AI

 また職がなくなってしまった。平日の昼間に家の近所をぶらつくという日課がまた復活した。仕事をしたり、やめたりというサイクルをこの数年間続けているうちに、どんどん思考も精神も鈍っていく。おまけに最近はAIを使うようになり、本当にものを考える力が落ちてきたのかもしれない。自分の中でため込んで苦しむということができなくなっていく。根気よく、自分の中で醸成させるという過程が、心身から抜けていく。次から次にディスプレイの向こう側で、高速計算によって整備された一見理路整然とした文章が作成されていく。もはやなすがままに文章を読んでいるだけだ。すでに読んでいるとは言えない。ただなんとなく見ていると言った方がいいのかもしれない。対象と向かい合うことなど、もうやりたくないのだろう。少しずつ堕落していっているのだが、どうしようもない。

 しかし、しょせん機械は機械なのだ。機械が代替してくれる思考と、私の中で生み出される思考の間には、どうしようもなくうめられない差異があるのだ。深い断絶がある。超えられない溝がある。では、この溝とはなんなのか。いっそのこと、その溝を明確にするためにとことんAIを使って馬鹿になった方がいいのではないか。しかし、それを言うならスマホもパソコンもテレビもそうだろう。これまで作られてきた機械はそうだった。いっそのこと、とことん使ってやろうという勢いが皆にあったから、こうして機械化の波に流されてきたわけだ。まあ、いいや。それで溝とはなんなのか。言葉で考えることと、計算で考えることは違うなどという訳知り顔の答えではとうてい誰も納得がいくまい。実は共感的思考の土台には計算的思考があるということを、なんとなく感じ始めている。計算ができるから共感ができるのではないだろうか。計算する能力を失うと、共感することもできなくなり、どうしようもない人間になってしまうのではないだろうか。数より言葉の方がなんとなく暖かみがあり情理の原点にあると思いたくなるが、本当にそうなのだろうか。言葉でどれだけ考えても、際限のない葛藤があるばかりだ。どこまでいっても亀裂と断絶。数よりも言葉の方がずっと暴力的なものではないのだろうか。

 AIが並べ上げる文章は、すべて計算によってなされている。過去の膨大なデータを計算して、私が喜びそうな心地よい文章を算出して配列してくれている。機械になくて人間にあるのは、情念や狂気だ、なんて言い古されたことではないか。確かに情念や狂気と向かい合うことで生まれる思考は、機械には生み出せないのかもしれない。いや、それも私の独りよがりか。しかし、今の私が生み出そうとしている文章は、過去にはなかったものだ。いやいや、こんな話はくだらない。私の生み出した文章なんて、これまでの膨大な過去のデータの中に簡単に組み込まれてしまう。私みたいな人間がかけがえのない今を強調したところで、目の前の機械が凡庸な過去の中に回収していってしまう。

 それでも、人間にしかできない思考があると言うのは、AIと対話しているとよく感じる。考えることは苦しむことだとするなら、私は年々考えることができなくなっている。考えるということは全身が参加する行為のことだとは思う。しかし、もうそんな気概がなくなっていく。肉体は置いてけぼりにされ、脆弱な観念が独り歩きするだけになってしまった。あまりよくない間延びした文章ができあがってしまう。やっぱり馬鹿になっているのかもしれない。溜めがなくなると思考に勢いがなくなるのだね。日々の生活にストレスや緊張がないと、思考も怠惰になってしまいだめになるのだろうか。結局、適当に書いただけでは思考の謎について何もわからないね。

 こんなことを書いている間にも、世界中で多くの人々が今もAIと話している。大量の電力や水を消費しながら、大量の思考がまわっている。不毛にまわっているだけなのだろうか。私たちは何がしたいのだろう。多くの人が、AIから抜け出せなくなっているのかもしれない。冷蔵庫も洗濯機も自動車もテレビもパソコンもスマホもAIも、皆が使い慣れているうちに徐々に心身にくっついてしまい、誰もそれを気にかけなくなっていく。高速計算で文章が生み出されるその裏で、大量の物資を消費している。これをめぐってまた国同士の争いも生じてくる。そして、皆はAIやSNSを使いながら権力者の愚かさを嘆いたりするのだろう。

 それにしても計算で生み出されると私は思い込みすぎているのかもしれない。まだAIや機械を軽視しているのかもしれない。人間と機械の間に何があるのか、私はまだ何もわかっていない。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-06-24

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