誘拐

 私の家のすぐそこに市役所があり、その二階は図書館になっていた。四歳の娘の手を引いて、階段を上がる。
 階段を上がった左手に小窓があり、その窓辺にゆるキャラの猫のぬいぐるみが、ドライフラワーと一緒に飾られてあった。
 娘の遥は精一杯、背伸びして、ぬいぐるみを引き寄せ、転がり落ちたそれをぎゅっと抱きしめる。
 もうすぐ娘の誕生日なので、同じぬいぐるみをプレゼントしてあげてもいいなと思った。
「ほら、もう行くよ」
 遥からぬいぐるみを取り上げ、もと通り窓辺に座らせる。
 図書館で遥に絵本の読み聞かせなどした。その間も娘は「ねこた、ねこた」と呟く。さっきのぬいぐるみのことだ。名前でもつけたのだろうか。
 帰るとき、遥はまたぬいぐるみに手を伸ばしたが「ほら、行くよ」
 先を急いだ。朝ドラの再放送を見たかった。
 本は二週間借りられる。ただ蔵書整理の日がお休みなので、早めに返しに行った。すぐ終わるので娘はお留守番。アンパンマンの録画を見せておくことにする。
 二階へ上がって、ふと気がついた。窓辺にあのぬいぐるみがない。受付で聞いてみると、二日前、誰かに盗まれたという。許せない、と私は思う。
 泥棒がいたものだから、「パンどろぼう」という絵本を借りた。「パン屋襲撃」も借りた。結構時間がかかってしまった。
 帰宅すると、娘が居間にいない。襖の向こうから遥の声が聞こえた。はしゃいだ声、まるで誰かと話しているかのような。
 ガラッと襖を開けた。和室に娘はいた。あの猫のぬいぐるみを持って。楽しそうに会話していた。
 全身の血が一気に脳天へ集まって、私は思わずぬいぐるみを取り上げた。
「あんた何やってるの!」
 娘が目を丸くしている。
「泥棒したの! 悪い子は嫌いだよ!」
 私と娘には血の繋がりがなかった。輪郭だけの前妻、その性悪が遺伝したのだと激しく憎んだ。
「来なさい、返しに行くよ」
 娘の手を握ると、その顔が、涙を浮かべて睨み付けていることに気づいた。
「なんて顔するの! 泥棒は悪いことだよ!」
 私はぐんぐん娘を引っ張り、図書館の階段を上っていった。
 カウンターの女性にひたすら謝り、ぬいぐるみを娘の手から引き剥がし、その頭を押さえつける。
 それ以来、遥は私と口を利かなくなった。
「まだ反省してないのね」
 遥は夫が作ったガンダムのプラモデルを左手に、右手にバービー人形を持って、「ほんとうのままになあれ」とよくわからない遊びをしていた。
 そこへインターホンが鳴った。ママ友が息子をつれて現れた。遥よりひとつ年上の男児は、幼いながら凛々しい目をしている。
 ママ友が言った。
「私たち、夫の仕事の都合で、引っ越すことになって。この子がどうしても、遥ちゃんに挨拶したい、て。物静かな娘さんですよねえ」
「そうでもありませんよ」
 私の脳裏に輪郭だけの前妻が赤く浮かぶ。思わず口走った。
「先日なんて図書館のぬいぐるみを盗んで、もう気分は怪盗ルパンですよ」
 そこで一時停止ボタンを押したように、目の前の二人が固まった。
 そして口を開く。
「あの、それって、私たちがプレゼントした、ぬいぐるみでは」
 私は自分の愚かさを呪った。娘に声をかけても出てこない。すみません意固地な子で、とかなんとか言ったら、二人は惜しみながら帰っていった。
 娘の背中に尋ねた。
「お母さんが悪かったから。ぬいぐるみ、返してもらいに行こう」
 しかし娘は一言も反応しない。自分の遊びを見せつけるようにしている。
「おまえは、いでんしが、わるいんだ。うてー、バババババ」
 今から図書館に行って返してもらおうか。と考えたが、いや無理だろう、と首を振る。
 小学校に入る頃まで娘は一切、私と会話しなかった。やがて言葉を交わすことが怖くなる。どこか見下したような態度を取られる。お母さん、などとは呼ばない。私には呼び名がない。
 遥は友達と図書館に行った際、
「このぬいぐるみは私のうちからさらわれたんだよ」
 そう言って大爆笑したという。
 やがて窓辺のぬいぐるみが別のぬいぐるみになり。
 下僕か何かのように扱われたまま、娘は中学生になった。二階の部屋でオンラインゲームをやって、はしゃいでいる。そういう遊びには夫のほうが詳しいので、私はますます下僕だった。
 髪の毛を一本、二本と抜いて、新聞の上に並べる。かっと頭が熱くなる。
「どうして! 悪いのは本当にぬいぐるみを盗んだ誰かじゃない!」
 二階から「おーまえーはあーほーかー」と聞き取れる口笛が聞こえた。これも夫に教わったと思われる。
「なによ!」私は聞こえよがしに叫んだ。「あんたこそ、未だに幼稚園の初恋が忘れられないの!」
 しばらくして、雷のように「うるっせえクソババア!」と声が降ってくる。

 ク ソ バ バ ア。

 そう言われたことがなぜか嬉しかった。
「やっぱりあんたはうちの子よ!」
「うるせえ、きめえんだよ!」
 二人の応酬は日が暮れるまで続いた。
 これが戦であったなら。
 私を侮辱した娘の作戦敗けだった。
 長かった。
 私と娘はよく似ている。

 了

誘拐

誘拐

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-06-25

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