塔(二)

「秋彦」

 建てつけの悪い引き戸を開けるとそこに立っていたのはかつての親友だった。彼は室内に灯る蛍光灯の光を浴びながら、柔和な笑みを浮かべてこちらを見ている。秋彦は驚きのあまり目を見開いた。この親友とはもう二年も会っていなかったからだ。

「徹」

 本人であることを確かめるように呟くと、彼は困ったような表情を浮かべた。

「おいおい、大親友の顔を忘れたのか」

徹が冗談っぽく微笑むので秋彦もつられて笑う。外から冷えた夜風が入り込んでくるのに気が付いた秋彦は彼を室内へ招いた。

「なんにもお構いできませんが」

 徹はとても嬉しそうな顔で頷く。建付けの悪い玄関扉を潜り抜けると、案内に従ってダイニングチェアに着席した。先ほど秋彦が座っていた席の向かい側だ。彼のすぐ近くで砂糖の結晶が光っている。

「何か飲み物でも。紅茶かコーヒーしかないけど」

「じゃあ、紅茶をもらおうかな」

 秋彦は戸棚を開き、華美な模様の描かれた入れ物と琥珀色の瓶を手に取る。母が送ってくれた茶葉と蜂蜜だが、秋彦は紅茶を好んで飲まないため茶葉の方は酸化しているかもしれない。これがいつ頃送られてきた物なのかもはや秋彦の記憶にはなかった。

 そんな彼の背後、徹はメモ帳になにやら落書きを施しているようだ。彼は眼鏡をかけた賢しげな容姿に反して、こうした子供じみたことをする男だった。どうせ書き損じのメモである。秋彦はこれに何か言及することはしなかった。
 それよりも彼の頭の中はあることで満たされていた。それは今が非常に静かで穏やかな天気の夜であること。すなわち、あの空想にもってこいの日であるということだった。

「相変わらず物がないね」

 鳴りかけた音楽は徹の言葉によって制止される。秋彦は我に返った。

「これ以上なにもいらないさ」

 言いながら家の中を見渡す。中華風の衝立、ソファ、ダイニングテーブル、電池の切れた掛け時計。それらはどれも古い。だが一人で暮らすには十分すぎる代物だ。一通り家の中を見たあと視線を戻すと、徹はいつの間にか秋彦を振り返っている。

 秋彦の心臓がひときわ強く跳ねた。持っていた瓶が右手をすり抜け、カウンターの上に落下する。ゴンと鈍い音。

 あからさまな動揺を見せてなお、徹はただ一心にこちらへ視線を注ぎ続けた。この行為が何を意図したものなのか秋彦には分からない。ただひとつ、徹の表情に自身を責める様子や気まずそうな感じが一切ないのが不思議だった。そして自分自身、どうしてそのように感じるのかも。

 いつの間にか徹の手から離れた万年筆が視界の隅で輝いている。そういえばこれもいつから持ってるものなのか記憶にない。徹の唇が小さくゆっくりと開かれる。秋彦の心臓は再び強く脈打った。そう、これは音楽だ。今日はよく晴れた静かな夜。

 秋彦が俯いた顔を上げると、目の前に眼鏡をかけた少年が佇んでいた。彼は屈んで秋彦をじっと見つめている。
 少年は薄青のワイシャツに黒のネクタイ、同じ色のジャケットとズボンを身に着けていた。秋彦は瞬間的に察した。これは喪服だ。彼は自分の身体を見る。白いシャツに黒のリボン、少年と同じように黒いジャケットとハーフパンツ、靴下。たしかこれは、秋彦が九歳の頃に着た喪服であった。遠くから大人たちのすすり泣きや話し声が聞こえてくる。秋彦は視線をきょろきょろと動かす。

「何を固まっているの」

少年が微笑む。秋彦はここがどこだか分からなかった。

「俺は一体何をしていたっけ」

 青い壁紙、木製の戸棚、白い洗面台。視線を巡らせていると、そこが実家の洗面所であることが分かった。自分は洗濯機にもたれて座っているようだ。彼は昔からこの場所が好きだった。古くなった壁紙がところどころ剥げたり、変色しているのが秋彦のお気に入りだ。

「知らない。君はずっとそこにいたよ」

少年が微笑みながら答える。もたれた洗濯機はほのかに冷たい。そうだ、ろくに知らない親戚連中に囲まれるのが嫌だったのだ。だから自分は居間からここへ逃げ込んだ。

子供にとって葬儀ほど退屈なことはない。涙する大人たち、家を占拠する遺体、祈りの言葉、寒い火葬場。暇を持て余した子供たちはそれぞれ好きな場所に逃れたはずだ。妹は自室、親戚の女の子はキッチン、男の子は庭のブランコ。そして自分は洗濯室へ。すると、この少年もその一人だろうか。

「君も退屈なんだろ。探検に行こうよ」

 秋彦の予感は的中した。少年もまた退屈しているようだ。彼は秋彦に手を差し出す。その親密な仕草に、秋彦はとても嬉しい気持ちになった。親戚の子供たちとは年齢が離れていたし、何より気が合わなかったのだ。しかし彼には言いようのない親しみを感じる。
差し出された手を取り立ち上がると、この少年は秋彦より頭半分ほど背が低かった。そして秋彦はこれを意外に思った。

 大人たちが集まる居間の前まで、彼らはゆっくり歩いた。居間の扉は開きっぱなしになっており、人々の影がルームライトに照らされ廊下まで伸びている。秋彦は身体を壁にくっつけ、顔だけを室内に覗かせる。彼らの顔は無表情で白く、喪服だけがぼうっと浮いて見えた。まるで亡霊のような姿だ。

「行こう」

秋彦が言うと少年は頷いた。彼らは同時に足を踏み出し、居間の前を通り抜ける。

そこから足早に辿り着いたのは母の衣裳部屋だ。地味で無個性な茶色の扉を開くと一変、そこは別世界だった。
 扉の外観とは打って変わり、室内は香水の匂いと鮮やかな色彩で満たされた豪奢な空間である。広々したドレッサーには金銀に輝く化粧道具が数多く置かれ、その両脇を洋服で作られたグラデーションが彩る。青や赤のコートとシフォンの列はまるで目が眩む色合いのカーテンだ。
 秋彦が突っ立っていると、少年があるクローゼットを指した。それは母の特別思い入れのある衣服が仕舞われたクローゼットだった。彼は指先を唇に当てて微笑み、秋彦もそれを真似て笑う。そっと扉を開くと蝶番がきいきい小さく鳴った。二人の少年は共にその中へ入っていく。

 暗闇を通り抜けるとそこは広大な野原だった。先ほどの視界が明滅するような刺激と違い、野原の緑と青空は柔らかく、瞳が癒される感じがした。その心地よさに二人は揃ってため息をつく。

「綺麗なところだね」

「うん。ピクニックができそう」

 彼らが佇む場所は小高い丘になっているようで、この野原を広く見渡すことができた。しかしそれは際限なく続いており、全貌を知るにはさらに高い場所を目指す必要があるらしい。細い雲のたなびく空は秋の様子に似ていたが、吹く風は初夏のように青い。
 すると秋彦は気付いた。野原には草の緑に隠れて点々と黒い塊が配置されているのだ。少年を振り返ると彼もまた気が付いたようで、二人はどちらからともなく走り出した。

「棺桶だ」

 秋彦が言った。辿り着いた先には黒い棺桶がひとつ置かれているだけだった。ずれてかかった蓋の中を覗くと、そこには何も入っていないように見えた。少年が大胆な動きで蓋を開けるも、中身はやはり空っぽだ。

「不思議だね」

少年の言葉に頷きつつ秋彦は辺りを見た。どうやら棺桶はまだまだあるらしい。

「ひとつずつ開けてみようよ」

秋彦の提案に少年は楽しげに頷いた。

 その時だった。大きく重たいものが転がり落ちてくるような、鈍い音が遠くから響いた。二人は一斉に音の方を振り返る。しかしその方向には何もなく、やはり緑の原っぱが広がるだけだった。

「なんだろう」

少年がこちらを見る。秋彦は首を傾げた。その間も音は続いており、心なしかこちらへ近づいているように感じられた。しばらく耳を澄ませていると、何かが這うような音も一緒に聞こえてくる。もしかすると近づいてきてるのはこの音だろうか。なんだか不気味に感じられ、二人は顔を見合わせた。

「隠れた方がいい気がする」

「俺もそう思う。この棺に入ろう、蓋は閉めるからさ」

 早口で言い終えると秋彦は少年の背を押す。彼がまだ身じろぎしているところに身体を割り入れ、素早く蓋をした。中は真っ暗になり、お互いの緊張した息遣いだけがかすかに聞こえる。

 二人が感じた這うような音というのは最初、ほんのかすかなものだったはずだが、棺に入った途端ものすごく近くで聞こえるように思えた。
ザーッ、ザーッと身を擦るような音。ときおり金属が擦れるみたいなキリキリした音が耳を突く。音は真っすぐ、彼らの隠れた棺桶に近づいてくる。二人は恐怖で目を瞑った。心臓の音が棺の外にまで聞こえてしまうのでは、秋彦はそんなありもしないことを思った。折り重なるように身を寄せたため、少年たちの身体はどちらのものともつかない冷汗で濡れている。
 
 バンッ!棺が大きく揺れた。上に何か覆いかぶさっている。見えずとも二人はそう確信した。
どうにか悲鳴をこらえ、彼らは互いの身体を抱くようにして身を縮ませた。秋彦たちの真正面、棺の蓋がキリキリ鳴っている。蓋を開けようとしているのだろうか。しかし二人の心配をよそに、わずかな沈黙のあと、再び這いずる音が聞こえ始めた。音はどんどん棺から遠ざかっていく。

「大丈夫かい」

暗がりの中、少年が小声で尋ねてきた。

「うん。そっちは」

「僕は大丈夫。音はもうしないね」

「平気だ。もう聞こえない」

 二人は協力して棺の扉を押し開いた。蓋はばたりと音を立てて野原に落ちる。彼らの予想通りそこには誰もいなかった。秋彦はぼんやり座ったまま野原の向こうを見やる。少年が声を上げたのはその時だ。

「これを見て。万年筆じゃないかな」

 彼は先ほどひっくり返した蓋を持ち上げ、その下にあるものを目線で示していた。見るとそこには寸胴気味な、秋彦からすれば古臭い見た目の万年筆が一本転がっている。秋彦が近づいて蓋を持ってやると、少年がそれを拾った。
 万年筆は軸が黒く、キャップトップとクリップ、リングは金色に塗られていた。細かな傷はあれど大事にされているのか、艶々して綺麗だ。
先ほどの金属を擦るような音はこれだったのではないか。秋彦は万年筆を見つめながらそう考えた。そんな彼とは対照的に、少年はあまり興味がなさそうな様子だ。

「誰かのものかな…」

「ううん」

秋彦は曖昧に返事をする。少年は持っていた万年筆をジャケットの胸ポケットに挟んだ。

「君もわからない?」

彼の茶色い瞳がこちらを見る。秋彦はなにか言おうと口を開いたが、うまく言葉が出てこなかった。かすれた息だけが野原に吹く風に乗り、どこか遠くへ消えていく。
 そんな秋彦に少年は黙って笑いかける。その笑顔はどこか困ったようにも見えた。二人はそれきり何も言わず、また草の上を歩きだす。

塔(二)

塔(二)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-06-11

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