06 その先の向こうに… ⑭

52

 過ぎ去ってしまえば、それはもう過去の所有物となる。
 時間を遡って取り返すことは出来ない。
    *
 その一瞬に、思いと振る舞いによる働きが、それぞれに、そしてさまざまに、複雑に絡み合っていた。
    *
 バスの男は、マジかよ、あいつ逃げやがった、と自分の目を疑った。
 制御を失った営業車が二人に迫ろうとしているなか、男からムーンを取り返した気骨ある奴だと思っていた少年が、並んで立っていた女子中学生の後ろに回り込んだかと思うと、彼女を盾にするようにしゃがみ込んで身を隠してしまったのである。
 そうすれば自分は助かる、とでも思っているのだろうか。
 どうしてそう思えるんだ。
 このままの勢いで車がぶつかれば、二人一緒に跳ね飛ばされるに決まってるじゃねぇか。
 そんなことも分からないのか。
 頭が空っぽなのかよ、と笑いがこみ上げてきた。
    *
 しかし、少年のその行動は、男が考えていたものとは違っていた。
 カコの後ろで屈みこんだジンジは、右肩を彼女の左のお尻の下に当て、右手を右のお尻に添えていた。
 そして次の瞬間には、カコの身体を空に向けて、思いっきり押し上げていたのである。
    *
 ジンジがカコの背後に向かって動いた。
 そのとき、カコはジンジの金色の左目が、残像を残して線を引くように流れてゆくのを見た。
 お尻を支えられた。
 直後に、支えられたお尻から、尋常でない熱が身体に流れ込んできたのを知った。
 知った瞬間に、足が地面から離れて、身体が浮いていた。
 そして宙に舞った。
    *
 カコは、ジンジから受けた熱が、ムーンのリングを活性化し、自分の感覚が研ぎ澄まされたのを知った。
 そして覚えた直後に、今まさに、見えていた音がゆっくりと……
 その一瞬が、ゆっくりと流れるのが見えたのである。
 カコの足下を、今まさに、車が通り過ぎようとしている。
 ナオの顔が浮かんだ。
 ユウコの顔が浮かんだ。
 タカコの顔が浮かんだ。
 ヒカリの顔が浮かんだ。
 イケピンの顔が浮かんだ。
 シンコの顔が浮かんだ。
 ポンタの顔が浮かんだ。
 ユベールの顔が浮かんだ。
 ムーンの顔が浮かんだ。
 みんなが大声をだして、叫んでいる。
 カコは、そのみんなの声に、はっきりと頷いていた。
 そして、ジンジの顔が浮かんだ。
    *
 ドン、とカコは、自分から意識して車の屋根の上にお尻から落ちた。
 それから流れるように屋根を滑り、次の瞬間には、車の後方に降り立っていた。
 振り返る。
 振り返る途中に、男の顔が、バスの窓越しに見えた。
 目を見張ってカコを見ていた。
    *
 そんなことよりも……
 ジンジは? 何処にいるの?
 車は少し先で停まっていた。
 ジンジはその向こうにいるに違いない。
 走って車の前に回り込んだ。
 ジンジは、信号機の柱の横に、仰向けに倒れていた。
 顔が赤く染まっている。
 あの夢がフラッシュバックしていた。
 名前を呼びながら駆け寄った。
 アスファルトに座り込み、膝の上にジンジの頭を抱えた。
 夢で観たとおりのことを自分が演じている。
 その光景を、俯瞰(ふかん)している自分がいる。
 しかも、夢はそこで終わっていたが、現実は続いていた……
    *
 すると、ジンジが急に咳き込んだ。
 その拍子に、鼻から血が吹き出していた。
 顔を赤く染めていたのは、鼻血だったのである。
 後方にひっくり返った拍子に、何処かでぶつけたのだろうか?
 長い息が漏れ、ジンジは鼻をすすった。
 ゆっくりと目を開けた。
「大丈夫……だよな」とジンジは、カコを見上げて笑った。
 鼻血と泥にまみれてひっくり返っているジンジの顔は、無茶苦茶カッコ悪かった。
 カコは「うん」と頷き、ポケットからハンカチを取り出して、ジンジの顔を拭ってやった。
 雨は止んでいた。
 カコの肩を借りて、ジンジはようよう立ち上がった。
    *
 あの瞬間、肩に乗せたカコを、宙に押し飛ばしたジンジは、その反動を利用して後ろに転がり、目の前に迫る車をギリギリで避けたのであった。

53

 バスは、交差点の真ん中で停まっていた。
 男は、何かに感心したかのように笑っていた。
 笑いながら頷き、バスのハンドルを、大きく回していた。
 バスが向きを変える。
 向きを変えたバスは、西の橘方面に頭を向けて動いていた。
 ディーゼルエンジンを唸らせ、二人の横を通って、走り去ってしまった。
    *
 営業車の男は、何があったんだ? と車から降りて、その場に立ちすくんでいた。
 はす向かいの交番から、二人の警察官が笛を鳴らしながら走ってくる。
 年上の方が、カコとジンジに大丈夫か? 怪我がしてないか? と声を掛けていた。
 警察官の二人は、カコが宙に浮んで、営業車を飛び越えたのを見ていない。
 バスが視界を邪魔していたからだ。
 カコが跳んだのを見たのは、バスの男、営業車の男、そしてナオとユウコと仲間たちだけであった。
 警察官がやって来たときにはもう、二人は何事も無かったかのように立ち上がっていた。
 二人は、大丈夫です、と言った。
 若い方は、交通整理を始めている。
 やりながら、こちらをチラチラと見ている。
 営業車の運転手は、年上の警察官の指示に従って、車を道路の端に移動させてハザードを点けた。
 みんなが駆け寄って来て、二人を取り囲んだ。
 ナオとユウコは、半泣き顔でカコに抱きついていた。
 大丈夫、大丈夫だったよ……とカコは二人に声をかけていた。

54

 バスの運転手は我に返った。
 運転席に座っている。
 何か起こったのか? と無意識に両手で身体をなで回していた。
 そしてはっとして、慌てて振り返って車内を見回した。
 乗客はいない、誰も乗っていない。
 それから、ここは何処なんだ、と外を見る。
 見慣れた景色が目に入った。
 一瞬で分かった。
 宮崎中学校バス亭の少し手前のところだった。
 バスはそこで停まっている。
 なんでこんな所に、どうしてなんだ? と運転手は記憶を呼び起こそうとした。
 しかし、ひとつ前の昭和町バス亭に到着する少し前からの記憶が、うまく思い出せないでいた。
 昭和町バス停でお客を乗せたんだったったけか? と頭を捻る。
 いや違う、乗せてない。
 オレは今日、どこまで無乗客の記録が伸ばせるかをやってたんだった。
 今度はミラーでバスの中を確認する。
 誰もいない、まだ継続中だったんだ……と思い出していた。
 運転手は、エンジンをかけてゆっくりとバスを動かした。
 前方の、宮崎中学校前バス停にも、待っている人がいないのが見える。
 無乗客の運行は、まだ続きそうだ。
 運転手は、帽子を被っていないことに、まったく気付いていなかった。
    *
 この騒動は、その日(木曜日)の夜のニュースにも、翌日の朝刊にも取り上げられなかった。
 事に巻き込まれた、イケピン、シンコ、ポンタ、それにタカコとヒカリでさえも、騒動のことをはっきりと覚えていなかった。
 昨日は、突然の雨で部活が中止となり、早く帰るように言われただけで、それ以外はいつもの帰宅だったと思っているのである。
 だから、昨日のあの話は誰からも出てこなかった。
 そしてそれを、カコ、ナオ、ユウコは、まったく不思議に思っていなかった。
 多分そうなるであろう……ということを予想していたからである。
 男の降らせていた瘴気の雨が、それに関わった者たちの記憶を霧が掛かったかのように見しかえなくしたのを知っているからだった。
 入間おばさんの、雨と霧の悪戯のときと同じである、と言うことを知っていたからだ。
 営業車とバスの運転手、交番の二人の警察官にとっても、別段大きな事も無かった普段と変わらない一日だったのである。

55

 部活を終えた三人とジンジは、おばさんの家に集まっていた。
 開け放たれたリビングの窓の下に、乙音がちょこんと腰掛けている。
 乙音の膝の上にはユベールが乗っていた。
 その右隣にはカコが座っていて、庭の樹が風に揺れるのを眺めている。
 カコが見ている樹の根元には、おばさんがしゃがみ込んで、背中を見せている。
 ジンジがその傍(かたわ)らに立って、おばさんの手元を覗き込んでいた。
 おばさんは、手を動かしていた。
 そのようすを、ナオとユウコが、少し離れたところから見ている。
「準備、できた、ですか……」
 乙音が、おばさんの背中に向かって言った。
 おばさんの代わりに振り返ったジンジが、ああ、と返していた。
 それはどこか、曖昧な返事だった。
 するとユウコが
「緊張してるんでしょう?」と声を掛けてきた。
 慌てたジンジは、そんなことないさ、と言ったが、当惑してまごまごしてしまった。
 すると今度は
「そうには見えないけど」とナオが、誤魔化さないでもいいじゃない、と笑った。
 ジンジはむきになって、絶対そうじゃない、と首を横に振って否定した。
 そこに、いつの間にやって来ていたのだろう
「もう、覚悟しなさいよ」とカコがジンジの背中を押した。
 そしてそのまま、膝に手を置いて前屈みになると、おばさんの手元を覗き込んでいた。
 おばさんの前には、箱が置いてあった。
 ユベールを治療した箱だった。
 中には土が敷き詰められていた。
 おばさんは、箱に向かって手を組んで、印を結び、九文字の言葉を唱えていた。
 九字護身法だ。
 おばさんは、その儀礼を九回繰りかえしていた。
 男がおばさんの家に向かって張っていた結界、つまりおばさんに間違った情報を植え付けるようにしていた結界を、押し返すためにやったのもこの技法だ。
 押し返されたことにより、男の結界は破られ、宮崎中学校周辺を覆っていた瘴気の雨に綻びが生まれた。
 それにより
 瘴気の雨で邪魔されていたユベールとジンジの間にあった、つまりおばさんの家にいたユベールと、ジンジが首に掛けているユベールのリングとの思念、いわゆる〝気道〟が繋がったのである。
 あのとき、カコの後ろに逃げるように?回り込もうとしているジンジの目が、見たことも無いほどに強い金色を放っていたのは、そのためだったのだ。
 そしてジンジは、繋がった気道から送られてきたユベールの妖力をカコに転送した。
 ジンジはカコに妖力を注ぎ、実際は音也がジンジを動かしていたのだが……ジンジ自身も力を使って、カコを宙に跳ばしたのである。
    * 
 ユベールがジンジに送った妖力は、庭の四隅で掘り出したカコたち〝三人の物〟と〝男の物〟を箱の中で燃やしたときに生まれた〝四体の蟲〟を食べて得たものによるものだった。
 しかも、たった四体でユベールの尻尾を裂けさせるほどの力を持った蟲だったのである。
 ユベールから送られてきた妖力は、ジンジ自身が持っている〝器〟の容量を遙かに超えるものだった。
 その力をいったん無理矢理に身体の中に取り込み、カコに向けて一気に放出したことで、身体が〝上気〟して悲鳴を上げたのだった。
 鼻血は、その反動によるものだったのだ。
 もし、気道が繋がらずに、この強烈な妖力の助けが無ければ……ジンジの中に残っていた音也の妖力だけでは、カコを救えなかったかもしれなかった。
    *
 やがておばさんが
「用意できたわよ」と顔をあげた。
 乙音がやってきて、抱いていたユベールを、ゆっくりと箱の中に入れた。
 箱の中から、ユベールが見上げたのはジンジだった。
 ジンジは、おう、とユベールに挨拶し、箱を挟んでおばさんの向かいにしゃがんだ。
 それからジンジは、不安げな顔をおばさんに向けて言った。
「痛いですかね」
 おばさんは、そうねぇ~と意味深な表情をジンジにつくって見せ
「治療したときと同じくらいかな。同じ道を通って音也が帰ってくるんだから」と言った。
 そんなに?……ですか、とジンジは怖じ気付いてしまった。
 あのときは
 ユベールを助けたい一心で、何でもやってやる、という覚悟があった。
 だからどんな痛みにも耐えられた。
 でも、あの痛みをもういっかい体験するの……と思うと、急に怖くなってしまった。
 いかん、いかん。
 それでもジンジは、怯(ひる)みながらも、気持ちを落ち着かせるように長い息を吐いて、箱の中のユベールを見下ろした。
 ユベールは、おばさんの指を甘噛みしていた。
 なるほど、お前はもう準備は出来てるってことだな……と理解した。
 そこに、カコが、ジンジの横にしゃがんで手を取った。
 指が、歯形の痕をなぞった。
 すると何故か、音也が戻ってきてくれて、これまでと同じように学校に来てくれればれそれでいい、と腹をくくれた。
 ジンジは大きく息を吸った。
 カコがその手をユベールに持ってゆく。
 ユベールが大きく口を開ける。
 獣の牙が見えた。
 ジンジは、南無三、と牙と手に注目した。
 直後に、情けないほどの悲鳴が、ジンジの口から漏れていた。
    *
 ユベールをおばさんが抱き上げる。
 ナオとユウコがユベールを覗き込む。
 ユベールは、ミャウ、と啼いて二人に笑顔?を振りまいた。
 二人は、その瞳の中に、ユベールとしての音也の、確かな〝個〟を発見していた。
 おばさんは
「来週には学校にいけるわね」と赤ん坊をあやすように優しく揺らした。
 ユベールがまた啼いた。
 啼いて身体を起こし、乙音に飛びついていた。
「おかえり」
 乙音はユベールを、優しく、そしてしっかりと抱きしめて頬擦りしていた。

56

 入間家を出たカコとジンジは、二人だけで歩いている。
 一緒に家を出たナオとユウコは、ちょっと寄り道するところがあるからと途中で別れていた。
 気を利かしてくれたのであろう。
 たまにそういうことをしてくれる二人だった。
「ねえ」
 カコが並んで歩くジンジに声を掛けた。
「なに」とジンジ。
「あのとき……」
「あのとき……ていつ?」と首を傾げながら、ジンジはカコに顔を向けた。
「あのとき、わたしを肩に乗せて跳ばしてくれたとき」
 投げたんじゃなくて、跳ばしてくれた……とカコはそう思っていた。
「ああ、あのときね」
「そう、わたしはあのとき、宙に舞ってて、ゆっくりと流れてて……」
「流れてってなに?」
 カコは〝ある一瞬〟がゆっくりと流れていたの……と言おうとした。
 でも実際に、そんなことが起こるはずは無い。
 それは多分……
 ジンジを通してユベールから送られてきた妖力で得た、まばたきする間の濃密な感覚だったのだろう。
 カコは首を横に振った。
「でもね、その流れの、その先の向こうに…、何かが見えたような気がしたの」
「え? なにが見えたんだよ」
 ジンジは首を捻った。
 そしてカコも、それも分からないと首を横に振った。
 実際、二人には何も分かっていなかったからだ。
「結局なにも分からないんじゃなかよ」とジンジは笑った。
 笑いながら肩をぶつけてやった。
 カコはよろめいて、もう……とジンジにむくれ顔で返した。
 そのむくれ顔を、ジンジは笑って見ていた。
 その笑顔を見て、カコは答えを見付けていた。
〝その先の向こうに…〟見えたのはこれだったのだと――
    *
「あのとき……あのときわたしを肩に乗せたとき」
 カコは、さっきと同じ台詞を繰り返し、ジンジに詰め寄るように身体を寄せた。
 何を言い出すんだ? とジンジはビビってしまった。
 カコは上目遣いに、下からジンジの顔を覗き込むようして、あることを思い隠しているように、唇の端を釣り上げていた。
 意味深な表情を作っていた。
「わたしのお尻に触ったでしょう」
 ジンジはのけ反った。
 あのとき……確かにジンジは、右の肩にカコを座らせるように乗せ、右手でカコの右のお尻を支えた。
 それはバランスを取るためであったし、ユベールの妖力をカコに移すための、最良の方法でもあったからだ。
「あれはどうしようもなく……」
 言い訳しようとするジンジに、カコがさらに詰め寄った。
 気圧されながら、ジンジは自分の右の手の平に目を落とした。
 あのときは夢中だったので、後先のことなど何も考えていなかった。
 でも今思い出すと、確かに、この右手がカコのお尻を下から持ち上げたのだ。
 その上げた感触が、今初めて、この手に甦っていた。
 顔がほころんでしまった。
「頬がゆるんでるよ」
 カコがその手を叩いた。
 パチン、と小気味よい音が辺りに響いた。
「あ、あれは実際、ユベールの意思でやったことだから……」
 それでもカコは、疑いの目でジンジを見ている。
 ジンジは目を逢わせられなかった。
 でもカコは、文句を言っているのではない、怒っているのでもない。
 笑っていた。
「ありがと」とカコ。
 へ? とジンジ。
「あしたも天気いいといいね」
 カコは、夕暮れの晴れ渡った空を見上げた。
 西のオレンジ色の光が、カコの顔を照らしていた。
 晴れるにきまってるよ、とジンジ。
 言いながら、別の自分はあのときの手の平の感触をまだ思っていた。
 すると突然、鼻の奥がムズ痒くなってきてしまった。
 やば、鼻血が……

 おしまい

06 その先の向こうに… ⑭

あの男は何者なんだ?という疑問もあるかとは思いますが、それはおいおい書いてゆきます。
さて、カコとジンジにはちょっと休憩してもらって、次回はダークなお話しをしようと思っています。
ご意見、ご感想、お待ちしています。
質問も、歓迎いたします。
syamon_jinji@proton.me

06 その先の向こうに… ⑭

……ちょっと不思議な物語。 お待たせしました、最終回です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-06-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
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  2. 53
  3. 54
  4. 55
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