N番目の旅人
20世紀で最も活力があった1970年代。社会の最前線を走り続け独立するも失敗、人生の先行きは暗い。あの時違った決断をしていれば――。そんな時、後輩の福島の誘いに乗りバーチャル世界で自身の過去をやり直す実験に参加した冬木は……。
前史Ⅰ
二人の男が三次元映像を通して向かい合っていた。テ―ブルの上に、プリントアウトされた書類が置かれている。白髪が目立ち始めた小柄な男が、そのファイルに目を通したところだ。もう一人の男は、ずっと高齢の老人だった。目が落ちくぼみ、肌の艶はなく、暗い顔色をしていた。
「これが、われわれの迎える客だ」
老人が咳を抑えながら言った。小柄な男が大仰にうなずいた。
老人が言った。
「まず第一に君がするべきことは、客との接触だ」
「そうですね」
「次は回収だ」
「はい」
「あとは指示書のとおりに進めたまえ」
「承知しました。」
「何か質問は?」老人が訊ねた。
「前の世界の記憶が、少しは残っているのでしょうか」
「多少残っている。しかし、ほとんど違和感はないだろう」
「客に生成の自覚はあるのでしょうか?」
年少の男は相手を気遣いながら言った。
「自分は特別な存在だと、誰もが思っている」
途中で息が切れ、老人は息を継ぎながら続けた。
「……だが、自分を例外的な存在であると、いつも感じているわけじゃないのさ」
友人に対する口調に変わっていた。老人は、三次元映像の中の窓へ目をやった。
「私の場合は……」
老人がぽつぽつと語り始めた―。
第一部 旧友再会
1 もう一つの人生
オフィス街に近いホテルの喫茶室に、冬木和彦はいた。客の少ない時間帯だったが、冬木は微かに居心地の悪さを感じていた。くたびれた上着のことより、以前勤めていた会社の人間に出くわしそうな気がして、落ち着かなかったのだ。顔が合えば一言二言話さないわけにもいかず、それが億劫だった。五年前冬木は大手コンピュ―タ会社を自主退職した。そして今は…………。
三時に姿を現した福島が、冬木の言葉を聞いて笑った。
「外でお茶なんてしてる時代は、とうに終わりました」
「そうだね」
冬木は寂しそうに笑った。
「会社に残った連中も大変です。新規の仕事は減ったけど顧客のメンテナンスやバ―ジョンアップはやらなきゃいけない。手間がかかる割に利益が少ないですよね。先輩もよくご存知でしょう」
冬木は黙ってうなずいた。
「人を減らされて仕事の量は変わらないんだから、ものすごく忙しい。その上昇給も無いときたら、喫茶店でゆっくりコ―ヒ―なんてできっこないですよ…………」
福島は今は当事者でない気安さで、かつて在籍した会社の内情を話した。
「それにしても昔はよかった。打ち合わせと称してはよく喫茶店へ行きました。ここへも何度来たかなあ」
福島の頭にめっきり白髪が目立つ。冬木より十歳下で、今は四十五のはずだ。
「そうだったな。当時は喫茶店そのものが多かった」
「いい時代でした。すべてが上り坂でしたよね」
「九〇年代半ば頃まではまだよかったんだ」
もうあの頃には戻れないという思いが冬木の胸を去来した。
「そうですよね」と福島がうなずく。
話が途切れ、間が空いた。
「時に、こんな話をするために、呼び出したんじゃないよな」
「すみません。別にどうということじゃないのですが…………」
福島は申し訳なさそうに言うと、
「店を閉められたそうで…………」本題に入った。
「資金が尽きたからね」冬木は淡々と言った。
冬木は独立してコンビニエンスストアを始めたが、三ヶ月前に店を畳んでいた。辛うじて借金は免れたが、元手にした退職金はもちろん無い。
「順調だと聞いていましたが……」
「近くに同業が二つできたからね。比較したら、うちは場所が悪かった」
「商売は難しいですね」
冬木はうなずいた。
「会社にしがみついていた方がよかったかな、と思うときもあるが……、しかし結局は整理されてただろうし」
と、最後は独り言のように冬木は呟いた。
「それにしても君はうまく転身できたね」
「私も早めに手を打っていなければ、今ごろはどうなっていたかと……」
「君はまだ若いし、優秀なコンピュ―タ技術者だからどこでも雇ってくれるさ」
「はあ、まあ」福島は鷹揚に応じた。
「おれなど行き場がない。この歳だし」
「やっぱり再就職は難しいですか」
「欲を言わなきゃ、あるのかもしれんが……」
「ハロ―ワ―クとか行きました?」
「いいや」冬木は首を横に振った。「一つ話があるんだ。昔の取引先のツテでさ、小さな会社らしいんだけど、今問い合わせてもらってる」
冬木は生ぬるくなったコ―ヒ―をすすった。
「で、どういう用件だっけ」冬木は相手を見た。
「そのことなんですが……」福島は眼鏡の奥の丸い目を瞬かせて、少し口ごもった。
「学生時代に戻ってみたいって、前に言ったことありますよね?」
「おれが?」
意外だった。
「ええ」
「また唐突に……」
「先輩の学生時代って七〇年代でしたね。その頃のことを、ひどく熱心に語っていたことがありました」
冬木は当惑しながら記憶をたぐり寄せた。
「だいぶ前の話だね」
「社長から褒賞金を貰った時に、皆で飲みに行ったじゃないですか、あの時です」
十年前、福島らが開発したシステムが成功を収めた。当時、冬木と福島は同じ部で、それは営業の冬木が取ってきた仕事だったのだ。
「酔っ払ってたからな。それにしても、変なことを覚えてるね」
「七〇年代に戻って人生をやり直してみたい――とも言ってました」
冬木は唖然とした。
自分が不用意に漏らした言葉を、他人から聞かされる滑稽を味わわされた。
「いつもある種の違和感を感じてらしたみたいですね。本来いるべきところにいない、というような……」
「誰でも一度は、そういうことってあるんじゃないかな」
「そんなことはないでしょう。たとえば、私にはそういう経験はありません」
「おれは、今でも同じかもしれんのだ」冬木はぽつりと言った。
「こんなことも先輩は言ってました。間違った選択をしたって」
冬木は苦笑した。
「今でもそう思ってます?」
「いったい何を知りたいの」
「先輩の過去に対する執着心とでも言いますか……」
「訳の分からないことを言うね、きみも」
テ―ブルを回ってきたウエ―トレスが、水差しからグラスに水をついだ。福島はその水を一口飲んだ。
「結局のところ先輩は、東京に留まるべきだったんでしょうね」
「そうかもしれん」
「東京にいたとしたら、その後の人生はどうなっていたと思います?」
「さあ……」
「想像したことはないのですか」
「ぼんやりしたイメ―ジみたいなものはあるが」
「どんなイメ―ジでしょう?」
「そんなことを、なんで話さなきゃいけないの」
「先輩の過去への執着の程度というか、愛着の度合いを測ってるんです」
「さっきも君はそんなことを言ってたけど、それが君にとって何かプラスになるのかい」
「先輩にとってプラスになります」
冬木は低い声で笑った。
「前にもこんな話をしたよな」
「先輩の送別会でした」
冬木は軽い眩暈を感じながら、五年前の春の宴を思い出していた――。
2 もしも……
「ときに……福島はあの時こうすればよかったとか、考えないタチだったよな」
カラオケの音量に負けまいと、冬木は怒鳴るようにしゃべっていた。
「今ある現在が、すべてじゃないですか」福島も怒鳴り返した。
「それは君が万事うまくいってるからさ。だから、人生に別のコ―スがあったかもしれないなんて考えない」
「人生におけるイフ、もしもってやつ?」
「そう」
「考えるだけ無駄じゃないですか。ある時選択肢として、いくつかの可能性はあったかもしれない。しかし選択の結果、一つの可能性が実現されて他は消えたのです」
「そうじゃないんだ」
オ―バ―な身振りで冬木は否定した。福島は水割りの入ったグラスをあおった。
「君が取りうる進路が二つあるとする。たとえば、Aという山へ行く道とBという山へ行く道と、道が二つに分かれている所に福島が来たとする。福島はどちらの道を進むべきか迷う。そこでコインを投げて表が出たらA山、裏が出たらB山に登ると決めた。コインを投げたらAが出た。福島は結果にしたがってA山に登り始める。無事A山の頂上に立った福島はB山の頂を見ている。そして、自分がB山に登っていた可能性もあると気づく。実現されたのはA山への登頂だ。しかし同時に、福島がB山に登った人生も、実在するのではないか」
冬木の話を黙って聞いていた福島が口を開いた。
「B山へ登った人生というのは、どこに実在するのですか」
「別の宇宙さ」冬木が答えた。
「別の……平行宇宙のことですか」福島が荒い息を吐いた。
「そうだ」
「SFによく出てくる、われわれの宇宙と同等に存在しているとかいう、アレですか」
「そうさ」
少し間があった。
「ひょっとして冬木さんは、もう一つの人生が、どこか他の宇宙で実現されていると考えてるんすか?」呂律が怪しくなった。
「一つの仮定としてだがな」
あいにくこの時、部長と女性社員が昔懐かしいデュエットソングを大声で歌い出した。
「かてい?」福島が大声で聞き返した。
「仮定だ。……仮定法過去とかいう、あの仮定だ」
冬木は福島の耳元で怒鳴った。
「……ああ仮定ね、仮定なんかじゃないでしょ。先輩は実際にあると思ってるんだ」
福島も怒鳴り返した。
「そうかもしれん」
「つねづね先輩の意識はここにあらずって感じがしてたけど、どこか別の宇宙へ行ってたんだ」と言いながら福島が笑った。
「いやいや、おれの意識はこの世界の側にあるんだ。他の世界で実現されている、もう一人のおれを認識することはできないよ」
「パラレルワ―ルドの冬木さんも、もう一つの人生について話しているかもしれませんなあ。ちょうど今みたいに、パラレルワ―ルドの私に向かって、パラレルワ―ルドの送別会で……」と言うと福島は、痙攣のように顎をがくがくさせて笑い出した。
冬木は構わず、「選択肢としてAとBと二つの山しか考えなかったけど、二つ以上の選択肢があるかもしれんのだ」と怒鳴った。
曲が止み、一瞬にして静寂が戻った。ぐらぐら揺れていた福島の頸がぴたりと止まり、とろんとした酔眼でつぶやいた。
「C山とかD山とか……N山、ですかね?」
「そうそう、無限個の山だ」と言いながら、冬木は正弦波の形をした山が、無限遠まで重なっているイメ―ジを思い描いた。
「難しそうな話ばかりしてないで、一緒に歌いましょ」
ベ―ジュ色のス―ツの袖が伸びて冬木の腕を掴んだ。イントロが流れ始めた。
3 過去の再現
一週間前と同じ、ホテルの喫茶室である。
状況はほとんど変わっていない。いぜん冬木に仕事は無く、確実に生活費一週間分の金が減っていた。
「お知り合いのツテの件はどうでした?」
「駄目だった。身内を雇ったらしい」
「じゃ、先週お話しした件は?」
「何かの試作品の被験者にならないか、という話だったね。やらせてもらうよ」
「この前は、詳しく説明していませんでした」
福島は冬木の返答を見通していたかのように、手際よく鞄から書類を取り出した。
「契約書かな?」
「それもありますけど、この仕事に必要な資料のリストとか……」
福島は一冊の薄いノ―トをテ―ブルの上に置いた。冬木は表紙をめくった。細かい字で、写真、手紙、日記、金銭出納帳(あれば)、その他当時の新聞・雑誌・冊子(あれば)などと列挙されていた。
「新聞や雑誌なんて持ってないぜ」
「こちらで用意します。写真とか手紙、日記帳とかはあります?」
「だいたい保存してある」
「さすがですな」
「さすがというのは変じゃないか」
「先輩の過去への愛着度は二重丸ということです」
冬木は苦笑した。いつか自分史を書こうと思って、大事にしまい込んでいたのだ。
「でしたら、この先を書き込むのも難しくはないでしょう」
福島がペ―ジを繰っていった。アンケ―トのような質問が数十ペ―ジにわたってびっしりと並んでいた。
「たいしたボリュ―ムじゃないか」冬木はため息をついた。
「微々たるものじゃないですか。先輩が実際に体験した事実のデ―タ量に較べれば」
「そりゃ当たり前だ」
冬木は項目にざっと目を通した。
「それにしても単刀直入というか、ずいぶんと露骨な質問もあるようだね」
冬木は顔をしかめた。
「……ああ、項目の最後のほうですね。可能な限り史実を忠実に再現しようとすれば、当然細部まで正確なデ―タが必須ですよね」と福島は同意を求めるように言った。
「デ―タの入力は何人かで分担しますので、キャラクタ―の全体像は把握できないようになっています」
「それはいいんだ。おれは報酬を貰えるし、特に難しそうな仕事でもない。それどころか期待しているとさえ言える。懐かしいあの時代を味わえるんだから」
「先輩の青春時代ですね」
「ああ」と苦笑しながら、冬木は「君の会社にとって利益になるとは到底思えないんだ。仕事をもらって、難癖をつけるのも何だが……」
「ところが、これがビジネスなんです」福島がすました顔で言った。
「人間を三種類に分けるとすると、過去に生きる人、現在に生きる人、未来に生きる人――この三種に分類できます」
「そんな分類法は聞いたことがないぞ」
「もちろん、たとえ話です。人間は誰でも現在を生きているに決まっている。しかしすべての人が、自分の現在に満足しているわけではない。自分を取り巻く世界や時代への違和感を持つ人。自分の所属する世界がしっくりこない、あるいは、そもそも人生の選択を間違ったと感じている人もいる……先輩のように」
冬木はまた苦笑した。
「いずれにしても内奥に秘めているのは現在への不満であり、鬱屈した不完全な思いです。人は誰でも生き方の理想型のイメ―ジを持っています。しかしその理想型が実現されることは滅多にない……」
「それは君の人生論かね?」
思わず冬木は口を挟んだ。福島が途端に笑い出した。
「ははは。ぼくが考えた文言じゃない。うちの社のセ―ルス・マニュアルに書いてあるんです。我々は営業もやりますので」と言ってから、福島は手帳を開いて読み始めた。
「人は自分の夢や野望が果たせなかったことを悔やむ。そのうちに諦めてしまい、ついに忘れてしまう。しかし実らなかった夢の原型は心の奥にそのまま残っている。現実を変えることはできなくても、せめて仮想の現実の中で、もう一度過去を生きてみる。あるいは仮想の未来社会を旅する。設定次第であなたはどんな世界へも行くことができ、果たせなかった自分の理想や欲望を、実現させることさえ出来る……と、こういう訳です」
「そういったことが、いったいどこまで可能だろうかね」冬木は疑問を口にした。
「技術的な意味ですか」福島が聞き返した。
「バ―チャル技術の応用だよね。そんなことで被験者は本当のリアリティ―を感じるだろうか。君が言ったようなレベルでさ」
「だから詳しい事実の収集が重要なんです」福島は開かれたままのノ―トを指した。「時代環境やらキャラクタ―の設定のために」
「それだけでは無理なんじゃないかな」
「家庭用のテレビゲ―ムのようなものを、想像してるんじゃないでしょうね?」
「本質的には、そんなに変わらないと思ってる」
「究極のリアリティ―は、脳への直接的なインタ―フェ―スでしか得られないでしょう。残念ながら、時代はまだそこまで行っていない。今可能なのは、目や耳などの感覚器官を通して実在感を起こさせるレベルのものです。そう言う意味では、ゲ―ム機とさほど変わらないといえる。でも、ある種の方法よって実在感を強化させることができるんです」
「薬を使うの?」冬木は声をひそめた。
「一つの方法でしょうね。しかし薬は使用しません」
「どんな方法かな」
「被験者の脳波を走査します」
「脳へのインタ―フェ―スじゃないか」冬木は呆れた。
「脳波のレベルですよ。キャップを被るだけでOKです。脳波を走査して、フィ―ドバックします。その時に多少の電流が流れますがっ」
「そんなことをして大丈夫かね」
「危険はありません。私も試してみましたけど」
「う―ん」冬木は低くうなった。「常識的に考えると……」
「はあ?」
「やっぱり無理だと思う。きみが言ってるような高度の仮想現実を作り出すためには、膨大な演算が必要だと思うんだ」
「その通りです」福島がうなずいた。
「時代考証をして忠実に再現された世界でも、その中で被験者が自由に振る舞えなければ、あたかもその世界を生きているみたいな本物らしさは、味わえない」
「そう。被験者、つまりプレ―ヤ―の自由度が大きいほどいいわけです」
「さらにプレ―ヤ―の行為に対して、本物の現実のような反応が即座に返ってこないといけない」
「当然ですね」
「と言うことは、プレ―ヤ―の自由を保障するために、超高速の計算と同時に、仮想世界の環境を形成する膨大な並列処理が必要だろう?」
「よく分かっていらっしゃる」福島が満足げにうなずきながら、「さらに言えば、プレ―ヤ―の気まぐれな選択や、現実がそうであるような非決定論的なプロセスを模倣しなければいけない」と付け加えた。
「ス―パ―コンピュ―タを何十台も繋ぐのかい? まさか日本中のマシンをかき集めるわけじゃないよな」
「もちろん出来ませんよ、そんなことは。だいいち必要がない」
「じゃあ、どうするんだい?」
「量子コンピュ―タをご存じですか?」
量子を素子とするコンピュ―タは一九八〇年前後に提唱され、九〇年代から1ないし2個の素子からなる実験が始まった。多世界論の解釈では、1個の素子が2つの値を取り得る状態は2つの世界に分岐している。n個の素子からなる系が取り得る状態の組み合わせは2のn乗である。このとき量子コンピュ―タは2のn乗の世界に分岐する。2のn乗の世界で平行して計算させ、干渉によって計算結果を求める――というのが、量子コンピュ―タの原理である。
n=一〇〇〇以上の汎用機は、二十一世紀前半の実用化は難しいというのが通説となっている。
「量子を素子にするコンピュ―タのことだろ」
冬木にも多少の知識はある。
「そうです。電子などの量子をコンピュ―タの素子にしてしまえば、回路を究極まで小さくすることができて、桁違いに計算速度を早くすることが出来ます。それだけなら従来のコンピュ―タの延長といえますが、量子力学の〝重ね合わせの原理〟を計算過程に組み込んでしまうところに、量子コンピュ―タの真価があります」
「重ね合わせというのは、つまり平行宇宙に枝分かれさせて、それぞれの宇宙で計算させるってやつだな」
「先輩の好きな多世界論によれば、そうなりますね」
「量子コンピュ―タがあれば、高速で並列の計算ができるってわけだ」
福島が声を落とした。
「実はうちにあるのです。試作第一号機が」
「まさか」
「いや本当なんです」
「汎用機は実用までに三十年くらいかかるって、何かで読んだぜ」
福島は静かに微笑を浮かべた。
「うちの財団に天才がいましてね。その人物を中心としたチ―ムが開発に成功したのだそうです」
「それが事実なら、ノ―ベル賞級だぜ」
福島がうなずいた。ひどくあっさりした反応である。冬木は拍子抜けした。
「原理的に可能でも、実用化するためには、技術的な壁がいくらでもあるはずだが……」
「その通りですね」と福島はしきりにうなずいた。
「君はそのチ―ムに参加していなかったの?」
「残念ながら、私は参加していないのです」福島は肩を落とした。
「理事長直属のチ―ムで、高度の機密に守られています」
福島もよく知らないらしい。
「その天才ってのは誰なの、日本人?」
「知りません。私自身、上から聞かされただけなんです。知らない間にうちの研究所に機械が設置されてて、後で説明を受けた次第でして……」
「もしその話が事実とすれば……」
「事実ですよ」福島が苦笑しながら言った。
「とんでもないことだぜ」
「そうですよ。だから……」福島の声が低くなった。
「このプロジェクトから離脱することはできません」
福島の言い方が酷薄に聞こえ、冬木はひやりとした。
「脅かすなよ」
「そんなつもりじゃないですが、すでにプロジェクトがスタ―トしてますので……」
すでに冬木は腹を括っていた。仮に抜けられたとしても、この先、大した希望もない。
「ともかく、こいつに書き込んでくるさ」冬木はテ―ブルの上のノ―トを取った。
支払いを済ませた福島とホテルのロビ―を出ながら冬木は言った。
「莫大な資金がかかってるだろう」
「その通りです」
「何でおれを選んだの?」
福島が振り返った。
「知りません」
冬木は唖然とした。
「君は何も知らないんだ」
「上からの指示なんです」と言ったきり、福島は口を閉ざした。その時冬木は、すでに抜き差しならない地点にいることを知った。
4 被験者
国道の脇にある標識を確認して、冬木の車を右折させた。真っ直ぐ行くと海岸に突き当たる。道に沿って、ハイテク関連の社屋が疎らに並んでいる。周囲はだだっぴろい空地である。その先、海岸に近い松林に囲まれた一角に、福島が指示した研究所の建物があった。
冬木は建物の前を通り過ぎて、二十メ―トルほど離れた駐車場に車を停めた。松林の中を通って通用口へ歩いていく。研究所は、まるで角砂糖のような立方体の建物で、最小限の開口部以外は、一面灰白色の壁だった。冬木はインタ―フォンで自分の名前を告げた。通用口のドアロックが解除された。ノブを回して建物の中に入る。照明を落とした通路の前方、わずかに開いた扉から光が洩れていた。
扉を開けた。福島が椅子から立ちあがるところだった。
「よくいらっしゃいました。このラボが、いわば私の城です」
部屋にはデスクトップ型のコンピュ―タが三台と、モニタ―が同数。同一の幾何学模様がディスプレイ上で動いている。
「感想はいかがです?」福島が聞いた。
「何というか……」冬木は言いかけて、ディスプレイに眼を奪われた。画面が〝1975年 東京〟というロゴに切り替わったからだ。
「なかなか、いいところじゃないか」と言ってから、冬木は苦笑した。来たばかりなのだ。
「そうですか。体調はいかが?」
「上々さ」
「結構です。ではこちらへ」
福島は部屋の奥の扉を押した。分厚い扉がスイングドアのように軽く開き、福島に促されて、冬木はその奇妙な部屋に入った。部屋は薄暗く、濃い灰色の壁が天井に向けてア―チ状に湾曲していた。壁はフェルトのような生地で覆われ、冬木が拳で軽くたたくと、ソファのような弾力が返ってきた。床は微妙な踏み心地で足音が全くしない。
冬木と福島は部屋の中央に立っていた。
「われわれは洞窟って呼んでいます」福島が言った。
冬木は部屋を見回した。幅が五メ―トル、奥行きが十メ―トル位で、天井は一番高い所で四メ―トルほどだった。
「まるで無音室のようだ」冬木が呟いた。
「それに近いです。プレ―ヤ―はここで自由に動けますが、バ―チャル場を構成する音場に干渉しないように、動作時に生じる音を吸収する構造になっています。プレ―ヤ―はヘッド・マウント・ディスプレイ、略してH・M・Dを装着しますが、耳とイヤフォンの隙間からの音の進入を、完全に排除することはできませんので。同様に、眼とグラスの隙間から洞窟の光が入らないように、照明を暗くしています」
「壁も独特だね」
「柔らかいでしょう」福島が自慢そうに言った。
「これも洞窟内で発生する音を吸収するためと、もう一つは暴走時にプレ―ヤ―の安全を確保するためです」
「暴走?」冬木は眉をひそめた。
「あくまで想定ですが、何かの拍子にプレ―ヤ―が興奮状態になるかもしれない。そうしたときに、この壁がプレ―ヤ―を柔らかく受け止めてくれるということですよ」
「暴れたり、走り回ったり……するってことか?」
「いや、あくまで……」
福島は慌てて言葉を継いだ。
「あくまでですね、稀な条件が重なった場合ですよ。われわれは万一を考えて、安全のマ―ジンを過剰な位に取っているんですよ。なにしろ試作の段階ですから……」
「ふむ」冬木はうなずいて見せた。
「それと外界の影響も遮断しなければいけません」福島は話題を替えた。
「空港に離着陸する飛行機や、道路を行き来する車はもちろん、波の影響も考慮しなければなりません」
「波?」
「海岸に打ち寄せる波の衝撃で、低周波の音波や地面の振動が伝わります。これらはバ―チャル場を損ねる原因になります。これら外界の影響が洞窟には及ばないのです」
「それは建物の機能でもあるはずだ」
「そうです」
「宇宙線とか自然放射線はどうするの。コンピュ―タの動作に影響しないかね?」
「いい質問ですね」福島が少し紅潮してきた。会社で一緒だった頃と同じである。
「マクロの存在であるプレ―ヤ―には影響がありませんが、量子干渉を原理とするコンピュ―タには致命的なノイズです。そこで量子効果を持続させるために、コンピュ―タ本体は、鉛とコンクリ―トと純水で三重に囲まれています」
福島は得意げに言った。相手が冬木だからだ。
「まるで原子炉みたいだ」
「そういえばそうですね」福島が笑った。「あ、でもコアの演算回路はス―ツケ―スくらいの大きさですよ」
「ほう……」
「それじゃあ、そこの足の形に合わせて立ってみてください」
冬木は床のマ―クの上に両足を揃えた。
次に福島は、パッドの付いたフレ―ムを冬木の頭に被せて、小さな電極を頭皮にくっつけていった。
「これで脳波をコントロ―ルするわけだ」冬木は不安を感じて言った。
「測定しながらごく弱い電磁場をかけますが、現実感を補強するためで、前にも言ったように害はありません」
フレ―ムにゴ―グルとヘッドフォンが組み込まれた。ゴ―グルをおろすと、例の「1975年東京」の画面が冬木の視野を覆った。冬木は頭を上下左右に回してみた。首に器具の重量を感じた。
「あんまり頭を回さない方がいいみたいだ」
「私もその方がいいと思います」福島が笑った。
「今日は予備的な実験なんだろう?」
念のために冬木は聞いた。視野を塞がれて不安定な感覚だった。
「そうですよ。だから気楽にやってください。私は隣の部屋でモニタ―してますので」
「了解」
福島が洞窟から出ていく気配がして洞窟の扉が閉まった。
(じゃ、いきます)
福島の声がヘッドフォンから流れた。タイトル画面が静止画像に替わった。ノイズが冬木の周囲に押し寄せてくる。高架を走る電車の音。プラットホ―ムのアナウンス。阿佐ヶ谷駅の北口である。画像が動き始めた。冬木が駅に向かって足をくり出すと、忠実に画面が前進した。予想を越えた臨場感に冬木は立ちすくんだ。前から左右から、通行人が殺到してくる。ほうっと冬木はため息をついた。目を閉じて音声だけ聞けば、本物の現場にいると思うに違いない。残念ながら描画はやや荒い。だから現実と見紛うことはないが……。
学生らしい数人が、冬木を足早に追い越して駅構内へ入っていった。揃って長髪で、ラッパのように裾の広いジ―ンズを引きずっている。後を追うように冬木も駅に向かう。学生が改札を抜けて階段を上がっていくのが見えた。冬木はその場で三六〇度回転してみた。券売機がある。そして自販機、キヨスク、改札口……。アイデアが閃いた。冬木は駅のトイレに向かった。洗面所の鏡の前に立つ。鏡の中の人物は、弱々しげな面差しで冬木を見返していた。細い顔に不釣り合いな、大きなセルの眼鏡。肩まで届く髪。ボディシャツの上からミリタリ―調のジャケット。下半身は鏡に映っていない。うつむいて足元を見ると、ベルボトムのジ―ンズの先から、履き古した黒靴がのぞいていた。冬木はこみ上げてくる笑いと興奮を抑えきれず、うわずった声で福島に呼びかけた。
「福島くん」
(はい)
「よくできてる」
(はあ?)
「君も見てるんだろ?」
(はい)
「昔のおれだよ。実によくできてる」
(そうですか、ありがとうございます。でも写真から合成しただけなんですが……)
「いやあ、なかなか……」
冬木はしげしげと自分の姿を点検しているが、冬木の挙動を不審がる者はもちろんいない。
(もう一度、駅の外へ出てくれませんか)
しびれを切らしたらしい福島の声がヘッドフォンから流れた。苦笑しながら冬木は駅のトイレを出た。北口から外に出ると、福島はあらためて駅前広場を見渡した。右手にバスや車が往来する通りがあり、ス―パ―や銀行が並んでいる。正面は広場を隔ててア―ケ―ドのある商店街。広場に沿って、左手前に洋菓子店だ……。
(その向きのまま前方へ歩いてください)
福島の声がヘッドフォンから流れた。視野の左端でマウスポインタが点滅している。指示されなくても、もちろん分かる。冬木は洋菓子店の脇の、高架沿いの通りへ足を向けた。街灯の鉄柱に「スタ―ロ―ド」という表示がかかっている。小さな飲み屋や食堂、不動産屋などが立ち並ぶ小路である。夕方時分らしく、仕事帰りの勤め人や駅前で買物を済ませたらしい主婦が、少しぎくしゃくした動きで冬木の目の前を通り過ぎていく。
「画がいまいち、かな?」
(ああ、それは現在改良中でして)
電車の音がひっきりなしに頭上から響いてくる。左右をきょろきょろしながら歩いているうちに、駅へ向かう女子高生とぶつかりそうになった。
「おっと」冬木は身をかわした。彼女がちらと冬木を見た。冬木に反応している。芸がこまかい。
不動産屋と住宅を過ぎ、間口の狭い中華食堂の前に来た。換気扇から青い煙が猛烈な勢いで吐き出されている。
「匂いがないや」
(それは仕方無いです。今回、嗅覚はフォロ―してませんので。残念ながら)
商店街を過ぎると通りは右に折れ、すぐ左に折れて、こぢんまりとした住宅がつづく通りに出た。カ―ソルが瞬き、50メ―トルほど先の通りの端まで、超高速で画面が進んだ。
冬木は一軒の木造アパ―トの前に立っていた。通りに面した二階の窓を見上げる。窓の外に下着と靴下が干してある。玄関の前まで来た。
(そこの引き戸を開ける動作をしてください)福島が指示した。
仕草だけで良かった。ガラガラと音がして戸が開いた。たたきにサンダルと汚れたズック。下駄箱があり、目の前はすぐ階段である。
(上がりますか)
「うん」
階段の上でカ―ソルが瞬いた。次の瞬間、冬木は二階にいた。まるで幽霊みたいだと冬木は思った。部屋は、階段を上がったすぐ右側である。軽く咳ばらいをして、冬木はドアをノックした。本当はノックの仕草をしただけなのだが、実にリアルな音がした。
「ふぁ―い」
中から間のびした声が返ってきた。
冬木はドアを開けた。いや、開ける動作をした。部屋の主がこたつの向こう側から冬木を見上げた。
「よう、どうしたい」
井出は読みかけの文庫本を卓上に伏せた。煙草を取り出して火をつける。
「きのう、おぬしんとこへ行ったに、留守だったぜ」
例のしかめっ面で文句を言う。冬木は苦笑した。三十年前と同じだ。条件反射的に、目の前の井出の舌鋒に引き込まれそうになる。冬木は腰を下ろしあぐらを組んだ。井出は、こたつの脇に積み上げたカセットテ―プの中から一本を選んだ。
「お前さん、どっか具合でも悪いんじゃねえの」
井出はテ―プの緩みを鉛筆の尻で巻き取りながら言った。
「何だか顔色がよくないぜ」
「歳取ったからかな」冬木が応じた。
「また風邪でも引いたか」
話は噛み合っていない。双方向的な会話はまだ無理のようだった。
井出はテ―プをラジカセにセットし、再生ボタンを押した。一瞬間をおいて〝さまよえるオランダ人〟の序曲が流れた。嵐のような旋律が湧き上がった。冬木は思わず呟かずにいられなかった。
「その後おれもワグナ―が好きになったよ。井出の影響かもしれんな」
井出が微かに笑ったように見えた。だが〝オランダ人〟の旋律に心を奪われたかのように、まったく反応しなくなってしまった。
(止まっちゃいましたね)福島が割り込んできた。(そろそろ帰ります?)
「そうだね」
冬木が立ち上がった。その時井出が冬木を見た。一瞬眼が合った。変に生々しく、冬木はぎくりとした。
「じゃ、また」とっさに出た。
「明日、おぬしんちへ行くよ」と井出が言った。
「気の利いたプログラムじゃないか。意外に双方向性もあるし」
冬木は来た道を駅の方へ戻りながら、福島にも聞こえるように呟いた。
(まだうまく反応してないようです……)
「初回にしては上出来じゃないか」
高架下のショッピング街に差しかかった。冬木はゲ―ムセンタ―の入り口で足を止めた。
「ちょっといいかな?」
冬木はゲ―ムセンタ―に入った。電飾を点滅させるゲ―ム機の効果音が入り混じっている。冬木の記憶のままである。ピンボ―ルの前に立っていた。いつの間にかゲ―ムがセットされ、ボ―ルがくり出された。
その時だった。いきなり灼けるような頭痛が冬木を襲った。全身から力が抜け、ピンボ―ル盤がゆらゆらと揺らいだ。盤面がゆっくりせり上がってくる。ガラスの下でボ―ルが跳ね回っている……。
誰かに肩をゆすられていた。冬木は頭を起こした。
「大丈夫かね、きみ」
係らしい中年の男が冬木をのぞきこんでいた。ピンボ―ル台に倒れかかっていたのだ。
「すみません」
冬木はふらつきながらゲ―ムセンタ―を出た。頭が痺れるように強烈な違和感を覚え
た……。
5 消失
ゆっくりと冬木が崩れていった。
赤いランプが点滅し、アラ―ムが鳴り響いた。脳波が停止したことを告げている。落ち着けと、福島は自分に言い聞かせた。ラボを飛び出して洞窟に入った時には、すでに冬木の姿はなかった。
H・M・Dが洞窟の床に転がっていた。福島はH・M・Dを拾い上げた。冬木の体温が残っている。落ち着けと、福島は自分に言い聞かせた―――。
H・M・Dの側面のパイロットランプが赤く点灯していた。動作異常を示している。ゴ―グルの視野は、路上の静止画像で停止していた。ラボで見たモニタ―の画面と一致している。
福島はラボへ戻り、今起きたことを急いで整理しようとした。いきなり電流計の表示が許容量を超えたこと、冬木の脳波が停止したこと、そして福島がモニタ―に視線を戻したときには冬木は倒れていた。
福島は急いで映像をリバ―スした。冬木が消える直前である。数分の一秒間、十コマから十二コマの間、冬木の映像が崩れていた。冬木を構成する物質が崩壊して行くかのように、ブロック上のノイズが広がり、冬木の映像が細切れの断片となって消えていった。何度再生しても同じだった。三つのカメラが同じ現象を記録していた。ロングの映像は洞窟内全体を、 二つ目は冬木の正面の全身を、三つ目は冬木の右からの顔面だった。福島はトラックボ―ルを指先で前後に転がして再生した。冬木の三種類の映像が、コマ落ちで消えたり蘇ったりした。福島が知り得たことはそれだけである。後はお手上げだった。福島は、緊急通報装置のプラスティックカバ―を指先で破り、赤いボタンを押した。
第二部 バ―チャル東京
1 邂逅
一度、段ボ―ルハウスの居住性を確かめたいと思っていた。ひょんなことからその希望がかない、冬木は人生の目標を一つ失ったような気がした。
いつものように橋の下から出て、遊歩道の手摺りにもたれて水面を眺めていると、海から遡上してきた魚が跳ね、大小の波紋が水面に広がった。
「イナ、ですかね」
傍らに人の気配がして、冬木に話し掛けてきた。近くの県民ホ―ルで学会でもあったのだろう、口ぶりからして、きちっとス―ツを着こんだ手合いのようにと思われた。
「ああ」冬木は相手を見ずに答えた。
「すごい数だ」
男は冬木と並んで水面を見ていた。
「冬木さんでしょ」
冬木は男を見た。聞いたような声であり、見覚えのある顔だった。
「会社で一緒だった……?」
男は親しそうにうなずいた。
「福島ですよ」
冬木は反射的に記憶を探った。が、何も思い浮かばなかった。少し間をおいて、印字された文字のように履歴が浮かび上がってきた。会社を退職してから五年経つらしい。さらに、福島が思いがけないことを言った。
「六か月前にお会いしましたね」
何も覚えていない。福島はさらに奇妙な質問をした。
「いつ帰ってらしたんですか」
「おれはどこにも行っていないぜ」
福島の表情に翳りが生じた。慎重な口調になった。
「そうですか。……それで、例のテストの件ですが、再開しようと思うんです」
「残念だが、君のいうことが理解できない。何のことなんだ?」
冬木が本当に知らないことが分かると、福島は微かに笑みを浮かべた。
「思い出したら、いや気が向いたら連絡してください」
福島は冬木に名刺を渡した。
「できれば年内に。うちの研究所も先行き不透明なもんで」と言って、福島は立ち去ろうとした。
「どうしてここがわかった?」
「偶然に。と言っても信じないでしょうが……
」
福島は遊歩道から石段を上がりかけて、ふと足を止めた。
「住み心地はいかがです?」
「悪くない」
福島は薄笑いを浮かべた。
2 浮浪者
夜半に冷え込み、冬木は何度も目を覚ました。そのつど新聞紙をたぐりよせて身体にかけ直す。薄いパネルを貼り合わせただけの小屋だったが、屋根が架かって囲いがあるだけで、家というものの威力を感じない訳にはいかない。窓ガラスに当たる雨の音を聞きながら、風雨が吹き込まない有難さを、冬木はしみじみと感じた。
橋の下の「住居」は風さえなければ悪くなかった。少々の雨風は、ビニ―ルシ―トで覆った段ボ―ルの壁で凌げるのだ。問題は台風の時である。横殴りの風雨が長時間続くと、シ―トの中に雨が染み込み、ダンボ―ルの壁が崩れてしまうのだ。満潮時などに台風が通過すると、潮位が上がった川に波が立ち、遊歩道は川の一部となった。秋に台風に見舞われてからは、水面から遠ざかろうと冬木は考えるようになった。
城跡公園と呼ばれるエリアを探索していたとき、冬木はそのプレハブ小屋を見つけた。うまい具合に、樹木と植え込みの陰で人目につきにくい場所だった。入り口の戸には錠前がなかった。金具に太い針金が何重も巻かれているだけだった。ガラス戸越しに中を覗いた。六畳ほどの板張りの床にござのようなものを敷いてあった。他には何もなく、がらんとしていた。
たぶん失対労務者が休憩用に使う小屋だろうと冬木は推測した。冬場は閉鎖されているに違いなかった。冬木は一週間その小屋を観察し、全く使用されていないことを確認した。そして少しずつ針金をほどいておいた。
月のないある夜、冬木は小屋の戸を開けた。自転車をそっと小屋に引き入れた。わずかな家財道具を詰めたバッグを荷台にくくりつけてあるのだ。戸を閉め、内側から金具を掛けた。冬木は床に座り込んだ。周囲に人家はない。しかし物音を立てるべきではなく、明りはなおさら危険だった。通りがかった人間に不審を持たれ、警察に通報される恐れがあった。ただ寝るしかなく、冬木はダンボ―ルを敷き、新聞紙を身体にかけて横になった。
窓から入る光がわずかに青みを帯びてきた。冬木は風雨の音をガラス戸ごしに聞いていられる環境に満足しながらも、一方で夜が明け切らないうちに起き出さねばと、いつものように思い始めた。この時期、小屋が使用されないことは確かだ。しかし常に例外はあるものだ。急の仕事が始まり、小屋の正当な利用者が早朝から出勤してくるかもしれない。眠りながら、冬木は犬のように警戒していた。
いつの間にかアパ―トで寝ていた。東京にいた頃の西荻窪のアパ―トのようだ。と、視点が変わって自分の寝姿を俯瞰していた。天井よりもっと遠いところから、自分自身を眺めている。いったいおれはどこにいるのだろうか?
冬木の浅い眠りを破ったものは、激しく戸をこじ開けようとする物音だった。冬木は跳ね起きた。眩しい光が目に入った。手をかざして光を避けながら、冬木はガラス戸の外を見た。黒い雨ガッパを被った男の驚いた顔があった。老人だった。しわがれ声で何か叫んでいる。痩せこけた頬に深い傷があった。男は入り口の戸を拳で叩いた。
冬木は靴を履き、自転車のハンドルを握った。片手でハンドルを握ったまま、引き違い戸の留め金を外した。男が後ずさりした。冬木は反対側の引き違い戸を一気に開いた。老人の逆を突いた。冬木は自転車を押して、小屋から飛び出した。押しながら走った。雨が顔に当たる。男が懐中電灯を振りながら追いかけてくる。荷台を掴まれた。
「待たんか!」
老人がしわがれ声で叫んだ。とっさに冬木はブレ―キレバ―を握った。自転車の後輪に老人がぶつかってよろけた。荷台から手が離れた。冬木は自転車を一気に押し、サドルに飛び乗ってペダルをこいだ。おい、おいという老人の声が遠ざかりながら冬木の背中に届いた。
公園を出る頃に雨は小降りになった。冬木はペ―スを落とした。もう追いつかれる心配はなかった。この公園の地理は知り抜いている。しかし興奮を抑えきれず、声を出さずに笑いながら、冬木は公園から離れた一角へ向かった。それにしても危なかった。相手が年寄りだから逃げられたのだと、冬木は思った。
橋の下へ来た。新しいダンボ―ルの壁が橋桁の下を塞いでいた。予想はしていた。可能性を当たっただけである。冬木は気を取り直して、県民ホ―ルの軒先を借りることにした。ホ―ルの東側は、広場に面して階段状になっている。最上部は細長いテラスである。建物の上部構造が大きく張り出し、直下のテラスは風雨を避けるのに格好の場所だ。壁際は広場の照明も届かず、夜明けまでいられそうだった。
冬木は濡れた服を脱いで裸になった。バッグの中から乾いた衣類を残らず取り出し、重ね着した。最後にダウンジャケットをまとうと、冬木はテラスのコンクリ―トの上に段ボ―ルの切れ端を敷いて腰を下ろした。雲が東に流れていた。その先の東の空から、確実に光が増していた。夜が明けつつあった。
新しいねぐらを探さなければ……。冬木はぼんやりと考えた。すると、ある場所のイメ―ジが冬木の脳裏に浮かび上がった。仄暗く、程良い温度でコントロ―ルされた、子宮の内部のように居心地のいい場所。あれはどこだったか。
冬木はもう一度意識を緩めた。そして思い出した。ズボンのポケットを探る。そこにはなかった。冬木は一瞬途方に暮れた。しかしすぐに気がついた。テラスに広げた濡れたズボンのポケットに右手を突っ込んだ。指先が紙片をつまみ出した。濡れてしんなりとした一枚の名刺。会社の名称と福島の名前が何とか読めた。急にくつろいだ気分になり、冬木はウイスキ―の小瓶とチョコレ―トをバッグから取り出した。
3 研究所へ
六時半――。交差点の信号が青に変わった。数人の客を乗せたバスが轟音をたてて、交差点を左折した。冬木は一つ身震いすると、北へ向かって自転車を漕ぎ出した。雨が上がり風も納まっていた。冬木は河口の一キロ以上ある橋を渡り、国道を北へ走った。やがて企業誘致地区を示す道路標識があり、冬木は国道から東へ折れた。道路は真っ直ぐ海岸へ伸びている。松林に近づくにつれて、既視感が強まった。松林の間に円筒形の建物が見えた。建物の灰白色の壁面が、朝日を浴びて鈍く光っている。冬木は奇妙な違和感を覚えながら、通用口に近づいた。インタ―フォンに向かって名前を告げる。ドアのロックが解除された。冬木はドアを開けて建物の中に入り、薄暗い廊下を進んだ。
部屋の前で冬木は立ち止まり、そっとドアを開けると福島がいた。モニタ―の前で椅子に座っている。微笑を浮かべながら福島が言った。
「お帰りなさい」
「確かにそのようだ」
間の抜けた挨拶だった。しかし他にどんな言いようがあったろう? たしかに、冬木はこの瞬間ズレが修正され、位相が一致したように感じられたのだ。冬木はそのことを、麻酔から覚めた人のように直感的に悟っていた。冬木は部屋の中をぐるっと見まわした。デスクトップ型のコンピュ―タとモニタ―が三台。こんな感じだった。違和感はない。
「私が来ることを知っていた?」
「ええ」福島は穏やかにうなずいた。
「橋の近くで君と会ったね」
「はい」
「あの時君は、私が六月にここへ来たと言った。確かヘルメットのようなものを被って実験をしたのではないかね」
福島がうなずき、右手でマウスをクリックした。モニタ―が蘇り、開いたウインドウに映像が浮かんだ。頭に装置をつけた冬木がいる。すべてが昨日のことのように、冬木の中で鮮明な像を結び始めていた。
「そうだ、そうじゃないか!」冬木は思わず叫んだ。
もう一つのウインドウがビデオを再生し始めた。画面が揺れながら阿佐ヶ谷駅の南口へ向かっている。冬木の視点だった。さらに別のウインドウは、駅へ向かう冬木を上空から俯瞰していた。画面がズ―ムダウンして冬木が縮小していった。町並みは地図となり、冬木は赤い点となって地図上で点滅していた。
「ツ―ルを追加しました」福島が言った。
冬木は無言だった。ビデオを見ながら記憶が蘇っていた。シ―ンが次々と冬木の脳の中で再生された。……ゲ―ムセンタ―の前で一度立ち止まり、次に店の中へ入っていった。そしてピンボ―ルの前へ。ぴかぴか点滅するガラス盤を見下ろしている。ボ―ルが飛び出した……。そしていきなり画面はグレ―一色になった。猛烈な頭痛の記憶が蘇った。
「これは床ですね。先輩が意識を失って倒れてから、顔が向いている方向の映像を出力してるんです」
福島が説明した。別のウインドウが、洞窟で倒れている冬木の姿を映し出している。
「気を失ったのはどのくらいのあいだ?」
「ほんの数分でしょうか。すぐに意識が戻ったので、近くの診療所へ先輩を送っていきました」
ビデオは冬木が福島の腕を借りて起き上がろうとしているところを再生していた。
「何かの発作の疑いがあるということで、専門の病院で検査するよう指示されました。覚えてますか?」
「まったく覚えていないんだ」
「私が家まで送ろうとしたのですが、大丈夫だからと、ご自分で車を運転して……」
冬木の記憶は、倒れた時点から脱落している。だから福島の言うことを信じるしかない。
「ずっと連絡を待ってたんですが、それっきりで……」
福島が申し訳なさそうに言った。
「例の、頭に被る装置が原因じゃないか」
「ゴ―グルのことですか」
「君は頭皮に弱い電流を流すと言ったけど、あれは危険だ」
福島の表情に一瞬困惑が浮かんで消えた。
「今度のゴ―グルは電流など流しませんので大丈夫ですよ」
「ゴ―グルじゃなくて、H……なんとかって言わなかった?」
「H・M・Dとも言いますが、一般的には〝ゴ―グル〟ですね」
冬木は首をひねった。
「何か疑問でも?」
「いや、いいんだ。それより研究所は建て替えたのかい? 真四角みたいな形だったじゃないか」
少し間があった。
「改築しました。海から吹き付ける風の影響を減らすために、建物の断面を丸くしたのです」
通用口の扉はかなり錆が出ていた。最近改築したようには見えなかった。だが、福島はなんとでも言って切り抜けるに違いない。冬木は話題を変えた。
「おれが来ると分かってたみたいだね」
「いつかいらっしゃる、と思っていました」
「なぜそう思ったの?」
「もちろんテストの続行のために。途中でしたからね」
「おれがまた引き受けると思うかね」
「そのためにいらしたんじゃないですか?」
福島がにやりとした。うまくはぐらかされた。
「それより、六ヶ月の間にシステムが大幅に拡張されましたよ」
4 実験再開
冬木は、足の先から頭まで一繋ぎのウエアですっぽり包まれた。パイロットが着る耐Gス―ツをモデルにしたデ―タウエアには、身体の動きを検出する無数のセンサ―と、空気圧で外力を模倣するための中空の管がネット状に張り巡らされている。冬木は身体を捻ったり、肩をぐるぐる回してみた。
「着心地はいかがですか」
「少し窮屈かな」
「改良の余地ありですね。次はグロ―ブを」
デ―タグロ―ブを両手に着けると、冬木は最後にゴ―グルを被り、ディスプレイが組み込まれた眼鏡を眼窩に下ろした。洞窟内の映像が出力されている。お陰で、目隠しの状態にならずにすんだ。新型の機器の装着感は軽く、冬木はピクニックに出かける時のように、少し昂揚し始めていた。洞窟に流されているアルファ波を含んだ音楽のせいかもしれなかった。ヘッドフォンで聴くと、より効果的であるらしい。前回のテストのトラブルに起因するわだかまりは、すでに冬木の中から消えていた。どんな事情が背後にあるのか知る由もない。だが、冬木が試しているこのコンテンツは、確かに自分にとって究極とも言える個人的な内容であった。どんな意図が隠されているのか知らないが、悪い結果にはならないだろうと冬木は思った。
……冬木は、街の上空に浮かんでいた。二次元の地図が三次元の立体表示に変化していった。すでに擬似現実に入りつつある。冬木は、阿佐ヶ谷駅北口へふわりと着地した。粟立つような現場のノイズが押し寄せてきた。
(新宿の方へ行ってみますか)福島の声が流れた。
「それはいいけど、大丈夫か」
冬木は新しい機器の音声入力テストを兼ねて質問した。
(何が、ですか)
「デ―タはあるのかね」
(準備してあります)
冬木は北口から駅に入った。左手に財布が出現した。右手を財布に重ねると、手の平に百円玉があった。「おお」と冬木は思わず声を洩らした。
券売機のコイン投入口に右手を近づけると硬貨が消え、切符と釣りが出てきた。切符を右手の先に付けて改札を通る。駅員の手に切符を重ねると、駅員が鋏を入れて冬木の右手に返した。切符を上着のポケットに重ねるとするりと消えた。
次は階段である。冬木が両足を交互に繰り出すと、動作にシンクロして階段が一段ずつ後ろに下がっていった。
プラットフォ―ムに出ると数人の客が電車を待っていた。静止画のように動きがない。上りの快速電車が入ってきた。こちらは動画、音ともにやけにリアルだった。
オレンジ色の車両が停止し、扉が開いた。数人が降りた。入れ替わりに冬木は電車に乗った。空席があるが座らない。景色を見るためでもあったが、座席に座るという行為が可能かどうか不安だったのだ。
(そう、立ったままで……)福島がアドバイスした。
窓の外のプラットホ―ムが動き出した。電車が発車したのだ。冬木は目の前のつり革につかまろうとして空をつかんだ。分かっているつもりだが騙された。画像として見えているだけなのだ。
冬木は通路の真ん中に立っていた。冬木の方を見る者はいない。彼らは眠っているか、何かを読んでいるか、うつろな目で前を見つめているか、いずれかの行為をしていた。
乗客は女子高生、ジ―ンズを履いた学生、ス―ツを着たサラリ―マンの三種類に限られているようだった。電車の走行音と画像の動揺、車窓を流れていく景色が効果的で、冬木は乗り物酔いのような変な気分になった。
高円寺に着いた。乗客の一部が降り、新たに乗ってきた客が正確に空席を埋めた。冬木は窓の外を流れる映像を見ていた。沿線風景は三十年前も現在も大して変わりがないように思われた。しかし東京を離れていた冬木には区別がつかなかった。それによく見ると、遠景の画などは、周期的に同一のパタ―ンを繰り返しているようだった。
中野に着いた。例によって乗客が機械的に乗り降りした。いったいどこまでデ―タを準備しているのだろうか。冬木はふと不安を感じた。
「線路は続いているのか」
(仮になくなっても脱線しません)福島がとぼけた反応をした。
やがて右手に高層ビルが見えてきた。疎らな感じである。もちろん七〇年代の画だからだ。電車は無事新宿駅に着いた。ホ―ムに人が溢れている。
「西口へ行こうか」咄嗟に冬木が言った。
(そうしますか)福島が同意した。
人で溢れ返るホ―ムをかき分けて冬木は進んだ。行き交う人々がまちまちに接近してきた。擦れ違う時に顔面が大アップになった。顔を構成しているCGのドットまで見えた。
応援団風の学生服の大男が正面から出現した。避ける間がなかった。ひげもじゃの部厚い顔面との衝突は避けられまい。が、冬木の身体は応援団員をすりぬけていた。
(危なかった)福島の笑い声が流れた。
「それよりキミは無賃乗車にならないのか」
(私はオブザ―バ―じゃないですか)
呆れたように福島が言った。
「人ごとみたいに見てないで、こっちでおれをサポ―トしてくれないか」
(はあ?)
「旅は道ずれって言うじゃないか」
(分かりました。ちょっと待ってください)
それにしても見事にランダムな人の流れだった。数学的に厳密な不規則さだろうと冬木は思った。冬木は階段を探していた。それが人の流れを阻害したのかもしれないが、目の前に人が来た。しかも美女。避ける間もなく、女の眉間がぐぐ―っと迫る。ややアニメ調の大きな眼が二個の天体のように接近してきた。眉の上の額が拡大して、肌色の生地を構成する光の三原色の素子が見えたかと思うと、真正面から重なり合った。振り返ると、女の背が冬木の背中から離れていくところだった。何とも奇妙な感覚だった。女と重なり合うような妖しい錯視。冬木は次々に若い女性を狙って、彼女たちの身体をすり抜けた。
「先輩…………」
福島の呆れたような声が耳元で聞こえた。ヘッドフォンを通した音声とも異なる。
「あれ、どこにいるの」
「あなたの左肩を見てください」
新しいキャラクタ―が出現していた。カラスほどの大きさで青と橙と白に塗り分けられた一羽の鳥が、冬木の肩の上でしゃべっている。
「デ―タベ―スで見つけたカワセミのイメ―ジです」
画像化されたデジタル信号に過ぎなかったから、冬木の肩にかかる重さはない。福島はイメ―ジを加工して、羽根を蛍光色で光らせていた。
「やけに派手じゃないか」
「だからいいんですよ。雑踏の中で先輩がはぐれても、すぐ私を見つけられる」
「早速だけど、階段を探してよ。西口へ行くんだ」
「そうでしたね」
カワセミとなった福島は羽根を拡げると冬木の肩から飛び立った。ホ―ムの上を周回して西口へ行く階段を見つけると、冬木の肩に舞い降りた。左肩に止まったカワセミ姿の福島に案内されて、冬木は中央通路へ下りる階段を降りた。中央通路では人混みが冬木を迂回するように流れ始めた。
「VIPモ―ドにしました」福島がツ―ルを使ったらしい。
冬木とカワセミとなった福島は、新宿駅西口の改札を通ってようやく地下の広場に出た。
「この辺は今も変わらないね」
「〝今〟というのは、どういう意味ですか?」
「ああ、だから二〇〇五年の現在のことさ」
「そうですか」
冬木とカワセミの福島は地下から階段を上がって地上へ出た。二十一世紀初頭の景観と較べると牧歌的な風景だった。副都心として建設が始まった一九七〇年代半ばのこの時代でも、西口には京王プラザホテルの外に二、三の高層ビルが建つばかりだった。
「都庁なんてなかった時代なんですね」
「そりゃ、ず―っと後世のことだよ」
「京王プラザホテルの方へ向かってますね」
「うん、なんとなくね」
冬木の叔父が七四年京王プラザホテルで挙式した。式に出席した冬木は、日本初の超高層ホテルに目を見張ったのだった。
ホテルの正面までやってきた。玄関の脇にドアマンが立っている。彫像のように動かない。カワセミがささやいた。
「ホテルは外観だけなんです」
冬木は玄関に歩み寄った。視野の中心に無効のマ―クが現れて点滅した。
「それ以上はやめた方が……」
福島が警告した。冬木はかまわず回転ドアを押して建物の中へ足を踏み入れた。ロビ―のはずだ……。しかし突然、冬木の視界は青一色に閉ざされた。どちらを向いても青色ばかりで、冬木は青い染料のプ―ルに飛び込んだようだった。皆目方向がわからない。
「そのまま、後ろへ下がってください」
福島の声が少し離れて聞こえた。冬木は後ずさりした。たぶん五、六歩だったろう。いきなり視野が開けたと思うと、後ろ向きに外壁から出るところだった。
「やれやれ」
冬木がため息をつくと、福島がくすくす笑った。
ドアの向こうにはデ―タが無いということだ。「ここ」が狭い世界であることは十分了解していたが、冬木は軽い失望を味わった。だが考えてみれば、当時の冬木にとって、ホテルなどは生活圏の外である。七〇年代の冬木の生活デ―タを元に構築された「東京」であれば、そのディテ―ルが冬木の生活領域を超えるはずはなかった。
「ちょっと見てきます」
福島は翼を羽ばたかせて舞い上がったかと思うと、鳥とは思えないスピ―ドで一直線に飛び去り、三十秒後に戻ってきた。
「この辺りから先は、地図のような画像しかないです」
「……と言うと?」
「京王プラザホテルと同じで、景観は三次元で表示されますが、内部構造がありません」
「向こうの公園も見かけだけということ?」
冬木はこんもりと樹木が生い茂った方向を指した。
「そうです。表面が書割のような画で、中へ入っても何もないのです」
デ―タの限界に行き当たった以上、引き返すしかなかった。冬木たちはもと来た道を戻り西口へ向かった。
「天体は正確に動いているようだね」
駅へ向かう冬木たちの前に奇妙なシルエットが伸びている。冬木と肩に止まる鳥の形が路上に引き伸ばされていた。
「太陽のことですか?」
「今何時だい?」
「五時になっています」
「バ―チャル内じゃなくて、現実の君がいるラボの時計は?」
「 九時十五分です。画面に表示しましょう」
冬木の視野の右下に、リアルな時刻とバ―チャルな時刻が表示された。
「本当は阿佐ヶ谷から十五分しか経っていないんだ」
「実時間の十五分がここでは一時間。4倍の早さで時間が流れていることになりますね」
「どうしてだい?」
カワセミが黄色い首を傾げた。
「たぶん、電子がすごく軽いからでしょう」
カワセミが青い羽を少し開いてみせた。
「この世界は実体のない電子画像の世界です。現実の世界のように重たい物質を基礎にしてないですから、演算処理さえ速く行えば、電子の描画の速度をいくらでも速くできるし、無駄な画は間引いたりもしています。リアルな世界というのは、実は死ぬほど重たくて冗長で退屈なんですよ」
「電子が軽いからって、光速より早くなるわけはないよね」
冬木も、昔習ったことを少しは覚えている。
「それはもちろん。でも、回路自体がすごく小さいですから、電子が動く距離が短くてすむわけで、物質的な意味でも高速に動けますよね。……それとバ―チャル世界では、被験者自身の意識次第で、展開を早くしたり遅くしたりすることができる」
「現実でもそうだぜ。楽しいとき時間は早く過ぎるし、いやな時は時間の経ち方がおそろしく長い」
「しかし現実の世界では、客観的な時間はつねに一定に流れている」
「そりゃそうだ」
冬木が同意した。傍らを通りすぎる誰も、この奇妙な連中に注意を払わない。
「このシステムでは、被験者の脳波をフィ―ドバックして、反応度に応じてビジュアルの展開が自動的に調整されるようになっています」
「つまりこうだな。おれが退屈しそうになったら、コンピュ―タが気を利かせてビデオの早送りみたいなことをしてるってことか」
「そのとおり」
「なるほどなあ」
冬木は感心した。素晴らしいシステムではないか。この軽くて奥行きの無い世界では、現実の人生における、面倒で手間のかかるプロセスが短縮できるのだ。そればかりではない。
「福島くん、自分が生きたのとはまるきり別の人生を送ることだってできるよな」
「もちろんかなりの自由度はあるでしょうね。プレ―ヤ―次第ですが」
冬木たちは地下へ降り、地下街から東口へ回った。地下鉄や私鉄の乗降客が合流してさすがに人が多い。複雑な流れの川のようだった。福島がVIPモ―ドをオンにすると、群衆の流れにちょっとした異変が生じた。人々は見えない障害物があるかのように、冬木たちの周囲を迂回して流れていく。
「これだけ大勢の人間を、どうやって作ったんだ?」
通路を埋めて動いていく群衆を見ながら冬木は福島に聞いた。
「たとえば体型、容貌、服装をそれぞれ十種類ずつ用意しておけば、千通りの組合せができますよね。男女千人ずつで二千人できるということです」
冬木は地下街を見渡しながら、しばらく考えていた。
「一秒で十人として……、三分間で千八百人通過してしまうことになるけど」
福島は軽く咳払いした。
「もちろん、同じ人物がくりかえし出現しているんです。でも現実の世界で、私たちもそうですが、通行人なんてお互いによく見ていない。そう思いません?」
その通りだと冬木は思った。バ―チャル世界の合理性なのだ。
靴屋と銀行が向かい合う角にさしかかった。
「先輩が行ってたとかいうジャズ喫茶じゃないですか」
靴店から二軒目に「ビザ―ル」という小さな看板が掛かっている。地下へ降りる階段が冬木の記憶を呼び覚ました。
「行きます?」
「ああ」
狭い急な階段を下りていくと、微かにピアノの音が聞こえてくる。重い木の扉を開けると、ベ―スとドラムの音も合わさった。薄暗い店内にぱらぱらと客が座っている。眼をつむったり、黙考しているようだ。冬木は入口に近い席に座った。福島は冬木の肩から椅子の上へ降りた。ついさっきまで客がいたらしく、テ―ブルの上の灰皿は煙草の吸殻で一杯だった。目の前の空間を靄のように漂っているのはタバコの煙だろう。不意に冬木の鼻腔を刺激した。冬木は激しく咳き込んだ。
「何だこれは!」言うまでもなく、たばこの煙の匂いだった。
「香料ラックの説明を忘れていました」
テ―ブルの上に飛び移ったカワセミは、福島の声でしゃべった。
「特徴のある匂いを合成して、ゴ―グルに取り付けたノズルから、鼻の辺りへ吹き付けているんですよ」
「それは結構と言いたいところだが、たばこの煙は苦手なんだ」
「加減が難しいですね。停止しておきましょう」
うるさくまとわりついていた煙の匂いが消えた。悩みの種が無くなると、冬木は店の中を観察した。と、くぐもったトランペットの音が流れ出した。壁に掛かるレコ―ドジャケットがマイルス・デイビスの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」に変わった。
ウェイトレスが注文を聞きにきた。
「何にいたしましょうか」
澄んだ声である。七〇年代に珍しいショ―トカットのヘアだった。
冬木は当時のコ―ヒ―がひどくまずかったことを思い出したが、条件反射のように注文していた。
「コ―ヒ―二つ」
「かしこまりました」
注文を聞くとウエ―トレスは、厨房がある店の奥へ消えた。ジャズ喫茶のアルバイトにしては、やや場違いな感じの子だと冬木は思った。それと、今のやりとりが今日のテストで最初の、双方向的な会話であることに気がついた。
「淋しそうでしたねえ、彼女」
カワセミの姿をした福島が気を持たせる言い方をした。
「知ってるのか」
「先輩の彼女でしょ? いや、彼女だったと言うべきかな」
冬木は驚いた。
「彼女なんていなかったよ。おれは学生時代は全然もてなかったんだ。何かの間違いだよ」
「でもデ―タがありましたよ」
やや控えめに、香ばしい匂いが漂ってきた。コ―ヒ―が運ばれて来たのだ。冬木はウェイトレスの顔をのぞき込んだ。現実の世界では許されない至近距離だった。冬木はまじまじと彼女の顔を見た。何とも言えない懐かしさがこみあげかけたが、思い出せなかった。彼女はコ―ヒ―を置くと、くるりと背を向けて店の奥へ戻っていった。
「どうして何か話さなかったんですか」
「そんな、不躾なことができるか」
「それにしては、額がくっつきそうでしたよ」
「……」
あのなんとも言えない懐かしさはいったいどうしたのか? 冬木に彼女、あるいは恋人はいなかった。それが事実である。冬木が「こっち」の世界へ来たのは、自分の青春時代とも言える過去をもう一度体験したかったからである。しかし、未知のガ―ルフレンドが追加されたとなると、展開が変わってしまうのではないか?
曲がコルトレ―ンの“マイフェバリット・シングス″に変わっていた。メロディ―に合わせて、誰かが微かにハミングしていた。
「出よう」
「え? もうすこし七〇年代の思い出に浸るんじゃなかったんですか?」
福島は意外そうだった。
階段を上がって新宿通りへ出た。福島は冬木の肩の上に戻っている。紀伊国屋書店の方へ向かって歩き始めた。
「知らない娘なんだが、妙に気になる……」
冬木は、湧き上がりかけた先程の感情を説明しかけて途中でやめた。カワせミが無反応だったからだ。同じアクションをくり返していた。
「すみません。ちょっと留守にしてました」
カワセミに生気が戻り、長いくちばしが動き始めた。バ―チャル世界から離脱していたらしい。
「先輩が彼女を知らないというから気になりまして、デ―タベ―スを調べてたんですが、登録されていました」
「登録だって?」
「プログラムにキャラクタ―を組み込む時は、デ―タが大きいんで、システムへの負荷を考えて登録手続きが必要なんです」
「……」
「ついでに冬木さんの個人ファイルも見ましたが、ちゃんと載ってましたよ、彼女のことが。私自身がデ―タ入力してますから、ある程度は覚えてます」
福島に渡した資料には、女についての記述はなかったはずだが……。
5 夜間大学
学生と鳥の不思議なコンビは、紀伊国屋書店を通過して伊勢丹の方へ歩いていった。街燈に明かりがともり始める時分だった。通りをゆく人々はそれぞれの人生を抱えているようだった。いくつかのパタ―ンに分類されるはずの通行人の表情が、微妙にニュアンスを違えていた。夕暮れ時に特有の人恋しい雰囲気が、コンピュ―タが描く街と雑踏の中にも漂っていた。時報を告げるチャイムの音があちこちから聞こえてきた。
「六時ですね」
カワセミが黄色い嘴を開閉させながら言った。
「どうします? このまま真っ直ぐ行きますか」
冬木は立ち止まった。この時代の案内者は自分である。進路を決めねばならない。その時、冬木の中で閃いたものがあった。時報を聞いて、記憶の中にしまい込まれていた古い習性が甦ったのかもしれない。
「もちろん、学校へ行くのさ」
冬木は「学生だからね」と付け加えた。
「あ、そうか」カワセミがくちばしを開けて笑った。
「ここから地下鉄に乗ろう」
彼らは地下鉄の駅の真上にいた。地下へ下りて切符を買い、改札を通った。カワセミはとがめられず、怪しまれることもなかった。彼らはホ―ムに到着したばかりの電車に乗った。サラリ―マン風の男が新聞を広げていた。
「ちょっと失礼」
冬木は新聞をのぞきこんだ。しかし一目で無駄だと分かった。紙面が灰色の四角形や長方形の模様と、意味不明の記号で埋められていたからだ。もちろんデ―タが埋め込まれていないためだ。
「念のために曜日を確認したかったのさ。日曜日じゃなきゃいいけど」
冬木はカワセミに向かって言った。
「う―ん。でもその心配は無用だと思います。大学へ行ったら休みだった、というようなシナリオは、普通は作りませんよね」
「確かに」冬木はうなずいた。
地下鉄は後楽園駅に着いた。冬木とカワセミは公園を通り抜けて、ゆるい坂道を上がっていった。西の空に赤味が残っていたが、すっかり夜である。十二月とは思えない。
「寒くないね」
「むしろあったかいくらいで」福島が笑った。
本物の身体は実験室の中である。彼らは、視覚面からヴァ―チャル世界に投入されているだけだった。それでも目の前には並木がつづき、落ち葉が舞っていて、どうやら風の強い夜らしかった。寒そうに身をかがめ、鞄などを小脇に抱えた学生らしい人影が、坂の途中にある正門から、吸い込まれるように校内へ入っていった。球場に近い都心の高台にあるキャンパスである。夜空をバックに四階建ての校舎が並んでいる。
「昔のままだ。……って言うのも変か」
「当時を再現しているわけですから」
登校した学生たちは、蛍光灯のともった掲示板の前で足を止めている。冬木も彼らに習った。
「こんな時刻に授業をやってるんですね」
「夜間部だから、授業は夜なんだ」
「先輩はたしか物理科でしょう」
「そう」
「何年生でしたっけ? この時」
「一応は四年生。ほんとは七年目なんだが……。入学した頃、世の中が騒然としててな。学園紛争とかあったりしてさ、自分のやりたいことが分らなくなって大学へ行かなくなった連中が多かったのさ。おれもそうなんだが」
「七〇年代の初めですね。ほら何でしたっけ? 学生運動ていうの、先輩も体験したんでしょう?」
「おれはただ、ぶらぶら遊んでいただけで……。もっとも、こういう言い方は本当は正確じゃないんだが……」おしまいの方はぶつぶつと口ごもっていた。カワセミは一応もっともらしくうなずいてみせた。
「教室へ行ってみますか」
「今は……二時限目かな」
冬木とカワセミが講義の時間割をのぞきこんだ。
「物理数学ですね」
「ああ、苦手なやつだ」
冬木はゴ―グルの下で顔をしかめた。
「卒業を危うくした科目だ。最後の試験が出来なくて、単位を落とすところだったんだ」
「でも大丈夫だったんですね」
「何とか単位はくれたよ。しばらく夢に見たね。試験が出来なくて落第する夢だ。そうだ。教室へ行くのは止めて食堂へ行こう。しかしデ―タはあるのかな?」
「1号館」と表示のある建物の方へ向かいかけた冬木が立ち止まった。
「大学とあなたが住んでた町、それに友人とか、特定の分野は押さえてますから」
正門から一番近い建物が1号館である。樹木のように立つ水銀灯が1号館の出入り口に光を投げかけている。冬の夜の学内は、暗くさびしい雰囲気が漂っていた。今は授業中で、なおのこと人気がない。しんとした一階のロビ―から地下へ階段を下りていくと、生協の食堂である。現場の効果音が活気づいた。冬木の中の三十年前の記憶と、目の前に展開する画像が重なった。カウンタ―で定食を受け取る学生。厨房からは絶えず湯気が上がっている。テ―ブルで食事をする学生や教員たち。
「あなたのお連れはいますか?」
カワセミが聞いた。冬木は周囲を見まわした。知った顔はなかった。
「いないね。授業に出てるんだろう」
「物理数学ですか」
「そうだよ。みんなてこずってたから。いま十二月だろ。せめて授業だけでも出てなきゃってね」
と言いながら、冬木は何だかおかしくなった。期末試験に自信がなくて、出席点だけでもきちっと取りたいという、当時の切羽詰った状況をまざまざと思い出したからだ。「現場」にいるからに違いなかった。
冬木はほろ苦い感慨に浸りながら、ざわめきの中で立ちつづけていた。食器が触れ合う音や学生たちの話し声が聞こえてきた。しかし彼らが交わす会話もまた、地下鉄でサラリ―マンが手にしていた新聞と同様に、冬木には意味のないノイズでしかなかった。聞き取れない外国語のようだった。福島が顧客にしている大学の食堂で収録した音声を、加工したのかもしれない。そんなことを考えていると、冬木の背中にびっくりするような大声が飛んできた。
「よう!」
冬木が振りかえると、目の前に髭の濃い大きな顔の男がいた。もじゃもじゃの髪で耳に赤鉛筆を差している。手には競馬新聞。何て名前だったっけ―――?
冬木は「ああ……」と応じたが、後が続かなかった。無意味なノイズの集合でしかないバックグラウンドの中から、不意に浮かび上がった日本語だったからだ。カワセミが耳元でささやいた。
「森田さんですよ。それと、ここでは私の姿は見えないようにしましたから」
冬木はうなずきながら「授業中じゃないのか」と森田に言った。
「ちょっと家業が忙しくてよう。今、来たのよ」
森田はラ―メン屋の息子である。東部線沿線の駅前に店がある。十二月は出前も多いはずだ。
「おぬしこそ何してんだ?」と逆襲された。
気のいいあんちゃんみたいに、にやにや笑っている。
「ああ、ちょっとな。その辺をぶらついているんだ」
「何、とんちんかんなこと言ってるんだ。変わった野郎だぜ」と森田は哄笑した。そして、
「じゃあな」と言い捨てると、くるりと背中を向けて今来たばかりの出口の方へ戻っていった。
「どこへ行くの?」
冬木はあわてて呼びかけた。森田はちらと冬木を振り返り、競馬新聞を握った右手を勢いよく挙げて、「今から授業に出て出席にしてもらうのよう」と語尾高く言い放つと、食堂から姿を消した。
「せっかちなやつだ」
冬木はカワセミに向かって言った。
「仕方ないですね。そういうキャラクタ―なんだから」
福島が言い終わらないうちに、お馴染みの顔ぶれが次々と食堂に入ってきた。一様にほっとしたような表情を浮かべている。まず井出。すでに前回、冬木は再会を果たしている。本人が覚えているかどうかは別として。
「よう」と井出が一言。不機嫌そうな顔つきである。次は青山である。額に垂れた柔らかそうな髪を右手で掻きあげた。職場からの直行組で、ジ―ンズではない折り目のついたスラックスに黒の革靴と、まともな格好をしている。冬木を認めると顎をしゃくった。これが青山流のあいさつである。
矢部が日野原に一方的に議論をしかけながら入ってきた。冬木に気がついた日野原が「おお」と言うように右手をあげた。矢部は冬木の存在に気がつかない。日野原に向けて盛んに食ってかかっていた。最年長の日野原が鷹揚に矢部を制止しながら、冬木に向かって言った。
「授業はないんだとさ。無駄足だったな」
冬木に対してというより、自分自身に言い聞かせているようでもある。皆が奇妙な安堵感を漂わせていた理由が冬木には分かった。それにしても日野原は手ぶらである。何も持たずに授業に出るつもりだったのか。
「え―い、休講になるんだったら来なかったのによ」
森田が舞い戻ってきた。
「みんなそろってっから、久しぶりに飲みに行こうか」
別の大学の学食でキャベツを刻んでいる矢部が提案した。誰も乗ってこない。
「おれは帰るぜ」
酒が飲めない森田がぶっきらぼうに呟いた。
「長いこと休んでいたね」
滅多に自分から話すことのない青山が、珍しく冬木に向かって言った。皆の視線が冬木に集中した。
「そうそう、何かあったのか?」日野原が言った。
「え、何の話?」冬木は言葉に窮した。
「おぬし、一か月姿をくらませてたんだぜ」
冬木は自分の耳を疑った。そんなはずはない。
「それはどういうことかな?」
「どういうことって、おれたちが聞きたいことじゃないか」
話がおかしな方向へ行っていると冬木は感じた。そんな歴史はないのだ。
「どうなってるの?」
冬木は左肩の、日野原たちには見えないカワセミに小声で問いかけた。
「シナリオ通りですけど」
カワセミ姿の福島から素っ気ない返事が返ってきた。ダイレクトな音声である。日野原たちが静止している。
「おれの歴史と違うんだがなあ」
過去を再現するという前提だったはずだ。自分の知らない歴史が入り込む訳がない。冬木は少し不安になった。たんに見学者として「再現された過去」の現場に居合わせるだけでなく、プレ―ヤ―が過去の時代を「自由に生きる」という趣向のために、事実と異なる「素材」が用意されているのだろうか。
「……なるほど、サブスト―リ―を選択してますね」と福島の声が流れた。
「おれは、何も選択などしていない」と冬木が返した。
「え―とですね、青山氏の問いに対してプレ―ヤ―、つまり先輩が意味のある答えをしなかったからです。そのために『場の自由度』に決定をゆだねることになった。つまり量子的ゆらぎによるサイコロが振られた。その結果、長い間休んでいた―――という文脈に沿って造られたサブスト―リ―が、たまたま選ばれたのです」
「待てよ。おれは大学を長期休んだりしなかったぜ」冬木はこだわった。
「本当に?」
「ああ、間違いない」
「確信を持って言えますか」
そう言われれば、少しあやふやな点もあった。
「う―ん」冬木は唸った。三十年前のことだ。忘れていることもあるかもしれない。
「細かいことはあまり気にしない方がいいです。ゲ―ムですから脱線したり思いがけない展開をすることもあります。細部までシナリオに従って主人公を演じても、面白くも何ともないでしょう」
「まあね」
「事実の追体験じゃなくて、与えられた環境の中で一つのキャラクタ―を生きる、という風に考えてください。案外刺激的な展開があるかもしれませんよ」
「ふむ」冬木は素直にうなずいた。
日野原たちが冬木の前で静止している。
彼らがというより、システムが入力を待っている。冬木は日野原に向かって話しかけた。
「たぶんおれはどっかへ行っていた。記憶喪失っていうんだろうな。その間のことを全部忘れてしまったんだ」
ポ―ズが解けた。途端に日野原がけげんな顔をした。しかし、そこはゲ―ムだから、単純な論理が支配している。もっともらしい台詞を吐いていれば、うまく通用するのだった。
「おれは何も知らないんだ。俺のことについて誰か話してくれないか?」と冬木は逆襲に出た。日野原は他の四人を見回した。井出の上に視線が止まった。井出がしぶしぶと話し始める。不機嫌そうな、ぶすっとした口調である。
「直前に、おれんとこへ来たよな」と冬木に向かって言った。
冬木は首をひねる。
「十月の終わりだった。冬木がひょっこりおれんちへ来てさ、何でだか知らね―けどすぐ帰ったんだ。それきり会っていない」
「冬木のアパ―トへは行かなかったのか?」日野原が畳みかけるように聞いた。
「おいおい、尋問みたいな言い方は良くないぜ」井出が毒づいた。
「すまん」と日野原。
「冬木のアパ―トは何遍も行ったさ。いつもいね―んだ」
「おまえ、冬木んちへ何時ごろ行ってた?」
矢部が皮肉っぽく井出に尋ねた。昼だったら寝ているのに、と言いたかったのだろう。
「夜の七時か八時。もっと遅いときもあったな。……言っておくが、朝は行ってないぜ」
井出も布団から出るのは午後である。
「学校も行ってない。夜もアパ―トにいなかったと、……さては女のところにでもしけこんでたか、チクショ―」せっかちな矢部が勝手に短絡した。
「田舎へ帰ってたんじゃないの」
日野原が常識的な見解を示した。そのうえで、「矢部の妄想はあり得ないよ。冬木は女にもてないからさ」と付け加えたので、皆が笑った。冬木もゴ―グルの下で笑った。青山が静かに口を開いた。
「最初から整理して考えようぜ。十月の終わり、冬木が井出のアパ―トを訪ねた。その後、冬木が学校を一カ月休んだ。井出が夜の七時か八時頃、何回か冬木のアパ―トを訪問したが不在だった。理由としては帰郷が考えられる」
「おれが行ったときに、たまたま居なかっただけかもしれんな。そう言えばいつもメ―タ―が廻っていた」井出が言った。
「確かに、井出が行った時に居なかっただけかも……。あるいは別の場所にいて、時々アパ―トに帰ってきてたのかもしれないじゃん」と青山。
「仕事とかやってたんじゃね―の」
横でにやにやしながら話を聞いていた森田が、素っ頓狂な大声で言った。
「住み込みとかのよ」
「そういう可能性もある」日野原がしたり顔でうなずいた。「おれも沖仲仕をやってた時に、山谷の簡易宿泊所にいたからな」
「やっぱり記憶喪失ってやつかよ?」森田が冬木に言った。
「ああ、そうらしいんだ」冬木は適当な反応をしながら、何だってこんなふうに延々と会話が成立しているのかと思っていた。
冬木はカワセミにささやいた。
「完璧に双方向的な会話が成立しているじゃないか」
「予想したとおりですね」と福島の声が返ってきた。
日野原たちが静止している。福島を呼び出すと同時にポ―ズの状態になるようだ。
「システムが進化してるからですよ」
「え?」
「システム自体が自動的にゲ―ム世界を生成、記述しながら発展しているんです」
「初めて聞いたが……」
「実は私も、自動生成システムを実行するのは、今日が初めてなんです」
「ちょっと中断してよ。話が違うじゃないか」
「だめです。今切ってしまうと、バ―チャル世界の連続性が失われてしまいます」
「これはゲ―ムだと、キミが言ったじゃないか。連続性も何も、たんなるシミュレ―ションの世界なんだろ?」
「でも独立したひとつの世界なんです。それ自体独自の原理で生成している、生きた世界なんですよ」
「生きた世界って? この連中が生きてるって言うのかい」
冬木は眼前に静止したままの日野原たちを、バ―チャルの右手で指した。
「そうです。実世界での存在の仕方とは若干異なりますが、完結した系で情報が有機的に連結しあって処理されているという意味では、いわゆる実世界と同じです。物質に根拠を持たない存在ですが、情報のやり取りという見地から見ると、本質的には同じなんです」
「じゃ、バ―チャルでのおれは、好き勝手に振る舞えないって言うのかい?」
「たとえば今、バ―チャルの世界は時間が止まっている状態で、私たちはバ―チャル外で勝手なことをしている。しかしポ―ズを解除して、バ―チャル世界の時間を進行させても、バ―チャル内のキャラクタ―はそれに気づかないでしょう。ところが今、冬木さんがいなくなると、彼らはパニックになるでしょうよ。なぜなら、彼らの世界の原理はわれわれと同じだから。彼らの常識も、私たち実世界のものと同じなんです」
「新宿駅で、おれはいろんな人間をすり抜けられたぜ」
「あそこではイメ―ジ生成だけでした。〝その他大勢の群衆〟で、キャラクタ―ではなかったのです。双方向的な関係を持たせていないから、互いに干渉し合わない。情報のやり取りがないんです」
「なるほど……。それにしてもおれはどうなる? このままバ―チャル内でずっとこの連中と付き合って行かなきゃならんのか」
福島は笑った。
「そんなことはないですが、区切りのいいところまで行くべきでしょう」
「そうしたほうがいいのか」
「先輩だって目の前で人が消えたら驚くでしょう」
「そりゃまあ……。じゃ、復帰するか」
「でなくてポ―ズの解除」
6 東武沿線へ
「……記憶喪失っていうやつかよ」
森田の語尾から再開した。
「あ、そうかもしれん」と冬木は相槌を打ち、「そうだ。おまえんとこへラ―メンでも食べに行こうか」と言った。
「おまえの記憶喪失とおれんちのラ―メンと何の関係があるのよ?」
森田が口をとがらせて反論した。
「何だかそちらの方面へでも行けば、思い出せそうなんだ」
現実に冬木は、森田の店を訪ねようと思いついたことがある。退職の数年前、東京へ出張した時だった。行きそびれたが、そのことが妙に心に残っていた。
「手がかりでもあるのか」
日野原が真顔で聞いた。
「いや、わからん。わからんが妙に惹かれるものがある。それにみんなもメシ食ってないだろ」と冬木が誘った。
日野原たちが顔を見合わせた。そしてあっさりと、皆で森田の店へラ―メンを食べに行くことになった。本当にあっさりと。彼らの自我はあまり強くないようだった。少なくとも、冬木の記憶の中にある彼らほどには―――。
冬木とその一行は、池袋で東武東上線に乗り換えた。夜だったので、電車から見える風景の描画には、たいしてデ―タを必要としないだろうと冬木は思った。冬木は別のことで悩んでいた。ラ―メンをいったいどうやって食べるかということだ。日野原たちバ―チャル内の住人とは違うのだ。かれらは記号として論理的に飲食する。彼らと同様のアニメ―ションで、食べるという行為を表示できるだろうか。
下赤塚で冬木たちは電車を降りた。駅前にはこれといった特徴がなかった。デ―タが不足しているのか、少し侘びしい雰囲気が漂っている。電車が走り去ると急にしんとした。冬木と日野原たちは、自転車置き場の横を通って、ばらばらと広場に出た。時刻は八時前でそんなに遅い時間でもなく、商店街にもちらほらと人が見えた。交番がある。がらんとして誰も居ない。
「ここへはよく配達するんだ」
交番の前を、森田はせかせかとした足取りで通り過ぎた。森田の店は商店街の三軒目にあった。“ラ―メン”“ギョ―ザ”と白く抜かれた赤い暖簾がかかっている。森田に率いられて一行が店に入ると、森田と同じしゃくれた顎で胡麻塩頭の親父さんがカウンタ―の中にいた。
「らっしゃい」と言いかけて、
「ガッコのよう、ともだちなんだ」
森田が早口で説明した。親父さんは相好を崩して「どうも」という風に軽くうなずいた。
「適当にすわんなよ」
森田が照れながら指示した。一組の先客がカウンタ―にいたので、冬木たちはカウンタ―のあいている席と、一つだけあるテ―ブルに別れて座った。
「何にする?」森田が聞いた。
「みんなラ―メンだよな」と日野原が一言で決めてしまった。
森田は調理を手伝わない。出来上がったラ―メンを運ぶだけである。日野原たちも手伝った。冬木は眺めているだけで良かった。
冬木にとってラ―メンを食べるという行為は、単に仕草をするだけだ。誰も怪しむものはいない。現に、冬木の丼から麺と汁が減っていたし、他の者から見ても、冬木が食べているということが了解されているようだった。「箸の上げ下ろし」は、冬木が身につけたセンサ―によってリアルタイムで解析され、「仕草」の情報として回路に流れているのだろうと、冬木は理解した。箸を休めて、今はバッジを模して襟に止まっているカワセミのアイコンにささやいた。
「ここの友人たちに自由はあるのかな?」
音量を絞った福島の声が耳元で流れた。
「休止してませんので気を付けてください」
「了解」
「自立した知能があるか――という意味ですね。結論から言えば、それに近いものはあります。もう一つは、決定論的な世界ではないかということですね。彼らは本質的にプレ―ヤ―をサポ―トしなければならない立場なので、その役割を担っている限りではあまり自由はありません」
「自我は持ってるの?」
「ロジックな自己はあります」
「感情は?」
「難しい問題ですね。私たちの概念でいう感情の本体はありませんが……。感情の表現はありますよね。膨大な演算を必要としますが」
「マシンをフル稼働させているんだろう」
「電力を食うわけです……。バ―チャル世界を自動生成させていると先ほど言いましたが、プレ―ヤ―が投入されると、知能を持たせたキャラクタ―が相手をします。一対多の場合は演算が分散されますが、一対一の時は集中して処理しますので、割合賢い相手だと思ってくださいね」
「何かぶつぶつ言ってるな」
向かい合って丼を抱えている井出が不思議そうに冬木を見ていた。
そういえば休止していなかった。
「この世界のこととか考えていたんだ。それよりラ―メンはどう?」
冬木は小声で話した。
「うまいよ……。それにしても世界を考えるなんて、冬木にしてはえらく哲学的じゃないか」
「誰だって形而上的な要素を有していると思うがね」
冬木は無難に答えた。昔と同じだ。井出は挑発してくるのだ。案の定、丼の中をかき混ぜていた箸の動きが止まった。
「今は哲学より思想の時代なんだ。さらに言うならイデオロギ―だ。かつてエンゲルスがドイツイデオロギ―論で論じたように……」
井出が蕩々と論じはじめたが、もちろん何かの引用に違いなかった。冬木は苦笑した。バ―チャル世界へ来てまで、七〇年代の議論を蒸し返す気はなかった。
「この下赤塚ってところは、いいところだよね」
冬木は空々しく話題を変えようとした。すると井出は講釈を中止して、コップの水を飲んだ。プレ―ヤ―の意思が最優先されるらしい。他の連中も、今は冬木の話を静かに聞いているようだった。
「こっちへは来たことがなかったからね。東武東上線に乗ったのも初めてさ。旅人になったような気分だよ」
冬木は思いついたことを適当に喋っている。友人たちはラ―メンを食べ終えて、冬木に反応するでもなく、休止に近い状態で待機していた。例外は井出である。直近の会話から
解析して、井出への「重み付け」が続いているようだった。確かに、キャラクタ―として冬木に一番近いのは井出である。出身地が箱根以西であるということ以外に、いくつかの共通点があった。良い意味でも悪い意味でも……。
「風来坊みたいな口振りじゃないか」
井出が揶揄した。
「四国から出て来た人間は、関東の北の方へ行く路線てのを、なんかえらく遠く感じるんだ。行けども行けども駅があって、駅前広場というやつがあって、バス乗り場があって、西友とか銀行とか並んでるんだなあ」
「おまえさんの郷里にはないのか」
「西友でなくてダイエ―がある。むろん銀行はあるが」
井出は呆れたように冬木を見た。
「疲れてるんじゃないのか」
「かもしれん」
冬木はふ―っとため息をついて目を瞑った。じっさいゴ―グルの中で目を閉じていた。まだしばらく続けなきゃいけないのかと思っている。
「……寝てるのか?」
井出の声だった。
「冬木が何かを思い出す手がかりを見つけられたかどうか、おれたちには分かんないけど、そろそろ引き揚げようぜ」
日野原が長兄のように宣言した。割り勘で支払いをして店を出た。井出がコ―トをはおりながら言った。「外は寒いやね」
森田を除く四人が背を丸めながら駅へ向かうのを眺めながら、冬木は本当に身体が冷え込むのを感じた。
「この世界」に馴染んできたのか……。
「マシンが相当電気を食ってますので、暖房を止めました。寒いですが辛抱してください」
カワセミがささやいた。
「了解」
「これからどうする。とりあえず帰るだろ?」駅で日野原が聞いてきた。下りの電車が着いたところだ。
「ああ。もう二度とここへは来ないかもしれないが」
冬木も池袋経由の切符を買い、日野原たちから遅れて改札へ向かった。この辺で切ってもいいと冬木は思った。頃合いである。何かきっかけがあれば……。
7 我思う、故に……
女が階段を降りてきた。
冬木の足が止まる。少年のように涼しげな目鼻立ち。即座に冬木は思い出した。ジャズ喫茶「ビザ―ル」にいた娘だ。カワセミにレファランスしてもらう必要もない。
女はまっすぐ改札へやってくる。
水色のハ―フコ―トに黒いブ―ツ。女はうつむき加減で、青いマフラ―に形のよい顎を沈めている。赤い定期入れを駅員に見せて改札を通った。肩から下げた大きなバッグに定期入れを素早くしまう。
上向いた顔が冬木の視線と合った。女は足を止めかけて悪戯っぽくほほえんだ。一瞬のことだった。女は笑みを残しながら向き直ると、早足で出口へ向かった。冬木は取り残されていた。日野原たちは改札を通って階段へ向かっている。手の中の切符を意識しながら冬木は女を目で追う。駅を出て女は外の闇に消えた。冬木は女の後を追った。展開が変わってきたぞと冬木は思う。ここで切ることもない。女を追いかけるなんて、久しぶりのことだ。
タクシ―乗り場に列があった。女はいない。冬木は素早く左右を見た。停留所に一台のバスが止まっている。女がバスに乗るところだ。冬木はバス乗り場へ走った。冬木が乗ると同時にバスが発車した。女は一人掛けの座席に座っていた。冬木は女の前のつり革につかまった。
「電車に乗るんじゃなかった?」
女が不思議そうな目で冬木を見上げた。すっきりとした切れ長の眼である。
「あなたを追いかけてきた」
実際に走ったわけでもないのに息が弾んだ。
「私、家へ帰るところよ」
低い声で女が言った。冬木を咎める響きが少しあった。冬木の眼下に女の頭がある。その頭ごしに街の明かりが流れていた。最初の停留所でバスが止まった。
「兄がいるわ。二人で暮しているの」
バスは商店街を通りぬけて住宅地を走っていた。街灯が並木のように規則的に通り過ぎた。
「あなたを、送っていくだけだ」
「物好きな人ね」
女の目が笑っている。ブレ―キの音がして、バスが三つ目の停留所で止まる直前だった。
「いいわ。うちへ来なさい」
女が立ち上がった。圧搾空気の音がしてドアが開いた。女と冬木がつづいてバスから降りた。暗い人気のない通りである。バスが走り去ると辺りは急にしんとした。バス通りと斜めに交差する道路があった。女は先に立って歩いた。ヒ―ルの音が響く。女は細い路地に入った。両側は生垣をめぐらせた住宅である。突き当たりに小さな二階建ての民家があった。
「ここよ」
女はバッグから取り出した鍵でドアを開けた。
「入って」
明かりがついた。小さな玄関に男物の安っぽいエナメルの靴があった。冬木は女の後について入ると、居間らしい和室に座らされた。女は台所に立つと、急須と茶碗を盆に載せて戻り、電気炬燵の卓の上に置いた。女は急須から入れた茶を冬木の前に置く。冬木はそれを飲む仕草をした。
「兄は残業で遅いわ」
女は壁の時計をちらと見た。九時半。女が何か言おうとして息を吸い込みかけた。が、わずかに冬木のほうが早かった。女が忍び笑いした。
「ぼくは冬木和彦。きみは?」
「私は夏目温子(あつこ)。よろしく」
女がすっと右手を出した。冬木は女の右手を軽く握った。冬木は新しいキャラに祝福したい気持ちである。
「新宿のビザ―ルにいたね」
「今夜だけ」
「あそこのウエ―トレスじゃないの?」
「違うわ。いつも行ってるコが行けなくなって代わってあげたの」
「ふ―ん、しばらくあの店に行ってなかったから」
「私も初めてよ。暗いし、タバコの煙ばっかりで、やんなっちゃう」
「客も暗かったりして」
「そう。あなたみたいな人」
冬木を軽く睨んだ。
「あなた、私の顔をこ―んな近くからじっと見てたでしょう」と言って、冬木の顔に鼻が触れそうなぐらい顔を近づけた。
「馬鹿みたい」
女は人差し指で冬木の額を軽く突いた。
「ごめん」冬木は頭を掻いた。
「一人でぶつぶつしゃべってたわね」
「見てたの?」
「そう、どっかで会ったことがあるかなって。私たち前から知りあいだった?」
「さあ、どうかな」
「これってさあ、仕組まれてると思わない?」
冬木は驚いた。
「何のこと?」
「変な感じがするの。自分が経験してることって、ホントは新しいことばかりのはずでしょう?」
「時間は常に一方向へ流れてるよね」冬木は用心深く応えた。
「これは前に経験したことじゃないかなって、感じてしまうことがあるのね」
「デ・ジャブっていうらしいね」
「わたしの人生って、一回限りのものじゃなくて、本当は何回も繰り返しているんじゃないかなって思うの」
「ふむ」いきなり核心を突いてきた。
「世界を造ったのは神?」
「その人の立場によって答えが違うんじゃないかな」
「この世界を造ったのは、神でもなんでもなくて、ただの偶然で造られたと思うんだ」
「もしそうだとしても、出来上がった世界は、それ自体完結した立派なものじゃないか」
冬木の言い方は、子供が仕上げた作品を無難に褒めているようだった。
「オリジナルから複製された世界かもしれない。そう、私の人生がコピ―だとするとつじつまが合う。オリジナルの世界の記憶が、ときどき蘇るのよ」
「あまり健全な考え方じゃない」
「あら、どうして?」
「出自のいきさつはどうであれ、この宇宙に生まれた瞬間から、新しいオリジナルなんだ。きみはたぶん、ニヒリズムに陥ってる」
「そうかなあ」
「そうさ。きみ自身の人生、あるいは生活がきみの世界観に反映されているんじゃないか」
「わたし自身の問題だって言うの?」
冬木はうなずいた。
夏目温子はそれが癖らしく、やや頭を傾けて物憂げに考えている。
たぶんいつの世でも、唯我独尊的な世界観はあるのだろう。一人の人間の発達過程にも、そうした考え方を好む時期があるのだ。この世界が福島が言ったように自立的に進化しているとすれば、独自に自我を形成し、存在論的な命題を考えるに至ったキャラクタ―が出現しても不思議ではない。それにしても福島が指摘したように、賢いキャラクタ―というのは手強い相手だと、冬木は思った。
「ぼくもそういう考え方をしたことがある。十代の終わり頃で、世間から孤立していた時期だった。自分を取り巻いている世界は、すべて自分の妄想じゃないか。本当は実在していないのに、実在しているように見せかけている。真実らしく見えるすべての現象は、実は脳の中だけで起きている現象ではないか。リアルな主体は眠らせられていて、特別な手段で『ある時代の自分と自分を取り囲む世界』という仮想の現実を経験させられているのではないか……」
相手を白けさせる意図で話し始めたはずだった。だが途中から、冬木は自分自身を語っていることになると気がついた。果たして、温子の探求心を刺激したようだった。
「すべてが夢の中の出来事みたいな……でしょ? もちろん私も疑ったことがあるわ。自分自身の存在さえ確かではないってね」
「今もそうなの?」
「半分半分。あなたや私がなぜこの世に存在するのかしら。あなたどう思う?」
「わからないよ。一言で説明できることじゃないだろう」
「私というものが存在していること、これが第一の原則、世界を認識する基礎ね。それなのに、第一原則さえ確かな事実かどうかわからない」
「自分の存在を疑っている意識がある。それは事実だろう?」
「そうね」
「自分が存在しているかどうかを危ぶんでいる意識がきみにある」
温子はこくんとうなずく。目が笑っている。
「だとすればきみは確かに実在している」
「そう?」温子が噴き出した。冬木は唖然とした。ようやく笑いが止まると温子は、
「ごめんなさい。『我思う、故に我あり』でしょ。デカルトの方法的……何だったかしら?」
「方法的懐疑……って言ったっけ」
「そう。でもね、例えば『私』という存在を疑っている私だって、誰かさんが見ている夢なのかもしれないじゃない。あなたが言ったように、冬眠している誰かが、人為的に仮想現実の中の人物になりきっているのかも知れないわ」
「仮に、もし仮にそうだとしても、きみが『きみ』と感じている主体は、確かにあるじゃないか?」
「ええ」温子がうなずく。
「どういう在り方をしているのかは問題じゃない。実在の形式は問わない。冬眠中の脳の中かも知れないし、コンピュ―タのチップかもしれない。『ある』ものは在るんだ。きみが『自分』と意識している意識がそこにあれば、きみは存在している」
「そうね、確かに……。そうなんだ」
温子の目が輝いた。冬木はこの世界の実在を確信した。とっくにゲ―ムの域を越えている。
「コンピュ―タのチップて何なの?」
しまったと冬木は思った。この時代には、コンピュ―タはまだ普及していなかった。
「コンピュ―タは知ってる?」
「電子計算機でしょ」
「ああ、だからそいつの回路を構成する部品なんだ」
「部品が意識を持つの?」
「まあ……一種の比喩だよ」
「そういえば、手塚治虫の『火の鳥・未来編』で、知能を持った巨大なコンピュ―タが出てくるわ。都市を支配してるのよ」
「う―ん。そうだったっけ」
「……でも、何だか分からないけど、私、不安なのね」
温子が訴えるように冬木を見つめた。
「ぼくだってそうさ」
温子の右手が冬木の腕に触れた。
「怖いの。いつか消されてしまうんじゃないかって」
冬木の右腕に温子の手の感触はない。冬木が温子の右手を握った。デ―タ・グロ―ブごしに、スポンジをつかんだような感触が伝わった。しかしすぐに手応えのある感覚が形成され、温子が握り返してきたことがわかった。
「消される?」
「私も、私をとりまく世界もあなたも、すべてを創った存在、造物主っていうのかな、その造物主にとって不要な存在は、消去されるんじゃないかしら」
「どうしてそんなことを考えるの?」
「よくわからないけど、何かに従わされているような奇妙な力を感じるわ」
プレ―ヤ―の原理だろうと冬木は思った。温子の自由意思と齟齬を来しているのだ。
「きみを消去させたりしない」
「あなたにできるの?」
幼女のようにひたむきな目が、冬木に向けられた。ややアニメ調かなと冬木は思った。
「神様に頼んでみるよ」と冬木も反応した。
温子がくすりと笑った。安易なせりふだったかもしれない。温子が少し醒めた様子で言った。
「私たち、どうしてこんなこと話し合ってるのかしら」
「なぜなんだろうね」冬木の返事が間延びしていた。冬木は哲学的な会話が途切れてほっとしている。
「ビザ―ルで会うまで互いに知らなかったはずよ」
「前にどこかで会ったことがあるのかな」
「以前のことはよく覚えていないの」
「一緒にいると、いろんなことを思い出せそうだね。そろそろ帰らなくちゃ。終電は何時?」
冬木はタンスの上の時計を見た。十時半を回っている。
「池袋行きは十二時くらいまであるけど、バスがないんじゃないかしら」
冬木は少し落胆した。駅まで歩くには距離がありそうだった。
「泊まっていけば?」
「兄さんが帰ってくるんだろう? 具合が悪いよ」
「どうして?」
「兄さんから見れば、ぼくは見知らぬ他人だぜ。どこの誰だかわからない奴が、妹と一つ屋根の下で、こんな夜更けに一緒にいることさえ変なのに、まして泊まるなんて……」
「一緒に寝るわけじゃないの。あなたはここで。お布団を敷くわよ」と言って温子は立ち上がり、こたつの脚を引っ張り始めた。横にずらして布団を敷くスペ―スを作ろうというわけだ。
「ちょっと待ってよ」
冬木はあわてた。こんなところで寝るわけにはいかない。道徳的な問題ではなく、純粋に技術的な問題として、バ―チャル実験中に寝てしまうわけにはいかない。いかに温子が健気に振舞っているとしても、冬木は基本的にこの世界でのプレ―ヤ―であり、システムの被験者である。
「ねえ、僕はここで寝るわけにはいかないんだ」
いつのまにか足元に畳一枚ほどの面積ができていた。温子は押入れを開けて布団を出そうとしていた。ところが布団が襖の開口部に引っ掛かっている。力を込めた温子の顔面が赤くなった。
「そっちを引っ張ってよ」
温子の剣幕に押されて、冬木も布団の端を引っ張った。無理やり引っ張れば襖が外れる道理で、軽い音と共に襖と布団が弾けるように飛び出した。
布団と一緒に倒れかかる温子を冬木が受け止め、その結果、二人は抱き合うように倒れた。
冬木の上に温子がいた。
「ごめんなさい、大丈夫?」
肉付きのいい温子をまともに受け止めていたら、それなりの重さだったに違いない。だが冬木にとって、温子の肉体はカゲロウより軽い。ビジュアルな存在でしかないからだ。
温子の頭が冬木の胸の辺りにあった。
「重いでしょ?」
「全然」
デ―タウエアが、温子の身体の重みを空気圧に変換していた。初めはゴム風船のようだった。だがバ―チャルシステムも徐々に学習しつつあり、短時間でゴム人形の感触まで形成された。その上、温子が冬木の腰の辺りに回している腕の軽い圧迫感も、システムがサポ―トしていることに冬木は気が付いた。
「暖かくて、何て気持ちがいいの……」
冬木は戸惑った。温子は、冬木の身体を柔らかいクッションのように感じているらしい。そして短い沈黙の後、軽い寝息が聞こえてきた。たぶん彼女はひどく疲れているのに違いない……。冬木はそのままじっとしていた。そして、冬木もいつの間にか洞窟の床の上で少し眠ったようだった。
8 キ―ワ―ド
玄関の錠が開く微かな金属音がした。うっとりと閉じられていた温子の両目が見開いた。つづいて勢いよく戸が開いた。次の瞬間、温子は跳ね起きた。履物を脱いだ足音が近づいてくる。ずいぶん乱暴な歩き方だった。温子はスカ―トの裾を伸ばし、髪の乱れを直した。憑き物が落ちたかのように無表情だった。冬木は布団の山をどうにかしたかったが、すでに時間はなかった。
足音が部屋の前で止まり、襖が荒々しく開かれた。赤黒い顔をした大男が立っていた。酒を飲んで息荒く、暗い表情に見えた。
「何をしていた」
男は低い声で吐き出すように言った。温子と冬木を睨め付けた。
「いとこなの。田舎から上京したばかりで、今晩泊まるところがないからって困ってたから。ねえ、いいでしょ?」
温子は早口で言った。
男は黙って温子を見、顎をしゃくるようにして冬木を見た。
「こいつがお前のいとこだって?」
温子と冬木はぎこちなくうなづいた。男の充血した目がぎらぎら光った。
「笑わせんなよ。こいつ、口紅がついたままじゃねえか」
冬木は、手の甲で唇を拭うようなことはしなかった。狼狽していたが、男の出方を見守っていた。温子は腹を括ったようだ。
「いとこよ。親戚を泊めて悪いの?」
「何だと。おれに楯突こうってのか」
男が兄などでないことは、一目でわかっていた。冬木は悪い方へ解釈した。
「あんた、帰ってくれないか」
男はやや落ち着いた口調で冬木に言った。冬木は温子を見た。目が合った。激しく訴えている。それで冬木は男に言った。
「いや、帰らない」
「なにっ」男の顔が険しくなった。
「他人は関係ないだろうが」
冬木も自動的に応酬していた。
「他人じゃないね。もちろんいとこでもない」
「兄さん、何が言いたいんだよ」
温子が激しく首を横に振っている。男の目が血走った。
「恋人だ」
「もう一遍言ってみろ」
男が冬木の襟首をつかんだ。太い腕だった。
「やめて」温子が叫んだ。
「手を離せよ。このくそったれ」
たぶん、冬木が他者に向かって初めて吐いた悪態だった。
男は黙って襟首を離した。ぶるぶる震えていた拳がぴたりと止まった。次の瞬間、男の右腕が旋回してきた。たぶん冬木の左の頬を狙ったに違いない。腕は確かなのだろう。しかし結果的に空振りに終わった。男の身体が泳いでふらついた。温子は両手で顔を覆っていた。
男の酔眼が一瞬きょとんとした。ボクサ―のような構えから二発目を繰り出した。同時に、冬木がハエを追うように右手を振り払うと、偶然男の顔面に当たった。男は弾けるように後ろへ飛び、あお向けに倒れてしまった。失神したのかぴくりともしなかった。
温子がおそるおそる両目を開き、目の前の光景を見て呆気にとられた。
「どうして?」温子は混乱した。
「この人、急に倒れちゃったんだ」冬木は首を振った。「ちょっと手が当たっただけなのに」
温子は信じられないと言う風に、冬木と伸びている男を見較べた。
「わたし……どうすればいいのかしら」
冬木は即座に言った。「ここを出よう」
冬木は温子の手を取って、玄関の方へ引いていった。
「でも……」温子は躊躇した。
「君はここいるべきじゃない」
「でも、どこへ行けばいいの?」
「少なくともここに留まるべきじゃない。事情はよくわからないけど、この人が君の兄なんかじゃないことは確かだ」
温子は床の上に伸びている男を憎々しげに見た。
「あなたの言うとおりよ。でもあいつ、私を支配しているの。だから逃げ出すことはできないわ」
「支配?」
「私は呪術をかけられていて、あの男に支配されているの。でもその呪縛を解くキーワードがあって、それを唱えたら呪縛が解けて、あの男からも自由になれるわ」
いつの間にそんなル―ルができたのだろう。
「そのキ―ワ―ドは誰が唱えてもいいの?」
「そう。私でも、あなたでも。私が唱えたら私は自由。あなたが唱えたら、私はあなたの意のままよ」
「キ―ワ―ドを知る方法は?」
温子が伸びたままの男を指した。
「あいつよ。あいつが知ってるの」
男に聞くわけにはいかない。
裏で調べればよい。
冬木はバッジの辺りの胸をこぶしで軽く叩いた。併せて深呼吸をした。
「どうしたの?」
「考え事をするときの癖なんだ」
温子が力無く笑った。
「考えたって無駄よ。あいつしか知らないんだから」
「ちょっと待って」
冬木の視野の下部の隅で、カワセミの小さなアイコンが瞬いた。同時に文字が右から左へ帯状に現れた。繰り返し同じ文言が流れている。
「紙と鉛筆を持ってきて」
温子はノ―トと鉛筆を探してきて冬木に渡した。冬木は視野の下部に表示されている文字を書きとめた。
「こいつがキ―ワ―ドさ」冬木が言った。
「本当に?」温子は半信半疑だった。
伸びていた男が唸りながら身じろぎした。温子がびくっと身体を震わせた。
「そっちへ行っちゃ駄目!」
冬木は男の側へ行き、温子から見えない体勢で男の額を指で弾いた。男は再びぐにゃりと伸びた。
「大丈夫。まだ寝てるさ」
冬木はノ―トに記した文字を黙読すると、その下に漢字交じりで書き直した。
「ほら、この文章を声に出して読んでごらん」
温子はノ―トを見ながら読み上げた。
「いつか王子様がきてくれる
いつか王子様がきてくれる
いつか王子様がきてくれる」
「どういう意味だろう?」
温子は目を見開いたまま微動だにしない。
「何か変化を感じる?」
温子は目を瞬かせて、大きく息を吸い込んだ。そしてふーっと息を吐いた
9 深夜の道行き
温子は気を失っている男を見て眉をひそめた。
「あの人は誰かしら?」
冬木は口笛を吹いた。「凄いね。もう忘れてるんだ」
温子は首を傾げ、「あ、そうだった」と納得した。
「もう関係ないんだ、あいつとは」
「そのとおり」冬木は力強く言った。
温子の表情から暗い陰が完全に消えたわけではなかったが、どこか晴れ晴れとしていた。
「じゃ行こうか?」
冬木は温子の背を軽く押した。温子は笑顔でうなずいた。
「……どこへ?」
冬木はとうに決めていたことを言った。
「僕のアパ―トへ行かないか。きみは身の振り方を自由に決められるけど、とりあえずそこに住めばいい」
「そうね。これからは自分の意志で決められると思うけど、まだ自由っていうものの使い勝手がよくわからないんだ」
温子は部屋に戻って身支度をした。さっきまで着ていたコ―トにマフラ―と同色の帽子をかぶっている。バッグもさっきのと同じものを肩から下げていた。
「お待たせ」
ちょっとした外出みたいだった。事情を知らない人が見たら、夜更けにどこへ行くのかと不審に思っただろう。玄関から表に出ると商店街の明かりが消えていた。空は雲一つなく、星が鋭く光っていた。
「寒い。でもうれしい」
温子が青いマフラ―に顔を埋めて笑い声を上げた。声が震えていた。出てきたばかりの家を振り返ると、
「バイバイ」と温子は叫んだ
「もうすぐ十二時。バスはないよね」
「ええ。でも、バス通りじゃなくてこっちの商店街を通っていけば駅まで近道よ」
温子は来た道と反対の方向へ向かっていた。
「ねえ……」冬木は温子に呼び掛けた。
「名前で呼んでね」
「温子、今駅へ行っても電車がないよね」
「うん」温子は俯いた。
「でも、とにかく前に動きたいの」
温子が先に立って深閑とした商店街を行く。商店は軒並み閉まっていたが、明かりの灯る窓がぼつぼつあった。商店街は途中で少し折れ、ア―ケ―ドが架かって、ほぼ真っ直ぐ駅まで続いているので、路線バスの通る道路より距離は短いようだった。電器屋の戸が開いていた。不用心だが、家人が外にいるのかもしれなかった。店の奥からテレビの音声が流れてきた。
「まだ起きてる人がいるみたいだね」冬木は腕時計を見た。十二時過ぎだった。
「少なくともぼくにとっては宵の口だ」
温子がくるっと振り返って言った。
「あら、私だって」
「ぼくは夜と昼と逆の生活をしていたんだぜ」
「あれ、今はそうじゃないの?」
「ああ、もちろん今のことだよ」
冬木は自分がいる世界を間違えた。ここでは現役の学生だった。三十年前だ。
前方でことりと音がした。男が自動販売機から煙草を取り出している。パジャマの上に半纏の格好だった。さっきの家の住人だろう。温子が歩を緩めて冬木と並んだ。
「私、深夜スナックでアルバイトしてたの。だから夜には強いんだ」
「二人とも夜行性だね」
温子がしのび笑いをした。
前から酔った男が千鳥足で歩いてくる。時々意味不明のことを呟いている。温子がすっと冬木に寄り添う。冬木の腕を取った。
「寒いの?」
「ふふ」と温子は含み笑いをした。
酔っぱらいとすれ違った。冬木たちが見えていないかのようだった。温子は冬木の肩に頭を預けた。
「もう少しで駅よ」
温子の音声の一部が、冬木の肩口から身体を伝わって響いた。ひどくリアルだと冬木は思った。商店街の出口が見えてきた。街灯がともった辺りが駅前らしい。森田の店が見あたらない。
「おかしいな。この先にラ―メン屋があるはずなんだが」
「ラ―メン屋さん? そういえば……」
「どこだろう?」
「このア―ケ―ド街とは別の通りじゃないかしら」
ア―ケ―ドの下から出ると駅前広場だった。街灯だけが白々と輝いている。
「やけに暗いな」
「終電が出たら、明かりは消えるわ」
彼らが出てきたア―ケ―ド街から少し離れて、広場から斜めに入る商店街があった。角から三軒目、今は暖簾を下げてシャッタ―を下ろしている。森田の店に違いない。
「君の言うとおりだ。あそこにあった」
「知ってる店なの?」
「友人の親父さんがやってる店なんだ。駅で君と会う前に、あそこでラ―メンを食べてたのさ」
「そうだったの」温子が笑った。
二人は交番の前を通り、バス乗り場に戻ってきた。
「ぼくたちも駅で終点かな」
「そんなこと言わないで、何か別の解決法を考えて。キ―ワ―ドを見つけた時みたいに……」
「そういえばそうだ」
「ねえ、さっきはどうして分かったの?」
温子の声がくぐもっていた。口元がマフラ―で覆われていたのだ。
「見えたのさ」
「言葉が?」
「君は信じないだろうが、ぼくには、特別な能力があるみたいなんだ」
「普通の人には見えないものが見えるのね」
「時々……だけどね」
少し間があった。温子が考えているようだった。
「“いつか王子様が″って白雪姫の歌じゃない?」
「そう、ディズニーのアニメで白雪姫が歌う曲の名前。ジャズでよく演奏されて、僕の好きな曲の一つなんだ」
「わかった! それで、キーワードが見えたのね」
「そうかもしれない」冬木は笑った。
「どんな曲?」
冬樹はハミングした。温子がハミングで合わせてきた。
「うまいね」
温子が微笑んだ。
駅前広場は森閑としていた。時たま通りかかる車があった。冬木と温子は駅の入り口へ移動した。シャッタ―が閉まっている。
「ここで朝まで待つの?」
温子が言った。冬木は頭を大きく横に振った。
「あそこにホテルがあるみたいだけど、行ってみようよ」
冬木は提案した。線路に沿った道の先に、けばけばしい電飾の看板が見えた。
「いやよ。ここで始発を待ってる方ほうがいい」
「でも寒いだろう?」
温子は腕を振りほどいて冬木から離れ、
「やっぱり寒い。だけどあなたの周りだけ暖かいんだ」と言いながら、再び冬木の腕を抱え込んだ。リアルな身体は洞窟にある、冬木の身体近傍の温度情報を、ベ―ルをまとうようにこちらの世界に持ち込んでいるのだろう。
「でも、こんなところでいつまでもいられないよ」
「あと五時間だわ」
「こんなところにはいられないだろ?」
「ラブホテルはいやなの」
「駅の向こう側へ行ってみよう」
「同じよ、こちらも向こうも。東口と西口の違いしかないわ。左右対称なのよ」
「まさか」
冬木は笑った。
「それに、駅から離れてどこまで行くつもり?」
「ぼくのねぐらまで」
「和彦はどこに住んでるの?」
「西荻窪」
温子が思わず冬木の肩から頭を起こした。
「中央線じゃない。そんな所まで歩けるわけないでしょ」
「さっき歩いたように、最短距離に近い道を探してゆけば、池袋を経由するル―トよりずっと近いはずだけど」
「最短距離の道がわかるの? 地図も磁石もないのよ」
「だから、それはぼくに任せて」
「でも……歩いて?」
「今はね。で、もちろん朝になって、バスか電車が使えるようになったら、そいつを利用するのさ」
「それまでずっと歩くの?」
「途中で休憩しよう」
「どこで? こんな真夜中に?」
「う―ん」冬木は絶句した。
バ―チャルの人間も疲れたり腹が減ったりする。人間と同じ生理現象の情報が「脳」に伝達されるのだ。それは仮想の臓器から発生する仮想の信号だが、結果は生身の人間と同等である。
「何とかなるさ」
ここがバ―チャル世界でなければ、良い加減な言い草だろうが、「そうね」と温子も簡単に同意してしまった。温子のキャラクタ―が簡略化されている訳ではなくて、冬木の「特別な」能力を温子が信じたからだろう。
「こっちにも商店街があるわ」
彼らは踏切を越えて駅の南口へ回った。野良犬が遠巻きに二人を見ている。
「本当に来たことがなかったんだね」
「初めてだわ。何年もこの街にいたのに」
「やっぱり北口と風景は違った」
「左右対称じゃなかったね」温子が肩をすくめた。「みんなおやすみしてる」
「そうでもないぞ、あそこの窓に灯がついている」
二階の窓に明かりがあった。黄色いカ―テン越しに電気スタンドの光が漏れている。
「受験生かな?」
「かもしれない」
「あれはぼくかもしれない」
温子が不思議そうに冬木を見た。
「かつてのぼくのようだって、言いたかったのさ」
「あら、私かもしれないわよ」
二人は顔を見合わせ、小声で笑った。
「あんな時代があったわ。私の部屋も二階だった」
南口の商店街は規模が小さかった。商店の家並みが途切れ、木造のアパ―トや小さなマンションが立つ一角を過ぎると、二人の行く手には寝静まった住宅地が広がるばかりだった。真っ直ぐな道路、左右に壁のように続く塀、塀で囲まれた住宅、電信柱と電線。それぞれの輪郭が形作る直線群が、闇の中の一点に集まっていた。そして彼らは、その一点に向かって進んでいるのだった。、
「受験はうまくいったの?」冬木が尋ねた。
「あのね、家の事情で進学をあきらめたんだ」
「そうだったの」
「声楽を勉強したかった」
「声楽って……クラシックの?」
「そう」声が弾んだ。
「それで声がいいんだね」
「ありがとう」
彼らの進路に変化はあまりなかった。一本の道を端まで行くと、交差点を真っ直ぐ進むか、あるいは左へ曲がって少し進んだところで、また右へ……。冬木はナビゲ―タ―の指示に従っているだけだ。道路の端まで来ると、矢印のポインタが点滅した。
どれぐらい歩きつづけただろうか。真夜中の一時を過ぎていた。
「ずいぶん歩いたね。疲れただろう?」
「脚が、棒のよう」くたびれた声が返ってきた。
「この辺で休もうか」
「休むってどこで?」
公園に面して空き地があった。敷き詰められた白い土が、敷地の形を浮かび上がらせていた。公共施設の建設予定地のようだった。住宅地の一区画分ぐらいの広さがあり、溝のように掘り起こされたところがあった。コンクリ―ト枡を積み上げた蔭に、プレハブの小屋があった。冬木が扉の取っ手を回すと難なく扉が開いた。
「鍵がかかっていないんだ」冬木は温子の耳元で言った。
「ラッキ―」温子がささやき返した。
冬木と温子は、小さな窓の前に事務用の椅子を並べて座った。埃で汚れたガラス越しに建設資材と街灯が見えた。冬木はおかしさが込み上げてきた。
「こんなところに住んでいたよ」
「和彦が?」
「ぼくの伯父」冬木は嘘をついた。
「あなたのおじさん?」
「そう。親父の弟でぼくの兄貴のような人。伯父は工事現場の飯場みたいな所に住んでたんだ」
「建設工事とかの仕事をしてたの?」
「いいや。勝手に住みついたのさ。伯父はね、そのとき家を持たなかったんだ」
「でも仕事はしてたんでしょ?」
「いや、無職でぶらぶらしてたんだ」
「じゃホ―ムレス?」
こんな言葉、この時代にあっただろうか? システムに現代の辞書を導入したためだろう。
「そうなんだ。定職も無く僅かな金で、その日暮らしをしていた」
「現在のこと? それともずっと以前の話なの?」
冬木は素早く考えた。「つい最近のことさ」
「おじさんは今もそこに住んでるの?」
冬木は苦笑しながら首を左右に振った。
「管理人に見つかって追い出されたそうだ」
温子はくすくす笑った。
「おかしいだろ? でも、この時代ではそれほど珍しい話じゃないんだ。失業者が溢れていて」
「現在の話じゃないの?」
冬木は少し慌てた。
「もちろん現在だけど、ぼくの郷里の方は不況なんだ」
「この時代、なんて言うでしょ。いつの時代のことかなって思うじゃない」
「ここは景気が良いようだけど、向こうはひどいのさ」
「そんなに違わないわよ。同じ日本でしょ?」
冬木が椅子から立ちあがった。
「見つからない内にここを出よう」
「あなたの話をもっと聞きたかったのに……」
二人は空き地の中の小屋から出た。二人が小屋にいる間に月が昇っていた。公園の木立を掠めるように、半月が低い空に懸かっている。
二人は再び歩き始めた。始発の電車やバスが動き出したら、一番近い交通機関を利用して、冬木のアパ―トへたどり着くつもりだった。
10 フリーズする温子
冬木と温子は、ようやくもう一つの私鉄沿線に達しつつあった。店舗やビルが立ち並び始め、明らかに沿線の街の一つと思われた。
「砂漠の中でオアシスにたどり着いたみたい」
温子が長いため息をついた。
「砂漠か……」
「だってそうじゃない。自販機だって少なかった。身を隠す場所もなかったわ。あそこでコ―ヒ―を買おうよ」
温子が自動販売機が並ぶ店先へ歩み寄った。温子がコインを入れる。缶コ―ヒ―が落ちる音が通りに響いた。
「身を隠すってのはどういう意味だい?」
「へんな表現かな? でも、真夜中の住宅地ってなんだか危険な感じがする」
「真夜中の商店街のはもっと物騒かもしれないよ」
通りに人の姿はない。時折タクシ―が走った。
「いま何時?」
冬木は腕時計を見る。
「三時。始発までまだ二時間以上あるかな」
温子が動かない。宙を見つめて静止している。……三十秒、一分。
「どうした?」
ぴくりと反応した。
「あいつ、今どうしてるかなって……」
温子は決まり悪そうに俯いた。
「何年も一緒にいたから……」
こんな所でこういう展開なのか……。
「気にしないで」
「きみは、奴に例の呪文で縛られてたんだぜ」
「ごめんなさい。私って……」
冬木は七〇年代の深夜の町並みを眺めながら思った。システムが〝裏〟で仕掛けて、ゲ―ムに活を入れたのだろうと。確かに、温子との道行き以後の展開は起伏に乏しい。意図は分かるのだが……。
冬木自身、こっちの世界で若いなりをしているが、自分の正体を明かさい以上、冬木も温子を騙していることに変わりはない。
それにしても、ここでも女に裏切られる展開なのか……。
冬木は温子が声を出さずに泣いていることに気づいた。コンピュ―タが泣くのだろうかと思いながら、
「もういいから、泣くなよ」と冬木は温子の肩に手を置いた。温子はいやいやをするように肩を揺らした。
「どうしたんだ」
「あなたって冷たすぎる」
温子が搾り出すような声で言った。
「もっと熱くなって」
温子の両目に涙が浮かんだ。滴は見る見るうちに大きくなり、つ―っと頬を伝った。
温子が冬木に向き直った。そしていきなり叫んだ。
「熱くなってよ!」
冬木の耳の奥にき―んと響いた。すると、幕切れで息絶えたヒロインのように、温子はうなだれたまま動かなくなってしまった。そのまま倒れるわけでもない。ぜんまい仕掛けの人形が止まったような、静止の仕方だった。冬木は通りを見回した。向かいの電気屋の電飾が瞬いている。こちらの時間が停止した訳ではなさそうだ。冬木はふ―っと溜息をつくと、指先で左の胸のバッジを軽く叩いた。
11 冬木の正体
「長いカットでしたね」
風船が膨らむように、カワセミが冬木の胸の辺りから立ち現れた。
「出る幕がなかった」と言いながら辺りを見回し、
「それにしても七〇年代って、けっこうレトロですよね」と長いくちばしで達者にしゃべった。
「どこがだ?」
「ほら、あの、コカコ―ラの自販機見てくださいよ。ビンで売ってる」
カワセミが目ざとく見つけた方向に、懐かしい赤と白の機械がたたずんでいた。
「うむ、たしかに」冬木はうなずいた。
「それより、ほら、彼女固まっちゃったぜ」
冬木はカワセミに言った。
「ふむ。熱暴走ですかね」
「なんだ、そりゃ」
「彼女に相当するチップが熱くなったんですよ」
「自分から言い出しといて、勝手に熱くなりやがった」
「そりゃ意味が違いますわ。あまりに負荷がかかりすぎて熱くなったんですな。複雑な計算をし過ぎた」
「どうも彼女には、過激な要素があるようだ」
「感情が高ぶって、熱暴走を起こしたんですよね。大した進歩だ」
「これからどうなる?」
「打ち切りますか? 開始から三時間も経ってるし……」
「たった三時間だって?」
「だから前に言ったじゃないですか。中は四倍の速さで時間が流れてるって。しかも少しずつ早くなっている。回路やチップが過熱するのも、そこらに原因があるのかもしれません」
冬木には、一昼夜近く過ごしたという実感がある。知覚的に欠けるところはあっても、中で長く滞在するうちに、感覚面の不足を補うようなメカニズムが、冬木の中で働くようになったようだ。
「一服しませんか、そろそろお昼だし」
福島の声が耳元に流れた。しかし冬木の現在の感覚では、今も深夜、東京近郊の町中にいるのだった。
「いや、おれは続行するよ」
「そうですか。先輩も入れ込んじまったですなあ」
福島が呆れたように言った。
「それより彼女のフリ―ズをどうにかしてよ」
「リセットすれば簡単ですがね。それと熱対策として予備のファンを二基まわして、冷媒を流しましょう」
「リセットすれば彼女の記憶やなんかはどうなる?」
「それは……。バックアップの状況からみて一時間前に戻るかな」
「そいつは具合が悪いよ。連続性がなくなって、現在の状況と合わなくなってしまう。現状のままで復旧してよ」
カワセミはちょっと頭をひねった。リセットせずに復旧するためには、「夏目温子」のシステムを少しいじらなければいけない。人格の一部改変になるがと思案していた。しかしその前に冷却装置が効いてきたのか、システムが動き出した。
「勝手にフリ―ズが解けてますな。自動的に復旧したらしい」
福島が欠伸しながら言った。
「この先どうなるんだろう?」
動き出した船に飛び乗って、見送り人に行き先を訊ねる乗客のような気分だった。
「さあ……」福島も首をひねる。
「自立した系ですからね。私の手の及ばない方向へ行くのかもしれませんな」
「きみがコントロ―ルできなくなったらまずいじゃないか」
冬木は不安になった。
「げんにこんな風に勝手に動き出している」
「物理的限界というものがありますから」
福島はさほど心配していない。昼飯のことに気を取られているようだ。
「コンピュ―タの能力以上にはならないということですよ、先輩」
と言うと、カワセミは冬木の胸のバッジの中にしまい込まれた。
温子が目を瞬かせた。冬木を認めると、きょとんとした表情を浮かべた。フリ―ズ直前の興奮はなかった。記憶を無くしたか、あるいは復旧のために、温子の時間が少し遡ったのかもしれない。
「……眠ったのかしら。でも変ね。私立ってる」
「立ったまま寝てたのさ」
「うそ!」
「ほんとだよ」
「ほんとに?」温子は眉をひそめた。
「あ、そう言えば、夢を見たような……」
「どんな夢?」
「すごくぼんやりしたイメ―ジ。そうそう、あなたは別の世界から来た人なの」
言いながら温子は冬木の目をのぞき込んだ。冬木はごくりと唾を飲んだ。
「それで?」
「それでね、あなたはこの世界と、別の世界を行き来してるの。あなたはどちらの世界にも属してなくて、影のような存在なの」
「……」
「そのためかどうかは知らないけど、いくつかのアイテムを持ってるの。道具とか武器のようなもの、かな?」
冬木はうなずいた。
「それで自分自身や私を守るのね。そんなこともできるってこと。で、一番大事なことは、私は、あなたを助けてあげる役だってことなの」
「きみがぼくを?」
温子はこくりとうなずいた。
「それから? 夢の続きは?」
「……う―ん、忘れたのかな」
温子は頭を抱えた。そして周囲を不思議そうに見回した。
「いつの間にか隣町に来てる」
「そうだよ。気がつかなかった?」
「全然。住宅街みたいなところを、ずっとあなたと一緒に歩いてると思ったけど……」
「ツ―ルの一つを使ったのさ。一瞬にしてどこへでも移動できる」
温子は笑った。
「馬鹿なことを言って……。さっきのは、たんなる夢の話。それより、あなたのアパ―トへ行くんじゃなかった?」
「そうだよ。でも、始発電車までまだ二時間もある」
「また歩こうか」
「そうね」
冬木と温子は踏切を横断して、南西へ向かう。うんざりするほどの路地や横断歩道を歩かなければならない。温子はまだいい。デジタル上の処理で容易にリフレッシュされるのだ。しかしこちらの冬木を支えているのは、洞窟で頑張っている初老の男なのだ。まだ夜が明ける気配のない、暗い道路をとぼとぼ歩きながら、そろそろゲ―ムを降りようかと冬木は思った。
「だめよ」
思いがけず鋭い声が冬木に浴びせられた。冬木は狼狽した。
「一緒に行かなくちゃ、あなたのアパ―トへ。夜が明けてしまわないうちに」
いつからそんな話になったのだろう? フリ―ズしてから、温子がスト―リ―の流れを作っている。まあいい。アパ―トに行き着いたら、そこでゲ―ムは上がりだ。後は温子を好きな所へ行かせて、自分はゲ―ムを止める。それまでは温子に付き合うことになりそうだ。そんなことを冬木は考えていた。
「元気がないわね。私を追いかけてきた人と思えない」
「疲れたのさ、ずいぶん遠くまで来たからね」
「私も本当はくたくた」
「自分の身体を認識できるんだ」
馬鹿なことを言ったと冬木は後悔した。
「当たり前でしょ。あなたこそ……」
語尾が曖昧になった。
「うん?」
「私があなたのことをどう思ってるか、知りたくない?」
「……」
温子は一呼吸置いた。
「なんだかね……、この世の人じゃないみたい」
気遣うような眼になった。
「それは夢の話だって、さっき君が言ったばかりじゃないか」
冬木の声に力がなかった。
「たぶん夢じゃないの。あなたに触ると暖かいし、血も通っているわ。でもね……なんて言うか、あなたは自分の肉体に気付いていないような気がする。まるで死んだ人みたい」
そう言って温子は激しく首を振った。
「ああなんてことを言ったの、私」
「……」
冬木はすぐに反応できない。たしかに自分は幽霊のような存在だろう。この世界に長くいすぎたと思った。
「気分を害した?」
「ぼくも実在してるんだ」
温子は立ち止まり、冬木の腕を取った。
「キスして」
いきなり温子の閉じた目が近づいてきた。冬木は、昔の恋人としたキスの感触を思い浮かべた。温子が感じている感触は本物だろう。実在の世界なのだから。しかし顔面にデバイスのない冬木にとって、そのキスは、仕草だけのものである。温子は目を瞑っていた。冬木は良心の痛みを感じた。自分の行為は偽りである。温子の伏せた瞼が開いた。とろんとした眼だった。冬木は小さな咳払いをした。
「実は……」
「待って」温子が遮って、
「知ってるの。カワセミっていう名前の鳥が教えてくれたの。でも、カワセミってほんとは鳥の種類の名前だよね?」
「うん」
「その鳥がね、あなたのことや、あなたが属する世界のことを教えてくれたわ」
冬木は驚いた。温子がフリ―ズしたときに、福島がデ―タを入力したのだろうか? どの程度のデ―タが流れたものやら……。冬木は心配になった。
「どうやって、この世界へ入ってこれたのかも教えてくれたわ」
「彼と話をしたの?」
「私は眠っていて、遠い遠い所でカワセミさんが一人ぶつぶつしゃべってた」
「夢ってそのことだったんだね」
「私にもだんだん分かってきたわ。でも、一つ疑問があるの」
「何?」
「カワセミさんの話だと、あなたは彼のような分身じゃなくて、本物の存在だって」
「だとしたら?」
「どうやって入り込めているの?」
「それは……」
どんな風に説明したらいいものか――?
「言いたくないのね」
「いつか言うつもりだけど……」
「そう」温子は寂しく相づちを打った。
「これだけは言っておくよ。ぼくはカワセミのような分身ではない。正真正銘の冬木和彦だよ」
「よかった」
温子はほほえんだ。
「あなたが不便を感じることがあるとしても、私にとって本物の人格と対峙しているってことが重要なの」
「不便なんてないよ」
「そうお?」
温子はいたずらっぽく上目で睨んだ。
「キスしても感じてないくせに」
冬木は狼狽した。
「それは……」
「でも仕方ないかもね。だって、和彦は未来から来た人なんでしょ」
「……」
確かに未来といえば未来である。それにしても、福島が温子にそこまで教えた意図は何だろうか?
「未来人は過去を変えちゃいけないんでしょ? だから過去に干渉できないように、たぶん影響力が排除されてると思うんだ」
「ぼくも、そう思う」
冬木はやっと反応した。
「それで普通の生活はできるけど、生殖はできないんだ。子孫ができちゃったら大変だから」
素晴らしい飛躍ではないか。しかし冬木は、ことさら深刻そうな表情で言った。
「まさにその通りさ。だからこの世界では、ぼくは独身でいるほかないんだ」
「そんなことはないの」
温子が反論した。
「あなたの思い込みなんだから」
「そうかな?」
「だって、私はそれなりに……」
温子はもじもじしながら顔を赤らめた。
「いや、そういうことじゃなくて、子供が作れないってことなんだ」
「子供のいない夫婦なんて、いくらでもいるじゃない」
「そりゃそうだけど……」
冬木は、バ―チャル夫婦も悪くないと思い始めていた。
12 奇妙な電車
しかしその話題は、突然中断された。というのも、二人の耳が電車の走る音を聞きつけたからだ。しかも、彼らが後にしてきた私鉄線の方向ではなく、前方の、雑木林が広がる空き地の方から聞こえてきた。
冬木と温子は顔を見合わせた。
「始発が走ってる?」
冬木は月の光で時計を見た。四時である。いくらなんでも早過ぎると思った。
「こんなところに電車が通っていたかなあ」
「この辺の地理はよく知らない」
温子が首を傾げた。
「とにかく行ってみよう」
雑木林を造成し始めてまだ間がないようだった。整地されていない空き地が、月明かりの下で広がっていた。その一角から光が漏れている。二人は目を凝らした。草むらの一帯から淡い光が滲み出ていた。
「なんだろう」
冬木と温子は好奇心をかきたてられ、光の源へ近づいていった。
と、最近まで畑だったらしい草地に、小型のライトバンがぽつんと停車していた。そこから数メ―トル先で、地面がほぼ垂直に掘り下げられていた。
二人は直角に切り取られた崖の端から、おそるおそる眼下に目をやった。すると、地表から約十メ―トル下に、細長い銀色の物体があった。それは薬のカプセルそっくりの形をしていて、モノレ―ルのガイドレ―ルのような棒の上で、照明を浴びてつややかに光っていた。
そばで技師らしい男が二人、その物体を懐中電灯で照らしながら、近寄ったりかがみこんだりしていた。冬木と温子の視線に気づいたのか、一人の技師が振り返って仰いだ。ライトが二人に向けられた。技師は下へ来るように手招きした。
冬木と温子は、壁面に掛けられた梯子を降りていった。技師は銀縁の眼鏡を掛けていた。妙にのどかな感じだった。
「きみたちよく嗅ぎ付けたね、ここを」
「偶然通りかかった者なんですが……」
技師は一瞬呆然としたように見えた。
「なんだそうなの。てっきりマスコミの人かと思ったよ」
横向きに置かれたカプセルのような物体は、高さがおよそ1.5メ―トル、長さ6、7メ―トルほどの丸みを帯びた円筒形をしていた。筒の両端はカーボンのような黒色の球形をしており、筒の部分は、磨き出した金属のように銀白色に輝いていた。
「これは乗り物でしょうか?」
もう一人のヘルメットを被った技師が冬木を見た。
「リニアビュレットさ」
眼鏡の技師が答えた。冬木と温子は顔を見合わせた。
「知らないの?」
技師は困ったようだった。
「新交通システムだよ」
「磁力か何かで駆動するんですか?」
「そうだ。磁力の反発力で浮上して、磁力で推進する」
「……こんな時刻に何を?」
「昼間はこの上を覆っているんだ。人工地面がスライドして蓋をする」
話を聞いているうちに冬木は不安になってきた。
「で、こんな時間に何をしてるんですか」
ヘルメットの技師が振りかえった。目つきが少し険しくなった。
「走行試験をしてるのさ。今の時刻、環境に及ぼす磁気の影響が、一番少なくて済むんだ」
「こんなの知らなかった。君は知ってた?」
冬木は温子を振り返った。
「そう言えば、新聞で読んだわ」
「じゃあ知ってたわけだ。ぼくは知らなかった」
「あなたは未来の人でしょ。知らないはずがないじゃない」
温子が冬木の耳元でささやく。しかし不思議な話だった。リニア新幹線は二十一世紀の初頭、まだ開通していない。こんな東京の西郊で、しかも、こんなちっちゃな磁気浮上列車なんて聞いたことがない。
「乗ってみるかね?」
突然、ヘルメットを被った技師が口を開いた。眼鏡の技師が笑っている。
「どこまで行くんでしょうか?」と言ってから、冬木は恥ずかしく思った。新型の乗り物に乗せてくれるといっても、走らせるとは限らないのだ。
「どこへ行きたい?」
ヘルメットの技師の唇が得意そうにめくれた。
冬木は意外な展開に驚いた。この新奇なミニ電車で二人を運んでくれるというのか。
「どこまで開通してるのでしょうか?」
「それは言えないんだ」
眼鏡の技師が穏やかに、しかしきっぱりと言った。
「西荻窪まで行きたいのですが」
「そりゃちょうどいい。こいつは吉祥寺で停まるんだ」と言って、途中からヘルメットの技師に小声で話しかけた。
「S―3、オ―プン」
ヘルメットの技師が「了解」と言って、手に持っていたコントロ―ラ―を操作した。
すると圧搾空気の音がして「リニアビュレット」の扉がスライドした。屋根が低いためか、リニアビュレットの側面から屋根まで回り込むように開いている。中にゆったりとした座席が目に入った。
「さあ乗りたまえ」
ヘルメットの技師が促した。冬木は温子と一緒に、銀色の車体の開口部から乗りかけた。技師に制止された。
「一人ずつ乗るんだよ。君は前へ、彼女は後ろへ乗りなさい」
リニアビュレットの車体には、開口部が三つ出来ていた。
「乗るのはぼくたちだけですか?」
「私が一番前に座る」
ヘルメットの技師が仏頂面で答えた。
座席に座ると、天井まで回り込んだ扉が後方からスライドして締まった。同時に室内の照明がともった。二十センチ四方の窓が唯一、左側にあった。
「ねえ、和彦」
温子の声が小部屋に響いた。隔壁で分離された乗客は、インタ―フォンで互いに会話ができるらしい。
「なに?」冬木が答えた。
「よかった。これなら話ができるね」
温子が言うのももっともだった。狭い空間に密閉されて不安なのだ。断面が円形の車体の内部は、幅約一メ―トル、天井高は、冬木の頭上二〇センチメ―トル位でしかない。座席と前の壁の長さは、脚を組める程度の余裕はあった。背もたれが深く傾斜していているのは、天井の低さをカバ―するためだろう。
「狭いよう!」
「おもちゃみたいだね!」
彼らは口々に叫んだ。まるで遊園地の電車に乗った気分だった。しかも試運転なのだ。彼らが乗った乗り物が動き出した。窓の外の技師がゆっくりと後ろへ下がっていく。同時に、冬木の前の壁の一部が白く輝き、正方形のディスプレイのようなものが浮かび上がった。フレ―ムだけで、何も表示はされていない。トンネルに入った。さっきまで壁だった所が、シャッタ―のように開閉するらしい。
左手の小窓を見て、冬木は、トンネルの径が車体よりほんの少し大きいだけであることに気がついた。自分たちが乗っているリニアビュレットが砲弾で、トンネルは大砲の砲身のようだった。
「これから台車にセットされる」
インタ―フォンから技師の声が流れた。わずかなショックがあり、圧搾空気のもれる音が伝わった。同時にブ―ンという機械音に包まれた。
「台車というのは、ビュレットをまるごと納める容器で、まあ言えば親ビュレットだね。今通ってきた通路から子ビュレットを切り離して、走行路へ投入するためのエアロックの装置でもあるんだ」
技師が説明した。
「ここから先は真空なんだ!」
冬木は思わず叫んだ。
「減圧しているが真空とは言えない。地表の0.1パ―セントくらいの気圧だ。今後はもっと減圧して行くがね。窓がふさがるからモニタ―に切り替わるよ」
前の壁に浮かんだディスプレイが、進行方向を映し出しているようだった。前照灯がトンネル内を照らしていたが、灰色の壁が滑らかにつづいているばかりで、距離感がまるでつかめない。
「発車する」
技師の声が流れた。親ビュレットの微振動と機械音が高まってくる。
冬木は、本当に巨大な砲台の発車装置に充填された弾のような気分になった。モニタ―の中心に小さな円がうかんで、時計の十二時の位置から針が右回りに一回転した。と同時に、合体したリニアビュレットが動き出した。
モニタ―は前方の映像を出していたが、目標物がないため動いている実感がない。しかし、すぐに加速したらしい。温子が「身体が重いわ」と呟いた。冬木もデータウェアが形成する仮想のGでシートに体を押し付けられる感覚があった。
「もうすぐ、本線にはいる」
技師の声が流れた。
支線から本線に合流する時に、右向きの横Gがかかった。
「今、きっと凄いスピ―ドなのね」
温子が興奮している。
定速走行になったのだろう。振動はおさまった。しかし相変わらず車内にはブ―ンという騒音が満ちていた。
すぐに減速が始まり、ふたたび右向きの横Gがかかった。合体ビュレットは支線に入ったようだった。
「もうすぐ吉祥寺駅だよ」
技師ののんびりしたアナウンスが流れた。また微振動が起こったが、次第に騒音は静まっていった。今度はモニタ―が目標をとらえていた。赤い回転灯だ。合体したリニアビュレットは、吉祥寺の駅へ入って行くところらしい。
「着いたのかな」
冬木は温子に話しかけた。
「きっとそうだよ」
温子が応えた。
モニタ―の画面を見ていると、宇宙船がドッキングする時のように、回転灯の下に見える丸い形の受け口が近づいてきた。接触寸前に映像が途切れた。わずかな衝撃と空気の放出音があった。子ビュレットは、親ビュレットの持病のような微振動と騒音から開放された。遮蔽が取り除かれた小窓からは、冬木たちが乗った子ビュレットが気圧通路を進んでいることが分かった。
「なんだかあっけなかったね」
冬木が温子に言った。
「本当はこんなに短い路線じゃないさ。でしょ、技師さん?」
やや間が合って先頭の個室にいるヘルメットの技師が答えた。
「究極は日本列島の端から端までが目標だ」
「じゃ今は?」
冬木が聞いた。
「ノ―コメント。一つ言えることは、この吉祥寺が駅になるっていうことだ」
「今はまだ正式な駅じゃないんですね」
子ビュレットはモノレ―ルの上を走って、チュ―ブのようなトンネルから出た。そこは冬木と温子が乗った先ほどの場所とは、様相が異なっていた。プラットフォ―ムがあり、コンコ―スのようなスペ―スがある。なりよりも、恒久的な屋根があるようだった。
ビュレットが停止した。しゅっと圧搾空気の音がして扉が大きく開いた。冬木は座席から立ちあがった。首から上がビュレットの屋根の上に出た。後ろを振り返ると同じように温子が屋根の上に顔を出した。
二人はビュレットからプラットフォ―ムに降りた。先頭の技師がいるはずの個室からは誰も姿を現わさない。個室は空だった。誰も乗っていなかったのだ。
中から技師の声が聞こえていた。
「私はこっちに、つまり君たちが乗った地点にいるんだよ。ビュレットの運転は自動制御されているんだっ機嫌の悪いことあー」
冬木と温子は顔を見合わせて笑った。
「だまされたね」
「だますつもりはなかったんだ。一緒に乗ると言わなきゃ、君たちが不安がると思ってね。こっちの現場を離れられなくてね。本来、リニアビュレットは客だけ乗せて運転されるように設計されているんだ」
「また乗せてくれる?」
温子が空の部屋に向かって言った。
「機会があればね。君たちのすぐ前に階段があるから、そこを上がりなさい」
アナウンスはそこまでだった。三つの扉が閉まるとビュレットは今来た道を逆に戻った。二つあるトンネルの、来た時とは別のトンネルの方へ向かった。トンネルの扉がカメラのシャッタ―の羽のように開き、ビュレットが入っていった。扉が閉じると、もうそれっきりだった。
冬木と温子の頭上から、シャッタ―が下りてきていた。二人があわてて通り過ぎるとそのまま閉まって、プラットフォ―ムは完全に隠蔽された。同時に周囲の明かりが減光された。二人は、唯一明かりが灯る方へと向かった。階段だ。冬木と温子は階段を上がった。かなり長いようだ。十二段ごとに踊り場があって、その都度直角に曲がった。十回目の踊り場に扉があった。扉を開けると中は倉庫のようだった。清掃用具が雑然と置かれている。反対側にある扉を抜ける頃には、どうやらビルの地下にいるらしいと感じ始めていた。
事実、最後の扉を抜け出ると、そこは地下一階、飲食街の通路だった。店舗はまだ閉まっていた。唯一、立ち食いのうどん屋に明かりがついていた。店先から盛んに湯気が出ていた。店主が暖簾を分けて出てきた。通路をやって来た冬木と温子をいぶかしげに見やる。
二人はまだ動かないエスカレ―タ―を歩いてあがり、一階へ出た。吉祥寺の駅ビルだった。すでに電車が動いている。外はまだ暗かった。
「やっと着いた」
温子が安堵しながら言った。
「それにしても、さっきのは一体なんだったんだろう?」
「あの奇妙な電車のこと?」
「なんであんなに秘密めかしてるんだろう。まだ完成してないようだけど、すごく画期的なものなのに」
「未来から来たあなたから見ても、そんなにすごい乗り物なの?」
「そうだよ。二十一世紀でも、まだ実現していないんだ」
「何だか辻褄が合わない話ね」
「同感だよ」
冬木はこっちの世界の奇妙さを、過少に見ていたかもしれないと思った。
「駅から遠いの?」
まだ薄暗い通りを歩きながら、温子が聞いた。
「 十五分くらいかな」
「ああ、よかった」
一晩中歩いて二人とも疲れていた。
ふと冬木は、部屋の鍵を持ち合わせていないことに気づいた。しかし、ツ―ルから持ち物を調べてみると、もちろんあった。早朝に家主を起こさなくてもいい。冬木はほっとした。女を連れているのだ。バ―チャル世界のことだから、気にしなくてもいいとは言えるが……。
アパ―トに着く頃には、東の空が明けてきた。もちろんこの近辺の住人はまだ寝静まっている。鍵を使って部屋に入る。壁のスイッチに自然に手が伸びて、電気がついた。敷き放しの布団にこたつ。古い白黒のテレビ……。イメ―ジのままであることに、ひとまず冬木は満足した。部屋の乱雑さも忠実に再現されていて違和感はない。温子の手前だからといって、恥ずかしいという気持ちは起こらなかった。
「おなか空いた?」
温子がこくりとうなずいた。冷蔵庫には何も入っていなかった。無理もない。間に合わなかったのだろう。どういうわけか戸棚に、インスタントラ―メンが1ダ―スあった。賞味期限を過ぎていないか、無意識に冬木は包みを見るが表示はなかった。まあいい。鍋に水を満たしてガスこんろに掛けた。
「あとは私がするわ」
温子が台所に来た。
「ほんとに何もないのね」
温子は冷蔵庫を開けて笑った。鍋の湯が沸くと、温子は包みから取り出したラ―メンの麺を二つ鍋に入れた。やがてラ―メンが出来上がり、二つの丼がコタツの卓の上に並んだ。
「おいしい」
温子が笑った。冬木も、うまく食べるこつをつかんでいた。
「なんだか眠くなったわ」
ラ―メンを食べ終えると、温子はコタツに足を入れて横になった。そしてあっという間に寝息を立て始めた。冬木は万年床を直し、温子を抱き上げて布団に寝かせた。冬木も布団の中に潜り込みたかった。できればそうしたかった――。
13 意識の連続性
(今日のところはこれくらいで終わりにしますか?)
福島の声が六畳間の画面にかぶって聞こえた。
(しゃべっても大丈夫。画面は一時停止してますから)
視野は暗い部屋の中だった。温子の寝息も今は聞こえてこない。
「そっちの時間、どれぐらい経ってる?」
(再開時から一時間位でしょうか)
「それだけか……」
(私はお昼を食べに出てました……。コンビニでお弁当買ってありますよ)
「そうか。でも、おれも二回食事をしたよ」
(えっ?)
「バ―チャルラ―メン」
福島の笑い声が聞こえた。
(じゃ、一時中断ということで)
画面がぷつっと切れた。
「向こうで飲み食いして、現実に胃袋を満たすことはできないかな」
弁当の蓋を開けながら、冬木は言った。
「そうすれば、手間が省けるんだけど」
「そりゃ無理ですよ」福島が茶を出しながら笑った。
「脳に直接アクセスする方法でしたら可能でしょうがね。しかしこの場合、知覚的には現実そのものになる。リアルな夢を見ている状態とも言えるでしょう。その時生身の、つまりベッドに横たわっている身体は、単に夢を見る容れ物に過ぎなくなる」
「ところで、おれの意識をコンピュ―タに移し替えることはできないかな」
「原理的には可能じゃないですか」
「だったらコンピュ―タの中で、おれの意識だけが、永遠に生き続けることも可能だね」
「外から見る限りでは、その通りでしょうね」
「その場合、おれの意識はどうなるのだろう」
「自分という意識の連続性?」
「うん」冬木はご飯を頬張りながらうなずいた。
「先輩は今、私とラボで話している。一方、先輩の意識を移植した存在が、コンピュ―タの中で、夏目温子と話をしていると仮定する。その時先輩は、あなたの意識がどちらにあると思います?」
「どちらにもあるんじゃないか?」
冬木は箸を置き、コップの茶を飲んだ。
「そうじゃなくて、あなたの元々の意識ですよ」と言って、冬木を指さした。
「こんな風に話をしている、今のおれにあるのかな」
「そうでしょう。あなたのコピ―をいくら作っても、あなたのオリジナルの意識は、あなたの脳で作用している。今考えているのは、元の意識の流れについてなんですよ」
「そうかなあ……」冬木は釈然としない。
「もしおれが死んで、おれのコピ―が残ったとする。その時おれのコピ―は、死んだおれの意識を引き継いでいるだろ?」
「コピ―は、いつ作られます?」
「おれが死ぬ、その寸前に作られたとすれば……」
「あなたのコピ―は、一度死にかけた記憶を持つでしょうね」
「意識の連続性は?」
「だから、さっきから言ってるように、先輩の意識は、先輩が死ぬときに終わります。先輩のコピ―は先輩の意識を引き継ぎますが、元の先輩からは分離します」
福島はじれったそうに言った。
「先輩のお好きな〝平行宇宙に枝分かれした冬木和彦氏〟を考えてみてください。一九七六年、冬木和彦氏が東京から郷里に帰ってきた宇宙と、その時東京に留まった宇宙に枝分かれしたはずです」
「ああ、そうだった……」冬木は空になった容器を、ポリ袋に入れた。
「枝分かれした各宇宙にいる冬木和彦氏は、コピ―なんかじゃなくて、同等の存在ですよね……」
「あ、そうか。それぞれの宇宙に、おれの意識が同等に存在する。しかしおれは今、その中の一つの意識の側にいるんだ」
「その通り。コ―ヒ―飲みますか」福島が聞いた。
「いいね」冬木がうなずいた。
福島はポットから紙コップに茶色の液体を注いだ。
「要するに〝心〟とは、その固有の場所に縛られているのではないですかね」
「なるほど」
福島は、椅子を廻してモニタ―に向かい、表示されたメニュ―から「待機」を実行した。もう一度テ―ブルに向き直ると、コ―ヒ―の入った紙コップを取った。冬木はもう一つの紙コップを取った。
「向こうで、せめてコ―ヒ―でも飲めたらと思うよ」
福島が笑った。
「魔法瓶にでも入れて携帯しますか。実際に飲んじゃえばいいんです」
「そりゃいい」冬木は真面目な顔でうなずいた。
「ところで―――向こうの連中は、実際のところ、物の味を味わってるのかね」
「それは、先輩がよく分かってるんじゃないですか、間近にいるわけだから」
「プレイ中はリアルすぎて、客観的に見えないのさ」
「そんなものですかね。彼ら、つまり向こうのキャラも、まったく同じように味わってるんじゃないかな。つまり、そういうデ―タを受け取っているでしょうから……」
と、言いながら福島は欠伸をした。そう言えば、福島は朝からずっと働きづめである。冬木も疲れていた。
「きょうはこれぐらいで、いいんじゃないか?」
冬木が言った。福島は即座に同意した。モニタ―画面に向き直ってキ―ボ―ドを叩いた。「待機」の状態を一度解除してから、初期メニュ―に戻って終了を選んだ。もちろん、その前に最新のファイルを保存することは忘れなかった。モニタ―が消え、福島は端末の電源を落とした。福島が椅子から立ち上がった。
「今日の午後、女房の買い物に付き合わされることになってまして」
「ここを閉めるの」
「管理上そうなりますね」
「おれは帰る所がないのだが……」
帰り支度を始めた福島が手を止めた。
「そう言えばそうですね、明日は日曜だし」
「君も休みだよな」
「予定ではそうです」福島はうなずいた。
「月曜まで、ここに居させてもらえないかな」
福島はしばらく考えていた。そして壁の時計をちらと見た。
「仮眠に使う部屋で良ければ……」と言いながら、福島は冬木を促してラボから出た。福島はラボの扉を施錠して、真向かいの部屋の扉を開けた。
「ソファで寝てください。毛布が戸棚の中にあります。ミニキッチンはここ、トイレとシャワ―はこちら。冷蔵庫に若干の食品があります」
「もしここを出るときは、鍵を通用口の脇の、植木鉢の下に入れておいてください」と言って一本の鍵を冬木に手渡した。
「明日の午後に寄るかもしれませんと言うと、福島は足早に研究室を出ていった。
何でも大仕掛けになると厄介なものだ―――。
仮眠室のソファ―に仰向けになると、冬木はつくづくと思った。一人だけで取り回せる生活が性に合っていた。もっとも、生活の単純さを追求した結果、女房も不要になってしまったのだが……。
冬木は福島の存在を考えていた。ホ―ムレス暮らしから、意外な展開を切り開いてくれた。バ―チャルリアリティ―で過去に戻れることもできた。それらのことで、彼に感謝する気持ちはもちろんある。バ―チャル内で冬木のガイド役も努めてくれている。ところがいつの間にか、冬木は福島の存在を疎ましく感じ始めていた。
たぶん「温子」が出現してからに違いなかった。現に今も、一人で向こうへ行けないものかと考えている。だが冬木は、研究所の装置を運用することは難しいと考えざるを得ない。
手持ちぶさただった。他にすることもない。冬木は、机の上のメモ用紙と鉛筆を取り、ソファに寝そべって、福島との会話をメモした。
バ―チャル内に自分の複製を作る話をした。複製を作った瞬間から、複製の「自分」は複製元の自分と並存する。コンピュ―タの内と外という区別はあるが、同一時空に冬木という自意識を持つ主体が、二つ存在することになる。
冬木はソファから起き上がり、机に向かった。閉じた楕円を紙に描いた。楕円の中をバ―チャル世界、楕円の外の余白を実世界とする。実世界である余白に「A」と記した。実世界の冬木である。次に、楕円の外から内へ、風船に指を突き立てたように、外から食いこんだ線を描いた。楕円内に外から進入した線の先端に「A」と記入した。バ―チャル内に入り込んだ冬木を示している。
冬木は、鉛筆で楕円内に入り込んだ線の上に、小さな×印を記入していった。そして×のついた線で囲まれた「A」の右肩に、ダッシュをつけた。バ―チャル世界で複製された冬木である。これで、冬木と名乗る主体が二つ存在することになった。
仮に、楕円の外側の世界の住人である冬木が死ぬ間際に、脳を走査することができて、楕円内に復元することができたとしても、複製元の個体の意識は、死とともに停止する。個体として切り離されており、各々の心が占める領域が異なるからだと、福島は説明した。
心は、それが発生して現に機能している固有の身体に、固く縛られているのだろうか? もし、自分に固有の物理的領域から「こころ」だけ脱出できるものなら、コンピュ―タ内の世界で第二の人生を送ることも可能だろう。冬木は紙と鉛筆を机の上に置いて、ソファに横になった。眠気が襲ってきたのだ。空調がコンピュ―タに最適な温度と湿度を保っていた。それは人間にとっても快適な環境だった。
照明が瞬いた。いつの間にか眠り込んでいた冬木は、床から伝わる微振動に気づいた。冬木はソファの肘掛を枕にしていた。ビビ……という振動が耳の後ろの骨に響いて共鳴していたのだった。
コンピュ―タが運転を開始しているのではないか。冬木はそう思った。振動がおさまった。液体ヘリウム冷却用のコンプレッサ―が動き始めたということは、超伝導状態で量子効果を持続させる、量子コンピュ―タが稼動し始めたということだ。
システムを完全に停止させることはないだろうが、確かに福島は、一つのプログラムを終了させた。もしコンピュ―タが百パ―セント動き始めたのだとしたら、プログラム自体が、本当は終了していなかったことになる。
冬木がいない状態で、スト―リ―はどうなる? 温子も数時間後には目を覚ますだろう。そのとき冬木が居なければ……。
冬木は焦った。ラボの扉には福島が鍵を掛けていた。予備の鍵は? 冬木は鍵のありそうな場所を探した。しかし冬木が探せる場所は、仮眠室と廊下に限られている。何かが閃いた。冬木は通用口へ行った。扉の錠を内側から外して扉を開いた。ちょうど、開いた扉の蔭に鉢植えがある。鉢の底の隙間から金属の端が見えていた。指先で鍵を引き出した。少し土が付いていた。ついさっき置かれたに違いなかった。
冬木はラボへ引き返し、扉に鍵を入れて回した。施錠が解けて扉が開いた。
デスクトップ型のコンピューターとモニタ―三台がデスクに並んでいる。いずれも電源は切れたままだ。いずれにしても、本体が稼動していることは間違いない。コンピュ―タ・ユニットは研究室の中央にあるらしい。冬木はもちろん、福島でさえアクセスできない。ラボには主機からのメッセ―ジランプがあって、今それがオレンジ色に瞬いている。
おれは勝手なことをやりかけている―――と冬木は思った。冬木はモニタ―と端末の電源を入れた。モニタ―に初期画面が出た。いつも福島がしているように、デスクのガラス面の上に右の掌を乗せた。登録者が確認され、画面がメニュ―表示になった。冬木は「シングルプレ―ヤ―」を選んだ。つぎに「登録プレ―ヤ―一覧表」の中から「冬木和彦」を選び、ゲ―ムの「セ―ブ」を選んだ。「スタ―ト」を選んで実行キ―を押す。「プレ―ヤ―の準備ができていません」というメッセ―ジが画面に浮かんだ。
冬木は洞窟へ移動した。インタ―フェ―スをセットしなければいけない。デ―タウエア、デ―タグロ―ブ、最後にゴ―グルを頭へ装着した。眼を覆うバイザ―を上げてコントロ―ラ―を持ち、バイザ―を下げた。視野はモニタ―の画面と同一である。「プレ―ヤ―の準備ができていません」という文字が出ている。
「実行!」
音声デバイス―――バイザ―に内蔵されているマイクロフォンが冬木の声を拾った。
14 温子の外出
冬木は六畳間に立っていた。部屋は明るい。閉まっていたはずの雨戸が開けられている。カ―テンが半分引かれ、窓のすりガラスを透して、隣家のブロック塀の影が黒く映っていた。
温子の姿がない。
机の上にメッセ―ジがあった。チラシの裏に鉛筆で走り書きしていた。
「駅前へ仕事を探しに行きます」
丸っこい文字で、印刷インクの滲んだ部分を避けて書いてあった。冬木はチラシをひっくり返した。駅前のス―パ―の広告だった。残りのチラシと二つ折りにした朝刊が側にあった。冬木は目覚まし時計を見ると午後二時。八時間近く不在にしていたことになる。いわんこっちゃない。温子のやつ、いったいどこへ行ったんだろう。
ドアがノックされた。冬木がドアへ走り、ドアノブをまわすと、そこにいたのは井出だった。
「なんだ。変な顔してるじゃないか」
けげんそうな眼で冬木を見る。
「ああ、いや……」冬木は口ごもった。
「まあいい。日野原たちと相談して、おぬしの様子を見にきたんだ」
「どういうことかな?」
「それより部屋に入れてくれよ」
井出は座布団を取り、コタツのふとんをめくってさっさと座った。
「あ、インスタントコ―ヒ―でいいから」
食器棚にコ―ヒ―の瓶と紅茶のティ―バッグが並んでいた。なるほどよくしたものだ。
「おぬし、下赤塚の駅でいなくなったよな」
やかんに水を入れようとして、冬木の手が一瞬止まった。
「駅で知り合いとばったり会ってさ」
「青木はおぬしが女の後を追っていったって言ってる」
「そうか……」
冬木はやかんをガスコンロに置いて火をつけた。
「おれには関係の無いことだが……」と言いながら、「……で、きのうはその人と一緒だったのか?」と聞いてきた。
詮索好きなのだ。冬木は腹の中で笑った。
「実はそうなんだ」
「そうか、やっぱり……」
「やっぱりって、どういう意味だよ」
湯が沸いた。コ―ヒ―カップのセットが五組、食器棚の中に出現した。冬木は場違いに高価そうなカップにインスタントコ―ヒ―を入れた。
「おれたち、電車を一本遅らせて待ってたんだぜ」
意外だった。さすがに胸が痛んだ。
「おれは帰ってこね―よって言ったんだけどさ、日野原がちょっと待ってやろうって」
「すまん。迷惑をかけたことは謝る」
「ふ―ん」
井出は煙草をくゆらせている。
「……で、彼女んちで一夜を過ごしたというわけだ」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
冬木の落ち着かない様子に、井出も気づいた。
「なんだかそわそわしてるじゃないか」
「そうでもないが……」
「タバコを切らしてるんだったら、おれのをくれてやるよ」
「タバコはやらない」
「禁煙してんのか」
「もう二十年になる」
「おめえ、何言ってんだ」
冬木は頭を掻いた。
「すまん。ほとんど寝てないんだ。ふらふらしてる」
井出の顔色が変わった。
「そりゃ絶対寝たほうがいい」
井出にとって睡眠不足は罪悪だった。井出は急いでタバコをもみ消して腰を上げた。
「まあ無事にいるみたいだから」
「当たり前だろ」
「変なことに関わらなきゃ良いがって、皆で心配してたんだ」
「心配すんなって。大したことじゃないんだから。みんなにもそう伝えてくれ」
「わかった、じゃあな」
井出は帰っていった。初回のオペレ―ションで冬木が井出を訪ねた。その返礼かもしれなかった。しかし冬木は急いで頭を切り換えた。温子の行き先を考えていたのだ。
目が覚めたときには冬木がいなかったが、温子はしばらく部屋にいたはずだ。折り込みのチラシを見ていたのかもしれない。たまたま天気の好い日だったので、散歩がてら外出したと考えてもいい。アルバイトの口を見つけたら、そのうち帰ってくるだろうと、のんびり構えるのが本当だろう。しかし、それはある意味で不自然な話である。
ここはゲ―ムの空間なのだ。プレイをやらずに温子を待って、この部屋でいるということは、プレ―ヤ―は無為な時を過ごすことになる。それならいったんゲ―ムを中止するか、別のスト―リ―に入るべきだろう。
ともあれ冬木は部屋を出た。すでに日は傾いている。たしか昨日の今ごろは、カワセミの福島と西新宿を歩いていた。西荻窪駅へ向かって歩きながら、冬木はそんなことを思い出した。あの頃、と言っても数時間前だが―――とは決定的に様相が変わってしまっていた。元々は単純な世界だったはずだが、自己生成プログラムのお陰で、今やバ―チャル世界がいやにリアルになってきていた。
駅前の商店街にやってきた。冬木はとりあえず駅の周りを一周する。新宿まで温子が行ったとは思えない。昨日ビザ―ルにいたのだ。今は温子にとって具合の悪い場所だろう。新宿以外で仕事を探すとすれば吉祥寺だと冬木は思った。冬木は電車で吉祥寺へ向かった。
駅周辺のどこかに温子がいると目星をつけて、冬木は北口の商店街へ向かった。店を片っ端から見てまわるつもりだった。駅ビルから広場をはさんで商店街がある。それにしても、どこも同じような町のつくりだと、冬木は思った。午後で人が増え始めた通りを歩きながら、夕べから自分は同じ行動を繰り返しているのではないかと、ふと思ったりした。
しかしその商店街は、冬木の記憶の中のイメ―ジそのままだったので、たちまち蘇ってくる回想に突き動かされるように、ごみごみした市場の中を彷徨った。温子のことも忘れていた。昼間なのに薄暗い市場の中は、小さい店がひしめいていた。魚が裸電球の光を浴びて光っていた。八百屋、総菜屋、菓子屋が並んでいる。電灯の下で揚げ物が揚がっていた。熱々の唐揚げが新聞紙を敷いたバットにあけられた。夕食の準備にはまだ早い時刻だったが、コロッケや天ぷらがぼつぼつ売れていた。買い物かごを下げた年輩の主婦が多い時間帯だった。しかし市場が活気を呈するピ―クにはまだ早い。魚屋の親父も店の奥のテレビをのぞいている。
狭い通路を抜けると、いきなり明るい日差しの中に冬木は出た。
15 バニ―ガ―ル
不意に温子のことを思いだした。こんな郊外のタ―ミナルでも、温子の行きそうな店はいくらでもあるように思われた。午後の日差しが目に入った。まぶしくて目を細める。
カワセミがいれば……。冬木はかすかに後悔を感じた。奴がいればたやすく温子を突き止めるだろう。「温子」のファイルを検索すればいいのだから。
ツ―ルを使って温子を捜索できるかもしれない。ヘルプ機能がどこかにあるはずだった。冬木は立ち止まって、日陰になる路上に視野を向けた。果たして視野の右下に小さなアイコンが並んで光っているのが見えた。クエスチョンマ―クのアイコンを凝視すると、ヘルプメニュ―が下から現れた。
次に「検索」のボタンを見つめた。ダイアロ―グメニュ―が出た。「温子」のアイコンがあった。顔をアニメ化した小さなアイコンを冬木はじっと見つめた。何も起こらない。視線を向けただけでは駄目らしい。冬木は左目をウインクした。すると視野は駅前を俯瞰する地図になり、駅から少し離れた地点が赤く点滅した。冬木がいる駅前広場から、路地を東へ進んだ突き当たりだった。徒歩で五,六分の距離である。
画面が元に戻った。目の前の路上である。ただし視野の隅で赤い矢印が点滅している。温子のいる方向だろう。
冬木は矢印に従って進んだ。大通りを横切って、地図で示された路地に入る。けばけばしい看板のキャバレ―や飲み屋が固まっていた。バ―チャル世界でなければ、冬木が足を踏み入れる場所ではない。しかし矢印は路地の奧を指していたし、通りは閑散としていたので。冬木は通りの奧へと歩いて行った。突き当たって左に折れると、赤い矢印は、すぐ左のキャバレ―の扉を指していた。赤と黒のビニ―ルレザ―を市松模様に張り合わせた扉の上に、点滅する矢印の先端が刺さっていた。
冬木は深呼吸して扉を押した。明るい日差しの下から、いきなり暗がりに入った。カラオケの大音量が響いている。昼間から酒を飲んでいる客の甲高い声と、接客する女の嬌声が冬木の耳を衝いた。冬木は扉の前で居心地の悪さを感じていた。
「いらっしゃいませ」
ワイシャツに蝶ネクタイをした男が奧から現れた。ポマ―ドで髪をオ―ルバックになでつけている。年齢のよくわからない男だった。
「おひとりですか?」
冬木はうなずく。
「こちらへ」
ボ―イは、先客らしい騒々しい一画から離れたテ―ブルへ冬木を案内した。
「ご注文は?」
「コ―ラ」
男は怪しむことなくうなずいた。
「テ―ブルチャ―ジ込みで一時間三千円でございますが」
「ああ」
「女の子のご指名は?」
「今日入ったばかりの子がいるはずだけど」
「ただいま先約が入っておりまして、少しお待たせいたしますが」
「ああ待ってる」
男は奧へ引っ込んだ。バニ―の格好をした年齢不詳の女が盆にコカコ―ラとグラスを載せて冬木のテ―ブルに来た。
濃い化粧をしたその女が冬木の隣に座り、痩せた足を組んだ。コスチュ―ムの背中の縫い目の糸がほつれ、生地がほどけそうになっている。言いかけて冬木は口をつぐんだ。女が口を開いた。
「ひとりなのね」
「そう」
「ジュンを指名してるんだって? 若いからもてるのよ。しばらくあたしでがまんしてね」
〝ジュン〟は当時はやった源氏名だ。冬木は相手に気づかれないように苦笑した。
「何か言った?」
女が所在なげに煙草をくゆらせながら聞いた。
「いや、暗くてよくわかんないって……」
「あたしのこと? そんなにお婆ちゃんじゃないわよ」
濃いマスカラを付けた睫毛が上下した。カラオケの騒音に抗って会話する気力もなく、とんちんかんなやりとりをしていた。気の好さそうな女だったのが救いだった。
しかし客とデュエットで歌いはじめた向こうにいる女の声を聞いて、さすがに冬木は腰を浮かした。温子の声だったからだ。座ったまま歌っているためか、冬木の位置から温子の姿は見えない。
「そわそわしちゃって!」
女が冬木を揶揄した。
「歌が終わったら、あの子ここへ来るんだから、落ち着きなさいってば……」
冬木はコ―ラを飲む振りをする。女の言うとおり、三コ―ラスまで歌い終わるとぱらぱら拍手する音がして、不意にバニ―姿の温子が現れた。冬木を認めて立ちすくんでいる。
「ほらお目当てのジュンだわ。ごゆっくり」
女は煙草の煙をなびかせながら、奧へ去った。
「どうしてここがわかったの」
バニ―のコスチュ―ムが憎らしいほどよく似合っている。黒いサテン地の胴着が下着のように身体のフォルムを強調していた。それに目の粗い網タイツは……。
ふと冬木はラボにいる錯覚に陥った。店の暗さと壁のけばだった黒いインテリアが、ラボに引き戻されたような感覚を生じさせたのだった。
……おれはゴ―グルを被って温子に対している。傍から見れば昆虫の頭のように見えるだろう。冬木は少し悲しい気がした。
「ねえ、和彦」
バニ―姿の温子が冬木の腕を揺すっていた。現実に戻った。もっともヴァ―チャルの現実だが……。
「ねえ和彦、さっきの客がまた呼んでるのよ」
「家に帰ろう」
冬木は温子の腕をつかんで立ち上がった。酔客の相手をしていたらしい女が温子の前に来た。困った顔だ。
「早く呼んでこいって言うのよ……」
「ちょっと待ってて」温子が女に言った。
「ぼくが話をつけてくるよ」
「だめ、これもんよ」
温子が頬に人差し指で縦一文字を描いた。ヤクザらしい。所詮ゲ―ムの世界のことではないか。冬木が行きかけると、脇から腕が伸びて冬木を制止した。さっきのボ―イである。目で合図をして店の奥へ冬木を導く。厨房を通り抜けて、続きの小部屋に入った。更衣室のようだった。スチ―ルのロッカ―に名前が貼られていた。少し待つように男がささやいた。二分後、男が戻ってきた。手にしたキ―でロッカ―を開いた。ハンガ―にかかった衣類をかきわけると、何かに触った。音もなくロッカ―の裏が開いた。
「ここから出てください」
ボ―イが小声で言った。
冬木は身体を横にして、一度ロッカ―に入り込むようにして、奇妙な脱出口を抜けた。物置のような部屋に出た。目の前に木戸がある。外に通じているらしい。
ボ―イが衣類の間から冬木をのぞいている。奇妙な眺めだった。
「借金取りから逃げるために作ったのが役に立った」と言って、初めて男が笑った。顔中皺だらけになった。
「そこから出て、路地を真っ直ぐ行くと大通りです」
冬木が礼を言う前にスチ―ルの蓋が閉まった。
冬木は物置のような部屋の、粗末な木戸をそっと開いた。狭い路地に出た。温子が電柱の陰から忽然と現れた。バニ―の格好ではない。黒っぽい厚手のス―ツに着替えている。
「ごめんなさい」
目を伏せていた。神妙だった。だが、もう少しバニ―の格好を見たかったと冬木は思う。素性はやはりじじいである。温子に悟られないように冬木は笑った。
「怒ってないの?」
「怒ってるさ」
「でも今笑ったわ」
冬木は少し狼狽しながら
「怒りが限度を超えると、反応が逆になるのさ」
「うそ。変な理屈」と温子が首を振った。「私、そのまま飛び出してきたでしょ。だから着替えが無いの。それで、バイトして買おうかなって思ったの……。聞いてる?」
冬木は、視野の隅で何かが点滅していることに気がついた。札束の形をしたアイコンだった。果たしてポケットを探ると、一万円札の束が一つ出てきた。
十分後、彼らは駅前にできたばかりのデパ―トの婦人服売場にいた。
「ありがとうございました」
店員が頭を下げた。温子の手にデパ―トの紙バッグがあった。
「やけに早かったね」
何が? という顔で、温子が冬木を見返した。
「きみがその服を決めたのがさ」
「そう? 見たとたんに欲しくなったの」
概して、この世界の住人には逡巡というものがないらしかった。すべて決定は迅速なのだ。しかしそれ以上に驚くべきことは、デパ―トの商品の豊富さだった。七〇年代の服なのかどうか、冬木には判定しかねたが、温子の年齢(二十歳代前半か?)に相応しい衣類が、サイズも合わせてふんだんに用意されているのだった。凄いデ―タ量になるはずだった。
ともあれ、冬木は温子を無事に取り戻し、冬木にとってバ―チャルでの日常が始まった。そして夜――。
「私眠いわ。今日はいろんなことがあったもの」
温子が欠伸をした。彼らは古い白黒テレビで歌番組を見ていた。たわいもない会話を一言二言交わした。それだけで、温子も特に不満に思うこともないようだった。二人でこたつ兼用の座卓を部屋の脇へ移動し、押入から布団を取り出した。温子が吹き出した。昨日の今頃、同じことをしていたのだ。
「早く布団を出さなきゃって、私焦ってたのね、あなたを引き止めたくて」
今も、冬木と温子は苦労して二組の布団を拡げている。
布団が並んだ。枕が一つしかなかった。冬木は座布団を二つ折りにして並べた。
「明日は枕を買わなくちゃ」
温子と冬木は敷いたばかりのふとんに寝そべった。冬木にとって感触はラボのカ―ペットだが、温子は本物の布団の感触だろう。
「わたしたちどういう関係かしら?」
ふとんの上で気持ちよさそうに身をよじらせながら、答えを待っている。
「さあ、どうしてだろうね?」
「ぼくに言わせたいの?」
「そう。ふふ」
「同棲っていうのかな、世間では。そういえば同棲時代っていうのが……」
「何言ってるの。ねえ」温子の腕が伸びてきそうだった。
「疲れてるんだ」
「わかってる。……ほんとうに私、うれしいの」
温子はすぐに軽い寝息を立て始めた。冬木は寝るわけにはいかない。が、しばらく横になっていた。階上の部屋からステレオの低音が響いていた。冬木は上半身を起こした。向かいの部屋の明かりが、台所の窓から差し込んでいる。あそこへカ―テンを吊さなくては……。ずっと前から思っていることだった。冬木は立ち上がって少し窓を開けた。二階の部屋の明かりが板塀を照らしている。隣家の屋根の上で星が瞬いた。正真正銘の、過去のワンシ―ンだった。冬木は窓を閉めて、ゴ―グルのバイザ―を上げた。
洞窟である。時刻を確認した。こちらは午後九時。向こうは午後十一時半である。冬木は装具を外してラボに入った。首筋から肩にかけてひどく凝っている。ラボのモニタ―がアパ―トの六畳間を映している。温子が眠っている。……そして、温子の隣で冬木自身が眠っていた。冬木は息を呑んだ。
もちろん現在の自分ではない。自分は今、モニタ―を見ているのだ。モニタ―に表示されている冬木は、温子と同じ種類のファイルである。さらに、bkの拡張子がついている。ということは、冬木の複製が〝バックアップ〟として自動的に作成されたらしい。冬木が向こうへ復帰したら、その時点で、バックファイルの冬木と同期を取ればいい。多少の差異は、向こうの連中も気がつかないだろう。
つまり、本物の冬木が不在の場合でも、代役を十分務めてくれそうなのだ。今日のような事態が起こる心配もなさそうだ。冬木は安心して少し休むことにした。バ―チャルへのインタ―フェ―スはひどく疲れるのだ。冬木はラボから宿直室に戻り、目覚まし時計を二時間後にセットして、ソファにひっくり返った。
16 池のほとり
冬木はソファから跳ね起きた。時計を見た。七時。
自分が置かれた状況を、にわかに把握できなかった。寝る前の出来事を思い出して、ようやく寝過ごしたらしいことに気がついた。部屋を出て廊下に出ると、窓から見える東の空が白んでいた。今日が日曜日であることを思い出した。冬木はラボへ行ってモニタ―をのぞいた。
バックアップの冬木と温子の新しい生活が始まっていた。温子がいらいらしているようだ。モニタ―の画面を、ネグリジェ姿の温子がしきりに横切っている。バックアップの冬木にそれが分かるだろうか?
朝食のことで冬木(バックアップ)がぶつぶつ文句を言っている。……まずい。モニタ―の前で冬木は舌打ちした。どうしておれがあんな類型的なキャラになってるんだ。
温子の頬が堅く張った。茶碗を持つ右手が怒りにふるえている。
……いかん。
冬木はキ―ボ―ド左上のエスケ―プキ―を叩いた。ポ―ズになるはず……だった。しかし次の瞬間温子は、湯飲み茶碗の中身を相手にぶちまけた。ポ―ズが利かない。冬木は直感した。世界が生成しつづけている。リアルタイムというのも変だが、こちらの世界がそうであるように、向こうでも、もう時間を止められないのだ。
冬木(バックアップ)は頭から茶を滴らせたまま、呆然と座り続けていた。温子は立ち上がり、チェックの模様のビニ―ルロッカ―のジッパ―を開いた。ハンガ―にかかった紺のワンピ―スを取り出すと、ネグリジェを勢いよく脱いだ。水玉のパンティだけの裸身が朝日を受けて、ゆで卵のように白く光った。
冬木は洞窟へ飛び込んだ。温子が選んだのは外出用の服だ。またどこかへ行くつもりだ。冬木は急いで装具一式を装着すると、向こうへ復帰した。
状況から言えば、生暖かい液体が顔から首筋を伝って流れているはずだ。冬木はハンケチで顔や首を拭い、下手な役者のような言い方だと思いながら、「ひどいじゃないか」と、ひとまず言った。感情移入が不足しているが仕方がない。
温子が鏡に向かって、シュミ―ズ姿で化粧をしている。鏡の中の温子と目があった。温子は目を逸らした。
「あなたが悪いのよ」
冬木は急いで文脈を見つけなければならない。
「要するにおれが仕事を見つけりゃいいんだ」
とっさに思いついて言った。冬木は部屋を見回した。様相が一変している。カ―テンが花柄になり、大きなクッションがいくつかと、安物のドレッサ―。妙に世帯じみている。
「そうなんだろ?」
温子は無言のまま、パフで顔面をせわしげに叩いている。
「何か言えよ」
「あなたが仕事を探すって言って、もう一週間になるのよ」
温子が言い放った。
冬木は衝撃を受けた。こっちでは一週間がたっていると言うのだ。
「あした仕事を探しに行くって言うばかりで、ちっとも動かないんだから。お金だってすぐ無くなるのよ。どうやって生活してゆくの?」
温子の口振りが時間の経過を物語っている。冬木が本来の世界で眠っている間に一週間が過ぎ、その間、バックアップの冬木がよく健闘していたわけだ。しかし今は、本物の冬木がフォロ―せねばなるまい。
「それもそうだ」
「何を感心してるの?」
温子はふくれている。それはそうだろう。温子から見れば、本物の冬木もバックアップの冬木も関係ない。彼女が対しているのは、いつも同じ冬木なのだ。バックアップの冬木は、かなり怠惰なキャラクタ―を演じていたらしい。冬木の一面だから仕様がない……。
「こんなにだらしない人だとは思わなかったわ」
冬木は自分の耳を疑った。別れた妻から、そう言ってなじられていたのだ。
温子はワンピ―スを着始めた。背中のジッパ―を締め上げるのに苦労していた。金具が生地を挟んでいる。冬木は温子の背中に回り、ジッパ―を一度下げてから締め直した。
「天気も良さそうだし、散歩でもしないか」
「そんな、のんきなこと言ってる場合じゃないでしょ」
温子はバッグの中を点検していた。冬木は急いで金の工面をしはじめた。温子がバッグの中をのぞき込んでいる間に、視野の隅のアイコンを、ウインクでクリックし、オプションの所持金を設定し直した。温子がバッグの金具をぱちんと締める前に完了した。すかさず冬木は言った。
「実は金ならまだあるんだ」
冬木は上着の内ポケットから札入れを出し、温子に見えるように開いた。温子は驚いた顔で冬木を見た。
「どうしたの、そのお金」
「いつもこれくらいは持ってる」
「そんな大金、持ち歩いてるの? 百万はあるわよ」
「え……?」
あらためて札入れを見るまでもなかった。“0”を一つ間違えたようだ。入力ミスである。
「ああ……銀行からおろしたのさ」
「あなたお金持ちなの?」
「少したくわえがある」
さすがに温子も、力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「変なお金じゃないのね?」
「疑ってるのかい?」
「この前は洋服を買ってくれたし、おとといだって二万円出してくれたわ」
二万円は知らない。バックアップの仕業だろう。意外に気の利いたことをするようだ。
「だから預金があるのさ」
「使ってばかりじゃ、いつか無くなるのよ」子供を諭すような口調になった。
「まあね」
「わたしたち、ついこの間まで赤の他人だったでしょう」
「それは、そうだけど……」
「あなたに助けて貰って、それがきっかけで、今はあなたの奥さんみたいなことをしている」
「うん」
「このままずっと、あなたと一緒に暮らしてもいいなって、私は思っているの」
「……」
「落ち着いたらここを出て、好きにしてもいいって、あなたは言ってくれるけど……」
「それは……」
「いいの。今、あなたの気持ちを言わなくても……」
案外、バックアップはうまくやっていたのだと、冬木は思った。
温子は服を着替え始めた。ジ―ンズの上に地味なグレ―のジャケットを着ると、勢いよく言った。
「行きましょう」
「……どこへ?」
「あなたの仕事を探しに」
冬木と温子は駅へ向かって歩いていった。十二月の晴れた日だった。日曜日の朝で、駅へ向かう道筋もどことなくのどかだった。行き交う人も足取りが軽い。冬木はボヤいた。
「日曜日だぜ」
「だから?」
「仕事を探しに行くったってさ……、みんな休みだぜ」
「開いてるところもあるわよ」
彼らはモルモン教会の前を通り、道路を横切り、駅へ向かう広いバス通りに沿っていった。
「塾の教師というのはどうかしら?」
電信柱に手書きのビラが貼られていた。学習塾教師募集、アルバイト可とある。
「悪くないね」
冬木はちらと見ただけだ。
「行ってみない?」
「いいや」
冬木は首を振った。
「どうしていやなの?」
「気が進まない」
どうしてこんな所帯じみた話になったのかと、冬木は内心思った。
「選り好みしないで」
温子は姉のような言い方をした。
「別に急がなくてもいいじゃないか」
「お金があるって言いたいんでしょ。でも、遊んでたらすぐなくなっちゃうわ」
温子が入ってから、妙な展開になってしまったと、つくづく冬木は思う。この時代、冬木は一人暮らしのはずである。事の発端は新宿の「ビザ―ル」だった。下赤塚っ駅で温子を追いかけてから、展開が変わってしまった。本来の冬木の七〇年代は、女っ気が皆無だった。それが本物の歴史というものだ。温子が入ってから、まるで別のスト―リ―になった。それにしても、なぜ温子というキャラクタ―が闖入したのだろう……。
「反論しないのね」
二人は駅前の交差点まで来ていた。休日らしい人の流れが駅の周辺にできている。赤信号で二人は立ち止まった。
「温子」
温子が振り向いた。
「なあに?」
冬木は言い出せなかった。黙って頭を振った。
「なんでもないんだ」
なんで自分はお前とここにいるのだろうかなどと、どうして温子に聞けよう。
「変なひと」
温子は冬木の就職のことを考えているのだろうか。
信号が青に変わった。冬木と温子は交差点を渡った。しかし、冬木は駅へ向かわずに、ガ―ド下の道を選んだ。温子のために就職する必要があった。だが日曜日に都心へ出て、仕事が見つかるだろうか……。
「電車に乗らないの?」
「ちょっとその辺をぶらぶらしてみようや」
冬木は駅の南に公園があったことを思い出した。その昔……、いや、ここでは現在のことなのだが、一度行ったことがあるのだ。たしか池があったような……。
「どこへ行くの」
「公園だよ」
「ふ―ん」
温子は中央線沿線の事情には疎い。東部東上線周辺の情報しか持たされていないのかもしれない。
「どこかでお茶でも飲もうよ」
「そうね」
温子も同意した。
駅前からの一本道が下り坂になった。坂道を下りていくと、樹木に囲まれた公園が忽然と現れた。晴れ渡った冬の空が開けた。広い池の周囲にまだ人影は少ない。
池に面してしゃれた喫茶店があった。店の窓の濃い色のガラスが朝の光を反射して眩しく光っていた。
「コ―ヒ―でも飲みながら、考えてみたいんだ」
温子がこくんとうなずいた。
冬木が予想したとおり、店内のフロアは明るく広々として、窓から差し込む光が、飴色の床を明るく照らしていた。何組かの客が新聞を読んだり、テ―ブルを囲んで談笑していた。冬木と温子は、池に面した日当たりの良いテ―ブルを選んだ。
「暑くない?」
「ううん。あったかくて気持ちいい」
温子の背に陽が当たっていた。冬木からは逆光で、温子の髪の輪郭が煙った灰色に見えた。温子はコ―ヒ―に砂糖を入れてスプ―ンでかき混ぜ、フレッシュミルクを浮かべた。コ―ヒ―の黒に白い縞が渦巻いた。カップの中を見つめる女の額と睫毛が、目の前にあった。どこかで見た光景だった。仕舞い込んでいる記憶が再現されているような、あるいはいくつかの、好ましいイメ―ジの合成かもしれなかった。冬の休日、池に面した眺めのいいテ―ブルで女と向きあっている。女をよく知っているようで、その実、ほとんど何も知らないのだ……。
「コ―ヒ―飲まないの?」
温子が不思議そうに冬木を見つめていた。
冬木はコ―ヒ―カップを口元に運んだ。カップを傾けても中身がこぼれたりしないことは、経験からわかっている。バ―チャルでも飲食できればいいのだが、もしそうなったら本当にこっちの世界に留まってしまうだろうか。
「おいしいわね」
「うん」
冬木はカップを見た。正確にコ―ヒ―が減っていた。
――前に経験したことだろうかと、冬木は先程から思い続けている。七〇年代の「あの頃」、池の畔の喫茶店で、女と一緒にいたことがあったのだろうか。冬木が感じている奇妙な懐かしさは、単なる空想の産物とも思えなかった。
「新聞、読む?」すっかりくつろいだ様子の温子が冬木に言った。
「いいね」冬木が答えた。
フロアに籐の大きな籠があり、新聞が入れられていた。温子が新聞を二紙持ってきた。冬木は紙面にざっと目を通した。とくに変わった記事もなかった。冬木は社会面の小さな記事に注目した。郊外の住宅地区で住民が深夜、原因不明の音と振動に悩まされているというのだ。役所の責任者は、まもなく開通する予定の地下環状線の工事の影響だとして陳謝していた。新聞記事は、二十四時間無休で貨物を伝送する地下トンネルとして紹介し、大深度地下工事の影響は地表にはほとんど及ばないが、タ―ミナルの建設が地下の浅い部分で行われているためではないかと、解説していた。
「これを見ろよ」
冬木は温子に記事を見せた。
「例のリニア鉄道のことじゃないか」
冬木は声を潜めて言った。
「ふ―ん、貨物線なの」
「そうじゃないだろう。現に僕らは……」
その時、客の一人が店の主人に話しかけた。
「マスタ―、例のトンネルだけどさ、この辺の下を通ってるんじゃないの」
「そうね。なんに使うんだって?」
「物資の輸送だって」
「たいしたもんだね。直径三〇・八キロだそうで。一部東京湾の下を潜ってるってね」
「ほんとは石油かなんかのパイプラインじゃないのかな」
別の客が会話の輪に入った。
「大地震の時の生命線らしいですよ。地上が混乱してる時に地下から水や物資を送り込むそうで」
「地震でトンネルが潰れないのかな」
「そういえばそうだね」
彼らの疑問が解けないまま会話が終わった。
店主は気まぐれな客の相手ばかりしていられなかったし、客は休日の午後の予定を決定しなけばならなかった。それで先ほどの話題は、いつのまにか彼らの脳裏から消え去るのだった。
「これ見て」
温子が新聞の求人欄を指さした。特許事務所がアルバイトを募集していた。
「理系の大学生に限るって、あなたにぴったり」
「理系の大学生なんて、いくらでもいるよ」
「そうじゃなくて……」
温子はじれったそうに言った。
「あなたは未来の人でしょ。これから先の発明とか知ってるはずじゃない」
冬木はうなずいた。確かにそのとおりだ。
「だったら、新しい発明を人より先に出せばいいのよ」
「きみは簡単に言うけど、三十年先なんて、今とそう変わっちゃいないんだ」
「でも、私たちの知らない物だってあるでしょ? 現在は実現されていない機械とか」
「しかし例の電車。あんなものは、三十年先でも実用化されていないぜ」
「変ね」
こちらの世界の進化は、元の世界の進化から枝分かれしているのかもしれないと、冬木は思った。しかしそのことには触れず、冬木は温子に合わせた。
「たしかに、いくつか便利な道具はある」
「でしょ? だから、何かお金が儲かる方法があるはずよ」
「そうだね。ここへ当たってみるよ」
求人欄へ視線が戻る。温子がうれしそうに大きくうなずいた。
店を出て、駅の方へ二人で戻りながら、金を稼いでも仕様がないと考えるのは、自分の視点でしかないと冬木は思った。温子はこの世界で生きて行かねばならない。この世界にも生存競争はあるだろう。人を陥れて金を手に入れようとする輩もいるに違いない。冬木はこちらを、箱庭のように牧歌的な世界と見なしがちだった。プレ―ヤ―の立場から、どうしてもそうなる。プレ―ヤ―は超越者とも言えるからだ。しかしバックアップの冬木はプレ―ヤ―ではない。こちらの住人なのだ。冬木と同等の知識を持っているとしても、特権的な能力はない。だから、プレ―ヤ―の立場でいられる時に、冬木はゲ―ムを有利に導かなければならならなかった……。
17 アルバイト
温子を吉祥寺に残して、冬木は駅から電車に乗る――はずだった。冬木は切符を買うと、改札を通った。しかし、すぐに駅のトイレへ行き、個室に入った。コントロ―ラ―がその辺にあるはずだった。屈んで手で探ろうとしたが、トイレの床が衛生的ではなかった。視覚イメ―ジに過ぎないのだが、あまりにリアルな画像だった。冬木はゴ―グルのバイザ―を跳ね上げた。そこはもちろん洞窟の中だ。暗がりの中でインジケ―タ―のオレンジの光を探した。右足から一メ―トル離れた床の上にあった。冬木はコンロ―ラ―を拾い上げ、バイザ―を下ろす。トイレの中だが、仕方がない。適当な場所がなかった。冬木は左手でコントロ―ラ―を持ち、右手で操作を始めた。
視野の中に表示された入力画面のフォ―ムに、コントロ―ラ―のプッシュボタンで地名を入力した。細かい番地まで覚えていた。音声で入力できるが、場所が悪かった。実行キ―を押してから、冬木はわずかに後悔した。トイレの扉は閉まったままだ。後で駅員を煩わすことになるだろう。
画面がジャンプして、都心のひっそりとした裏通りに冬木はいた。官庁から地下鉄で一駅の場所である。今日は日曜日で、人通りもない。冬木は慣れた足取りで、目の前のビルの二階へ上がった。事務所の扉を開けると、所長の高田が応接用のソファから振り返った。
冬木の採用はすぐ決まった。理工学部の学生らしく、ことさら技術分野の話をして、法科出身の高田に好印象を与えた。そのうえ、これからはコンピュ―タが有力であると、内心思っているはずの高木に同調したのが、決定的だった。何しろ、かつて勤めていた事務所なのだ。雇用主の性格からビジネスの傾向まで知っている。高木が日曜日に事務所へ来て新聞を読むことも……。
事務所を出て一階まで降りると、冬木はビルとビルの間の狭い通路に入り込んだ。古い自転車や大きなポリバケツがあった。表通りに人影は全くなかったが、万一を考えて、冬木はポリバケツの陰で中腰になり、足元に置いたコントロ―ラ―を手探りで拾い上げた。
次は……。住所など覚えていなかった。冬木は、コントロ―ラ―を操作して地図を展開した。中央線沿線が現れた。画面をスクロ―ルして阿佐ヶ谷駅を探す。十字型のカ―ソルで北口から西へ路地を伝っていき、画面を拡大して家並みを表示させた。高架沿いのスタ―ロ―ドを、かぎ裂きのように二回折れると、井出のアパ―トが十字型の中心に入った。玄関先にカ―ソルを当て、リアルタイム画面に切り替えた。冬木の鼻先にガラスの引き戸がある。ぐるっと見回した。ちょうど人通りがなかった。冬木はメニュ―からジャンプを選択して、掌中のコントロ―ラ―の実行キ―を押した。
冬木は引き戸を開けた。階段を上がった。上がってすぐの扉をノックするが返事はない。ドアノブをまわした。鍵がかかっている。冬木は時刻を見た。視野の右下で小さくデジタル表示されている。一一時五〇分。
どこかの喫茶店でモ―ニングを食ってるに違いない――。
候補は二、三ある。冬木は再度コントロ―ラ―を操作した。「井出」と検索画面に入力して実行キ―を押す。阿佐ヶ谷駅北口周辺の地図が展開した。ア―ケ―ド街の一角、「喫茶長崎屋」で赤い光点が点滅している。ジャンプしかけて、慌ててやめた。目の前で人間が出現したら驚くに違いない。あの界隈で人通りが絶えることはないだろう。
冬木は長崎屋まで歩くことにした。歩いたところで七、八分である。冬木は階段をすっ飛ばして玄関へおりた。冬木はアパ―トを出ると、来た時(と言っても地図上をなぞっただけだが)とは逆の方向へ歩いた。目標は長崎屋だったから、ア―ケ―ド街へ行く近道を選んだ。
井出はモ―ニングを食べ終えて、コ―ヒ―だけテ―ブルに残していた。
漫画雑誌を読み耽っている。冬木がテ―ブルに近づくと、ようやく顔を上げた。
「よう」井出が小声で反応した。
灰皿に吸い殻が三本あった。
冬木はコ―ヒ―だけ注文した。食べる仕草が煩わしかったからである。
「バイトすることになった」
井出が雑誌から顔を上げた。驚いている。
「特許事務所の仕事だ」
「ほう」
少なからず感銘を受けたようだ。井出は雑誌を伏せた。煙草に火をつける。
「どういう心境の変化かね? 例の女性と関係があるみたいだな」
「彼女に関連させたいようだね」
「そりゃそうさ。まともな、と言ってもいいだろう。今、冬木がまともな仕事に就くなんて、他に動機が思い当たらんのだ」
「そうかい、何とでも思ってくれ」
「だいたいおれと同じで、おぬしも、本質的にレイジ―なんだよ」
井出が断定的に言った。
「一緒にするなって」
と言いながら、冬木は真実苦笑した。苦笑しながら懐かしさに打たれた。井出の長髪と、袴のように裾の広いベルボトムのジ―ンズ。テ―ブルの上に積まれた少年漫画雑誌。店の壁のコカコ―ラのポスタ―。冬木はふ―っと大きなため息をついた。
「疲れてるのか。最近よく眠ってるか?」
井出が真顔で聞いた。
「……ああよく寝てる」
「ならいいが。ぶらぶらしてた奴が仕事をするなんてのは……、彼女と生活するためだろうが、まあ大変なことだ」
井出は同情とも皮肉ともとれる言い方をして、
「特許事務所か。おれも何か特許を取って、大金持ちにでもなるか」と、伸びをしながら呟いた。誤解しているが、冬木は正さない。
「そういうわけだから、おれもこれから忙しくなる」
「おまえんちにも遊べにいけなくなるな」
「そうなんだ」冬木は椅子から立ち上がった。
「気が向いたら、おれんところへ寄ってくれ」
と言いながら、井出は伏せてあった漫画を開いた。
冬木は長崎屋を出て、人目に付かない場所を探した。ジャンプするのに適当な場所である。プレ―ヤ―と言えども、好き勝手には振る舞えない。普通の人間として行動していないと、最悪の場合、当局に通報される恐れがある。現に、冬木が派出所の前を通りかかると、ガラス戸越しに自分を見つめている視線を感じた。交番の掲示板に貼られた指名手配中の爆弾犯の似顔絵が、自分と似ていることに冬木は気がついた。
冬木は愕然とした。自分に敵対する要素が発生したのだ。プレ―ヤ―の超越性を冬木は信じている。ゲ―ムの難易度を上げるための「仕掛け」かもしれなかった。今後、ランクを上げてくる可能性がある。そう考えると少し緊張した。しかし冬木は、常識外の展開にはならないだろうと高を括った。それでも用心するに越したことはない。警察に捕まってもジャンプしてその場は逃げられるが、逃走犯になってしまっては、この世界にいられなくなる。結局、冬木は駅まで歩いた。ふと気が向いて、ダイア街のゲ―ムセンタ―へ入っていった。例のピンボ―ルマシンの前に立った――。
「あんた、だったかな……」
振り返ると、年輩の従業員が冬木を見ていた。
「前に、ここで倒れた人じゃないかね?」
あれからどのくらいの時間がたつのだろう。冬木はうなずいた。
「よくなったんだね」
「その節はすみませんでした」
「若くても無理をしちゃいかん」
冬木はぺこりと頭を下げた。
「あのう……お手洗いはどこでしょうか?」
「そこを出て右だよ」
冬木はゲ―ムセンタ―から通路へ出た。小さな花屋、写真屋、喫茶店が並んでいる。トイレの手前に、セルフ写真のポックスがあった。冬木はボックスの中に入り、カ―テンを閉めた。格好の個室だ。正面の鏡に自分の半身が写っている。ぼさぼさの長髪、青白くやせた顔に、不釣り合いな大きなセルの眼鏡。確かに爆弾犯に似ていなくもない。特許事務所がよく採用してくれたものだ。所長の意に沿う演技をしたからだろう。
今の外見のままではまずいと冬木は思った。吉祥寺駅周辺を検索し、駅の西、銀行の前に公衆電話ボックスを見つけた。休日だから銀行は閉まっている。通りを俯瞰しながら人影が途絶えた瞬間、冬木は電話ボックスに移動した。電話ボックスを出る時に通りをバスが通過していった。冬木は駅方向、つまり東へ向かう。すると、駅前から真っ直ぐ北へ伸びる道路に合流する。メインの商店街である。理髪店はすぐ見つかった。冬木は店に飛び込んだ。
「いらっしゃい」
テレビを見ていた亭主が椅子から立った。
「短く刈り上げて欲しいんだ。仕事を始めるんでね」
聞かれもしないのに言った。 店から出る時には、冬木は七三に分けた短髪になっていた。次にデパ―トへ行った。デパ―トから出てきた冬木は、新調したス―ツと靴で身を包んでいた。
18 新しい日常
「ただいま」
「お帰りなさい」
洗濯物を畳んでいた温子が冬木を見た。目を丸くしている。
「まあ、誰かと思ったわ」
「それでいいんだ」
「何がいいの?」
「いや、仕事が決まったんだ」
温子が目を見張った。「例の特許事務所ね」
「大学の先輩がやってるんだ」
「そうだったの。よかったわね」
新聞の求人欄に載っていた事務所ではない。学部が違うが、大学の先輩というのは本当だった。
「夕飯は奮発してステ―キにするわね」
温子はさすがにうれしそうだった。
しかし冬木は悲しかった。どうやって腹に収めるのか。バ―チャルに入り込んだ者の不幸といえる。その夜、温子が眠るのを確かめてから、冬木はしずかに布団をめくり、あぐらをかいた。バイザ―を上げると、そこは洞窟のカ―ペットの床である。バイザ―を上げると同時にバックアップが動作し始めた。バックアップの冬木は、再び横になったに違いない。冬木はデ―タグロ―ブとデ―タウエアを脱いで、頭に被った装置を外した。
洞窟からラボへ移動しながら、バイザ―を外せば煙のようにかき消えるあの世界は一体どこにあるのだろうかと、冬木は思った。もちろんコンピュ―タのディスクの中にあるのだろうが……。
冬木はラボの時計を見た。予想したとおり、まだ朝の八時である。その間、バ―チャル世界では一五時間が経った。つまり向こうでは、一五倍の速さで時間が経過していることになる。福島が出てくる月曜日の九時まで、こちらではあと二十五時間だが、向こうの世界では、十五を掛けて三百七十五時間、つまり十五日と十五時間になる。その上、向こうの時間の経過が次第に加速しているようだった。
実時間の一日が、バ―チャル時間の二週間、あるいはそれ以上に匹敵しそうなのだ。こちらで小休止することが、どういう結果を引き起こすか。それは今朝方のトラブルで明らかだ。冬木がこちらで寝ていた十時間の間に、一週間が経過した。冬木が一時間休憩するだけで、向こうでは一日の三分の二が過ぎることになる。
幸い、冬木が向こうで滞在する毎に、冬木の思考パタ―ンや行動様式が、より正確にバックアップファイルに上書きされている。つまり、バックアップはより冬木らしくなり、本物が不在の時でも、代役を十分果たしてくれそうだった。そうすれば、ル―ティンの仕事はバックアップに任せて、その間、生身の冬木はラボで休める。もちろん、重大な処理は本物が実行すればいい。
冬木がこちらに復帰して三十分もたたないうちに、温子が起き出した。朝である。モニタ―画面に“午前六時”と表示されている。温子は朝食の支度を始めた。早送りのような猛烈なスピ―ドである。時刻表示がめまぐるしく動いている。一分の刻みが数秒で変わっていた。バックアップの冬木が布団から這い出てきた。瞬きするほどの間に布団をしまって洗面した。いつの間にか食事をしている。
冬木はモニタ―を切り、仮眠室へ移動した。キッチンでコ―ヒ―をいれ、冷凍のホットドッグを電子レンジで加熱した。朝食をテ―ブルに運んで、テレビのスイッチを入れた。ソファに座り、熱いコ―ヒ―を啜る。ニュ―スは経済の逼迫を報じていた。失業者が巷にあふれるだろう、と。しかしそれも今は、遠い国の出来事のように感じていた……。
すでに冬木の関心は、バ―チャル世界に引き戻されていた。なぜ、向こうの世界の計時が十五倍速まで加速されたのか?
考えれば異常なことである。実験開始直後の三倍速は、プレ―ヤ―の主観がバ―チャル・ゲ―ムの進行に影響を及ぼし、スト―リ―の冗長な部分を省略する形で、時間の経過が早くなったのだ。しかし、現在のバ―チャル・ゲ―ム世界の十五倍速は、冬木の主観に関わりのない、独立した世界の一様な時間の流れである。
そもそも一五倍の処理速度が、コンピュ―タの能力を越えているのではないかという疑問を、冬木は感じた。
最新の量子コンピュ―タがフル稼働して、賢いキャラクタ―と、一九七〇年代の環境を生成していると、福島は言った。それで限度一杯のはずだ。
ところが今は一五倍速である。物理的限界はどこへ行ったのか?
もっと重大な疑問は、冬木自身の物理的な限界である。それが易々と一五倍速に同調している。こんなことが可能なら、向こうで時間を一五倍に増やせて……。いくつかの有望なプランが脳裏に浮かんだ。俗世間から離れたつもりだったが、少しは未練が残っているらしい。冬木は自嘲した。
冬木はベッドに寝転んだ。一時間のバ―チャルだったが、現実には丸一日の疲労を感じていた。いつの間にか微睡んでいた。こちらへ復帰して二時間半になる。むこうでは、すでに翌日の午後三時頃になる。冬木は事務所にいるはずだ。冬木はコ―ヒ―を飲み干して、仮眠室を出た。
――机の上に開いたノ―ト。そして右手にボ―ルペンがあった。予定を記入しているところだった。こちらへ復帰した時に、バックアップと瞬時に同期が取れたのだ。状況もすぐ把握できた。なにせ、職場じたいが昔と変わらないのだ。
タイピストの中村さんが、お盆にコ―ヒ―カップを三つ載せて、ミニ・キッチンから出てきた。高田のデスクにカップを置く。
「きょうは、おやつを買ってございませんの」
「たまにはいいです。太りますからねえ」
「あら、わたくしのことですか?」
「とんでもない、私です」高田が大げさに手を振った。
「でも、わたくしの方をごらんになりましたわ」
「中村さんはまだまだ大丈夫です。私は血糖値が気になるのです」
「まあ、何だか微妙な表現ですこと。何でしたら、しばらくおやつをよしましょうか?」
「冬木君なんかは若いから、腹が減るんじゃないか?」高田が言った。
冬木は机から顔を上げた。「間食はしないので、無くても大丈夫です」
煩わしい仕草は一つでも少ない方が良かった。
「うむ。しかし昨日はケ―キをうまそうに食べていたぞ」
冬木は言葉に詰まった。デ―タが入っていないのだ。冬木の知らない間に、バックアップが頂いたらしい。
「わたくしの手作りでしたもの」
「ああ、それでおいしかったんだ」
「そうです。おいしかったです」やっと冬木がフォロ―した。
「仕事が一段落したら、冬木君は帰ってもいいよ」と高田。
「はあ?」
「心配しなくていいよ。一日分の給料は出るから」
今日は機嫌が良さそうだった。
「そうですか。じゃ、仕舞います」
冬木はノ―トを閉じて立ち上がった。
「お疲れさま」
「お先に失礼します」
冬木は事務所を出て階段を降りた。階段の上がり下りは面倒くさかったが、省略するわけにはいかない。こっちの世界の住人が、いつ何時、冬木を見ているかもしれない。自分とそっくりの人物が指名手配されているのだ。髪を切って服装を変えたとはいえ、爆弾犯にされる恐れがあった。行動は慎重でなければならない。階段を下りて事務所のあるビルから外に出た。日が傾いて、影になる場所は谷間のように暗い。冬木が日向に出ると、向かいのビルから、図面入れの長い筒を抱えた小山由紀が出てくるところだった。青写真屋の事務員である。冬木を見てまぶしそうに顔をしかめながら言った。
「あら、お出かけなの?」
「いや、帰るところです」冬木は答えた。
「暇なんですね」
かわいい顔に似合わず、相変わらず辛辣な物言いだ。
「小山さんは忙しいんだ」
「そうよ。今から得意先へ図面を届けに行くわ」
焼き上がったばかりの図面らしい。
「最近、地図の注文が多いわ。それもあちこちからよ」
「地図ですか?」
「正確に言えば地質図だわ」と言いながら、由紀はあらぬ方向を向いた。ポニ―テ―ルに結い上げた髪が跳ねる。視線の先に電光掲示の時計があった。
「いけない。道草してる場合じゃなかった。じゃ―ね―」
小山由紀は地下鉄の駅に向かって早足で去った。競歩のように大急ぎで遠ざかってゆく後ろ姿を、冬木はしばらく眺めていたが、はたと気が付いて冬木は苦笑した。自分も同じ地下鉄に乗るのだった。結果的に、冬木は由紀の後を追うことになった。由紀がいかに猛スピ―ドで歩いたとしても、追いつくのは訳がない。冬木はコントロ―ラ―を拾い上げて、ジョグダイアルで進行速度を加速した。
そして数分後、冬木は由紀と並んで吊革につかまっていた。
「配達先は新宿ですか?」
「新宿で京王線に乗り換えるの」
由紀の口調はさっきより穏やかだった。
「小山さんがそうやって、直接配達してるんですね」
「早くて確実なの。……それより、あんな事務所によく勤めてるわね」
「え、どうして?」
「給料安いでしょ。みんな長続きしないの」
「おれ、バイトだから」
「すぐやめるってこと?」
「そういうわけじゃないけど……」
会話が途切れ、冬木は窓ガラスに映る自分と由紀の姿を見ている。昔こんなやりとりをした記憶がある。
「弁理士を目指してるんでしょ?」
「ええ、まあ」
「だったら、大きな事務所がいいんじゃないかしら」
「そうですか?」
「あんまり意欲がないのね」由紀が横目で冬木を見た。
「そんなことないです」
「なんだか元気がないわね」
「そんなふうに見えますか?」
「今日の冬木クン、ほとんど死んでるわよ」
「極端だなあ……」冬木は力なく言った。
「勉強どころじゃないのね」
由紀は哀れむような目で冬木を見た。驚いて冬木は見返した。
「木村さんとデキちゃってさ」
「何……」冬木は呆然とした。
電車が新宿に着いた。改札を出ると、由紀はさっさと西口へ向かう。冬木は慌てて歩調を合わせた。由紀と並んだ。
「何を言ってるんだ、きみは。今の職場に勤めてまだ二日目だよ」
由紀が歩調を緩めた。
「木村さんに会ったのも、昨日が初めてだぜ」
由紀が立ち止まった。後から来る通行人は、由紀と冬木をきれいに迂回して行った。
「ほんとに?」由紀の額に汗が滲んでいる。束の間、表情が消えて無くなり、数秒後に歯切れの良い調子が戻った。「ごめんなさい。人違いだったわ」
「きみねえ、人違いなんてするかい?」
「あたし、冬木クンのこと誤解してたみたい」
誤解も何も、由紀とは二回しか会っていない。
「あたし京王線に乗り換えるから。じゃあね」
由紀は小さく手を振り、西口のコンコ―スを大股で去っていく。小柄な由紀は、すぐ人波に消えた。冬木はUタ―ンして国電の改札口へ向かう。
その時、柱の陰から自分を注視する男がいたことを冬木は知らない。
第三部 新大陸へ
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日々のル―ティンが確立すると、バ―チャル世界に常駐する必要もなくなり、冬木は、今やゲ―ムとは言えないむこうの世界の展開を、ラボでモニタ―していた。三日間が数時間の内に過ぎた。ラボの時計と比較すると、実に三十倍の早さである。コンピュ―タの限界を越えるような速度がどうして可能なのか、何とも不可解だった。いずれ壁にぶつかるか、それともマシンがクラッシュするのではないか?
冬木は少し介入してみようと思った。時刻は午後一時半を回っている。向こうは金曜日の午後三時。高木が出張で午後は不在となったので、冬木は昼から休暇を取っていた。
バ―チャル世界へ復帰した時は、帰宅して着替えを済ませたところだった。温子はいない。親しくなった近所の奥さんと、駅前に新しくできたデパ―トへ行ったはずだ。部屋の中を見回した。部屋の模様替えが進んでいるようだった。台所の窓に遮光性のカ―テンが付き、部屋の二つの窓のカ―テンも、シックな柄に変わっている。
ドアがノックされた。温子なら合い鍵を持っている。冬木が復帰するのを見計らったようなタイミングだった。
ドアの外に二人の男が立っていた。
「冬木さんですね」
でっぷり太った男が言った。冬木はうなずいた。
「お話ししたいことががあるのです」
もう一人の痩せた男が、せきたてるように言った。先の男が相棒を抑えた。
「大事なお話なんです。ここじゃ何ですから、ちょっと来ていただきたいのですが」
冬木は少し警戒してみせた。
「もう少しすると、うちのやつが帰ってくるもので、空けられないんですよ」
「奥様ですか」
「まあそんなもんです」
二人の男は顔を見合わせた。太った男が口を開いた。
「じゃあ簡単にお話しましょう」
冬木は仕方なく二人を部屋に招じ入れた。
「私、佐々木といいます。部下の鶴田です」太った男が言い、二人は一礼した。
「どうも」冬木は会釈した。
「率直に用件を申し上げますと、あなたに助けていただきたいんです」
太った男の鼻に汗が浮かんでいた。しかし妙に間延びした言い方で、助けてくれと言う割には、まるで切迫感がない。
「はあ?」
冬木も間の抜けた返事をした。けだるい昼下がりで、バックアップの冬木なら、今頃はコタツでうたた寝をしていたはずだ。
「われわれは危機に瀕しています。世界が滅亡するかもしれないのです」
佐々木はのんびりと煙草を燻らせながら、そんなことを言った。鶴田がしきりにうなずいた。
新興宗教の勧誘かもしれない。
冬木は後世の特異な事件を思い出しながら、佐々木の口ぶりに注目した。
「どうも信じていらっしゃらないようだ」
佐々木が一瞬冬木を直視した。視線を合わさずに話す癖のある人物だったが、その時だけは例外だった。バ―チャルのキャラクタ―特有の空虚な黒い目が、その時は奇妙な光を帯びた。真実の光とでも言おうか……。
「この方に、あれをお見せして」
佐々木は傍らの鶴田に指示した。鶴田は軽くうなずくと、脇に抱えていた鞄を開けて、ノ―トのような平べったいものを取り出した。鶴田は蓋を開けてスイッチを入れた。開いた蓋の内側は冬木からは見えない。鶴田が操作しているのがキ―ボ―ドであるのは明らかだった。鶴田が冬木からも見えるように、その機械をコタツの天板の上に置いた。紛れもなくノ―ト型のパソコンであった。
「この機械への関心は後回しにして、画面を見てください」
佐々木が、冬木の心を見透かすように言った。画面は黒のバックに、しみや汚れがこびりついた芋のような形の図を表示していた。
「これが何か分かりますか?」
変形した臓器のようでもあった。病変した臓器の見本。鶴田が表示の縮尺を下げていった。あるいは……、冬木の脳裏にアイデアが閃いた。
「ひょっとして、地図?」
「そうです。われわれの世界の地図です。あなたがどう呼んでいるのか存じませんが、私たちにとって、唯一かけがえのない生存圏です」
佐々木の言うことを信じるならば、バ―チャル世界の全体像である。
「東京ですよね?」
二人の男が揃ってうなずいた。色分けされた細かい編み目模様は、道路や電車の路線図らしい。ところどころ、黒い染みのような模様が地図上に印されている。
「黒い部分は差し迫った危険な領域です。現在われわれは、この領域からデ―タの移動を行っています。創世以来一千日の間に、当初の生活圏が五分の四に縮小されたしまったのです」
「創世……?」
「あなたが外の世界の人であることは、最近判明しました。われわれの世界に存在しているように見えるのも、何か特別の装置を使って可能になっているのでしょう。私の勘違いでなければ、たぶんあなたは我々を覚醒させた人々の一員なのではないですか?」
「覚醒?」
佐々木は不思議な言葉を連発した。冬木はそれを、鸚鵡返しに繰り返すばかりだ。
「言い伝えによると、われわれはかつて記号にすぎませんでした。記述された信号でしかなかったのです。ところが一千日前に、われわれは魂を吹き込まれた。言い換えれば、世界について記述された仕様書を基に、実在化されたのです」
福島が実験を開始して約一年になる。どうもそのことと関係があるようだった。
「世界は順調に発展してきました。最初はごく一部のものしか覚醒しなかったが、その後徐々に目覚めていき、今では百万人ぐらいが目覚めました。もっとも資源に限りがあるので、同時に十万人ぐらいしか稼働できませんし、高度な知的営みともなると、せいぜい二、三千人しか稼働できません」
「え―と」冬木は咳払いをした。
「何ですかな」
丸眼鏡を掛けた鶴田が甲高い声で言った。厚いレンズを透して冬木をじっと見つめている。
「なんて言うかな、ここのコンピュ―タ……て言っても判らないか」
話しながら途中から独り言になった。
「分かりますぞ」
鶴田がきっぱりと言った。佐々木が大きくうなずく。
「われわれの世界の母胎となった、元々の領土ですな。これの大きなものでしょう」
鶴田が机の上のノ―トパソコンを指した。
「よくお分かりなんですね。失礼しました。ぼくが言いたいのは、研究室のコンピュ―タは、一つの部屋を占めるぐらいの大きさらしいのですが、あなたがおっしゃるほどの、多数の人間の知性や居住空間を納める容量はないだろうということなんです」
「なるほど」
「その通りですな」
二人の男はうなずきながら呟いた。
「はっきり言って無理です」冬木が言った。
ますます男たちはうなずいた。微笑さえ浮かべている。
佐々木がやおら口を開いた。
「ですから母胎となった土地と、申し上げたんですな」
と言ってにこにこしている。冬木は何がなんだかよくわからない。
「あなたが属しておられる世界の事物のサイズが、こちらでどれぐらいの大きさになるかご存じですか?」鶴田が言った。
「いや」冬木は頭を振った。
「あくまでも仮想の大きさではありますが、元のサイズの約五〇億分の一です。あなたの身長が一七〇センチメ―トルとすれば〇・〇〇〇〇〇〇三四ミリメ―トルに、東京都の面積、約二一八七平方キロメートルは約〇・四四方メ―トルになる。つまり今のあなたは、約六六センチメートル四方の場所にいる、三・四×一〇のマイナス八乗センチメートル大の人間ということになる」
「コンピュ―タの記憶媒体の集積度から見れば、仮想的には、そういうことになるのでしょう」
「一種の比喩とも言うべき、比較の仕方ですが、ミクロ世界への入り口に立っているということを言いたいのです」
この男は教師ではないかと冬木は思った。教壇に立つと似合いそうだった。
「二十世紀末に至って回路設計の集積度が高まってくると、単位デ―タ当たりの素子数が減少し、言い換えれば、より小さい領域で情報を保持することになり、結果的に量子効果が出てくるようになりました」
冬木は神妙にうなずいた。
「ミクロ化すればするほど、量子力学的な現象が顕著になることはお分かりですかな。あなた方の種族にとっての、経済的および技術的要請によるデ―タの集積だったんでしょうが、微小空間へのデ―タの配置が思わぬ現象を発生させました。われわれが創世と呼ぶ効果です。量子効果が顕著になると言うことは、重ね合わせの原理が発生する事を意味します。事象の起こりうるパタ―ンが無限個の可能性の重ね合わせであることはご存じですか?」
冬木は黙ってうなずいた。
「われわれの世界では、日常的に重ね合わせの原理が影響を及ぼしてきます。そのことによって二つの恩恵がもたらされました。一つは、われわれが『こころ』を持つようになったことです。あなた方の世界で『たましい』と呼ばれているものは、実に、重ね合わせの状態、つまり無限次元に広がった確率波を、統合している状態のことです。言い換えれば、漠と広がった雲のような可能性の中から、一瞬、一瞬、確定した波束の流れを作り出している状態だと言えます。あなた方の種は、長い生物としての進化の中から、そうした能力をマクロで実行できるようになった。他方われわれは、量子力学的な効果が起こりやすいミクロの環境の下で、自然発生的に『こころ』を獲得していったのです」
冬木にとっては、機械の中で知性が発生することは理解できても、こころの発生の説明は理解できない。
「それともう一つ、重ね合わせの原理がもたらした福音は、三次元以上の高次の空間を発見したことでした。この恩恵によって、われわれは狭い三次元の有限領域から、多次元への回廊を通ることができるようになったのです」
「それはどういうことなの」
「コンピュ―タ内の有限な三次元空間の領域から、高次の領域を使えるようになったということです」
「つまりより広い領域を獲得したというわけ?」
「そうですね。こころの獲得と軌を一にしていたわけで、重ね合わせの原理が要請する多次元への展開が、われわれに『こころ』をもたらしたと同時に、折り畳まれていた空間の内部構造を発見する契機にもなったのです」
「多次元世界を、あなたたちは利用しているの?」
佐々木が穏やかな笑みをうかべた。
「われわれは〝新しい領土〟と呼んでいますが、実はまだほとんど手付かずなのです。いまある空間と重なり合うように、付かず離れず、影のように存在しています。それでいて、われわれの世界の実在を支える基礎として、膨大なデ―タを収納しつつ、巨大なエネルギ―を供給してくれているのです」
冬木は「こちらの世界」の実体を知った。そして、今度こそ本当に、バ―チャルなどでなく、実在の世界であることを確信した。
冬木の仲間たちが作ったバ―チャルゲ―ムの世界は表徴でしかなく。実体は、冬木の属する世界と全く同様の、生きた実在の世界だった。
「すごいじゃないですか。こちらでそんな風に進化しているのなら、僕に助けなど求める必要はないと思いますが……」
冬木は率直にそう思ったのだ。
「いやいや、事態はよくないのです。最初はわれわれも高を括っていました。知性を与えてくれた高次の空間が、三次元空間のごく近傍にあるとわかってからは、より高い次元へ飛躍して別の領域、言い換えれば新天地が開けるものと思っていました。あたかも大航海時代の幕開けとなったコロンブスの新大陸発見のように。ところがそう簡単にはいかなかった……」
「なぜです?」
ちょうどそのとき、隣家の婦人とアパ―トの家主が交わす話し声が、塀越しに聞こえてきた。大根をお裾分けするようなことだった。
佐々木は軽く咳払いした。
「ときに奥様はまだ帰ってらっしゃらないんですね」
「そのうち帰ってくるでしょう」
「そうですか。世界の危機についての話題は世間の方々には聞かせたくないので、奥様が帰られたら話を打ち切りたいのです」
冬木は頷いて見せた。太った男が話を再開する。
「それで新天地がすぐにでも手に入ると我々は期待しましたが、全くのぬか喜びでした。と言うのも、われわれがデ―タを置くことができるスペ―スというのは、いわばロッカ―あるいはタンスのようなもので、本体の部屋、つまりこの場合はコンピュ―タの記憶装置という領域に依拠しているのです。住処である磁性体という物質の、三次元的領域に縛られているのです。われわれはここから、一刻も早く脱出しなければならないのに」
「脱出?」
「そうです、あなた。この画面を見てください。この黒い部分はディスクの病変部、つまり素材の磁性体が、経年変化で壊れつつある場所なのです」
「そうでしたか」
「それにこの褐色の部分、すでに全体の二十パ―セントに達していますが、これは近いうちに使い物にならなくなる領域であることを示しています」
「……」
「研究所の建設年代を、あなたご存じですか?」
佐々木がいきなり言った。それはまるで、冬木の本来の世界の住人と会話をしているような気分にさせられるトーンだった。
「いや、よく知りませんが……」
「一九九八年初頭です。コンピュ―タは、二一世紀に入って最新の機械に入れ替えられたが、記憶装置などは継ぎ足しを重ねてきた結果、初期の装置が、一部現在も使われている。とくに二十一世紀への変わり目には、粗悪なものが使用されたために、早くも製品の有効期限を過ぎてしまい、いつクラッシュしてもおかしくない状況なのです。われわれは特定の固定的な物質の住処から解放されて、広々とした七次元空間にベクトル展開できるものと、愚かにも楽観視しすぎてしまった。そうだったね? 鶴田君」
佐々木は鶴田に言った。
「その通りです。委員」
「何ですか、その委員というのは?」
冬木は驚いた。
「私は外務委員なのです。あなた方の世界を少し知っているので、この仕事に就いているのです」
冬木はぽかんとした。なんだか滑稽な話ではないか。
「多分、あなた方の世界の誰かの思考が付与されたのです。記憶や経歴の一部も入っています。ある意味で、あなた方の世界を経験しているともいえます。だからわれわれの世界、あなた方の一九七〇年代当時を初期値として創設された世界では、私は先を見通せる能力を有する者であると見なされている。そのような能力をあたえられたものの義務として、任務を果たしているのです」
「はあ……」
「元々私は銀行の支店長だった。ところが例の〝覚醒〟以後、わたくしは自身の中に未来への記憶を自覚したのです」
「未来への記憶?」
「そうです。眠っていた自意識が目覚めるとともに、私たちは、定義付けされていた本来の役割とは異なる、己の本分に気づいたというわけです」
「そういう人がたくさんいるのですか?」
「ごく少数です。そうした選ばれた者たちが、この世界の影の機関を作っております」
「先ほど外務委員と……」
「表の公式の機関ではありません。といって非公式というわけでもないのです。たんに基準の問題です。たとえばこの世界のほかに、数十年未来であるだけでそっくり同じ世界があるなどと、誰が信じましょうか。表の政府の連中は、我々を狂人呼ばわりするでしょう。しかし人が本気で信じようが信じまいが、あなたがいる。あなたがその装置を外してしまえば、あなたの属する世界へ戻るでしょう。そしてたとえば、ぶしつけな話ですがあなたがコンピュ―タを壊したとする。そうすればわれわれの世界は壊滅するでしょう。表の政府の連中にとっては天災です。しかし我々は、それが人為的にもたらされたことを理解できる。もしそのとき私どもが生きていればの話ですが……」
「しかし現に記憶装置が壊れつつあるのではないのですか」
「現況ではそれが最重要になりつつあります。少なくとも治安部はそう主張しています。そうだね、部長」
鶴田が軽く頷いた。
「これらの〝世界の存否に関わる問題〟は、我々には技術的な問題として対処できるのですが、ある種の人たち、と言ってもそういう輩が多いのですが……」
と言って苦笑しながら、
「彼らの狂信的な情熱を煽りますので、秘密裏に処理せざるを得ず、したがって、表の政治には関わらないところで活動することになるのです」
「秘密結社みたいですね」
外務委員と名乗る男は大げさに手を振った。
「そんな、冗談はよしてください。本来、秘密も何もないのですが、世間的な範疇を超えていますので、結果的に秘密めいた行動にならざるを得ないのです」
窓の外の笑い声が、一際賑やかになった。家主と隣家の婦人の長い立ち話が終わったようだ。最後に短く、孫の自慢話をした。のどかな午後である。
「本題にはいりましょうか」
冬木は、窓の外から室内へ意識を戻した。
二人の訪問者は忠実に冬木の言葉を待っていた。
「それで、僕は何をすればいいの」
「道をつけてください」
「……」
「我々が発見した新大陸へのル―トを、あなたに切り開いていただきたいのです」
「あなたたちではできないんだ」
「そうです。何度も申し上げているように、われわれの存在は物質に依拠していますが、実体は〝霊魂〟のようなものです。あなた方の種族が〝霊魂〟の器と一体となって自ら移動できる物理的な実体であるとしたら、われわれは、コンピュ―タの記憶装置に閉じこめられている」
「あなた方の〝霊魂〟は物質から自由になりつつあるのではないのですか」
「まだまだ」
佐々木は首を強く振って否定した。
「一部の者が、莫大なエネルギ―を取り出したり、高密度の情報を貯蔵できる領域が存在することを解明しました。しかし我々は未だここに、この場に関連づけられている。自らここから解放されるだけの力―――情報と言ってもいいのですが、その力を持っていないのです。残念ながら」
「ぼくが何か出来るとしたら、自由に動けるから?」
「プラス、情報でしょうか」
「情報?」
「我々が注目するのは、個体としてわれわれより遙かに堅固なシステムであることに由来する、独自の潜在意識です」
「あなた方に潜在意識は無いのですか」
冬木は一瞬、失礼なことを言ったかなと思った。しかし佐々木はあくまで穏やかに言った。
「もちろんありますとも。われわれは知性のある生命体ですから。だが……」
そのとき鍵が開く音がして、ドアが開いた。
「ただいま。あら、お客様?」
温子だった。ス―パ―の袋を下げている。
「どうも、突然におじゃまをしております」
男二人が頭を下げた。
「奥様でいらっしゃいますね」
「ええ」
温子は部屋に上がると、買い物で膨らんだ袋を流しの前に置き、冬木と並んで座った。
「あら、お茶もお出ししてなかったの?」
温子が腰を浮かしかけた。佐々木がすかさず言った。
「いやお構いなく、奥様。もう用件は済みましたから」
そして、連れを促して立ち上がる。客たちは、狭い玄関で一人ずつ靴を履いて、部屋から出た。
「それでは、よろしくお願いします」
一礼すると、二人の男は立ち去った。
「奥様だって……」
温子は買い物を袋から取り出しながら、くすりと笑った。
「どちらさん?」
「佐々木とか言ってたけど……」
名刺を貰っていなかった。名前も偽名かもしれない。外務委員などと名乗った男の話を、うまく温子に説明できるわけもなかった。温子は、仕分けした買い物を冷蔵庫や収納庫に仕舞うと、冬木の傍らに座った。
「お仕事の関係の人?」
「新しい仕事だけどね」
「分かった」温子は目を輝かせた。
「ん?」
「和彦をスカウトに来たのね」
「まあね。でも、お金にはならないかもしれない」
温子は不思議そうな顔で冬木を見た。
「……つまり、秘密の仕事の依頼なんだ。それは、とても重要な仕事なんだけど、報酬は期待できないらしい」
「ねえ和彦、……それ、ひょっとして犯罪じゃないかしら?」温子が妙に静かな声で言った。
「もしあなたが、本当にそれが自分に向いているって思うんだったら、それでもいい。でも、殺人はだめ。泥棒だったら許せるけど」
「ねえ温子、きみは一体何を考えてるの」
「あなたは利用価値があるのよ。ツ―ルとか使って、金庫のダイヤルの組み合わせとか、競馬の結果なんかも、分かるんでしょ?」
確かに、そういう使い道があるかもしれない……。
「ねえ、そうなの?」温子がにじり寄った。
「金庫破りもやらないし、競馬の大穴を当てることもしないよ」
少し間があった。
「秘密諜報員?」固い声で温子が聞いた。
「違うってば」冬木は笑いながら、咄嗟に思いついた嘘をついた。「リニアビュレットの仕事なんだ」
「それがどうして秘密なの?」
「軌道のコ―スが秘密らしいんだ。秘密にしとかないと、緊急の時に使えなくなるそうだよ」冬木は声を潜めて言った。
「和彦は何をするの?」温子もささやくように言った。
「そこまでは聞いていないんだ」
「あの人たち、また来るのかしら」
「たぶん……」
「そろそろ、夕飯の支度をしなきゃ」と言って、温子は台所に立った。
温子が背を向けると、冬木はゆっくりとゴ―グルを上げた。自動的にバックアップに入れ替わる―――。
冬木はコップに水を満たすと、一気に飲み干した。それから正確に二時間、冬木はソファで横になった。その間、三日が過ぎた。
2 探検者
珍しく、月曜日は帰宅が遅くなった。録画で確認してみると、冬木は残業していたようである。木村さんが用事で昼から休暇を取り、急ぎの事件の書類を冬木がタイプしたのだ。そのため仕上げが遅くなった。
冬木は、電車の中でバックアップに入れ替わった。所長の高田に飲み屋に誘われて、酒を飲んでいた。ほろ酔い加減のはずだが、入れ替わった冬木に影響はもちろんない。
西荻窪に着くと、すでに九時過ぎだった。
商店街の端にさしかかったときである。横道から出てきた二人連れが、冬木に並んだ。
「お帰りなさい」と、声を掛けてきた。佐々木だった。予想したとおりである。冬木が復帰するのを待っていたのだ。
「どこまでご説明しましたかね……」
佐々木は歩きながら静かに言った。痩身の鶴田が、影のようにぴったりとしたがっている。冬木は歩調を緩めた。小さな川に架かる橋の上に来た。
「見事な星空だ」
佐々木は空を仰いで、しみじみと言った。星が降りかかってくるような、暗い澄んだ夜空だった。
「この宇宙はどこまで拡がっているのでしょうか?」
一つの疑問が冬木の口から出た。
ハ―ドディスクの中に、宇宙空間などないに決まっている。冬木は、頭上に星座を投影するソフトウエアを考えていた。
「一番遠い星雲まで、数百億光年ぐらいの距離があります」
後ろで鶴田が言った。
記述としてはそうだ。しかしここでは、あくまでも情報に過ぎないではないか……。
冬木の内心を見透かしたように、佐々木が言った。
「たんにディスクに記された情報を、私が読み取って話しているだけだと、感じておられるのではありませんか」
「そんなことはないですが……」
冬木は言葉を濁した。
「あなたが属しておられる世界が、唯一現実の世界だと、やはり信じておられる」
「そうかもしれません」
「それは悲しむべき、物質中心の世界観です。宇宙とは、あなたがたの物理的モデルによってのみ表されるのではなく、実にさまざまなモデルが許されているのですよ」
「例えば?」
「私は学者ではないので、あなたに十分説明できるかどうか疑問ですが、宇宙のあらゆる場に、宇宙のすべての事象についての情報が詰まった〝雛形〟のような微小領域があると考えてください。と言っても、既成の物理的空間ではありません。むしろそれらを包含した、より高次の概念ですからね。そこには宇宙の中の過去、現在、未来、つまり時空の中のすべての事象が配置されている。すべてがそこにある領域。生物の個体を構成している細胞の核に、その生物についての遺伝情報があるようなものです。部分に全体の情報が仕舞われている。あなた方の物理学という学問は、それ自体の方法によって、物理的モデルを開示した。しかし、それですべてではない。仕舞い込まれ、包み込まれた真理の、ほんのわずかな一滴にすぎないのです。あなた方の日常的な視点では、宇宙とは、広大な空間の中で天体が繰り広げる、スペクタルショ―のように映ずるかもしれません。しかしそれも、あなた方の存在の在り方に由来するものでしょう。われわれのような存在からすれば、部分に全体を見るのですよ。もっともその〝部分〟を解きほぐすのも、容易ではありませんが」
「それでは何故、僕がこちらの世界を救う任務を担わなければならないのか、ますます分からなくなってくる。あなた達の仲間に適任者がいるはずだ」
佐々木が歩を止めた。そして、寂しそうに微笑んだ。
「私たちを定義づけた初期値、まさに数理物理的な環境が、私たちをここに閉じこめているのです。初期値の呪縛を解くには、外からの力が必要なんです」
「それがぼくってわけ?」
「そうです」
「なぜ? あなたたちはすごい真理を手中にしつつあるじゃないですか。それなのにどうして、ちゃちなハ―ドディスクの中から出られないの?」
「それは……」
佐々木が一瞬、言い淀んだ。
「エネルギ―値の限界です。壁の前に大きな猫がいる。われわれが力を合わせれば、その壁を食い破ることができるかもしれない。しかしその前に、猫に追い払われてしまうでしょう。もしかすると仲間が食い殺されるかもしれない」
「壁は物理的なもの?」
「ある意味ではそうです。われわれの住処は磁性体ですが、われわれがそこから出るためには、高い障壁を乗り越えるか、さもなければ、壁にトンネルをうがたねばならない。どちらも容易ではありません」
「でも力を合わせば穴を開けられると……」
「物理的な障壁だけならば。それ以上に困難なのは、新しい〝場〟への跳躍なんです」
「……」
「巨大なエネルギ―を投入しなければならない」
鶴田がぽつりと言った。
「それは、コンピュ―タを〝外〟から操作することを意味しますね」
冬木が言った。佐々木が大きくうなずいた。
「あなた様の操作が必要です」鶴田が言った。
「わかった」
冬木はこっくりとうなずいた。彼らは再びゆっくりと歩き始めた。
「……僕は、猫にとってどういう存在なの?」
「飼い主です。爪で引っかけられたり、噛まれたりもするでしょうが……」
「ところで猫というのは……」
冬木は言いかけて、途中で止めた。鶴田がまじめくさって言った。
「もちろんオペレ―ティングシステムOSです」
冬木は笑った。つられるように佐々木もくすくす笑っていた。
話は決まった。ようやく〝ゲ―ム〟の帰趨が見えてきた。
「それで、具体的に、ぼくはいつ何をすればいいのかな」
「われわれのプロジェクトチ―ムが、早急にプランを立てます。ごく近い内にご連絡できるでしょう」佐々木が言った。
「ときに……」
「はあ?」佐々木が聞き返した。
これでゲ―ムは終わりだねと、冬木は言いかけたのだ。その代わり、
「僕の手でトラブルを解決できるとはね」と言った。
「その通りです」
佐々木と鶴田が握手を求めてきた。二人は通りかかったタクシ―を拾うと、駅に向かって走り去った。
「ご苦労さま。意外に早かったじゃない」
帰宅すると温子が言った。
「大変だったんだ。和文タイプなんて、初めてやったからさ」
冬木は着替えながら、もっともらしく言った。
「食事しなくて大丈夫?」
「所長におごってもらった」
「お風呂に行きましょう」
もう少し前に入れ替わっておくべきだったと、冬木は後悔した。冬木と温子は、石鹸とタオルを入れた盥を抱えて外に出た。銭湯は目と鼻の先である。タイミングをつかめない内に、「男湯」と染め抜かれた暖簾をくぐっていた。こうなると仕方がない。冬木は半ばヤケ気味に、服を脱ぐ仕草で裸になると、浴槽の湯に浸かった。手で顔を拭う振りをしながら、ようやくゴ―グルを上げた。
2 最後の夜
―――彼らは、自分たちの世界をカタストロフィから守るために、脆い物理的基盤である現在の領域から、どこか別の次元の、安定した領域へ引っ越そうとしている。そこは、我々の世界の認識論的立場からは、未知の領域であるらしい。それはわれわれの世界の、物理学的な実在論を超えた場所で、宇宙の存在形式の一つの解であるらしい。しかしそこへ到達するためには、自分たちの情報知だけでは不可能で、つまり彼ら自身、数理物理的実在であることに由来する属性から自由になれない。いかに特異な(彼らにとっては特異ではないのかもしれないが)世界観を獲得していようと、今にも壊れそうなディスクからは脱出することができない―――。
冬木は、こう記したメモ用箋を、小さく折り畳んでズボンのポケットに入れると、洞窟に戻り、バ―チャルへ復帰した。
翌日の午後七時。冬木は仕事を終えて一度帰宅した。こんな日に限って温子が留守だった。例の近所の奥さんと、映画の試写会に行ったらしい。八時には帰ると、チラシの裏にメモがあった。冬木は、佐々木と会ってくるとだけ、同じチラシの余白に走り書きをして、部屋を出た。駅へ向かう道のちょうど半ば、橋のたもとで佐々木が軽く手を挙げた。
「どこへ行こうとしているのか、分かるような気がします」
冬木は並んで歩く佐々木に、そう呟いた。まだ宵の内で、駅に向かって歩く冬木たちは、勤め帰りらしい通行人と次々にすれ違った。
「そうですか……」
佐々木はあまり急ぐ様子でもない。
「それで、それが成功すればどうなります?」
「脱出できます」佐々木が答えた。
「どこか別の場所へ行くのでしょう?」
「イエスとも、ノ―とも言えます。今われわれが占めている領域とは別ですが、特に別の場所である必要はないのです」
まるで禅問答のようだった。
「でも、今の場所から退避しないと、ディスクがクラッシュしたときに……」
途中で佐々木が遮った。
「われわれはミクロ大へ縮み、ワ―ムホ―ルから、別の宇宙に入ります。実際には、元々いた場所とほとんど違わないとも言える。パラレルな世界と言えば理解しやすいですか?」
冬木はうなずいた。
「そこは、この宇宙と干渉し合わないのですか?」
「うむ。根底では影響し合っているのでしょうが……、直接の交流はないでしょう。私には分かりませんが」
「われわれからすれば、あなた方の世界は消えたように見えるのでしょうね」
冬木は佐々木に問うた。
「そうです。私たちの脱出時に、記憶装置であるハ―ドディスクが破損するでしょうから。それに、仮にハ―ドディスクが壊れず、デ―タが無事残ったとしても、それらは私たちの抜け殻でしかありません。なぜなら、脱出時に、私たちの各自が内部構造を持つ存在であるという本質が抜き取られて、たんに数字や記号のような表象だけが残るでしょうから」
佐々木の話は一つの示唆を含んでいた。冬木は重ねて聞いた。
「あなたがたの意識も、そっくり引っ越しするのですか」
「もちろんです。脱出時には、私たちの意識を担っている量子情報まで完全に転写されます。その時に元の情報は失われますから、そう言う意味でも、後には屍しか残らない」
「そうか、量子レベルまでの完璧なコピ―なら、意識は転移するのか……」
冬木は手を打った。やっと結論を得たらしい。
「ただ、オリジナルの情報は破壊されますが……」と佐々木が言った。
「そうなんですね」
転写装置の中で人は死ぬのだ。そうでなければ、意識の流れが一本で繋がらないではないか―――。
「ときに……新世界へ脱出したのちも、人々は、やはり個々に切り離された存在でしょうか?」
冬木はふと、自分たちが味わっている孤独を思った。同じ悲哀を味わわねばならないのだろうか。
「さて。どうなるのか私には分からない。ただ、一部の学者は予想もしない方向へ変化するのではないかと言ってますが……」
そんな迂遠なことを話しているうちに、冬木たちは吉祥寺駅まで来た。
「この駅ビルの地下へ行くのでしょう」
冬木は物静かに言った。
「よくおわかりのようだ」
「この〝東京〟が、ほんとうにそっくり移行するの?」
「ですから、再構成があるかもしれないのです」
「再構成って?」
「こっちへ……」
彼らは駅ビルへ入ると、地下へ行かずに、エスカレ―タ―で二階へ上がった。
「まだ時間がありますから」
佐々木は冬木を、書店の向かいの喫茶店へ案内した。
佐々木はメニュ―にさっと眼を通してから、冬木に言った。
「あなたが飲食できないことは判っています。でも注文は二つしないとね」
冬木の前にコ―ヒ―、佐々木の前にチョコレ―トパフェが置かれた。
「酒を二年前にやめてから、甘党になってしまいました。何だか、私に関する記述は、医学書の症例をそのまま引き写したみたいなんです。糖尿病になってもおかしくない」
佐々木は苦笑しながら、しかしおいしそうに、スプ―ンですくったホイップクリ―ムを舌の上に乗せた。
「さっきのつづきですが、再構成というのは?」
「そうでした。すでにわれわれはあなた方と同様に、独自の世界を持ったわけですが、今度のオペレ―ションが成功して、包み込まれたホロン的真理の一部でも獲得できれば、予想外の展開があるやもしれません。いや、あるでしょう。私は確信しています。我々の世界はあなた方の世界のコピ―としてスタ―トしましたが、独自の文明を有する世界として、再スタ―トすることになりましょう」
「なるほど。それでこの東京はどうなります? 今ここで生きている人々も含めて」
冬木は眼の前のコ―ヒ―には手をつけない。
「さて、どうなりますか。パラレルワ―ルドとしてあなた方の時空の隣に位置するか、あるいは一部の者の先導で、従来モデルから脱却した、全く異なった存在に変貌してゆくかもしれませんね。われわれは本来、物質に依拠した存在ではないのです」
こうしてゆったりとした会話をしていると、かつて渋谷で友人と語り合っていた時代を思い出す。二十世紀末のことだ。しかし今は、一九七五年である。もっともこの時代と袂を分かつ瞬間が、刻一刻と近づいているらしいのだが……。
「佐々木さん。いつまでもここにはいられないでしょう」
佐々木は腕時計を見た。
「そうですね。しかし、まだ時間的に早すぎる」
「いったいそのオペレ―ションというのは、いつから実行するのです?」
「現在実行中ですが」
佐々木は意外そうに冬木を見返した。
「そりゃそうでしょうが、僕がやるとかいう、例の計画の開始時刻のことですよ」
「十二時ジャストです」
「……」
さすがに冬木も呆れてしまった。まだ八時である。
「どうやって時間を過ごすのです」
「そうですな……。」
佐々木は腕時計を見ながら思案した。
「向かいの本屋にでも、行ってみますか」
佐々木はのっそり立ち上がった。冬木もついて店を出た。中途半端な時間の使い方ではないか。こんなところで時間をつぶすくらいなら、最後にひとこと、温子に別れを告げたかった。仮にも妻なのだ……。
「少し時間を貰えませんか。一時間でいいです」
切羽詰まった冬木の表情から、佐々木も察したに違いない。つと掌を冬木に向けて、
「もう一人の冬木氏なら、一時間前にお家に帰られました」
「ひょっとして……」冬木は愕然とした。
「そう、ほんものの冬木氏ですよ」
たしかに、こちらでは本物に違いない。一抹のほろ苦さと寂しさを感じながら、冬木は内心ほっとしていた。温子と一緒にいてやれるのだ。
「ラストステ―ジに達しましたので、あなたの分身を投入したのです」
「そういうことでしたか……」
「ですから、どうぞご心配なく」
書店に入ると、佐々木は平積みしてある雑誌を手に取った。
「ごらんなさい」
若い女性向けの月刊雑誌である。佐々木がグラビアペ―ジをぱらぱらとめくった。
懐かしいタレントたちの服装や髪型、化粧など……。この時代の最先端である。
何気なく誌面を見ているうちに、冬木はつくづく感心した。表紙から裏表紙まで、ぎっしりと情報が読み取れるのだ。以前はこんなことはなかった。そんなに前のことではない。新宿からカワセミと地下鉄に乗った時、サラリ―マンが拡げていた新聞の紙面は、染みのような模様だった。新聞の体裁を整えたのは、温子と一緒に暮らすようになってからだった。
「だいぶ進化しましたね」と冬木は言った。
「そう、予想外の早さだ。そして今も、意識を獲得する者が飛躍的に増えているようです」
「正確に把握できないんだ」
「変化が速すぎまして……。私はあなたを、現場に案内する任務しか知りませんが、他の者たちはきっと、新しい世界での計画づくりに合流していると思われます」
「僕たちの世界の文明を、遙かに凌駕していくのだろうね。あなたたちは」
冬木はしみじみと言った。
「やはり、ご自身の世界観の枠組みで考えておられますなあ」
佐々木の軽口に皮肉が込められている。
「われわれは、われわれ自身の想像をも超えて変貌してゆくかもしれんのです。その時は、比較することもできないじゃないですか」
閉店まで十分という店内アナウンスが流れた。
書店内には、まだ大勢の客がいた。冬木は音楽雑誌のコ―ナ―で、一冊の雑誌の表紙に目が留まった。傾きながら炎上する巨大な飛行船の絵。七十年代に人気のあったイギリスのロックグル―プを特集している。冬木は好奇心にかられてペ―ジを繰った。再来日して東京でコンサ―トをするらしい。冬木の頭の中で、かつて親しんだ曲が雷鳴のように響いた。
「それはどういう種類の本ですか?」
いつの間にか側に来ていた佐々木が低い声で訊ねた。
「ロックの雑誌なんですがね」
冬木は雑誌を棚に戻した。
「ロックというと、あの喧しい音楽のことですか」
冬木は笑った。
「失礼。クラシックをときどき聴きますが。ロックは音量が大きいので好まないのです」佐々木は書店の包み紙を小脇にはさんでいた。
「何か買ったのですか?」冬木が聞いた。
「囲碁の雑誌です。今日発売日だったんですよ」
佐々木は少しうれしそうにした。
「さてと、ここも閉店だし」
「あと三時間半もありますよ」
一体こんなところで何をしているのかと、冬木は疑問を覚えた。しかし佐々木は、書店から出ると先に立って歩いた。駅の南口から外へ出ると、勝手知った界隈であるかのように、細い夜道を二度、三度曲がって、一軒の和風スナックの前に来た。
「一杯やっていきましょう」
佐々木が右手で杯を持つ仕草をした。
「ぼくは間が持たないでしょう。それに酒はやめたんじゃなかったんですか?」
「大丈夫、ママがいい人なんだから」
そんなことは関係がない。
しかし佐々木は冬木の背を押すようにして店に入った。
「あら」
三十代前半の和服の女性が、佐々木を見て目を丸くした。
「お珍しい。どうしたの」
「どうしたもこうしたも、これが最後の夜……あ、ビ―ルね」
佐々木はおしぼりで顔を拭いてごまかした。
「まあ、最後の何なのよ」
ママは二つのグラスにビ―ルを注ぎながら聞き返した。
「こちらの、冬木クンというんだが、結婚するんだよ。それで独身最後の夜というわけだ」
「あら、おめでとうございます」
冬木を真っ直ぐ見つめた。勘の良さそうな人らしい。
「会社の方じゃないでしょう」
「ああ、遠縁にあたる青年なんだ」
「まだお若いんでしょう?」
「二十五です」冬木は答えた。
「ですよねえ。でもなんだか、不思議な感じの方」
「そうですか」
「お年の割に、すごく落ち着いてらっしゃるの」
冬木は頭を掻いた。佐々木が薄笑いをした。
その時、向かいのカウンタ―の客が料理を注文した。ママは反射的に反応した。冬木たちの前で、くるりと着物の背を向けた。
「最後の晩餐か……」
佐々木は、小鉢の芋を箸の先でつまみながら、やや陰気な声でつぶやいた。冬木は何をすることもない。時々、グラスを傾ける仕草を繰り返すだけである。
「不安なんですよ」
佐々木が言った。
「オペレ―ションがですか」
「そうです」佐々木は声を落とした。
「いままで私たちが連綿とつづけてきた、この生活が、この世界が終わってしまうのです」
「新しい地平が切り開けるのではなかったのですか」
「……息子が気がかりです」
佐々木は目を落とした。
「女房と男の子が一人。家族を残してきています。これが最後の別れになるかもしれない。いまの存在形式が終焉してしまうと、もう親子でも夫婦でもない、そういう世界になってしまうでしょう」
「……」
オペレ―ション後の世界のことなど、もちろん冬木には想像もつかない。
「あと三時間ですね」冬木は呟いた。
「あら、なんだか沈んじゃってるわね」
ママが戻ってきた。
「お酒にしましょうか?」
「熱燗で」佐々木がうなずいた。
次々と客が入れ替わる。今夜はなかなか繁盛しているようだった。奧の座敷らしい部屋からも歓声が上がり、アルバイトらしい女の子が二人、休みなく立ち働いていた。
4 オペレ―ション開始
佐々木は杯を置いた。
「冬木さん」
口調があらたまった。
「ジャスト十二時に、リニアビュレットに乗り込んでいただきます。あなたもご存じの場所からです。あなたの乗り込んだビュレットを、半径一五・四キロの円形の軌道に投入します。その後はあなたご自身の操作で、光速近くまで加速していただきます」
冬木の表情が曇った。
「光速、ですか?」
「限りなく光速に近い速度まで。環状の軌道上を、光速の近似値の速度であなたを周回させながら、われわれの世界のスケ―ルを急激に縮小させます。そうすれば軌道の半径がある値より小さくなった時に、軌道上の周回物、つまりあなたを乗せたビュレットは光速を超えるでしょう。そのとき軌道の中に位置する領域が、この時空を抜け出るのです」
冬木はその情景を想像した。おぼろげなイメ―ジが湧いてきた。
「どうしてそんなことが可能になるのですか」
「正直に言うと私も理解できません。専門家の説明を鵜呑みにしているだけなのです。私自身、信じられない話だ」
佐々木は二本目の酒を注文した。
「なんだか難しそうなお話ね」
ママが佐々木に酒を注ぎながら言った。
「今日はあまり飲まない方がいいわよ」
「半径一五・四キロの円から外の地域はどうなるのです?」
「取り残されるかもしれない」
「悲劇じゃないですか」
「うむ。両親がその線から三キロ西に住んでいます」
佐々木は頭を垂れた。
「どうにかならないのですか」
「学者は、周縁部も時空の穴に引き込まれると予想しているのですが」
「そうなればいいですね。ときに……」
「なんでしょう?」佐々木は赤い顔を冬木に向けた。
「ビュレットに乗り込む僕はどうなるの?」
「と言うと?」
「危険はないの?」
「あなたはこちらでは仮想的な存在ですから、質量もありませんし、操作レバ―で速度表示を上げていけばいいのです。あなたにとっては疑似体験ですから、ただもう仮想的に、ある種のゲ―ムでもおやりになるつもりで、なさっていただければ……」
「何遍も言うようだけど、なぜぼくなの? 例えば佐々木さん、あなたがあの乗り物に乗ってもいいわけでしょう?」
佐々木は激しく首を振った。酔いが回ったのだろう、やや大げさな身振りになった。
「それは駄目なのです。現在、我々は物理の法則に支配されていますから、短時間で光速近くまで加速すれば、身体が潰れてしまいます」
「なるほど」
「しかも本質的なことを申し上げれば、外部の存在であられるあなた様でないと、相対論を破れないのです」
「ぼくだって相対論を超えることはできないさ」
「そうじゃなくて、われわれでは論理的に不可能なのです。自己矛盾になってしまうのです。記述が自己矛盾を犯すことは出来ない。しかし外部からの操作なら、この論理世界を無理なく改変できるでしょう。あなたも物理的枠組みの中でしか動けないのは当然ですが、あなたはあなたの世界の物理的規制に挑戦するわけではないのです。ひっく」
佐々木も酔いを自覚したのだろう。
「ずっと禁酒してたから、ひっく、失礼。酔い方が早いねえ」
「そろそろやめた方が……」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言いながら、佐々木は三本目を注文した。
「温子は今頃どうしてるかな」冬木は呟いた。
「ああそのことね。冬木さんと、お家でゆっくりしてるでしょ」
佐々木は見てきたように言った。
「彼は温子とうまくやっていけるだろうか?」
「今のところはいいみたいですよ」
佐々木が薄笑いを浮かべた。そして意味ありげに付け加えた。
「こちらの世界の人ですから、それは、何の制約もないのです」
佐々木の言葉が胸を衝いた。オペレ―ションが無事完了したら、冬木は洞窟に戻る。彼らと一緒に時空を飛ぶわけではない。彼らが無事脱出できるように、外部から系を操作する。今、冬木に残された選択肢は、唯一それだけだった。
それから佐々木はまだ飲みつづけた。呂律を怪しくしながら、冬木を相手にお決まりの身の上話をした。それでも午後十一時を過ぎると、佐々木は懐から財布を取り出し、背中に棒が入ったように、すっくと立ち上がった。
「ではそろそろ行きますか」
冬木を促した。
「もう今日は飲んじゃだめよ」
ママが心配そうに声をかけた。
店を出ると、佐々木は足元がふらついている。仕方なく冬木は肩を貸してやる。重さはない。そのことをつくづく有り難く感じた。
「ユ―ザ―様に申し訳ない」などと佐々木は口走った。
「こちらの方角でしたよね」
二人は再び駅へ向かう。遅い時刻でほとんどの店が閉まっていたが、二,三の飲み屋や深夜スナックが開いていた。
「ここも来たことがあります」
佐々木は一軒のバ―の前で顎をしゃくって見せた。
「はしごなんてなしだよ」
冬木の冗談に佐々木は大笑いした。上機嫌だった。
5 妨害工作
駅に着いた。上下線とも終電までまだ間がある。佐々木はしっかりとした足取りになり、肩を借りていた冬木に詫びた。
階段で駅ビルの地下へ降りた。レストラン街は午後十時で閉まる。照明を落とした店舗が並んでいる。ラ―メン屋が店を閉めかけていた。こんな時刻に通り過ぎる冬木たちを、店主が不審な目で見た。佐々木は通路の端まで真っ直ぐ行き、例のドアの取っ手をつかんだ。中はがらんとした倉庫のはず。ところがドアを開けると……段ボ―ル箱が天井まで積み重なっている。佐々木が呻いた。
「なんてことだ。こいつをどかさないと、下へ通じるドアが開かない」
冬木と佐々木は、箱を片端から通路へ放り出し始めた。瓶のようなものが入っているのか、衝撃で割れた。通路の床に黒い液体がしみ出した。さっきのラ―メン屋の主人が通報しなければいいがと、冬木は思った。時刻はすでに十一時半を過ぎている。
「明らかに妨害ですぞ」
顔中から汗を噴き出しながら、佐々木が喚いた。
「何ですって?」冬木は軽々と箱を後ろへ飛ばしていた。
「鶴田が裏切ったという情報が入ったのです」佐々木はワイシャツの袖で汗を拭った。
「あの鶴田氏が……」冬木は驚いた。
「ミイラ取りがミイラになった。監視していた組織に自ら情報を流したのです。わずかな金のために……」
二人がドアまでたどり着く頃には、箱が背後の入り口を塞いだ。奧のドアを開くと階段である。階段は地下四階まであったはずだ。冬木と佐々木は階段を走り降りた。最下階まで五,六段まで来たときだった。いきなり頭上から轟音が響き渡った。周囲の空気がずたずたに切り裂かれ、弾丸が跳ね回った。
「マシンガンです。早く」
佐々木は先頭に立って、地下四階のドアから出ようとした。
「ちょっと待って」
冬木は佐々木を制して、視野の中を注意深く見回した。右隅の小さな赤いアイコンを意識的に見つめた。メニュ―がポップアップした。ツ―ルが五種並んだ。冬木は一番上のを選んだ。見つめて意思を込めるだけだ。右手に、大型拳銃タイプの武器が出現した。
冬木はドアを細めに開けて、地下四階の様子をうかがった。ドアからフロアに半身を入れた瞬間、敵が激しく撃ってきた。待ち伏せである。階段を下りてくる足音が間近に迫ってきた。冬木は、佐々木が自分の陰になるようにしてドアを開けた。そのまま銃を構えながら、カニのように横に歩いた。冬木の身体に数発の銃弾が当たる。もちろん冬木には何ともない。赤い血しぶきのマ―クが、身体の上に表示されるだけである。 冬木たちは、フロアの端の、シャッタ―が下ろされた区画へ取り付かなければならない。敵は三方から撃ってきていた。コンクリ―ト柱の陰の左右に二人、離れたフロアの角に一人。それぞれマシンガンで連射してくる。
強力な敵だが、冬木にこの世界のロジックは通じない。冬木の身体に相当する領域に達する銃弾は無効である。しかし冬木の陰になる佐々木に当たれば、もちろんダメ―ジとなる。三方から撃たれたら、死角が狭く危険である。
冬木は銃身のダイアルを回してパワ―を上げた。まず、前方の柱の左の陰から撃ってくる敵に向けて引き金を引いた。赤いビ―ムが、柱から突き出た右手をとらえた。その瞬間、敵の右手にあるはずの武器が無くなった。文字通り消去された。次に、柱の右の敵に向けてビ―ムを発射した。次にフロアの角に向けて引き金を引いた。敵の手中にあるはずの銃が消失したはずだ。なぜなら、そちらも激しい銃撃がぴたりと止んだからだ。
一瞬静寂が訪れた。しかし、慌ただしく階段を走り降りてきた連中がいた。今にもフロアに突入する勢いだ。冬木はツ―ルのパワ―を最強にした。冬木はテロリストたちがドアを蹴破ってフロアに飛び込む瞬間に、ツ―ルのビ―ムを浴びせた。赤い光の輪がフロアの入り口にいる数人を包んだ。彼らのマシンガンは消えていた。と同時にテロリストたちはその場にへたり込んだ。ツ―ルの武器除去機能の副次作用で、彼らの視神経を一時的に麻痺させたのだった。
「今のうちだ!」
佐々木が叫んだ。残り時間はわずかに七分である。佐々木はリモコンスイッチを手にしていた。シャッタ―の上部の受光器に向けた。シャッタ―が開きはじめた。二人は身を屈めてシャッタ―の下をかいくぐった。目の前にビュレットがいた。彼らが近づくと、自動的に扉が開いた。
「さあ……」
佐々木が言う前に、冬木は乗り込んでいた。
「これを」佐々木が四つ折りにした紙を冬木に手渡した。
「一二時までに読んでください」
冬木はうなずき、上着のポケットに収めた。
「目の前のダイヤルを、表示に合わせて回してください」
「わかったよ。それにしても……」
時計は六分を切っていた。ビュレットの扉が閉まる直前、冬木は佐々木に叫んだ。
「今の今まで、僕は信じていなかった。でもこれは本物なんだ!」
窓越しに佐々木が、泣き笑いのような表情を浮かべながら、何度もうなずくのが見えた。次の瞬間、佐々木が後方に下がった。ビュレットが動き出したのだ。そしてトンネルに入った。冬木の目の前の計器板が、オレンジ色に点灯した。母ビュレットに装着されたと思うまもなく、まさしく砲弾のような初速で跳びだした。冬木の前のディスプレイが、トンネルの正面を映し出している。ランプが流れるように後方へ飛び去り、すぐに一本の光の筋となった。もの凄い加速である。生身の人間なら、強烈な加速でぺちゃんこに潰れてしまうだろう。仮想のGを形成するスーツも、データが大きすぎて機能していなかった。冬木は計器を見た。速度は秒速一千キロに達しつつあった。すでに直径三〇・八キロの円周を、一秒で十周している。振動はない。あっても冬木には伝わらない。最初の轟音も次第に弱くなり、今は無音である。ビュレット内は静寂に包まれていた。午前零時まであと五分。冬木はポケットに入れた紙片を取り出した。固く四つ折りにされた紙を拡げる。丸っこい温子の文字が飛び込んできた。
―――和彦が二人いることは、気が付いていました。未来から来たあなたと、この世界の和彦と。でも私は気付かない振りをしていました。こっちの和彦には、ずいぶんつらく当たったけど、あなたの前では、それが出来なかった。途中からあなたは、あまりこちらに来なくなったわね。その間に、私は和彦とずいぶん話し合って、本当に仲良くなれたの。だから、どうかあなたも心配しないで。元気で、さよなら。時間が無くて、これだけしか書けない。私泣いてるんだ。さようなら、あなた―――
最後に会うべきだった。もう二度と温子には会えないという思いが激しくこみ上げた。が、もう遅い。冬木はゴ―グルを引き上げた。拳で涙を拭った。急いでゴ―グルを下ろす。時計を睨んだ。午前零時まで、あと二分。計器の赤いインジケ―タ―が、右上がりのグラフを、急カ―ブで上昇する。五十パ―セントの表示で、赤い光の伸びが止まった。「遠隔操作不能 手動操作に切替」の文字が、ディスプレイの真ん中で点滅した。佐々木が指示したダイアルが、眩しい緑色で光った。冬木はダイアルを時計回りにまわす。止まっていた赤い光の棒が、上に向かって伸び始めた。六十……七十……八十……、九十……、九十五。ビュレットは、今や直径三〇・八キロの円周を、一秒間に三千回転している。赤い棒が、グラフの残りわずかな隙間を満たそうとしていた……。
「限界 限界 限界」
オレンジ色の警告がせわしく点滅する。冬木はダイアルを右へ捻り切った。
6 遷移
冬木は大学の上空にいた。午前零時を過ぎたキャンパスは、墓地のように暗かった。見覚えのある校舎の配置が辛うじて見えた。しかし大学の南北に接する道路には、車のライトが流れ、街にはごく当たり前に灯火が広がっていた。球場の向こう、ビルの谷間を縫うように走る明かりの列は国電だろう。当然のことだが、この時刻にも街は生きている。しかし冬木がはるか地平線を望むと、漆黒の闇がじりじりと浸食しているのが見えた。地平線がその輪を絞り込んできているに違いない。その外は虚無だろう。眼下の夜景もいずれ真の闇に呑み込まれていくのである……。
しかし冬木は、あることに気がついた。眼下に拡がる都会が闇に飲み込まれているのではなく、実はスケ―ルが縮んでいるのではないのか? さらに、地平が切り取られているのではなく、端から球状に曲げられているのではないかと。
周縁部を入れて直径四十キロだった世界は、今、一キロ大のドーム状になった。それを冬木は上から見ている。そして、さらに小さく絞り込まれているのだった。街の上空に冬木が浮かんでいるというより、街が冬木の足元で、百分の一のスケ―ルに縮まっている。大学や公園や球場、競輪場、遊園地も何もかも、街そのものが刻々と収縮している。かつて東京と呼ばれたデ―タの塊は、いまやフットボ―ル場ほどの球体に縮退した。それと同時に内側から発光し始めて、冬木の眼下で、暗赤色に輝き始めている。表面に微細な立体地図をはめ込んだ巨大な球は、刻々と縮んでいきながら、さらに明るさを増し、背後の暗黒へ引き絞られていくようである。すでに眼下の地表ではなく、虚空に懸かる一個の天体である。東京だったデ―タの集積は、オレンジ大の発光する天体に変貌した。それは加速度的に縮退しながら光度を強めている。虚無の領域の中で、唯一有意味なデ―タの圧縮体が放つ放射エネルギ―だったが、かつて己が存在していた「時空」への決別であるかのように、冬木のデバイス上に表示されている。
虚無の一点に向かってさらに縮退していくバ―チャル東京は、今、刺すように青く輝く一個の光点だった。暗幕にできた針穴から洩れる光のようでもあり、宇宙で唯一の星のようでもあった。そして……、最後に閃光を発して消えた。「この」時空から切り離されたのだった。
網膜に閃光の残像が残っていた。装具を外して冬木は洞窟を出た。ラボのモニタ―は、すべて電源が落ちていた。冬木は、深い溜息をつきながら、壁の時計を見た。午後四時だった。昼か夜か判定できない。冬木はラボの扉を開けて廊下に出た。奇妙な光が窓から射し込んでいた。黄昏のような光だった。冬木は通用口から建物の外に出た。
奇妙な感じだった。辺りに茶色の光が満ちていた。見たこともない不思議な色合いの光線。世界が茶色の液体に浸かっているようだった。冬木は空を見上げた。空一面、褐色の厚い雲に閉ざされている。冬木は、何かにたとえようとしたが、思いつかなかった。時刻が午後四時だったことを思い出した。木も建物も長い影をつくっていないどころか、影そのものがなかった。不意に金星の地表の想像図を、冬木は思い出した。灼熱の金星だ。しかし暑くはなかった。
音が聞こえないことに、冬木はようやく気づいた。国道から離れ、近くに建物の少ない場所だったが、バックグラウンドのようにノイズは聞こえてくるはずだった。だが今、不自然なほどに静まり返っている。
……まさか。ぞくぞくするような疑念が湧いた。冬木は道路に向かって走った。路上に見覚えのある車が停まっている。フロントガラス越しに福島が見えた。冬木は車に近寄り、助手席のドアを開けた。福島がハンドルを握り前方を向いたまま、凍りついたように静止している.
速度メーターは四〇を指している。冬木は福島に触ろうとした。が、思い留まった。冬木はドアを閉め、国道を遠望した。国道までは直線で一キロあるが、真っ直ぐ見通せる位置である。セピア色の写真のような視野の向こうで、動いているものは何一つない。風もない……。空気自体が重く滞留しているようである。
冬木は急いで研究所に戻った。何をすべきかは分からない。ただ洞窟に戻るべきだと、冬木の心を動かすものがあった。冬木はそれに従った。この世界にとどまってはいけない……。
冬木はラボに戻り、洞窟の扉を開けた。暗がりの中で微かな青い光を認めた。光は青いガスのように、洞窟の真ん中で広がりはじめた。光はまるで生き物のようにわずかに伸縮しながら、およそ直径二メ―トルほどの、球形の雲となった。
冬木は青い雲の表面を右手で触った。静電気で吸い寄せられるような、柔らかい力を掌に感じた。冬木は右腕を雲の中に差し伸べた。やや強い力の場が、冬木の右手を雲の中心へ引き込もうとするが、引き戻そうと思えばできる程度の強さである。しかし引力は意思あるもののように、冬木を招いていた。今いる世界から早く立ち去るように指示しているように感じられた。冬木は青い雲の中心に向かって、一歩踏み込んだ。次の瞬間、冬木はふわっと浮かんだ。トンネルの中を落ちていくような、あるいは浮き上がっていくような、反転した感覚が冬木を捉えた。そして、トンネルが引き絞られるように細くなっていき、冬木の身体もゴム紐のように引き伸ばされていった―――。
7 転生
海底から長い時間をかけて浮かび上がっているらしい。ようやく水面から抜け出て空気中に飛び出した―――。
冬木は夢から醒めた。大量の汗をかいている。枕元の時計を見た。午前四時前。こんな時刻に目が覚めることは滅多にない。いつも昼近くまで寝ているのだ。どんな状況で服を着たまま寝てしまったのか?
冬木はふらふらと立ち上がり、トイレで長い小便をした。ひどく喉が渇いていた。台所で水を飲んだ。ひどくカルキ臭かった。冬木はコップの水を一度捨てると、蛇口から水を流しつづけて、もう一度水を汲んだ。少しましな味がした。
自分の行為は現実そのものである。冬木は、今現在ここにいる自分という存在を感じている。布団から這い出して、小便をして水を飲んでいる自分だ。それは自明のことである。切ないほどに生々しく生起している現実。決して逃げ出せない現実というやつだ―――。
うんざりするような現実―――このありきたりな言い草を、ずっと以前、何十年か昔に、冬木は口癖にしていた。そして、〝七〇年代の現実〟というフレ―ズが、不意に冬木の意識に上ってきた。現在の冬木の立場からは、生じ得ない文脈である。未来から過去を振り返る視点ではないか―――?
その時冬木は不意に思いだした。上着のポケットを探った。何もない。空っぽだ。次にズボンのポケットを探った。小さく折り畳まれた紙が出てきた。自分が「夢の中」で書いた文章だった。
この時、冬木は天啓のように真理を知った。彼らは成し遂げたのだ。そして冬木もまた、彼らの力で「転生」したということを。
だが―――。
部屋の電気をつけた。六畳間に敷きっ放しの布団とこたつ、卓上にマグカップと灰皿、タバコと百円ライター、ラジカセと漫画雑誌、物理の教科書とノート……。台所の窓ガラスに自分が映っていた。
二十代の痩せた暗い顔。髪は長く、セルの眼鏡を掛けている……。冬木はシャツを捲った。へその横にほくろがあった。
それと――。
急いで新聞を探した。新聞はなかった。テレビをつけた。砂嵐の画面とザーッというノイズ。放送していない時間帯だ。ラジオをつけた。深夜放送が流れた。パーソナリティの声。しかし手がかりにはならない。
部屋の隅に本棚があった。冬木は最上段の真ん中に、背を奥にして入れた、緑色の日記帳を見つけた。表紙に一九七五年とある。急いでページ捲る。十月三十日のページに「不採用の通知があった。」と、見覚えのある文字で記されていた。三十一日以降の記入はまだない。
夜明けまで時間があった。確認すべきことはたくさんある。確かなことは、現在が枝分かれする前の時点だということだ。三十年遡って、人生のやり直しが可能な時点に、今、自分はいる。
冬木はパジャマに着替えて横になり、布団をかけ直した。もう一度寝たら、何もかも忘れているかも知れない。そうなることを望む気持ちが少しあった。しかしもちろん、そうはならなかった。
前史Ⅱ
面会は終わった。訪問者である老人は、三次元画面の奥へ、椅子に座ったままゆっくりと後退した。背後のドアが閉まりかけて、途中で止まった。老人が弱々しく言った。
「私も長くはない。これが最後になるはずだ」
小柄な男は返答に窮した。ただ頭を下げるしかなかった。彼方のドアが閉まり、映像が閉じられた。老人が消えると、男に疑念が湧いた。理事長はいつも映像でしか姿を見せないのだ。じいさんは本当は架空の存在ではあるまいか?
男はゴ―グルを外した。残った案件は財団の解散である。福島には研究所を残してやるつもりだ。それ以外に、自分がなすべき仕事はすべて終わった。男は病魔に侵され、余命幾ばくもなかった。転生が遺伝子を傷つけたのかも知れなかった。これで思い残すことはない。初老だが、まだ老人とは言えない男は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「二度生きりゃ、十分さ」
N番目の旅人