結婚式を壊されて辺境に追放された私、静かに暮らすはずがなぜか呪われた王子の夜伽係になっていました
タイトルはAI考案。原題【まほろばローズ】。
肛門性交/淫魔憑依王子/
1
光紗幕(レースカーテン)が開かれ、夫になる人と階段を降りる。人々の作る道が眩しい。
頭上で鐘が鳴り響いた。そのとき、ニナ・ラバンドラは確かに幸せだった。それを幸せと呼ばないのならば、この世に生きるのは苦痛なほどの欲深さを持っている。
飛び立つ白い鳩の群れが、2色の青を背景に輪郭を強める。瑞々しい芝は白く照りつけ、海の輝きと混ざって見えた。
ニナは目を眇めた。
婚礼衣装は硬く背筋が伸びる。
「お姉ちゃん! 綺麗だよ!」
参列者のなかから妹のセリシア・ラバンドラの声が聞こえた。最前列にいる。父と母も人集(ひとだか)りとは離れたところで手を振っている。
庭の半ばまで歩く。手にした花束が向かう先は決まっていた。
妹に、次なる幸せを――
ニナは花束を投げるため、参列者たちへ背を向けた。
「ニナ・ラバンドラ!」
いざ、投げようと腕を落とした時、野太い声が晴天に轟いた。
賑わっていた空気が一変する。
ニナは振り返った。花畑が一息に枯野原になったような静けさがある。遠くの海だけが点綴(てんてい)と白い光を揺らし、喧(やかま)しくしている。
拍手も歓声も止んだ庭に、一人、大柄な男が立っている。首が太く、発達した筋肉が礼装の下から透けていた。色黒く、掘りが深い顔立ちは軽率そうな笑みを浮かべ、逞しい顎には髭を生やしている。粗野な雰囲気のその人物をニナは知らない。
「ニナ・ラバンドラはオレと結婚するんだよ」
色の悪い唇が引き攣って嗤っている。
「知り合いか?」
傍にいた新郎のギアルギナ・スリヴォヴィッツ改めギアルギナ・ラバンドラス・スリヴォヴィッツがニナに訊ねた。彼は同い年の幼馴染だった。
「ニナ・ラバンドスはずっとオレ様と付き合ってたんだ」
しかしニナはこの人物を知らない。
「オレ様と付き合っておいて、別の男と結婚しちまうなんて、酷ぇよなー?」
婚礼のために髪をすべて後ろへ撫でつけた新郎ギアルギナの顔は普段の色の白さを通り越し、青褪めていた。
「どういうことだ、ニナ?」
彼女は首を振った。
「知りません……何のことですか……?」
大柄な男は笑った。
「恍(とぼ)けるなよ、恍けるなよ! あんだけ"愛し合って"、今更他人ヅラか~?」
ニナはまったく身に覚えのない男と、新郎ギアルギナの顔を見比べた。
離れているはずの参列者たちの会話が一際大きく聞こえた。近くの者も囁き合っている。
「ギアリーさん……」
ギアリーことギアルギナは頭を抱えた。
「実は噂で、君が浮気をしているんじゃないか……というような話は聞いたことがある。信じていなかったけれど……」
彼は深い溜息を漏らした。
「していません! わたしは浮気なんてしていません! 本当です!」
ニナは叫んだ。幼少の頃から、婚約者は幼馴染のギアルギナ・スリヴォヴィッツと決まっていた。そしてそのことに不満はなかった。
「あっはっはー。それじゃ、ニナ・ラバンドラが処女かどうか、確認するか? この女は淫乱だからな。喜んで処女膜も見せてくれるんだろ?」
「まあ!」
近くまで来ていた妹のセリシアが悲鳴を上げる。ニナの両親もまた悲鳴を上げた。
「とりあえず、参列者たちを帰そう……話はそれからだ」
ギアルギナは青筋を立てていた。血の気の失せた顔によく目立つ。彼は昔から神経質だった。そしてそれを抑え込もうと努めるが、終いには不調を来(きた)す。
しかし今日の彼はよく働いた。まず、今にも倒れそうなニナの母を休める場所へ案内してから、彼女の父親と自身と、自身の父親で参列者への詫びを述べ、帰宅を促した。
ニナは呆然と立ち尽くした。
晴れていた空は徐々に灰色に呑まれていく。
「別れたかったんだろ?」
「別れたかったんだろ? あの男と」
「じゃ、セリシアによろしく」
野卑な男は片腕を上げると、参列者たちが案内された方向とは別の方向へ消えていった。
◇
ラバンドラ家はスリヴォヴィッツ家の支援なしに成り立たないと聞いたのは、その夜だった。つまり、ラムイエ領を追放される日の夜だった。
ギアルギナはニナを赦した。けれども、ギアルギナの両親は別だ。そしてスリヴォヴィッツ夫妻の不興を買っては、ラバンドラ家はただでは済まない。
出て行かなければならなかった。
夜風に吹かれ、生まれ育った屋敷を見詰める。橙色の窓に人影が見えたような気がした。
外套を翻す。最後に母から贈られた襟巻きに顔を埋める。柔らかく、温かかった。
「ニナ」
彼女は足を止めた。
「あの場できちんと、君を信じてやれなくてすまなかった」
「わたしのほうこそ、こんなことになってしまってごめんなさい」
大柄の男が式場から姿を消したことで、すでに誤解は解けている。頭のおかしい人物が通り魔的に参列者に紛れ込み、場を台無しにしたということで話は片付いた。哀れみの声もラバンドラ家には届いている。しかしスリヴォヴィッツ夫妻が赫怒(かくど)しているのは、ニナの不貞行為の有無ではなかった。結婚式が荒れて終わらされたことについて憤激しているのだった。そして上手く立ち回らず、辱められたニナに対して落胆しているようなのだった。
「君は悪くない。父上とお袋はぼくが説得する。だからまた……」
スリヴォヴィッツ夫妻からニナの両親に宛てられた書簡には、支援を続ける旨が記されていた。そしてそこには条件も記されていた。
――凶兆の印を持つ娘はラムイエ領の地神の加護は受けられない。
とてもギアルギナに解決できる話ではない。そして彼にこれ以上の迷惑をかける話でもない。
「いいんです。むしろ、お父様とお母様を赦してくださってありがとうございます。ご寛恕(かんじょ)、痛み入ります」
彼女はこの幼馴染で元婚約者を、対等な立場にいるものと思っていた。だが違った。
「これからどこに行くんだ」
「場所を言うことは禁じられています。風の赴くままに……新しい住処を探します」
「ニナ。君はまだぼくを好いているかい」
彼女は頷いた。ギアルギナは遠くを見ていたが、固唾を呑んだ。
「離れ離れにはなるけれども、一度は結婚式まで挙げた身だ。ぼくに尽くしてくれるか」
「はい。遠い地でも……」
彼は懐から小型の缶を出した。
「一生をぼくに尽くしてほしい」
缶からギアルギナの革手袋の上に小さな玉が転がり出る。3つ入っていた。
「セリシアをよろしく頼みます」
ニナは3粒の白い玉を受け取ると、躊躇いもなく口に放り込み、飲んでしまった。
「これでもう、君は子を望めない。ぼくもまた不犯(ふぼん)を誓おう」
彼は缶を出したところから、小刀を抜く。鞘ごと純白の布に包まれ、飾り紐が結んである。
「女の独り旅だ。後は、分かるな」
ニナは小刀を見詰めていた。彼は待った。彼女は軈(やが)て餞別を受け取った。
「セリシアを……」
「安心してくれ。君の家族のことはスリヴォヴィッツの名にかけて守る」
彼女は屋敷に背を向けると、当てのない旅の一歩を踏み出した。
家を出る際に父から譲り受けた外套は大きく、布は厚く、寝具にはたいへん役に立った。母の匂いの染みついた襟巻きはニナに安らかな眠りを齎(もたら)す。硬く冷たい褥も忘れさせる。
握り締めた小刀だけが、夢の奥底へ沈めさせてはくれない。
◇
訪れた村の住民が言うことには、山奥に空家があるらしい。十数年前に野盗が入り、住んでいた家族を全員斬殺してからは、誰も引き取り手のないまま放置されているのだという。肝心の野盗はすでにこの村の広場で処刑されたとのことだった。
ニナは村長に掛け合い、その空家に住まわせてもらえることになった。管理者がいるのは安心するのだそうだ。だがひとつの条件が提示された。その家に住まうのならば、二度とこの村を訪れてはならないのだそうだ。悍(おぞ)ましい歴史のある家だ。忌避されるのも無理はない。
村は空家のある山を挟んで反対側にもうひとつあるとも教えられた。
彼等は親切だ。彼等は決して悪人ではないのだ。
彼女は外套を翻し、山奥へ向かった。
鬱蒼とした木々の狭間を抜けると、切り立った岩の陰に小屋が建っていた。日当たりは悪くない。話に聞き、想像していたよりも荒れてはいなかった。家屋もまた十数年放置されたというほどの傷みもない。
何者かが村人に知られることなく、すでに住んでいるのではなかろうか。
彼女は戸を叩いた。
「ごめんください」
返事はない。待てども、待てども、物音ひとつ聞こえない。
「ごめんください、ニナ・ラバンドラと申します」
しかしやはり反応はなかった。
把手を握る。鍵は掛かっていない。
「ごめんください……」
窓には暗幕が掛かり、外の日当たりに関係なく、室内は暗かった。荒れてはいない。だが埃臭い。
野盗が入り、一家が惨殺された。
村人の忌避する恐ろしい事件の現場に、今、立っている。不安がないわけではなかったが、今は雨風の凌げる場所を得るのが先だった。
室内を探ると、食卓には埃が溜まっている。水場は乾ききっている。
ニナは暗幕を開いた。光が射し込む。少しの間、彼女は佇んでいた。ほんのわずかな時間、彼女は何も考えずに済んだ。ぼんやりと木々を通して振り注ぐ光の柱を凝らしていた。
涙はすでに涸れた。屋敷を出た夜に泣き飽きた。
彼女は襟巻きに顔を埋めた。母の匂いがした。
寝具と食料は村で買えた。そしてニナは1枚の紙を手にしていた。持たされていた金子(きんす)も使い続けるばかりでは、いずれ底をつく。働かなければならない。
仕事募集の貼紙が買い物をした雑貨屋にあった。店主が言うことには、この山には湖があり、その近くで麦紐麺(スパゲティ)専門の食堂を営んでいる若者が給仕係を求めて貼っていったそうだ。
ニナは募集要項を熟読し、貼紙の下部にある欄に必要な情報を書き込んだ。そして、すぐに小屋を発った。地図を頼りに湖を探す。先程買い物に行くときにぶつかった二叉路が、湖への道だったようだ。村に降りず、湖に上がる道を行く。
木々越しに村を見下ろし山道を抜けると、木の密度が増していった。そしてその狭間から煌めきが見えた。湖がある。地図に目を落とす。真っ直ぐ行くと、真っ白な建物が見えた。屋根は丸く、ありがちな建物と四阿(ガゼボ)が合体したような外観をしていた。
店前の看板には白墨で店名が記されている。湖畔(レイクサイド)パラキナ。
扉を叩く。だがここは店だった。ニナは中へ入った。
「いらっしゃっせー」
手拭いを頭に巻いた若い男が振り向いた。年の頃はそう変わらないようだ。黒の短髪が頭の小ささを際立たせる。背が高く、豊富な筋肉は見て取れたが、線の細い感じがある。
「1名様ですか」
「あっ、あの……貼紙を見て……」
「ああ。給仕係の? やる?」
日の光を弾き返しそうな瑞々しい笑みを向けられ、ニナはたじろいだ。
「あ、は、はい……ここで働きたいです」
「じゃあ決まりだ。ちょっと待ってて。お客様さんに料理届けてから」
出入り口で待っていると、彼はすぐに来た。
「一応、面接しようか。そこの席が空いてるから」
若者は目元を細めた。四阿(ガゼボ)と合体したような多角形の部屋は大きな窓が並び、多くの陽光を採り込んで彼の瞳を焦げ茶色に透かした。
ニナは目を側める。
席に促され、彼女は腰を下ろす。
「緊張してるの?」
客が何組かいた。談話しながら突匙(フォーク)で赤い具の絡まった麺を巻いている。女性が多いように見えた。
「少しだけ……」
「そっか。えーっと、ラバンドラさん?」
卓に置いた貼紙を、若者は手に取った。
「おれは店長のメラン。親父から店を受け継いで、もう2年くらいかな。ラバンドラさんには給仕を……お客様の案内とか、作業補助をお願いしようと思ってるんだけど……」
「はい。何でもします」
「いいね。賄いも出るから。それで、どれくらい入れる? 扶養家族は……いないんだね」
「はい。いつでも入れますし、何時間でも働けます」
しかし彼女は言ってしまってから不安になった。今の住まいはここから近いものの、周りに人気(ひとけ)はなく、孤立し、十数年前には野盗が襲撃したようなところだ。夜道が怖い。
「どうした?」
若き店長メランは快活げな眉を歪ませた。
ニナは住まいのことを打ち明ける。
「っへー! あそこ住んでるんだ?」
「それで、夜道は少し怖いので、いつでも働けるんですけれど、少し明るいうちに帰れたらと……」
「うん。分かった、分かった。それでいいよ。確かにあそこは男でも怖いからな」
メランは室内を見回した。そして椅子から腰を浮かすと、音もなく手を打ち鳴らす。
店の奥から店員が料理を持ってくる。ニナの前に魚介類の麦筆(ペンネ)が置かれる。
「わたし、お客さんではありません……」
「ああ、いいの、いいの。とりあえず、まずはうちの料理の味を知ってもらいたいと思って」
にんにくの香りが辺りを漂う。
「この人は今日で辞めちゃうから、ラバンドラさんとは入れ替わり」
料理を持ってきた店員はニナに笑いかけ、厨房へ帰っていった。
「さ、食べて食べて。口に合えばいいけどな」
メランは卓の上の水差しを傾け、水を配る。
「いただきます」
麦筆に赤みを纏わせ、口に運ぶ。まず、酸味が耳の下を痺れさせる。旨味が口に広がり、温かさが全身に広がっていく。身体中を巡った熱が目元から滲み出る。
「……不味かった?」
若き店長の顔は訝(いぶか)っていた。
「え……?」
「涙出てる。口に合わなかったかな。ごめんな」
「違います! 美味しくて……こんな美味しいもの、久しぶりに食べたものですから……」
温度のあるものは長らく口にしていなかった。小麦麭(パン)は食べていたが、買ったまま、それだけを食べていた。腹を満たせればよかった。生まれ育った屋敷の食事は、季節のものを使い、栄養や彩りを考えられていた。しかし今や、いかに吝嗇(りんしょく)しながらも腹を満たしていくかを考えなければならなかった。
「扶養家族はいないみたいだけど……あそこに住んでるってことは帰る家はあるんだろ? 家族は?」
ニナは若き店長の麗らかな目から逃れた。
「……死にました」
生きている。だがもう会えない。しかし生きている。父母を死んだことにするのは躊躇われた。けれども、もう会えない。生きていれば会える。だが、会えない。この店長は詳細を告げる関係ではない。
「……悪いこと聞いちまったな。そっか、分かった。でも、うちで働いてくれるからには困ったら相談してくれ。もう採用。合格。明日から来て」
「ありがとうございます。身を粉にして働きます」
「そんな頑張んなよ。お客様が楽しめる程度に、緩く、な」
若き店長は腰を上げた。
「とりあえず今日は、この店がどんなものか、ゆっくり食いながら見ていってくれ」
メランは厨房へ消えていった。
◇
ニナは少しずつ、家族や元婚約者について思い出すことが減っていった。他にやることがあった。覚えなければならないことも多かった。
湖畔(レイクサイド)パラキナの席の番号が頭に入っていなければならなかったし、品書きも理解しなければならなかった。しかし苦しくはなかった。むしろ彼女は楽しんでいた。自らが働いて、食べていくことの疲労を知った。
変わったのはそれだけではなかった。身分証明ができるようになったため、町の貸本屋に通うことにしたのだった。晴れた日は庭で本を読む。
まず最初に借りたのは自家菜園の本だ。メランから要らなくなった鉢植えをもらうと、さっそく本に従って、土をいじる。町で買った数種類の野菜の種を巻き、水をくれるのも日課になった。
彼女は妹のことも、元婚約者のことも、父母のことさえ忘れてしまった。ふと思い出して、涙することもなくなった。
小金瓜(トマト)の実が色付きはじめた頃、小さな訪問者があった。ニナが玄関扉を開き、鉢植えを覗くと、白い塊が見えた。陽光を浴びて、雲のような曖昧な輪郭が輝いている。
「まあ……!」
両手に収まるほどの大きさで、長い耳を生やしている。鉢植えに前足を乗せ、背伸びをして作物の葉を食(は)んでいる。
ニナは真っ白な毛並みを撫でた。汚れのない毛色といい、質の良い毛質といい、野生ではないのかもしれない。メランの店の近くに現れる猫は毛並みが乱れ、砂埃で薄汚れていた。
「逃げ出してきちゃったの?」
長い耳を撫でる。冷たさの柔らかさで指が溶けそうだ。
触られても逃げる様子がなかった。ニナは千切り乾酪のような毛尨(けむく)を胸で感じてみたくなった。抱き上げると、細長い足に赤みが差していた。毛がなく、薄桃色の肌が露出しているのみならず、皮膚が剥がれていた。
怪我をしている。
ニナはうさぎの顔を見た。紫色の瞳が虚空を捉えている。彼女は動物の目として、見たことのない色味にたじろいだ。地方が変われば、動物の特徴も変わるのだろう。
彼女はこの小動物を抱えて家に入った。
傷を洗い、乾燥した唇に使っていた白油を塗ると、布の端切れを巻いた。
籠に折り畳んだ寝具を入れ、うさぎを置いた。三角形の鼻が頻りに上下している。
ニナはうさぎを眺めた。先日、カラスを見た。窓幕に映った影が印象に残っていた。そのカラスが、うさぎを甚振ったのだろうか。否、否。黒く賢い鳥というだけで悪者にしてはいけない。
ニナはメランに相談してみることにした。
メランは紫煙を吹いた。店の裏口が、彼の束の間の休憩所らしい。湖面には映らない緑黛(りょくたい)を観賞しながら焼いた草の煙を吸っている。今日は曇天だった。彼が天気を操っているようだった。
「分かった。貼紙をしてみるよ」
ニナはメランの指先を追っていた。厨房に入ることのある爪は、些か深爪ですらあるほど切り揃えられている。
「ありがとうございます。仕事をいただけただけでもありがたいのに……」
若店主は笑みを浮かべる。
「なんの、なんの。こちとらラバンドラさんがたくさん勤務に入ってくれて感謝してるんだ。想定よりも多く。子持ちが多いからさ。なるべく家庭を大事にしてもらいたいわけよ。結局は、非正規雇用(アルバイト)だしな」
煙を吹く横顔に、ニナは目を奪われていた。曇天だというのに、眩しさを覚える。けれども目を離せない。彼はどう受け取ったのだろう。頬を染め、笑い声を作り出す。
「まぁ、あれだ。家が飲食店(こんな)だから……親父もお袋より店を優先しなきゃいけないこともあったってワケ」
短くなった紙巻きの草筒を火消しの石塔に擦り潰す。
「でもラバンドラさんもうさぎの世話があるなら、無理なく、な。うちは勤務時間自由が売りだから」
「ありがとうございます。店長は恩人です……」
「はっはっは……大袈裟。それはお互い様だろ。昼飯入ろうぜ」
ニナは若店主を追う。
日が暮れる頃に雨が降った。店内にいても、忙しない雨音が聞こえる。大窓から見た湖面は無数の蜘蛛の巣が蠢いている。卓を拭くニナの手が止まった。
まだ閉店時間までは少しある。客も遅れた昼食か、或いは早すぎる夕食を摂っている。今日は夜まで勤務を入れた。
山の奥が光る。湖面も照った。曇った轟音が聞こえる。そのうち湖を跨り、この店の真上へやって来るのだろう。
「家心配なら、早上がりする?」
外に気を取られていたニナの隣に若店主が立つ。
「い、いいえ……大丈夫です」
「この天気だとお客さんも見込めないし、来たとしてもオレたちで対応できるから。うさぎちゃん、怪我して一匹(ひとり)でいるんだろ?」
メランの手がニナから布巾を奪う。
「でも……」
「たぶんこの後、もっと降る。傘があるから使って。また今度返してくれればいいから。どうせオレは仕込みで寝泊まりよ」
彼は笑うと目が消える。白い歯が輝き、幼くなる。この天気が一変しそうだ。けれども窓の外は
「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて……ごめんなさい、夜まで働くって言ったのに……」
「仕方ない、仕方ない、気にすんな。気を付けて帰れよ」
ニナは帰り支度をした。傘を借り、店を出ようとしたときに呼び止められる。若店主が紙袋を抱えて飛んでくる。
「これ、にんじんパン。試作したから晩飯に、な」
渡された紙袋はまだ温かかった。大雨で気温が下がり、寒さを覚えていたニナの肌に染み渡る。
「何から何まですみません……」
「いいの、いいの。明日も大雨なら、無理なくな。山道だし」
ニナは頷き、店を出た。傘を差しても、靴や靴下は無事ではなかった。足を泥だらけにして帰宅する。濡れた服を脱ぎ、着替えもせず、うさぎの元に向かった。
うさぎは籠の中にいた。三角形の鼻が頻りに上下している。餌として置いた二十日大根(ラディッシュ)の葉に食べた跡がある。
「ちょっと寒かったわね」
紫色の目はどこを見ているのか分からなかった。
厚手の布に包み、抱き寄せる。重みと身動きに生命を感じる。
「ふわもこちゃん」
頬を擦り寄せ、柔らかな毛を愉しむ。
「飼い主さん、見つかるといいね」
外が閃いた。家の中に濃い影が浮かび上がった。一瞬、豪雨がやんだような気がした。けれどもその静寂に気付くよりも先に、耳を壊すような音が鳴り響く。
結婚式を壊されて辺境に追放された私、静かに暮らすはずがなぜか呪われた王子の夜伽係になっていました