麗子
田園調布の高級住宅街の一角に建つ青木修二の邸宅に、二人の女子大生が訪れたのは、五月のある日曜日の昼下がりであった。玄関で応対に出たのは妻の可南子であった。
「おば様、ご無沙汰しております。夏樹由美です」
上背が百七十センチ近くあり、髪型をマッシュショートに綺麗に揃えたモデル体型の女性が、上品な笑みを浮かべながら挨拶をした。その隣で、中背のふっくらした顔立ちの女性も
「小山結花です」と、やはり、小さく笑みを浮かべながら挨拶をした。
可南子は最初、二人の名前も顔にも心当たりがない素振りを見せたが、すぐに、
「えっ! 由美ちゃん?!」と、思わず驚きの声を上げた。
成人を迎えて美しく化粧をした由美の顔の中に、八年前の子供だった由美の面影を見いだしたのだった。
「はい! おば様!」
由美は、可南子から「由美ちゃん」と親し気に呼ばれたことが、ことのほか懐かしく感じて笑みをこぼした。その隣に立つ結花が
「おば様、お久しぶりです」と言うと、
「まあ、結花ちゃん!」
あたかも自分の娘を愛おしい目で見つめるような可南子の姿に、結花の顔にも笑みが溢れた。
可南子は、二人を招き入れると応接間に通した。由美と結花にとって、青木家の応接間に入るのは小学六年の時以来だったので、懐かしさと緊張が相まって胸が高鳴った。南向きに面した十二畳の洋間の部屋の中は、芝庭に面した広いサッシから差し込む初夏の暖かな日差しで光が溢れていた。部屋の真ん中に敷かれた花柄の四角い絨毯の上には、レトロ調のブラウン色の木製のテーブルが置かれ、それを取り囲む黒い革張りの重厚感のあるソファーが、応接間に洋風な趣きのある気品を一段と高めていた。部屋の片側には黒塗りのアップライトピアノが置かれてある。二十八年前に都内の音楽大学のピアノ科を首席で卒業している可南子が、時折、何かに誘われるかのように、夜、ふらっと、この応接間を訪れては、ショパンの夜想曲を奏でていた。中背で、二人の娘を生んだとは思えないほどの贅肉のない体形、そしてその美顔は、セミロングの艶やかな黒髪と相まって、その細い指が奏でるショパンの調べは、聴くものの心を抒情性の世界へと誘わずにはおかなかった。
「さあ、二人ともこちらへ。遠慮しないで」
可南子は、部屋の入口に緊張した面持ちで立つ由美と結花をソファーに座るよう促した。二人は、芝庭を背にした二人掛けのソファーに、ゆっくりと腰を下ろした。可南子も対面の一人掛けのソファーに腰を下ろした。
「今、何か飲み物を持って来させるわね」
そういうと可南子は、
「富美さん! 富美さん!」
大声で家政婦を呼ぶ明瞭で張りのある声が、広い応接間の中へ響いた。可南子より五歳若い園田富美は、八年前から週五日の通いで、青木邸の家事全般を担当している中年の家政婦である。夫の修二が、可南子の心労を心配して、家政婦紹介所から紹介してもらったのである。
ほどなく、富美がバスルームの掃除を中断してやってきた。少々な力仕事もこなせるだけあって、中々肉付きの良い女性である。
「はい、奥様」
「あっ、こちらのお二人に、何か冷たいお飲み物を持ってきて差し上げて」
「何をお持ち致しましょうか?」
「そうねえ? 由美さんは何がいい? アイスティでも、アイスコーヒーでも、何でも言って」
「はい、じゃあ、アイスコーヒーで」
「結花さんは?」
「私は、今、ちょっとダイエット中なので、出来たら、冷たい麦茶で・・・」
少し恥じらう様な控えめな仕草に、可南子は「くすっ」と笑って、
「まだ、お若いんだから、あんまり気にすることないわよ」
「はい・・・」
「じゃあ、麦茶とアイスコーヒーお願いね」
「奥様はいかがなされますか?」
「私は、今はいいわ。最近、何だかまた胃の調子があんまりよろしくないの。きっと季節の変わり目のせいだわ」
ひと月前に五十の坂を超えて、可南子は老いという避けられない年輪の移ろいを、皮膚や内臓の変化に感じ始めていた。しかし、女性の可南子には、その現実をまだ、素直に受け入れがたく、季節の変化と言う言葉で自分を偽るのだった。だが、内臓不調の真の原因は、八年前の長女の佐和子の死と深く関わっていたのであったが、可南子自身はそのことには、気が付いてはいなかった。
「あっ! それから悪いけど、主人をここへ呼んできてほしいの」
「はい、承知いたしました」
富美が部屋を去ると、可南子は改めて、八年ぶりに我が家を訪ねてくれた由美と結花に感謝の気持ちを表した。由美と結花、そして八年前に亡くなった佐和子の三人は、小学校の高学年の時のクラス替えでクラスメートとなり、勉強も遊びも、いつも一緒の、まるで姉妹のような仲良しだった。
三人で談笑してると、ほどなくジーンズに半袖のポロシャツ姿の修二が応接間にやってきた。百八十二センチの長身と、週に3回ジム通いして鍛え上げた筋肉質の体躯は、えらの張った骨ばった顔と相まって、初対面の相手には、威圧感を与えるほどであった。由美と結花は、修二を見るなり反射的に立ち上がり緊張した面持ちで挨拶をした。
「どうもご無沙汰しております!」
「おっ! もしかして、由美ちゃんと結花ちゃんじゃないのか?」
ドアを開けて二人を見るなり、修二が言った。
「はい! おじ様! お久しぶりです!」
由美は相好を崩して返事をした。結花の顔も緊張の糸が切れたように一気に和んだ。
「あなた、よく、お分かりになりましたわね? 私なんか、初めは、どちらのお嬢様かと、戸惑いましたのに」
修二は、可南子の横のソファーへどっしりと腰を下ろすと、
「そりゃあ分かるさ。二人とも佐和子が生きてた頃には、毎日の様に、うちへ遊びに来てたんだから。分からなかったお前の方がどうかしてるぞ。まだ、そんなボケる歳でもないだろうに」
太い声でそう言って、修二は笑った。
可南子は、ちらっと横目で修二を睨みながら、
「まあ、失礼しちゃうわ」
由美と結花の前で恥をかかされたと感じて、少しむくれたそぶりを見せた。それを見て、由美と結花が見合って、下を向いて笑いをこらえた。二人には、可南子の拗ねた姿と、妻に対する歯に衣着せぬ物言いの修二の姿が、逆に、夫婦の絆の強さに感じられたのである。
修二が可南子と知り合ったのは、国立の医学部を卒業して大学病院で後期研修を終えたばかりの三十歳の時であった。研修終了の祝いに、研修医の仲間たち数人と、夜、六本木の高級レストランへ食事に行った時、音大を卒業して一年目の可南子が、そこでピアノの生演奏のアルバイトをしていたのである。修二は一目で、可南子の美しさに魅了され、ひと月近く、毎日の様にそのレストランへ通い詰め、ある夜ついに、可南子がアルバイトを終えてレストランを出るところを待ち伏せして、心に秘めた思いを告げたのである。翌年に二人は結婚をした。可南子はピアノ弾きのアルバイトをやめ専業主婦となり、修二は研修終了後、三年間、大学病院で内科医として勤務した後、都内にある父親の経営する青木クリニックを引き継いだのであった。
修二は結婚初期から可南子に子供を待望した。それは、修二の子供好きもあったが、むしろ他の要因の方が大きかった。青木家の父方の血筋が子宝に恵まれにくかったのである。父方の祖母は二十代半ばで結婚したにもかかわらず、妊娠したのは十二年後であった。父は一人っ子であった。修二の母親も二十歳で結婚したにもかかわらず、妊娠をしたのは九年後であった。修二も一人っ子であった。青木クリニックは、代々受け継いできた、地元に根付いた内科専門の個人医院であったので、自分の代で絶えることを危惧した修二は、出来るだけ早く後継ぎが欲しかったのである。しかし、可南子は二十四歳で結婚したが、修二の恐れた通り四年たっても、一向にそのきざしがなかった。夫婦そろって、産婦人科へ相談に行き、不妊の原因を調べると、可南子には異常はなく、修二に問題があることがわかった。修二は造精機能障害であった。
精子の数が通常の男性より少なかったのである。治療薬の効果はすぐには現れず、それが、夫婦の間にも溝を生み始めた。しかし、やがて可南子は妊娠し、彼女が三十歳の時に長女の佐和子が生まれた。そして、その八年後には、今年の春、中学一年となった二女の麗子が生まれたのである。
「えっ! 麗子ちゃん、もう中学一年生ですか?!」
麗子の事を可南子から聞いた由美は、目を丸くして声を出した。
「そうかあ、二人は四つまでの麗子しか知らなかったなあ」
修二が懐かしむように言った。
「きっと可愛くなられたでしょうねえ、目のぱっちりした二重まぶたで、まつ毛がとっても長かったのを、あたし覚えてるもの」
結花がそう言うと、由美も、
「私なんか、あんまり可愛いから、『お姉ちゃんの妹にならない?』って、麗子ちゃんに聞いたことがあるもの」
「あら、そうなの? あの子、何て言ったの?」
「えっ? あ、それが・・・」
由美は少し肩をすぼめながら、申し訳なさそうな声で、
「泣き出しちゃいました。『いやだ』って言って・・・」
応接間に、和やかな笑い声が響いた。
可南子が微笑みながら、
「あの子ね、人一倍、感受性が強いらしいのよ。お庭のお花が枯れただけでも涙を浮かべる子なの。『いやだ』って言ったのは、由美さんの事を嫌っていったわけじゃなくて、きっと、家族と引き離されると本気で思い込んだんだと思うわ」
「そうですか。よかったあ。私、てっきり麗子ちゃんに嫌われたんだとばかり思い込んでました」
由美はそう言って、胸をなでおろしたように安堵の表情を浮かべた。
その時ドアがノックされ、家政婦の富美が飲み物を持って入ってきた。
「まあとにかく冷たいものでも飲んで。さあ」
修二の言葉に、由美と結花は、のどを潤して一息ついた。修二もアイスティーを一口飲んでから腕を組むと、
「しかし、佐和子も生きていれば、今頃は二人のように大学生活を謳歌してたはずなんだが・・・まさか十二で亡くなるとは・・・」
「実は、私たち、今日はその佐和子ちゃんの事でお伺いをさせていただいたんです」と、由美が切り出した。
「えっ? 佐和子のことで?」
修二がそう言うと、可南子が、
「そういえば、由美ちゃん、さっき佐和子のことで来たって、インターホンで言ってたけど、何なの?」
「実は」
そう言って由美はわきに置いた紙袋から、白い布にくるまれた包みを取り出して自分の膝の上に置いた。そして、白い布を取り外した。包まれていたのは、スライダーで封をしたA4サイズの透明なビニール袋で、中には複数の小物が入っていた。由美はそのビニール袋を修二と可南子の前へ置いて、
「これを、お渡しに来ました」
と言った。
「これは?」
修二が由美に尋ねた。
「佐和子ちゃんの、思いでの袋です」
「佐和子の、思いでの袋?」
あっけにとられたように、そう言って可南子は目の前の袋を見つめた。
由美は、可南子の顔を見つめながら、
「はい。佐和子ちゃんからタイムカプセルのお話を聞かれていらっしゃらないでしょうか?」
「タイムカプセル?・・・」
可南子は、いきなり予想だにしない言葉を聞かされて面食らった。
「いえ、何も」
可南子は修二の方へ顔を向けた。
「あなた、聞いたことありますか?」
「いやあ、俺も聞いたことないなあ」
「そうですか」
「何なの? そのタイムカプセルって?」
「実は、小学六年生の時の私たちの担任の木村先生が、卒業の記念に、みんなの思い出の物を地面の中へ埋めて、八年後、私たちが二十歳になった時に、掘り出したらどうだろう?って言われて。そしたら、三十六人全員が大賛成したんです」
「ほー、なるほど」
修二が興味深げに言った。
由美は話をつづけた。
「それで、卒業前の三月十日の日に、みんなが思い思いの物を持ち寄って、各自がその袋の中へ入れて、それを金属でできたカプセルの中へ入れて、校庭の隅に生えてる樫の木の傍の地面に埋めたんです」
「あなた、三月十日は」
修二を見つめる可南子の顔が曇った。
「事故の前の日だ・・・」
修二も顔を曇らせながら袋を見つめた。
可南子は、ゆっくりとビニール袋を手に取って、スライダーを動かして封を開けていった。そして、中に入っていた物を一つずつ取り出して、テーブルの上に並べていった。
日記帳と書かれたB5サイズのノート、学校の時間割表、ピンクのヘアリボン、花柄のオレンジ色のハンカチ、赤い櫛、白い封筒。
封筒の表には『8年後のお父様とお母様へ』と書かれてある。そして、可南子は最後に、袋の底にあった白い紙でくるまれた細長い包みを取り出して膝の上で紙を広げてみた。中に入っていたのは、一輪の赤いカーネーションであった。
「なぜカーネーションが?・・・」
可南子は首を傾げた。
「造花みたいだな?」と修二が言った。
「今日は、母の日なんです」
由美が二人に告げた。
それを聞いて、可南子は、
「そうだわ! 今日は5月の第二日曜だったわ」
結花が思い出すようにしながら話し出した。
「私たち、クラスで、タイムカプセルを埋める日は3月10日と、すぐに決まったんですけれど、掘り出す日がなかなか決まらなかったんです。初めは、成人の日がいいんじゃないか?と木村先生が仰ったんですけれど、でも成人の日は、寒いし、それにもし雪が降ってたりすると掘り出すのも大変だからとみんなが反対して。それで、女の子たちが、それじゃあ3月3日のお雛さんの日がいいと言い出して、そしたら男の子たちが、みんな反対しだして。それで、今度は男の子たちが5月5日の子供の日にしたらいいと言ったら、女の子たちが反対しだして。それで、みんな困ってしまって。その時、「母の日がいいと思うんだけど」と、佐和子ちゃんが言ったんです。
「えっ 佐和子が?」
「はい、そしたら、みんなが賛成して。それで先生が、『じゃあ、カーネーションの造花を作って、手紙を一緒に添えたらどうだろう?』と仰って。それで、みんなで造花を作って手紙と一緒に袋に入れたんです」
その話を聞いて可南子が、
「じゃあ、タイムカプセルを掘り出したのは・・・」
「今朝です」と由美が言った。
可南子は手にしたカーネーションを見つめながら、
「そう、そうだったの・・・佐和子が・・・」
可南子の脳裏に、ほがらかな笑顔を浮かべる小学6年生の佐和子の姿が鮮明に蘇ってきた。
「あら? 変だわ・・・」と、由美が、机の上の物を見つめていった。
「どうしたの?」
可南子が由美に尋ねると、
「無いんです、手紙が」
「ほんとだ! 入ってないわ、どうして?」
結花も机の上を見つめて不思議がった。
「手紙ならここにあるじゃない」
可南子がテーブルの上の白い封筒を指さすと、由美が、
「違うんです。私たち、3人で話し合って、二つ手紙を書いたんです。親への手紙と、もう一つ、8年後の自分への手紙を」
「でも、だったら、どうして袋にそれが入ってないの?」
由美は返事に窮して結花と顔を見合わせた。
「本当に佐和子は、自分あての手紙を書いたのか?」
修二は二人に確認した。
「はい、間違いありません。タイムカプセルを埋める前日の3月9日に私の部屋で3人で一緒に書いたんです。確かです」
由美は、確信をもって修二に答えた。
「じゃあ、なぜ佐和子は、その手紙を袋へ入れなかったんだ?」
「もしかして、佐和子ちゃん、自分の死を予感して・・・」
「結花っ!」
由美が眉をひそめて結花をたしなめた。
「あっ! すいません・・・」
可南子は、結花の『自分の死を予感』という言葉に胸を押さえつけられるような息苦しさを感じて、テーブルの上の白い封筒に手を伸ばした。
中には綺麗に三つ折りされた2枚の便せんが入っていた。
広げると文字欄の周りには赤紫色のレンゲの花が囲むように印刷されていた。
可南子は声に出して読み始めた。
―8年後のお父様とお母様へー
佐和子はあと2週間後に小学校を卒業します。このお手紙はきっと、二十歳になった私と一緒に読んでいると思います。そばにいる二十歳になった私さん、中学校生活はどうでした? 楽しかったですか? 高校生活はどうでしたか? ボーイフレンドは出来ましたか? 今は大学生ね。 恋人はいるのかなあ・・・
お母様、私が7歳の時、おたふくかぜにかかって、ひどい高熱で苦しんでいるとき、何度も水枕を変えてくれたり、体を拭いてくれたりして、一生懸命看病して下さいました。ありがとうございました。
お母様の手料理はどれもすごく美味しいです。世界一です。
そして、お母様の弾くショパンのノクターンは、美しくて、佐和子は大好きです。
私はいつも優しいお母様が大好きです。
お父様、いつも、お仕事大変だと思います。
お医者さまは、人の命を預かるとっても責任の重いお仕事だから、辛い事や苦しいこともたくさんあると思うけれど、お父様は、家では、一度もそんな顔を見せず、私や麗子にとっても優しく接してくれます。私はそんなお父様が大好きです。
私もこれからうんとお勉強して、いつか大きくなったらお医者様になって、お父様を助けたいと思います。もう少し待ってくださいね。
麗子は今は4歳だけれど、とっても繊細な心を持っている気がします。
だから心が傷つきやすいかもしれません。
あの子の心はガラスのハートだと思います。
未来の私さん、麗子をどうか守ってあげてね。
袋に入ってるヘアリボンとハンカチと櫛は、今、私が一番大事にしているものです。
麗子がもし欲しいと言ったら、渡してあげてくださいね。
私にはもう必要ありません。
だって、私はこれから中学生ですから。
素敵な大人の女性になる階段を上がって行きます。
―3月9日 6年1組 青木佐和子―
読み終わった可南子の目には、涙が溢れていた。
修二と由美の目にも涙が滲んでいた。
結花は大粒の涙をこぼしていた。
由美が言った。
「私たち、佐和子ちゃんの分まで長生きします。ね、結花」
「・・・うん・・・」
可南子は過去を悔やむように、
「あの子は中学へ進学することをすごく楽しみにしていたの・・・だのに、私があの子の楽しみも、夢も、みんな・・・」
閉じた目から涙がこぼれ落ちはじめた。
「おば様! それは違います! あの事故はおば様のせいではありません!」
由美は必至で声を上げた。
「そうだぞ、可南子! お前はあの時、男の子の命を救ったんだ! お前があの時、ハンドルを左へ切らなければ、間違いなく男の子は死んでいた!」
「でも・・・でもそのために、佐和子が・・・私が殺してしまったんです・・・」
手紙を持つ可南子の手が震えだした。
過去に心に負った傷は、8年と言う長い歳月という薬で、癒えたはずであった。
誰もみなそれを疑わなかった。しかし、可南子の心の傷は、8年と言う歳月では癒せないほど深いものであったということを、今、修二は、手紙を持つ手を震わせる可南子を見て、初めて気がついた。
由美と結花が応接間を出る時、可南子はソファーから立ち上がれなかった。
二人はドア口で立ち止まって振り返った。そして、由美が声をかけた。
「おば様、私、上手く言えないけれど、おば様が悲しまれると、天国にいる佐和子ちゃんも悲しむと思います。今の私には、こんなことしか言えません。ごめんなさい・・・」
由美と結花には、気落ちした可南子を慰めるすべが無かった。
「ごめんなさいね、お見送りしなくて・・・」
可南子は、ぼーっと、目の前の机の上の物を見つめながら、力のない声で返事をした。
修二と家政婦の富美が、由美と結花を玄関口まで見送った。
由美が玄関のドアを開けようとノブに手を掛けようとした時であった。
「ただいま!」
明るく澄んだ声とともに、眩いような美しさを湛えた少女がドアの向こうに現れた。
ほっそりした体つきと、透き通るような白い肌、そして、何処か潤いを含んだような、黒目がちの、つぶらな瞳が、少女の穢れを知らない純粋な心を表しているようであった。
12歳にしては少し小柄で、肩まで伸びた黒髪を頭の後ろで一つ結びした少女の背中にはバイオリンケースが背負われていた。
「あら! 麗子ちゃん?!」 驚いた由美が声を上げた。
「あっ! はい・・・?」麗子はドアの傍で立ち止まって、戸惑いながら返事をした。
「麗子ちゃん!・・・」結花も8年ぶりの少女との懐かしい出会いに目を細めた。
麗子は見覚えのない二人に親し気に呼びかけられて困った顔をしながら、小さく頭を下げて玄関に入った。
「麗子、佐和子のお友達の由美さんと結花さんだよ。と言っても覚えてないか」
修二がそう言うと、
「えっ! お姉様の?!」
突然光が差したように麗子の顔に明るい表情が浮かび上がった。そして、改めて、由美と結花に向き直って、丁寧にお辞儀をしながら、
「青木麗子です」と挨拶をした。
「わあ、やっぱり綺麗になってた! ううん、想像以上だわ! ねえ、由美」
結花は麗子のあまりの美しさに、感嘆の声を上げた。
「うん、麗子ちゃん、私たちの事、覚えてる?」由美が問いかけると、
「ごめんなさい・・・」麗子は目を伏せて肩をすぼめた。
由美と結花は、せっかく麗子と8年ぶりに再会できたのに、わずかしか話も出来ずに青木邸を去ることに、後ろ髪を引かれる思いであった。
修二は、可南子の心労を考え、通いの家政婦の富美に、休日の変更を相談した。現在の、月曜と木曜の休みを、木曜日のみにできないか打診した。富美は快諾してくれた。富美も家庭に、夫と中学生の一人娘、そして義母を持つ身であったが、今の娘が生まれる前に、一度、妊娠11週目で流産の経験があった。そのため、わが子を失った可南子の悲しみと、心の痛みが手に取る様に感じられたのである。時間はこれまで通り、午前9時から午後6時までで変わりなかった。
修二から母親の様子を聞いた麗子は応接間へ向かった。
「お母さま」
「あー、麗子ちゃん、悪いけど、サッシを少し開けてくれる。空気を換えたいの」
可南子はいくらか落ち着きを取り戻していた。机の上に広げていた小物は、手紙と一緒にビニール袋の中へ戻されていた。
麗子は、背中のバイオリンケースを下ろすと、芝庭に面したサッシを開けた。さっと吹き込む初夏のそよ風が、白いレースのカーテンを揺らし、麗子の頬を撫で、黒髪を揺らした。
「こっちへいらっしゃい」
「はい」
麗子は、可南子の隣のソファーへ腰を下ろした。
可南子は、麗子の頭の後ろの髪留めを外してやりながら、
「今日はお教室で何を練習したの?」
「来月の発表会で演奏する『愛の悲しみ』です」
「ああー、クライスラーね、素敵な曲だわ。麗子も好きでしょ?」
「ええ、バイオリン曲の中で、私、一番好きです」
「聴きたいわ。麗子の『愛の悲しみ』を」
「でも、まだ・・・」
「お願い、聴かせて」
「・・・はい」
麗子は、4歳からバイオリンを習い始めた。それは、突然の姉の佐和子の死が、まだ幼かった麗子には現実として受け止めることが出来ず、姉を慕って悲しむ姿を見かねた修二が、少しでも心の慰めになるならと思って始めさせたのであった。しかし、感受性の豊かな麗子の音楽の感性は、教室へ通い始めると、目を見張るスピードで磨かれていった。東京都が主催したジュニアコンクールの小学生部門で、小学6年の麗子はついに1位に入賞した。しかし、麗子はプロを目指す考えはなかった。麗子は、父親の後を継ぐために医師を目指していたのであった。
麗子はソファーから立ち上がると、ドアの傍へ行って、床におろした赤いバイオリンケースのふたを開けた。そして、左手にバイオリン、右手に弓と白いハンカチを持つと、そよ風が流れ込むサッシの傍に立って、バイオリンを左肩の上に乗せ、ハンカチを顎とバイオリンの間に挟んだ。慣れた手つきで、糸巻を回してチューニングを終えた。
麗子は弓を構えた。じっと目を閉じた。耳元をよぎる風の音を聞いた。
麗子は待っていた。心の底から湧き上がる感性のほとばしりを、そして、幸せの喜びが体中に満ちるのを・・・。
肩まで垂らした黒髪がそよ風になびくと同時に麗子の弓が動き始めた。柔らかな抑揚のある旋律が、奥深い情感のある音楽が、美しいバイオリンの音色に乗って、奏でられていく。豊かな黒髪が音楽に合わせるように優しく踊る。白の長袖のスクールブラウスと紺と白のチェックのスカート姿の少女の体は、バイオリンと一つになって音楽に揺れた。麗子はバイオリンを弾ける喜びを全身で感じているようであった。
可南子は目を細めながら見つめ、じっと聴き入った。心を締め付けていた目に見えない呪縛の糸が解かれていくように感じられた。可南子は、次第に優しいバイオリンの音色に誘われていくかのように目を閉じていった。閉じた瞼の裏に浮かんで来たのは、青空の下で、一面がうす紫色に染まる満開のれんげ畑であった。二人の姉妹が、仲良く、れんげの花摘みに夢中になっている。小さな女の子の頭には、れんげの髪飾りが。姉の胸には、れんげの首飾りが掛けられている。姉の方が立ち上がった。向こうへ歩き出していく。妹が後を追いかけるが姉は振り向かず去って行く。妹は泣きながら後を追いかけるが、姉は振り向かず向こうへ、どんどん歩いて行って消え去ろうとする・・・。
「待って・・・佐和子・・・」可南子の瞼の裏に浮かぶのは、消え去る佐和子の後姿であった。
「お母さま! お母さま!」
麗子の呼ぶ声に、可南子は、はっと、目を開けた。
「佐和子・・・いてくれたのね・・・」可南子の手が、麗子の腕をつかんだ。
「お母さま! 私は麗子です! しっかりして! お母さま!」
麗子は今にも泣きだしそうな顔で、おぼろげな目でくうを見つめる可南子に必死に呼びかけた。
「・・・麗子ちゃん・・・」可南子は、やっと正気に戻った。
「お母さま・・・」麗子は、可南子に抱きついて大粒の涙をこぼしだした。
「もう大丈夫だから。泣かなくてもいいのよ、ね」
可南子は、小さな子をあやすように、胸元で涙を流す麗子の背中を優しく撫でてやった。
そして、麗子が泣き止んでから、タイムカプセルの事を説明してやり、8年前に姉の佐和子が大事にしていた、ピンクのヘアリボン、花柄のオレンジ色のハンカチ、赤い櫛を麗子に見せた。姉の形見を何も持っていなかった麗子は、それらを喜んで受け取った。
その夜、可南子は夢を見た。
リビングの固定電話のベルが鳴った。可南子は受話器を取った。
「はい、青木でございます。あっ! 先生ですか。いつも佐和子がお世話になります」
電話は、佐和子のクラスを受け持つ木村先生からであった。
「えっ! 佐和子が・・・」可南子は顔を曇らせた。
車を運転する可南子、後ろの席には4歳の麗子。チャイルドシートに、シートベルトで固定されている。
「嫌な天気・・・」フロントガラスから空を見上げて、ぽつりと言った。
空はどんよりとした曇り空。
可南子は腕時計を見た。午後1時15分。
車が小学校の校門の前で止まった。6年生の佐和子がドアを開けて助手席に座ってドアを閉めた。
「シートベルト、大丈夫?」
「はい、お母様」
可南子は、車を走らせた。
対向車線の車が込みだしてきた。
後方で救急車のサイレンの音が聞こえる。
交差点で赤信号で止まった。
「麗子、今日は幼稚園 行かないの?」佐和子が尋ねた。
「今日、幼稚園、創立記念日でお休みなのよ」
「ふーん・・・」
青信号に変わった。可南子はまた車を走らせた。
「お熱、測ったんでしょ?」
「はい、保健室の先生に測ってもらったら、37度8分って言われました」
「あらあ、ちょっと高いわね。やっぱりインフルエンザかしら?」
「でも、ワクチン、私、打ってあるわよ」
「そうよねえ、何の熱かしら? 顔色だって、そんなに悪くないみたいだけど。とにかく、いつもの病院、今日予約取ってないから、駅の反対側にある病院へ行くわね。あそこならたぶん空いてるから、すぐに見てもらえると思うから」
「はい」
2車線道路で前方は空いている。
可南子は少しスピードを上げた。
「ママ・・・あけて・・・」
後ろで麗子の声がする。
「どうしたの? 麗子ちゃん?」
「おかしのふくろがあかないの」
「佐和子、悪いけど、ちょっと開けてやって」
「はい」
対向車線が大渋滞となってきた。
後方で、また救急車のサイレンの音が聞こえる
「何かしら?」
左手に制限速度が60キロの標識が見える。
可南子はスピードメーターをみた。50キロ。
フロントガラスが、ぽつりぽつりと濡れ始めた。
可南子はハンドル左横の小さなレバーを一つ下げた。
フロントガラスのワイパーが5秒間隔で動き出した。
ついに、対向車線は渋滞で車がまったく動かなくなった。
前方対向車線側に、大型トレーラーが見えた。
「だめだわ、外さないと手が届かないわ」佐和子の声が聞こえた。
カシャッと、助手席でシートベルトの外れる音がした。
佐和子が後ろへ身を乗り出す。
「かしなさい。お姉ちゃんが開けてあげるから」
対向車線の大型トレーラーが目の前に近づいた。
その時、突然、大型トレーラーの後ろから白いサッカーボールが転がり出てきた。と、すぐに後を追う様に小さな男の子が右前方に飛び出してきた!
「あぶないっ!!」
可南子はとっさに急ブレーキをかけた! と同時にハンドルを左へ大きく切った!
左前から電柱が向かってきた!
「ぎゃあーっ!!」という可南子の激しい絶叫が寝室に響いた!
突然の大声に、隣のベッドで寝ていた修二が飛び起きた。急いで明かりをつけた。
見ると可南子はシングルベッドの上で半身を起こしていた。目を見開き口を大きく開け、体を震わせ、狂人のような形相であった。
2階で寝ていた麗子が階段を駆け下りてきた。ドアを開けて目に飛び込んできた母親の異様な形相に、パジャマ姿の麗子は体が凍り付いたようにドアの傍で立ちすくんだ。
「お母様・・・」
麗子は可南子の傍へ行き、膝立ちになり手を握った。
「麗子、すまないが、コップに一杯、水を持ってきてくれないか?」
だが、麗子は、涙ぐんだまま、可南子の傍を離れようとはしなかった。
「早くしないか!」修二の怒鳴り声で麗子は驚いて立ち上がり、急いでキッチンへ向かった。
修二は、整理ダンスの上に置いてあった薬箱の中から鎮静薬を取り出した。
そして、一粒を手にすると、
「これを飲みなさい。落ち着くから」と言って、可南子の口へ入れようとしたが、
「嫌っ! もう薬は飲みたくない!」
修二の手を払いのけた。修二は床に落ちた錠剤を拾い上げて、
「可南子、飲むんだ! 俺は医者だぞ! お前は医者の妻だろう! それとも俺の言うことが信用できないのか!?」
可南子は目を伏せた。
「さあ、口を開けて」
可南子はゆっくりと口を開けた。そして薬を含んだ。
麗子が水の入ったガラスコップをもってくると、修二は水を飲ませてやった。
ゴクンという鈍い音が深夜の静寂に小さく響いた。
修二は、可南子の体をゆっくりと倒していった。
「麗子はもう寝なさい。お母様はもう大丈夫だから」
「でも・・・」
「心配しなくていいから。俺がお母様の傍についてるから。早く寝なさい。寝坊したら学校に遅刻してしまうぞ」
「・・・はい」麗子は、立ち上がると、顔に不安の表情を浮かべながら二階へ上がって行った。
「あなた・・・」可南子は、修二の腕をつかんだ。修二はベッドの端に腰を下ろした。
そして、可南子の片手を自分の両手で挟んだ。
「もうじき薬が効くから、目を閉じてなさい」
「私、また、あの事故の時の夢を見てしまって・・・ずーっと長い間、見なかったのに・・・」
「大丈夫だから。俺がそばについてるから。目を閉じなさい・・・」
「はい・・・」可南子は、微かな眠気を感じて目を閉じた。
「・・・あなた・・・ごめんなさい・・・あなたの、だいじなむすめを・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・あなた・・・・・・」
可南子は、深い眠りに落ちていった。安らかな寝顔であった。
修二は眠りについた可南子の顔をじっと見つめた。その寝顔が、何故か修二は、8年前事故の衝撃で意識を失って二日間、病室で眠り続ていた時の可南子の顔と同じだと思った。
車は、左前面から道路わきに立つ電柱へ激しく衝突した。車体左前面に電柱が大きく食い込んで車は止まった。コンクリート製の電柱の根元が、くの時に折れ、事故の凄まじさを物語っていた。
本来、運転席も助手席もエアバッグがすぐに膨らむはずであったが、膨らまなかった。のちの調査で側面方向であったためにセンサーが正常に働かなかった可能性があったことが判明した。
可南子は頭部を激しくハンドルへ強打して意識を失った。幸い、シートベルトのおかげで、首の捻挫以外は大きな外傷は無かった。4歳の麗子はチャイルドシートのおかげで無傷であった。
しかし、シートベルトを外していた12歳の佐和子の体は、衝撃でフロントガラスを突き破り、道路左側の歩道へ後ろ向きのまま放り出された。後頭部脳挫傷により即死であった。放出時、一度、電柱との接触で後頭部を骨折し、さらに歩道に落ちた時に脳挫傷となったことが確認された。
事故の二日後、佐和子の死と、その死にざまを修二から知らされた可南子は、その夜、自殺未遂を起こした。病院屋上から飛び降りかけたところを、警備員が気づいた。
退院後、うつ病を発症した可南子であったが、1年後、心の落ち着きを取り戻していたのであった。
日曜の夜が明け、本来なら何も変わりのない月曜の朝のはずであった。しかし、この日に限っては特別の朝であった。少なくとも未明の修羅場を味わった修二と麗子の二人はそう思っていた。ところが、修羅場を演じた本人の可南子の様子が一変していた。
ゆるくカールのかかったセミロングの黒髪を、後ろで一つに束ね、まるでこれからパーティにでも行くかの如く、淡いブルーのフォーマルドレスを着こみ、クラシック音楽らしい曲を楽し気に口ずさみながら、何事もなかったかのように朝食の準備をしていたのである。
「お父様・・・あれ」
麗子は、ダイニングの椅子に座るなり、キッチンに立つ可南子の姿に不気味な奇異を感じて、目の前の修二に目くばせした。先に朝食を終えて、コーヒーカップを片手に朝刊に目を通していた修二が、麗子に対して首を横に振った。父親の無言の言葉を察して麗子は、キッチンから視線をそらした。
「はい、麗子ちゃん」
麗子の目の前に、トースト一枚とサラダとハムエッグの乗った皿と、ホットミルクの入ったカップが置かれた。
「有難う、お母様」
毎朝見る母の笑顔には変わりなかったが、麗子には、何処か他人の様にも感じられた。その理由を知りたい気持ちを抑えられなかった。
「お母様」
「なあに? 麗子ちゃん」
「その・・・」麗子は、言いかけたが言葉がつかえた。
「麗子、やめなさい」修二が制したことが、逆に弾みとなって、麗子の背中を強く押した。
「お母様! 変です! ううん、お母様だけじゃない! お父様までが変だわ!」
麗子はこれまで一度も、父親にも母親にも言葉を荒げたことが無かった。修二も可南子も麗子にとっては自慢の両親であった。だが、今、麗子は心の中に、黒い影のようなものがうごめくのを感じた。麗子は両親に疑念を抱きだしていた。
「麗子ちゃん、お母様のどこが変なの? ほら、お母様、綺麗でしょう」
可南子は、そう言って、笑みを浮かべながら、麗子の前でくるっと一回転して見せた。
ふわっと、可南子のフォーマルドレスが舞った。
「やめてっ!」
麗子は思わず大声を上げて立ち上がった。
「麗子! 落ち着きなさい!」
修二も立ち上がって、麗子に近づこうとした。
「嫌っ! 来ないで!」麗子は怯える様に後ずさった。
「麗子ちゃん、あなた一体どうしちゃったの?」
可南子の顔から尋常ではない麗子の様子に笑みが消えた。
「さあ、お母様の手を握るの」可南子は右手を差し出した。
麗子はその手を振り払った。
「もういや! もういやだ! お父様もお母様もみんな嫌い!」
麗子は喉から絞り出すような声で言った。
激しい怒りが胸の中で渦巻いた。
麗子はカバンを持つと、逃げ出すように家を飛び出した。
玄関を出ると、駅に向かって走った。
自分を包み込んでくれると信じていたものに裏切られた思いがした。
それが悲しかった。悔しかった。
麗子は涙が止まらなかった。
午前の1時限目の授業中、麗子は、今朝の事をぼんやりと考えていた。
どうして、私は両親にあんなひどい事を言ってしまったんだろう・・・。
あそこまで言わなくてもよかったのに。
どうかしてるわ、私・・・。
窓際の席の麗子は、窓の下に見えるグラウンドをぼーっと眺めていた。
グラウンドでは、女子生徒たちが、体育の授業で校庭の周りを走っている。
麗子の通う中学は、有名私立大学付属の中高一貫の女子校で、付属大学の医学部を目指すために、今年、受験をして入学したのである。
麗子は、8年前に亡くなった姉の佐和子にわずかながら嫉妬心を抱いていた。幼かったころは、まだ、姉を慕う気持ちが強かったせいもあり、そんな思いはなかった。しかし、姉の亡くなった年齢に近づくにつれて、姉を慕う気持ちより、姉に負けない娘にならなければという思いの方が強くなってきた。好きなバイオリンより、医師になるという勉学の道を選んだのも、両親の目を姉より、自分に向けさせたい思いからであった。
だが、昨日、せっかく母親を慰めるためにバイオリンを弾いたのに、弾き終わった後、母親は、私の事を姉と見間違えたことに、麗子は、自分の存在を否定されたような思いを抱いたのである。
未明に母親が大声を上げたのも、姉の事故と何か関係があるのでは?と麗子には推測できたが、父親は、追い出すように、麗子を部屋から出した。
そして、今朝の母親の異形な姿を見ても、父親は、麗子を寄せ付けようとはしなかった。
父親と母親、そして姉の佐和子の3人だけの世界から麗子は、自分一人がはじき出されているような思いを感じたのであった。
あたしはもう、今までの様に毎朝、ホットミルクを飲む女の子じゃないの。
あたしはもう、子供じゃない・・・。
9時前に家政婦の富美がいつものように青木家に仕事にやって来た。富美は、可南子のドレス姿を見て外出でもするのかと勘違いをした。修二は出勤前に、富美に事情を説明して、何か異常があればすぐに連絡をしてほしいと言い残して、愛車のBMWで、渋谷区にある自分のクリニックへ出勤した。
可南子は決して、意味もなくフォーマルドレスを身にまとったわけではなかった。未明に恐ろしい夢を見たことにより、佐和子を失った現実から少しでも逃避したかったのである。
佐和子がまだ6歳の時、可南子は佐和子と一緒に、ピアノの連弾の発表会に出たことがあった。可南子の衣装は、淡いブルーのフォーマルドレスであった。衣裳部屋の姿見の鏡に映る同じドレス姿を見ていると、佐和子がまだ生きてるように可南子には感じられたのであった。
可南子は応接間にいた。ピアノの前に座った。左横を見ると、6歳の佐和子が座っていた。
長い髪をピンクのヘアリボンで一つにまとめ、細面の笑顔の中に小さなえくぼを浮かべて可南子を見上げていた。
二人は、息を合わせて、発表会で弾いたショパンのノクターンを奏で始めた。伴奏部の可南子の左手は幼い佐和子の両手であった。可南子の右手は旋律を奏でた。二人は音楽に合わせて体を揺らし、見つめあい、心が一つとなった。可南子の耳には聞こえてきた。赤ん坊の佐和子の泣き声が、遊園地ではじゃぎ回る佐和子の笑い声が、バスルームで一緒に歌った佐和子の歌声が、そして、霊安室で頭に包帯を巻かれた佐和子の声のない泣き声が・・・。
可南子の手が止まった。横には佐和子の姿はなかった。可南子は目を伏せていった。
閉じた目から涙がしずくとなって落ちていった。
「あの子は死んではいないの・・・死ぬはずがない・・・生きているの・・・」
可南子は、大事なことを思い出した顔つきで、2階の納戸へ急いで向かった。通路の突き当りの3.5畳の小さな部屋が納戸だった。明り取りの小さな窓と備え付けの2段の棚が付いているだけの殺風景な部屋だった。
中には、修二のゴルフ道具や掃除機、古い家電製品などが雑然と置かれていた。棚の下段には、40センチ四方の段ボール箱が2個、並べて置かれていた。可南子はそれらを、床におろした。二つとも箱の上には『遺品』とマジックで書かれていた。
一つ目の箱を開けると、中には、綺麗に折りたたまれた可南子の衣服や肌着類が入ったビニール袋がぎっしりと詰め込まれていた。二つ目の箱を開くと、ノートや筆箱や教科書、漫画本などが詰め込まれていた。可南子はそれらを一つずつ取り出して中を調べた。可南子は、佐和子が8年後の自分へ向けて書いたはずの手紙を探していた。しかし、何処にも見当たらなかった。
「なぜないのかしら・・・」
残りの遺品は、棚の上段に置いてある赤いランドセルと、貯金箱のみであった。
「きっとあの中に・・・」
可南子は棚からランドセルを下ろした。ふたをめくって中を見た。しかし、空っぽだった。
「ここだわ」前ポケットのジッパーを開いてみた。
中には、一枚の4つ折りにたたまれた白い紙が入っていた。
「やっぱりあの子は、自分あての手紙を書いていたんだわ」
可南子は紙を取り出して広げてみた。
しかし、それは、3月23日の卒業式に関する親への連絡事項であった。日付は3月9日となっていた。佐和子が親へ渡すのを忘れていたのであった。
可南子は、ため息を付くと、その紙をもとへ戻してジッパーを閉めた。
手紙はどこにも見つからなかった。
可南子は諦めて散らかした遺品をかたずけて納戸を締めかけた時であった。
『私がお嫁に行くときまで番号を教えないでね』
可南子の耳に、佐和子の言葉が聞こえたような気がした。
そうだわ、確かあの貯金箱は、「お嫁入りの時に開けて使うの」と言っていたわ。
まさか・・・。
可南子は、もう一度中へ入って、貯金箱を棚からおろしてみた。
貯金箱は、金属でできたプッシュボタンの付いた黄色い電話ボックス型のものであった。
大きさは小さな子供でも抱きかかえられる程であった。上蓋が受話器の形になって、受話器を持ち上げると、ふたが一緒に持ち上るようになっていった。前面のプッシュボタンで解除コードを打ち込むと上のふたのロックが解除される仕組みであった。前面の投入口は、硬貨以外に紙幣も入れられるようになっていた。佐和子が小学三年生の進級祝いの時にねだったものであった。
振ってみると、硬貨がぶつかる音がするだけであった。貯金箱をひっくり返して、紙幣の投入口から中を見ても真っ暗で何も見えなかった。
金属の上蓋はロックがかかってびくともしなかった。
解除コードの番号をセットしてロックを掛けたのは、可南子であった。12年も前だった。番号の記憶が無かった。思い出そうとしても、何も浮かんでは来なかった。
プッシュボタンの下に解除コードの入力方法が印刷されていた。
6桁の番号を入力して最後に#を押す、やり直しは*を押す。
初めに、佐和子の誕生日を西暦と月で入力したが開かなかった。同じように、可南子の誕生日、修二の誕生日、麗子の誕生日を打ち込んでみたが開かなかった。
佐和子の知らない番号のはずであったので、開かなくて当然であった。
(佐和子が絶対に知らない番号、でも私が絶対に忘れない番号、一体私は何の番号をセットしたのかしら?)
可南子は記憶の糸を手繰る様に、12年前の情景を思い出そうとするのだが、気持ちとは裏腹に霧か煙がかかったようになって、番号の部分だけが思い出せなかった。貯金箱を渡したことも、佐和子が喜んでいる顔も、コードをセットしたことも記憶にあった。だのに、番号だけがどうしても出てこなかった。
何故思い出せないのかしら?
私しか知らない数字、佐和子には絶対に分からない数字、私でなければ分からない数字・・・。
何かの数字をセットした記憶はあるのに・・・とても大事な数字を・・・。
一体私は何の数字をセットしたというの?
私しか知らない数字
私にとってとても大事な6桁の数字
私の人生にとって忘れてはいけない数字・・・私の人生・・・私は3歳から修二と結婚するまでずっと音楽に染まって生きてきた・・・
音楽?・・・そうだわ 私にとって音楽は私の人生そのものだった
私の音楽・・・私の音楽は、ピアノ・・・ピアノだけが心の支えだった・・・
私を支えてくれたのは・・・ショパン・・・
そうだわ! 私はショパンにあこがれて音大に入ったの! 首席で卒業できたのもショパンのおかげだわ!
そうだっ!!! ショパン!!!
突然、可南子の脳裏にはっきりと6桁の数字が浮かび上がった。
可南子は喜びと興奮で、体が震えそうになった。
プッシュボタンに指を近づけた。
指が震えた。
その震える指で、貯金箱のプッシュボタンを一つ一つ押していった。
181031
ショパンの誕生日であった。
「神様・・・」
可南子は6桁の数字を打ち込むと、最後に、震える人差し指で#のボタンを押した。
『カチャ』という音が聞こえた。貯金箱のロックが解除された。
可南子は貯金箱の上の受話器を握って上蓋を、そっと持ち上げた。
金属の箱の中には、10円玉や5円玉、1円玉の小銭が底から2センチ程度の高さまで溜まっていた。しかし、探していた手紙らしいものは見当たらなかった。
「無いわ・・・」
そう思った時であった。溜まった小銭の下の方に、小さな白い紙のようなものが見えた。取り出してみると、およそ3センチ四方ほどに小さく丁寧に折りたたまれた紙であった。中で開かないようにするためなのか、一辺にはセロハンテープが紙を抑える様にしっかり貼られていた。
「あの子らしいわ・・・」可南子は目を細めた。
佐和子は、友達に手紙を出すとき、封筒にのりで封をした後、必ずその上からさらにテープを貼って封をする癖があった。のりだけだと心配だからと可南子に言った。
可南子は、紙を破らないようにゆっくりとテープをはがしていった。
そして、はがし終わると、紙を広げた。
一枚の便せんであった。
8年後の両親に当てた手紙の様に、やはりこの便せんも文字欄の周りには赤紫色のレンゲの花が囲むように印刷されていた。
一度書いてから全部かき消した跡があった。消しゴムの残りかすが、わずかに付いていた。
可南子は納戸の床に座り込んで読み始めた。
―未来の私さんへ一
結婚おめでとう!
いまいくつなんだろう?
私はもうじき小学校を卒業よ 4月から中学生になるのよ
すごく楽しみなの! だって、中学生になったら新しいお友達もたくさん出来るし、小学校で学べなかった新しいことがたくさん学べるもの。
今までは子供だったけれど、これからは、子供じゃないの。
私は大人になるの ううん ならなきゃいけないの。
ピンクのヘアリボンも花柄のオレンジ色のハンカチも赤い櫛ももう卒業するわ
私ね、中学生になったら、お父様、お母様ではなく、お父さん、お母さんって呼ぼうと思うの
上手く言えるかなあ?
お母様、私がお母さんって言ったら、どんな顔するかなあ?
びっくりするだろうなあ?
お母さんって早く呼んでみたいなあ・・・
未来の私さん、お相手はやっぱりお医者様かしら?
新婚旅行は何処へ行くのかなあ・・・
貯金箱のお金、いくら溜まったのかしら?
未来の私さん、そのお金の使い道は知ってるわよね?
そう、そのお金で、お父様とお母様へプレゼントを買ってあげるのね。
だって、私はもうじき結婚するんだもの
プレゼントはそのお礼なの
どうか幸せになってね 未来の私さん
そして、素敵な子供たちに囲まれて、うんと幸せになってね
私もこれから幸せになります
じゃあ バイバイ
―3月9日 青木佐和子―
明り取りの小さな窓から午後の陽射しが差し込んできた。
その光が、可南子の頬を伝わる涙を輝かせていた・・・。
「遅発性脳障害?・・・」
携帯電話を耳に当てていた修二は、大学時代の友人で、現在、脳神経内科クリニックを経営している戸沢浩二から思いがけない病名を聞いて愕然とした。修二は、3時からの午後の診察を始める前に、今朝の可南子の異様な姿や未明の絶叫を上げた姿、佐和子の友人の由美や結花の顔がすぐに分からなかった様子などを、戸沢に相談していた。
「躁うつ病じゃないのか?」
修二は、むかし交通事故後にしばらく患ったうつ病が、タイムカプセルから見つかった佐和子の手紙で、躁うつ病と言う形で再発した程度だとばかり思い込んでいた。
「もちろん、まだ直接診察したわけじゃないので、確かにお前の言う様に、双極性障害の可能性も否定はできないが、認知症の一種である遅発性脳障害の方が俺は可能性が高いような気がするな」
「やはり、事故の時にハンドルに頭部を強打したことが影響して?」
「おそらく。もし躁うつ病なら、そんなに突然人格は変わらないはずなんだ。可南子さんの場合、未明に喚き声をあげたかと思うと、今朝は別人のようになってドレスに着飾って笑って踊って見せたりするのは、どうも少し違うような気がするなあ。むしろ、事故の後遺症と見たほうがいいんじゃないのかな?」
「でもあれから8年も経つんだぞ。なんで今頃?」
「いや、遅発性脳障害は数年後、中には数十年後に発症することもあるから、8年程度だと十分にありうるんだよ」
「じゃあ、佐和子の手紙が可南子の脳障害を進行させてしまったという事なのか?」
「いや、むしろ逆だよ。8年前から少しずつ進行はしていたが、目立つ形では出てこなかった。その手紙のおかげで可南子さんの病気が見つかったと考える方が正しいと思うな。もし、遅発性脳障害なら少しでも早く治療をした方がいいに越したことはないからな」
「治るのか?」
「可能性はあるが、今は診ない事には何とも言えないな。躁うつ病も発症している可能性もあるからな。とにかく明日にでも俺のところに連れてきてくれないか? まずMRIで脳の検査をしてみたいから。その結果次第では、心の専門家である臨床心理士の力を借りることになるかもしれんな」
修二は、携帯を切った後、可南子が由美と結花のことがすぐ分からなかったことを嘲笑してしまったことに後悔の念を抱いた。明日の午前の診察を臨時休診して、可南子を戸沢のクリニックへ連れていくことに決めた。
その日5時限目の授業が終わり、休憩時間に麗子はクラスメートの秋元美和とトイレにいた。麗子は個室のドアを閉めた。
隣の個室から美和が用を足しながら話しかけた。
「あなたはいいわよ、お父様がお医者様だから目的がはっきりしてるから。私の父ちゃんなんかペンキ屋だよ。なのにさあ、一人娘の私が将来、大金持ちの玉の輿に乗れるようにって、お金もないのに無理して、高い月謝払って、家庭教師までつけてさあ。私のためだっていってるけど、本当は、自分が先で楽したいだけにきまってんだから。第一、お嬢様学校なんか出たって、所詮、女は顔なのよ。男が真っ先に見るのはまず顔なのよ。学歴じゃないのよ。私のこの顔が、玉の輿に乗れる顔かどうか、麗子だってわかるでしょう?・・・ちょっとう、そんなことないよとか、なんか言ってよ。黙ってられると、私、みじめじゃない。・・・あーあ、母ちゃんは父ちゃんに愛想つかして出て行っちゃうしさあ、こんな学校、やめちゃおうかなあ・・・今月のお月様はまだ来ないみたいだし」
美和は用を足し終わると、立ち上がって制服を整えて水を流した。個室を出て、麗子を待った。
トイレには麗子と美和しかいなかった。
「ねえ、まだなの?」
麗子の返事が無かった。静かである。と、鍵の開く音がして、ドアが開いた。
「うん、遅いじゃない」
そう言って、個室から出てきた麗子の顔を見た瞬間、美和は息をのんだ。
麗子の顔が血の気を引いたように青くなっていたからだ。
「どうしたの! 麗子!」
「来ちゃった・・・」
「えっ?・・・」
麗子は微かに震える両手の指先を美和の前に差し出しながら、
「来ちゃったの・・・」
今にも泣きだしそうな声であった。
見ると、その指先には鮮やかな赤い血が付いていた。
「私のかばんを持ってきて・・・」
「かばん?」
「中に着替えが入ってるの・・・」
美和は両手で制するようにしながら、
「うん、わかった! いい、動かないでね! すぐ取って来るから!」
トイレを飛び出したところで、用を足しにこれからトイレに入ろうとする二人の学生と出くわした。
「だめ! ここはだめ!」
美和は二人を押し戻そうとする。
「何すんのよ! 邪魔だからどいてよ!」
「だめなの! 今、水漏れで、ここのトイレ、使えないの! 下のトイレを使いなさいって先生が!」
「えーっ! もう、面倒くさいなあ・・・」
二人の学生は、しぶしぶ、そばの階段を降りて行った。
美和は急いで、同じ階にある教室へ走った。
可南子は、中学へ進学した麗子にいつ初潮が来てもいいように、娘のカバンの中に、着替えの下着と生理用具などの入った袋を入れていた。麗子はそのことを思い出したのだった。
嬉しかった・・・。
不安もあったが、麗子は、母親の温かさが、その不安な心を包み込んでくれているような気がしたのだった。
もう今日から私は子供じゃない・・・。
麗子は赤い色に染まった自分の指を見つめながら、そう思った。
頭の中に、母親の喜んでくれる顔が鮮明に浮かび上がった。
早く母親を喜ばせてあげたい・・・。
早く喜ぶ母親の顔を見たい・・・。
麗子の心の中から不安が消えて、笑みが浮かんだ。
放課後、駅を降りた麗子と美和は、並んでバス通り沿いの歩道を歩いていた。
「今夜は麗子のうちはお赤飯だね」
美和が自分の事の様に顔をほころばせながら話しかけた。
「うん、でも、なんだか照れくさいなあ・・・」
麗子は心の中では、やっと大人の仲間入りができた自分が誇らしく思えた反面、本当に自分はこれから一人前の大人の女性になれるだろうか?
心の片隅にまだ影の様にいる子供の麗子の存在に惑わされていた。今一つ自信が持てなかった。
「そんなことないわよ。とってもおめでたい日なのよ。女の子が初めてお月様をお迎えした日は。私の母ちゃんなんか、去年、私の初めての日、泣いて喜んでくれたんだから」
麗子は驚いた顔をして、
「へー! そうなんだ、やっぱり」
「もちよ。もっとも、何にも知らない父ちゃんはお赤飯や御馳走見て、『おっ! 今日は結婚記念日だったか』っていって。そしたら母ちゃんが『あんた、結婚記念日は先月やったばっかりでしょう!どこの世界に年に2度も結婚記念日するうちがあるのよ!』なんて言ってさあ。もう長生きするよ、父ちゃんは」
美和が小さくため息を付いた。麗子の顔がほころんだ。
その時、美和が突然足を止めた。
「あら? あれ、もしかして麗子のお母さんじゃないの?」
「えっ?」
麗子は美和の視線の先の方を見た。バス通りの向かい側に建つ小学校のグラウンドを囲む金網の前に立つ、中背でやや細身の中年らしい女性の横顔が見えた。50メートル近く離れていたが、セミロングの髪型で淡いブルーのドレスを身にまとっていた。
「みたいね・・・」麗子は、微かな不安にかられた。
「何してるのかしら? グラウンドの方をじっと見てるみたいだけど?」
そう言って美和が、そばの交差点を渡りかけた時、赤信号に変わった。
「美和、もう5時を過ぎてるのよ。早く帰らないと、夕食の支度があるんでしょう?」
「えっ?」美和は腕時計を見た。
「あっ! ほんとだ、じゃあ、私こっちだから。バイバイ」
そう言って、美和は、交差点を渡らずに反対側の道へ足早に去って行った。
麗子は、美和を見えなくなるまで見送ると、交差点を渡ってグラウンドの方へ向かって行った。その中年の女性の横顔は、間違いなく可南子だった。
可南子は、横から麗子が近づいていることも気づかずに、グラウンドの方を身じろぎもせずに、じっと見ていた。
麗子は数メートル手前で可南子の足元を見て思わず足を止めた。室内履き用のピンク色のスリッパだった。麗子は心の中を冷たいものが流れるような気がした。さっきまで頭の中に浮かべていた母親の喜ぶ顔は今は想像すらできなかった。
麗子はゆっくり近寄っていった。母親の横顔は何かに心を奪われているようであった。
「お母様」
可南子は、はっと我に返ったように顔を麗子の方へ振り向けた。
「ああ 麗子ちゃん・・・」
無表情で、目はうつろであった。
「どうして、ここへ?」
麗子が尋ねた。
「さっきね、佐和子の声が聞こえたの」
「えっ?・・・」
「迎えに来てほしいっていうの」
可南子の顔にほのかな笑みが浮かんでいた。
「・・・お母様・・・お姉様はもういないのよ・・・」
麗子の目に涙が浮かんだ。
「・・・あ、そうだったわ・・・」
可南子は目を伏せた。
「あの子はもういないの・・・もういないのね・・・」
「うん・・・帰りましょう、おうちへ・・・」
麗子は可南子の手を握った。手をつないだ二人はグラウンドを後にして歩き出した。
日が傾きだして西の空が夕日に染まっていた。
麗子は、その赤く染まる空を見ながら、大人の体になった喜びを、そっと胸の奥へしまい込んだ・・・。
その夜、麗子は、クリニックの勤務を終えて帰ってきた修二に、今朝の暴言を詫びた後、母親の異常な様子を伝えた。しかし、
「お前は心配しなくていいから」と言うだけで、やはり麗子に立ち入らせようとはしなかった。
娘に余計な苦労を掛けたくないという父親の心遣いは、麗子にはよくわかっていた。しかし、手を握った母親の顔に浮かんだ安らかな笑みを見た時、麗子は、心に満ち足りたものを感じ取っていた。そして、それが自分の進む道しるべのように麗子は感じた。
その日は遅くまで、麗子はパソコンの傍を離れなかった。将来自分の進むべき道である臨床医の情報に関して、様々なキーワードを入力してネット検索をかけていった。そして必要な情報や気になる情報は随時、傍のレーザープリンターに出力していった。麗子は、出力されたそれらの資料を、読み込みながら蛍光ペンを使って塗り込んでいき、やがて、ひとつの事柄が絞り込まれていった。
麗子の心は決まった。
深夜零時を回っていたが、麗子は一階に下りて父親の居る書斎のドアをノックした。
「お父様、大事なお話があります」
「今夜はもう遅い。明日の朝にしなさい」
中から太い声がした。
「今、お話したいんです」
しばらく間があって、
「分かった。入りなさい」
麗子はノブを回して、ドアを開けた。
5畳ほどの書斎の部屋の片側には、大型の木製の本棚が置かれ、そこには、医学専門書やそれに関連する本が隙間なく置かれていた。反対側には高級感のあるオーディオセットやレコード、CDなどが備え付けの棚に置かれていた。
修二は向かいの窓側に備え付けられたパソコンデスクの前のリクライニング型の椅子に背中を向けて座っている。
可南子は、1時間前に睡眠薬を飲んで、隣の寝室で熟睡していた。
椅子を回転させて修二は麗子の方へ体を向けた。
「どうしたんだ? こんな時間に」
「どうしても、今、お話しておきたかったんです」
麗子はドアの傍に立ったまま言った。
「お母様の事か?」
「いえ、私自身の事です」
「なに? お前自身の事?」修二が怪訝な顔をした。
麗子は一瞬、眉間にしわを寄せた父親の形相に、胸をわしづかみされたような痛みを感じたが、すぐに気を取り直した。
「はい。私は、お父様のクリニックを継ぐことは出来ません」
「どういう意味だ? それは? お前は俺のクリニックを継ぐために今の中学を受験して入学したんじゃないのか?」
「はい、確かに私はそのつもりで今の中学に入学しました。でも、世の中にはお医者様でも助けられない心の病気で苦しんでいる人がたくさんいます。摂食障害になってしまった人、発達障害の人、統合失調症の人、アルコール依存症になってしまった人、いじめで苦しんでいる子供たち・・・突然家族を失って、その悲しみから抜け出せない人・・・」
麗子の脳裏に、グラウンドを悲しげな眼で見つめる母親の姿が蘇った。
「私は大学を卒業したら、そういう人たちに寄り添える仕事をしたいと思います」
「お前は一体、何をしたいというのだ?」
「私は、心の専門家、臨床心理士を目指します。お父さん」
完
麗子