であることも急に意識してしまい、気恥ずかしさから慌てて離れる。

「ご、ごめんなさい。……その、なんだか、懐かしい感じがしてしまって。すみません、いきなり」
「大丈夫、そんなに謝らないで。でも、そっか。……懐かしい感じ、か」
「……あの?」
「ねぇ、君。名前は?どこから来たの?」

 そう問われて、初めて気が付いた。私、名前も分からない。どこから来たのかも、何をしていたのかも分からないのは依然として同じだが。その事実に愕然としながらも、何とか返答しなければと声を絞り出す。

「えっと、……分からない、かな」
「じゃあ、俺と一緒だ!俺もなーんにも覚えてなくてさ。目が覚めたら知らない場所にいて、あちこち探し回ってたら、君を見つけたんだ」

 少し大げさに、彼はいかにも困りました、というように肩をすくめてみせた。おどけたようなその様子に、思わずクスリと笑みがこぼれる。

「あの、良かったら一緒に探しませんか。ここから出る方法を」
「え?」

 笑みだけではなく、そんな言葉も口からこぼれていた。彼はキョトンとこちらを見つめている。そんな彼を見て、ハッと気づいた。出会ったばかりで、しかもつい先ほどまで顔を見つめたりろくに返事をしなかったりと怪しい動きをしてきた相手にこんな提案をされたのだ。きっと困惑しているに違いない。

「あ、あの、私もこの周辺を調べていて、でも、ヒントもなくて。急に物が現れたりするし、訳が分からないことばっかりで、困っていて。その、二人で協力出来たら、どうにかなるんじゃないか、と思ったんですが。……どう、でしょうか?」

 早口でそうやってまくし立てる。彼はその言葉を聞いて、何やら思考を巡らしている。再び訪れた沈黙。気まずいやら、いたたまれないやら、さまざまな思いが巡る。そうしていると、ふと彼の表情を和らげた。

「いいね、それ。……うん、一緒に頑張ろう!」
「……!は、はい!」
「それじゃあ、せっかく協力できる仲間になれたことだし、お互いの呼び名を決めよう」
「呼び名、ですか」
「うん。お互い自分の名前は覚えてない。でも、呼び名がないと、ちょっと不便でしょ?俺としても、君のことをずっと"君"って呼ぶのはなんか嫌だし」

 彼はニコッと笑う。まあ、無くても困らないが、不便と言えば不便なようにも思えた。だから、名前を付けること自体はとくに反論は浮かばなかった。

「それは、……まあ、確かに」
「でしょ?あ、それなら、せっかくだしお互いに名前を付け合おうよ」
「え、私あんまりセンスないですし……」

 私がそう言うと、彼はケラケラと笑った。そうして、何かを懐かしむように柔らかく微笑み、言葉をつづけた。

「いいよ、それでも。どんな名前でも嬉しいよ、俺は」

 その表情に、その言葉にグッと胸が詰まった。そんな表情は、ずるいんじゃないかと心の中で毒づく。そんな顔をされたら、断れじゃないか。だから、私は渋々賛成するしかなかった。

「……それなら、まあ、いいですけど」
「うん、ありがとうね。……あ、俺が考えた名前もちゃんと受け取ってね。まじめに考えるからさ」
 すこしキリッと表情を引き締めた彼は、そのまま頭を捻らせていた。私もどうしようか、と考えを巡らせる。一時的なものとはいえ、相手の名前を考えるのだから、失礼がないように、と思えば思うほど良いアイディアは浮かんでこない。そんな中、彼は「決めた!」と声をあげた。そうして、笑顔でこちらに向き直る。

「ルア」
「……それが、私の名前、ですか?」
「そう、君の名前。どう、かな」
「えっと、海外の人の名前みたいで、驚きました。日本人だってことはちゃんとわかっているので、予想外というか」
「ちゃんと理由があるんだ」

 そう言って、彼はこの名前に決めた経緯を話してくれた。名前を決めるとなって、真っ先に私を見つけた時の状況を思い出したようだ。私はブラウン管テレビの前にいて、青白い光に包まれていたように写ったそうだ。青白い光、そこから真っ先に思い浮かんだのが、《月》。

「月にまつわるお話の中で、月の女神に関するものがあるんだ。そのお話が大好きでさ」
「も、もしかして、その月の女神さまがルアの由来ですか?」
「そう!月の女神の名前は、アルテミス。そのままだと長いし、ただ短くしても君のイメージとはちょっと違う感じがしたから、名前をもじってみたんだ。それで出来たのがルアって名前」
「月の女神様の名前……。私には少し、もったいないかもしれませんね」
 そんな大それた名前、私が名乗る資格があるのだろうか。私には、そんな価値を持っているようには思えないから、由来を聞いて委縮してしまった。しかし、間髪入れずに彼は言った。とても、真剣な表情で。
「そんなこと無いよ」
「……え?」
「君は、俺にとっては女神に間違いから」

 どうして、そんなことが言えるのだろう。まだ出会って間もない、素性も分からない相手に。なんで、そんな確信を持ったような目を向けてくれるのだろう。疑問は止まらない。何も言えずに、ただじっと彼を見つめていた。そうすると、彼は慌てて弁明を始めた。

「あ、ほら、知らない場所から脱出するのにさ、偶然君を見つけたから!すっごく運が良いなって。それこそ、神様がいるんじゃないかって」

 あんまりにも必死に話す彼を見ていて、小さく笑ってしまった。必死になるほど、彼は真剣に私の名前を考えてくれた。それは間違いなく伝わった。分からないことはたくさんあるが、それだけは確かだ。気恥ずかしさもあるし、委縮する気持ちもある。けれど、ありがたく使わせてもらおう。そう思えた。

「……うん、わかった。その名前、使わせて下さい」
「え、ほ、本当に……?」
「はい」
「や、やった!ありがとう、嬉しいよ」
「こちらこそ、ありがとうございます。それじゃあ、私も貴方の名前を決めないとですね」

 彼は、私と初めて出会ったときのイメージから名付けてくれた。なら、私もそれに則って考えてみることにした。そう考えていると、先程の光景がフラッシュバックした。そして、自然と口からその名前が紡がれる。

「……アサヒ」
「アサヒ……。いい名前だね」
「貴方と出会ったとき、目が綺麗だって思ったんです。冬の朝焼けみたいな、澄んでいて、淡い色を含んだ、そんな瞳で。それに、貴方は電球のオレンジ色の光に照らされていたから、なんだか太陽みたいだなって思いまして」
「……とっても素敵な名前をありがとう。大切に、使わせてもらうね」

 彼は微笑みながらそう言ってくれた。名前を気に入ってもらったことによる安堵を感じたことも束の間。その表情の奥に、何か違和感を覚える。嬉しいだけじゃなくて、もっと何か、複雑な感情が隠れているような。先程からアサヒはこういった表情を浮かべる。直接聞いてみたい気もするが、出会って間もない相手が隠していることまで踏み込むのは良くない。もう少し様子を見て、聞いてみるのが良いだろう、と結論付けた。ちょうどそのタイミングで、アサヒはパッと表情を明るくした。

「あ、そうだ。ルア、話すときは敬語じゃなくていいよ」
「え、でも」
「ほら、俺たちは脱出するために協力していくパートナーなんだから。なんかムズムズするし、もっと仲良くなりたいからね」

 そういえば、アサヒは出会ってから一度も敬語を使っていない。もともと、堅苦しい言葉が苦手なのかもしれない。それに、いつ脱出できるかもわからない。先は見えないがこれから協力するにあたり、仲を深めるためにも確かに敬語だと距離ができてしまうように思える。

「うん、分かった。よろしくね、アサヒ」
「ありがとう。こちらこそ、よろしく、ルア」
 こうして、私とアサヒはこの不思議な空間からの脱出を目指して周辺の調査を始めることにした。

星影

 アサヒと共にこの周囲を調べる。そう決意したものの、現状はまったく変わらない。電球周辺を歩き回ったアサヒが、難しい顔をして戻ってきた。

「光が届くギリギリまで歩いたけど、やっぱり何もないね」
「どこまで行っても真っ暗。……この電球以外にも、何か光る物があるといいんだけど」

 自分たちの周りにあるのは、頭上の電球一つと、小さなブラウン管テレビ、それに工具箱のみ。それ以外は依然として真っ暗な闇に包まれていた。テレビからは波の音と、アサヒと同じ声で紡がれる言葉のみが繰り返し流れ続けている。状況を打開するためにも、新たな何かを見つけたい。そのためには、周辺を照らす光源が必須となる。どうしたものか、と頭を悩ませていると、ふと疑問が浮かぶ。

「そういえばさ、なんでフィラメント電球なんだろう」
「え?あぁ、確かに。明かりとしては、ちょっと心許ないよね」
「そうなんだよね。明かりなんてたくさんあるはずなのに、わざわざ光量の少ないものを、なんで選んだんだろう」
「なんで、だろうね……?まあ、俺はこれも好きだけど。柔らかい光でさ」

 答えの出ない問いに、アサヒは音を上げてしまったようだった。考え込んだ仕草をした後に、パッと表情も話の方向性も変えた。難しいことを考えるのは、少々苦手なのかもしれない。それに、今急いで考えるべきことでもない。私は疑問の解消を一旦諦めて、アサヒの話題に乗ることにした。

「私も電球の光は好きだよ、落ち着くし」
「うんうん、分かる」
「それに、いくつか集めたら十分辺りを照らしてくれるしね。蛍光灯とか、LEDとか、くっきり照らすのもいいけど。電球のほうが温かい感じがする」

 そう言いながら、頭の中で自分の言葉通りの光景をイメージする。真っ暗な天井から、いくつかの電球がを吊り下げられている光景だ。パチリと電源を入れると、ジリジリと音を発しながら、ぼんやりと部屋を照らしてくれる。電球の光に埃が照らされて、キラキラと静かに舞っている。そうしてスポットライトの様に照らされた床に表れたのは、望遠鏡と工具箱だった。
 そこまでイメージしたところで、思考が止まる。なぜ、こんな具体的なイメージが浮かぶのか。部屋の様子も、望遠鏡や工具箱も。工具箱や部屋の様子は、今の状況から連想されて勝手に頭に浮かんだのかもしれない。しかし、望遠鏡は、どこから。もはや、ただのイメージではない。何かの記憶を思い返しているような、そんな感覚だ。私は、この光景を過去に見たことがあるというのか……?いったい、どこで。ズキリ、と頭が痛む。

「ねえ、ルア!あっち見て!」

 アサヒの声に、ハッと意識が戻る。朝日が指差す方向を見てみると、つい先ほどまでは無かったものが出現していた。電球だ。一つではない。ポツポツと、無数の電球が暗闇の中で静かに光っている。

「……星みたい」

 思わず、そう呟いた。周囲を完全に照らしているわけではない。しかし、その小さな灯が、今まで何も見えなかった暗闇を、優しく照らしてくれている。これで、周囲の調査ができる。

「すごい、すごいよルア!君が何かを考え込んだと思ったら、急にあの電球が現れたんだ」
「いや、私は何も……」

 アサヒの言葉を否定しようとして、言葉を紡ぐ。そこでふと思い至る。

「……頭の中で、電球を思い浮かべた」
「そうしたら、現実に出てきたってこと?」
「分からない。……でも、私がやったのは、それくらいだし」

 そういえば、ブラウン管テレビを修理した時と似ている。あの時は、修理をしたい、何か道具が欲しいと頭の中で思い浮かべていた。そうすると、気づけば工具箱が出現していたのだ。それに、アサヒも。映像や声を聞いて、誰かを思い出そうとしていた時に彼は現れた。そのきっかけを作ったブラウン管テレビは、どうやって現れたか分からないが、これまでの一連の流れから生まれた推測を口に出す。

「私が何かを思い出したり、頭の中でイメージしたら、何らかのヒントが現実世界に表れるのかもしれない。……確証は、ないけど」
「でも、試してみる価値はある。実際、電球はルアがイメージしたことがきっかけで現れたように思うし」

 アサヒは不安げに話す私の目線に合わせて、少し姿勢を低くした。まっすぐに私の目を見て、大丈夫だという想いを乗せてそう言ってくれた。そうして、にっこりと笑う。胸の奥が、じわりと温かくなる。
「ルアが何かを思い出せるように、いろんな話をしよう。どうせ、あちこち歩き回るんだからさ。暇つぶしも兼ねてね」
「……うん、そうだね。そうしよう」

 自然と、表情が和らぐ。私はアサヒの提案に賛同し、彼と共にまだ足を踏み入れていない場所へと歩みを進めた。原理は分からないし、正しいのかもわからない。でも、アサヒとなら大丈夫。そんな根拠のない自信が、自分の中で生まれていた。

居待ち月

「……広い」
「これは、……想像以上だね」

 どれだけ歩いても、あるのは点々と灯る電球のみ。目ぼしい物はなく、ただ同じ光景の中を歩いていた。どれだけ時間が経ったのかもわからない。もしかしたら、同じ場所をグルグル巡っているのではないか。そんな考えが過ぎるほどには歩いた。足には薄っすらと疲労が滲んでいる。

「ルア、少し休もっか」
「……うん、そうだね」

 私たちはその場にそっと腰を下ろした。疲労と共に、心が随分と弱ってきていたのも事実。何かを見つけたいのに、見つからないもどかしさ。気持ちだけが焦ってしまう。あまりにも果てしない探索に、心が折れそうだった。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。一難去ってまた一難、とはまさにこの状況を指すのだろう。そんなことを考えていると、アサヒが話しかけてきた。

「何か思い出せそう?」
「……ごめん、何も」
「そっか」

 私の記憶が、イメージが鍵になるかもしれない。そう仮定していたことは、本当のことなのかもしれない。私が何かを具体的に頭の中でイメージできた時には、関連するものが現れた。そして、何も思い浮かばない時には、新たに何かが出現することはない。アサヒの為にも、自分の為にも、ここから早く脱出したい。そのためには、何かを思い浮かべなければならない。でも、あれから何も浮かばない。そのことが、申し訳なくて、不甲斐なくて、胸を締め付ける。そんな私の気持ちを見透かしてか、アサヒは明るい調子で言葉を続けた。

「じゃあ、改めてゆっくり話そう」
「……休憩も兼ねて?」
「そう!歩いてる時もいろんなことと関連付けながらなら薄っすら思い出したこともあったでしょ?だから、他愛ないことも、ぜんぶ話そう」

 それから、本当に些細な話をした。好きな食べ物、場所、季節……。歩いている時には話題に上がらなかった、とても些細なこと。でも、腰を落ち着かせて話をしていると、歩いている時以上に話が弾んだ。アサヒは、自分が好きなものを話している時、キラキラと目を輝かせている。特に星座について話している時の彼は、一頭楽しそうだった。私にルアと名付けてくれた時と同じように、たくさんの話を聞かせてくれている。そんな彼を見ていると、ひどく胸がざわついた。同時に、温かいさを胸の奥に感じる。

「月の女神といえば、実は有名な星座とも関りがあるんだ」
「そうなんだ」
「冬の時期に綺麗に見えるんだけど、なんだと思う?」
「……何だろう、誰でも聞いたことある?」
「そうだね、教科書でも名前が出てくるんじゃないかな」
「えぇ?……うーん、ごめん降参」
「正解は、オリオン座!」
「ああ、確かに聞いたことある。でも、月の女神さまと関係があるっていうのは知らないかも」
「まあ、いろんな逸話があるんだけどね。俺はその中でも、月の女神アルテミスと星座になったオリオンの話が好きでさ」

 そこから、アサヒは語る。
 かつて、月の女神であるアルテミスと、狩人であったオリオンが恋に落ちた。二人は仲睦まじく交際を深めていったが、それをよく思わなかった者がいた。それが、アルテミスの双子の兄であるアポロン。ある時、アポロンの企みによって、アルテミスは自ら放った弓矢で恋人のオリオンを殺してしまった。深く悲しんだアルテミスは、全能の神であるゼウスに頼み込んで、オリオンを空に上げて星座にしてもらうことになった。現代でも冬になればオリオン座の近くを月が通ることから、アルテミスが恋人のもとへ会いに行っているのだと言われているそうだ。

「悲しいお話ではあるんだけどね。でも、死んでもなお空の上でずっと会えるなんてさ、なんかロマンチックじゃない?」
「……そう、だね」
 大切な人を、自分の手で殺してしまう。アルテミスはきっと、ひどく悲しんだのだろう。想像もつかないほどに。……いや、なんだか、分かる気がする。胸の奥のこの痛みを、言葉にはならない心の叫びを、私は静かに感じ取っていた。頭の中で、ぼんやりと何かがイメージできそうだった。灰色、黒、茶色、暗い色がグチャグチャに混ざり、そして形を成す前に消えてしまう。きっと、アルテミスのこの話と近しい悲しい出来事を、私は経験したのかもしれない。そんな直感が浮かんだ。はっきりとは分からないが、これだけは明確な言葉となって自分の頭の中に浮かぶ。彼女が、アルテミスが羨ましい。星座になった恋人のもとへ会いに行けるのだから。なんて、幸福なんだろう、と。

「ルア?」
「ごめん。悲しいなって思ったら、胸が詰まっちゃって」
「あー、だよね」

 心配そうにこちらを見つめるアサヒに、大丈夫だと笑顔を向ける。そこで、アサヒの袖の辺りに何かが付いていることに気づいた。

「アサヒ、袖に何かついてるよ」
「え?……あれ、ほんとだ」

 そのままアサヒは、袖に付いたもの摘まんだ。すると、腕を引くにつれてスルスルと伸びていく。それは、袖辺りでほつれていた糸だった。面白がってどんどんと引っ張るアサヒ。気づけば、あやとりでもできそうな長さにまでなっていた。

「ちょっと、そんなに引っ張って」
「はは、大丈夫だって。……あ、そうだ。ねえ、ルア。ちょっと手を貸して?」
「え?……いい、けど」

 おずおずと手を差し出すと、アサヒはその長い糸を、私と自分の指に括り付けていく。時折、「この指、もう少し横に動かして」と指示も出しながらてきぱきと、迷いなく手を動かしている。そして、ものの数秒でそれは完成した。アサヒは、満足そうに笑う。

「じゃじゃーん!」
「これ、は?」
「オリオン座!主要な星だけ俺たちの指で見立てて、糸で結んでみたんだ。他のもできるよ」

 そういって、糸を解く。そして、次々と自分たちの指を星に見立てて、アサヒはさまざまな星座を作り出していく。そして、その一つ一つに解説をしてくれた。最初は戸惑っていた私も、気づいた時には「これは?」とワクワクしながら彼の説明を待っていた。

「すごいね、アサヒ。こんなにたくさん」
「でしょ?星座はまだまだあるんだけど、流石に指の数が足りないや」

 そうして、二人でケラケラと笑う。
 その時だ。ふと、頭の中にイメージが浮かぶ。今、私たちがやっていたように、指と糸を使って星座らしきものを作っている光景。ズキリと、頭が痛む。イメージは止まらない。そこはどこかの工場のような、さまざまな道具が置かれた場所。夕日なのだろうか。オレンジ色の強い光がその場所を照らしていた。続いて、ケラケラと笑う自分の声が聞こえる。そして、もう一人の、

「ルア!」
「……っ!ご、ごめん、どうしたの」

 切羽詰まったような、アサヒの表情が目に入る。私が返事をすると、ホッとしたように彼は息をついた。

「急に黙り込んだから、心配したんだ。よかった、返事してくれて」
「心配かけた、ごめん。もう大丈夫」
「ううん、いいんだ。……それに、あれ見て」

 アサヒは、スッとどこかを指差した。その方向を見て、目を見開く。そこにあったのは、今まさに頭の中で浮かんだ、あの場所だった。何もなかったはずのその場所には、映画やドラマのセットの様に、コの字型で壁が作られていた。壁際には、無骨なスチール製の棚がそびえ立っており、そこにはさまざまな部品が所狭しと並んでいた。コの字型で囲われたその場所の中心には、あの小さなブラウン管テレビがポツンと鎮座している。天井からは、フィラメント電球が一つ吊り下げられている。頭の中でイメージとして浮かんだ工場らしき場所が、目の前に現れた。

「とにかく、行ってみようか」
「……」
「……ルア?」
「……うん、行こう」

 予感がする。きっとこの場所で思い出を探せば、今まで以上に大きな変化が訪れる。
 これまでのアサヒとの会話の中でも、反射的に、ごく自然に返答が口から出ていた。自分が頭で思い出すよりも先に、身体が覚えていたことを勝手に告げていたのだ。でも、明確なイメージまでは浮かばなかった。
 しかし、先程の星座づくりは違った。これまでのイメージよりもはっきりと頭に浮かんだ。むしろ、あれは記憶だ。過去の自分が見たような視点で、あの光景が浮かんでいた。アサヒとの会話や、行動が記憶を呼び起こしやすくしているのなら、この場所でもきっと何かを思い出せるかもしれない。たくさんの物があって、なおかつ自分の記憶の中に残っていた場所なのだから。そうなれば、この場所に至った経緯も、何もかもが分かるだろう。そう思うと、とてつもない緊張感が全身を駆け巡る。

「何だろうね、ここ」
「……私、たぶん、この場所を知ってる」
「本当に?もしかして、ルア、何か思い出したの?」
「少しだけ。でも、この場所は、はっきりと頭の中に浮かんできたから……」
「なら、もっといろんなことを思い出せるかもしれないね!」
「……そうだね。早く、帰り道を探さなきゃね」
「よし、張り切って頑張ろう!」

 アサヒは、私のほうに手を差し伸べる。私は静かにその手を取り、立ち上がった。私たちはハリボテの工場へと足を踏み入れたのだった。

青星

 私とアサヒは、手分けをして突如現れたこの工場らしき場所を調べることにした。広さとしては、大人が両手を広げて3~4人入ればいいところ。あまり広くはないその場所の壁際には、大量の物が置かれている。錆びついた大きな箱には、何かの部品が大量に敷き詰められていた。それが複数個置かれている。その間には、小さな機械たちが乱雑に置かれていた。古いラジオに、CDプレイヤー、パソコンだったり、大きなものだとバンドマンが使っているようなアンプまで。なにかの工場であることは間違いないのだが、あまりにも雑多なもので溢れていて、何の工場なのかはいまいちピンとこない。これだけ物があるのだから、頭の中で何かイメージがいくつも浮かぶものかとも思ったが、今のところそんな品物にも出会えていない。小さくため息をついたとき、反対側の壁を調べていたアサヒがこちらへ来た。

「ルア、何か見つけた?」
「……物はたくさんあるけど、何かを思い出せるようなものはないかな」
「うーん、そうなんだよね。ここ、ほんとにいろんな部品も機械も置いてあるね」
「だから、結局なんのための場所なのかよく分からないんだよね。……それに、このテレビと工具箱の関係も」

 視線を、この工場の中央に移す。私が目を覚ましてからすぐに見つけた、ブラウン管テレビ。今は電源が切れているようで、真っ暗な画面に自分たちが映っている。そして、修理をするために使った工具箱。わざわざこの場所に現れたということは、きっとこの工場とも何かの関りがあるはず。ただ、改めて見ても何も思い至らない。まだ、何かが足りないのだろうか。

「そういえば、この電球もルアが目を覚ましてからずっとあるんだよね」

 アサヒが、テレビの頭上にぶら下がっている電球を指差す。ジリジリと小さな音をたてながら、電球は光り続けている。私が目覚めた時には、すでにあったもの。この光を頼りに、私はこの場所で目覚めた。

「うん、そうだよ」
「そっか。さっきまで歩いていた場所にも同じ電球があったから、きっとこれもルアと何か関係があるんだろうね」
「……そう、なのかな」
「分からないけど、可能性としてね。それはそれとして、ここ、なんだか落ち着かない?」
「え?」

 アサヒは、二ッといたずらっ子のように笑う。そして、周囲をぐるりと見まわして言葉を続けた。

「そんなに広くなくて、物が沢山あって、電球一個だけのちょっと薄暗い場所で。……なんか、秘密基地みたいじゃない?」
《……い!こ……、ひみ……き……みた……ね!》

 秘密基地という言葉が耳に入った瞬間、頭の中で、何かの声が響く。ブラウン管テレビの時のように、ぶつ切りで何を言っているかは分からなかった。でも、テレビから流れたあの声と、同じだと直感的に思う。脈が、少しだけ駆け足になる。アサヒは、そのままグルグルと周囲を見ている間に、何かに気づいたようで声をあげる。

「ここ、もしかして何かの修理をしてたんじゃないかな」
「え、修理?」
「うん。ほら、こっち来て」

 そう言って、すぐ横の棚に置かれていたラジオのもとへと駆け寄った。アサヒが、ラジオを手に取る。そしてじっくりと表面と裏面とを交互に見る。私も、同じようにその光景を眺めていた。

「やっぱり。これ、すごく型の古いラジオだ。俺のおじいちゃんとかが持ってそうな」
「……ほんとだ。そういえば、ここら辺においてある物、ほとんど一昔前の型の製品ばっかり」
「そう、そうなんだよ。最新のものは無い。それに、置いてあるものがバラバラ。大量の部品もあったから、この場所は古くなった物を修理するための場所だったんじゃないかなって」
「じゃあ、この工具箱は修理するときに使っていたのかもしれないね。このテレビも、ここで直したのかもしれないって考えると、関係性も納得できる」
「ちなみに、この工具箱とテレビには見覚えない?俺と会う前に、ルアの前に出てきたんだよね」
「……そういえば。テレビの修理の仕方も、道具の使い方も分からなかったのに、勝手に身体が動いたの。それで気づいた時には、修理が終わっていて」

 その時、また声が聞こえた。さっきよりも、はっきりと。そして、いくつも。

《これ、全部………が直したの?すごいね!》
《……って器用だね、羨ましいよ》
《あの、これ、直せますか!?》

「ルア、無理しないで。一度座ろう」
「……ごめん」

 アサヒの声を聞いた瞬間、無意識に止めていた呼吸を再開できた。身体が小さく震える。何かを思い出しそうなのに、まだ思い出せない。アサヒがわたしを支えながら、ゆっくりと近くにあったパイプ椅子に座らせてくれた。深く呼吸を続けて、すこし頭の中が落ち着く。アサヒは心配そうにじっとこちらを見つめていた。

「……頭の中で、ずっと声がするの。アサヒに似ている声。でも、誰なのか分からなくて」
「うん」
「……たぶん、あと、少しなんだと思う。あと一歩、何かがあれば、全部思い出せると思う」
「……そっか」
 
 アサヒは、少し寂しそうな顔をした。どうして、そんな顔をするんだろう。ぼんやりとした頭でそう考えた時、突如この空間をつんざくように、何かの音が響き渡る。あまりにも大きな音に、意識がそちらへ向く。バウバウと規則的に響くそれは、何かを訴えているようにも聞こえた。

「なに、この音」
「わからない、どこから……?」

 アサヒが緊張した面持ちで、辺りを警戒する。そして、先程と違う点に気が付いたようだった。工場の中央に鎮座したブラウン管テレビ。その正面が、見覚えのある青白い光で照らされている。

「もしかして、あのテレビから……?」
「……行ってみよう」

 恐る恐る、テレビの正面に立つ。推測は当たっていたようで、この音の出どころだと確信を得る。そこに映っていたのは、一匹の犬だった。一心不乱に吠えているのか、同じ場面が繰り返されているのか。どちらかは分からないが、必死に吠えるビーグル犬の姿が流れ続けている。犬が口を大きく開けるたびに放たれる音が、グラグラと脳を揺らす。アサヒはどうやら平気なようで、キラキラと目を輝かせていた。

「わあ、かわいいね!」
「……ちょっと、声はうるさいけど」
「そうだね、元気いっぱいだね。……ルアはさ、ワンちゃん好き?」
「……嫌いではない、かな。見ている分にはかわいいと思う。まあ、飼うとなったら話が変わるけど」
「はは、そっか。俺はさ、好きなんだよね。だけど、ルアみたいに飼った後のことまでは考えたこと無かったかも。ルアはしっかりしてるね」
《ねえ、俺、この子放っておけないよ》
「……別に、そんな偉いもんじゃないよ。私の周りに、勝手に拾ってきて、勝手に飼おうとした人が、いたから」
「へえ、そうなんだ。その人、結局ワンちゃん飼ったの?」
《俺の家、ペット禁止でさ……ちょっと相談なんだけど》
「そいつの家、ペット飼っちゃダメだったの。だから、私の仕事場で一緒に飼わないかって……?」

 アサヒの質問と、頭の中の声が、ぐちゃぐちゃになる。なんだ、それ。誰だその人。なんで、そんなこと知っているように話せるんだ。仕事場って、どこなんだよ。自分の口から、知らない記憶が紡がれていく。それが、止まらない。

「そうなんだ!その子、なんて名前なの?」
《この子の名前、決めたよ!ふふ、君は今日から……》
「……レラプス」
「レラプスといえば、アルテミスの侍女が飼っていたとされる犬の名前と同じだ。きっと、その人星座にまつわる話が好きだったんだろうね。ここまで知っている人、ちょっと珍しいから」
《レラプスはね、おおいぬ座の由来にもなった犬なんだ。俺の好きなオリオン座のすぐ近くにあって……って、そんな顔しないでよ!》
「……アサヒと、同じだね」
「えぇ、そうかな?同じ星好きとして、なんだか嬉しいよ」

 アサヒは、照れたように、困ったように笑った。そう、この頭の中で響く声の主は、星がとても好きだった。何でもかんでも星座と、神話と結びつけて話していた。少しずつ、頭の中のモヤが晴れていっている。そんな感覚を覚えた。

「ところでさ。このテレビの中のワンちゃんと、レラプスって子、もしかして何か関係がある?」
「……たしか、レラプスも同じ犬種だった。お腹におおいぬ座みたいな模様があって」
「ふーん。……じゃあ、この子がレラプスって可能性もあるんだね」
「そう、だね……。あれ、なんか、音量が……!?」

 レラプスについての情報を思い出すにつれて、次第にテレビから流れる鳴き声が大きくなる。耳の中で、頭の中で響く。その声は、先程よりも明確に何かを訴えていると感じ取れた。悲痛な声。何かに対して、必死に呼びかける声。何を、そんなに訴えているのかは分からない。分からないが、画面の中のその子は、泥だらけの体を大きく動かしながら、叫び続けている。

「この子、泥だらけだね」
「そうだね、かわいそうに……。あ、泥と言えば」

 アサヒがテレビの側面や工具箱を指差す。そちらをよく見てみれば、乾いた泥がこびり付いていることに気付く。そして、ふと周囲の道具を、足元の床を見る。

「そう、ここ、あちこち泥まみれなんだ」
「……泥」

 刹那、頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲う。これまでに感じた痛みとは比べ物にならない。心臓が動くたびに、同じように痛みが頭の中をうごめく。息ができない、目が開けられない、立っていられない。膝から崩れ落ち、頭を抱えて、地面に伏せる。荒々しい呼吸音の隙間から、アサヒの声が聞こえる。でも、何を言っているか理解できなかった。頭の中の声と、音と、声と、音と、声と……。
なにもかもが、ぐちゃぐちゃにまざる。なにも、わからなくなる。

「ルア……!!」

 そのことばをさいごに、いしきが、まっくろに、とけた。

十六夜月

 目が開く。

「……ここ、は?」

 頭の痛みは、もう治まっていた。先程までの空間ではない。アサヒの姿もない。キョロキョロと辺りを見渡してみれば、ここは何かの施設の入口のようだった。真っ白な外壁に、飾り気のない自動扉。小さな病院や診療所だと言われると、誰もがなるほどと納得できるような建物だった。でも、違う。私は、知っている。ここは、あの時の。

《いよいよね》
《……お世話に、なりました》
《新しいお家でも、元気でね》

 玄関先で話す、二人。一人は、首から名札を下げた中年の女性。嬉しそうな、寂しそうな、複雑な表情を浮かべながら相手の方を見つめていた。もう一人は子ども。小学校の高学年くらいの女の子。お礼の言葉は言っているが、目は伏せがちで目の前の女性と視線が交わらない。表情が抜け落ちた人形のように、頬はピクリとも動かない。子どもの後ろには、老夫婦が穏やかな表情でそのやり取りを眺めている。その二人を見て、胸の奥がざわつく。

「……お父さん、お母さん」

 それは、出会ったばかりの父と母だった。血のつながりはない。私を引き取り、家族として迎え入れてくれた二人。
 そうだ、私は物心ついた時から、この施設で暮らしていた。本当の両親については、何も知らない。知ろうとも、思わなかった。職員の人と、似たような境遇で集まった兄弟たちと、静かに毎日を過ごす。それだけでよかった。ただ、感情を表に出すことは苦手だった。いつからかは分からない。でも、この施設にいた時は、ただじっと自分の足元を見ていた。頬も、眉も、何も動くことはなかった。言葉少なに、それでも不満はなく日々を過ごせていた。
 そんな毎日に変化が訪れたのは、小学校の卒業を間近に迎えた時だった。一組の老夫婦が、里親になると申し出たのだ。随分と時間をかけて、その約束は大人たちによって取り決められたらしい。話を聞いた時、私も別に嫌な気はしなかった。……もっとも、何も感じなかったというのが正しいのかもしれない。老夫婦は施設のある町からは随分と離れた土地に住んでいた。田舎の、港町だという。彼らのもとで暮らすということは、学校も変えなければならない。ならば卒業するまで待って、中学校からはその土地の学校に通えるように、と話がまとまったようだ。
 卒業式を終えて数日後、彼らは柔らかな笑みをたたえて、私の前に現れた。今、まさにその日の光景を、私は見ている。ぼんやりと、薄いモヤがかかっているような視界の中、老夫婦と子どもは施設を後にする。ほとんど無意識に、着いていこうと足が動く。
 その瞬間、目の前で突風が吹き荒れた。三人の後ろ姿も、職員の人の姿も、そして施設も、真っ白なモヤの中に埋もれていく。あまりの風の強さに、目を閉じた。

「……?おさ、まった?」

 風を感じなくなり、恐る恐る目を開ける。すると、そこは見覚えのある場所に変わっていた。大人3人ほどが両手を広げたくらいの、小さな工場。無数の機械と部品に囲まれながら、父が作業をしている。その横で、私も一緒になって手伝いをする。母は、私と父にお昼ご飯ができたと2階から降りてきて伝えてくれた。
 ああ、そうか。あのハリボテの工場は、ここだったんだ。施設から引き取られた私がやってきたのは、工場兼自宅のこの建物だった。部活にも入らなかった私は、放課後は課題をしてから、休日は1日中、父の仕事の手伝いをしていた。引き取られてすぐの頃。「やることが無くて暇なら、やってみないか?」と、手持ち無沙汰にぼんやりと過ごしていた私に、父は優しく話してくれた。そこから、こうやって無心になってあらゆるものを修理した。最初は部品を交換するだけの簡単な修理から、次第にテレビなどの複雑な機械の修理までできるようになった。この工場で父と過ごすたびに、語りかけられるたびに、自分の中で閉ざされていた【何か】が、ゆっくりと開いていく。それは母との関りの中でも同じだった。施設で一度も笑ったことのなかった自分が、この家に来てから少しずつ、表情を得ていった。それほど、ここでの生活が、この二人との生活が好きだったのだろう。久しぶりに感じた暖かな光景に、手をのばした。その暖かさに、触れたくて。
だが、その手が届く前に、再び風とモヤは全てを消し去っていく。

 次に目を開けた時、その暖かさはきれいさっぱり消えてしまっていた。真っ暗な工場に、あの頃の私がポツンと立ち尽くしている。遠くで、雨の音が鳴り響く。
 中学校、高校を卒業した私は、進学せずに父の工場へ就職していた。特に何がしたいとも思わなかったし、機械いじりをしているほうが楽しかったから。進路について話を聞いた両親は、随分と喜んでくれた。そんな二人を見て、私も嬉しかった。社会人として工場で働きだしてからも、穏やかな日々を過ごしていた。暖かい町の人に囲まれて、優しい両親と一緒に暮らせて、本当に幸せだった。
 そんな幸せは、一瞬で消えてしまった。ある日、プツンと電球が切れるみたいに。
 成人式を迎えて、1年経った頃だった。寒い冬のある日、父と母が知人に呼ばれて隣町まで出かけて行くことになった。私はその日、前日に急遽決まった修理をすることになっていたので、留守番を引き受けていた。この日は知人宅に泊まって、次の日の夕方までには帰ると言って、二人はウキウキしながら出かけて行った。もう歳だから車移動はやめて、ゆったりと電車旅をするんだ、とも張り切っていた。年甲斐もなくはしゃぐ二人に苦笑しながら、「いってらっしゃい」と声をかける。これが、両親にかけた最後の言葉だった。
 翌日の昼過ぎ。その日は珍しくこの港町にも雪が積もり、近所の子供たちがはしゃぐ声をBGMにしながら、私はいつも通り朝から作業をしていた。そろそろ休憩にしようか、そう思って一息ついた時だった。工場の奥から、けたたましい音が鳴り響く。それは、工場に設置された電話。最近ではあまり使われておらず、緊急の依頼があるときくらいにしか鳴ることがない。雪の影響で何か大きなトラブルでも起きたのか、と思って慌てて応答する。

《はい、修理の××××です。ご依頼でしょうか》
《××××さんのご家族でしょうか》

 依頼ではない。相手の一言目で、そう直感が働く。胸の奥がざわつく。電話の向こうからは、ひどく淡々とした男性の声が響く。心臓の音が、どんどん大きくなる。そんな中で発せられた言葉に、息が止まる。

《ご両親が交通事故に遭い、即死の状態で発見されました》

 両親は帰宅するために、知人の運転する車に乗って駅まで移動をしていたらしい。しかし、前日から降り積もった雪にタイヤがとられてしまい、制御不能となった車は道路脇の建物に突っ込んでしまった。運転していた知人も、両親も、発見時には既に息を引き取っていたそうだ。隣町の警察署にたどり着いた私は、そう説明を受けた。一時的に安置された二人は、事故に遭ったとは思えないほど綺麗な状態だった。頭以外には、大きな傷もほとんどなかった。ただ眠っているだけなんじゃないか、そう思って二人の頬に触れる。……冷たい。硬い。もう、ピクリとも動かない。私を見る優しい目を見ることも、名前を呼んでくれる柔らかな声を聞くことも、もう、永遠にできないんだと、静かに絶望した。
 そこからの日々は、淡々としたものだった。仕事はした。近所の人も声をかけてくれるし、助けてくれた。完全に一人になったわけではない。でも、自分の身体にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような、そんな感覚に苛まれた。あの日から私は、ピクリとも笑わなくなった。まるで、幼い頃に戻ったようだった。

 そこまで思い出したとき、再び強い風が吹く。
真っ暗な工場は雲散し、次に現れたのは夕暮れの工場だった。一人作業をしている私をぼんやりと見つめていると、遠くから自転車のペダルをこぐ音が聞こえてきた。ギイギイと、今にも壊れそうな音。そして工場のすぐ近くで甲高い音を放ち、続いてこちらに向かって走ってくる音。ハッとして顔を上げると、そこには一人の男がいた。ひどく狼狽えているような表情を浮かべた彼は、肩を大きく動かしながら呼吸をしていた。そして、意を決して叫ぶ。

《あの、これ、直せますか!?》

 その声は、アサヒと同じものだった。
 目の前の私は、彼の手に握られたものを見る。そこには、バラバラになった何かが入れられた紙袋があった。

《……これ、何ですか》
《あ、えっと、天体望遠鏡です!昨日の夜、自転車ですっ転んじゃって……。ケガはない代わりに、カバンに入れてたこれがこんな状態になってしまって……》
《へえ》
《あの、これ、すごく大事な物なんです。だから、どうしても修理したくて……。その、どうでしょうか?》

 恐る恐る、そういった様子で私の様子を窺う男。なかなか返事をしない目の前の女に対して、やはりダメかと諦めの表情をにじませた。その時だった。

《……やったことないので、時間は頂きます。あと、ちゃんと使えるようになるか、お約束も出来ません》
《え?》
《それでもいいのなら、承ります》
《……ほ、ほんとですか!?ぜひ、お願いします!!》

 これが、この男との出会いだった。その日はもう日が暮れるから、とバラバラになった天体望遠鏡の入った紙袋だけを受けとり、翌日から先に入っていた依頼の合間を縫って修理を進めることを約束して帰らせた。男はその説明を前のめりになりながら聞き、帰り際には「明日も来ます!」と叫んで颯爽といなくなってしまった。嵐のような男だ。そう、思った。
 翌日。男は本当に現れた。「仕事終わりだから、夕方にしか来れないんですけどね」と笑いながら、私の隣に陣取る。私は特に気にも留めず、黙々と作業をする。男はその様子を見て、何やら感嘆の声をあげたり、独り言のように何かを話し続ける。両親がいなくなってからずっと静かだった工場が、以前にも増して賑やかになった。私は、この時何も思っていなかった。何も、感じていなかった。でも、「こんにちは!」と眩しいほどの笑顔と共に男が現れる日々が続き、少しずつ、胸の奥底で固まったものが溶けていくような、そんな感覚もしていた。

《そういえば、自己紹介してなかったですね。無茶なお願いだけして名乗らないなんて、お姉さんに対して失礼でした……》

 ある時、男は言った。もう何日も工場に通うようになり、夕方は彼が隣にいることが日常となった頃のことだった。そういえば、そうだった。と言っても、仕事の時には別に毎回客の名前を聞いているわけでもないし、毎日こうして来てくれているから、連絡先を知らずとも修理が終わったら品物を渡せるので困ることはない。そう思って、今まで聞こうとしなかった。

《俺は、狩野 祐星(かりの ゆうせい)っていいます。お姉さんは?》
《……矢澤。矢澤 結月(やざわ ゆづき)、です》
《ちょっと遅くなりましたけど、改めて。よろしくお願いします、矢澤さん!》
《……》

 すっかり陽が落ちて、夜の闇が工場の中にまで広がった時間。天井からぶら下がったフィラメント電球が、ぼんやりと私たちを照らしていた。

 再び吹いた風は、景色を一変させる。目の前には、修理を終えた天体望遠鏡を覗く狩野の姿があった。その少し後ろには、相変わらず無表情な私が立っている。しばらく後、狩野の歓喜の声が上がる。

《すごい、すごいよ矢澤さん!ちゃんと直ってる!》
《そうですか。なら、良かった》
《ほんっとうに、ありがとうございます!》

 狩野は私の手を取り、ブンブンと大きく握手をする。その姿に、思わず苦笑した。両親を失ってから、笑ったのはこれが初めてだった。そんな私の顔を見て、狩野が驚いたように目を見開く。あんなに激しく動かしていた腕も、ピタリと止まってしまった。

《……あの?》
《あ、えっと。……ずっと、考えてたんですけど》
《はい》
《天体望遠鏡の修理は、これで終わりですけど。これからも、ここに来ていいですか?》
《……え?》
《俺、矢澤さんとお話するのが楽しくって。最初の頃は返事されなかったのに、最近ちょっとずつ返してくれるようになったのが、嬉しくて》
《……》
《だから、今度からは、依頼人じゃなくて。お友達として、こうして話しに来てもいいですか?》

 私は、何も答えられなかった。彼の言葉に、衝撃を受けていたからだ。自分としては、ただの依頼の一つとして、黙々と作業をしていた。ただ、その中で彼が隣にいて、言葉をかけてくれて、それに少し返しただけで嬉しそうに目を輝かせる姿を見ることに、安らぎを感じていたことも事実。両親を失ってから心の奥底で凍り付いた感情が、少しずつ溶かされて、また顔を出してきていた。そのことに、彼の言葉を聞いた瞬間に、気づかされた。しばらく私が黙っているのを、狩野は不安そうに見つめていた。

《……》
《や、やっぱり、ダメですかね……?》
《……いえ、いいですよ》
《えっ!?》
《なりましょう、友達》
《……や、やったー!ありがとうございます!》
《いえ、こちらこそ》
《あ、せっかく友達になるんですから、もっとフランクな感じで話しませんか?》
《学校の友達みたいな感じ、でしょうか》
《そうです、そんな感じです!》
《じゃあ、敬語は無しにしよう》
《……!そう、だね!》

 それから、私たちは友達として毎日会うようになった。少しずつ堅苦しい言葉がなくなり、お互いの呼び方が次第に呼び捨てへと変わっていった。何をするでもない。私は作業をして、祐星はそれを見ながらおしゃべりをする。

《すごい!ここ、秘密基地みたいだね!》
《そうかな》

《これ、全部結月が直したの?すごいね!》
《いや、父親が直したものもあるよ》

《結月って器用だね、羨ましいよ》
《……これしか、やってこなかったから》

 彼が話し始めて、私はぽつぽつと返事をする。そんな何てことない日々が続いた。彼と一緒に過ごす時間は、とても心地よいものだった。心の奥底がどんどん温かいもので満たされて、それに伴って少しずつ感情が表情へ現れるようにもなった。いつの間にか祐星は近所の人とも顔見知りになって、「兄ちゃん、また来てんのか!」と声をかけられるようになっていた。こうして、両親と過ごし、一人で過ごすことが当たり前になったこの工場に、今度は彼がいることが日常になったのだった。

 再び、風が吹く。目の前に現れたのは、まだ灯の点っていないフィラメント電球の下で、いつものように話している私たちの姿だった。工場の外からは、夕陽が差し込んできていた。

《……祐星、袖のところ、ほつれてるよ》
《え?……あ、ほんとだ!》

 彼のシャツの袖から出ていた一本の糸。祐星はじっとそれを見つめて、「そうだ」と呟いた。そして突然、その糸を引っ張る。シュルシュルと糸は伸びていき、あやとりでもできそうな長さにまでなった。

《え、何してるの》
《まあ見てなって。結月、ちょっと手を貸して?」
《……いい、けど》

 おずおずと手を差し出すと、祐星はその長い糸を、私と自分の指に括り付けていく。時折、「この指、もう少し横に動かして」と指示も出しながらてきぱきと、迷いなく手を動かしている。そして、ものの数秒でそれは完成した。祐星は、満足そうに笑う。

《じゃじゃーん!》
《これは?》
《オリオン座!主要な星だけ俺たちの指で見立てて、糸で結んでみたんだ》

 そして、祐星はオリオン座の話や、他の星座についても話しだした。自分たちの指を星に見立てて、糸で結び、解説をする。それがしばらく続いていくうちに、過去の私は思わずといった感じで、フッと笑って彼の話を聞くようになっていた。それを見て、祐星も嬉しそうに笑う。夕陽に照らされながら、私たちは笑い合った。
 その光景を目の当たりにして、私は絶句する。これは、どういうことだろう。つい先ほど、自分も体験したことじゃないか。アサヒと、私とで、休憩をしていた時とまったく同じ行動をしていた。それに、アサヒとあの場所を調査している際に時折頭の中で再生された言葉と、同じ言葉を祐星が話している。その事実に気付いて、胸の奥がざわつく。

 そんな私をよそに、再び場面が変わる。太陽はすっかり沈み、工場を閉めようとした私のもとに慌てた様子で祐星が自転車で駆けてきた。

《ねえ、初日の出、見に行こう!》

 星の観測もしつつ、初日の出を拝もう。祐星はあっけにとられた私に向かってさらに詳しい説明をした。大晦日の、夜の始まりの頃である。祐星の突然の提案に戸惑いつつも、まだ時間は早いからと2階の自宅へ招き、ちょうどよい時間まで休もうと提案した。最初は落ち着かない様子だった彼も、次第にリラックスしたようで、工場で話している時の様に過ごした。そして、「そろそろ行こう」と大きなカバンを背負った祐星と共に、真っ暗な夜道を進んだ。

《どうしたの、突然》
《え?うーん、なんて言ったらいいか……》
《なんとなくの思い付き?》
《いや、そうじゃなくて!……思い付き、は合ってるんだけど》
《けど?》
《……なんか、結月と見に行きたいって、急に思い立ったんだよね》
《それで、慌ててきたの?》
《居てもたってもいられなくなって》

 へにゃりと笑う彼に、言葉が出なかった。なんでそんなこと言うんだって、驚きと、疑問と、少しの期待。この時、彼との出会いから半年ほどが経とうとしていた。その中で芽生えた感情が、この言葉で小さく震えたことを、確かに感じた。
 しばらく道なりに進んでいくと、小高い丘のてっぺんにたどり着く。ここは、港として整備されていない浜辺の部分が良く見える場所だった。海も、空も、何にも阻まれることなく見ることができる唯一の場所。祐星はカバンの中からアウトドア用の小さな椅子と、見覚えのある天体望遠鏡を取り出す。そこからは、夜明けの時間までずっと星を観測した。二人で交互に天体望遠鏡を覗き、祐星が解説を入れる。時々家から持ってきた温かい飲み物で暖を取りながら、数時間ほど過ごす。

《……空が》
《白み始めたね》

 海の向こうが、少しずつ明るくなる。紺碧の空に、うっすらと白が滲んでいく。夜明けの合図だ。あとは、数刻もすれば初日の出を拝める。私も祐星も思わず立ち上がって、水平線を眺める。そんなタイミングに、祐星はポツリと呟いた。その声は、ひどく穏やかで、でも真剣な色をしていた。

《結月はさ、もしも明日が来ないとしたら、どうする?》
《……どう、って》

 祐星の顔を見る。柔らかい笑みを浮かべながら、じっと私を見つめていた。私の答えを、待っている。質問の意図は分からない。でも、ちゃんと答えなければいけない。わからない、とは言えない。そんな空気を感じた。だから、少しの間視線を下げて考えた。彼は何も言わない。波の音だけが、静かに私たちを包み込む。そうしてしばらくの沈黙の後、まとまらないなりにも浮かんだ言葉を伝えるために、私は再び彼を見据える。

《……声を、聞く》
《声?》
《そう、声。……祐星の声が聞きたいって、たぶん思う》
《……》
《祐星と話すことが、今の私にとって一番安心することだから。……明日が来ないなら、その前に話したい》

 そこまで話して、恥ずかしさがこみ上げた。フイと視線を外し、先程よりも白くなった水平線を見やる。再び、波の音が響き渡る。何か返事はないものか、と居心地の悪さを感じていると、祐星は静かに口を開いた。

《俺もさ、同じこと考えた》
《……?》
《もし明日が来ないってわかってるなら、絶対に結月のとこに行く。そんで、いっぱい話して、笑い合ってその日を終えたい》
《……気が合うね》
《そうだね、嬉しいや。……ねえ、結月》

 彼が、名前を呼ぶ。一文字ずつ、壊れないように、大切に扱うように、柔らかな声だった。私はおもむろに彼の方を見る。冬の朝焼けのような、淡く澄んだ色。その瞳に、目が奪われる。

《俺、結月のことが好きだ》

 言葉は出なかった。目は見開き、息が止まる。言葉を口に出す前に、温かい涙が溢れる。そんな私を苦笑しながら祐星はそっと抱きしめた。赤ん坊をあやすように、背中を優しくなでる。夜風で冷え切った身体に、祐星の体温が滲んでくる。

《俺と、付き合ってください》
《……っ、はい》

 水平線の向こうから、朝陽が顔を出す。空は白と、緋色、そして淡い青で彩られていた。


 風が吹く。目の前の景色は、再び工場の中へと変わった。そこには呆れた表情を浮かべた私と、気まずそうに段ボールを抱えた祐星がいた。段ボールの中からは、怯えたような鳴き声が聞こえる。

《説明して?》
《……はい》

 祐星は、段ボールを手にした経緯を恐る恐る語りだした。曰く、仕事終わりにいつもの道を通っていたところ、どこからか小さな子どもたちの騒ぐ声が聞こえたらしい。気になって声のする方へ行くと、小学生が公園の隅に置かれていたこの段ボールに集まっている現場に遭遇した。そして、さらに段ボールへと注視してみれば、中には小さな子犬が弱々しい声で鳴きながらこちらを見上げていたようだ。

《もう時間も遅くなってるし、小学生たちを帰さなきゃいけないし。でも、ワンちゃんを気にして帰りそうにもなくて》
《で、祐星が子犬を引き受けて、子どもたちを帰したのね》

 祐星は、誰に対しても優しい。老若男女問わず、困っている人がいれば迷わずに救いの手を差し出す。純粋に彼の中にある「助けたい」という一心からの行動なのだから、すごいものだ。それは、動物に対しても同じだったようだ。

《俺の家、ペット禁止でさ……ちょっと相談なんだけど》
《……》
《その、お世話は全面的に俺がするので、ここで飼わせていただけないでしょうか……!》

 勢いよく頭を下げる祐星。彼が鳴き声のする段ボールを抱えてやってきた時から、嫌な予感はしていたのだ。彼の性格上、保健所へ連絡ということはしないだろうとも、預け先を探す前に自分が責任をもって飼おうとすることも、分かっていた。彼の自宅でペットが飼えないのなら、私を頼ることもおかしくはない。しかし、いつも彼は突然大きな事件を持ってくる。本当に嵐のような男だ。そう呆れながら、彼に言葉をかける。

《お世話するって、どうするの?昼間は仕事だし、夕方うちへ来るにしても、夜までの短い時間でしょう?》
《それは、そうなんだけど……。ねえ、俺、この子放っておけないよ》
《……うちに泊まったら、夜もお世話できるけど》
《……え》
《別に、仕事もここから行けばいいんじない。そしたら、私は昼間だけのお世話になるし》
《……結月、それ、意味わかって言ってる?》
《……まあ》
《……!俺、最短で準備する!》

 自分でも、随分と浮かれていたと思う。ただ、ここで飼いたいという話を聞いてすぐに浮かんでしまったのだ。彼と共に、ここで過ごすこと。工場だけでなく、自宅でも共に居られたらと。彼からの告白を受け入れてから、すでに数年の月日が経った夏の日のことだった。
 それから彼は、子犬を飼うための物品や、自分の身の回りの物を少しずつ我が家へ運び込んで、1週間ほどで一緒に住むようになった。その間に子犬の名前を決めたり、どうやって躾をするのか勉強したり、夜も随分と賑やかな時間を過ごした。

《この子の名前、決めたよ!ふふ、君は今日から、レラプス!》
《なんか、珍しい名前だね》
《レラプスはね、おおいぬ座の由来にもなった犬の名前なんだ。俺の好きなオリオン座のすぐ近くにあって……って、そんな顔しないでよ!》
《だって、子犬の名前にも星座の話を由来にするって……。ほんとに、星座が好きなんだね》
《まあね!》

 それからは、二人で試行錯誤しながらレラプスを育てた。上手くいかないこともあったけど、喧嘩をしたこともあったけど。それでもそんな毎日がキラキラと輝いていた。両親を亡くした時の冷たさは、私の中にはもう少しも残っていなかった。代わりに、祐星からの温かさでいっぱいになっていた。

もう何度目かになる風が吹く。目を開ける前に、湿った空気が肌を撫でた。

「これ、は……」

鉛色の空。雨の匂いが、特に強く感じる夕方だった。私は、工場からもほど近い川辺で、ただ立ち尽くしていた。
夏休み中のこの日、工場の近くに住む人々が、慌ただしく川へ向かっていった。不思議に思いながら表へ出てみると、子どもの頃から気にかけてくれていたおじさんが駆け寄ってくる。深刻な表情で、息を切らしながら私の目を見て、静かな声を発した。

《結月ちゃん、落ち着いて聞いとくれ》

気付くと私は、人で溢れかえった川辺にいた。誰かが泣き叫ぶ声、ざわめき、色々な音がしている。そのはずなのに、それらはぼんやりと、くぐもった音として耳に入っていた。おじさんと共に、人をかき分けながら川へ近付く。途中、河原に祐星の自転車が転がっているのを見つけて、心臓がドクドクと大きな音を立てた。そうして、歩みを進める私の存在に気付いた人々は、何かを察したような表情を浮かべていた。
おじさんが足を止める。そこには、なぜか人は集まっていなかった。足元では、見知らぬ人が何かを叫びながら、何かを強く押し続けていた。その何かは、人の身体だった。視線を動かす。その顔は、よく知ったものだった。

《……祐星?》

フラフラと足が動く。おじさんが支えてくれながら、彼の近くまで移動した。今朝、「行ってきます」と、穏やかな笑みを浮かべていたのに。目の前の彼は、その人と同じ顔をしているのに。青白い顔をして、瞼は固く閉ざされたまま。頭の中で、両親の姿と重なった。
その後のことは、あまり覚えていなかった。目の前では、力無くその場に座り込んでしまった私の背後から救急隊が駆け寄ってきている。彼が救急車に運ばれる。その為に担架へ乗せられた瞬間、私は弾かれたように動いた。泣き叫びながら、運ばれていく彼に縋り付く。おじさんが何やら救急隊の人と話した後、私はそのまま救急車へ乗り込んだ。
そして、場面は病院へと移る。無機質な廊下で、顔も上げずにただ祈り続けた。どれだけ時間が経ったか分からない。再び手術室の扉が開いた瞬間の、緊張感。医師から告げられた言葉は、思い出せない。でも、その言葉を聞いて、心の奥底が再び凍りついたことは、よく覚えている。……いや、思い出した。

後に、彼は川で溺れた子どもを助けに行ったと聞いた。その子は無事に救い出された、とも併せて聞いた。優しい彼らしい最期だった。
嵐のように現れて、両親を失った悲しみでいっぱいだった私を照らしてくれた人。凍りついた心を溶かしてくれた人。その人を失って、私の世界は再び色をなくした。レラプスと過ごす日々の中に祐星の面影を見つける度、胸が苦しくなった。でも、涙は出なかった。
近所の人たちは、私が両親も恋人も亡くしたことを知っていたから、頻繁に様子を見に来てくれていた。再び表情を無くした私を見て、胸を痛めていることも、分かっていた。分かっていたが、もう気力が湧いてこなかったのだ。周囲の人に心配をかけないように、なんてことは考えることもできなかった。

そうして、また時間だけが過ぎる。祐星を失ってから、半年経った。茹だるような暑さの中、私たちの住む町には雨が連日降り続いていた。機械の故障ではないが、町の中心地から雨漏りの修理を頼んでくる人が日に日に増えた。レラプスは1匹でも留守番が出来るようになっていたので、この日も私だけ出かけていって仕事をしていた。作業をしている時に、ふと土の匂いがした、ような気がした。元々この場所は山に近いため、私の工場がある海沿いに比べると土の匂いは強く感じられるものだった。だから、あまり気にはとめなかった。
再び作業をしようと、体勢を整えた。その時だった。

《……なに、この音》

遠くから響く、くぐもった音。ゴゴゴゴ、と何かが迫ってくる音。次第に、急速に音は大きくなる。それに従って、だんだん足元が揺れ出す。異変に気づいた住人のざわめき。その中で一際目立った叫び声。

《逃げろ!!!!海の方へ行け!!!!》

その声を皮切りに、その場は混乱を極めた。悲鳴が上がり、我先にと逃げたがった人々が一斉に走り出した。ふと音の方を見ると、土煙が見えた。そして、次々と倒れていく木々。地響きのような音だけではなく、何かがベキベキと折れるような音も混ざってきた。
早く逃げないと、そう思って私は足早にハシゴを伝って屋根から降りた。そして、海側に向かって走ろうとした時、遠ざかる悲鳴や地響きの音に混ざって、近くから誰かがすすり泣く声が聞こえた。声のする方を見れば、すぐ近くの路地裏に、小さな女の子がしゃがみこんでいた。カタカタと震えながら、か細い声で「ママァ……」と泣いている。

《ねぇ、どうしたの》
《ママ、どっか行っちゃったの……》
《……そっか、怖かったね》
《さっちゃんね、ルルちゃん落としちゃったの》
《ルルちゃん?》
《さっちゃんのお人形さんなの。いつも、いっしょなの。でも、ママが急にお外でて、人いっぱいで、手はなしちゃって、わかんなくなってぇ……》

 どうやら、避難している最中に落とした人形を探しているうちに、母親とはぐれてしまったらしい。きっと、どこにいるかも分からなくなって、怖い音も鳴っているから動けなくなってしまったんだろう。だが、ここはあまりに危険すぎる。なんとかして安全な場所へ連れていかなくては。

《ねぇ、ルルちゃんってどんなお人形さん?》
《あのね、このくらいの、ウサギさんのお人形さんなの。ここにね、リボンしてるの。真っ赤なリボン》
《分かった。……ねぇ、よく聞いて。ルルちゃん、お姉ちゃんが持っていくよ》
《お姉ちゃんが?》
《うん。お姉ちゃん、探しもの得意なの。だから、すぐにルルちゃんを見つけて連れて行ってあげる》
《ほんと?》
《ほんと。だから、あなたは、海の方へ走って》

女の子はこの言葉を聞いて、少し不安そうにこちらを見つめてきた。だから、まっすぐ彼女を見つめて、ゆっくりと頷いてみせる。そうすれば、女の子は力強く頷いてくれた。

《さ、行って。道は分かるね》
《うん、わかる!お姉ちゃん、ありがとう!》

小さな背中が、きちんと海側へ続く道を駆けていく姿を見届けて、私は町の中を走る。道の途中に落としたようだったから、すぐに分かるだろうと考えていたのだ。避難するなら、この辺りの道を使うだろうとも、予測出来ていた。
それから数分経った頃。道の端っこに転がる小さな塊を見つけた。拾い上げてみれば、それは首に赤いリボンを身につけた、ウサギのぬいぐるみだった。きっと、これがルルちゃんだろう。ホッとして小さく息をついた、その瞬間だった。
流れ込んできた土砂が、私の身体を攫っていった。

寒い。苦しい。痛い。そんな感覚も、指先の温もりと共に、ジワジワと失われていく。

《ああ、そうか。このまま、死ぬのか》

不思議と、心の中は凪いでいた。別に、後悔はない。元々、死んだように毎日を生きてきたのだから。ただ、……そうだな、1つだけ。

《ねぇ、神様。最期に、彼の声を、聞かせてほしい。後は、何も望まないから。……どうか、どうかお願いします》

そう願いながら、最後の力を振り絞って、腕を天に伸ばした。もう、上も下も、分からないけれど。
何も見えない。何も聞こえない。立っているのかも、座っているのかも。動いているのかも、とまっているのかも。なにも、わからない。もう、なんだかねむたい。いしきが、まっくらなやみのなかにとけていく。

とけきるまえに、こえがきこえた。
そんなきがした。

平家星

こえがする。やわらかくて、なつかしいこえ。とおくから、なんども、なんども。
ひかりがみえる。やさしくて、あたたかいひかり。ふれたい。そっちに、いきたい。ここは、さむいから。
てをのばす。ひかりにむけて。あとすこし、もうすこし、ちかくへ。
だれかが、てをつかむ。ぬくもりが、じわりとにじむ。ひきあげられる感覚。
意識が、浮上する。


「ルア……!!」

ゆっくりと目を開ける。ぼんやりとした視界いっぱいに見えた人影。次第にはっきりとした輪郭が現れる。その人が誰なのか、認識した。

「……祐星」

おもむろに口から零れた名前。彼は驚いたように目を見開いた。はくはくと何か言おうとするが、その口からは空気だけが漏れていた。そうして、ゆっくりと、目を細める。涙を堪えた、クシャクシャの笑顔で呟いた。

「……ただいま、結月」


目を覚ました私は、アサヒ……いや、祐星に支えられながら、ハリボテ工場に置いていた椅子へ座った。少しずつぼんやりしていた思考もハッキリしてきて、改めて彼を見る。記憶の中と同じ、優しい笑顔。アサヒとして一緒に過ごしていた時にも見せていたはずなのに、記憶を取り戻してから見ればジワリと心の奥底が暖かくなる。

「……全部、思い出した」
「……そっか」
「ねぇ、祐星」
「んー?」
「……私は、死んだの?」
「……」

取り戻した記憶の最後。私は、土石流に巻き込まれて意識を失ったはずだった。少しずつ感覚も無くなり、死を覚悟した。そして、目の前の存在。死んだはずの祐星がいる。彼と対話できているということは、そういうことなのだろうか。
祐星の表情が、曇る。何かを言い淀むように、唇をキュッと引き結んだ。視線が揺らぎ、静かに目を閉じる。ゆっくりと息を吐き、目を開ける。そして、まっすぐに私を見て口を開いた。

「少し長くなるけど、話すよ」
「……うん」
「まず、結月の質問の答え。結論から言うと、結月はまだ死んでいない」
「え?」
「でも、死にかなり近い場所にはいる。生死の境目にいるってことだね」
「……そっか」
「なんでそんな状態になったか、だけど。……ちょっと説明が難しいんだよね」

「俺も全部は分かんなくて」と、祐星は困ったように笑った。私は、そんな彼をジッと見つめる。ぼんやりと遠くを見ながら、再び祐星は口を開く。

「俺、見てたんだ」
「……何を?」
「結月のこと。……川の事故の時から、ずっと」

その言葉に、ハッと息を飲む。先ほど見た過去の記憶が、再び脳裏に浮かんだ。その時には感じなかった底知れぬ冷たさが、じわりと指先を侵食してきたような気がした。

「仕事が早く終わって家に帰ってるときに、あの川から子どもたちの声が聞こえたんだ。賑やかだなあって思ってたんだけど、なんか様子が変でさ。よく見たら一人、川に流されてたんだよね」
「……」
「体が勝手に動いて、自転車を乗り捨てて川に飛び込んでた。もう必死でさ。……そんで、ハッと気づいた時に見えたのが、結月だった」
「私?」
「うん。俺にしがみついて、わんわん泣いてる結月。俺、死んだんだって、その時初めて分かったんだ」

 祐星が、深くため息をつきながら手で顔を覆う。静かに続く声は、微かに震えていた。

「……俺、結月にずっと謝りたかったんだ」
「……どうして?」
「結月を、独りにしたから。おじちゃん達から、結月の家族のことも聞いていたのに。……なのに」

 祐星はパッと顔を上げる。大粒の涙を流しながらも、まっすぐこちらを見つめた。それは、大切な話をしたい時の、彼の癖だったと思い出す。

「寂しい思いをさせて、辛い思いをさせて、……本当に、ごめん」
「……事故のことを聞いたとき、あなたらしいって思った」
「……うん」
「……最期まで、誰にでも優しくて。尊敬もした」
「うん」
「……でも、傍にいてほしかった。辛くて、苦しくて。……何のために、生きてるんだろうって」
「……ごめん」
「あなたのいない世界は、色が無くて、冷たくて、……寂しかった」

 祐星がいなくなってから、一度も言葉にしなかった思い。胸の奥底でしまいこんだ本音が、涙と共にあふれた。ポロポロと止まらなくなって、何度も目元を拭う。ふと、身体が何かに包まれる。目を開ければ、祐星がギュッと私を抱きとめていることに気付いた。何度も小さく「ごめん」と繰り返すその声は、先程よりも震えていた。

「……結月の様子は、ずっと近くで見てきた」

 お互いに涙が落ち着いてきた頃、祐星はまたポツリと語りだす。曰く、私を遺してしまったことへの後悔から、祐星の魂は現世に留まっていたらしい。私は気づかなかったが、彼はずっと傍で見守り続けてくれていた。それが、先立ってしまった自分ができる唯一の償いだと思って。

「でも、あの日。土石流が町を襲ったとき、どうしたらいいか分からなかった」
「……」
「早く逃げてほしくても、結月には俺の声が届かない。土砂の中から引き揚げたくても、俺はもう結月に触れることもできない。だから、必死に願ったんだ」
「……願った?」
「そう、願った。神様に」

《ああ、神様……、どうか、どうか、お願いします。俺に、彼女を救うチャンスをください。大それた力じゃなくてもいい、今、この瞬間だけでいい、彼女が伸ばした手を、掴ませてください……!神様、……どうか、どうかお願いします!!》

 祐星は、胸の前で手を組んで、そう告げた。
 私が土石流に巻き込まれたその時。私が、静かに死を受け入れたあの時、彼は私の生を願ってくれていた。人知れず伸ばした手を、彼だけが気づいてくれていた。その事実に、また涙がこぼれる。

「そしたら、目の前が急に真っ暗になったんだ。驚いて辺りをキョロキョロしてるとき、急に声が響いてきてさ」
「声……」
「そう、男とも女ともつかない、中性的な声。その声から、結月を救うチャンスをあげるって言われたんだ。それと、この真っ暗な空間についても説明された」

 その声が言うには、私たちがいるこの空間は、私の精神世界らしい。私の記憶や気持ちと連動して、この空間もさまざまな変化を起こすのだという。そして、私が生きて現実世界で目覚めるためには、私自身が生への強い意志を持たなくてはならないのだと。

「結月を助けるには、結月自身が真実に気づいて、生きるという選択をしなくちゃいけない。精神世界から出る鍵は、本人の強い意志しかないんだって。でも、この空間は結月が死んでしまうまでの僅かな時間しか維持できない。それに、万が一この空間で死を迎えるようなことがあれば、それは現実世界での死に直結してしまう。安全第一で、結月が生きようって思えるように導くのが、俺の願いを叶えるための試練だったんだ」
「私の精神世界……。初めにこの空間が真っ暗で、電球しかなかったけど」
「それは、結月がこれまでのことを忘れようとしていることの表れだって言ってた。この空間に結月の意識がリンクした時、辛い記憶を思い出さないように、無意識のうちに記憶をしまい込んでたんだって」
「だから私、目覚めた時に、何も覚えてなかったのか……」
「うん。……何も覚えていない結月に俺があれこれ説明したら、混乱を招いて精神世界を崩壊させかねないから絶対にやめろって言われてさ、困ったよ。生きるって決断してもらう前に、記憶を取り戻さなくちゃいけなくなったからね」

 だから、祐星は私の記憶が戻るように少しずつこの空間にヒントを出してくれたのだという。どうしてそんなことが可能になったのか、本人もよく分かっていなかったが。

「結月の記憶を呼び起こせそうな、思い出せそうな物を、この空間に出現させた。頭の中で思い浮かべたら、結月の目の前に現れたんだよね。……それを見て何を思い出すかは、結月次第だったけど。ああ、そうだ。あのテレビから告白した時の言葉が流れてきた瞬間、すごく嬉しかった。結月の中で、まだ俺が残っていたんだって」
「……あの時、あの声を聞いて少しでも祐星のことを思い出したから、祐星が私の前に現れた?」
「そう、俺もびっくりしちゃった。一緒に行動できるようになって嬉しかったんだけど、俺は直接の説明ができないし、結月は自分のこともほとんど思い出せていない。だから、この空間に迷い込んだ人ってことにして、会話とか行動から結月の記憶が戻るようにしたんだ」
「……そっか」
「……でも、結月には結局負担をかけてしまった。辛い記憶を思い出さなくちゃいけなかったし、二度も辛いことと向き合わせてしまった。結月に生きてほしいっていう、俺の願いを叶えるために」

 祐星は悲しい顔をしてもう何度目かになる謝罪の言葉を述べた。私は驚きつつも、これまでの出来事が結びついたことへの納得感を得ていた。こほん、と咳払いをした祐星が、今度は真剣な眼差しでこちらを見つめる。

「結月は、今、全部の記憶を取り戻した」
「うん」
「……ここから先は、結月の決断次第だ」
「……私の、決断」
「俺は、結月にこの先も生きてほしいと思っている」
「……私は」

 祐星から、視線を逸らす。

「私、祐星がいなくなって、ずっと、苦しくて」
「……うん」
「祐星がいないなら、もう、この先の未来なんていらないって。……死んだって、構わないって」
「……」
「この空間で、祐星の声を聞いた時、嬉しかった。あなたのことを覚えていなかったけど、心の底から喜びが沸き上がった。……最期に祐星の声が聞きたいって願いを、神様が叶えてくれたから、未練はないの」

 その言葉に、祐星は目を見開いた。
 そう、私は死の間際に祐星の声が聞きたいと願った。その願いは奇跡的に叶えられたことで、私の中の未練は完全に無くなったのだ。また祐星のいない世界で生きていくなんて、そんなことは考えられなかった。あれだけ忘れたくても忘れられなかった、祐星が目の前にいる。話ができる。声が、聞こえる。私の命が尽きるまでの僅かな時間だとしても、最期まで彼が隣にいてくれるなら、それでいい。そんな思いで満たされていた。

「……先に死んじゃった俺が言うのは、ずるいかもしれないけどさ」
「……」
「結月にはもっと、色んな景色を見てほしいんだ。俺の代わりに」
「……え?」
「俺さ、あの世界が好きだったんだ。星空も、海も、町も。見たことがないものも、もっと見たかった」
「……うん」
「俺はもう自分の目では見れないけど、結月が代わりに見てきてほしい。それで、しわくちゃのお婆ちゃんになって、俺のところにまた来た時に思い出話を聞かせてほしいんだ」
「祐星の、代わり……」
「そう、俺の代わり。俺が好きだった景色とか、見たことがない景色とか、いっぱい見てきてよ。結月が死んだあと、俺といっぱい話すために、今はまだ生きてほしい」

 祐星は、優しく微笑む。その表情からは、心の底から私のことを大切に想っていると、嫌でも伝わってくる。意地悪で言っているのではない。苦痛を強いるためでも、簡単に死ぬなと説教をするわけでもない。ただ、純粋にそう願っているのだと、分かった。死後も共にある為に、今はその時ではないと。

「……ずるい」
「うん、ごめんね。俺、結構わがままなんだ」
「……祐星、」

 きちんと返事をしようと思って、口を開く。
 それと同時に、聞き覚えのある音が聞こえた。低く、大地が唸るような音。ベキベキと何かを引き倒し、外からはガラスの割れる音と、小さく鳴り響くバチバチという音。突然濃くなった、土の匂い。

「まずい」
「これ、何?」
「結月の命が、尽きようとしてる。……逃げよう!」
「逃げるって、どこへ」
「分からないけど……!でも、ここは俺と君の意思次第でどうにだってできる!」
「私たちの意思って…!」

 迷っている間にも、少しずつ足元に土や石が流れ込んでくる。もう、迷っている暇はない。今ここで、生きるか死ぬかを決断しなければならない。

「結月!!」

 祐星が、手をこちらに向けて伸ばす。この手を取れば、生きてこの空間から抜け出し、現実世界に戻る。この手を取らなければ、この世界でも、現実世界でも死を迎える。

「頼む、手を……!!」

 ハリボテの壁が吹き飛ばされた。壁際に置かれた道具も、電球も、テレビも、すべて飲み込んでいく。私たちの目の前に、土石流が流れ込んできた。

月白

「……」
「……土砂が、消えた?」

 先程まで鳴り響いていた轟音が、ぱたりと止んだ。目の前に迫ってきたはずの土も、石も、どこにもない。なぎ倒された工場の壁や、ブラウン管テレビ、点々と灯っていた電球も姿を消している。残ったのは、頭上に吊るされたフィラメント電球一つだけ。パチパチと目を瞬かせながら、祐星は自身の右手へ視線を向けた。

「結月、」
「本当は!……このまま、一緒にいたい」

 慌てて何かを話そうとした祐星の言葉に被せるように、私は語る。きっと、これが最後になる。その前に、今伝えられることは、全部伝えたい。繋いだままの右手に、ギュッと力を籠める。

「両親も、祐星もいない世界は、冷たくて、色がなくて、辛い。それは、変わらない」
「……」
「……辛いことはあったけど、すべてを無かったことになんて、どうしてもできなかった。だって、大好きな人たちとの、大切な思い出だから。……私の冷たい心を救ってくれたものには、変わりないから」

 祐星の目を見る。彼がそうしてくれたように、私も、きちんと目を見て話したい。そんな気持ちが通じたのか、祐星もじっとこちらを見つめ返してくれた。上手く言葉が出ない私を、静かに待ってくれている。

「私が忘れたいと、もう十分だって手放そうとした世界は、両親が私に温かさを教えてくれた世界で、祐星が好きだって言った世界でもある」
「……うん」
「……大好きな人たちが愛した世界を、私も、愛したい」

 ボロボロと、涙がこぼれた。祐星は優しくその涙を拭う。まだ、伝えきれていない。上手く息ができなかったけれど、言葉も上手く繋げられなかったけれど、二度目のお別れの前に今言いたいことを無我夢中で口に出した。

「死んでほしく、なかった」
「……ごめん」
「また会えたのに、祐星のこと思い出せたのに、もうお別れって、なんなの」
「俺も、寂しいよ」
「最後まで、祐星のペースに引っ掻き回されて、悔しい」
「あはは、ごめんって」
「目が覚めたら、星、見に行くから。オリオン座、探す」
「そのとき、傍で一緒に見るよ」
「レラプスも、一緒に」
「うん。……お世話、任せちゃってごめん」
「私が死んだら、絶対、話聞いて」
「うん、約束」
「……私、祐星のこと、好きだから。これまでも、これから先も。祐星が思っている以上に、ちゃんと好きだから」
「え!?ちょ、ちょっと、不意打ちはずるくない?」

 普段は直接的な愛情表現なんてしてこなかった私からの言葉に、ひどく慌てる祐星。そんな彼の姿を見て、思わず笑みがこぼれる。これまで振り回されてきた分の仕返しだ。どうせなら、と再び祐星の身体に腕を回し、ギュッと力を籠める。戸惑ったように彷徨った彼の腕は、ほどなくして私の背中に回された。

「……いってきます」
「いってらっしゃい」

 その言葉を最後に、私の意識は白く滲んだ。

升形星

 目を開ける。
 ぼんやりとした視界の中心に、強い白色の光を捉える。じわじわと輪郭が浮かび上がり、それが天井に設置されたいくつもの蛍光灯であると認識した。ピッピッと、規則的に響く何かの音。その音を聞いているうちに、指先にまで血が巡るように、ゆっくりと全身に力が入る。大きく息を吸う。グッと上半身に力を込めて、錆びついた身体を起こそうとした。しかし、全身に激痛が走り、それは叶わない。

「結月ちゃん……!!おい、医者呼べ!!」

 慌ただしい声が聞こえる。視線を動かせば、見覚えのある顔。近所に住むおじさんとおばさんだ。おばさんはバタバタと廊下に飛び出していき、おじさんは何度も「ああ、よかった、生きててくれた」と必死に言葉を投げかけてくる。何か応えようとするも、喉からは空気が漏れる音しかならない。口が上手く動かない。なんとか声を出そうとしても、しわがれた音が鳴るだけだった。ほどなくして、おばさんに連れられてきたらしい医者と看護師が現れる。あれよあれよとそのまま処置だ検査だと、まだぼんやりする頭のまま流れに身を任せた。

 その後、検査等も終えてようやく声も出せるようになるまで数日が経った。その間も見舞いに来てくれたおじさんたちから、土石流のあった日以降のことを教えてもらうことができた。

「あの日、土石流が収まってみんなで避難所に身を寄せてたんだ。そしたら、一人の女の子が母親に必死に何かを訴えていてな」
「《お姉さんが来ていない、ルルちゃん見つけてくれるって約束したの》って、ずっと繰り返していたの。それで女の子にどんなお姉さんかって特徴を聞いたの。そしたら、お姉さんが結月ちゃんじゃないかってことが分かってね」

 そこから、雨も落ち着いたからと私の捜索が始まったらしい。主に派遣された自衛隊が捜索することになったが、町の人たちも瓦礫の片付けをそっちのけで探してくれたそうだ。

「気づいたら、あんたが飼ってた犬も町に来て必死に何かを探し回ってんだ。ありゃ、結月ちゃんを探してるに違いないってみんなで話してなあ」
「土石流があった二日後の夕方だったわ。ワンちゃんが大きな声でずっと鳴いていてね。まさか、って土を掘っていたら、結月ちゃんを見つけたのよ。お人形を握りしめた状態のまま、意識不明でね」

 その話を聞いた時に、祐星と共に見たブラウン管テレビの映像を思い出した。泥まみれになりながら、必死に吠えるレラプス。あれは、現実の世界で私を見つけてくれたレラプスの姿を映したものだったのかもしれない。祐星だけではなく、レラプスも私の生を願って命を繋ぎとめてくれていたのだと思い至った。現在はおじさんが面倒を見てくれているそうで、私の体調をみて迎えに来たらいいと話してくれた。

「医者の話じゃ、目を覚ますのはよほどの奇跡が起きないと難しいって言われていてなあ。いやあ、ほんとに良かった。よく戻ってきてくれた」
「ほんとねえ。神様がいつも頑張ってた結月ちゃんを助けてくださったのかもねえ」
「……神様だけじゃ、ないです」
「え?」
「……おじさんも、おばさんも、女の子も、レラプスも、もちろん町の人も。皆さんが、助けてくださったからです。本当に、……ありがとう、ございます」

 にこりと、自然と笑みがこぼれた。こんな風に笑ったのは、いつぶりだろう。祐星とあの空間で過去のことや自分の死と向き合い、自分の中で凍り付いていた心が再び解けていた。あんなに冷たいと思っていた世界には、たしかな温もりが満ちていた。私が見ようとしなかっただけで、ずっと変わらずそこにあったのだ。その温もりに私は救われたと、気づかされた。祐星の言葉が、眼差しが、温かさが、再びこの世界を色付けてくれた。
 おじさんたちは私の言葉に、表情に、涙がとまらなくなったらしい。繰り返し「よかった、よかったなあ」と言って、面会時間が終わると伝えに来てくれた看護師さんを驚かせていた。

《もう、大丈夫だね》

 その日の夜。真っ暗な暗闇の中で不思議な声を聞いた。男性とも、女性ともつかない声。大人のような、子どものような、そんな調子で一言そう告げたのだ。もしかすると、祐星が言っていた「神様」なのかもしれない。そう考えた私は、「あの」と声を発する。

「ありがとう、ございました。願いを叶えてくれて。……もう一度、この世界に戻してくれて」
《ぼくは、何もしていないよ。動いたのは、君と、彼と、もっとたくさんの人。ぼくはお手伝いしただけさ》
「それでも。大切なことに、気づけたので。……ありがとうございました」
《……ふふ、どういたしまして》

 目が覚めると、早朝の冷たい空気が病室を満たしていた。窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえて、ふと視線を向ける。赤々と色付いた紅葉が、朝陽に照らされてキラキラと燃えていた。

星霜

 病院から退院した後、私の暮らしは驚くほどいつも通りだった。
 あの空間では泥まみれだった工場は、現実の世界では綺麗な状態で残っていた。そもそも、この辺りまでは土砂が来なかったのだという。レラプスが無事だったのも、そのおかげだったわけだ。身体の様子を見ながら、再び町の人からの依頼を受けるようになった。以前と変わったことがあるとすれば、あの日助けた女の子が母親と一緒に訪ねてきたり、町の人が代わるがわる工場へやってきては調子を聞かれるようになったことだろうか。私の表情が柔らかいことに気付いた人々は、おじさんたちと同じように目に涙を浮かべていた。これから、この温かな人たちへ一生をかけてお返ししなくては、と密かに決意した。


 「結月さん、この子に名前つけてほしい!」

 あの日の女の子が、小学生に入学してから数年経った頃。そう言いながら彼女は工場に入ってきた。彼女は私の退院後に母親とお礼を伝えにきた後も、度々一人でこの工場へ足を運んでいた。今日は、その手には小さな写真が握られている。話を聞いてみると、どうやら彼女の家で犬を飼うことになったらしく、その名付け親になってもらいたいとのことだった。何か気の利いた名前を考えねば、と考えを巡らせようとしたが、その写真を見てすぐにピンときた。

「……プロキオン」
「ぷろきおん?……なんか、変わったお名前だね」
「……レラプスにそっくりだから、ついね」
「んー?でも、お姉さんが考えてくれたお名前だから、プロキオンにする!」

 ありがとう、と言いながら足早に立ち去る彼女を見送る。もしかしたら、彼女がプロキオンという名前について調べてくれるかもしれない。その時、「レラプスと似ているから」という理由が腑に落ちてくれると嬉しいのだが。そんな期待を密かに胸の中で膨らませていると、ふと声が聞こえたような気がした。

《子犬の名前にも星座の話を由来にするって。ほんとに、星座が好きなんだね!》
「……そうだよ、誰かさんのせいでね」

 私は退院してから、定期的に星を見るためにあの丘の頂上まで足を運ぶようになっていた。祐星が遺した天体望遠鏡を担いで、レラプスもつれて静かに波の音を聞きながら夜明けまで星を観察する。そして、水平線の向こうから朝陽が昇ってきたら家へ帰る。これが、新しくできた私の日課だ。
 祐星が教えてくれたことを思い出しながら、小さなレンズを覗く。小さく輝く星々を結びながら、その神話に思いを馳せる。そうしている時間が、この世界で祐星と繋がれる唯一の時間だった。私が死ぬまで、彼とはもう会えない。思いがけず早くに死にそうになったら、きっとまた送り返されてしまうだろう。毎日の生活の中で、寂しさも、辛さも、やっぱりある。だけど、星を通じて彼を想うことで、記憶の中の彼に出会える。それが、心の支えとなった。
 あの空間にも土石流が襲ったときのことを、今でも思い出す。私の命の灯が消える間際。必死に私へ向かって手をのばす彼。選択を迫られたあの瞬間、脳裏に浮かんだこと。
 両親も祐星も失って、自分にはもう何も残ってないと、本気で思っていた。思い残すこともない、守るべきものだってもうない。そんな自分の最後に、もし、まだ何かに縋ってもいいのなら。一つだけ何かを掴んでもいいのなら。それなら、目の前に差し出された、彼の手がいい。そう思って、彼の手を掴んだ。その瞬間に土砂が消えたものだから、とても驚いた。神様は、きっとそれが私の「生きたい」という決意の表れだと思ったんだろう。大切な人の「生きてほしい」という遺志を受けとったんだと。
 あの不思議な体験から、随分と時間が経った。天体望遠鏡を組み立てる手が、自然と動く。体に染みつくぐらい、何度も繰り返した動きだ。空を見上げる。もう、解説を思い出さなくても自然と結べるようになった星々。その近くに、ぼんやりと月が浮かんでいる。今夜の月は、ひと際明るい。

「……逢いに来たよ」

 私は、今日も生きている。
 いつか死ぬ、その時のために。

星結び

 目を開ける。
 ぼんやりとした視界の中心に、オレンジ色の柔らかい光を捉える。じわじわと輪郭が浮かび上がり、ユラリ、ユラリと緩やかに揺れるそれが、電球であると認識した。ジリジリと、何かが燃える音。その音を聞いているうちに、指先にまで血が巡るように、ゆっくりと全身に力が入る。大きく息を吸う。グッと上半身に力を込めて、錆びついた身体を起こした。

「……ここ、は」

 ぐるりと周囲を見渡す。しかし、どこを見ても暗闇しか広がっていない。光があるのは、今自分がいるこの場所だけのようだ。もう一度頭上を見る。真っ暗な天井から吊るされた、随分と古いフィラメント電球が一つ。人間一人分の柔らかな光が、私を包み込んでいた。

「結月」

 背後から響いた男性の声。柔らかな、声。
 私はゆっくりと振り返る。フィラメント電球に照らされた、もう一つの場所を見つけた。自然と足が動く。フラフラと、力なくその場所を目指す。最初はゆっくりと、しかし次第に気持ちが急いてしまって、そのスピードが上がる。それが良くなかった。いよいよ目前に声の主が迫ったそのタイミングで、足がもつれてしまった。

「……おかえり」

 しっかりと抱きとめて、私を支えてくれたその人。服越しに感じた手の大きさに、思いのほか男性らしいその腕の力強さに、心がゆっくりと解れていく。おずおずと顔を上げる。嬉しさと、愛おしさでいっぱいにあふれた表情を、彼は浮かべていた。視線がぶつかる。とても、優しい瞳。冬の朝焼けのような、淡く澄んだ色を宿した、そんな瞳。その瞳を見つめて、涙がこぼれる。しかし、努めて笑みを浮かべて、静かに言葉を紡ぐ。

「……ただいま」
 

星結びのフィラメント

星結びのフィラメント

—―――――かみさま、……どうか、どうかおねがいします。 記憶を失った若い女。謎の空間で目を覚ました彼女は、途中で出会った青年と共にこの空間からの脱出を目指すことになった。 すべての謎が解けた時、選択を迫られる。互いの運命の、結末を。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-06-28

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 黒夜
  2. 新月夜
  3. 鼓星
  4. 星影
  5. 居待ち月
  6. 青星
  7. 十六夜月
  8. 平家星
  9. 月白
  10. 升形星
  11. 星霜
  12. 星結び