結婚式を壊されて辺境に追放された私、静かに暮らすはずがなぜか呪われた王子の夜伽係になっていました
タイトルはAI考案。原題【まほろばローズ】。
肛門性交/淫魔憑依王子/
1
光紗幕(レースカーテン)が開かれ、夫になる人と階段を降りる。人々の作る道が眩しい。
頭上で鐘が鳴り響いた。そのとき、ニナ・ラバンドラは確かに幸せだった。それを幸せと呼ばないのならば、この世に生きるのは苦痛なほどの欲深さを持っている。
飛び立つ白い鳩の群れが、2色の青を背景に輪郭を強める。瑞々しい芝は白く照りつけ、海の輝きと混ざって見えた。
ニナは目を眇めた。
婚礼衣装は硬く背筋が伸びる。
「お姉ちゃん! 綺麗だよ!」
参列者のなかから妹のセリシア・ラバンドラの声が聞こえた。最前列にいる。父と母も人集(ひとだか)りとは離れたところで手を振っている。
庭の半ばまで歩く。手にした花束が向かう先は決まっていた。
妹に、次なる幸せを――
ニナは花束を投げるため、参列者たちへ背を向けた。
「ニナ・ラバンドラ!」
いざ、投げようと腕を落とした時、野太い声が晴天に轟いた。
賑わっていた空気が一変する。
ニナは振り返った。花畑が一息に枯野原になったような静けさがある。遠くの海だけが点綴(てんてい)と白い光を揺らし、喧(やかま)しくしている。
拍手も歓声も止んだ庭に、一人、大柄な男が立っている。首が太く、発達した筋肉が礼装の下から透けていた。色黒く、掘りが深い顔立ちは軽率そうな笑みを浮かべ、逞しい顎には髭を生やしている。粗野な雰囲気のその人物をニナは知らない。
「ニナ・ラバンドラはオレと結婚するんだよ」
色の悪い唇が引き攣って嗤っている。
「知り合いか?」
傍にいた新郎のギアルギナ・スリヴォヴィッツ改めギアルギナ・ラバンドラス・スリヴォヴィッツがニナに訊ねた。彼は同い年の幼馴染だった。
「ニナ・ラバンドラはずっとオレ様と付き合ってたんだ」
しかしニナはこの人物を知らない。
「オレ様と付き合っておいて、別の男と結婚しちまうなんて、酷ぇよなー?」
婚礼のために髪をすべて後ろへ撫でつけた新郎ギアルギナの顔は普段の色の白さを通り越し、青褪めていた。
「どういうことだ、ニナ?」
彼女は首を振った。
「知りません……何のことですか……?」
大柄な男は笑った。
「恍(とぼ)けるなよ、恍けるなよ! あんだけ"愛し合って"、今更他人ヅラか~?」
ニナはまったく身に覚えのない男と、新郎ギアルギナの顔を見比べた。
離れているはずの参列者たちの会話が一際大きく聞こえた。近くの者も囁き合っている。
「ギアリーさん……」
ギアリーことギアルギナは頭を抱えた。
「実は噂で、君が浮気をしているんじゃないか……というような話は聞いたことがある。信じていなかったけれど……」
彼は深い溜息を漏らした。
「していません! わたしは浮気なんてしていません! 本当です!」
ニナは叫んだ。幼少の頃から、婚約者は幼馴染のギアルギナ・スリヴォヴィッツと決まっていた。そしてそのことに不満はなかった。
「あっはっはー。それじゃ、ニナ・ラバンドラが処女かどうか、確認するか? この女は淫乱だからな。喜んで処女膜も見せてくれるんだろ?」
「まあ!」
近くまで来ていた妹のセリシアが悲鳴を上げる。ニナの両親もまた悲鳴を上げた。
「とりあえず、参列者たちを帰そう……話はそれからだ」
ギアルギナは青筋を立てていた。血の気の失せた顔によく目立つ。彼は昔から神経質だった。そしてそれを抑え込もうと努めるが、終いには不調を来(きた)す。
しかし今日の彼はよく働いた。まず、今にも倒れそうなニナの母を休める場所へ案内してから、彼女の父親と自身と、自身の父親で参列者への詫びを述べ、帰宅を促した。
ニナは呆然と立ち尽くした。
晴れていた空は徐々に灰色に呑まれていく。
「別れたかったんだろ?」
「別れたかったんだろ? あの男と」
「じゃ、セリシアによろしく」
野卑な男は片腕を上げると、参列者たちが案内された方向とは別の方向へ消えていった。
◇
ラバンドラ家はスリヴォヴィッツ家の支援なしに成り立たないと聞いたのは、その夜だった。つまり、ラムイエ領を追放される日の夜だった。
ギアルギナはニナを赦した。けれども、ギアルギナの両親は別だ。そしてスリヴォヴィッツ夫妻の不興を買っては、ラバンドラ家はただでは済まない。
出て行かなければならなかった。
夜風に吹かれ、生まれ育った屋敷を見詰める。橙色の窓に人影が見えたような気がした。
外套を翻す。最後に母から贈られた襟巻きに顔を埋める。柔らかく、温かかった。
「ニナ」
彼女は足を止めた。
「あの場できちんと、君を信じてやれなくてすまなかった」
「わたしのほうこそ、こんなことになってしまってごめんなさい」
大柄の男が式場から姿を消したことで、すでに誤解は解けている。頭のおかしい人物が通り魔的に参列者に紛れ込み、場を台無しにしたということで話は片付いた。哀れみの声もラバンドラ家には届いている。しかしスリヴォヴィッツ夫妻が赫怒(かくど)しているのは、ニナの不貞行為の有無ではなかった。結婚式が荒れて終わらされたことについて憤激しているのだった。そして上手く立ち回らず、辱められたニナに対して落胆しているようなのだった。
「君は悪くない。父上とお袋はぼくが説得する。だからまた……」
スリヴォヴィッツ夫妻からニナの両親に宛てられた書簡には、支援を続ける旨が記されていた。そしてそこには条件も記されていた。
――凶兆の印を持つ娘はラムイエ領の地神の加護は受けられない。
とてもギアルギナに解決できる話ではない。そして彼にこれ以上の迷惑をかける話でもない。
「いいんです。むしろ、お父様とお母様を赦してくださってありがとうございます。ご寛恕(かんじょ)、痛み入ります」
彼女はこの幼馴染で元婚約者を、対等な立場にいるものと思っていた。だが違った。
「これからどこに行くんだ」
「場所を言うことは禁じられています。風の赴くままに……新しい住処を探します」
「ニナ。君はまだぼくを好いているかい」
彼女は頷いた。ギアルギナは遠くを見ていたが、固唾を呑んだ。
「離れ離れにはなるけれども、一度は結婚式まで挙げた身だ。ぼくに尽くしてくれるか」
「はい。遠い地でも……」
彼は懐から小型の缶を出した。
「一生をぼくに尽くしてほしい」
缶からギアルギナの革手袋の上に小さな玉が転がり出る。3つ入っていた。
「セリシアをよろしく頼みます」
ニナは3粒の白い玉を受け取ると、躊躇いもなく口に放り込み、飲んでしまった。
「これでもう、君は子を望めない。ぼくもまた不犯(ふぼん)を誓おう」
彼は缶を出したところから、小刀を抜く。鞘ごと純白の布に包まれ、飾り紐が結んである。
「女の独り旅だ。後は、分かるな」
ニナは小刀を見詰めていた。彼は待った。彼女は軈(やが)て餞別を受け取った。
「セリシアを……」
「安心してくれ。君の家族のことはスリヴォヴィッツの名にかけて守る」
彼女は屋敷に背を向けると、当てのない旅の一歩を踏み出した。
家を出る際に父から譲り受けた外套は大きく、布は厚く、寝具にはたいへん役に立った。母の匂いの染みついた襟巻きはニナに安らかな眠りを齎(もたら)す。硬く冷たい褥も忘れさせる。
握り締めた小刀だけが、夢の奥底へ沈めさせてはくれない。
◇
訪れた村の住民が言うことには、山奥に空家があるらしい。十数年前に野盗が入り、住んでいた家族を全員斬殺してからは、誰も引き取り手のないまま放置されているのだという。肝心の野盗はすでにこの村の広場で処刑されたとのことだった。
ニナは村長に掛け合い、その空家に住まわせてもらえることになった。管理者がいるのは安心するのだそうだ。だがひとつの条件が提示された。その家に住まうのならば、二度とこの村を訪れてはならないのだそうだ。悍(おぞ)ましい歴史のある家だ。忌避されるのも無理はない。
村は空家のある山を挟んで反対側にもうひとつあるとも教えられた。
彼等は親切だ。彼等は決して悪人ではないのだ。
彼女は外套を翻し、山奥へ向かった。
鬱蒼とした木々の狭間を抜けると、切り立った岩の陰に小屋が建っていた。日当たりは悪くない。話に聞き、想像していたよりも荒れてはいなかった。家屋もまた十数年放置されたというほどの傷みもない。
何者かが村人に知られることなく、すでに住んでいるのではなかろうか。
彼女は戸を叩いた。
「ごめんください」
返事はない。待てども、待てども、物音ひとつ聞こえない。
「ごめんください、ニナ・ラバンドラと申します」
しかしやはり反応はなかった。
把手を握る。鍵は掛かっていない。
「ごめんください……」
窓には暗幕が掛かり、外の日当たりに関係なく、室内は暗かった。荒れてはいない。だが埃臭い。
野盗が入り、一家が惨殺された。
村人の忌避する恐ろしい事件の現場に、今、立っている。不安がないわけではなかったが、今は雨風の凌げる場所を得るのが先だった。
室内を探ると、食卓には埃が溜まっている。水場は乾ききっている。
ニナは暗幕を開いた。光が射し込む。少しの間、彼女は佇んでいた。ほんのわずかな時間、彼女は何も考えずに済んだ。ぼんやりと木々を通して振り注ぐ光の柱を凝らしていた。
涙はすでに涸れた。屋敷を出た夜に泣き飽きた。
彼女は襟巻きに顔を埋めた。母の匂いがした。
寝具と食料は村で買えた。そしてニナは1枚の紙を手にしていた。持たされていた金子(きんす)も使い続けるばかりでは、いずれ底をつく。働かなければならない。
仕事募集の貼紙が買い物をした雑貨屋にあった。店主が言うことには、この山には湖があり、その近くで麦紐麺(スパゲティ)専門の食堂を営んでいる若者が給仕係を求めて貼っていったそうだ。
ニナは募集要項を熟読し、貼紙の下部にある欄に必要な情報を書き込んだ。そして、すぐに小屋を発った。地図を頼りに湖を探す。先程買い物に行くときにぶつかった二叉路が、湖への道だったようだ。村に降りず、湖に上がる道を行く。
木々越しに村を見下ろし山道を抜けると、木の密度が増していった。そしてその狭間から煌めきが見えた。湖がある。地図に目を落とす。真っ直ぐ行くと、真っ白な建物が見えた。屋根は丸く、ありがちな建物と四阿(ガゼボ)が合体したような外観をしていた。
店前の看板には白墨で店名が記されている。湖畔(レイクサイド)パラキナ。
扉を叩く。だがここは店だった。ニナは中へ入った。
「いらっしゃっせー」
手拭いを頭に巻いた若い男が振り向いた。年の頃はそう変わらないようだ。黒の短髪が頭の小ささを際立たせる。背が高く、豊富な筋肉は見て取れたが、線の細い感じがある。
「1名様ですか」
「あっ、あの……貼紙を見て……」
「ああ。給仕係の? やる?」
日の光を弾き返しそうな瑞々しい笑みを向けられ、ニナはたじろいだ。
「あ、は、はい……ここで働きたいです」
「じゃあ決まりだ。ちょっと待ってて。お客様さんに料理届けてから」
出入り口で待っていると、彼はすぐに来た。
「一応、面接しようか。そこの席が空いてるから」
若者は目元を細めた。四阿(ガゼボ)と合体したような多角形の部屋は大きな窓が並び、多くの陽光を採り込んで彼の瞳を焦げ茶色に透かした。
ニナは目を側める。
席に促され、彼女は腰を下ろす。
「緊張してるの?」
客が何組かいた。談話しながら突匙(フォーク)で赤い具の絡まった麺を巻いている。女性が多いように見えた。
「少しだけ……」
「そっか。えーっと、ラバンドラさん?」
卓に置いた貼紙を、若者は手に取った。
「おれは店長のメラン。親父から店を受け継いで、もう2年くらいかな。ラバンドラさんには給仕を……お客様の案内とか、作業補助をお願いしようと思ってるんだけど……」
「はい。何でもします」
「いいね。賄いも出るから。それで、どれくらい入れる? 扶養家族は……いないんだね」
「はい。いつでも入れますし、何時間でも働けます」
しかし彼女は言ってしまってから不安になった。今の住まいはここから近いものの、周りに人気(ひとけ)はなく、孤立し、十数年前には野盗が襲撃したようなところだ。夜道が怖い。
「どうした?」
若き店長メランは快活げな眉を歪ませた。
ニナは住まいのことを打ち明ける。
「っへー! あそこ住んでるんだ?」
「それで、夜道は少し怖いので、いつでも働けるんですけれど、少し明るいうちに帰れたらと……」
「うん。分かった、分かった。それでいいよ。確かにあそこは男でも怖いからな」
メランは室内を見回した。そして椅子から腰を浮かすと、音もなく手を打ち鳴らす。
店の奥から店員が料理を持ってくる。ニナの前に魚介類の麦筆(ペンネ)が置かれる。
「わたし、お客さんではありません……」
「ああ、いいの、いいの。とりあえず、まずはうちの料理の味を知ってもらいたいと思って」
にんにくの香りが辺りを漂う。
「この人は今日で辞めちゃうから、ラバンドラさんとは入れ替わり」
料理を持ってきた店員はニナに笑いかけ、厨房へ帰っていった。
「さ、食べて食べて。口に合えばいいけどな」
メランは卓の上の水差しを傾け、水を配る。
「いただきます」
麦筆に赤みを纏わせ、口に運ぶ。まず、酸味が耳の下を痺れさせる。旨味が口に広がり、温かさが全身に広がっていく。身体中を巡った熱が目元から滲み出る。
「……不味かった?」
若き店長の顔は訝(いぶか)っていた。
「え……?」
「涙出てる。口に合わなかったかな。ごめんな」
「違います! 美味しくて……こんな美味しいもの、久しぶりに食べたものですから……」
温度のあるものは長らく口にしていなかった。小麦麭(パン)は食べていたが、買ったまま、それだけを食べていた。腹を満たせればよかった。生まれ育った屋敷の食事は、季節のものを使い、栄養や彩りを考えられていた。しかし今や、いかに吝嗇(りんしょく)しながらも腹を満たしていくかを考えなければならなかった。
「扶養家族はいないみたいだけど……あそこに住んでるってことは帰る家はあるんだろ? 家族は?」
ニナは若き店長の麗らかな目から逃れた。
「……死にました」
生きている。だがもう会えない。しかし生きている。父母を死んだことにするのは躊躇われた。けれども、もう会えない。生きていれば会える。だが、会えない。この店長は詳細を告げる関係ではない。
「……悪いこと聞いちまったな。そっか、分かった。でも、うちで働いてくれるからには困ったら相談してくれ。もう採用。合格。明日から来て」
「ありがとうございます。身を粉にして働きます」
「そんな頑張んなよ。お客様が楽しめる程度に、緩く、な」
若き店長は腰を上げた。
「とりあえず今日は、この店がどんなものか、ゆっくり食いながら見ていってくれ」
メランは厨房へ消えていった。
◇
ニナは少しずつ、家族や元婚約者について思い出すことが減っていった。他にやることがあった。覚えなければならないことも多かった。
湖畔(レイクサイド)パラキナの席の番号が頭に入っていなければならなかったし、品書きも理解しなければならなかった。しかし苦しくはなかった。むしろ彼女は楽しんでいた。自らが働いて、食べていくことの疲労を知った。
変わったのはそれだけではなかった。身分証明ができるようになったため、町の貸本屋に通うことにしたのだった。晴れた日は庭で本を読む。
まず最初に借りたのは自家菜園の本だ。メランから要らなくなった鉢植えをもらうと、さっそく本に従って、土をいじる。町で買った数種類の野菜の種を巻き、水をくれるのも日課になった。
彼女は妹のことも、元婚約者のことも、父母のことさえ忘れてしまった。ふと思い出して、涙することもなくなった。
小金瓜(トマト)の実が色付きはじめた頃、小さな訪問者があった。ニナが玄関扉を開き、鉢植えを覗くと、白い塊が見えた。陽光を浴びて、雲のような曖昧な輪郭が輝いている。
「まあ……!」
両手に収まるほどの大きさで、長い耳を生やしている。鉢植えに前足を乗せ、背伸びをして作物の葉を食(は)んでいる。
ニナは真っ白な毛並みを撫でた。汚れのない毛色といい、質の良い毛質といい、野生ではないのかもしれない。メランの店の近くに現れる猫は毛並みが乱れ、砂埃で薄汚れていた。
「逃げ出してきちゃったの?」
長い耳を撫でる。冷たさの柔らかさで指が溶けそうだ。
触られても逃げる様子がなかった。ニナは千切り乾酪のような毛尨(けむく)を胸で感じてみたくなった。抱き上げると、細長い足に赤みが差していた。毛がなく、薄桃色の肌が露出しているのみならず、皮膚が剥がれていた。
怪我をしている。
ニナはうさぎの顔を見た。紫色の瞳が虚空を捉えている。彼女は動物の目として、見たことのない色味にたじろいだ。地方が変われば、動物の特徴も変わるのだろう。
彼女はこの小動物を抱えて家に入った。
傷を洗い、乾燥した唇に使っていた白油を塗ると、布の端切れを巻いた。
籠に折り畳んだ寝具を入れ、うさぎを置いた。三角形の鼻が頻りに上下している。
ニナはうさぎを眺めた。先日、カラスを見た。窓幕に映った影が印象に残っていた。そのカラスが、うさぎを甚振ったのだろうか。否、否。黒く賢い鳥というだけで悪者にしてはいけない。
ニナはメランに相談してみることにした。
メランは紫煙を吹いた。店の裏口が、彼の束の間の休憩所らしい。湖面には映らない緑黛(りょくたい)を観賞しながら焼いた草の煙を吸っている。今日は曇天だった。彼が天気を操っているようだった。
「分かった。貼紙をしてみるよ」
ニナはメランの指先を追っていた。厨房に入ることのある爪は、些か深爪ですらあるほど切り揃えられている。
「ありがとうございます。仕事をいただけただけでもありがたいのに……」
若店主は笑みを浮かべる。
「なんの、なんの。こちとらラバンドラさんがたくさん勤務に入ってくれて感謝してるんだ。想定よりも多く。子持ちが多いからさ。なるべく家庭を大事にしてもらいたいわけよ。結局は、非正規雇用(アルバイト)だしな」
煙を吹く横顔に、ニナは目を奪われていた。曇天だというのに、眩しさを覚える。けれども目を離せない。彼はどう受け取ったのだろう。頬を染め、笑い声を作り出す。
「まぁ、あれだ。家が飲食店(こんな)だから……親父もお袋より店を優先しなきゃいけないこともあったってワケ」
短くなった紙巻きの草筒を火消しの石塔に擦り潰す。
「でもラバンドラさんもうさぎの世話があるなら、無理なく、な。うちは勤務時間自由が売りだから」
「ありがとうございます。店長は恩人です……」
「はっはっは……大袈裟。それはお互い様だろ。昼飯入ろうぜ」
ニナは若店主を追う。
日が暮れる頃に雨が降った。店内にいても、忙しない雨音が聞こえる。大窓から見た湖面は無数の蜘蛛の巣が蠢いている。卓を拭くニナの手が止まった。
まだ閉店時間までは少しある。客も遅れた昼食か、或いは早すぎる夕食を摂っている。今日は夜まで勤務を入れた。
山の奥が光る。湖面も照った。曇った轟音が聞こえる。そのうち湖を跨り、この店の真上へやって来るのだろう。
「家心配なら、早上がりする?」
外に気を取られていたニナの隣に若店主が立つ。
「い、いいえ……大丈夫です」
「この天気だとお客さんも見込めないし、来たとしてもオレたちで対応できるから。うさぎちゃん、怪我して一匹(ひとり)でいるんだろ?」
メランの手がニナから布巾を奪う。
「でも……」
「たぶんこの後、もっと降る。傘があるから使って。また今度返してくれればいいから。どうせオレは仕込みで寝泊まりよ」
彼は笑うと目が消える。白い歯が輝き、幼くなる。この天気が一変しそうだ。けれども窓の外は大雨が降り続いている。
「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて……ごめんなさい、夜まで働くって言ったのに……」
「仕方ない、仕方ない、気にすんな。気を付けて帰れよ」
ニナは帰り支度をした。傘を借り、店を出ようとしたときに呼び止められる。若店主が紙袋を抱えて飛んでくる。
「これ、にんじんパン。試作したから晩飯に、な」
渡された紙袋はまだ温かかった。大雨で気温が下がり、寒さを覚えていたニナの肌に染み渡る。
「何から何まですみません……」
「いいの、いいの。明日も大雨なら、無理なくな。山道だし」
ニナは頷き、店を出た。傘を差しても、靴や靴下は無事ではなかった。足を泥だらけにして帰宅する。濡れた服を脱ぎ、着替えもせず、うさぎの元に向かった。
うさぎは籠の中にいた。三角形の鼻が頻りに上下している。餌として置いた二十日大根(ラディッシュ)の葉に食べた跡がある。
「ちょっと寒かったわね」
紫色の目はどこを見ているのか分からなかった。
厚手の布に包み、抱き寄せる。重みと身動きに生命を感じる。
「ふわもこちゃん」
頬を擦り寄せ、柔らかな毛を愉しむ。
「飼い主さん、見つかるといいね」
外が閃いた。家の中に濃い影が浮かび上がった。一瞬、豪雨がやんだような気がした。けれどもその静寂に気付くよりも先に、耳を壊すような音が鳴り響く。
2
寝息をたてるニナを見下ろす人影がある。暗闇のなかで光る紫色の双眸(そうぼう)が、規則正しく浮沈する身体を離さない。
◇
薄い目蓋を朝日が射した。森から小鳥の囀(さえず)りが聞こえる。ニナは腕で目元を隠す。だが眩しい。寝返りをうつ。しばらくそうしていた。けれども彼女は今日もまた"湖畔(レイクサイド)パラキナ"での勤務があることを思い出した。
飛び起きる。小さな同居人が部屋を横断している。紫色の片目と目が合うと、うさぎは立ち止まった。
「おはよう、うさちゃん」
うさぎは横断を続行する。
ニナは庭に出た。正面の森の木が疎らに折れていた。菜園の鉢植えは激しい雨によって土が掘り返されている。倒れているのもある。だが折れてはいなかった。
二十日大根(ラディッシュ)を穫り、泥を払う。水を汲み、うさぎへの備えを済ますとニナは朝食を摂って店へ向かった。
湖畔パラキナの前も荒れていた。ニナが着いたとき、メランは庭木を眺めていた。
「おはようございます、店長」
若店主が振り返る。
「ああ、おはよ、ラバンドラさん」
さすがの商売人ともいうべきか、清々しい笑みを携えている。
「昨日はありがとうございました。試作のパンまでいただいてしまって……」
「なんの、なんの。無事に帰れたならよかったよ」
ニナはこの若店主が何を見ていたのか覗いた。
「木が折れちまったんだよ。見栄えが悪いから、どうにかしないとな~」
若店主は店の周りを回った。ニナも追ってしまった。湖を囲う雑木林が遠めに見えた。
「泥濘(ぬか)んでるから、足元、気を付けてくれな」
「はい……」
白い半袖から伸びる筋肉が湖面の反射よりも輝いて見えた。
店の裏に辿り着き、湖を正面に捉える。休憩時間のように、焼き草を吸うのかと思われたが、若店主は吸わなかった。
「ラバンドラさんは、朝ごはん食べたん?」
「はい。昨日いただいた、にんじんパンを……とても美味しかったです」
若店主の作るものはどれでも美味い。温かければ温かい美味さ、冷えれば冷えた美味さがある。
「おっ、それはよかった。パン祭りに出そうかな……って思ってたんだわ」
湖畔パラキナには"パン祭り"と呼ばれる、定期的に麺麭(パン)の食べ放題になる日がある。そのたびにこの若店主は、新商品を開発するらしい。
「店長は、朝ごはんは……」
訊かずとも答えは知っている。
「食べてないよ。味見という名の朝ごはん、食べちゃおうかな」
若店主が裏口から店に入ろうとした。ニナも追う。だが足元の土は多量の水を吸い、彼女の体重に耐えられなかった。
膝が安定せず、上半身が均衡を崩す。しかし下半身は間に合わない。
「あ」
裏戸の把手を握っていた若店主がニナを顧(かえり)みる。そして目を剥くと、傾いたニナの身体を支えた。
昨日は大雨で寒かったというのに、メランの体温は熱かった。にんにくや香草の匂いがニナの鼻を通り抜けた。朝から仕事をしていたのだろう。
時が止まった。ニナは強張っていた。心臓の鼓動が口蓋垂にまで届いている。おそるおそる、メランを見上げた。澄んだ眸子(ぼうし)が待ち構えていた。
ニナは跳び上がった。しかし毎日米俵を担ぎ、生地を捏ね、大鍋を掻き混ぜる腕には敵わない。
「大丈夫?」
若店主の熱が去っていく。今日は晴れているというのに冷えて感じられた。
「だ、大丈夫です。ごめんなさい……」
ニナは若店主を視界から外した。
「足は? 痛めてない?」
「はい、はい、全然………」
「ま、地面がこんな調子だから今日はオレとラバンドラさんの2人きりかもな」
メランには世話になってばかりいる。
「わ、わたし、頑張ります!」
店に貼紙をして数日。荏苒(じんぜん)としてうさぎの飼い主は見つからない。そのうちに紫色のうさぎの頭には角が生えた。背中には翼が生えてきた。ニナの知るうさぎではなかったが、土地が変われば生態も変わるのだろう。湖畔パラキナの若店主も、素材の産地にはこだわっていると語っていた。野菜や果物、魚介類も産地が変われば味が異なるように、おそらく、うさぎもそうなのだ。ラムイエ領のうさぎには、角も翼も生えないだけなのだ。
メランにその発見を話すと、彼は笑っていた。
「アランチア州のうさぎだって角は生えないけど……」
ニナは湖面を臨む若店主の背中を見ていた。1羽のカラスが若店主の後ろに降り立ち、てってと辺りを練り歩く。賄いの匂いに引き寄せられたのだろう。店の裏戸の傍に積まれた箱に飛び乗る。
ニナは異様なうさぎを思い浮かべながら、黒鳥を凝らした。踏み台にされた箱にはラムイエ領産と記してある。玉菜(キャベツ)が入っていたようだ。
「実はすごい珍しい生き物だったりしてな」
「でも、どこからどう見てもうさぎだったんです。本当なんです」
ニナの脳裏に忘れかけていた光景が甦る。日々の穏やかな忙しさに埋もれていた故郷のことが思い出される。
「別に嘘だとは思ってねぇって。まぁ、真剣に答えるなら病気かもな。畜産農家の知り合いから聞いたことがある。翼はないけど角のほうは。感染症でイボができて、角みたいに見えることがあるって。町に獣医さんがいるから紹介するよ」
ニナが見たうさぎの角は、腫瘍の類いには見えなかった。生まれ育った家に飾ってあった鹿の剥製と同じ物が生えていた。けれども、うさぎに鹿の角が生えるものか。鳩のような翼が生えるものか。異常な容態なのだ。
「お願いします」
彼女は小さな同居人の今後のことを思うと胸が痞(つか)えた。まだ現れない本来の飼い主のことさえ、頭から吹き飛んでいた。
「まずはラバンドラさんが元気にならないと」
若店主は湖から踵を返し、店内に戻った。ニナは箱の上のカラスに目を留める。日の光が射し、純黒の羽毛が虹色を帯びて見えた。
彼女も店に戻ると、メランが厨房で従業員たちの食事を作っていた。この若店主の作る賄い料理は何よりも美味い。
厨房の片隅でニナは白出汁と野菜を混ぜた麦紐麺(スパゲッティ)を前に、水で空腹をごまかす店主を見ていた。味の感覚が鈍ると言って、彼は夜と味見でしか食事を摂らない。
揺れ動く首玉に気を取られ、尖匙(フォーク)が止まる。匂いといい、見た目といい、調理者といい、不味いはずはなかった。食が進まないのではない。空腹を感じている。食欲はある。ただ、欲求が身体から離れていく。
「食欲ない?」
水を呷った若店主が首を傾げる。
「い、いいえ! いいえ……! いただきます」
尖匙に麺を絡める。口に入れると、玉菜の甘みが口内に染み渡る。身体が異物だと認識しない。元から身体の一部だったかのように吸収していく。作り手に感想を告げるべきだ。しかし手を止めたくない。
「珈琲飲むか、珈琲」
頷く間もなく、若店主は道具を集めた。彼が珈琲豆を計っているとき、店内の扉の鈴が鳴った。
「マジかよ」
若店主はうんざりしたような声を漏らす。店前に「休憩中」という看板を出しているはずだ。入店を阻むかのように立てている。見落とすはずはない。
「わたし、出ましょうか」
若店主の美味しい賄い料理から離れなければならないことは惜しい。けれどもこの店主に恥をかかすことに比べたら些末なことだ。
「いや、いいよ。強行突破ってことは、多分変なお客さんだろうし」
珈琲豆の袋を開いたまま、彼は客間へ出ていった。ニナは袋を閉じ、客の姿を覗く。厨房を正面に捉える席に座っていた。曇天のような色の長い髪が見えた。俯きがちで、顔は隠れている。身長の高い女性にも見えたが、小柄な男性にも見えた。
『えーっと、お客様、今は従業員皆、出払っておりまして、調理、配膳をする者がおりません』
今日は特に、もう2人勤務に入るはずだったが、1人は子供の看病、1人は体調不良で休みになった。
『ですのでもう少ししてのご来店をお願いしております』
若店主は毅然としていた。客相手に阿(おもね) りもせず、営業再開の時間を告げている。
『奥に1人、いらっしゃいますね』
客の声が聞こえた。落ち着いた語気で、高めの男声とも、低めの女声とも受け取れる。
『はあ、おりますが……休憩中です。皆様に美味しいお食事を届けるためには休憩が必要なので……誠に勝手ですが、営業再開時間にまたご来店ください』
しかし客は立とうとしない。
『お客様。率直に申し上げますと、今はお引き取りくださいませ。営業再開時間をもう一度お伝えします』
若店主の平生(へいぜい)の気軽さはどこへ行ったのやら、彼の音吐(おんと)は険しい。
『少しお話があります』
『店長の私メランザーネ・アオベルギーネが承(うけたまわ)ります』
客が顔を上げた。そして食器の返却棚の隙間からニナを捉えた。紫色の瞳が雷光のように輝き、陽炎(かぎろ)う。
返却棚が邪魔をして、よく見えないはずだった。けれども的確に異様な客を認めることができる。輪郭は克明で、その眼差しに射抜かれていることも分かる。
紫色の双眸がニナを凝らしている。
しかしメランの後姿が割って入った。
『僕はローゼン第一王子の側近アズール・アメジスティスと申します。ご相談というのはアオベルギーネ店長にではなく、奥の方にあります』
ニナを身を竦めた。身に覚えのない人物だ。それも今、あの客は「第一王子」と口にしなかったか。
スリヴォヴィッツ家だ。ラムイエ領の貴族だ。元婚約者との婚礼の日に、家名と顔に汚泥を塗りたくり、油泥で固め、屁泥(へどろ)の沼に蹴り落としたスリヴォヴィッツ家が、何らかの理由で王家に陳情したのだろう。そしてそれはニナにとって、ラバンドラ家にとって、色好いものではない。
『ですから、こちらの店にお越しくださった以上は、私が承ります』
『ローゼン第一王子の関わることです。部外の方にお話しすることはできません』
『それならばお引き取りを。王子でも賤民でも魔族でも、うちは開店時間中にお越しになった料理を出すのが仕事なのでね』
ニナは頭を抱えた。王家に逆らうということは、この店も潰れてしまうかもしれない。スリヴォヴィッツ家はラバンドラ家を赦さなかったのだ。それか或いは、罪人を処さない限り、赦されないのだ。罪人を匿うこの店にまで罪が及ぶ。しかし無辜の若店主は何も知らないのだ。言わなかった!
ニナは目を回した。手前可愛さに若店主に何も言わなかった。
彼女は裏口を睨んだ。そして駆け出した。空の銀鉢(ボウル)を落とし、故意的に開閉の音を立てた。外へ逃げ出した。
メランは何も知らない。その店長は無罪なのである。咎人がただ身を潜めていただけなのだ。
ニナは走った。山道を駆け下りる。ふとうさぎのことを思い出していた。家屋に閉じ込めておくことはできない。しかし野に放っても、あのうさぎは病んでいる。置いていけない。
住処に寄った。扉を開け放つ。室内を見渡す。
「ふわもこちゃん……」
うさぎがいない。寝床にも床にも、物陰にもいない。
扉も窓も閉まっていた。しかし白い影は見当たらない。
途方に暮れていた。うさぎがいない。うさぎは消えた。どこかへ逃げた。逃げたということは、この家が嫌になったのだ。
ニナは床に座り込んだ。足が痛む。膝が疼く。横腹が痛み、呼吸が乱れる。
うさぎはいない。湖畔パラキナではもう働けない。
うさぎに嫌われ、人の好い店主を巻き込み、元婚約者の家に憎まれ、王家に探されている……
彼女は自分が何故、逃げているのか分からなくなった。うさぎは何らかの方法で家出してしまった。働き口は自ら手放した。スリヴォヴィッツ家がラバンドラ家の長女を処して気が済むのならば、また流離(さすら)うこともよりも利があるのではないか。
ニナは膝に手を置き、立ち上がる。やるべきことは逃走ではない。釈明だ。湖畔パラキナとその店主は巻き込まれただけなのだ。ラバンドラ家とは関係ない。そして謝罪だ。若店主を騙していた。欺(あざむ)いていた。恩人に嘘を吐いていたのだ。それだけで断頭台に登るだけの理由がある。
ニナは家を出た。足が重い。視界が滲む。湖畔パラキナでの勤務は楽しかった。賄い料理は美味かった。メラン店長は優しかった。だが裏切っていた。最初から裏切っていたのだ。最初から裏切るつもりだったのだ。そうでないなら何故、騙していたのか。断頭台に駆け上って詫びる事態だ。
腹に収めたメランの料理が砂に変わっていく。
山道を登る。見納めの通勤路だ。この道に咲く釣鐘水仙を眺めて歩くのが好きだった。
「ラバンドラさん?」
店主の声がした。顔を上げると、メランが立っている。
「店長、ごめんなさい」
陽光のような顔立ちが、スリヴォヴィッツ家の嫡男のように凍てつくのだろう。先程の王家の遣いに対して放たれたものより鋭く冷たい語気を向けられるのだろう。
「急に飛び出すからびっくりしたぞ。何、さっきの人、知り合いだった?」
メランは肩で息をしていた。
「わたし、店長を騙していたんです! あの人は、きっとわたしを追ってきたんです! わたしは――」
彼女は己の素性を明かさなければならなかった。ラムイエ領の貴族スリヴォヴィッツ家の嫡男が元婚約者であり、現在は恨まれていること、そのためにラバンドラ家とは勘当したこと。身寄りがないというのは嘘だということ。
「騙すつもりは……」
だが結果として騙している。結果的に巻き込んでいる。迷惑をかけている。一個人の胸中は関係ない。
「ごめんなさい……」
訳を話した。その最中、メランは飄々とした面持ちで宙を見ていた。話を聞いているのか、いないのか、定かではない。流れていく雲を観賞しているようだった。
「まぁ、事情は分かった。で、オレが訊きたいのはそこではなく……ラバンドラさんはまだうちで働く気あるの、ないの。そこなんよ」
「辞めなきゃ、いけないと思ってて……」
「なんで?」
「王家の方が来ているのに、」
「王家、王家ってあの人、客じゃなかったじゃん。せめて開店時間に来て、一品頼んでから言うべきだったな」
メランは踵を返す。
「退職届書かないとうちは辞めさせねぇぞ。税金関係がマジでダルいんだからな。ああ、王家ならそれ言っとけば良かった。もっと税金面簡単にしてくれってな」
後頭部に両手を当てて、若店主は歩き出す。
「店長さん! わたしはまだ働きたいです」
「じゃあ店のやることはひとつ。従業員を守る、だ。戻るぞ、」
店に戻ると、出入口の前に置いた看板にカラスが留まっていた。陽光が円(つぶ)らな目に差し込み、紫色に照る。先程来た異様な客と同じ輝きだった。
ニナがたじろいでいると、メランが追い払う。カラスは羽撃(はばた)き、離れたところに着地する。
「カラス、よく来るんですか」
「珍しいお客さんだよ」
表から店内に入る。すでに人影はなかった。王家の遣いは帰ったようだ。しかし今日帰ったところで、また来るのだろう。
「店長」
「ラバンドラさんは、まだ休憩時間」
「店長、わたしはここで働きたいです。それは本当です。ただ、王家の遣いということは、ずっと隠れて、逃げ続けるわけにはいかないと思います……そのときは……」
「そのときは、何度でも追い返してやる」
「相手は、王家の遣いです……」
「王家の遣いなら、尚更、予約も無しに来るなって話だ。平民の営み、生業(なりわい)を侮るなという話になる。だからラバンドラさんは、安心して働いてくれたまえ」
王家に逆らえば、この店は無事では済まないだろう。
「ラバンドラさん」
若店主は表情を緩めた。そしてニナの肩を叩く。
「昔、親父が城に召されたことがあんだけど……一人じゃ来ない。まず、手紙が来る。それで必ず、お付きの人と兵隊さんが一緒だ。騎士団長とまでは言わないが、鎧がピッカピカのが2人くらい。王家ってのはそういうもんだ」
ニナはメランを見上げた。だが顔を上げきれなかった。上目遣いになる。
「では、先程の方は……」
「気が変になったのかもしれない。ここはそう高い山じゃねぇけど、山は山だ。山の怪(け)に中(あ)てられちゃったのかもな」
「ど、どういう……ことですか……」
「ははは。山は気が狂いやすいってことさ」
「え」
「ラバンドラさんのところは大丈夫だと思うけど」
寝息をたてるニナを見下ろす人影がある。暗闇のなかで光る紫色の双眸(そうぼう)が、規則正しく浮沈する身体を離さない。
掛布に包まっているニナに手を翳す。掌が光った。
ニナは眩しさのために目蓋を震わせる。固く目を閉じても、薄い皮膚を通した眩しさからは逃れられなかった。とうとう目蓋が持ち上がる。
覚えのない明かりに、彼女はまず息を呑んだ。そして身を竦めた。明かりに顔が映る。ニナは悲鳴を上げたが、喉は強張り、声は出ない。身体は跳び上がり、寝台の端に縮んだ。
「はっ………! は……、っ、は………っ、」
「おはようございます」
男とも女とも判じられない声は落ち着いていた。光源の不明な明かりが、これまた男か女か判じられない顔貌が浮き上がらせる。深く被った外套から紫色の眸子(ぼうし)がニナを真っ直ぐに捉えている。
「だ………だ、誰…………ですか………」
ニナは訊ねたのではなかった。独り言(ご)ちていた。
「僕はローゼン第一王子の側近アズール・アメジスティスと申します」
唇と唇の狭間から漏れた誰何(すいか)に、相手は答えた。淡々としていた。まったくニナの様子を気に留める様子もない。
ニナは返ってきた名前に覚えがあった。店にやってきた迷惑な人物だった。若店主曰く客ですらなかった。そして彼曰く、山に中(あ)てられた神懸りの人物だった。
店に潜み、尾けられていたに違いない。
ニナは動けなかった。ただ若店主を呼んだ。けれども喉は固まり、声は出ない。荒い息遣いが耳障りだった。
この家の元の持主は、野盗に惨殺された。歴史は繰り返す。今度は神懸りの人物が惨事を起こすのだ。
「ご相談があります」
ニナは首を振った。アズールと名乗る侵入者の言葉は言語ではなく音としてしか入ってこなかった。
「王家に関わる極めて重大なご相談です」
自身を王家の関係者だと思い込んでいる狂人は、ニナが誰に怯えているのかも分かっていない様子だ。掌の明かりごと、ニナに近寄る。
「いや………いや………、」
ニナは逃げたかった。けれども下肢に力が入らなかった。さらに寝台の縁と壁が、彼女の後退を妨げる。
「僕は貴方を害するつもりはありません」
しかしその語気と眼差しに、他者に寄り添い、宥める意思は見当たらない。
「王家に関わる極めて重大なご相談があります」
ニナは歯を鳴らした。
縮こまるニナを映した二つの紫鏡が細まる。彼女に伸ばされた掌の光が、色味を変えた。輝きを帯びた粒子の蠢き方も変わる。アズールと名乗る侵入者は、彼女に光を翳した。たちどころに、彼女の目蓋が降りていく。恐れ慄く眼は揺蕩い、軈(やが)て目蓋が落ちきった。硬直した下肢が、買って間もない敷妙(シーツ)の上を滑る。
ニナは青々とした芝生の上に立っていた。周りは木々に囲まれているが、崖の上のようで、点綴(てんてい)と白い鱗を浮かべた海が見える。空と競い合っている。
この場所を知っていた。
白い鳩の群れが飛び立ち、鐘が鳴り響くはずだった。そしてそこには聖堂があったはずだ。半球形の屋根が特徴的な建物があるはずだった。だがなかった。青々とした芝生が広がり続け、潮騒に似た風が髪を撫でていくばかりだった。
そこは結婚式を挙げたところだった。正確には、挙げかけたところだった。だが形ばかりはやり遂げ、しかし失敗に終わった結婚式場だった。けれども聖堂だけがなかった。否、参列者がいなかった。司祭も、新郎もいない。誰もいない。芝生と、照り輝く海があるだけだった。
ニナは茫乎として海と空の境界を凝らしていた。すると真後ろから足音が聞こえる。
振り向いた。メランが立っている。しかし一目見て、メランではないような気もした。ニナのよく知る彼は、目が合ったとき、笑みをくれる。眩しい歯を見せ、眩しい目を眇める。そしてその笑みにニナは眩耀(げんよう)を覚えるのだった。だが、それがない。
「ご相談があります」
声がメランではなかった。男とも女とも判じられない声と、彼とは大きく異なる話し方が、ニナを気持ち悪くさせた。着ているものすべてを脱ぎ去り、どこかへ駆け抜けていきたくなる不快感を齎(もたら)した。
「店長じゃ………ない…………」
「ご相談があります。王家にまつわる極めて重大なご相談です」
ニナは後退る。だがメランは、一歩、一歩、躙(にじ)り寄る。
「店長……」
メランは棒立ちになった。活気に満ち満ちた目は空洞のようで、溌剌とした口元は引き結ばれている。
異様な挙動、異様な雰囲気に、ニナは肝を潰す。後退を止め、口元を押さえた。場所もメランもおかしい。
「お名前を教えてくださいませ」
メランはただ口をぱくつかせた。人形劇の人形のようだった。
ニナは答えられなかった。それはメランではなかった。
「お名前を教えてくださいませ。王家にまつわるご相談があります。ですが非常に重大な機密を含みます。そのため、契約を結びたいのです」
これは悪夢だ。これは悪夢だったのだ。そうでなければ二度と戻ることのできない故郷の地を、何故踏み締めていられるのだろう。
3
鳥の囀りで目が覚めた。見慣れた天井がある。間近で聞こえた物音にニナは跳び上がったが、小さな毛尨(けむく)の同居者だった。床を跳ねている。
ニナの身体から力が抜ける。安堵によって余計に疲れた。昨晩、夜更けに見たものは悪夢だったようだ。立て続けにみた厭な夢が、肩凝りとなって現れる。
白い毛並みを撫で回していると、あったはずの角と翼が消えていた。何度も撫で、触って確かめる。ない。うさぎは鼻を上下させ、嫌がりもしない。紫色の目は何を見ているのかも分からないまま、されるがままだった。角と翼は、メランの言っていたとおり、そう見えただけの別物だったようだ。
朝支度を終え、うさぎに葉をやると、"湖畔(レイクサイド)パラキナ"に向かった。
裏口から入ると、仕込みを終えた若店主が笑みを向ける。
「おはようございます」
「おっす。今日もよろしく!」
ニナの知るメランだった。夢の中に現れたメランとは姿こそ同じだが、声も表情の使い方もまったく違う。
快活な若店主の姿によって、厭な夢が吹き飛んでいく。
他の従業員に挨拶に回る。
湖畔パラキナは今日も繁盛していた。最も客の多くなる時間帯が過ぎると、ニナは休憩に入った。彼女は湖を眺めるのが好きだった。
遅れてメランも休憩に入ったようだ。店裏に出てくると、湖面を望み、草筒に火を点けた。その姿が、夢と重なった。
「昨晩……店長の夢を見ました」
メランが振り返る。
「えぇ?」
草筒の苦い匂いが彼の頬を引き攣らせたのだろうか。笑みにも見紛う。
「ラバンドラさん、オレの夢見たの?」
「はい……でも……店長の姿をしていたのに、店長ではありませんでした」
メランは湖に鼻先を戻し、紫煙を燻(くゆ)らせる。彼の息吹が見える。
「オレの姿をしていたのに? じゃあ、どうしてオレじゃないと思ったの」
若店主の長く太い指が唇筒を摘み、口元に近付けている。腕にしろ、背中にしろ、荒削りな曲線は、ニナが今まで見たことのあるどの彫刻よりも粗雑でありながら、目で追わずにいられなかった。おそらく一流の彫刻家ならばその肉感、骨格を再現できるのだろう。けれども生身の彼でしか放つことのできない生命の熱気と澎湃(ほうはい)ばかりは、石に顕すことはできないだろう。
「まず、声が違いました」
「ほぉ」
「それから……店長さんの表情も」
「オレの表情?」
メランは天に向かって紫煙を吐く。厚みのある胸板は力強い息を放つことができるようだ。麦袋を担ぎ上げる肩と、小麦粉と水を掻き回し、練り合わせ、捏ね回す腕を操る肉体なのだ。息吹もまた、活力が漲(みなぎ)っている。
「店長の笑顔に、わたしはいつも、落ち着くんです」
彼はニナを顧みて、乾いた笑みを見せた。
「ラバンドラさん……オレも、ラバンドラさんの夢を見たよ」
「え」
何かしらの作為さえ疑いたくなる偶然だ。だが夢に作為があるはずはない。互いに、互いの夢を見た。ニナは俯いてしまった。
「でもラバンドラさんじゃなかった。ラバンドラさんの声じゃなかったし、何より……オレに都合の良すぎる夢だった」
「都合が良すぎる、とは……?」
「だから、ラバンドラさんの姿をしていたのに……ラバンドラさんはオレに言わないようなことを言った。そういう夢。詳しくは話せない。それはその、オレとラバンドラさんは雇用者と被雇用者。力関係がある。ただ……あんまり無邪気だと、危ねぇぞ。勘違いする輩も、いるからさ……」
彼は草筒の火を火消しの石に押し付ける。煙が途切れる。
夢の話は、彼にとって喜ばしくない話だったようだ。天候の話よりも身のない話だったようだ。それもそうだ。朝早くから仕事をこなし、貴重な休憩時間を従業員の無駄話に費やしている。
「ごめんなさい……」
「怒ったわけじゃない。むしろ嬉しかった。んじゃ、賄い作ってくるから待っといて」
若店主は一度もニナを見ず、店内に戻っていく。
裏口の戸の把手を握る手が消えるまで、その指先を見詰めていた。
「お名前は"ラバンドラさん"で合っていますか」
ニナは身を固くした。背後から、男とも女とも判じられない声がした。昨晩も聞いた。
「僕はローゼン第一王子の側近アズール・アメジスティスと申します」
態度こそ淡々としているが、メラン曰く、山に中(あ)てられた神懸りの人物だ。そこに合理性や秩序はない。
「ラバンドラさん、お名前に間違いがなければ、貴方にご相談があります。王家にまつわる極めて重大なご相談です。しかし同時に極秘でもあるのです。そのため――」
ニナはおそるおそる、振り向いた。首が軋るほど慎重に、アズールと名乗る神懸りの人物を捉える。
「――契約を結んでいただきたいのです。その前にひとつご確認なのですが、ラバンドラさんはアオベルギーネ店長と交際関係にあるのですか」
ニナは顔を戻した。家の中を踏み荒らされているようだ。昨晩、夢の中とはいえ、このアズールとかいう神懸りの人物に家に侵入されたのだ。
「ここは関係者以外、立ち入り禁止ですから……」
ニナは身体ごと振り向くと、問いには答えず、違うことを言った。声は震えていた。
「承知しました。では場所を移しましょう。どちらならばよろしいでしょうか」
明るいなか、真正面から捉えた神懸りの人物は、小綺麗な身形をしていた。ニナと大差のない小柄な体格の割りに大振りな外套こそ薄汚れていたが、銀髪とも白髪ともいえない曇り空のような髪は櫛を通したばかりのような清流を描き、肌は白く、焼く前の麺麭(パン)の生地のようだった。気が狂っていなければ却(かえ)って崩れてしまいそうなほどの端正な顔立ちがそこにある。だが、人好きはしないのだろう。石のような美しさだった。まるで彫刻に色を塗り、人のように動かしているような美しさだった。
「今は、仕事中なので……」
「承知しました。また伺います」
ニナはアズールの首元に小さな隆起を見た。男性だった。少年だった。年の頃はニナの妹と同じか、それより幼く見えた。声が高いのにも納得がいった。彼は若くして気が狂ったのだ。けれども髪や肌からして、野放しにされているわけではないようだ。
彼は外套の頭巾を被ると蛞蝓のような歩みで表へ回っていく。
ニナは気味が悪くなった。店の中へと入る。
若店主が麦筆(ペンネ)を茹でている。
雨が降りはじめた。多角形に窓を嵌め殺した席から望む湖は、白く躍っている。
茶をしていた女性客たちが帰り支度をはじめた。客は他にいなかったため、メランもこの女性客たちと席を共にして雑談を交わしていた。中年女性の団体客に、彼はよく可愛がられた。娘や姪などを紹介し、結婚を勧めている。
ニナは裏で間食として与えられた焼き菓子を食らいながら、帰り際の談笑を聞いていた。若店主は今現在、交際や結婚には興味がないらしい。店の存続で精一杯だと語って笑っている。
若店主が客たちの帰りを見送り、閉扉(へいひ)の鈴の音が店内に響いた。
雨脚が強まっていく。湖面がさらに白く躍る。
メランが厨房に戻ってきた。ニナと視線を合わせるやいなや、外方を向いた。
「あ……ど、どう? 新しいケーキの味は……」
紙製の器に入った焼き菓子は焼き色がつき、甘い香りを放っている。
「美味しいです。紅茶とよく合います」
「それはよかった。へへへ」
メランはニナの対面に椅子を引いて腰を下ろしたが、身体を違うほうを向いていた。
「結構、縁談が舞い込んでくるんですか」
女性客たちはいかにこの若い店主を身内に引き入れるかで盛り上がっていた。彼が娘や姪、或いは妹の夫になれば、彼女たちは安心だろう。
「いや、あれは……言葉の綾だろ。本気じゃない。誂(からか)われてんだ」
「そうなんですか?」
「上手く遇(あしら)えりゃァな……」
「あのお客様たちが店長のこと、身内の方に勧めたい気持ち、分かりますけれどね」
若店主はニナを見た。ニナも若店主を見た。だが、若店主のほうが顔を背ける。
「それは………どういうこと………」
彼は肩に掛けた手拭いで首元を拭いた。
「頼もしくて、優しくて、仕事熱心で……」
「褒めすぎ。オレはそんなんじゃないよ。結婚生活、一回失敗してるしな」
ニナは若店主を見た。若店主もニナを見た。だが彼はまた目を逸らす。
「ご結婚なさっていたんですか」
「前に、な。別れちまった。別れちまったというか……ま、別れた」
「そうだったんですね。先程も申し上げたとおり、やっぱり店長は頼もしい方なので、納得もあるのですけれど、同時に少し意外でした」
「それはオレを買い被りすぎ。でも意外って? 経営一辺倒だと思った?」
彼の口元は自嘲気味だった。
「……実のところは」
「まぁ、間違いないね。相手は同い年の幼馴染の女の子でさ、ここで働いてたの。菓子担当だったわけよ」
若店主は完全にニナに背を向けた。草筒を摘み、火を点ける。窓辺に移動し、吸った。
「でも、王都に出店誘致されて、オレは背中押しちまった」
ニナは若店主の項を凝らす。焼きたての麺麭(パン)のようだ。腹の奥を擽り、鼻先を包み込むような小麦の香りがしそうだった。
「けれど……夢、だったんですよね……?」
「そ。ガキの頃はどっちが先に王都に出店できるかなんて競ってた。でも、負けちまったね」
乾いた笑いは雨の前では無力だった。
「店長も、王都出店が夢なんですか」
ニナは王都に行ったことがない。絵本で見た王都は、華々しかった。話に聞く王都は、美食に溢れているそうだった。絵画に描かれた王都は、人と建物に満ちていた。
「そりゃァね。何か志すなら、行き先は王都だろ。たまたまここに立ち寄った王都の貴族に気に入られて、今じゃ彼女(あいつ)は王都で一国一城の主をやってるわけだな。追い抜かれちまったよ」
色濃い紫煙が宙に渦巻く。
「追い……抜かれた?」
「ま、菓子職人としては尊敬してたから、喜ばしいことだけどな。真っ先に、店にお邪魔してやるべきだったんだろうけど……」
若店主は草筒を口から離す。その所作をニナは追っていた。腕にところどころ浮かぶ火傷痕を眺める。
「店長は王都、行ったことあるんですか」
「まぁ、それなりに?」
「わたしは行ったこと、ないんです」
「そうか。悪いところじゃないが、ま、オレは行くたびに、ここの湖が恋しくなってとっとと帰りたくなるよ。人が多くてな。匂いも忙しない」
ニナは王都を思い描いた。
「前に、王都のお土産をいただいたんです。一目見ただけではごく普通の焼き菓子なのですけれど……わたしと王都は地続きなのだと思いました。この前、故郷で作られた玉菜(キャベツ)の箱をここで見ました」
「玉菜じゃ、ラムイエ領か」
「玉菜はすべて……そうなんですか」
「あそこのが一番美味い。気候と土かな」
捨て去らなければならない記憶と地は続いている。
「ここに来るまではよく食べていたんです。なのに、気にしたこともありませんでした」
ニナは肉巻き玉菜の汁物が好きだった。柔らかくなった外葉の解れていく食感と、鶏出汁の微かな甘味が好きだった。
「離れなきゃ、見えてこないこともあるさ。ま、それが幸せか不幸せかは分からんけど」
若店主は窓辺の桟にある器に草筒を押し潰す。
「つまらない話だよな。忘れてくれ」
彼は両肩を上下させ、腕を回す。
「あまりこういう話はしないから……嬉しかったですよ」
「オレの離婚話が?」
挑むような笑みに、ニナは怯(ひる)んだ。
「あ、いいえ! そういうわけではなくて……」
「冗談だよ。色々すっ飛ばしていきなり夫婦になっちまったから、夫婦というより……なんだろうな、共同経営者(ビジネスパートナー)って感じだった。夫らしいことは何もしてやれなかったしな。ま、互いに行く道は違ったってことだ」
ニナは俯いた。食べかけの焼き菓子に嗤われている。
彼女は元婚約者を思い浮かべた。夫婦らしいこととは何なのだろう。元婚約者との生活もまた、家名のための共同経営ではなかろうか。
「結婚とは、契約だったのかもしれませんね」
若店主の表情が消えていく。
「……訳あり、なんだっけか」
彼はニナの目の前に戻ってきた。腰を下ろし、逃げ惑っていた視線でニナを覗く。
「ですが、ここでの暮らしが忘れさせてくださいました」
焼き菓子を切り分ける。
「ここに留まってた甲斐があるよ」
雨が強まっていく。
まだ閉店時間ではなかったが、店を閉めることにした。メランは鎧戸を閉めに裏口から出て行った。ニナは表口の看板をしまいに出た。視界が吹雪いているかのように白く荒む。店を世間から覆う木々が右に左に揺らされ騒いでいる。
ニナは倒れ、水浸しになっている看板に向かった。歩くのも一苦労だった。看板を拾ったとき、視覚は敏かった。木々を堰き止めるかのごとく植わっている低木の傍に佇む人影を捉えてしまう。何故、彼女は白い針の吹き荒れる中で、真っ黒に濡れた外套を見つけてしまったのか。そこにはアズールと名乗っていた奇人がいたのだ。紫色の双眸が真っ直ぐにニナを射している。
ニナは看板を持ったまま硬直した。やはり神懸っていた。その奇人は強雨に殴られても、まったく構う様子がなく、彫像よろしく立ってる。
店の出入り口を挟んだ片側の鎧戸を閉め終え、若店主がやって来た。ニナに気付いたようだった。
「どうした?」
互いに濡れ濡(そぼ)ち、服も髪も色を変えて肌に張り付いていた。
「あの人……」
ニナは生きる彫像を目で差す。若店主も気付いたようだった。
「ラバンドラさん、中、入ってな」
若店主が看板を奪い取る。
「乾布(タオル)の場所、分かるよね」
ニナは頷いた。
「ちょっとあの人と、話すから」
「ですが、店長……」
若店主は額に張り付いた髪を掻き上げる。
「いいから、中、入ってろ」
「は、はい……」
ニナは店の軒下に入り、メランを振り返った。彼は奇人と話していた。彼に気付かれる前に店に入る。
店の裏から乾布を取りに行き、身体を拭いた。店に宿泊した日に使っているのだろう。よく洗われ、軟らかい。石鹸の匂いに混じり、店裏の匂いがした。それは若店主の生活が織り成す匂いだった。微かな草筒の紫煙の苦味も残っている気がした。
雨水を吸い取り、徐々に変容していく。雨の匂いに染まってしまう。繊維に染みついた若い店主の匂いを吸った。身体は四方八方、十六方から濡らされていたが、胸が微熱を生む。毛尨の同居者以外から感じる久々の心地良さだった。
入店の鈴が鳴る。メランが戻ってきたようだった。もう1枚、乾布を畳んで客間に出る。2人いた。外套を脱いだ奇人について、一瞬ニナにはそれが誰だか分からなかった。紫色の瞳を見るまで、貴族が来たものかと見間違えた。老いたカラスのような外套の下には、深緑の天鵞絨(びろうど)が隠されていた。店内の明かりでも、上等な生地であることが分かった。金色の釦と刺繍の金糸が光芒を放っている。神懸りの少年の生まれはたいへん裕福なようだ。ラムイエ領の上流貴族の礼服よりも上等だった。
内なる奇形を抱えた少年が、自身を王家の関係者と思い込むのも無理はない。
「ラバンドラさんは、奥にいて」
「あ……でも、タオルを……」
メランは手を伸ばした。おそるおそる近付き、乾布を渡す。紫色の眼差しは容赦がなかった。
「ありがとう」
彼は乾布を受け取るやいなや、少年に渡してしまった。
「オレの着替えで良かったら、着替えて」
若店主の胸と腹の筋肉の凹凸が白い服から透けていた。健やかな質量感が惜しげもなく曝されている。ニナは首から掛けた手拭いで、隠さなければならない気になった。
「御二方は交際しているのですか」
気の狂っている少年が口を挟む。好奇の色はなかった。好奇の色がないからこそ、不気味だった。興味ではない。それは調査だ。
「ラバンドラさん……気にしないで。警吏団が来るまで、ここに居させるだけ……」
「何故、警吏団を呼ぶのですか」
「君は病んでいる」
若店主はしかつめらしい顔をしていた。そして一際低い音吐で以って、断言した。
「病んでいません」
「名前と身元を教えて」
若店主はうんざりした顔をしていた。そして客間のちょうど真ん中の卓に案内し、椅子を引いた。
「アズール・アメジスティスと申します。シルエーラ王国アランチア州シルエーラ都第1区1丁目1番地1-1プラウム大通り坂上ル キルシュヴァッセナ宮殿東区画第一書斎」
若店主は肩を竦めた。
キルシュヴァッセナ宮殿とは、つまり王城だ。シルエーラ都とは、つまり王都だ。神懸りの少年は、長い住所を覚えたようだ。覚えたのではない。彼のなかでは本当に、彼は王家の関係者なのだ。
「それじゃ君は本当に、王家の遣いだって?」
「はい。第一王子の側近です」
若店主は緩やかに首を振る。
「雨が上がったら帰りなさい。親が心配する」
「僕に親類はいません」
若店主は溜息とも呻きとも判じられない声を漏らす。
「どこに住んでる? 帰るところは? うちで働くか?」
「住んでいる場所は、今申し上げたとおり、――です。帰るところも今申し上げたとおり――です。僕はすでに王城で働いています。官務専業規程がありますのでこちらで働くことはできません」
「……通すねぇ」
若店主は対面に腰を下ろした。背中が背凭れに沈む。
「ラバンドラさん、悪いが、珈琲を2つ」
「承知しました」
ニナは厨房に向かう。
「珈琲は? 飲める?」
「はい。ですが僕は客ではありません」
「いや、飲めよ。風邪ひかれても困るんでね。身体も、ちゃんと拭け」
若店主は背凭れに後頭部を預けていた。気の違った少年は彼のなかで、もはや客ではなかった。
ニナは若店主のやり方のとおりに珈琲を淹れる。
『御二方は交際関係にあるのですか』
客間から神懸りの少年の問いが聞こえた。手元が狂い、湯をこぼす。
『男と女が2人いたらなんでも"付き合ってる"ってか? くだらない。早熟小僧(マセガキ)が』
『男女一人ずついたためにこのような質問をしたのではありません。まず声です。アオベルギーネ店長とラバンドラさんは、お互い話すときに声調がわずかに下がります。そして瞳孔が開きます。そして夢です』
『詭弁が巧いねぇ、そんな確かめようのないことを。夢? 夢に何の意味がある。非合理的だ。意味はない』
若店主は鼻を鳴らす。
『そうですか』
ニナは珈琲を持っていく。紫色の目が彼女を射し貫く。
「ありがとう。早く着替えたほうがいい」
若店主は少年を気にした。
「ラバンドラさん。僕は貴方にご相談があるのです」
「聞かなくていい。奥に行っていなさい」
「長期的にはこのお店の経営にも関わることです」
「とりあえず、タオルを持ってきます」
ニナはもう一枚乾布を用意する。若店主のもとに戻ると、紫色がニナを舐め回す。
「店長、タオルを……」
若店主を首を捻る。
「まだ濡れてるよ、ラバンドラさん。そっちでいい」
彼は乾布を受け取らず、ニナの肩に掛かる半ば湿った手拭いを奪っていった。
「店長が風邪をひいてしまいます」
「そうしたら自己責任だ。オレのことはいいから着替えてこい」
語気が強かった。神懸りの少年の頑なな態度に苛立っているようだった。
「ラバンドラさんが着替えを終えるまで、ここでお待ちしています」
「あのなぁ、ラバンドラさんはうちで一生懸命働いてんだ。ラバンドラさんに何してもらって勘違いしたか知らないが、それはラバンドラさんが優しいからで、他意はない。目を覚ませ」
アズール少年はニナを見上げた。不気味な美貌は衣服の吸った雨水を凍らせる。
「ラバンドラさんに足の怪我を治て手当てしていただきました」
若店主がニナを見遣る。ニナは首を振った。知らない。この少年の怪我を処置した覚えがまったくない。
「人違いじゃねぇか?」
「いいえ。ラバンドラさんで間違いありません」
メランは嘆息し、髪を掻き上げる。形の良い額と、精悍(せいかん)な眉が露わになる。
「話が読めない」
「僕はそのとき、人の姿をしていませんでした」
メランの眉根に皺が寄る。
「僕はラバンドラさんを試していたのです。僕は"不実(みのらず)の乙女"を探していました」
「ガキ」
メランが吐き捨てる。
「意味分かって言ってるのか」
唸るような語気だが、アズール少年に臆する様子はない。
「はい。妊孕性(にんようせい)の極めて低い、性交経験のない人を意味しています。お間違いはありますか」
若店主を向いていた紫水晶がニナに確かめる。
「どうして、それを……」
元婚約者との別れ際、ニナは丸薬を飲んだ。不妊になるのだという。離れていても、身も心も元婚約者に捧げると誓った。だが、神懸りの少年は、何故その約束を知っているのか。メランにも話していないことだ。
「ラバンドラさんの性周期です。ラバンドラさんにはそれがありませんでした。それから、ラバンドラさんの身体を診ささせていただきました。結果――」
メランが椅子を飛ばすほど勢いよく立ち上がる。そして少年のもとへ回ると、深緑の天鵞絨の襟首を掴みかかった。
「あ、あ、店長……!」
体格差は歴然。アズール少年の泥だらけの革靴が床から浮く。
「それをラバンドラさんに突きつける理由は?」
「僕が相談するうえで、とても重要な事柄ですので確認しました」
「お前には心がない」
若店主は椅子に突き飛ばす。
「はい。僕は人造魔族(ネクロマンシー)です。よって心は要(あ)りません」
結婚式を壊されて辺境に追放された私、静かに暮らすはずがなぜか呪われた王子の夜伽係になっていました