横浜の佐々木老人、超能力者になる

これは「FBI特別捜査官トニーバイクレオ」の補足小説ですが、私の未来に対する願望小説でもあります。
またこの小説はすべてフィクションです。登場人物と同姓同名の方がおられたとしても全く関係ありません。

これは「FBI特別捜査官トニーバイクレオ」の補足小説です。

イオンで買い物をしての帰り、佐々木老人は道を間違えた。いつものように大きなビニール袋をさげ、白い杖をついて歩いていたのだが、つまづかないように足元ばかりを見ていて視野の狭い老人には周りの景色がよく見えず、曲がり角に気づかず通り過ぎたらしかった。

老人は視線を顔の高さほどにして周囲を見回した。前方にはほぼ直線の道が伸びているが、数十メートル先からは両側が田畑になっている。
右に90度ほど視線を変えると民家が立ち並んでいるし、左側にも民家があるがその端には神社らしい石段が見えた。だが四方すべて見覚えのない風景だった。(やれやれここはどこだ、、、仕方がない、あの神社で一休みしょう)そう考えて老人は何度も左側に視線を向けながら神社まで歩いた。

神社前には数段の石段があり、その両側には大きな木の鳥居があったが、鳥居と石段の間に白い布が見えた。老人は不思議に思い近づいて見て思わず声を上げそうになった。

白い制服の女学生が鳥居のもたれるようにして倒れていたのだ。しかもスカートがめくり上がり尻が見えている。一目で状況が分かったがそれでも老人は「どうした、大丈夫か」と一応声をかけた。しかし返事がない。老人は抱き起そうとして一歩近づいてから考え直して警察に電話した。

「警察か、女学生が倒れておる、、、」それから神社前に行って鳥居に書いてある神社の名前を見て言った。

数十分して警察と救急車が来た。女学生が救急車に乗せられて行った後、老人はその場で事情聴取を受け、最後に道を間違えて初めてここに来たことを話して、せめて曲がり角まで送ってくれないかと言うと警察は親切にアパートまで送ってくれた。

パトカーから降りる老人を近所の人たちが物珍しげに見ていたが、視界の狭い老人には見えていなかった。

老人は1階の自分の部屋に入るとすぐに鍵をかけ、ビニール袋をテーブルの上に置いてトイレに入った。

老人は一人暮らしだった。数キロ先のホテル従業員寮に息子が居るが、通勤が遠くなるからと言って一緒に住もうとしなかった。
老人も一人暮らしができる間は一人で暮らしたかったので、強いて一緒に住めとは言わなかった。だが(そろそろ限界かな)と老人は思った。緑内障が悪化して視野が日に日に狭まっているのを自覚していたのだ。

(さっきは本当に曲がり角に気づかなんだ、、、ここに住んで 半年になるが。こんなことは初めてじゃ。やれやれ買い物にも行けんようになったか、、、)

トイレから出ると老人はビニール袋から食料品を取り出して冷蔵庫に入れた。それからスマホの時計を見て「3時か、まだ夕飯には早いなユーチューブ動画でも見るか」と呟き奥の部屋の座椅子に座った。

だが動画を見始めて5分もするとそのまま眠っていた。イオンまで買い物に行くと疲れるのか、いつものパターンだった。

ふと目覚めるとベランダのカーテンに夕陽が透けて見えている。(やれやれ、よく寝たわい、これでは今夜はまた眠れないぞ)と思った時、人の影が夕陽を遮り、老人は驚いてカーテンを開けて見た。

するとベランダには警察官がいて窓ガラスを叩いていた。老人が何事かと思い窓ガラスを開けると警察官が不機嫌そうに大声で言った。
「入口のドアを何度も叩いたのですが聞こえなかったようでしたので、やむなくベランダに入りました。実は病院で気が付いた女学生が、白い杖をついた御老人に襲われたと言い出して、それで、、、誠に申し訳ありませんが警察署まで御同行願えませんか」

「なにワシに襲われた?ワシは指一本触れていないぞ」       「はい、我々もそう考えていますが女学生がそう言って泣き止まないものですから、、、」
「わかった、暇じゃし行ってみるか。あんたの声は隣近所に聞こえておるじゃろうから、逆らえばあらぬ疑いをかけられかねんからのう」
「すみません事情聴取の時、耳も御不便だと伺いましたので」     「なに、その通りじゃからかまわんよ、とにかく行ってみるか」

その後、老人が警察署の取調室に入ると、女学生が老人を一目見るなり「このジジイだ!このジジイにあたいは襲われたんだ」と老人にも聞こえる声で叫び大声で泣き出した。老人は呆気にとられた顔で唖然と立っていたが、やがて静かに言った。

「お前の望みはなんじゃ、金か。すぐにばれる嘘をついてまでしてこんなことをする。金が欲しいのか」   「嘘じゃない、本当にこのジジイに」  「ではその証拠を見せろ。ワシに襲われた証拠を」すると女学生は嘘泣きをやめてそっぽを向いた。

女学生のその不貞腐れた態度にさすがに腹を立てたのか警察官の一人が怒鳴った。「いい加減にしろ警察は暇じゃない。御老人にも迷惑をかけて」

「その通りじゃ、こんなことをすると名誉棄損で訴えられるぞ」   「訴えるなら訴えろ、あたいなんかどうなってもいいんだ」そう叫んでから女学生はデスクに顔をうずめて本当に泣き出した。

「やれやれ世話の焼けるおなごじゃ、、、ワシは疲れた、もう帰るぞ」そう言うと警察官が「お手数を掛けました、鳥羽アパートまでお送りします」と言ってパトカーで送ってくれた。
その後老人は、アパートでいつものように食事してシャワーを浴びて8時にはもう布団に入った。夕方昼寝をしていたから眠れないと思っていたが意外にもすぐに眠っていた。

だが、毎夜のように夜中に用便に起き、その後は眠れず布団の中で物思いにふけった。老人性痴呆症になりかけているのか女学生のことなど全く思い出さず、妻子のことばかり思い出していた。
(妻と娘は元気じゃろうか、、、娘が大学を卒業したら日本のホテルで働いている息子の所で一緒に暮らすと言っておったんじゃに、娘がバンコクで仕事が見つかりここへは来なんだ。
娘は仕事があっても妻にはないのは分かりきっておったのに、結局ここへは来ず、バンコクの娘のアパートで一緒に暮らしておるが、娘の収入だけでは足りず毎月無心してくる。
最初の予定通りここに4人で住んで、娘も働き妻も息子のホテルでアルバイトでもすらば経済的に楽だったじゃろうに、、、ワシが完全に目が見えなくなったらどうするつもりじゃろう、、、
それにしても、今は何とかスマホの画面が見えるから小説を打ったりして暇をつぶせるが、全く見えなくなったらどうやって暇つぶしすればええのやら、、、
耳も聞こえんで聞く楽しみもない。目が見えなくなったらさっさと死んだ方がええんじゃろうか、、、)そう考えているうちに老人はいつしか眠っていた。

数日後の昼、老人がインスタントラーメンを作っていてふとドアを見ると、かすかに動いている。音は聞こえないが誰かが叩いているらしい。
不思議に思いながらドアを開けると女学生がいて老人を押し込むようにして入ってきた。そしてすぐに紙切れを見せた。それには「「今夜ここに泊めて」」と書かれていた。
老人が面喰いながら視線を顔に移してよく見るとどこかで見たような顔だが思い出せない。「あんた誰」と老人が言うと女学生は目を丸くして紙切に「「覚えていないの、神社で、それから警察署で会った」」と書いた。「、、、神社、警察署、、、、覚えていない」
女学生がまた書こうとしてラーメンが吹きこぼれているのに気づいて、すぐにガスコンロの所に行って火を消した。
それからまた紙切れに「「お腹が空いて死にそうなの、これ食べさせて」」と書いて見せ、返事も聞かないですぐに丼に入れて食べ始めた。
その食べっぷりを見て老人は女学生が餓えていたことを知り「それで足りんじゃったら冷蔵庫の中の物なんでも食べてええ」と言ってからまたラーメンを作り始めた。
女学生はラーメンを食べ終わるとすぐに冷蔵庫を開け、蒲鉾やソーセージなどを取り出して食べた。老人はテーブルの向かい側に座ってラーメンを食べ始めた。女学生は食べながらまた書いて見せた。
「「私、家出して神社の床下で暮らしていたの。でもお金がなくなって、、、
通りかかったおじいさんに襲われたことにして金をだまし取ろうとしたの。でもおじいさんが私に触れなかったから失敗した、、、おじいさんは何故私に触れなかったの」」
「なんのことを言っているのかワシには分からんが腹がいっぱいになったら出」そこで女学生はまた「「今夜ここに泊めて」」と書いてある所を見せてさらに書き加えた。
「「お願い、ここに泊めて、神社の床下は寒くて死にそうなの、それに野良犬がきて怖いの。お願い泊めて、私なんでもするから。おじいさん目も耳も悪いんでしょう。私が買い物でも洗濯でもするからここに泊めて」」
「、、、じゃが布団が一つしかないぞ」
「「かまわないわ、おじいさんと一緒に寝るから」」
「一緒に寝るたって、、、まあワシはもう性欲はないが、、、」
女学生は両手を合わせ必死なまなざしで老人を見た。

老人はそのまなざしに戸惑っていたが、やがて立ち上がり奥の部屋から薄い上着と5千円を持ってきて手渡しながら言った。
「服やタオルを買ってきなさい。帰ってきたら今着ている物を洗濯しなさい」
女学生は老人に抱き着こうとしてやめ、何度も頭を下げてから上着を着て金を持って出ていった。

その後老人はベランダに布団を干し、越してきて初めて奥の部屋の掃除をした。汚さなければ掃除しなくてよいという考えだったのだ。さすがに半年以上掃除しなかった部屋の隅は埃だらけだった。
掃除を終え一休みしていたら女学生が帰ってきた。

女学生はレシートと残金をテーブルの上に置いて服を脱ぎ始めた。老人は「それを洗濯機に入れたらシャワーを浴びなさい」と言うと奥の部屋に入りスマホを見始めた。

数十分後、シャワーが終わったのか女学生が裸で老人に抱きついてきた。手には「「私、お礼がしたいの」」と書いた紙を持っている。老人は笑って言った。「ワシはもう性欲がない。早く服を着て、洗濯が終わったら洗濯物をベランダに干しなさい」
女学生は老人の頬にキスしてから立って行った。
夕食後、老人は女学生の名前や両親のことを聞いた。すると女学生ナオミは少し考えた後、辛そうな顔で書き始めた。

「「高校2年の時母が再婚したが義父となじめず、義父の味方ばかりする母も嫌いになり次第にグレていった。
去年の夏、京都で友達と面白半分に電車内で痴漢冤罪事件をおこし警察に捕まり、高校を退学になった。
それで義父に二度と帰ってくるなと言われ、アパートを追い出され仕方なく友達のアパートに滞在していると友達の彼氏にレイプされ、その上彼氏が私に誘惑されたと言い大喧嘩して友達のアパートも追い出された。
その後、京都の裏通りで立ちんぼしていたが、ブスのせいか客がなく金もなくなり、どうしてよいか分からず、幼いころ住んでいたあの神社の近くのアパートに帰ってきた。でも当然借りて住むこともできず、神社の床下で暮らしはじめた。
昼間はイオンの近くで物乞いをし、夜には学生服を着て立ちんぼしたけど全く稼げなかった。
疲れ果てて神社に帰ってきて学生服のまま寝ていると野良犬に普段着などの荷物を奪われ、着の身着のままの暮らしになった。
昼間学生服で歩くと目立つので困っていると、おじいさんが通りかかったので痴漢されたと騒いで金を奪い取ろうと考えた。
でもおじいさんが私に触れもしないで警察に電話したから失敗した。
まあ病院で点滴してもらい元気になったから良かったけど、元気になると警察署に連れて行かれ、過去のことまで調べられた。
やけになり、おじいさんに襲われたと嘘をついたら警察官がおじいさんを連れてきてどうすることもできず泣くしかなかった。
その夜は警察署に泊めてもらったが、翌朝追い出された。仕方なくまた数日物乞いや立ちんぼしていたけどふと警察官がおじいさんのアパートが鳥羽アパートと言ったのを思い出したので、駅前の地図を見てここの来たの。
でもドアをいくら叩いても開けてもらえないで、、、おじいさんドアの音も聞こえないの」」
「ああ聞こえない。昼はたまたま見たらドアが動いていたのでなんじゃろうと思い開けてみたらお前がおったんじゃ」
「「でもドアの音が聞こえないと誰か来てもわからないじゃない」」
「ははは、ワシの所に来る奴などおらんからどうでもええ」
「「、、、おじいさん、本当にここに泊めてね。できるだけ早く仕事を探して出ていくから、それまででも」」
「わかった、じゃがワシは貧乏な年金暮らしじゃから贅沢はできんぞ。それはそうとお前いま何歳じゃ」
「「19歳」」   「高校はどうする」   「「もう行かない勉強嫌いだし」」
「じゃが高校中退じゃと良い仕事に就けんぞ」   「「仕方ない、住所不定だし」」
「住所はここにすれば良いが、、、お前いま住所はどこになっている」
「「多分まだ親の所に」」   「なら、明日にでもそこの役所に行って転出届けをして、それから鳥羽市役所で転入手続きをすれば良い。ここの住民票があれば仕事に就けるじゃろう」   「「え、本当に、、、ありがとう、おじいさん」」

その夜から二人は小さな布団で一緒に寝るようになった。なんのためらいもなく抱きついて寝るナオミの横顔を見て老人は、男性機能を失った自分の悲運を呪った。(せめて10年前だったら、、、74歳では、、、)
しかしナオミの身体は温かかった。55歳もの年齢差のせいかナオミの体温はまるで湯たんぽのように温かくて、いつまでも触れていたくなった。老人は邪念を捨て、そんなナオミと一緒に寝れるだけでも幸せなことだと思うように努めてた。

翌朝、老人はいつものように6時に起きて湯を沸かし、インスタントみそ汁や納豆などで朝食を済ませると、テーブルの上を片付け、スマホで小説の続きを打ち始めた。内容は自分自身の老いる苦しみを盛り込んだ自伝的なもので、ボケ防止を兼ねていた。
(いつもは座椅子に座って打つのじゃがナオミが寝ているからここで打つ方がよい。ナオミは若いし疲れているじゃろうから気が済むまで寝かせてやろう。さてさて続きは、、、)
耳が聞こえないし視界が狭いが、考え事をするには好都合だった老人は小説のストーリーを考えるのに没頭していた。
考えては打ち、また考えるを繰り返していると不意にメモ用紙が眼前に現れて老人は酷く驚いた。慌てて左右に視線をやるとナオミが必死で笑いをこらえている顔で見ていた。「お、ナオミか、起きたか、、、よく眠れたか」ナオミは頷いてからメモ用紙を指差した。そこには「「なにを打ってるの」」と書かれていた。
「ああこれか、ボケ防止用の小説じゃよ。暇つぶしも兼ねておる」   「「へー、小説を打っているんだ、すごい」」   「いや、愚作じゃよ。それより朝ごはんを食べな。冷蔵庫の中にインスタントみそ汁や納豆があるから自分で適当に作って食べな。ワシは奥で打つ」老人はそう言って奥の座椅子に座った。
30分ほどしてナオミが横に来て、すまなさそうな顔でメモ用紙を見せた。それには「「京都の役所に転出手続きに行きたい」」と書かれていた。
老人は笑顔で言った。「おお、そうじゃった、、、行ってこい」そう言って財布から1万円を取り出して手渡してから「帰りにイオンで米を5キロ、重ければ3キロでよいから買ってきてくれ」と付け加えた。
ナオミは嬉しそうに頷いて出ていった。
その後ろ姿を見送りながら老人は(、、、まるで新妻と暮らしているみたいじゃ、、、いつまで続くかのう。金ももうないし、、、最後の15000円を二日で使った。次の年金支給日までまだ半月もあると言うのに、、、)と考え顔を曇らせた。だが、小説を打ち始めると生活苦は忘れていた。

ナオミは夕方ビニールを重そうに提げて帰ってきた。米5キロと食材がいっぱい入っていた。それらをテーブルの上に置くと、嬉しそうに住民票を見せ老人に抱きついて頬にキスした。住民票が作れたことが本当に嬉しかったようがった。
ナオミはウキウキした仕草でメモ用紙に「「おじいさんは休んでて、私が夕食を作るから」」と書いた。「お前も疲れたじゃろう、少し休んでからにしなさい」と老人が言うとナオミは「「ありがとう、おじいさん。おじいさん優しいんだね。私、おじいさんの娘だったら良かった」」と書いて見せてから抱きつき、老人の胸に顔を押し当てて泣いた。老人はナオミが愛おしくてたまらなくなり両手で身体を抱きしめた。

ナオミは翌朝から老人のスマホで仕事探しをはじめた。高校中退では良い仕事はなかったが幸いにも隣の県で学歴性別不問軽作業期間工の募集があった。
「軽作業とは言っても単純繰り返し作業で、部分的筋肉痛になるから大変じゃぞ」と老人が言ったがナオミは「「とにかく面接に行ってみる」」と書いて見せ、数日後の面接日を決めた。
老人は(面接に上下ジャージではいかんじゃろう)と考え、ナオミがシャワーを浴びている間に息子にメールして金を借りた。
そして翌日二人でゆうちょ銀行とイオンに行ってナオミの面接用の服とスカートと靴を買った。ナオミの喜びようは言うまでもない。部屋に帰るとすぐに抱きつき放そうとしなかった。

面接は呆気なく、その場で入社日と女子寮入りが決まった。老人は入社日に寮まで送って行った。ナオミは休日には老人のアパートに行くからと、老人の手を握り何度もメモ用紙に書いて見せた。

その後、老人はアパートに帰ると椅子に座りため息をついた。それはナオミの為にできるだけのことをしてやったと言う達成感と、また一人暮らしが始まったと言う寂しさが入り混じっていた。だが、時間が経つにつれてナオミがいない寂しさに押しつぶされた。
(結局また一人暮らしじゃ、、、会うが別れのはじまりと言うが、こんなに寂しい思いをするんなら最初から会わん方がええんじゃ、、、こんなジジイにわずかな時間だけ、はかない夢を見させおって。こんなジジイに、こんな寂しい思いをさせおって、、、
そればかりかナオミと一緒に寝てもナニすらできん身体で、、、ワシの運命は何故こんなに嫌味なんじゃ、、、ワシをどれほど苦しめたら気が済むんじゃ、糞たれめが、、、
そうじゃ、今夜は酒を飲もう、、、酔いつぶれてしまうまで飲むんじゃ、、、金、酒を買う金、、、)老人はわずかな金を持って近くの自動販売機へ酒を買いに行った。

1週間ほど経ち老人がやっと、ナオミがいない暮らしに慣れたころナオミが来た。休日には行くと言ってたが、まさかこんなに早く来るとは思っていなかった老人は、仕事がきつくて逃げてきたのかと思って聞いた。
「ナオミ、仕事はどうした。耐えられないなら他を探せばええぞ」するとナオミは微笑みながら封筒を手渡しメモ用紙を見せた。
それには「「入社祝い金をいただいたから、一番におじいさんにあげたくて来たの。私、知ってるんだ。私の服や靴を買うためにおじいさんが借金したの。だからこのお金で借金を返してね」」と書いてあった。
老人が驚いて封筒の中を見ると10万円が入っていた。「わ、ワシはこんなに要らん、半分でええ。それに、お前が給料日までの生活費が要るじゃろうが、ワシは半分でええ」   「「心配しないでおじいさん。祝い金はこれの3倍あったの。だから残りのお金で私の生活費は十分だから。
それと私スマホを買うから、買ったらメールするね。おじいさん、スマホは見えるんでしょ。私のことは心配しないで。仕事もあまりきつくないから、ずっと続けられるからね」」

ナオミは老人がいくら言っても半分を受け取らなかった。「「私、おじいさんのためになりたいの。だって私に優しくしてくれたの、おじいさんだけだもの。おじいさん本当にありがとう。
本当は私の身体でいっぱい楽しませてあげたいけど、できないでしょう。だからお金だけでも受け取ってね」」とメモ用紙に書いて見せ抱きついた。
「わ、ワシはお前とで会って世界一の幸せ者じゃ、、、ワシの方こそ礼を言いたいくらいじゃ」老人はそう言ってナオミを抱きしめた。

ナオミは夕方帰って行った。老人はまた酒を買ってきて飲み始めた。
(、、、この身体が恨めしい、、、年老いたこの身体が、、、
こんな年になってナオミと出会うとは、ワシの運命はなんと嫌味なんじゃ。なんと残酷なんじゃ、、、世界一の幸せ者じゃ、と、、、ふん、おなごがおってもナニもできんでなにが幸せ者じゃ、糞たれめが、、、
年を取るとは辛いもんじゃ、寂しいもんじゃ、、、ワシは今それがわかった、、、ワシは長生きなんぞしとうない。今すぐにでも死んでしまいたい。じゃが、来年からは障害者の金がもらえる。年金よりも多い金が入る、、、その金で今よりもぜいたくな暮らしをするんじゃ。もっとうまいものを食って、、、暑い時でもケチらずクーラーを使って、寒い時は暖房をいっぱい利かせて。今よりも良い暮らしをするんじゃ、、、
じゃが、、、そんな暮らしをして、はたして嬉しいじゃろうか、、、ジジイが一人で暮らして、、、
その上ワシはもうすぐ目くらになる。買い物も一人で行けんようになる。飯も自分で作れんようになる。なにをするにも誰かに助けてもらわんといけんようになる。そうなってまで生きていたいんか、、、
年金は自分の金を支払ってきたから、もらう権利がある。じゃが、障害者の金は国民の税金じゃ、、、そんな税金を使ってまでして長生きしたいんか、、、よう考えたら年金じゃてそうじゃ。いま支払っている者らにとっては、もらわん方がええんじゃ。
ジジイが、一人でも多くのジジイがさっさとくたばった方がええんじゃ。いま年金を支払っている者らはみんな陰では「お前ら糞ジジイのせいで、俺たちが高い年金を支払わされている。ジジイは早くくたばりやがれ」と思っているんじゃ。それが現実なんじゃ。年金を支払っている者らから白い目で見られてまでして長生きしたいんか、、、
じゃが、よう考えたらワシはまだ良い方じゃ。年金だけで一人で暮らせとるからの。
国民の中には生活保護をもらっていたジジイやババアが病気になったり怪我をして介護してもらわないけんようになっても長生きしておる者もおるじゃろう。
生活保護費、病院代金、介護費用、これら全て国民の税金じゃ。その税金で生き延びておるジジイババアがおる、、、ワシはそいつらの仲間には入りとうない、、、そうじゃ、目が見えんようになったら死のう。それまでは小説でも打って気を紛らわせて、なんとか生きていよう)その結論に達した老人はワンカップの酒を一気に飲み干した。

数日後ナオミから初めてのメールがきた。「「自分はなんの問題もなく暮らしているわ。仕事も一日も休まず働いているから心配しないで。それよりおじいさんのことが心配です。買い物の行き帰りは大丈夫ですか。食事はちゃんと食べていますか」」と老人が涙ぐむようなことが書いてある。
老人は少し考えてから「「ワシの方も問題なく暮らしておるから心配しないでくれ。ワシのことよりも、お前が病気にならんように怪我をせんように、三食しっかり食べて元気に暮らせ」」と返信した。

その後、老人は座椅子に座ったままぼんやりと考えた。(ワシにはナオミがおる、、、実の娘よりも愛おしいおなごがおる。それだけでもワシは、その辺のジジイよりも幸せなはずじゃ、、、あんまり考え込まんと気楽に過ごそう。そうじゃ、目が見えるうちに小説を打っておこう)老人はスマホを見つめて文字を打ち始めた。 

数日後またナオミからメールがきた。「「おじいさん、お元気ですか。問題はないですか。私の方は問題ないですが、働きはじめてから1週間がとても長く感じられます。休日が待ち遠しいです。
近くだったら毎週でも、ううん、毎日でもおじいさんのところに行きたいです。でも、電車の乗り継ぎで3時間くらいかかるのであまり行けません。でも、おじいさんのことをいつも思っています」」
老人はぐすっと鼻水を吸い上げると潤む瞳でスマホを睨み文字を打ち始めた。「「ワシの方も問題ない。飯もちゃんと食べておる。それよりお前が1週間が長く感じられるのは仕方ないことじゃ。働いておるんじゃからの。
特にお前の仕事は単調じゃからなおさら長く感じられるんじゃ。じゃが、耐えるしかないんじゃ。働いて金をもらっておるんじゃから。
じゃが心配要らん。若いからすぐに身体が慣れるし、慣れたら苦にならんようになる。もう少しの辛抱じゃ。そしてナオミ一人が苦しいんじゃない。他の人もみな同じじゃから頑張れ。
それと仕事の後、筋肉痛にならんように体操して身体をほぐしておくと良い。とにかく身体が資本じゃからの。お前も疲れておるじゃろうからワシのところへは無理して来なくて良いぞ。来るのは連休の時だけでええ」」
すぐに返信がきた。「「うん、わかった、おじいさん、ありがとう」」

ナオミからの返信を読み終えると老人は、スマホを布団の上に置き目頭を押さえた。(糞、、、老いると涙もろくなると言うが、、、おなごからのメールで涙が出るとは、不覚、これでは昭和生まれ日本男児の沽券にかかわる、、、
じゃがナオミの奴、、、愛おしいのう、、、奴の肌の温もりが忘れられんわい、、、やれやれ酒でも飲むか)老人はその夜も酔いつぶれて眠った。

季節は晩秋になりかけていた。老人はスーパーに行くごとに好きな柿を買ってきて食べた。(やはり日本の柿はうまいのう。チェンマイで売っているのとは比べようもないわい)
その後、老人は30年以上も住んでいたチェンマイを思い出していた。(ここに越してきて半年じゃが、やけに今日はチェンマイが懐かしく思える、、、自分で建てたあのボロ家はどうなったじゃろう。誰か住んでおるんじゃろうか、、、
妻と娘はバンコクのアパート住まい。家賃も高いじゃろうに、娘の稼ぎがけでは大変じゃろう。早くここに来て一緒に暮らせばよいものを、、、
そう言えば息子ももう何か月も来ておらんが、どうしているじゃろう。この間、ナオミからもらった金で借金を返したがなんの連絡もない。彼女でもできて浮かれておるんじゃろうか。それならそれで喜ばしいことじゃが、、、
まさか病気にでもなっておるんじゃないじゃろうか。久しぶりに電話してみるか)
老人が電話すると息子は「いま仕事中だ、、、大丈夫だよ、元気だよ、今度電話するから」とすぐに切られた。
(やれやれ、素っ気ないもんじゃ、、、まあ若いころはあんなもんじゃろう。自分のことで精いっぱい、親の事まで気がまわらんのじゃろう。ワシも若いころはそうじゃった、、、じゃが、寂しいもんじゃのう、、、糞、酒でも飲むか、、、そうじゃ酒粕を沸かして飲もう)
老人は好物の酒粕を沸かし、砂糖を入れ最後に日本酒を入れて飲んだ。(こうやって飲むとあったまるし、すぐに酔いがまわって良く眠れるんじゃ)老人はその夜も酔いつぶれて眠った。

酒の好きな老人の一人暮らしなら、こんなものだろう。そしてその結果アル中で病気になったとかよくあることで。その上、経済的に病院にも行けず、市販の薬を買って飲むのが関の山だった。
老人も翌日胃が痛んでも単なる二日酔いじゃと思い気にもしなかった。それより緑内障が酷くなったようで視野がさらに狭くなったのを感じていた。1メートルほど離れたナオミの顔を見ると、胸より下はぼやけてよく見えなかった。
(せめてナオミの裸をよく見たかったが、全体を見ることができんじゃった。顔を近づけて部分的に見るのはできたがのう、、、小さいが形の良い胸じゃった、、、今度いつ見れるじゃろうか、、、それにしても男はいくら歳をとっても助べえなんじゃのう。股間はとっくに萎え果てておるというのに、、、)

そのナオミからメールがきた。「「おじいさん元気ですか。私は元気で働いています。この間、読書好きの知人と話していた時、うっかりおじいさんが小説を書いていることを話したら興味を持ったようで是非読んでみたいと言われました。
私の不注意でおじいさんのことを言ってしっまい、すみません。ご不快でしたら知人に断りますが、そうでなければ小説を読ませてあげたいのですがどうしましょう」」
老人はすぐに返信した。「「ははは、心配要らん。ワシの小説はネット公開していて誰でも無料で最後まで読める。あんな愚作でよいなら誰にでも読ませてくれ。星空文庫 佐々木良で検索すればワシの小説が出てくるから新しいのから読むと良い」」   「「わかった、ありがとう、おじいさん」」
メールが終わると老人は、ネット公開している小説を思い出した。ボケて数時間前のことさえ忘れているのに、自分が書いた小説の内容は覚えていた。
(ふん、どれもこれも愚作じゃのう、、、特に最初のころのは酷いもんじゃ。書いておる時は主人公に感情移入して夢中になり自己満足しておるから気づかなんだが、書き終えてしばらくして読み返すと愚作ぶりに気づいてげんなりするわい。ワシはこの程度のものしか書けんのかと打ちのめされ、もう小説なんぞ二度と書くかと思うが、一か月もするとまた書きたくなる。多分暇でつまらんで、暇つぶしに書き始めるといつの間にか夢中になってしまう、の繰り返しなんじゃろう。
まあ間違いなく暇つぶしにはなるが、それもせいぜいあと数年じゃろうかのう。目が見えんようになったら小説も書けんようになるわい、、、そうなったらなんの楽しみものうなってしまう。暇つぶしするものがのうなってしまう、、、
目が見えんようになったら、、、ワシはなにを楽しみに生きてゆけば良いのじゃろう、、、あの愚作「FBI特別捜査官―」の横浜の老人のようにワシもテレパシーでもできるようになったら、、、あの小説内の老人はワンの願望小説じゃったが、ワシは今本当にテレパシーを身につけられないかと思うようになった、、、
そうじゃ、今度ナオミが来たらナオミの手を握ってテレパシーの練習をしてみよう。ナオミに頭の中で数字を思い浮かべてもらい、それをワシが感じ取れるようになれるか、、、そうじゃ、目が見えんようになるまでにそれができるようになれば、、、)

月末給料日後の最初の週末にナオミが、いろんな食材も持って来た。一晩泊まって日曜日の夕方帰るつもりらしい。老人は一夜でも一緒に眠れるのを喜んだ。そして寝入るまで手を振り、ナオミの思い浮かべた数字を言い当てる練習をした。しかし全く当たらなかった。
ナオミが寝入ると老人は渋々手を放して上向きになり、ぼんやりと天井を見つめて考えた。(うーむ、さっぱり分からん。数字が全く思い浮かばんわい、、、さてさてどうしたものかのう。昼間ナオミに突き合わせるのも悪いじゃろうし、、、そうじゃ、ネットでテレパシーについて調べてみるか)
老人は翌朝朝食後ネットで調べてみた。だが、信用できそうな情報はなかった。
(やれやれ、良い情報がない、、、待てよ昔の剣豪か数メートル離れた敵の殺気を感じ取れたらしいが、それは剣の修業をして自然に身についたのじゃろうか?。とは言うてもワシが今さら剣の修行なんぞできるわけがない。うーむ、どうしたら良いんじゃろう。大学かどこかにテレパシー研究サークルでもないじゃろうかのう、、、)
そう考えいるとナオミが起きてきた。「おお、ナオミ起きたか。ワシはもう朝ご飯は終わったから、ナオミも自分で適当に作って食べな」老人はそう言って奥の部屋の座椅子に行った。
数十分後、食事を終えたナオミが横に来てメモ用紙を見せた。それには「「おじいさんの小説を読んだ知人が、3万年前の台湾に転生した小説が面白かったって言ってた。でも次のは、いきなり少女のレイプがあって驚いたって。それで、あんな事が本当にあるのかって言ってた。あれっておじいさんの創作なの」」と書いてあった。
「ああ、あれか、いや創作なんぞじゃない。あんな事は金持ちの狂人が金に物を言わせてやっていることじゃ。
この間の動画でもドバイかどこかで日本人売春婦が金持ちに買われ、複数の男に数十か所を骨折させられながら犯され続け、瀕死の状態で発見されたとか。発見が遅れたら死んでいたそうじゃから、奴らなら平気でレイプ殺人を繰り返しているのは間違いないじゃろう。ましてや金持ちの小児性愛者なら虐待レイプ殺人など恐らく至る所でやっているはずじゃ。ニュースにならんだけでな。
一時期エプスタイン島の幼児売春が騒がれたが、あんなのは恐らく氷山の一角じゃろう。世界の至る所で今この瞬間にも起きているじゃろうて。
日本でもプチエンジェルなど騒がれたが急にニュースがなくなった。金持ちなら金の力で事件を揉み消すなんぞわけないじゃろうからの。お前も金持ちには気を付けてな」
ナオミの顔がこわばり「そんな、、、」と呟いたが老人には聞こえなかった。老人はナオミの顔を見て言った。「そうじゃ、あの小説ナオミも読んでみたらええ。ニュースにならないことでも世界では様々な残酷なことが起きていることを知っておくのは良い事じゃからの。
今は世界と言ったが、日本でも戦後は鬼畜米英人に日本のおなごが犯され続けた。当時の日本政府が見かねて売春宿を作り、一般のおなごは犯さんでくれと懇願したが、その後も悲劇は続いたようじゃ。
それで一番苦しんだのが日本のクリスチャンのおなごじゃった。当時のクリスチャンは妊娠中絶が禁止されておったから、レイプされて生まれた子供を自分で育てるか殺すか施設に入れるしかなかったんじゃ。
ワシが映画で見たのは、生まれた子供が黒人で、仕方なくアメリカの施設に入れたんじゃが、その子が大人になり恋しい母親を探して会いに日本まで来た。じゃが、母親はその黒人の胸をナイフで刺した。その黒人は「そんなに僕が憎いの」と言って自分でさらに深く刺して死んだ、、、
戦後の日本にはこんな悲劇がいっぱいあったんじゃよ。じゃが、そのような事実を語り継ぐことさえ連合国によって日本は禁止されておったから知らない日本人の方が多いんじゃがの。そんな日本の歴史も知った方がええんじゃ、若いうちにのう。
日本を含め世界では今だに人身売買がある。特に東南アジアでよくニュースになっておるが、、日本でもあるのじゃ。金持ちや権力者によってニュースにならんようにもみ消されているようじゃの。
あの小説にはそんな日本やアメリカのレイプ殺人なども載せてあるから、、、そうかお前もレイプされたんじゃったの。悪い話をしてしもうた、許してくれ」
「「ううん、私は大丈夫。でも日本で今もそんなことが」」   「とにかくあの小説を読んでみてくれ。そうすれば日本や世界の現状が解るじゃろう」
結局その日は、ナオミが夕方帰るまで小説の話をしてテレパシーの練習はできなかった。
老人はナオミが帰った後の寂しさを薄めるためにまた酒を飲み始めた。そしていつものように酔いつぶれて寝てしまった。

クリスマスが近づいた朝、ひょっこり息子が来た。例年通りの年末前の連休だから京都へ旅行に行くから、駅に行く途中で寄ってみたと言うことだった。
「そうか分かった。ワシの方はなんの心配も要らんじゃから、楽しんできな。土産は何も要らんぞ」老人はそう言って息子を送り出した。
数日後、老人が買い物から帰ってくるとテーブルの上に京都土産の八つ橋が置いてあった。「、、、土産は要らんぞと言うたじゃにこんなもんを買ってきおって。しかもワシの嫌いな抹茶入りのやつ、、、それにしてもあいつはどうやって入ってきた、そうじゃ、合い鍵を持っていたんじゃった。ドアを叩いても聞こえんじゃから合い鍵を持っとくとか言っておった、、、
それにしてもこの土産、、、そうじゃ、正月にナオミが来たらやろう」老人はそう呟いてから八つ橋を戸棚の中に入れた。

そのナオミは暮れの30日の夜に来た。事前にメールで時間を知らせてきたのでドアのカギを開けていたら、重そうなスーパーのビニール袋を三つも提げて入ってきた。
老人が「そんなにいっぱい買ってこんでもええじゃに、重かったじゃろうが」と言うとナオミは微笑んで「「大丈夫よ、おじいさん。私、おじいさんと正月を祝いたかったからおせち料理も買ってきたの」」とメモ用紙に書いてからおせち料理を見せ冷蔵庫に入れた。
その夜はナオミがすき焼きを作りくれた。「すき焼きを食うのは何十年ぶりじゃろう。ナオミのおかげで良い年を迎えられそうじゃ、ありがとう。じゃが、実家には行かんでもええんか」
するとナオミは一瞬暗い顔をしたがすぐに笑顔でメモ用紙に書いた。「「私の身内はおじいさんだけだもの。里帰りもおじいさんの所だけよ。正月の間おじいさんから離れないからね」」とナオミは書いて見せてから老人に抱き着いた。老人は嬉しくて溢れ出そうな涙をこらえてナオミの髪を撫でた。

元旦は二人であの神社に初詣に行った。無人だったが、きれいに掃除されていたし、真新しいしめ縄も飾られていた。参拝した後でナオミは、ホームレスだったころ寝泊まりしていた床下を老人に見せた後、本殿に昇る階段に老人と並んで腰掛け、涙ぐんで老人を見てから抱きつきすぐにメモ用紙に書いて見せた。
「「おじいさんに出会えて本当に良かった、、、きっとこの神様のおかげね。私、一生おじいさんのことを忘れないからね。仕事中もいつもおじいさんのことを思っているからね」」   「そうか、、、ワシは世界一の幸せ者じゃな、、、じゃが、お前もいずれ結婚せないかんじゃろう。良い男を見つけるんじゃぞ。お前を本当に大事にしてくれる男を」
その時ナオミが素早く書いて見せた。「「私は結婚しない。私の顔じゃ男は誰も相手にしてくれないもの」」   「そんなことはないじゃろう。お前の顔は美人ではないかもしれんが人並みじゃし、笑った顔は愛嬌があって可愛いぞ」
「「ありがとう、おじいさん。でも私、知っているんだ。男たちがみな私をブスだって言っているのを。それに私をレイプした奴が言ったんだ、お前のようなブスを誰が犯すか。お前が脚を開いて見せたから俺は穴の誘惑に負けて寝たんだ、つて。あいつが無理やり私の脚を開かせたのに、、、
それから私は男に顔を見られるのが怖くなったの。立ちんぼしてた時も、今の仕事中も買い物に行く時も、いつも大きなマスクをして、、、
でも、おじいさんと一緒の時だけはマスクが要らない、、、おじいさんは私のただ一人の身内だから怖くない、、、おじいさん、ずっとずっと私と一緒にいてね」」そう言ってナオミは老人にしがみついた。
老人はそんなナオミを愛おしげに抱きしめながら思った。(かわいそうに、レイプされた後で馬鹿にされたのがそうとうトラウマになっとるようじゃ、、、何とかしてやらんといけんのう、、、そうじゃ)
「お前は国際結婚をどう思う」   「「え、国際結婚」」   「そうじゃ、ワシは47歳で今の妻と結婚したんじゃが、なんとか人並みに妻子を養ってこれた。お前も日本人の男がダメでも外国人の男なら良いかもしれんぞ。日本人の男に限定する必要はないんじゃ。世界には星の数ほど男がおるんじゃ。探せば必ず良い男が見つかるはずじゃ。
そういえば今思い出したが、アフリカのマサイ族の酋長と結婚した日本のおなごもいて、幸せに暮らしておるのを動画で見たぞ。おなごの人生は幸せになることじゃ。男の国籍にこだわる必要はないぞ。金を貯めて海外旅行をすれば良い。必ず良い男が見つかるはずじゃ」   「「国際結婚、、、おじいさんは国際結婚してたの。知らなければ。どこの国の人」」   「そういえばまだ話しておらんかったのう。ワシはタイ人、とは言うても山岳少数民族リス族のおなごじゃったが、村の民家に泊めてもらったのが縁で知り合って1ヶ月ほどで結婚した」   「「え、1ヶ月、そんな短期間で、、、」」   「そうじゃ。この部族の婚姻方法も関係あるが、当時のワシは、嫁など誰でもええ、貧しい村娘の一人くらいは幸せにしてやれるじゃろう。すくなくとも村での暮らしよりかは幸せな暮らしをさせてやれるじゃろうと考えて、泊めてもらった家の、当時25歳で村では売れ残りのおなごと結婚したんじゃよ。
じゃが、そんな考えで結婚したことをそうとう後悔したんじゃ。というのも妻は小学校もまともに行っとらんで母国語のタイ語も読み書きできんじゃった。当然役所での結婚手続きなど何も知らんじゃったから、ワシが日タイ辞書を調べてやっと手続きしたんじゃよ。
それとな、ワシは、純朴な村娘じゃろうからワシの言うことを良く聞く素直なおなごじゃろうと勘違いしとったんじゃ。じゃが、実際は両親の言うことばかり聞いてワシの言うことなんぞ何も聞かなんだ。本当に強情でしょっちゅう喧嘩して、何度家出したことか」   「「え、おじいさんが家出したんですか」」   「そうじゃ。金はワシが出したが、家も土地も妻名義じゃったからワシが追い出されたんじゃよ。タイでは外国人は土地を買えんのじゃ。じゃから仕方なしに妻の名義で土地を買い、自分で家を建てたんじゃ」   「「え、自分で家を建てたんですか」」   「そうじゃ、妻の実家の村人を雇って平屋80へーべーの家を建てたんじゃ。ボロ家じゃが娘が大学を卒業するまで24年住んどった。
それからワシの目の治療と、4人で一緒に住む予定で、息子の名義であのアパートを借りたんじゃが、娘がバンコクに就職して妻も娘と一緒に住んで、あのアパートに来なかったんじゃ。おまけに息子も、アパートからでは通勤が遠いからと言うて一緒に住まんのじゃ。
今はまだ一人で買い物もできるから良いが、目が全く見えんようになったらどうするつもりじゃろう。ワシの身内も薄情なもんじゃ」   「「大丈夫よ、その時は私がおじいさんの杖の代わりになるから」」   「ははは、嬉しいのう。じゃが、さっきも言うたように、お前も結婚せないけんじゃろうからの。それより寒くなった。そろそろ帰ろうや」そう言って老人は立ち上がった。ナオミも後に続いた。

アパートに帰ると暖房をつけ、老人は座椅子に、ナオミもその横に座って話しの続きをした。「世界にはいろんな人がおる。探せばお前を大事にしてくれる男もきっとおるはずじゃ。金を貯めて海外旅行をするがええ。じゃが、日本におる外国人は相手にせん方がええぞ。日本におって近づいてくる外国人は不法滞在者が多いし、在留許可証欲しさに日本人と結婚したがる奴がおるからの。
そんな奴は、結婚するまでは至れり尽くせりして相手をおだて上げるが、結婚して在留許可証が手に入ると途端に豹変して冷たくなるんじゃ。夫婦の愛情なんぞ欠片もありはせん。特にイスラム教徒や中国人や韓国人には気をつけてな。
それとワシは、知り合って1ヶ月で結婚して失敗したが、お前はじっくり相手を見て、なによ自分を大事にしてくれる男を探せばええぞ」   「「ありがとう、おじいさん。おじいさんの話を聞いていると勇気が出てくるわ、、、こんな元旦は初めて。今年はきっと良い年になるわ」」ナオミはそう書いて見せてから老人に抱き着いた。

老人にとって、そしてナオミにとっても恐らく夢のような正月休みが終わってナオミは仕事場に帰って行った。
老人にとってはまた寂しい日々が始まった。酒でも飲まんと耐えられないほどの寂しさ、、、老人は連日酒を飲んだ。朝起きると胃が痛んだが市販の胃薬を飲んでしのいだ。
一瞬胃癌じゃろうかと不安になったが(ふん、胃癌じゃってもええわい。ワシは長生きなんぞしとうないんじゃ。長生きしてなんの嬉しいことがあるんじゃ。年寄りはさっさと死んだ方が若者の為にもなるんじゃ、、、年寄りの一人暮らし、、、寂しいもんじゃ。辛いもんじゃ。つまらんもんじゃ。生きていて何になる。ただ毎日飯食って、食い物を消費して、電機や水道水を消費して、、、年寄りが世の中の為になっておるんか。なんも役に立っとらんわい。
昔は年寄りの経験が役に立った。雲を見て、風が強くなるから漁に出るなと言って漁民を守ったり、山の残雪の形を見て種蒔きの時期を知らせて豊作に導いたりした。
じゃが、今の年寄りの経験なんぞなんの役にも立たん。年寄りの言うことよりもネットで調べた方が早いし正確じゃから、、、年寄りはなんの役にも立たんようになった、、、ただ目障りなだけの年寄りは早くおらんようになった方がええんじゃ、、、
じゃが、こんなワシでもナオミは会いに来てくれる。一緒に寝てくれる、、、ワシは本当に世界一の幸せ者かもしれん、、、じゃが、ナオミが帰った後は寂しいのう。まるで心の中のろうそくの火が消えたようじゃ、、、寂しいのう、、、酒を飲むしか術がないのう、、、)老人はまた酔いつぶれて眠った。

1月下旬、息子がおなごを連れて来た。恒例の年末年始の代休の5連休に有給休暇や日曜日を入れて8連休にして、これからタイに行くと言う。
彼女は松下さゆりとか言った。目の大きな可愛い娘じゃった。老人はいろいろ話をしたかったが、息子が時間がないと言って30分もしないうちに出ていった。
二人を見送った後、老人は座椅子に座ってぼんやり窓の外の景色を眺めながら思った。(息子はあの娘と結婚するんじゃろうか、、、息子も26歳か、もう結婚しても良い歳じゃが、、、しかしホテルの給料で暮らしていけるんじゃろうか。まあ息子も、リーダーになって給料も少し上ったとか言うていたし、共稼ぎすればなんとかなるじゃろうから、、、
じゃが、結婚したらどこに住む気じゃろう。ここは息子名義で借りとるが、寝室は一部屋だけじゃし、親子4人ならまだしも新婚夫婦とワシじゃ新妻がかわいそうじゃろう、、、
まあ結婚が決まったかも分からんし、、、どうなることやら。それにしても息子の奴、今までに一度も彼女の話をせなんだが、、、親子というても冷たいもんじゃのう。寂しいもんじゃ、、、)
8日が過ぎても息子からはなんの連絡もなかった。予定通り帰ってきたのかも気になり老人は電話した。すると息子は「何も問題ないから心配しないで。これから仕事だから電話を切るよ」と素っ気ない対応。
せめて妻や娘の状態でも聞かせてくれてもよさそうなものを、と老人は不満たらたらで切れた電話を耳に当てたままぼんやりしていた。

数日後ナオミが来た。いつものように食材をいっぱい買ってきて料理を作ってくれた。そして、夜もいつものように横に寝て温めてあげると言った。そんなナオミを老人は我が子よりも愛おしく感じていた。「ワシは息子も娘もおるが、今のワシを大事にしてくれるのはナオミだけじゃ。ありがとうよ」   「「おじいさんは私にとってただ一人の身内ですもの。いつまでも一緒にいたいわ」」そう言ってナオミは老人に抱き着いた。
老人はますますナオミが愛おしくなった。そんなナオミが自分を裏切るとは老人は夢にも思っていなかった。

その夜いつものように風呂から出てパジャマを着て布団に入った老人は、ナオミが入ってくる前に、強い睡魔に襲われて眠ってしまった。ナオミは、老人が完全に寝入っていることを確認すると台所で電話した。
それから20分くらいして入口前から車のエンジン音が聞こえた後で、3人の中東系髭面の男が入ってきて、二人がかりで老人を抱えて車に乗せ、うち一人は引き返して部屋に入ってドアの鍵をかけると、すぐにナオミを抱き上げ布団の上に運んだ。
数分後ナオミと男が裸で抱き合っているいるところに息子が入ってきて驚いて叫んだ。「お前たちは誰だ。ここでなにをしている」   ナオミと男も驚いたようで、裸のまま飛び起き、男がへたな日本語で言った。「お、お前こそ誰だ」
「俺はここに住んでいる親父の息子だ。それより親父はどこだ」   「なに、息子だと」と男は叫ぶようにそう言うと裸のまま外に飛び出した。ナオミも立ち上がり、出ていこうとするのを息子は捕まえて腕を後ろにねじ上げて言った。
「あんた誰だ、親父はどこだ」   「知らない、離して」とナオミは叫んだ。その時、隣部屋のおばさんが入ってきて「うるさいわね、何時だと思っているの」と言った。
すると息子がすぐに「あ、すみません。警察に電話してください。父が誘拐されたようです」と言うと「な、なんだって、誘拐」おばさんも驚いていたがすぐに電話してくれた。
その時になって息子は、ナオミが裸だったのに気づき「早く服を着ろ、だが逃げるな」と言って出口側に立ちふさがった。そのころにはアパート中の住人が入口付近に来ていたようだった。

やがて警察官が来てナオミを見るなり言った。「なんだナオミか、お前また何か悪い事をしたのか」と呆れ顔で言った。だが、息子から父が誘拐されたと聞くと顔色を変えて聞いた。
「御老人をどこへ連れていった」   「知らない、どこかは私は知らない、あいつらが車で連れていった」   「あいつらとは誰だ。車のナンバーは」と警察官は立て続けに聞き警察署に電話した。

幸い2時間後には京都北部で車が発見され、運転手の供述から、林道脇に寝かされたばかりの老人を保護することができた。また裸で飛び出した男も朝までには捕まった。そしてその男の供述から恐ろしい計画が判明した。

裸の男は数か月前、夜のコンビニで知り合ったナオミをたぶらかし、アパートで同棲しょうと持ちかけた。男の身体の虜になっていたナオミは、老人のアパートを奪うことを思いつき男に話した。男は老人を消せばアパートを得られる。老人に睡眠薬を飲まし山に放置すれば、凍死するか熊に食われて死ぬと考えて仲間を雇った。
計画はいともたやすく実行されたが、まさか鍵をかけていたはずのドアを開けて息子が入ってくるとは、と男は不思議がった。
結局、中東系の男たちは誘拐殺人未遂と不法滞在で投獄され、ナオミも誘拐幇助罪などの執行猶予処分になり当然仕事も解雇された。

そんなことなど何も知らず病院のベットで目覚めた老人は、自分が何故そこに居るのか分からず、茫然自失していたが、そこで警察署に事情聴取されただけでアパートに帰された。
しかし後日その事件を知り驚愕した。そればかりかナオミに裏切られたことを知り絶望した。
(ウ、嘘だナオミに限ってそんなことをするはずがない。ナオミが外国人の男と組んでワシを殺そうとしたじゃと、、、嘘じゃ、、、だ、誰か、嘘だと言うてくれ、、、頼む嘘だと言うてくれ、、、)それ以後、老人は食事もできなくなった。
老人は以前にもまして外出しなくなった。だが事件をきっかけに隣部屋のおばさんが何かと気遣ってくれるようになり、車でスーパーに行く時などは、ドア下にメモ書きを入れて誘ってくれるようになった。しかしそれでも老人は外出しょうとしなかった。夜、トイレを使う音さえ聞こえなくなったことを心配したおばさんが警察に連絡し、大家さん立ち合いのもと警察がドアを開けると、ミイラのようにやせ細った老人が台所で倒れていた。
すぐに救急車が来て乗せられたが、その時気づいた老人は低い声で言った。「なにもするな、このまま死なせてくれ。ワシは死にたいんじゃ」
傍にいたおばさんがたしなめるように言った。
「なにを言ってるの。あなたはこの間、運よく助かったのよ。本当に奇跡的に助かったのよ。きっと神様に守られていたのよ。それを死にたいだなんて言ったら罰が当たるわよ」

その後老人は病院のベットの上で点滴をされながら、ぼんやりとおばさんの言ったことを思い出していた。
(、、、ワシが奇跡的に助かったじゃと、、、そういえばあの夜、めったに来ん息子がたまたま町で飲んでの帰りにアパートに寄ってくれて、ワシが誘拐されたのを知り警察を呼んでくれたから、、、
それだけじゃない。林道に寝かされた時も、車の前を横切った熊に驚いた中東系男たちが怖くなって、慌ててあの場所にワシを寝かせて逃げたそうなんじゃが、風下じゃったのか熊が来なんだらしい。それにかなり低温じゃったが発見が早くて凍死しなかったそうじゃ、、、
熊が引き返しておれば食い殺されていたじゃろうし、発見があと1時間も遅れていたら確実に凍死していたじゃろう。もともとは息子がアパートに寄ってくれたから助かったんじゃ、、、
考えれば考えるほど本当に奇跡としか言いようがないのう。ワシは本当に神様に助けられたんじゃろか、、、
じゃが、神様は何故ワシを助けたんじゃ。こんな老いぼれを何故、、、既に耳は聞こえず、もうじき目も見えんようになるワシを、、、ナオミに裏切られ、生きていとうないワシを、、、
神様なんでワシを助けたんじゃ。ワシがこれ以上生きて何になると言うんじゃ、、、神様もうええ、ワシを死なせてくれ。ワシはこれ以上生きていとうないんじゃ、、、)

夕方息子が見舞いに来た。ベットの横に座ってメモ用紙になにか書いている。なにか込み入った話しでもあるのかやけに長い間書いた後で見せられた。それには箇条書きで文末には?マークがついていた。老人は一つづつ答えていった。
「「父さん、目は食事ができないほど見えなくなったの?」」   「いや、まだ食事を作って食べるくらいはできるが、作るのが面倒くさいんじゃ。それでスーパーの惣菜を食べていたんじゃが、朝起きたら足が動かんで、這って行ったんじゃ。それで冷蔵庫の中の物を食べ終わると眠たくなってそのまま寝てしもうたんじゃ。倒れたんじゃない」
「「本当なの。医師は栄養失調だって言ったよ。しっかり食べていなかったんじゃないの。足が動かなかったって、やっぱり栄養が足りていないんだよ」」老人は本当は数日食べていなかったが「いや、ちゃんと食べている。心配要らん」と嘘を言った。
「「それと父さん、あの女の人は誰なの」」   「ん、ああ、あの女か、あの女の人はボランティアで月に一度買い物などをしてくれていたんじゃが、名前は覚えとらん」とナオミのことも嘘をついた。
「「何故あんな時間にアパートにあの男女がいたの」」   「さあ、ワシは寝入っていたから分からんが、鍵は渡していたから、勝手に入り込んだんじゃろう」
「「あんまり面識のない人に鍵を預けない方が良いよ。そんなことをするから誘拐されたんだよ」」   「ああ、ワシも反省しとる。もう二度とせんわい」
「「それと、母さんと妹がここに来る。妹はバンコクの仕事を辞めるって」」   「なに、ここに来る、いつだ」
「「来月初め。妹は女子寮に入ってホテルで働くらしい。母さんは父さんと一緒にアパートで暮らすって。良かったね、父さん」」   「ん、母さんが一緒に暮らすんか、、、そうか」
「「父さん、嬉しくないの」」   「いや、まあ、どうせなら最初からそうしておれば良かったじゃろうにのう、、、それはそうとお前は彼女はどうした、いつ結婚するんじゃ」
「「彼女?、俺まだ彼女なんていないよ」」   「一緒にタイ旅行したんじゃろうが」
「「ああ、あの娘は彼女じゃない。タイ旅行の出発日が同じだったからバンコク入国まで一緒しただけなんだ。彼女はたぶん今もまだ一人で旅行しているはずだよ」」   「なんじゃ、そうじゃったんか。んじゃ彼女はまだおらんのか」
「「うん、まだいない。彼女作ったら金かかるし、給料が安くてそんな余裕ない。それより母さんが来るまで父さん一人で大丈夫」」   「大丈夫じゃ、心配要らん。飯もちゃんと食べる」
「「分かった、母さんにもそう伝えとくね。母さん、この間の誘惑事件でとても心配していたし、今日の事も知ったらー」」   「今日の事は知らせんでええ。ワシはまだ大丈夫じゃ」それでやっと筆談会話が終わった。

息子が帰った後で老人は、病室の天井をぼんやり見つめながら物思いにふけった。(やれやれワシはこれからどうなるんじゃろう、、、生きていとうないのに周りの奴らに生かされてしもうた、、、来月、妻と娘が来るじゃとう、妻がここに住むじゃとう、、、まあワシにとっては嬉しいことじゃが、金使いのあらい妻が一緒で、ワシの年金だけで暮らせるじゃろうかのう、、、そうじゃ、明日アパートに帰ったら掃除せねば、、、ナオミのタオルなんぞを処分せねばのう、、、それにしてもナオミの奴、男に顔を見られるのが怖いなぞと言っていながら、男の虜になっていたとは。しかも男と一緒になってワシを殺そうとしたとは、、、ワシは長生きなんぞしとうない、殺されてもかまわんかったのじゃが、身内以上に愛おしかったナオミに裏切られたと思ったら、、、)
いつしか老人の目から涙が溢れていた。それは悔し涙だったのか、それともナオミを失った寂しさによるものだったのか老人にも分からなかった。

3月初めの日曜日、妻と娘が来た。アパートの部屋は掃除もして、布団も一人分だけ買っておいた。娘が女子寮に入るまでは二人分の布団で、妻を真ん中にして寝れば良い。「ワシは夜中にトイレに行くから一番トイレ側で寝るぞ」と言って老人は布団に入った。
数か月ぶりの妻の身体は温かかった。その温かさを感じると老人はナオミのことを思い出した。(あいつ今ごろどこでどうしておるやら、、、今さらワシの知ったことじゃないか、、、)

翌日月曜日、休日だった息子に連れられて妻と娘は役所に行って転入手続きなどをした。そして昼前に帰ってきて息子が言うには「転入手続きは終わったが、母さんの在留許可証の手続きは名古屋の入国管理事務所に行かないといけない。明日父さんも一緒に行こう。今日はこれから必要書類をを準備するよ」とのこと。
翌日息子は代休を取って一緒に行ってくれた。管理局では、既婚後27年で、成人の息子が一緒だったこともあり、なんのトラブルもなく手続きできた。だが証明書発行は2ヶ月後とのことだった。
帰りの電車の中で息子は「「これで母さんも問題なく日本で暮らせるよ。暮らしに慣れたらパートで働く事もできる。まあ働くならホテルで皿洗いでもすれば良いよ」」と書いて老人に見せた。老人は満足そうに頷いた。

娘もホテルで働き、2週間後くらいから妻もスーパーマーケットで働きだした。妻はパートの帰りに食材等を買ってくるので、老人は全く外出しなくなった。娘の大学卒業後の計画がほぼ1年遅れて実現されたような状態で老人も満足していた。
(これでワシの目が完全に見えんようになってもなんとか生きていけるじゃろう、、、本来ならばもろ手を挙げて喜ぶべきであるなんじゃろうが、何故かそんな気になれん、、、
ワシはさっさと死ぬべきじゃったんじゃないかと、このごろよく思うてしまう。長生きして何になるんじゃと考えてしまうんじゃ、、、
まあワシが生きとれば月額9万円の年金が入るし、それに来年75歳になれば目の障害年金も加わる14-15万円になるじゃろうから経済的には楽になるんじゃ。そうすれば月に1回くらいは回転寿司が食べられるじゃろう。その時まで待って寿司を腹いっぱい食ってから死んでも良いかのう、、、
いま気づいたが、ワシは本当に楽しみがのうなってしもうた。うまい寿司を腹いっぱい食う以外に、楽しみが何も思い浮かばん、、、
これが老いると言うものかのう。寂しいもんじゃ。若いころなら女遊びをしたいとか、旅行したいとか色々あったがのう、、、)
そんなことばかり考えて外出しなかった老人は、桜が咲いているのにも気付かなかった。
息子が声をかけたのか、いつもより早く帰ってきた妻が4人分の寿司弁当を見せて、これから花見に行こうと誘われた。あまり気乗りしなかったが、息子が酒も用意していると知らされ、渋々近くの公園に行った。
公園の桜は満開だった。良い場所にビニールシートを敷いていると、花見客が後から後からやってきて、日没ころは良い場所はなくなっていた。
やがて息子と娘も来てコップ酒やジュースで乾杯すると老人も気が晴れてきた。久しぶりのパック寿司を食いながらカップ酒を飲んでいると、老人はふと十数年前の道後温泉の公園を思い出して息子に言った。「道後温泉を覚えとるか。十数年ぶりの花見じゃのう。まさか一家4人でまた花見ができるとは思わなんだ。嬉しいのう。これもヨシ(息子の通称)のおかげじゃ」老人はそう言って嬉しそうに息子と乾杯した。
家族みな道後温泉のことも思い出して話も弾み、楽しいひと時を過ごした。

その家族4人を、やつれ果てたナオミが木の陰から泣きながら見ているのを老人も息子も気付かなかった。
ナオミは老人家族が帰った後で、花見客から残飯をもらい久しぶりに満腹になるまで食べた。それからきれいな発泡スチロール容器にも翌日分の残飯をもらって入れて、あの神社の床下に持ち帰った。

そんなナオミのことなど露知らず、老人はまたありふれた日々を送っていた。
数週間後、妻がパートに行く直前に見覚えのある警察官がきた。妻はパートに遅れるからと警察官を無視して出ていった。警察官も妻には用が無いと言った表情で無視し、老人にメモ用紙を見せた。途端に老人の顔色が変わった。
メモ用紙の冒頭には「「ナオミが亡くなりました」」と書かれていたのだ。
その後に、腐臭に気づいた近所の人が、あの神社の床下のナオミの腐乱死体を見つけて警察に通報した。
司法解剖の結果、死因は餓死か食中毒か服毒自殺かだとのこと。とにかく腐敗が酷くて推定死亡日時もはっきりしないが、1週間から10日前だと書かれていた。
次に、所持品の中に「「おじいさんへ」」と書かれた封筒があり、どう処理すべきか検討した結果、やむなく開封して手紙を読み、内容から御老人宛だと断定して届けにきた。と書かれてあった。
老人がメモ用紙を読み終えると警察官は事務的に手紙を渡し帰って行った。老人は警察官に見向きもせず、その場に立ったまま手紙を読み始めた。
「「おじいさんへ  おじいさん、ごめんなさい。私は悪い女でした。一言謝りたくてアパートに行きましたが、奥様が居られたので何も言えず帰りました。
私は警察に捕まった後、仕事もクビになり寮を追い出されて、仕方なく彼の住んでいた橋の下のテントで暮らしました。
彼は不法滞在の00人ですが、夜コンビニからの帰りに数人の男性に囲まれた時に、彼に助けられたんです。それで親しくなり、交際しました。
彼は日雇いのような仕事をしていて、それなりに現金も持っていましたし、食事をおごってくれたりもしました。その上、私の顔をきれいだと言ってくれました。私は彼が好きになり、ある夜彼の住んでいるテントに行きました。
そこで彼は悲しそうな顔で、お金があってもアパートを借りれないんだと言いました。
ホームレスの経験がある私は彼が可哀そうになり、夢中で抱きついて彼と結ばれました。彼は私の身体もきれいだと言って優しくしてくれました。私はいつの間にか彼から離れられなくなりました。そして彼の為なら何でもしょうと思うようになりました。
彼は言いました。俺の夢はナオミと結婚してアパートで一緒に暮らすことだ、と。
それを聞いて彼のことしか考えられない女になりました。そしてその時私はふと、おじいさんのことを思い出して、、、
その時の私は、たぶん悪魔に操られていたんです。私は彼に、おじいさんのアパートのことを話してしまったんです。
私は彼に、おじいさんのアパートを話したことを後悔しました。でも彼に抱かれると彼以外のことが何も考えられなくなりました。それで彼の計画通りに睡眠薬を持って、、、
寮を追い出された後、警察に捕まった彼のテントで一人で暮らしていましたが、生活費がなくなり、またあの神社に帰ってきました。
こんな私でももしかして、何かおじいさんの役に立てるかも知れないって思って。でもアパートには奥様がいて、、、御家族で花見をされてるのを見て、、、もう私は居ない方がよいと思いました。私はこのままここで死にます。
おじいさんは、どうぞ私の分まで長生きしてね。  ナオミ」」

それで手紙は終わっていた。老人は崩れ落ちるようにテーブル横の椅子に座った。
(な、なんじゃとう、ナオミが死んだじゃとう、、、あの、神社の床下で、、、餓死か服毒自殺、、、何故だ、何故死んだ、、、死ぬ必要などどこにもないじゃろうが、死ぬ必要は、、、
まさかこれがワシへの、せめてもの償いとでも言うんか、、、こんなワシへの詫びだと言うのか、、、償いも詫びもワシになんぞ要らんわい。こんなワシのような老いぼれにそんなもんは要らんわい、、、
何故死んだ、、、ナオミ、何故死んだんじゃ、死ぬ必要はなかったじゃろう、死ぬ必要は、、、
糞、なんということじゃ、若いおなごが死んでしもうた。何故じゃ、何故死んでしもうたんじゃ。この世には神も仏もおらんのか。何故若いおなごを死なせたんじゃ、、、
糞、こんなことならワシが死んだ方が良かった。ワシが寝ている間に熊にでも食われて死んだ方が良かったんじゃ。奇跡的に助かったりせず、あのまま死んだ方が良かったんじゃ。
そうすればすくなくともナオミは生きていられた。このアパートで彼氏と、息子か誰かに見つかるまでは、ここで生きて居られたんじゃ、、、
まさか死んでしまうとは、、、ナオミ、、、
ワシのような老いぼれなんぞ長生きする必要なんぞないんじゃ。お前のような若いおなごこそ生きておらねばいかんのじゃ、、、
ナオミ、、、ボケたワシでも初詣や部屋での話を覚えとるぞ。お前は、今年はきっと良い年になると言うとったじゃないか。それじゃのに半年も経たんうちに、お前が死んでしまうとは、どういうことじゃ。何故そんなに死に急いだんじゃ、、、ナオミ、、、)
老人は花見の時の残りの酒を出して座椅子に座って飲み始めた。
(ナオミ、、、ナオミよう、、、お前は何故死んだんじゃ、、、ワシのような老いぼれより先に死んで、お前はいったいなにを考えとるんじゃ、、、
もしかしてお前は、ワシを裏切ったことを、ワシを殺そうとしたことを悔やんでいたのか、、、
まあワシとて、裏切られたと知ってお前を憎んだわい、、、
じゃからというて、お前が死ぬことはないじゃろう。どこか遠くで生きておれば良かったんじゃ。
死んでしもうたら、なにもできんじゃろが。お前を憎むことも、会って恨み言を言うこともできんのじゃぞ、、、死んでしもうたら、、、死んでしもうたら骨しか遺らんのじゃぞ、、、)
妻がパートから帰ってくると老人は酔いつぶれて眠っていた。老人の頬に涙の流れた跡があるのには気付かなかったし、酔って寝た時には夕食しないことも知っていたので起こそうともしなかった。ただ布団だけ掛けて一人で食事し風呂に入って寝た。

数週間後、老人はアパート暮らし1年の記念日を迎えた。一家4人が集まりすき焼きを作って祝った。
毎日一緒に居る妻は気づいていなかったが、久しぶりに老人の顔を見た息子と娘は、老人の無表情に気づいた。特に、大学で心理学を専攻した娘は老人が鬱病になりかけていると見抜いた。
アパートから寮への帰り道、娘が言った。「父さんボケたみたいね、鬱病みたい。病院に連れて行った方が良いかしら」   「お前も気づいていたのか、、、母さんが一緒に居るから、もう少し様子を見よう。老人は一過性の鬱病状態になる事が多いと聞いたことがあるから」

季節はいつしか青葉が茂るころになっていた。妻がパートに行った後、老人は今日も座椅子に座って小説を打ち始めた。
「糞、いつまでも落ち込んでいられるかい。目が見えんようになるまでに、この小説を終わらせるんじゃ、、、ところでどこまで打ったんじゃったかの、、、」とブツブツ言いながら老人はスマホを睨んだ。もう見える範囲が本当に狭くなり、文章の最後部を一度見失うと探すのが大変になっていたのだ。しかも探しているうちに打とうと思っていた言葉を忘れたりして、思うようにはかどらなかった。
暑くなり扇風機だけでは我慢できず昼前にはクーラーをつけた。(やれやれ、また電気代が高くなる季節が始まったわい、、、小説を打つのは家の中でなくとも良いのじゃし、クーラーの効いた図書館でも近くにあれば、そうじゃネットで調べてみるか、、、
いややめておこう。スーパーに行くのさえ道を間違えたりするんじゃ。今さら新しい場所を探しても通えまい。今まで通り家で過ごす方がええじゃろう。ベランダの洗濯物も見とかないかんじゃろうしのう)
思い出したついでに老人はベランダに出て空を見上げた。雲が多いが雨は降りそうになかった。だが暑かったので老人はすぐに部屋に入って小説を打ち始めた。

盛夏のころ、娘に彼氏ができたという話が老人にも伝えられた。しかも日本人のその彼氏は老人に会いたいと言っているらしい。
(父親に会いたいとは今時珍しい若者じゃのう。まあ、会いたいと言うなら会うが、父親がこんな老いぼれジジイだと知ったら驚くじゃろうて。とは言うても変身することもできず、、、それよりどこで会うんじゃろう。レストランじゃろうか、、、)
娘は美人とは言えんが、チェンマイ大学でも彼氏がおったし、バンコクで1年働いていた間にも仕事場ですぐにできたと聞いていた。
(ホテルで働きだしてまだ数か月で日本人の彼氏ができたとは、あんな愚娘がそんなにモテるとも思えんのじゃがのう、、、物好きな若者も居るんじゃろうかのう、、、)
結局、娘と彼氏の休日が同じ日だった土曜日の昼、妻のパート先のスーパーのレストランで会った。パートの昼休みを利用しての会食だったが、息子は時間的に都合がつかず来なかった。
彼氏はなかなか感じの良い若者で老人は好感を持った。メニューを注文した後で若者が自己紹介をはじめたが、老人には全く聞こえなかった。
日本語の読み書きがあまりできない娘がメモ用紙に書いていたが、若者が自己紹介を終えると自分で書いて見せてくれた。それには「「稲村勝治です。よろしくお願いいたします。市役所の健康福祉課勤務です。お父様が目も耳も御不自由だとお聞きしましたので、お会いして状態を確認しておきたかったのです。良夢さんと結婚すれば僕の義父になられる御方ですので」」と書かれていた。
(なんとまあ手回しの良いことで、じゃが、娘と本当に結婚できるんじゃろうかの)と老人は思ったがなにも言わなずただ頷いてみせた。
稲村は、老人のその動作をどう解釈したのか、すぐに続きを書いて見せた。
「「お父様は小説も執筆されておられるそうで、ぜひ拝読させていただければ嬉しいです。購読方法とご推薦作品を教えていただきたいです」」
老人は苦笑しながら言った。「ワシの愚作はネット公開しておるから誰でも無料で読める。星空文庫佐々木良で検索して新作から読んでくれれば良い。同姓同名の作家も載っておるが、1955年生まれの方がワシじゃ」   「「そうですか、わかりました。ありがとうございます」」
ちょうど料理が来たので、老人への筆談はそれで終わった。老人と妻の向いに並んで座っている稲村と娘は、食事しながらもコソコソと話したりして、表面上は仲睦まじそうに見えた。
食事が終わると、妻はパートへ、老人と娘は稲村が車でアパートと寮まで送ってくれた。
アパートの部屋に入ると老人は椅子に座って、稲村のことを思い出した。
(、、、なかなか感じの良い若者じゃが、何か引っかかるのう。役所勤務ということは公務員じゃし高給取り、勝ち組に入るじゃろう。そんな若者が、家柄も良くない貧乏人出のおなごと結婚したがるじゃろうか、、、まあ娘は確かまだ23歳。どんな結果なろうとこれも一つの経験じゃ。放っておくか、、、)

それからまた数か月が経ち、老人は75歳になった。目と耳の障害者年金が支給されるようになり、老人は経済的に少し楽になった反面、目が本当に見えにくくなり、一人での外出も難しくなった。スマホで小説を打つのも以前に増して時間がかかるようになった。
好きな回転寿司に連れていってもらっても箸では寿司を掴めず、手づかみで口に運んだ。まあ寿司はもともと手づかみで食うからかまわないが、家で焼き肉を食べるのも苦労するようになった。箸の先端を見ると焼き肉が見えず、視線をほうぼうに移してやっと焼き肉が見つかるという状態になった。
「ワシの食事は、おにぎとか菓子パンで良いぞ」と老人は言ったが、嫌味な妻はテーブルの上にうどんの入っている丼を置き、箸を握らされた。
まあ左手で丼の位置を確認して箸を突っ込むと、なんとかうどんを挟めて食べれたが。(糞、老人イジメか、覚えてろ、もうすぐ死んで化けて出てやるからな)と老人は心の中で叫んだ。
(まあ、うどんの恨みはさておき、小説が打てなくなったのは辛いな。いや、それ以上にスマホで動画も見えんようになった方が辛い。本当に何の情報も得られんようになったわい。
以前に点字ディスプレイの点字表示をカタカナ表示にして欲しいとメーカーに頼んでおいたが今だに音沙汰なしじゃ。いったいどうなったんじゃろう。今さら点字を覚えるのは、、、
せめて手を握れば相手の言いたいことが解るようになればのう、、、そうじゃ今夜から妻を相手に練習してみるか)
「良いか、1から5までの数字をどれでもええから頭の中で思い浮かべて、ワシに伝えたいと強く念じてくれ。ええか、、、5じゃ」   「「違う、1よ」」と妻は老人の手にカタカナと数字で書いた。
(糞、頭の中に全く思い浮かばんわい、、、まあ、妻がどうしてもワシに伝えたいことがあれば、こうやって手に書いてくれればええんじゃが、めんどくさがり屋の妻がどこまでやってくれるやら。恐らく放ったらかしじゃろうのう、、、
まあ、はっきり言うてワシなんぞもう死んだ方がええんじゃ、世の中の為にはのう。じゃが、ワシの年金と給付金で15万円ほどの金欲しさに妻は恐らくワシを死なせてくれまい、、、一回り年上の兄と同じで、目も見えず耳も聞こえずで鬱病になっても死なせてもらえんじゃろう、、、生きてさえいれば金が入るじゃから、アパートの部屋でワシが芋虫のようにゴロゴロしておっても妻子はええんじゃろう。
じゃが、何の情報も得られず、昼も夜も分からず、ゴロゴロしておって、そのうち鬱病になって、それでも生かされて、、、
そうじゃ、妻子が金をもらう為だけに生かされて、、、おじいさん長生きしてね。100歳まで生きてね。長寿日本一になってね、とか妻子に言われて、、、
ボケて徘徊しないように手足を縛られて、ブツブツ言うなら猿ぐつわを噛まされて、、、紙おむつの交換と食事は一日一回、風呂なんぞ贅沢じゃ、月に一度身体を拭いてもらうのが唯一の楽しみになったりしてのう、、、う、う、嫌じゃ嫌じゃ、、、
それどころか、もしかして子供たちが引きこもりになり、ワシの年金目当てに、ワシが死んでも届け出ず、死体をポリバケツにでも入れて隠して、100歳の長寿祝いに来た役所の職員に見つかって、、、ワ、ワシの未来は、、、最悪じゃのう、、、こっそり逃げだして、さっさと自殺した方がええかのう)と妄想は尽きなかったが、老人をとり巻く環境は少しずつ意外な方向へ変わって行った。

稲村は勤務中の暇つぶしに老人の小説を読んでいた。最新の「3万年前の台湾にー」は単なる娯楽小説として読み終えたが、次の「FBI特別捜査官―」を読み始めた途端に稲村は顔色を変えた。(な、なんだこの小説は、、、こんなことがあるはずが、、、いや、俺が過去に経験したことも、、、)
稲村はいつの間にか小説に没頭していた。「おい稲村、残業か」と同僚に言われて我に返った稲村は慌ててノートパソコンを閉めて帰り支度をし、同僚と一緒に役所を出た。だが、同僚からの毎夜の宴会の誘いを断り、急いで帰宅するとすぐに小説の続きを読み始めた。そして夜明け前に読み終えると、少し仮眠しただけで出勤した。幸いその日は暇で、勤務中でも小説のストーリーを思い返すことができた。
そして稲村は(この小説は映画にしたら売れるのではないか)と考えた。(大学の先輩に映画監督を目指している人がいるが、相談してみるか)稲村はその日のうちにメールで相談した。
数日後に先輩から返事がきた。仲間と検討してみるとのことだった。さらに3週間が過ぎて、稲村は映画化の話を忘れかけていた。だが先輩はその間ずっと、自分が監督するつもりで準備していて、撮影スタッフを集めていた。
しかし資金面で行き詰った。何よりロケ地がサンフランシスコやワシントンではスタッフの滞在費用だけでも高額予算になった。
予算を見積もった先輩はため息まじりに稲村に言った。「ダメだ、資金が足りない。俺のような駆け出し監督に、資金援助してくれる人はいない、、、残念だが諦めるしかないな」
稲村はその時にわかに閃いて言った。「先輩、AIで制作したらどうでしょう。俳優を雇えば膨大な資金が必要ですがAIなら低予算でできると思います。背景もAIですれば日本に居ながら全てできます」   「なるほどAIか、、、3部作にするつもりだったが、第一部をAIで作ってみて反応を見るか。AIならどんな残酷なシーンでも作れる。観客が目をそむけたくなるような、、、幸いAIの得意な仲間がいる。やってみよう」
数日後、先輩から「著者に確認したいことがあるが、どこで会えるか。メールでも良いが、よい機会だから直接会ってみたいんだ」と電話があった。
稲村は「鳥羽のアパートは知っていますが、お会いしても意思の疎通ができるかどうか。御老人は耳が聞こえず目ももうほとんど見えなくなったそうですので」と答えた。
「なに耳も目もダメなのか、、、では周りの人とはどうやって会話しているのかい」   「御老人は話すことはできますので、奥さんが手にカタカナで書いて伝えているそうです。でも奥さんだけでは情報量も少ないですし、写真や動画は伝えようがないです」   「うーん、なるほど、、、」    
「ご本人はもっと小説を書きたいそうですが、どうやっても無理なようで、せめて書きかけの最後の小説だけでも書き上げたいとか、、、目が見えなくなったことが本当に辛いそうです」   「うーむ、盲目の作家か、、、
それにしても良くあれだけの小説を書かれたものだ。衝撃的な内容だしストーリーも面白い」   「はい、僕も同感です。未来の妻の義父として最も相応しい方です」   「なに、君はあの作家の娘と結婚するつもりなのかい」   「はい、初めて会った時に直感で、この女性こそ生涯の伴侶だと分かりました」   「おいおい、本当かい、凄いね。よし、今度一緒に飲む時はその話を詳しく聞かせてくれ。時間があるようだったらまた電話するよ」

そのころ老人は部屋の中で座椅子に座って物思いに耽っていた。(、、、目が見えんようになって何か月経ったんじゃろう。昼も夜も区別がつかんじゃから月日も分からんわい、、、肌で感じる寒さも、朝じゃから寒いのか、寒い季節に入ったのかも分からん、、、
それより退屈で頭が狂いそうじゃ。一回り年上の兄が鬱病になったそうじゃが、ワシも同じ道をたどりそうじゃな、、、
本当に、何かを空想する以外にできることがない、、、待てよ、空想することだけでなく念ずることもできるはずじゃ、、、念じて念じて、、、未来を良くする。あるいは嫌いな奴を呪い殺す。昔の呪詛のように、、、ふむ、おもしろい。やってみるか。時間はいくらでもある、、、で、なにを念ずるか、、、日本の未来の発展を、、、ふん、そんなことは政治家に任せておけばええ。もっと自分自身に関わることを、、、そうじゃ、金じゃ、金が手に入るように念ずるんじゃ。
今の世の中は金次第じゃ。金さえあれば何でもできる。金さえあればワシでも、若いおなごをはべらして、うまい寿司を食べさせてもろうたり、風呂に入れてもろうて身体を洗ってもらうんじゃ、、、そうじゃ、金さえあればできるんじゃ。さっそく念じよう、、、
ん、じゃが、待てよ、、、念じて金が入るまら、誰もかれも念じて、世界中の人がみな金持ちになっとるはずじゃ。じゃが実際は世界には貧乏人が溢れとる。
念じたところで金が入るはずがないんじゃ、、、糞、金が入るように念じても無駄なんじゃ、、、うーむ、どうすればええんじゃろう、、、
そうじゃ、金が欲しいなら、明日の馬券の番号が分かればええんじゃ。馬券でなく宝くじでもええ。つまり未来の事が分かれば、いくらでも金持ちになれるんじゃ、、、未来の事か、、、そうじゃ、未来の事。それさえ分かれば、、、)

その時、老人の耳にナオミの声が聞こえた。「おじいさん、苦労しているのね。私が助けてあげる」   「ん、なんじゃ、今ナオミの声が聞こえた、、、いや、そんなはずはない。ワシの耳は十数年前から完全に聞こえんようになっとるし、第一ワシはナオミの声を聞いたことがないんじゃ。じゃのに何故、死んだナオミの声じゃと分かったんじゃろ、、、よく起きる幻聴か」   「おじいさん、驚かないで。私死ぬ間際にどうしても、おじいさんの役に立ちたいと思っていたら川を渡れなくなり、今もこちら側に居るんです。しかもこうして、おじいさんの心の中に話しかけられるんです。だから、おじいさん、私と話しましょう」
「なに、それは本当か、本当に話ができるんか」   「はい、だってこうして本当に話ができているでしょう」   「うーむ、、、じゃがお前は死んだ、、、ということは、お前は幽霊か、、、じゃがワシは今、退屈で気が狂いそうなんじゃ。話し相手になってくれるなら、幽霊でもなんでもええ。ナオミ、話し相手になってくれ」   「嬉しい、おじいさんは私を受け入れてくださったのね」   「ああ、ナオミと話ができるんなら、なにがどうなっておろうと、どうでもええ。とにかく話そう」
しかし話し始めて5分も経たないうちに、老人は妻に揺り起こされた。そして手に「「うるさいわね、黙って寝てよ、精神病院に入れるわよ」」と書かれた。いつの間にか夜になり妻が帰って来ていたのだ。
(糞、今は夜じゃったのか)老人は小声で言った。「ナオミ、明日の昼間に話そう」
そうして老人は翌日からナオミと話し出した。だが、そんな老人を周りの人が見たら、いつもブツブツ独り言を言っている精神異常者に見えたことだろう。
幸い他人には見つからなかったが、妻がパートから帰って来ても気づかず話し続けていて、妻は老人が完全に狂ったと思っていた。そして息子や娘に相談した。「父さんいつも独り言を言ってるのよ。精神病院に入れた方が良いかしら」   「病院に入れたらお金が大変だよ。独り言を言うだけなら実害はないから放っておいたら良いよ」と息子が言った。娘も「母さんがやめてと言えば独り言を止めるんでしょう。それならまだ精神病じゃないわ。放っておいても大丈夫よ」と言った。
妻も(まあ娘が言うように、やめてと言えばやめるんだから放っておこう。あのしわがれ声なら隣部屋までは聞こえないでしょうし、本当に実害はないから)と考えた。そんな妻の考えなど無頓着に老人は、妻がパートに行くと手に書いて出ていくとすぐにナオミと話し始めた。
「ナオミ、どうしとる、変わりないか?。そこは三途の川の川岸か?。三途の川と賽の河原は同じなのか?。寒くないか?。腹は減ってないか?。夕べは何を食べた?」と質問攻めにしていた。しかしナオミは嬉しそうに微笑んで、老人の質問に律儀に一つづ答えて言った。
「ここは三途の川の1キロほど上流です。彼岸への船着き場の辺りが賽の河原とも呼ばれているようです。それと私はもう肉体が無いので寒さも空腹も感じません。ただ、おじいさんの役に立ちたいという気持ちだけが霞のように漂っています、、、おじいさんと話すと嬉しいです。霞が広がっていきます」
「ふーむ、死んだら肉体はないのか。まあ、そうじゃろうな。しかし死んでも考えれるし、嬉しいと感じられるのか、、、それとナオミ、お前はワシが見えるのか?。ワシだけじゃなくワシの周りの人や景色も見えるのか?」   「ええ、見えます。少し高い所から見下ろすような感じですが、はっきり見えています」   「ふーむ、少し高い所から見下ろすような感じか、、、で、お前は部屋に入って来る時はどうしとるんじゃ。ちゃんとドアを開けて入って来るんか」   「いいえ、肉体がないせいかドアも壁も素通りできるんです。しかも行きたい所にすぐ行けるんです」   「ほお、便利なもんじゃな。ドアも壁も素通り、行きたい所にもすぐに行けるじゃとは、、、じゃあ、行きたいと思えば外国でも行けるんか?」   「私はまだ行ったことがないので分かりませんが、たぶん行けると思います」
「うーむ、そんなに便利ならワシも早くそっちへ行こう。いつもいつも布団の上でゴロゴロしておっては、身体にカビが生えそうじゃわい」   「ダメですよ、おじいさん。生き物にはみな運命があって、誰も運命には逆らえないのです。私は19歳でここへ来ましたが、それが私の運命だったのです。逆らえられなかったんです」   「うーむ、運命か、、、じゃあナオミはワシの運命が分かるんか。ワシはあと何年こんな状態で生きとるんじゃ」   「そ、それは、、、言ってはいけないのです。ここの掟で運命は誰にも教えてはいけないのです。人が運命を知ったら運命ではなくなるんです。だから、、、」
「ふーむ、なるほどの。人が運命を知ったら運命ではなくなるか、、、そうじゃな、交通事故で死ぬと分かったら誰も、その時その場合に行く奴はおらんじゃろうて。そうなればその人だけじゃなく周りの全ての運命が変わってしまうわい。
肉食獣に食われると分かった草食動物が全て逃げ出したら肉食獣は飢えて死に絶えてしまう。一人だけが運命を変えることはできんのじゃな、、、どんなに残酷な運命じゃっても変えれんのじゃ、、、なるほどのう。運命か。ということはワシも、目も見えん耳も聞こえと愚痴を言うてもどうにもならん。これがワシの運命じゃと考えるしかないんじゃのう、、、じゃが、運命が尽きるまでワシはどう生きたらええんじゃろう、、、ナオミが話し相手になってくれるのが本当に救いじゃ。話し相手もいなかったら、ワシは頭が狂ってしまうわい。ナオミ、ありがとうよ」老人はナオミのおかげで精神病にならなかった。

数か月が過ぎた。稲村の先輩の映画の試写会が開催され、制作関係者以外に稲村と老人の娘が招待された。老人の娘でありながら小説を読んでいず、冒頭からいきなり下品で残酷なシーンを見た娘はショックを受け出ていこうとした。だが稲村に手を引かれ強引に座らされ、FBI特別捜査官のトニーが、東京の警視庁に再就職するまでの第一部終了まで見続けさせられた。
そしてその後の意見交換や感想発表会で稲村は、まるで老人の娘に言うかのように感想を述べた。
「日本の一般国民がこの映画を観たら、ほぼ全ての人が衝撃を受けるでしょう。しかし、権力を持っている一部の富豪は、このような事を平気でやっている可能性が高いのです。そしてそれはアメリカの富豪に限った事ではないのです。0国を調べてください。もっと酷い事が公になりつつあります。
生きている法輪功者からの臓器摘出疑惑はかなり以前から言われていますが、それに加え近年は0国国内で子どもや若者の失踪事件が後を絶たないそうです。この失踪者はどこでどうしているのでしょうか。
昨年はミャンマーで、誘拐され働かされていた日本人を含む数千人が救出されたというニュースが反響を呼びましたが、この数千人はどのような扱いを受けていたでしょうか。女性や子供たちは、仲の良い友人や幼稚園児のように大切に扱われたのでしょうか。
生きている人から臓器摘出するような悪魔のような人たちがどんな残酷な扱いをしたか、恐らく言葉では言い表せないほどの酷い扱いを受けていたのでしょう。世界ではこのような事が現実に起きているのです。ただ、そのような情報が一般国民には知らされていないだけなのです。
第2部で放映されると思いますが、実は日本国内でも同様な事件が起きているのです。しかしニュースになりません。何故でしょうか。それは権力者によって事件が完全に隠匿されているからです。もう十数年前になりますが東京でプチエンジェル事件が発覚しました。しかしすぐにこの事件に関するニュースが出なくなりました。
この事件で浮かび上がった関係者や顧客名簿の中には、大物政治家や公務員幹部や省庁官僚まで載っていたそうで、もしこの名簿が公になれば、日本の信用失墜は免れなかったでしょう。しかし幸か不幸か、事件に関するニュースは1-2週間で忽然と消えてしまいました。権力者からの圧力があったことは確実でしょう。
他にも宗教団体や芸能界等での疑惑は水面下で噂になっていますが、めったに公になりません。公になる前に握り潰されているのでしょうか。
それでも日本はまだ良い方なのかも知れません。ある国では、赤ちゃん工場や養豚場ならぬ養人場の存在まで噂されているのです。そのような所で生まれさせられ育てられた人や、誘拐され監禁された子どもや女性はどのような境遇でしょうか、、、
この映画の原作者は無名の作家ですが、数年前に既にこのような事に気づいて作品にされていたのです。素晴らしい洞察力です。
この原作者は恐らく読者に、ニュースとして報じられていないからそんな事件は起きていないと考えるのは間違いだ。事件として報じられていない事でも起きているかもしれないと考え、注意を怠らない事が大切だと警鐘を鳴らしておられるのだと思います。そのような原作者の御心に感謝致しつつ私の感想発表を終えたいと思います。長々と失礼致しました」
稲村が一礼して着席すると同時に拍手が沸き起こった。すぐに先輩が来て握手をして言った。
「稲村君、素晴らしい感想発表だった、、、こちらの女性が婚約者かい。初めまして、この映画監督の北川です。あなたは素晴らしい婚約者をゲットしましたね。おめでとう。稲村君、今度彼女も交えて飲もう。二人の馴れ初めなど聞かせてくれ」
北川が去ると稲村は、あとからあとから握手を求められ老人の娘と話する暇がなかった。初めて見る稲村のそんな一面を見て、老人の娘ラムは目を丸くしていた。
(、、、なに、この人、、、いつもは冗談ばかり言って笑わせてくれるのに、こんな重い事柄についても自分の意見を堂々と言えるなんて、、、私は今まで、この人の一面だけしか見ていなかったんだわ)
その夜、良夢(ラム)は稲村の車の中で言った。「私、あなたを見直しちゃった。あなたって凄いのね」   「そうかい、ありがとう。でも君のお父様は僕よりもずっと凄い人だよ。あの御歳であんな小説を書かれたんだから。それはそうと君はあの小説をまだ読んでなかったのかい」   「ええ、まだ、、、日本語が難しくて、いつも読み始めてすぐやめていたの。だから父があんな小説を書いていたなんて知らなかったわ、、、私、今日は二つ驚いた。父の小説の内容にも、あなたにも」   
「いや驚くのは三つだ」そう言うと稲村は車を路肩に停め、助手席のラムを抱きしめて唇を重ねた。しかしすぐに離して言った。「ラムさん、僕と結婚してください」
日本人男性のプロポーズの仕方を全く知らなかったラムは、呆気にとられた顔で稲村を見つめた。ラムのその視線に戸惑った稲村は慌てて言った。「返事はまた今度で良いから、、、」
再び車が走り出して数十分後、ホテルの従業員寮の前でラムは降ろされた。そしていつものように、口やかましい同僚に見つからないように、すぐに門の中に入って行った。
そのラムの後ろ姿を見送った後の稲村は釈然としない顔で発車させた。(あの女は、何を考えているのだろう、、、俺が嫌いなのか。いや嫌いならもっと抵抗したはずだろう、、、
市役所の窓口でいきなり俺に「父は目も耳も悪いです。助けてください」とたどたどしい日本語で言いながら俺の前に座ったあの女、、、父を思う混じりっ気のない、純粋な気持ちを感じた俺は即座にあいつを好きになった。
以来俺は、父の状態を詳しく聞かせてもらう事を口実に窓口以外でも会うようになり、会えば会うほどあいつを好きになった。
本当にあいつには日本人女性にはない、純粋というか純朴というか、、、そのようなものに惹かれて俺は、、、それに俺は、あいつと知り合って夜もあいつの事を考えるようになってから、不思議なことに優子の夢を見なくなったのだ。
、、、優子の夢だけでなく、優子との辛い過去までも思い出さなくなった、、、あの時のゾッとするフラッシュバックも、、、あいつと出会ってから一度もない、、、もしかしてあいつは、、、ラムは俺の救世主なのかもしれない、、、
だがあいつは確かに知識などは日本人女性よりも少ないようだ。特に日本の法律関係の知識は中学生レベルだ。しかしそれは、大学卒業までタイで育ったのだから仕方がないことだ。だからこそそのような劣っている面を、結婚して俺が補ってやりたいのだ。、まあ、それ以外にもいろいろと調教して完璧な女奴隷にするつもりだが、、、
俺は既に31歳、9年前に父を殺して以来、母と二人暮らし。その母から毎日のように早く結婚しろと言われているが、結婚相手が誰でも良いなら、職場の後輩女性等いくらでも居るし、結婚した後の収入面でも全く問題ない。
だが後輩女性等は、収入面だけで伴侶を探しているようで、本気で好きになれないのだ。しかも強引にアレでもしようものなら、後で訴えられかねん。
その点あいつは、俺の収入面等には全く無頓着で一緒に居て何の気がねも感じない。言葉は悪いかもしれないが、まるで野生児と一緒に居るようで心が晴れるのだ。日本でこのような女に出会えるとは奇跡とさえ言えるだろう。
俺はあいつと結婚したいのだ。だが、プロポーズした後のあいつの態度、、、あいつは今何を考えているのだろう、、、あいつの気持ちを知りたい、、、そうだ、あいつの兄、良友にさりげなく聞いてみよう。そういえばまだ一緒に飲んだことがない。ちょうど良い機会だ、、、)

次の週末、松坂のマンション近くの居酒屋で、稲村と良友は日本酒で乾杯していた。「君と飲むのは初めてだね。君は明日は休日なんだろう。今夜は存分に飲もう。遠慮しないでくれ」   「はい、ありがとうございます」
稲村は上司や同僚と飲むことが多いので、酒の勧め方が上手かった。ヨシ(良友の通称)はついつい飲み過ぎてしまった。まあ、呂律が回らないほどではなかったが、すっかり上機嫌になっていた。稲村はこの機を逃さず聞いた。
「、、、ところでヨシ君は、兄弟はラムさんと二人だけなのかい」   「はい」   「僕は一人っ子で兄弟がいないんだ。だから妹がいる君が羨ましい。妹は可愛いだろう」   「いえ、ぜんぜん可愛いくないです」   「え、どうして」   「他の女の子は分かりませんが、妹は我儘で生意気で全く可愛いくないです。あれでは結婚できないだろうと心配しています」
「なんと、、、まあ身内だから厳し気に見ているのだろうね。僕から見るとラムさんはとても可愛いく見えるけどね。はっきり言ってラムさんとなら結婚したいなと思っているよ」   「え、本当ですか、、、」   「ああ本当だよ、でも8歳も年上では世間体が悪いから無理かな、と不安になっているがね」   「年齢差は全く問題ありません。僕の両親は年齢差22歳ですから。それより僕が心配しているのは、妹は頑固で日本語も日本の習慣も何も学ぼうとしなかったので、日本で暮らしていけるのかと。
その上、結婚して日本人の家庭に入って日本人のルールに従って、うまくやって行けるのかというのが心配なのです。とにかく妹は頑固で人のいう事を聞こうとしないので、知識を増やすことも人間性を高めることもできません。あれでは結婚したら夫が大変です」
「なんと、そうだったのかい。でも大丈夫だよ。日本の習慣とかは僕が教えるから。でも僕が一つ心配なのは、ラムさんは僕が嫌いなのではないかと」   「いえ、そんなことはないと思います。ただ、日本人男性と交際したことがないから自分の気持ちをうまく表現できないだけのようです」   「そうだったのか。安心したよ、、、では、はっきり聞いておきたいのだが、君は僕とラムさんが結婚することに反対はしないんだね」   「反対なんてとんでもないです。あんなできそこない、稲村さんにもらっていただけたら嬉しいです」   「君にそう言ってまらえて嬉しいよ。後は君の御両親に結婚の許しをいただくだけだな。で、その後お父様の容態はどんなだい。役所の書類は障害1級にしておいたから、これ以上の給付金額にはできないけどね」
「目はもう完全に見えなくなったようです。そのせいか、しょっちゅう独り言を言うようになって、もしかして分裂症とかの精神病になったのではないかと心配しています」   「なに、独り言を、、、」   「母は精神病院に入れた方が良いのではないかと心配していますが、病院に入れるだけの経済的余裕がありませんので困っています」
「お父様は75歳を超えておられるし、障害者給付金の対象者ですから、病院費用は十分支払えると思いますが、、、あれほどの小説を書かれた精神力の強いお父様が、精神病になられたとは僕には思えないのです、、、
近いうちにお父様にお会いしたいです。できたら御家族全員で一緒に食事しましょう。僕の方は土日なら大丈夫なので、ヨシ君すまないが一席準備してくれないかい。当然費用は僕が持つ。6人で3万円くらいの洒落たレストランが良いね」   「え、6人ですか」   「そう、良い機会だから僕の母も一緒にね」   「分かりました」

数週間後、6人でレストランで会食した。老人の妻は前日に風呂にも入れ出発前には紙おむつを付けさせて、タクシーでレストランに行った。事実上の顔合わせで妻は緊張していたが、黒いサングラスを掛けた老人は無表情に見えた。
独り言も全く言わず、妻の横に座っている老人を、後から席に着いた稲村と母は興味深そうに見ていたが、何も言わなかった。
オーダーを聞きに来たウエイトレスが去った後で、稲村の母は他の3人に軽く頭を下げてから「初めまして、稲村勝治の母です」と言った。それに対してヨシが座ったまま一礼して言った。
「初めまして、佐々木良友です。左に座っているのが父ですが、目と耳が不自由ですし、その隣の母は日本語があまりできませんので、僕が応対させていただきます。よろしくお願いいたします。
さて、僕の右に座っているのが愚妹のラムです。ラムはチェンマイ大学人文学部心理学科を卒業した後、1年間バンコクで働き、その後来日して僕と同じホテルで働いております。よろしくお願いいたします」
続いてラムが一礼してひとこと言った。「良夢(ラム)です。よろしくお願いいたします」
その後「ラムの母です、よろしくお願いいたします」と母も一礼して言った。その間にヨシが手に書いて伝えたのか、老人がそのままの姿勢で言った。   「ラムの父、佐々木良です。本日はご招待いただきありがとうございました。私は目も耳もこんな状態ですが、まだボケていませんので、ラムについて質問がれば何でも聞いてください」
すると稲村も一礼して言った。「稲村勝治です。本日はご一家でお越しいただきありがとうございました。よろしければ格式ばった作法等は抜きにしてざっくばらんにお過ごしいただければ嬉しいです。よろしくお願いいたします。
僭越ながら自己紹介をさせていただきます。京都のN大学卒業後、公務員試験に合格し鳥羽市役所に配属され9年目です。現在健康福祉課係長をしております。
役所の窓口で知り合ったご縁でラムさんと交際して本日に至っておりますが、今後は御両親様公認の結婚を前提としての交際を願っております。よろしくお願いいたします」

ヨシに稲村の言葉を手に書いて伝えられたのか老人が言った。「愚娘には身に余るお言葉、ありがとうございます。ふつつか者ですが娘をよろしくお願いします」
「早々に幸甚なお返事をいただきありがとうございます、、、ちょうど料理も運ばれて来ましたので食事しましょう。ご家庭内での食事同様に寛いでお召し上がりいただければ幸いです。アルコール類もご遠慮なくお楽しみください」

食事が始まった。松坂牛のステーキをメインにした洋食だったが、老人は誰よりも優雅にナイフとフォークを使って食事し、時おりワインを口に運んだ。
それを見て稲村だけでなく、妻もヨシも驚いていた。だが最も驚いていたのは稲村の母で、佐々木家よりも先に帰宅してすぐに稲村に聞いた。 「先方の御老人は本当に目が不自由なの。それとも欧米に長く滞在していたの。まるで子供の時からフォークとナイフを使っていたみたいだったわ」   「欧米に居たかどうかは聞いていないけど、手慣れた仕草だったね。目は間違いなく全盲だとの事だが、、、本当に不思議な人だ」
そう言った後で稲村は母に聞いた。「それより母さん、あの女の初対面の印象はどう」   「お前が既に結婚を考えているくらいだから悪い女ではないんだろ。でもちょっと大人しすぎるみたいね。まあ、初対面だから御上品にしていたのかもだけど。
今度ここへも連れて来なさいよ。家柄の面で言えばはるかに格下だけど、お前はどうせ飯炊き女くらいの気持ちで結婚する気だろう。まあ、それで良い。目当ての皇室血筋の女と婚姻できるまでの中継ぎだから、お前の好みの女で良いよ」   「うん、分かった」と稲村は答えたが、ラムの本心をまだ一度も聞いていないのがちょっと気になっていた。   (まあ、公務員で高給で後輩女性等から熱い目で見られている俺を嫌うような女は居ないはずだから、あいつに嫌われるはずがない)とうぬ惚れてもいた。

そのころ家族だけでレストランに残っていた4人は、どうせ帰りはタクシーだからと老人とヨシはワインを飲み、妻とラムはジュースやデザートを楽しんでいた。
そんな時、老人が言った。「ラム、お前本当にあの男と結婚するんだな」   「え、結婚、、、私まだ結婚したくない」ヨシに手に書かれてラムの返事を知った老人は「何を言っとるんじゃお前は。相手は結婚を前提にして交際をしたいと言うとるんじゃぞ。しかも相手は31歳で、早く結婚したくて焦っておるはずじゃ。お前も早く決心してそ、れなりの交際をせねばいかんじゃろが」と周りにも聞こえる声で言った。
途端に左隣の妻に膝を叩かれ、右隣のヨシに「「声が大き過ぎる。周りの人に聞こえてる」」と手に書かれた。耳が聞こえず、自分の声がどれほどなのか、周りの人の反応を見て判断することも、全盲になってできなくなった老人は不満そうに口をつぐんだ。
そんな老人の状態など気にもしないでラムはあっけらかんと言った。「だって私、彼と知り合ってまだ半年ちょっとよ。彼のこともあまり知らないし、結婚は早すぎるわ」
「何を言っているの。父さん母さんは知り合って1か月で結婚したのよ。半年も交際したらもう結婚の決心できるでしょう。31歳の男を焦らせたら悪いわ」と母がたしなめるように言った。
しかしラムは「父さん母さんはタイの村のやり方で結婚したんでしょう。でもここは日本よ。1年くらい交際するのが普通だって聞いたわ。私はまだ23歳だし、焦る必要はないわ」と言った。
その時、稲村とラムの結婚に賛成のヨシは、急に的外れの事を言い始めた。「ラム、ホテルの仕事はどうだ、慣れたか。もう仕事が遅いと怒られなくなったか」
「ダメ、今も時々怒られている。私は一生懸命やっているんだけどね。なんか班長が私を嫌っているみたい。この間、食事の誘いを無視したのが悪かったのかも」   「なに言ってるんだ。あの班長は優しくて良い人だぞ。その人の誘いを無視するなんて、、、お前にはホテルの仕事は向いていないんじゃないのか。さっさと辞めて稲村さんと結婚した方が良い」
二人の日本語でのその会話くらいは理解できる母も言った。「ヨシの言う通りだよ。身体が小さいしドン亀のお前には肉体労働は向いていないよ。早く結婚して家事専門になった方が良い」   「家事だって肉体労働じゃない。私はまだ一人でのんびりしたいの」
「ラム、稲村さんはもう31歳だ。焦らさない方がいい。それともお前は稲村さんが嫌いなのか」   「べつに嫌いじゃないけど、、、」   「だったらさっさと結婚しな。そうすれば父さん母さんも安心する」   「、、、」

翌日からまたいつもの日々が始まった。老人はアパートで一人になるとナオミと話した。「ナオミ、昨日はどうしておった。ワシは娘の彼氏と食事したぞ。美味いステーキじゃったし、ワインも良かった。やはり金持ちはええ物食っとるのう」   「おじいさん、良かったわね。それと彼氏のお母さんが、おじいさんのフォークとナイフの使い方が上手だって驚いていたわよ。どこで覚えたの」
「なに、フォークとナイフの使い方じゃとう。ハハハそれは目が見えんようになって、箸よりフォークの方が使いやすかったんで、いつも使っていたから自然に上手くなったんじゃろう。フォークとナイフで肉の位置を知れば、ナイフでいつも肉を押さえておき、すぐに切って食べれるじゃからのう」
「へー、そうだったんだ」   「ん、ということはナオミは昨日ワシと一緒にあのレストランに居たんか」   「、、、うん、、、だって、おじいさんと一緒にいないとつまらないから」
「ハハハ、そうじゃったんか。じゃナオミはあの男をどう思う。公務員で将来は安泰じゃし、悪い男には見えんのじゃが」   「、、、うーん、見た目には悪い人には見えないけど、、、」   「ん、どうしたんじゃ、なんぞ気になる事でもあるんか」   
「ん、私の思い過ごしかもしれないけど、、、あの人の後ろに中年の男の人がいて、恨めし気に彼氏を睨んでいるし、その後には学生服を着た高校生らしい女の子が、もの凄く怖い顔をして睨んでいたの。それが気になって、、、」
「なに、中年の男や高校生らしい娘が彼氏を睨んでおったじゃとう、、、」   「はい、とても怖い顔で、、、たぶん彼氏を恨んで死んだ、、、」   「なんじゃとう、彼氏を恨んで死んだじゃとう、、、そうか、お前は幽霊が見えるんじゃな。そうか、お前も幽霊じゃから見えて当然か。それより彼氏を睨んでいる中年男に女学生、、、ワシの娘との結婚を邪魔せねばええが、、、」
「ええ、私もそれが気になって、、、」   「こんな時はどうしたらええんじゃ。神社に行ってお祓いした方がええんか」   「いえ、今は中年の男が彼氏を守っているような感じですので、、、もしかしたら女学生は、彼氏じゃなく中年の男を恨んで死んだのかも、、、なにか複雑な事情があるみたいで良くわかりません。でも今の状態なら中年男に遮られて彼氏は大丈夫みたいですが、中年男が離れたりしたら、どうなるか、、、」   
「中年男が離れたりする可能性があるんか」   「ええ、まあ、、、例えば彼氏が娘さんとナニしている時とかは、、、そんな時、女学生が彼氏に憑依して事故を起こさせたり、、、」   「なに、事故じゃとう。じゃその弾みで娘にも災難がおきる可能性があるんか、、、うーむ、、、どうすればええんじゃ。ナオミ、どうすればええんじゃ」   「、、、私の思い過ごしかもしれないし、、、とにかくもう少し様子を見ましょう」

それからほぼ1か月が経ち、東京大阪等大都市で映画が上映された。他の短編映画の間に挟まれた上映だったせいか評判は良くなかった。客も、ついでに見ているくらいの感じで、あまり印象にも残っていないようだった。
だが、折しもメキシコやアメリカのマフィア犯罪が世界の多くの人々の関心を集めていた時だったため、数人のユーチューバーが動画で拡散してくれて視聴者が増え、時が経つに連れて映画鑑賞者も増えていった。
おかげで、もともと制作費用が少なかったことが幸いして、多少の利益があり、原作者の老人にも数十万円が配分された。
入金された老人の通帳を確認した息子がアパートに来て、そのことを老人の手に書いて伝えると、映画化された事もまだ知らされていなかった老人は驚きつつも喜んだ。
「なに、それは本当か。なら、これから回転寿司に行って宴会じゃ、、、なに、母さんが買ってくるからここで皆で食べるじゃと。ラムも来るじゃと、、、」
その夜、妻がパートの帰りに、いつもより少し良い宴会用の寿司を買って帰り、家族4人でささやかな宴会をした。老人が十数年書き続けていた小説で初めて金を得た日だった。
「アハハ、嬉しいのう。ワシの小説が映画になり金が入ったか」と老人はカップ酒を飲みながら上機嫌で言った。「「良かったね、父さん」」と息子が手に書いてくれた。老人は頷いてから言った。
「それもこれも稲村君のおかげじゃ。稲村君がワシの小説を読んで映画監督に紹介してくれたからじゃ。ラムは早く結婚して稲村君を支えてやるがええ。そうすれば良い夫婦になれるじゃろう」
妻も言った。「父さんの言う通りよ。いつまでも遊んでいないで早く結婚しなさい」   「ラム、これからは他の男の誘いは断っても、稲村さんの誘いを断ったらダメだぞ。もう婚約済みなんだからな。とにかくどこへでも一緒に行くようにした方が良いよ」とヨシも言った。
だが当人のラムは稲村との結婚に何故か気乗りがしなかった。稲村が嫌いなのではなかったが、結婚するということ自体に心が惹かれなかったし、周りの人の話が、まるで他人事のように感じられて真剣になれなかったのだ。
周りの人がみな結婚に賛成しているので、ラムは自分のその気持ちを誰にも話すことができず、黙っているしかなかった。日本に来て、そしてホテルで働きだして半年以上経つが、そのような事を話せる友達もできていなかった。
そんなラムに稲村だけは相変わらず積極的だった。その稲村の行動力に引っ張られて交際しているだけで、ラムは正直言って稲村に対する恋愛感情とまで言える気持ちはなかったのだ。
だからといってはっきり結婚を断る気にもなれないでいた。そんな精神状態だったから、結婚を前提にした交際といっても、浮ついた気持ちにはなれないでいた。また、そんなラムの気持ちを理解している者は周りに一人もいなかった。
ラムの休日の前日は決まって稲村とのデイトだった。稲村が夜7時ころ女子寮まで車で迎えに来て、夜中には送ってきていたが、6人での食事会以降は翌朝や昼前に送られてくるようになった。
ヨシはそのことをラムの女性上司から聞かされたが何も言わなかった。今時の婚約者は婚前交渉が当たり前で、できちゃった婚が普通だと思っていたから放っておいたのだ。

1か月ほど経ったラムの休日の午後、ヨシの仕事中にラムが父のアパートの鍵を借りに来た。「珍しいな、お前が父さんに会いに行くなんて」とヨシは言ったが、深くは考えていなかった。ただ、ラムの暗い表情が気になったが、その場では何も言わなかった。
その後ラムは歩いてアパートに行った。そっとドアを開けて中に入ると、奥の部屋で父が座椅子に座って誰かと話しているのが見えた。ラムが奥の部屋に入ったが、父以外は誰もいなかった。だが父は、実際に誰かと話しているようで、単なる独り言ではないように見えた。
その父がふいに話をやめラムの方へ顔を向けて「ラム、どうした」と言った。ラムは一瞬、父は目が見えるのかと思った。そしてその時、父の向こう側に人の気配がしてその気配がすぐに消えていくのを感じた。だがそんなことより、今ラムは父に伝えたいことがあり、近づいて父の手に名を書いた。
すると父は頷いてから言った。「一人か、ヨシは来なかったのか。母さんはまだパートから帰ってないだろ」   「「だから来たの、、、父さんと話がしたくて、、、私、稲村さんが恐い」」   「なに、どうした何があった」
ラムは父の横に座り、手に一文字づつカタカナで書いた。「「あの人、私を抱く時はいつも目の色が変わって、まるで別人のようになって私を乱暴に扱うの。しかも時々「優子お前は俺のものだ、誰にも渡さん」って薄気味悪い声で言って、首を絞められたこともあるわ、、、あの人もしかして二重人格者か、精神異常者かもしれない、、、私怖くて、あの人と一緒に居たくない」」
「なにい、それは本当か、、、首を絞められたじゃとう、、、」老人は顔色を変えてそう言った。それから少し考えてから更に言った。「あの男について他に何か気になることはないか。過去に女とトラブルがあったとか。そもそもあの男はどこに住んどるんじゃ」
「「あの人、過去の事は話したがらないから良く分からない。でも一度だけ、家は京都の外れに大きな家があり、先祖は庄屋。代々町長や公務員で、父親も京都市役所の重役だったとか。でも父親が死んでからは、母親と二人で松坂のマンションに住んでいるって言ったことがあるわ」」
「ふーむ、先祖代々の金持ちで権力者か。そんな金持ちが貧乏人の娘と結婚したがること自体がおかしいと思っておったんじゃが、、、分かった、あの男について調べてみよう。お前はしばらくあの男に会わんようにしておれ」
「「母さんにも話したいわ」」   「母さんにはワシが話しとく。じゃからお前はもう寮に返っとれ。暗くなるぞ」   「「でも父さん、どうやって調べるのよ」」   「ハハハ、心配するな、ワシにもツテがある」

ラムが帰ると老人はすぐにナオミに話しかけた。「ナオミ、どう思う。なにやらあの男、胡散臭くなってきたぞ。もしかして優子というおなごは、あの男に、、、」   「私もそんな気がしてきました、、、中年男の後ろから睨んでいた女学生の名前がもしかして優子さんなら、、、でもどうやって確認したら良いのか、、、」
「お前は幽霊同士じゃが、名前を聞いたりできんのか。名前が確認できれば、それだけでもあの男が殺人犯じゃという可能性が高くなるんじゃがのう」   「できるかもしれませんが、会うのが恐いです。恨みの念がとても強いので」
「ふーむ、そうなんじゃ、、、幽霊の世界もいろいろあるんじゃのう、、、分かった、じゃあの男に直接聞こう」   「えっ、そんなことが、、、」   「ハハハ亀の甲より年の劫じゃよ。ワシに策がある。近いうちに家族で作戦会議を開く」

数日後アパートで会議を開いて老人が言った。「良いか、あの男がレストランの席に着いたらラムは横に座り、気づかれんようにスマホで録音するんじゃぞ。
ヨシは男の真ん前に座っていきなり『優子さんの遺骨はどこですか』と聞いて、あの男の目の動きを見逃すな。全く知らない名前なら不思議そうな顔をするじゃろうが、犯罪者なら必ず動揺するじゃろう。そうしたら母さんはスマホで録画するんじゃぞ」
「「父さん、いきなり『優子さんの遺骨はどこですか』って聞いたらマズいよ。証拠もないんだし」」とヨシが老人の手に書くと老人は笑って言った。「なに、かまわん、どうせはったりじゃ。まあそれじゃあ『優子さんはどこですか』に変えてもええじゃろう。もし稲村がとぼけて『優子って』と聞き返すなら『妹との行為中に、お前が口走ったおなごの名前だ』とはっきり言ったらええ。
行為中に他のおなごの名前を言うこと自体が異常なことじゃからのう。まあ、やましい事があるじゃろうから、名前を聞いただけでうろたえるじゃろうと思うがの。で、いつどこで5人で会うんじゃ。静かで安い店がええぞ」
「「まだ稲村さんに電話していない。決まったら母さんに電話するから」」とヨシは老人の手に書いた。少し沈黙の時間が過ぎた後で、母さんが不愉快そうな顔で独り言のようにタイ語で言った。「あの時、他の女の名前を言うなんて、、、考えたら本当に異常だわ。普段は好印象なのにね、、、」
「もしかしたら普段は正常でも、その時に本性が現れるのかもしれないな。なんにしても放っておけない。父さんの言う通りやってみよう」とのヨシの言葉で会議を終えヨシとラムは寮に帰って行った。

数日後あまり客が来ない静かなレストランに5人が集まった。事前の打ち合わせ通り、稲村の横にラムが座り、向かい側に老人ヨシ母さんの順番で並んで座った。ウエイトレスに注文した後でヨシが言った。
「稲村さんのおかげで、父の小説が映画化され利益があった事を父はとても喜んでいます。ありがとうございました。今夜はせめてもの御礼です」   「なに、そんなことで気を遣わなくても良いのに。実際お父様の小説が良かったからだよ」と言いながらも稲村も嬉しそうだった。
稲村のその表情を見て(今だ!)と判断したヨシは言った。「ところで優子さんはどこに居ますか?」   「うっ、ゆ、優子だと、、、」名前を聞いただけで稲村の顔色が変わった。「し、知らん、お、俺は優子の居場所など知らん」
ヨシはたたみかけるように言った。「そもそも優子さんって誰なんですか?。稲村さんのもと恋人ですか?。まさか今も恋人では?」   「ち、違う、優子は恋人じゃない、、、優子は、、、な、何故君が優子を知っているんだ。優子は9年前に、こ、、、うっ、今日はこれで失礼する」と言って稲村は急に立ち上がり逃げるように帰って行った。

稲村が帰た事を手に書かれて知った老人は「録音と録画はうまくいったか。ヨシは稲村の挙動をどう思う。正常な行動だと思うか」と聞いた。ヨシはすぐに手に書いた。「「挙動不審が一目瞭然だった」」
「やはりそうじゃったか、ということは優子というおなごは間違いなく稲村と関係があったおなご。しかも、あの時に口走るほどの因縁のあるおなごということじゃ、、、優子さんについて調べるべきじゃのう」
「「なんにせよ、今もそんな女性と関係がある男と妹を交際させるわけにはいかない。ラムは稲村さんの潔白が証明されるまで交際中止だ。電話にも出るな」」とヨシは老人の手に書いてからラムにも言った。
するとラムは暗い顔をして言った。「私、妊娠したみたい」   「なに、、、」と母とヨシが同時に言った。ヨシに手に書かかれた老人も驚いて言った。「なんじゃとう、本当か、、、」   「たぶん、、、歯を磨いても吐き気がするし、料理の匂いを嗅いでもするの。だから間違いないとおもう、、、」
「うーむ、、、本当なら堕ろした方がええじゃろう。稲村が本当に優子というおなごと関係があるならの。大至急それを確認せねばならんじゃろう」その時、料理が運ばれて来たので4人は食事をはじめたが、みな暗い表情だった。

翌日妻がパートに行った後、老人はナオミに言った。「ナオミ、昨日の稲村の行動をどう思う」   「優子さん殺害容疑者に間違いないと思います。それに私、あの後稲村についていったんです。そうしたら、車に乗ろうとしていた稲村を挟んで中年男と優子さんが怨霊のような顔で睨み合って、、、私は怖くて近づけませんでした。でもその時気づいたんですが、中年男も優子さんも服がびしょ濡れで、、、たぶん水の中で死んだんだと思います」
「なに、服がびしょ濡れじゃった、、、二人ともか」   「ええ、、、川か、、、そうだ井戸の中かもしれない。二人とも水の中で死んだようです。いえ、死んだ後、水の中に捨てられたのかも、、、」   「なに、二人とも水の中で死んだか、水の中に捨てられた、、、井戸の中じゃとう、、、優子さんは井戸に投げ込まれたかもしれんが、中年男はどうして、、、もしかして誰かに突き落とされたか、、、誰に、、、」
「、、、もしかしたら優子さんを探して井戸を覗き込んだ時に後ろから、、、」   「うーむ、、、お前の推理通りじゃったら稲村は、優子さんと中年男まで殺したことになる、、、そんなことが、、、今どき井戸があるとすれば古い民家じゃろう、、、確か稲村の実家は、、、いずれにせよ娘の腹の中の子は早く堕ろした方がええようじゃな、、、」
「これからどうすれば、、、」   「妻が帰ってきたら娘に電話して、子を堕ろすように言おう。それから息子に、稲村の実家に井戸があるかグーグルアースででも調べさせよう。稲村の実家は映画監督が知っとるじゃろう、、、
お前の推理通りじゃったら稲村は本当に二重人格者かも知れん、、、そんな男に家族みんなで結婚を薦めた、、、ワシは娘に悪いことをした、、、」   「、、、仕方がないですわ。普段は正常で理想的な結婚相手ですもの」

数時間後、妻が帰ってくると、ラムやヨシに電話させたり、ナオミの推理を適当にアレンジして話した。当然幽霊同士の出来事までは話せなかったが、稲村が二重人格者の可能性が高いことは強調しておいたから、子を堕ろす理由は理解したようだった。

数日後ヨシがアパートに来て老人の手に書いた。「「稲村さんの実家は簡単分かったし、グーグルアースの航空写真でも見れた。屋根付き塀で囲まれた広い敷地内の角の倉の横に井戸らしい物も見える。だが、何かで蓋をしているようで中までは見えなかった。それでこれからどうすれば良いのか父さんに聞きにきた」」
「そうじゃったか。これで稲村の殺人容疑の可能性がますます高まったの。じゃが、これより先はワシらでは手出しできまい。まさか家に行って井戸を見せてくれとは言えんじゃろうからの。残念じゃ、、、
じゃが、稲村に堕胎費用や慰謝料は請求できそうじゃ。ラムが子を堕ろしたいと言えば、稲村は怒るかもしれんが、その時は優子さんの事を言えばええし、場合によっては井戸の中を見せてくれと言えばええ。その時の稲村の挙動次第じゃが、ワシは稲村がそうとううろたえると予想しておる。
それとなヨシ、そんな広い家があるということは、そのあたりの昔からの有力者だったのじゃろう。そんな有力者の息子がもし、女学生を連れ込んで拉致しても、もしかして倉に連れ込んで淫らな事をしても誰にも気づかれまい。もし気づかれても有力者なら揉み消すのは容易いじゃろう。
つまり稲村の過去にそんなことがあったとしても誰も知る事ができん。バレなければ稲村は、これ幸いじゃと犯罪を繰り返したじゃろう。まさにやりたい放題じゃ。
そのうち度が過ぎて殺してしもうたとしても、あんな広い敷地内じゃ、死体を隠す場所はいくらでもある。井戸は一番の有力候補地じゃろうがの。つまり稲村のような有力者の息子が犯罪を犯したとしても、重大証拠が見つからなんだら逮捕することも法律で裁くこともできん。
そうやって闇に葬られた犯罪は、日本にも世界中にも恐らくいっぱいあるじゃろうし、その被害者の魂は決して浮かばれまい。
じゃが、、、稲村はたまたまボロを出した。優子さんの霊に憑りつかれたのか、名前を口走ってしもうた。これも何かのご縁じゃろうから、ワシは稲村の犯罪をなんとか暴きたいのじゃがのう。何かええ策はないじゃろうかのう、、、まあ、ヨシは稲村に会ってラムの慰謝料を要求してくれ。挙動を見れるから会った方がええんじゃが、会えんかったら電話で交渉してくれ。
おお、そうじゃ。いま思いついたが、ラムはもう堕ろしたんか。まだじゃったら将来の為に堕ろさん方がええかもしれんぞ。
なに、まだ一度も病院に行っとらんのか。もしかしたらグズなラムの性格が幸いしたかもしれんぞ。と言うのはの、もし稲村が殺人罪で有罪になれば、無期懲役か死刑じゃろう。そうなれば稲村家は途絶えてしまう。
じゃが、ラムの子は紛れもなく稲村の子じゃ。堕ろしたりせず育てれば稲村家の全財産がラムの子のものになる。まさに災い転じて福となすじゃ。
例え稲村の母が何と言おうと、ラムの子よりも長生きするはずがない。母親が死ねば、その後の稲村家はラムの子のもんじゃ。じゃからラムは子を堕ろさん方がええ。それどころか何としてでも結婚した方がええの。結婚式はどうでもええが、入籍だけはさせねばならんぞ。
そうなると慰謝料の要求はまだせん方がええじゃろう。しばらく放っておいて稲村の行動を監視しておればええ。その間にワシらは、稲村を有罪にする重大な証拠を見つけたらええ。どうじゃヨシ、お前はどう思う」
「「父さん、凄い、、、じゃあ稲村さんは放っておいて良いんだね」」
「ああ、、、じゃからラムには子を堕さず稲村と交際し続け、もしまた稲村が怖い事をするようじゃったら、その時は妊娠したことを話し、早く結婚してくれるようにせがめばええ。稲村がたとえ精神異常者になっても、妊娠しているラムに危害は加えんじゃろうて。
それと入籍さえすればその後は別居してもええから、ラムには入籍するまで何としてでも我慢しろと伝えてくれ。ラムや子の未来の幸せな暮らしの為じゃと言ってな」   「「分かった、ラムに伝えるよ」」そう手に書いてからヨシは帰って行った。
その後すぐにナオミの声が聞こえた。「おじいさん凄い。孫の未来まで考えたんだね」   「なんじゃ、聞いておったんか、、、じゃが、物事はそんなに簡単には行かんじゃろうて。
一番の問題は稲村の犯罪を暴くことじゃが、なんとか井戸の中を見る方法はないかのう。ワシはお前の推理通りじゃと思うとるが、何の物的証拠がないんで警察に話すこともできん。どうすればええんじゃろう」   「、、、物的証拠、、、」
「そうじゃ、稲村家の井戸から優子さんの骨でも見つかれば完璧な証拠になるんじゃがのう、、、まあ焦らんでええんじゃ。順番としては入籍が先じゃからの。入籍した後で稲村が殺人罪で捕まり、終身刑か死刑になればええんじゃ、、、じゃからそれまでに井戸の中を見る方法を考えるとしょう。お前も何ぞええ方法を思いついたら教えてくれ」

それから2か月が経ち、老人はそのアパートで二度目の冬を迎えた。ラムは稲村に妊娠していることを告げ、結婚入籍に王手をかけていた。
とは言っても元々は稲村が結婚を望んでいたのだし、稲村はまさかラムやその父が、自分の犯罪を暴き刑務所送りにして、その後の稲村家の全財産を奪う計画を立てていることなど全く知らず、予定通りの結婚を待ち望んでいたから、結婚式が近づくにつれウキウキしていた。

そんなある日、老人は稲村家の井戸を見る方法を思いついた。そしてヨシを通してその方法を実行させた。
「稲村兄さん、僕はこの間初めて京都御所を見学して、日本の古い家や庭園にとても関心を持つようになったんです。それで稲村兄さんが次に御実家に行かれる時、同行して見学させていただけないでしょうか。御実家は昔ながらの旧家ですよね」
「うっ、実家を、、、結婚式前から僕を兄さんと呼んでくれる可愛い弟の頼みなら喜んで連れていくが、何年も手入れしていないからたぶん草ぼうぼうだよ。それでも良いなら、、、」   「かまいません、よろしくお願いします」
そして見学当日、稲村親子とラムとヨシの4人で実家の敷地内に入った。稲村の言った通り草ぼうぼうだったが、冬枯れしていて敷地内駐車場も庭園も草を踏み倒しながら歩くことができた。
立派な家と言うよりも豪邸と言える家の中を案内してもらい、高価な家具類を自慢げに説明する稲村の母親に内心辟易しながらも笑顔で家の中の見学を終え外に出ると、グーグルアースで裏庭の配置等を記憶していたヨシは、興味深げに倉を指差して聞いた。
「兄さん、あの家はなんですか?。」   「ん、あれは米蔵だよ。昔庄屋だったころは、あの倉いっぱいに米を蓄えていたそうだが、今はガラクタ倉庫になっている。もう何十年も誰も入っていない」   「へーおもしろそう、ちょっと見てきていいですか」とヨシは言って、稲村の返事も聞かずに米蔵に行った。
米蔵の扉には昔ながらの錠前が掛かっていたが、両扉の隙間から内部が少し見えた。だが稲村の言った通り、錆びた鍬などの農機具が乱雑に置いてあるだけだった。だが、内部の暗さに目が慣れてくると、それらの向こうに畳を敷いた3メートル四方ほどの空き間が見えた。
しかしヨシは何も見えなかった風を装い、そこを離れて米蔵の横に行った。そこにはグーグルアースで見た通り、直径1メートル50センチほどの井戸があり、上には薄い鉄の蓋がしてあった。おまけに側面には大きな鍵まで掛けられていた。
(何故鍵を掛ける必要があるのか)と考えた時、ヨシは父が言った事が現実味を帯びて思い出された。(うーん、疑惑満杯だな)と思われたが、素知らぬふりで稲村たちの居る所へ帰った。そしてその日は何事もなく寮まで送ってもらった。
翌日、一刻も早く父に話したかったヨシは、休息時間に自転車でアパートに行った。そして米蔵や井戸の事を手に書いて伝えると、父は「やっぱり井戸があったか、、、」と言ってから考え込んだ。ヨシは「「今は時間が無いから帰る」」と手に書いて帰った。
その後老人はナオミに話しかけた。「やはりお前の推理通り、あの家には米蔵も井戸もあった。米蔵で犯罪を犯し、死体を夜、井戸に落とすことは十分あり得たじゃろう、、、
後は、あの井戸の中に本当に死体が、いや、もう骨だけになっているじゃろうが、それが見つかれば稲村を逮捕できるじゃろう。だが、それは結婚式と入籍の後でええ、、、焦る必要はない」

春のお彼岸が近い土曜日、前日に役所で入籍手続きを済ませた稲村とラムの華やかな結婚式が、ヨシの勤めているホテルで披露された。
「迷惑をかけたくない」と言い張って来なかった父のために、佐々木家は花嫁のラムを含めてわずかに3人。しかし稲村家は80人ほどで、まるで稲村家一族だけの披露宴のようだった。
だがラムの花嫁衣装姿は綺麗だった。ラムは小柄で華奢な体型だったが、それがかえって人形のような可愛さを醸し出していた。それを見て稲村家一族もみな感嘆の声をあげた。当然花婿の稲村は歓喜し鼻高々だった。
やがて披露宴が終わると、新婚旅行に行く為に、ホテルからタクシーに乗った。その時ラムを見送るヨシがタイ語で言った。「ラム、旅行が終わるまでの辛抱だ。1週間後帰ってきたら、稲村は刑務所だ」

その夜、ヨシは後輩の運転する車で稲村の実家に行った。家の扉から数十メートル手前に車を停め、額にヘッドランプを着け、十字形鉤を付けた長いロープや大きなビニール袋の入ったバッグと、大きな番線切鋏を持って家の扉前に行くと、暗がりの中で錠前を番線切鋏で切った。
敷地内に入り扉を閉めると、ヘッドランプを点け井戸の所へ行き、そこの錠前も切った。それから後輩と二人掛かりで鉄の蓋を外すと、途端に何と形容してよいか分からない悪臭がしたが、風が吹いていたおかげで風上に回るとあまり匂わなかった。
ヨシは井戸の中を覗いたが3メートルほど下に水面が見えるだけで、他は何も見えなかった。さっそく十字形鉤を付けたロープを降ろした。底までは7メートルほどだった。ロープを左右に引っ張って十字形鉤を移動させているとすぐに何かに引っかかった。
ヨシは怖くて震えながらもロープを引き上げた。十字形鉤に引っかかっていたのは、骨盤らしい骨とボロボロになっているベルトだった。ヨシはそれをビニール袋に入れ、もう一度ロープを降ろして十字形鉤を移動させた。
次に引っかかって上がってきたのは、細めの上腕らしい骨だった。骨の真ん中が奇跡的に鉤二本に乗っかかって上がってきた。まるで、どうしても引き上げてくださいと言いたげに。ヨシはそれも丁重に別のビニール袋に入れた。
「これだけあれば十分だろう、帰ろう」そう言ってヨシは、後輩と一緒に鉄の蓋をして、持ってきた新しい鍵を掛けた。門の扉にも新しい鍵を掛け、ゴム手袋を外して小さなビニール袋に入れてから車の所へ行った。番線切鋏と骨の入ったビニール袋やバッグを全てトランクに入れ、助手席に座るとヨシは後輩に言った。
「怖くて死にそうだったけど、君のおかげでうまくいったよ、ありがとう。後は父のアパートまで無事に荷物を届けるだけだ。警察の検問がなければ良いが」
結局、検問もなく無事、夜中前には父のアパートに着いた。寝ていた両親を起こし、父の手に大成功だった結果を書いて伝えてからヨシは寮に帰って行った。
だがヨシは翌日、仕事を休んでアパートに行って、父と今後の計画を立てた。
「よくやった、完璧じゃ。後は、そうじゃな先に小さい骨とベルトを警察に送ろう。だが京都府警は、稲村家と癒着しているかも知れんから、三重県警察本部にしょう。骨と手紙、手紙の文賞を言うから書いてくれ」
「「三重県県警本部長殿  貴殿が事件の真相を追求する正義感ある人物だと信頼して、貴重な証拠物の一部を送付する。この証拠物は、稲村家旧宅(住所、京都府―)の米蔵横の井戸から取り出された物である。速やかにDNA鑑定等をされ、凶悪事件全容解明に役立てていただきたい。なお骨盤等、他の証拠物は他県警に送付する。最も優秀な県警に、我々の正体と扉及び井戸の新しい鍵の在りかを通知したいと考える。先ずは鑑定終了後のサインとして、警察署ビル屋上に白旗を掲揚されたし。白旗確認後、鍵の在りか等を通知する。」」
「ヨシはこの文章をワープロで打って、コピーして骨と一緒に県警に持って行ってくれ。薄いゴム手袋をして指紋を付けんように、骨と手紙の入った荷物の取り出し時など、監視カメラの死角を利用して、お前の身元がバレんように気をつけてな」
ヨシはその日の内に実行した。三日後にはビル屋上に白旗が確認され、骨盤送付と鍵の在りかを通知した。
管轄外の三重県警だったから、県警も秘密裏に空き家の稲村旧宅に侵入し、井戸から多くの証拠物を押収した。そして驚いた事に御遺骨は6人分も引き上げられた。
当然、重要参考人として、稲村の母親と新婚旅行から帰ってきたばかりの稲村とラムも任意同行されたが、ラムは来日後の期間等から事件とは無関係と判断され、翌日には稲村家のマンションに帰された。だがラムはそのマンションを嫌って、父のアパートに住み着いた。そして来る日も来る日もスマホを眺めてゴロゴロしていた。
父はナオミとの話もできず、イライラしながらラムに言った。「ラム、お前どうする気じゃ、ここに住むつもりか」   「「そのつもり」」とラムは父の手に書いた。「そのつもりったってお前、ここは父さん母さんの二人だけでも狭いのに、お前まで一緒では、、、お前には稲村の立派なマンションがあるじゃろうが」
「「人殺しの住んでいたマンションなんて嫌だ」」   「そんなこと言ったってお前、、、それじゃあホテルの寮はどうなったんじゃ」   「「寮は結婚式前に仕事を辞めてるから居られない」」   「ぐ、ぬぬぬ、、、」
「「そうだ私、横浜に住みたい。父さん、横浜にアパート借りてよ」」   「な、なんじゃとう、横浜に住みたいじゃとう。何故じゃ」   
「「だって横浜には、おばさん夫婦が住んでいるんでしょう。子供が生まれたら助けてもらえるわ」」   「その時は母さんが居るじゃろうが」   「「母さんは日本の事を何も知らないから役に立たないわ。おばさん夫婦の方がいい」」
「ぐ、ぬぬぬ、、、横浜でアパートを借りるたって金はどうするんじゃ。ワシは金ないぞ」   「「大丈夫よ。当分の間の生活費だって言って、稲村が残高100万円の銀行カードをくれてるから。100万円あれば安いアパートなら借りれるでしょう」」
「アパートを借りるのに100万円使ってしもうたら、その後の生活費はどうするんじゃ」   「「生活費だけなら父さんの年金で足りるわ」」   「な、なんじゃとう、ワシも横浜のアパートに一緒に住むんか」   「「当然じゃない。父さんは若いころ横浜に住んでいたんでしょう。横浜の事は何でも知っているんでしょう。私がシングルマザーになっても心強いわ」」   「ぐ、ぬぬぬ、、、糞、お前はいつの間に、そんなに口達者になったんじゃ、、、分かった、母さんが帰ってきたら相談せえ。もし母さんがええと言うたら、、、」   「「分かった、そうする」」
その母さんも、あっさりラムの言うことに賛成した。しかもパートを辞めて自分も横浜に住むと言う。   「糞、、、まあええわい、このアパートもどっちみ5月初めで契約が切れるんじゃから、思い切って横浜に引っ越すか、、、じゃがヨシはなんと言うかの。母さんヨシにも話してみろ」
そのヨシはヨシで、結婚式以前に稲村の紹介で、貿易会社の通訳としての再就職が決まっていて、4月末にはバンコク支店に引っ越すと言う。その上それを聞いた母さんがすぐに、自分もバンコクに住みたいと言い出した。バンコクでラムと一緒の時は、ラムの収入が少なくて大変だったが、ヨシの収入は3倍以上あるから問題ないと言う。
「糞、勝手にしろ、、、じゃがバンコクに引っ越す前に、横浜のアパートの賃貸借契約をしてくれ。ラムではできんじゃろうからの」ヨシは快諾してくれた。

4月末、ヨシと母さんはバンコクへ、老人とラムは横浜のアパートへ慌ただしく引っ越した。

横浜での暮らしが始まった。アパートは横浜駅からバスで1時間ほどの古い市営団地の1階だった。寝室が二つと風呂とトイレと台所があった。寝室一部屋は改装されてホテルのようにきれいだったが、もう一部屋は昔ながらの畳の部屋だった。
ラムは当然の如くきれいな部屋に入り、老人は畳の部屋になった。まあ、引き戸を開ければすぐトイレがあるので、全盲の老人には便利だった。それ以上に、二部屋あるおかげでラムに気兼ねなくナオミと話しができることが老人は嬉しかった。
「ナオミ、これでまたお前と話ができるぞ。ワシは嬉しい」   「おじいさんが喜んでくれると私も嬉しいです。で、今日は何の話をしますか」   「そうじゃな、、、お前はこの頃、あの優子と言う幽霊に会っておらんのか」
「ええ、稲村の所へ行ってないので、、、」   「そうか、、、その幽霊も稲村が警察に捕まったことは知っとるんじゃろうかのう」   「知っていると思います。たぶんいつも見ているでしょうから。まあ、あの中年男、どうも稲村の父親らしいですが、父親に追い払われたかも知れません」
「なに、あの中年男は稲村の父親じゃったのか。で、父親に追い払われたりするんか」   「はい、普通なら我が子を守ろうとする霊気は他人の怨念よりも強いですから」   「ふーむ、なるほどの、、、じゃが、自分を殺したかも知れん息子でも守りたいんじゃろうかのう」   「さあ、親子の感情は、当人同士にしか分かりませんから」   「ふーむ、、、」


横浜のアパートでの暮らしに慣れたころ稲村の母親から電話があった。「ラムさん、あなた今どこにいるの。面会にも来ないで、何を考えているの。あなたはもう稲村家の人間なのよ。当然、母である私の世話をするべきでしょう。早くマンションに帰ってきなさい」
ラムは落ち着いて一言言った。「私は、人殺しの住んでいた所に居たくないです」   「な、なんですって、、、」母は後の言葉が出なかったようだ。ラムはかまわず、さらに冷酷な事を言った。
「私は人殺しの子を生みたくないです。子どもを堕ろして離婚したいです。でも私のお腹の中の子は、稲村家のただ一人の跡継ぎでしょう。私はどうすれば良いのですか。私はまだ23歳です。子を堕ろして他の人と再婚したいです」
「ま、待って、、、待ってちょうだい、、、子を堕ろすなんて、とんでもない、、、馬鹿なことを言わないでちょうだい、、、あなたのお腹の中の子は大切な稲村家の子なのよ。堕ろすなんて言わないで、、、待って、、、よく考えましょう、、、」
「でももう4ヶ月です。5ヶ月過ぎたら堕ろせなくなります。私は」   「待って、、、待ってちょうだい、、、落ち着いて、、、落ち着いて考えましょう。よく考えて、、、明日また電話するわ」
そう言って稲村の母からの電話は切れた。その後ラムは(よく考えるのは、あなたの方よ)と思った。実はラムは、稲村の母から電話があったら何と言おうかと事前に考え尽くしていたのだ。しかも予行練習までしてこの時に備えていたのだ。
ラムは、電話の内容を老人の手に書いて伝えた。すると老人は「よくやった。これでお前は稲村の母よりも優位に立てたじゃろう。今後はお前の思うままじゃ。子どもを盾にして有利に対応すればええ」と笑顔で言った。

翌日また電話があった。「ラムちゃん、会って話がしたいわ。今どこにいるの。お金をあげるからすぐに松坂に来てくれる」   「私、いま東京に住んでいるんです。それに、お腹の子のせいか体調が悪くて出かけられません」
「え、体調が悪い。それはいけないわ。病院には行ったの」   「それが、、、お金がなくて定期検診も、、、」   「なんですって、、、口座番号を言いなさい。送金するから。10万円で足りる」   「さあ、、、」
「では20万円送金するから、すぐに病院へ行きなさい。とにかく子どもの健康を第一に考えてね」   「わかりました。そうします。ありがとうございます」と言ってラムは電話を切った。
ラムがこの時の電話のやり取りも老人に伝えると、老人は「それでええ、電話での対応だけで会わん方がええ。じゃが、病院には行った方がええぞ。明日にでも行って、ついでに入金しておるか確認してくればええ。
それとな、次の電話では稲村の状態を聞け。病院で夫の事をしつこく聞かれて辛かった。早く離婚したいですとか言ってな」と言った。ラムは「「分かった、そうする」」と手に書いた。

数日後の電話の時、ラムは「病院で本当に夫が居るのかと医師にしつこく聞かれて辛かったです、、、私は何と言えば良かったんですか。夫は刑務所に居ますと本当の事を言って良かったんですか。
もう3か月です。でも私は夫の事を何も知らされていません。こんな夫婦ってありますか。私は一人で人殺しの子を生むんですか、、、せめて夫の状態を知りたいです」と涙声で言った。すると稲村の母は、電話を通しても狼狽えているのが感じられる声で言った。
「ご、ごめんなさいね、息子が馬鹿なことをしたせいで、あなたにも辛い思いをさせて。で、でも、待ってちょうだい、、、落ち着いて。私が今から現状を話すから、、、
息子とあなたが新婚旅行から帰ってきて、空港で警察官に拘束された時、私も到着待合室で拘束され警察署に連行されたのよ。実家の井戸から遺骨が見つかったから、当時実家に住んでいた私や息子が疑われたのは当然だわね。
しかもそのころ私の夫が失踪していたから、私も厳しく尋問されたのよ。でも私には全く身に覚えがない事だったし、夫はどうしょうもない浮気者で、浮気相手の女の所で何か月も同棲する事がしょっちゅうあったから、いつ失踪したかも分からないと言ったの。
それでも釈放されないから、弁護士を雇い保釈金を払って何とか仮釈放されたのよ。でも息子は、大学を卒業して松坂のマンションに引っ越した後も、実家に行ってたのが分かって、夫殺害の重要参考人として、さらに厳しく尋問されているようなの。
それと弁護士を通して数日前に知らされたのは、見つかった遺骨は6人分で、」   「え、6人分も、、、」   「そう成人女性が二人分、成人男性が一人分、成長途中の女性が一人、それと胎児の遺骨が二人分だったそう。でその胎児のDNAが成人女性二人とそれぞれの親子だったとわかり。
その上、夫の定期健康診断時の血液のDNAと男性遺骨のが一致して、遺骨が夫だと確定されたのよ。でも、それを知らされても私は何とも思わなかったわ。あんな浮気者の夫の骨が井戸から見つかっても、私の知ったこっちゃない。稲村家のことを全て私に押し付けて、自分は女遊びに耽っていた浮気者の夫など、どうなろうとどうでもよい。
まあ、全てを押し付けられたおかげで私は、稲村家の全財産管理をして、今では全ての通帳も印鑑も権利書も私が持っているの。つまり稲村家のお金の出し入れは全て私が自由にできるのよ。だから、あなたがお金が要る時はいつでも言ってね」
「ありがとうございます。でも夫の裁判費用とか亡くなられた女性の賠償金とか、お金が必要になるのではないですか」   「、、、その金額はいくらなの。1億円、2億円、そんなはした金どうにでもなるわ。
京都にある稲村家の広い土地の資産だけでも数千億円なの。それに、借地料金やマンションの賃貸料収入を合わせたら、それだけで私やあなたが一生贅沢な暮らしをしたって使い切れないほどなのよ。だから、あなたはお金のことは何も心配しないで」
「、、、わかりました」と言った後でラムは(お金って、あるところにはあるるんだね。じゃあ安心して奪い盗れるわ)と決意を新たにした。そんなラムの決意など知りもしないで、稲村の母は続いて言った。
「それでね、夫の遺骨が井戸で見つかったせいで、息子への疑いが一層強まって、仮釈放さえもできない状態なのよ。毎日毎日厳しい尋問が続いているの。
でも、私は息子の無実を信じているわ。優秀な弁護士をつけて絶対に無実を勝ち取るつもりよ。だからあなたも、人殺しなんて言わないで。まだ罪人と決まったわけではないからね。あなたも息子が無実になるように協力してちょうだいね」
「わかりました。面会の日時がわかりましたら教えてください。私も行きますから」と言ってラムは電話を切り、その後、会話内容を父に伝えた。父も遺骨が6人分だった事に驚いてから言った。
「なんじゃとう、遺骨が6人分じゃったとう、、、もしかしたらあの井戸は昔から死体の捨て場じゃったのかも知れんのう。怖い事じゃ、、、ということは稲村家では昔から人殺しが繰り返されていたということじゃ、、、
まあ、性根の悪い金持ちならどんな悪さをしておったとしても不思議じゃあない。ましてや稲村家のような、広い敷地を高い屋根付き塀で囲い、人目につかない位置に米蔵や井戸があるだけでも、犯罪の匂いがしてきそうじゃわい。
それにしても6人分の遺骨。まあ、胎児は成人女性の腹の中に居たのじゃから実際に殺されたのは4人ということじゃろうがの。じゃが、稲村が4人とも殺したんじゃろうかのう。警察の捜査状況を知りたいもんじゃ、、、」

それから1か月ほど経って電話があり、ラムは稲村の母と面会に行くことになった。当日昼前に津市駅前で待ち合わせをしてタクシーで警察署に行く予定だったが、稲村の母はラムの大きな腹を見て言った。
「まあ、大きいわね、大丈夫」稲村の母の言葉を予想していたラムは待っていましたとばかりに言った。「はい、本当に大変です。妊娠するのがこんなに大変だとは思いませんでした。早く出てほしいです」
「まあ、そう言わないで。母親はみな同じ思いをしているのよ。ところで予定日はいつなの。もう近いでしょう」   「はい、4日後です」   「え、4日後、、、そんな時に、ごめんなさいね。とにかく気をつけて、、、タクシーが来たわ」
タクシーの中では稲村の母は、運転手に「津市警察署へ」と言った以外は何も言わなかった。警察署内の受付等も全て稲村の母が行った。そして面会も母が先に行った。待つ間にラムはトイレに行ったりして時間をつぶした。
15分ほどで母が真っ青な顔で出てくると、入れ替わりにラムが面会室に入った。窓ガラスの向こう側に、やつれ果てた稲村がうつむいて座っていた。
だがラムが大きな声で「あなた」と言うと稲村はしかたなさそうに顔を上げてラムを見た。そして予想通りラムの腹の大きさに目を見開いていた。ラムはわざと見せつけるように、しんどそうに稲村の向かいの椅子に座った。
「予定日は4日後よ。あなたの子よ、嬉しくないの。私は堕ろして離婚したかったの。でもあなたの母が稲村家の跡継ぎだから産んでくれというので、、、」とラムが言ったが稲村は何も言わなかった。
するとラムは、デスクの向こう側に座っている警察官に見えないように「「あなたが優子さんを殺したの」」と書いてある紙を胸元で広げて見せた。すると父の予想通り、途端に稲村の顔色が変わり苦し気に低い声で言った。
「何故お前が優子を知っているのだ」   「え、あなたは自分が言ったのさえ覚えていないの。頭は大丈夫」   「なに、俺が言った、、、」   「そうよ、あなたは私とナニする時、いつも怖い顔をして『優子お前は俺のものだ、誰にも渡さん』って言ったのよ。
あなた、私とナニしている時も他の女の人のことを思っているの。最低だわ。慰謝料1億円ちょうだい、別れるから。子どもは産んで施設に入れるわ。それで良いでしょう」
「ま、待ってくれラム、誤解だ。優子は俺が殺したんじゃない、、、」   「誤解、、、なにが誤解よ。私とナニしている時でも口に出るほど好きな女の人なんでしょう。冗談じゃないわ。あなたとは別れるから」その時「時間です」と言う警察官の声がしてラムは面会室から出された。
面会時にどんな会話をしたのか、稲村の母も元気がなかった。タクシーの中でも何も言わなかったが、津市駅前でラムが降りる時「また電話するからね」とだけ言った。ラムも一言「わかりました」と答えて駅内に向かった。

そのころ警察署内では、稲村の担当刑事や刑事課長が集まり、面会時の母やラムとの会話の録音を聞いていた。そして聞き終わると刑事の1人が言った。「面会会話を盗聴するのは違法ですが、捜査状況が膠着状態の現状ではやむを得ません。
稲村のこれまでの供述通り、母親との会話では、父親殺害を認めています。母親に対してはっきり『俺が殺した』と言っています。これだけでも有罪にできると思いますが、3人の女性については黙秘を続けています。ですが奥さんとの会話で『優子さん』と言う女性の名が、、、」
それまで腕組みをして考え込んでいた刑事課長が言った。「、、、その女性の名前は初めてかね」   「はい、稲村は今まで一度も言っていません」   「うーん、会話内容からすると、奥さんとの性交時に稲村が言った。だが稲村自身は言ったこと自体も記憶がない、、、この優子さんと言う人は、三人の御遺骨の中の一人だろうか、、、稲村とどんな関係が、、、」
刑事課長は、捜査に行き詰った時は視点を変えて見ろ、と言う先輩の言葉を思い出した。(稲村家の井戸から3人分の女性遺骨、、、3人とも稲村一人が殺したのか。それとも、まさか昔から、、、)
「誰かちょっとPCで稲村家の航空写真を出してくれ。グーグルアースでも良い」
写真が映し出されると課長は食い入るように見続けて「広い敷地だが見事に屋根付きの塀で囲まれている、、、しかも米蔵や井戸が母屋からでさえ見えにくい位置にある、、、
はたしてこれは偶然か、それとも家を建てる時の設計の段階から意図して、そこに米蔵を建て井戸を掘ったのか、、、そもそもこの家はいつごろ建てたのか」と呟いていたが、やがて決心したように言った。
「稲村家について、近所の老人から昔の事を聞き込みしてくれ」   「わかりました」と言って刑事たちは足早に出ていった。

その日の夜アパートに帰ってきたラムは、途中で買ったおにぎりを父と二人で食ていた。突然父が苦しんだので、ラムはすぐにぬるい茶の入った湯呑みを手渡した。父は、喉に詰まったおにぎりを流し込むかのように一気に茶を飲み干して吐息をはいた。
そんな父を見て(父は75歳を過ぎたら急にこんなことが多くなった、、、早く稲村から慰謝料をもらって、父を養老院に入れた方が良いわ、、、私は父の面倒なんてみたくないから、、、)とラムは思っていた。
そんなラムだったが、夕食後父に面会時の事を伝えた。稲村に紙切れを見せた時の反応を伝えたかったが、その前に面会室から出て来た稲村の母の顔色が真っ青だった事を伝えた。
すると父は「稲村は恐らく、自分が父親を殺したとはっきり言うたんじゃろう。それ以外に母親が真っ青になるような会話はないはずじゃ」と言った。
それを聞いて(やっぱりそうだったんだ。これで稲村の無実はないわ。たっぷり慰謝料をもらって離婚、あ、そうか離婚しない方が良いんだった。今の稲村の母のように、稲村家の全財産をもらうんだ、、、よく考えるとやっぱり父の計画は凄いわ)とラムは思った。
その後でラムは、紙切れを見せた時の稲村の反応を父に伝えた。すると父はしばらく考えてから言った。
「稲村は『誤解だ、優子は俺が殺したんじゃない』と言った、、、ふーむ、、、まあ、優子さんを殺していてもいなくても、父親を殺したのは間違いないようじゃから、刑務所入りは確定じゃな。
ワシらは稲村が刑務所に居る間に、稲村家の財産を奪い取ればええ。それよりお前は予定日が近いが、病院に行く準備はええのか」
「「準備は大丈夫よ、でもまだ生まれそうにないわ」」とラムは父の手に書いた。「腹の中の子は、お前が金持ちになる為の大切な宝じゃ。気をつけてな」   「「分かってる」」

翌朝、稲村の母から電話があった。「ラムちゃん、子どもはどう。生まれそう。病院の準備はできているの。私も行くから病院の名前など教えて」
ラムは驚いて言った。「お母様、準備はできていますし、病院はおばさんが一緒に行ってくださるので大丈夫です」   「え、おばさんが、、、」 「はい、近くに住んでいる、というか、おじさんおばさんの家が近いから、ここへ越してきたのですが、おばさんは父の姉でとても優しくて、私が日本に来てからずっと親切にしていただいています。そのおばさんが一緒に行ってくださるので何の心配も要りません」
「、、、そうなの、、、でも生まれた後の役所での手続きが面倒なのよ。あなたは稲村家の妻だから、本籍は京都の実家だし、出生届の」   「あの、婚姻届の本籍で良いのでしょう」   「え、ええ、まあ、そうだけど、、、」
「おばさんが一緒ですので大丈夫です。それと、おじさんおばさんには夫が刑務所に居ることは言っていないですので、、、もし何かあったら電話しますから」   「そ、そうなの、、、そうね、そうしてちょうだい、、、あと生まれたら写真とか送ってね」   「はい、わかりました」そう言ってラムは、稲村の母のしつこい電話を切った。

結局、前日の夜に陣痛が始まり、予定日に男の子が生まれた。しかしラムは我が子を見てうんざりした。顔が稲村にそっくりだったのだ。
だが稲村の顔を知らない、おじさんおばさんは、男前だと浮かれていた。ラムは仕方なくスマホで写真を撮って稲村の母に送った。すぐに喜びが爆発したような返信が来たがラムは無視した。

それから1週間が経ったころ、課長は部下の刑事たちから、稲村家実家周辺の老人からの聞き込み結果を聞いていた。
「稲村家の評判は良いです。特に終戦後の先先代の評判は良かったです。戦後復興時に市町村へ莫大な寄付をして、他県から羨ましがられたそうです。また、雇用創出の為も兼ねて、戦後すぐにあの家を建てたそうです。 ただ、他県まで行って、金に物を言わせ芸者遊びをしたり、当時市内唯一の自家用車に見かけない少女を乗せて実家に帰って行ったとか、夜米蔵から女性の泣き声が聞こえたとか、一度実家に入った少女や女性が、外に出てきたのを見たことがなかったとか、女性に関した噂は良くなかったそうです。
代が先代に代わると、実家での噂は減ったそうですが、、先代は他県での女性遊びが多く、実家不在が有名だったそうです。そして10年ほど前からは全く見かけなくなり、噂では外国に住んでいるとか言われていたそうです」
話を聞いた後で課長は腕組みして考えた。(うーむ、実家を建てたのは戦後すぐか、、、当時ならまだ米蔵を建てたり井戸を掘っても誰も怪しまなかっただろう、、、しかし、見かけない少女を連れ込んだとか、夜に米蔵から女性の泣き声が聞こえたとか、、、
それよりも、実家に入った者が出て来たのを見たことがなかったとは、、、当時の警察官は、、、まさか稲村家から袖の下を、、、金持ちの犯罪は昔から、めったに公にならなかった、か、、、
それにしても気になるのは米蔵、米蔵と言えば時代劇では隠し部屋が付き物だが、、、もしかして稲村家の米蔵にも、、、やむを得ん、稲村にカマをかけてみるか)課長は稲村に直接尋問する事にした。

課長は、眼前に力なくうつむいて座っている稲村に静かに言った。「稲村君、京都の君の実家の米蔵に隠し部屋が見つかったそうだが、君は隠し部屋の事を知っていたのかい」
稲村は無言だったが、隠し部屋と言った時に一瞬肩が動いたのを課長は見逃さなかった。課長は続けて言った。「その隠し部屋の中にはところどころシミがあってね、しかもそのシミの中にはDNAが調べられるのがあったんだ。それで調べた結果、そのシミは血液か体液か唾液だと分かったんだよ。
本当に現代科学は凄いよね。おまけにそのDNAは、井戸の中から見つかった成長途中の女性の御遺骨と同じだったんだよ。つまり成長途中の、そうだね中学生くらいの少女があの隠し部屋に監禁されてい」   「違う、監禁じゃない、う、、、何でもない」
この瞬間、課長は万歳したくなるほど嬉しかったが顔には出さず、ゆっくり言った。「、、、監禁じゃない、、、あんな狭い部屋に無理やり押し込められて、血液か体液のシミまで遺すような扱いを受けて」   
「違う、監禁じゃない。無理やりじゃない、、、優子は両親に虐待されて家出して、公園で寝ていたんだ。俺は餓死寸前の優子をあの部屋にかくまったんだ。絶対に無理やりじゃない。
俺が、母屋にきれいな空き部屋がいっぱいあるから、そっちに行こうと言っても、俺の母に知られたくないと言って、結局あの部屋に住んだのだ。だから俺は、あの部屋に電気コードを引いて炬燵や小さな冷蔵庫を運び込んで生活できるようにしてやったんだ。
そればかりか、中学卒業までの1か月ちょっとの間、両親が待ち伏せしているかも知れないと怖がる優子を、俺はできるだけ車で学校まで送迎してやった。
そのころの俺は大学を卒業して、母と一緒に松坂のマンションに引っ越していたが、優子が一人で怖がっていないか心配になり、何度も会いに行った。そうしているうちにお互いが好きになり、俺の就職が決まったら結婚すると約束もしていたんだ。それをあの色情魔が、、、」
「色情魔、、、」   「いや、色情魔なんて生易しい奴じゃない。悪魔だ、畜生だ、外道だ、、、あいつは、、、
それでも俺がまだ大学3年生のころまでは、母に内緒であいつは俺にあの部屋で、女を何人もあてがってくれて、思う存分性欲処理をさせてくれたし、女を喜ばすテクニックも教えてくれて、俺はある面奴を尊敬もしていた。
それで俺は、奴が優子を殺すまでは、母に内緒で連絡し合っていた。だから俺は、うっかり人生最大の失敗をしてしまったんだ。
俺の人生最大の失敗、、、俺は奴に、母と二人で松坂のマンションに引っ越した事を言ってしまった。
後悔した通り奴は、実家でこっそり暮らすようになった。そして俺が優子の部屋に行き着く数時間前に、奴は優子に気づき、何度も犯したあげく殺したのだ。
俺があの部屋に入った時、奴はまだ裸で、うつぶせで動かない優子に覆いかぶさっていた。俺は奴を引っ張り剥して、優子を抱き起し名前を呼んだ。しかし反応がない。呼吸もしていない。俺は必死で人工呼吸をした。その時奴は、どこからか缶ビールを取り出して飲みながら言った。
『あんまり抵抗するんで首を絞めたら、うっかり力を入れ過ぎて殺してしまった。死んで30分は経っている、もう無駄だ。だがその女、死んでも締まりが良かったぞ。お前は良い女を見つけたな。だがその女まだ処女だったぞ。お前まだやってなかったのか』俺は激怒して『うるせえ、優子を生き返らせろ、今すぐに』と怒鳴りながらも人工呼吸を続けた。だが、優子の身体は少しづつ冷たくなっていった。俺は優子を抱きしめて温めようとした。すると奴は優子の足を引っ張りながら言った。
『無駄だ、やめろ、死んだやつは外の井戸に捨てれば良い。心配するな、女なんていくらでも居る。明日にでも代わりの女を連れて来てやる。さあ井戸まで運べ』
俺は怒りと絶望感でその場に座り込んで、呆然としていた。奴は一人で優子を背負って出ていった。俺はヨロヨロと立ち上がり奴の後を追った。そして井戸の所に行くと、奴が優子を井戸に落としていた。俺が井戸の中を覗いて見ると、優子の身体の一部が浮いていた。それに気づいた奴が言った。
『死体が沈まない時は、井戸より少し小さい鉄の円盤を入れると良い。米蔵の中にまだ数枚あったはずだ。まあ放っておいてもそのうち沈むがな。だが臭くなるから蓋をしろ。それから、久しぶりに二人でソープに行くか。俺は、あの女の血で汚れている股間を洗いたいのだ』
それを聞いた時、俺は頭の中が真っ白になった。そして気づいたら、奴は頭から血を流して井戸の脇に倒れていて、俺の両手には大きな石が持たれていた。俺は奴を抱き起そうとしたが、奴は既に瞳孔が開いていた。
俺はしばらく立ち尽くした後、奴の死体も井戸の中に落として蓋をした。その後の数日は記憶がない。あの部屋に居たようだが何も思い出せなかった。
それからずっと、俺は優子の夢を見続けた。冷たい優子の身体を抱いて温めようとしたら、下の方から黒い手が何本も伸びてきて優子を掴み奪い取ろうとする。俺は『優子は俺のものだ、誰にも渡さん』と叫んで目が覚める、、、
だが、ラムと知り合ってから不思議なことにその夢を見なくなっていたのだ。それで俺は、結婚相手はラムしかいないと決心した。だが、、、ラムとナニしている時に俺は、無意識のうちに優子の名を言っていたらしい、、、
刑事、これで全てです。何も嘘は言っていない。俺は当時の記憶がないですが、状況からすれば、俺が父を殺したのは間違いないでしょう。しかし俺は優子を殺していない。優子を殺したのは外道の父です」
「、、、他にも身ごもった成人女性の遺骨が二体分見つかっているが」   「そんなのは知りません。恐らく、女性を性欲処理の対象としか思っていなかった、父か祖父の犯行でしょう。俺には関係ない」   「分かった、、、これで事情聴取を終える」

その後、課長が休息室でコーヒーをいれていると部下の刑事が来て言った。「課長、お疲れ様です。それにお見事でした。素晴らしい尋問でした」   「いや、はったりがたまたま事実だっただけだよ」   「それにしても怖い証言でした。もしかしたら我々が井戸の底だと思っていた所は鉄の円盤で、その下にもまだ遺骨がある可能性が出てきましたね」   
「、、、まあ、そうかもしれないが、、、そこまで我々がしなくてもよいだろう」   「え、何故ですか。全容解明の為には」   「君は全容解明ができると思うのかね。女性二遺骨の犯人も特定できないのに。それより古い遺骨が見つかっても、その遺骨の犯人をどうやって特定するのかね。
俺は稲村の父親殺しだけを立件すれば良いと思っている。いや、それさえも、婚約者を犯され殺されて逆上した、同情すべき犯人に温情判決を陳情したいとさえ思っているのだよ」
「ですが、それでは御遺骨の霊魂が浮かれません。性的虐待をされ殺されたであろう少女や女性の実態を解明してやらなければ、、、このまま井戸の中に放置したままでは、御遺骨があまりにも憐れです。せめて全ての御遺骨を運び出して供養し墓を建てて慰霊するべきです」
「、、、分かった、、、ではその指揮は君がとりたまえ。それとあの家の管轄は京都府警だ。君は我が県警の代表として府警との折衝をしなさい」   「わかりました、ありがとうございます」

それから数週間後、井戸と米蔵の大掛かりな捜査が行われ、最終的に少女と女性合わせて13人分の御遺骨が発見された。錆びてボロボロになった鉄の円盤も3枚取り出された。
これが終戦後80年あまりの間に起きた殺人事件とは、目をそむけたくなるような事件だが、犯人未定のまま闇に葬られた。事件のこの顛末を知った三重県警の担当刑事は不満だったが、御遺骨が墓に納骨され慰霊されたのが、せめてもの救いだったと思った。
全てが終わり、担当刑事から報告を受けた課長は、一言「そうか、ご苦労様でした」と言ってから、窓の外を眺めながら物思いに耽った。
(、、、世界には殺人犯に無慈悲に殺され、放置されている遺体や御遺骨が無数にあるだろう。生きたまま臓器摘出され、証拠隠滅の為に火葬場に運ばれる遺体も多いと聞く。そんな国では、御遺体や御遺骨を供養するという感情もないのだろう、、、日本はまだ良い方だ、、、
それにしても、最初に署長宛に証拠物と手紙を送ってきた密告者は誰だろう。稲村家に関わりのある人だろうか、、、密告者に会ってみたいものだ、、、)

1か月後、稲村の裁判が行われ、さらに2か月後判決(懲役11年)が言い渡された。課長は刑期がもう少し短くなるだろうと思っていたのだが、親殺しの罪は情状酌量がされにくいようだと感じた。
(まあ11年でも稲村は42歳出所だ。金持ちの家だし、出所後会社勤めしなくても良いのでどうにでもなるだろう。奥さんはその時、34歳で子を産めないかも、だが、金持ちだから若い女性と再婚して子を持つことも可能だろう)と課長は思った。

だが、懲役11年と知ったラムは内心穏やかではなかった。(42歳で出所なら、金持ちの稲村が、私との子以外にも子を欲しがれば、金に物を言わせ若い女性と再婚して生ませる事など容易い事だろう、、、)
ラムは、稲村が42歳で出所する事を父に伝えた。すると父は、ラムの不安を見抜いたかのように言った。
「ははは、ラム、心配要らん。日本は昔から長男を大切にする国じゃ。しかもお前はその長男を生んだんじゃ。第一婦人なんじゃよ。
稲村が出所して、たとえ何人愛人をつくり子を産まそうと、お前の第一婦人の地位は変わらんのじゃ。息子の長男の地位も変わらんのじゃよ。じゃから何も心配せんでええ。
じゃがの、長男じゃからと言うても、どうしょうもない馬鹿ではダメじゃ。長男なら長男らしく、稲村家を繁栄させて行けるだけの能力を身についておらねばならん。
そしてそのような長男にするのは、母親であるお前の役目なんじゃあ。父親不在の稲村家の長男を立派な人間にするのは、お前の役目なんじゃよ。稲村が出所するまでの間、お前がしっかり子を育てるんじゃ。長男に相応しい人間に育てるんじゃ」
「「、、、そんなこと言っても、、、私か子育てなんかしたくない。のんびり暮らしたいよう」」とラムは不満をぶつけるかのように、荒々しく父の手に書いた。
「ははは、しかたない、これがお前の運命じゃったんじゃよ。運命は誰にもどうすることもできんのじゃ。お前も運命に逆らわず、精いっぱい子育てすればええ」   「「そんなこ言ったって私、子育ての仕方も知らないわよ」」   
「ははは、それでええ。誰もみな初めての子は育て方も知らんのじゃわい。じゃから、子育て経験済みの人に教えてもらいながら育てるんじゃ。ワシや母さんも、そうやって苦労しながらヨシやお前を育てたんじゃよ。心配要らん」   「「、、、」」
「それはそうと子の名前は、稲村の母が名付けた『正男』でええんか」   「「良いも悪いも、とっくに正男の名前で役所に届けているわ」」
「じゃが、お前は気に入らんのじゃろう。タイでは本名よりもあだ名で呼ぶことが多いが、息子にもあだ名をつけてやればええんじゃよ」   「「そうか、、、そうだね、じゃ私が考えるわ」」そしてラムが考えたあだ名は『ベンパーラ(重荷)』だった。
「おいおい、もっと男らしい名前にしてやれよ。それじゃあ、まるで女の子のようじゃ」   「「そうかしら、じゃパーラで」」   「いやそれも、、、じゃあバーロンがええ、タイ語で男爵じゃろ。短くしてバロンと呼べばええ」
「「なんか犬の名前みたい。でも考えるのめんどくさいからそれにするわ」」   「バロン、おじいちゃんが付けてくれたあだ名よ。早く大きくなってね」
バロンはラムの期待通り、すくすくと育っていた。首も座り4ヶ月検診でも問題なしといわれた。口の中を見ると小さな歯が見えた。あやすと笑うようになりラムも少しずつ母性本能が芽生えてきた。
同時に稲村に対する感情にも変化が起きはじめた。新婚旅行から帰ってすぐに離れ離れになったせいか、今までのラムは稲村に対して夫という認識があまりなかった。それが今は、バロンを見ている時、稲村は夫だ、この子の父だという思いがするようになった。
ある朝ラムは、津市の三重刑務所に一人で面会に行った。出産祝いに稲村の母にもらった高額な乳母車にバロンを乗せ、バスや電車を乗り継いで11時前に刑務所に着いた。乳母車は面会室に入れられず、バロンを抱っこして入室した。
刑期が決まったせいか、数か月ぶりに見た稲村の顔は落ち着いているように見えた。稲村は静かな声で意外そうに言った。「一人で来たのか、母さんは来なかったのか」   「ええ、お母様には内緒で一人で来たの、、、あなたの子を見せたくて、、、」そう言ってラムは、稲村がよく見えるように子を持ち上げた。
「お母様から聞いているでしょう。名前は正男です。お母様が名付けたの。私は日本語があまり分からないけど、お母様が言われたのは正しい男って意味だって、、、」   「、、、そうか、、、お前が、正しい男になるように育ててくれ」
「私、自信ないわ、子育て苦手だもの」   「、、、俺がここを出るまでの間だ、頼む、、、それにお前はお父さんと一緒に住んでいるんだろう。分からない事があったり困った事が起きたらお父さんに相談すれば良い。お父さんは物知りだからね」
「、、、分かった、そうするわ、、、」   「、、、11年だ、11年待ってくれ。その後は一緒に育てよう」   「、、、そうね、、、一緒に、、、」   「ラム、別れないでくれ。俺がここを出るまで待っていてくれ。ここを出たら俺は必ず、お前と正男を幸せにする」
「、、、分かったわ、私、待ってる。正男と二人で待ってる、、、今日ここへ来て良かったわ」ラムがそう言って立ち上がろうとすると稲村の強い声がした。
「ラム、父親殺しを黙っていて悪かった。でも話していたら結婚してくれなかっただろう」   「もういいわ、その話は、、、この子の為にも、あなたを待つ決心ができたから」   「ありがとう、ラム、、、」   「また来るわ」   「ああ、待ってる」
ラムは、何故か晴れ晴れとした気持ちで刑務所を出れた。そして夕方アパートに帰ると、行き先を伝えずにいた父に、一人で刑務所に行ったことを伝えた。すると父は、別段驚いた風もなく言った。
「稲村の様子はどうじゃった、元気そうじゃったか」   「「ええ、、、それとバロンを育ててくれと、別れないでくれと言われたわ」」   「そうか、それでお前はなんと答えた」
「「、、、しかたないから刑務所を出るまで待つって、、、」」   「そうか、それでええ。これもお前の運命じゃ。しっかり子を育てるがええ。お前が誠意を尽くせば必ず報われるじゃろうて」
その後ラムは、2か月に一度くらいの頻度で面会に行くようになった。それを知った稲村の母の、孫の顔を見たいという強い要望で、面会に一緒に行くようにもなった。
だが、マンションに泊まっていきなさいよという誘いには、盲目の父の面倒を見なければいけないからと頑なに拒んだ。ラムの本心は、今も稲村の母が苦手で、一緒に居たくなかったのだ。

何事もなく1年が経ち、バロンは歩けるようになった。すると男の子らしく活発に部屋の中を歩き回るようになり、片時も目を離せなくなった。ラムは、トイレに行く時や入浴中はバロンを父に預けた。目が見えない父は、その間じっとバロンを抱いていた。バロンも何故かその時はじっとしていた。
ラムは(こんな父でも居れば役に立つんだな)と喜んだ。しかも父は、抱いている間はいつも日本語で話しかけていた。そしてラムには、日本語とタイ語で話しかけるように言った。小さい頃から話しかけていると、それだけでも日本語タイ語を覚えるからと父は言った。
そんな父だったが、一人の時は今もナオミと話していた。「ナオミ、孫とはかわいいもんじゃのう。抱いていると『おじいちゃん、おじいちゃん』と言う声が聞こえるようじゃわい」
「え、本当に、、、もしかしておじいさん、バロン君の心が解るようになったのかも、、、」   「なに心が解るじゃとう、、、本当なら嬉しいんじゃがのう、、、まあ今度抱いた時いろいろと試してみるか」
次にバロンを抱いた時、老人は話しかけてみた。「バロン、ママとおじいさんとが分かるか。今バロンを抱いているのはどっちだ」   「おじいさん」とバロンは言ったが、老人は聞こえなかったのでさらに言った。
「おじいさんはね、耳と目が悪くてバロンの声が聞こえないし、バロンが見えないんじゃよ。だからバロンは、声を出さずにおじいさんと言ってごらん」
するとバロンはおじいさんの言った意味が解らないようで不思議そうに老人の顔を見ていた。その時老人は、心を静めてバロンの声が聞こえるのをじっと待っていた。
どれくらいの時間そうしていたのか、老人は不意に「おじいさん」と言う声が聞こえた。すぐに老人は言った。「バロン、今おじいさんと言ったんか」   「うん」とバロンは答えた。
老人は「もう一度おじいさんと言って」と言い心を静めて待った。するとすぐに、おじいさんと聞こえた。老人は嬉しくなり万歳したくなったが、落ち着いて言った。
「バロン、おじいさんに話す時はいつも今のように話すんじゃぞ。分かったらもう一度おじいさんと言ってくれ」   「分かった、おじいさん」
「よし、それでええ、ママと話す時は声を出して話すんじゃぞ」   「分かった、おじいさん」その時ラムが来てバロンを連れて行った。老人はもっとバロンと話したかったのだが、、、
(ふーむ、ワシは本当にバロンの声が聞こえたんじゃろうか。もっと試してみたかったんじゃがのう、、、そういえばナオミの声も、耳で聞こえておるんじゃない。ワシの耳は何の音も聞こえんのじゃから、心で聞いておるんじゃろうかのう、、、
そういえば10年以上も前に親父が死んだ時も、親父の声が聞こえたんじゃし、春のお彼岸の次の日に故郷の墓参りに行った時は、兄の声が聞こえたんじゃ。親父も兄も死んどるし、ナオミも死んどるんじゃが声が聞こえた、、、バロンは生きとるが、、、)
その次にバロンを抱いた時、老人はすぐに言った。「バロン、この前のようにおじいさんと言ってくれ」   「うん、おじいさん」   「よし、おじいさんはバロンの声が聞こえるぞ。バロンは何でもおじいさんに言いなさい」
「あのね、おじいさん。ママはね二つの言葉で言うから良く分からないんだ」   「ああ、それはね、おじいさんと同じここの言葉と、遠くの言葉を使っているからなんじゃよ。じゃから分からん時があるが、もう少し経てば分かるようになるんじゃ」   「ふうーん、そうなんだ」
「バロンはまだ小さいから少ししか言葉を知らんのじゃが、これからもっともっと言葉を覚えていけばええ。ところでバロンは食べる物は何が好きなんじゃ」   「ママのおっぱい」   「ははは、そうか」老人はナオミだけでなくバロンとも会話できるようになった。
老人は嬉しくて、バロンを抱いている時はいつも話しかけた。そうしているうちに老人は、バロンを衣服のまま抱いている時と、手とか首の素肌に触れている時では、聞こえてくる声の大きさが違うことに気づいた。素肌に触れている時の方がはったり聞こえるのだ。
老人は試しにバロンを少し離れた所に立たせて、おじいさんと呼ばせた。するとやはり声が聞こえにくかった。(うーむ、素肌に触れている方がよく聞こえる、、、もしかしてラムも手に触れたら声が聞こえるかも知れんぞ、、、)
老人はラムを呼んで試してみた。手を握って声を出さずに父さんを呼んでみろと言うと、バロンほどではないが何とか聞こえた。ラムは怪訝そうな顔をしていたが、老人はかまわず言った。
「ラムは不思議に思うじゃろうが、父さんはバロンの声が聞こえるんじゃよ。耳では聞こえんが、たぶん心で聞こえるんじゃ。孫の声が聞こえるなら子のラムの声も聞こえるんじゃないかと思うて試してみたんじゃが、ラムの声は微かにしか聞こえんじゃった。
父さんに伝えたいという気持ちが弱いんじゃろうかのう、、、これができるようになったら、わざわざ手に一文字づつ書かなくてもええようになるんじゃがのう」
ラムは父のいうことを全く信じなかった。すぐにバロンを抱いて父の部屋を出て行った。しばらくして老人は寂しそうにナオミに話しかけた。
「ナオミ、ラムはワシの言うことを信じてくれんじゃった。実の子なんじゃがのう。孫のバロンは、、、そうか子どもじゃから疑うことを知らんで、素直に受け入れられるんかのう、、、なんにせよナオミやバロンが話し相手になってくれてワシは嬉しいぞ。これからも頼むぞ」
「はい、おじいさんの役に立ちたいと思って、川のこちら側に居るんです。おじいさんに喜んでもらえるだけで私も嬉しいです、、、あ、あと、おじいさん。私の知り合いが、おじいさんにどうしてもお願いしたい事があるって、、、」
「なに、ワシにお願いしたい事があるじゃとう」   「はい、実は私の仲が良かった同級生がこの間、交通事故で死んでここに来たのですが、どうしても母に伝えたい事があるが、母には自分の声が聞こえないので、代わりにおじいさんに伝えていただきたいと言ってるんです」
「なに、ワシに代わりに伝えてくれじゃとう、、、どこの誰じゃ。ワシはこんな身体じゃから遠くへは行けんぞ」   「大丈夫です、電話で伝えてくだされば良いと言ってます」   「なに、電話で、、、」
その後、老人は電話で伝えた。とは言っても、電話相手の声は聞こえず一方的に言っただけだったが、それでもナオミの同級生はとても喜んでいたそうだ。
だが、一度このような事をすると、生きている人に伝えられる人が居ると、あちら側の間で噂が広がり、毎日毎日あちら側の人の依頼が来るようになった。しかもあちら側の人は寝ないらしくて、老人が寝ていても頼みに来るので、老人は我慢しきれなくなった。
「いい加減にせえ、ワシは電話交換手じゃねえ」と老人は怒鳴ったが、あちら側の人は執念深く、恨めしそうな顔で部屋の向こう側にずらりと並んで立っている。老人は堪らずナオミに言った。「ナオミ、何とかしてくれ、これではキリがない」
「おじいさん、ごめんなさい。こうなると、この世界新参者の私ではどうすることもできません。おじいさんの身内の方、お父様を呼び起こして助けていただくしかありません」
「なに、親父を呼び起こすじゃとう、、、どうすればええんじゃ」   「一心にお父様に助けてくださいと祈ってください。他に方法がありません」   「分かった、やってみる」
老人は一心に祈った。するとしばらくして、老人の父が現れたのが老人の脳裏に見え「こら、ワシの息子は郵便配達員じゃねえ、消え失せろ」と言う怒鳴り声が聞こえた。あちら側の人は恨めし気に去っていった。
その後、父は言った。「久しぶりじゃのう、ワレがしばらく墓参りにも来んじゃったから心配しとったが、まさか目くらになっとったとはのう。それじゃあ墓参りにも来れんじゃろうて。
めくらじゃあ不便じゃろうが、ワレはまだ当分こっちに居れ。まだまだやる事があるからのう。 、、、そうか孫に息子ができたんか。これは冥途への良い土産話ができたわい。さて、いぬるとするか、、、また何ぞと悪い事が起きたら呼べ。すぐに来てやる」
99歳で死んだ親父が去ると、老人は(親父は相変わらずじゃな。いや生きとった時よりも元気そうじゃったのう、、、それよりワシはまだまだやる事があるじゃとう、、、何の事じゃ)と思った。
それから少ししてナオミが現れて言った。「へえー、あの方がおじいさんのお父様、凄い迫力だったわ。たぶん生きている時に善行をたくさん積まれたのね。私とは大違い」
「なに、ワシの親父が善行を積んだじゃとう、、、ワシは親父が44歳の時に生まれたじゃから、それまでの親父が何をしていたかは知らんが、、、ま、ええわい。あちら側の人らを追い払ってくれただけでもありがたいわい」
「そうです、あちら側の人の中にはまだ生きている人に恨みを持っている人も居て、そんな人に伝言を頼まれたりすると、厄介な事になりかねないから、あまり関わらない方が良いです」
「そうか、分かった。今後は無視するぞ。それはそうと、お前の後ろに誰かいるように感じるんじゃが、誰じゃ」
「え、おじいさん、私の同級生が解るようになったの。凄いわ。同級生が電話していただいた御礼に来たんです、、、でも、おじいさん本当にすごい。たぶん霊感が強くなったんだね」   「なに、霊感が強くなったじゃとう、、、」
「そう、おじいさんはもともと普通の人より霊感が強かったの。だから私とも話ができたの。普通の人は私がいくら話しかけても聞こえないんです。でも、おじいさんは聞こえた。
それにバロン君と話そうとして心を静めるようにして霊感を強めたようです。たぶん、もう少しで、手を触れると相手の心が解るようになり、、その人の後ろに居る霊を感じ取れるようになると思います」
「なんじゃとう、本当か、、、ワシの願いが叶うんじゃな、、、嬉しいのう」   「でも、おじいさん。心を自分で閉ざしている人の心は解らないんです」   「ふうーん、そうか。じゃが、手を触れたら解る人も居るんじゃな。今後はそういう人と話してみたいのう」

それから数か月が経ち、バロンは1歳半になって多くの言葉を覚えた。老人はバロンを抱く度に話しかけた。バロンも老人の心に話すのが強くなったのか、数メートル離れていても聞こえるようになった。
そんなある日、ラムがバロンと買い物に行って帰ってきて、バロンの乗っている乳母車を中に入れ、ドアを閉めようとした時、突然若い男が入って来てドアを閉め、ラムに抱きついて服を脱がしはじめた。ラムは悲鳴を上げ抵抗した。
すると男はナイフを取り出し、乳母車に乗っているバロンに突き付けて、たどたどしい日本語で言った。「静かにしろ、大声を出せばこの子を殺すぞ。俺はお前とやりたいんだ。やらせろ、服を脱げ」
ラムは震えながら服のボタンを外しはじめたが、指が震えてうまく外せない。苛立った男はナイフを乳母車の下に置き、荒々しくラムのボタンを外した。そうしている間にバロンは心の中で、老人に「ママが知らない男に服を脱がされている」と言った。
老人は驚き、襖戸を引き開けて怒鳴った。「誰じゃ、何をしとる、警察を呼ぶぞ」   「ゲッ、男が居たのか、糞」そう言って男は飛び出して行った。バロンから、男が出て行ったことを聞いた老人はラムに言った。
「ラム、怪我はないか、なかったらすぐに警察に電話しろ。その前にドアを閉めて鍵をかけるんじゃ」ラムは言われた通りに電話した。その間にバロンは、乳母車の下にナイフがあると老人に言った。老人は電話を終えたラムに「乳母車の下のナイフには触れるな。警察に渡して指紋を採らせろ」と言った。
それ30分ほどして警察官が二人来て、ラムから事情聴取をしたり、ナイフをビニール袋に入れたり写真を撮ったりした。最後に警察官の一人が、椅子に座っている老人の手を握り「御老人、お手柄でした」と言った。
警察官のその気持ちをはったり感じ取れたが、老人は何も言わなかった。代わりにラムが「父は目が見えないですし、耳も聞こえません」と言った。すると警察官は驚いて言った。
「え、本当ですか、ではどうして奥さんの危機を知ったのですか」   「偶然です。父は昼間でもしょっちゅうトイレに行きますから」とラムが言った。「そうですか、運が良かったですね」と言って警察官が手を離そうとしたが、老人が離そうとしなかった。警察官が驚いてもう一度手を離そうとすると老人は微笑んで言った。
「君とちょっと話がしたい」それからもう一人の警察官とラムに「ちょっとこの人と話しがしたいんじゃ、パトカーで待っててくれ。ラムもバロンを抱いて外に出ておれ」
呆気に取られている警察官を向かいの椅子に座らせると老人は言った。「君は素直な人じゃな、心がよく感じれる。じゃが、何か辛い悩み事があるようじゃ。奥さんの浮気の事じゃろうかのう」
「えっ、どうしてそれを、、、」   「ワシは耳が聞こえんし、目も見えんようになってから、手を握ると相手の心が解るようになったんじゃ。特に君のような素直な人は良く解るんじゃよ、、、奥さんの浮気は一度ではないようじゃのう」
「な、なんと、、、ぼ、僕はどうすれば良いんでしょう。警察官の妻が浮気するなんて、、、」   「、、、一度奥さんをここへ連れて来なさい。奥さんが改心する気持ちがあるかどうか、ワシが奥さんの心を探ってみよう」   「本当ですか、、、よろしくお願いします」

数日後、警察官は奥さんを連れて来た。夫に言われたようで、老人の前に座った奥さんは挨拶代わりに渋々老人の手を振ったが、その時老人が感じ取れたのは(なによこの薄汚いジジイは)と言う声だった。
老人は微笑みながら言った。「薄汚いジジイで悪かったのう」奥さんは途端に顔色を変えた。そして手を離そうとしたが老人は離さない。
奥さんは「離してよ、気持ち悪い、何なのこの人。あなた痴漢容疑で捕まえて」と言った。すると警察官は言った。
「落ち着けよ、この御老人は痴漢なんかじゃない。お前の心を見ているのだよ」   「えっ、私の心」   「そうだ、、、」 警察官はそう言うと、老人の横に座り片方の手を握った。すると老人は静かに奥さんに言った。
「あんたはこれからも浮気を続けるんか。止めんのか。止めんのじゃったら離婚するしかないぞ」   「えっ、何故知っているのよ」   「あんたの夫は警察官じゃ。奥さんの浮気ぐらいすぐに分かるじゃろう、、、
今後もまだ続けるなら離婚しか方法がないじゃろうが、そうするとあんたは夫を裏切ったんじゃから数百万円の慰謝料も支払わんといけんが、その金はどうするんじゃ。あんた名義の貯金があるんか。浮気相手の男に出してもらうんか」
「う、、、そ、それは、、、」   「浮気相手は若い男のようじゃが、あんたの方から誘ったんか。若い男は金持ちのボンボン息子か。そうではないじゃろう。苦労して大学を卒業して社会人になったばかりの男じゃろう。あんたはその男の未来まで潰す気か、、、」
奥さんは突然大声で泣き出した。それを感じ取った老人は警察官に言った。「あとは家に帰って二人で話し合うがええ」 警察官は奥さんを促して帰って行った。すると待っていたようにラムが、バロンを老人に抱かせてトイレに入った。
老人はバロンと話し始めた。「バロン、腹は減っとらんか」   「大丈夫、おっぱいをいっぱい飲んだばかりだから」   「そうか。おじいさんは少し腹が減った。テーブルの上に何か食べ物はないか」
「あ、きれいな紙袋がある。警察の人が置いて行ったみたい。何が入っているのかな」 その時ラムが出て来たのでバロンは言った。「ママあの紙袋の中はなに」
今気づいたラムは紙袋を開けて見た。崎陽軒のシウマイが二箱入っていた。ラムはさっそく取り出して電子レンジに入れ、温まると取り出して箸で刺して老人とバロンに1本づつ手渡した。老人とバロンはうまそうに食べ始めた。
ラムも脇の椅子に座って食べながら老人の手に書いた。「「あの男の人は私服だったけど、前に来た警察官でしょう。女の人は奥さんなの。綺麗な人だったけど、何か嫌な感じがしたわ。何の話をしてたの」」
「ほう、ラムもそう感じたのか。父さんも同じじゃったわい、、、あの奥さんが浮気して夫が悩んどるんじゃが、父さんの感じじゃあ恐らく離婚じゃろう。あの奥さんは浮気をやめられまいて、、、ラムも浮気はせんようにな」
「「私は大丈夫よ。もともと男に興味がないから。稲村との結婚だって、私の気持ちを無視して稲村や父さん母さんが一方的に話を進めたんじゃない」」
「う、まあ、そうじゃったかのう、じゃが、結婚して良かったじゃろう。一緒に暮らさんでも生活費やバロンの養育費はもらえるし、未来の金持ちは保証されておるんじゃからのう。周りの人が知れば羨ましがるぞ」
「「でも私はこんなに早く結婚したくなかった。もっと一人で遊んでいたかったわ」」   「、、、まあ、贅沢を言えばキリがないわい。それよりラム、母さんやヨシから連絡ないか」   「「そうね1か月以上連絡ないわ。後でこっちから電話してみるわ」」
その後ラムが電話すると、妻もヨシも元気で老人はホッとしたが、妻は仕事していないせいか太りすぎて高血圧になり、薬を飲んでいるそうだった。
「やれやれ、日本に居た時も太っておったじゃに、バンコクでさらに太ったじゃとう、、、で、高血圧になった、、、ラム、母さんに言ってくれ、痩せる努力をせよとな」   「「分かった」」

それから2週間ほどして、またあの警察官が来て老人の手を握った。すると数秒後老人は言った。「そうか、やはり別れたか、、、じゃが、あんたはまだ若い。落ち着いたら他のおなごをさがせばええ。あんたの人生はまだまだ長いんじゃ。一人だけで生きるのはもったいないじゃろう」
「、、、そうですね、いろいろありがとうございました、、、それとこの間の痴漢が捕まりました。この団地の向こう側の3階に住んでいる0国人でした。
供述では、この部屋からの出入り時いつも一人で乳母車を押しているので、てっきりシングルマザーだと思い、シングルマザーならやらせてくれると考えた。まさか後老人が居るとは思わなかったと言いました」
「そうじゃったか。ワシがめったに出かけんじゃから、娘をシングルマザーじゃと思ったんじゃな、、、今後は時々出かけて、ワシも住んどるんじゃとアピールした方がええようじゃのう」
「ところで後老人、この超能力はどうやって習得されたのですか」   「なに超能力、、、まあ、超能力と言えば超能力なんじゃろうかのう、、、
ワシは目も見えんし耳も聞こえんで、退屈で気が狂いそうじゃった。じゃから、誰か話し相手になってくれと思っておったんじゃ。いちいち手に書いてもらうのは煩わしいし、相手もめんどくさがるじゃからのう。
じゃから、手を握っただけで相手の言いたいことが解るようにならんかと考えたんじゃ。それで話せるようになったばかりの孫と練習して、最近やっと孫の言いたいことが解るようになったんじゃよ。
それで孫が解るなら他の人もと思ったんじゃが、娘はダメじゃった。じゃが、あんたは握手した時に悩んでいる事がすぐに解った。どうも、相手の性格や精神状態によって解る時と解らん時があるようじゃわい」
「なるほど、、、後老人、もっとずっと先の話しですが、もし僕に新しい女性ができたら連れてきますので女性の心を調べていただけませんか。僕はどうも女性を見抜くのが下手なようですので」
「まあそれはかまわんが、心が解る解らんは相手の心次第じゃからのう」   「はい、それでけっこうですので、、、では、今日はこれで失礼します。御老人もお元気で」そう言って警察官は帰って行った。

その後数か月は何事もなく過ぎ去り、バロンは2歳になった。老人との会話内容も様々な事柄について話せるようになったが、残念なことに風景や色や形や音については、老人が話せなかった。
ラムがバロンに、そろそろPCで色々な物を見せて覚えさせたいと思い、ちょっと大きめのタブレットを買ってやったのだが、バロンはすぐに夢中になり、画面に表われた画像に目を輝かせて見入るようになった。その上、老人との会話中にも見た画像について質問するようになった。
しかし、目が見えない耳も聞こえない老人は、例えば「この花は何色なの」と聞かれても老人は答えられなかった。2歳のバロンには、自分が見えていても老人には見えないということが、まだ良く理解できていなかったのだ。
バロンがタブレットを指差し「これなんと言う花、これは何、この音は何の音」と聞かれても答えられない老人は「バロンをワシの所へ来させる時はタブレットを持たせるな」とラムに言った。
だが、その時老人は(バロンの目で見ておる物を、バロンが聞いておる音を、ワシが感じ取れたら、、、)と思うようになった。(うーむ、どうすればええんじゃろう)老人はナオミに相談した。
「ナオミ、ワシはバロンが見ておる物を見たいし、聞いておる音を聞きたいんじゃが、どうすればええんじゃろのう」   「うーん、、、見た物も聞いた音も頭の中に記憶されているはずだから、おじいさんがそれを感じ取れたら良いのね、、、理屈では分かるけど、、、どうしたら、おじいさんがそうなるかは私にも分からないわ」
「そうか、ナオミでも分からんか、、、」老人は結局自分で考えるしかなかった。そして考えていると、ふと気がついた。(まてよ、、、バロンはワシに言葉を伝える時にどうやっとるんじゃろうか、、、)
老人はさっそくバロンに聞いてみた。「バロン、ママと話す時は声を出して話すじゃろう。じゃが、ワシに話す時はどうやっておるんじゃ」   「ん、頭の中で話してる」
「なに、頭の中で話しとるじゃとう。それで、ワシに伝わっとるのか」   「うん」   (うーむ、、、)「じゃバロン、今ワシを見て、ワシの顔を、ワシに伝えられるかい」   「やってみる」
老人は心を静めてバロンの心を感じ取ろうとしたが、何も感じ取れなかった。老人はまた言った。「バロン、ワシの顔を見たら目を閉じて、ワシの顔を思い出して、それを言葉を伝えるようにワシに伝えてごらん」
老人が心を静めていると、おぼろげに老人の顔が脳裏に浮かんできた。その時老人はバロンの手に触れていなかったのに気づき、急いでバロンの手を握ると、脳裏に老人の顔がはっきり現れた。
「バロン、伝わったぞ。凄いぞバロン、、、じゃ、タブレットを持って来て、花の写真を見て、今のようにワシに伝えてごらん」
「分かった」といってバロンはすぐにタブレットを持って来て画像を映し出して見始めた。そして最初に老人の脳裏に浮かんだのは桜の花だった。老人は、バロンの目を通して桜の花を見れたのだ。
老人はそうやってラムの顔も、部屋の中の景色も見えるようになった。だが、そのことは誰にも、ラムにさえも話さなかった。
その後老人は、バロンの手を握って外を歩けるようになった。だが、手を離すと途端に真っ暗闇になるので、老人は片方の手にはいつも白い杖を持ち、目が見えない事をアピールした。
数週間後、老人とバロンが外を歩いていると、後ろから来た不良ぽい学生に杖を蹴られ折れてしまった。「誰じゃ、何をしとるんじゃ」と老人が怒鳴ると、アカンベェーをして走り去る学生の後ろ姿が、バロンの目を通して見えた。
老人は、仕方なくその日はもう家に帰ろうと、バロンに折れた杖の先を探させていると、不意に杖の先を触れさせられた。
「あ、どうもありがとうございます、、、ワシは目が見えんだけじゃなく耳も聞こえんのじゃが、ご迷惑でのうたら手にカタカナで書いてもらえんじゃろうかのう」
すると「「私は通りすがりの者ですが、この団地にはさっきのような悪い人も居ますからお気をつけて」」と手に書いてくれた。その時老人は、その人が心優しい女性だと感じ取れた。
「ご親切にありがとうございます。失礼じゃが、ちょっと手を握ってくれんじゃろか」と老人が言うと、相手がためらっているのか、少し間が開いてから柔らかい手が老人の手を握ってくれた。
「、、、お名前は理沙さんと言われるんか」   「「えっ、どうして私の名前を、、、以前にお会いしたことがありましたか」」と女性は手に書いた。   「いや、驚かせてすまんが、ワシはあんたのような優しい人の手に触れると名前とかが分かるんじゃよ。それと、、、
あんた今悩み事があるようじゃが、今は忙しくて時間がないようじゃな。今度暇な時に遊びに来てくれ。ワシとこの孫と26歳の娘の3人暮らしじゃから心配要らん。気楽に来てくれ」老人は、そう言った後で部屋の番号などを教えた。

次の日曜日の午後、その女性が訪ねてきた。ラムがドアを開けると、女性はためらいがちに言った。「ここのおじいさんにお会いしたくて来ました」   「ああ、理沙さんですね。さあ、どうぞ」とラムは、老人から聞いてもいないのに何故か名前を言って、愛想良く招き入れテーブル横の椅子に座らせた。
バロンに知らされた老人は、本当に盲人の動きで部屋から出てきて、理沙の向かいの椅子に座ってすぐに言った。「この間は御親切にしてくださってありがとう、、、さっそくじゃが、手を握ってくれるかの。そうすれば手に書かんじゃとも感じ取るじゃろうからの」
「「え、手に触れただけで分かるのですか」」と理沙は老人の手に書いた。「そうじゃ、前にも言うたように、あんたのような優しい人なら触れると解るんじゃ、、、彼氏について悩んどるんじゃろう」
「えっ、はい、そうです、、、結婚するか悩んでいます」   「ワシとて彼氏のことまでは分からんじゃが、彼氏の何が心配なんじゃな。収入か、浮気っぽい性格とかじゃろうかのう、、、」
「はい、本当にその二つです。彼とは同じ職場で同期です。だから給料も分かるのですが、会社は冷凍食品の販売で彼は営業マン、私は経理部です。会社が景気が悪く、彼も私も昇給は期待できないことも分かっています。
今の収入では二人合わせても、結婚して子供を育てられそうにありません。その上彼は、社内の他の女性とも食事したりして、本当に私と結婚する気持ちがあるのか不安になっています。彼は口では結婚したいと言うのですが」
「、、、なるほどの、、、失礼じゃが、彼氏は何歳じゃな」   「28歳です。彼はまだのんびりしていますが、私は焦っています。もし彼以外の男性を探すとしたらもうあまり時間的余裕がありませんので」
「うーん、28歳じゃとう、、、そうじゃろうのう、、、わしは47歳で結婚して51歳の時に娘が生まれ76歳の時に孫が生まれた。男は40歳を過ぎても結婚できるじゃろが、女性は30歳を過ぎると難しくなるからのう、、、
とにかく彼氏の本心を知りたいじゃろう。今度暇な時、おもしろいジジイが居るとでも言うて彼氏をここへ連れて来るがええ。ワシが彼氏の本心を探ってみよう」
「え、本当ですか、ありがとうございます、、、私ずっと悩んでいたんです。今日ここへ来て良かったです。今度彼を連れて来ます。事前に電話しますので番号を教えていただけませんか」老人がラムの電話番号を教えると理沙は帰って行った。
その後ラムがバロンを抱いて部屋から出てきて老人の横に座り手に書いた。「「へえー、日本の女の人って30歳過ぎると結婚が難しくなるんだ」」   「う、なんじゃラム、聞いておったのか。そうじゃ、おなごは30歳を過ぎると難しくなるんじゃ。お前は早く結婚できて良かったの」
「「そうかしら私はもっと遊んでいたかったけど」」   「お前とおなじように考えて、30歳まで遊んでおって、その後慌てて男を探して見つからず、売れ残りになったおなごが、日本にはいっぱいおるんじゃ。
そうやって売れ残りになったおなごは悲惨じゃぞ、歳をとれば取るほど男が相手にしてくれくれんようになるんじゃからの。35歳過ぎたらもう、ほぼ結婚できん。何より子を産むんが難しくなるんじゃ。子が産めん女では男は離れていくばかりじゃぞ。じゃからお前は、その面では運が良かったんじゃ」   「「、、、」」
その時老人は、ラムもバロン同様、手に触れただけで言いたいことが感じ取れるんじゃないかと思ったが、ラム自身がそれを拒んでいるようにも感じられ、それならそれで無理強いすることもないと老人は思った。

2週間後の日曜日に、理沙が彼氏を連れて来た。その彼氏は、初対面の挨拶代わりに握手をしただけで老人は(こりゃダメだ)と感じたが、そのことは何も言わず心を探ってみた。するとすぐに感じ取れたのは『早く理沙とやりてえ』じゃった。
(理沙は何でこんな男を、、、28歳で焦ったんじゃろうかのう、、、ちょっと理沙の心も探ってみるか)老人が探ってみると、理沙は既に彼氏と何度もナニしていたのが分かった。
(やれやれ、これじゃあ焦るのも当然じゃのう。婚前にナニするのは、結婚が確実になってからじゃないと、してはいかんのじゃがのう、、、この二人はいずれ修羅場になるぞ、、、さてさてどうすればええんじゃろうかのう、、、)
老人はそう思ったが、その時はありふれた話だけして30分ほどで二人を帰した。そしてその夜ラムに電話させた。「彼氏は理沙の身体だけが目当てで、しかも浮気しておるようじゃ。結婚せん方がええじゃろう」と。
ラムは理沙が泣き出したので電話を切ったと老人に伝えた。老人は、しかたないと言うように頷いた。(やれやれ、いつの世も結婚を餌にしておなごを弄ぶ男がおるんじゃのう、、、いや現代は美貌で釣って金を巻き上げるおなごも居て、怒った男がそのおなごを殺したという動画を見た事がある。世も末じゃのう)と老人は思った。

それから数か月が経って、理沙に紹介されたという沙織という女性から、是非彼氏の本心を調べて欲しい。いつアパートに行ったら良いか、との電話があった。老人はいつでも良いと返事をさせた。すると翌日の午後、沙織と男が来た。
そして老人の向かいに座るとすぐ、右手を男が左手を沙織が握った。沙織からは男の本心を知りたいという気持ちが強く感じ取れたが、男は故意に何も考えまいとしているのが感じ取れた。
老人は少し考えてから言った。「沙織さん、この男はあんたが嫌いなようじゃ。すぐに別れた方がええ」沙織は「えっ、なんですって、そんな」と心の中で叫び、男は驚いて「嘘だ、俺は沙織が好きだ」と本心をさらけ出しながら立ち上がった。
そうなることを予想していた老人は、振り払おうとする男の手を、力を込めて握り締め強引に座らせて言った。
「あんたは何を恐れているんじゃね。何故ワシに知られないように心を閉ざすんじゃね。あんたは彼女に対して何か知られたくない秘密でもあるんかね」   「うっ、それは、、、」
「あんたが本当に彼女を好きなんじゃったら、何でも話し合い、秘密なんぞ持たん方がええ。本当に彼女が好きなんじゃったら、いつも強がって見せず、弱い面も見せた方がええんじゃ。そうせんと長続きせんじゃろう。結婚するまでにバテてしまうぞ」
「う、、、」男は黙り込んだ。すると沙織は老人の手を離して男に抱きついて言った。「御老人の言う通りよ。何でも私に話して。お願い」沙織のその言葉は、手を離しても老人は感じ取れた。
老人は(沙織の魂の叫びか、、、若い男女はええのう。純粋ですぐに熱くなる、、、羨ましい限りじゃ)と思いながら微笑みを浮かべた。しかしその時、男の後ろに不吉なものが立っているのが感じられた。老人は驚き、そして不安になって声を出さずにナオミを呼んだ。
「なに、おじいさん、いま私を呼んだの、よく聞こえなかったわ」   「ああ呼んだ、心の中でな。見ての通りいま客人が居て、声を出せんのじゃが、この男の後ろから何か邪悪なものを感じるんじゃ。いったいこれはなんじゃ」
「え、おじいさん、霊魂が見えるようになったの、すごい」   「なに霊魂じゃとう、、、いや見えると言うても黒い霧のようなものが、ボーと立っているように感じるんじゃが、あれは霊魂なんか」
「そう霊魂、私には女の人に見えるわ。その男性の母親かしら、でも若すぎるし、お姉さんかも。でも本当に怖い顔ね。男性を怨んで、でもない、、、それに視線は、、、抱きついている女性を睨んでいる、、、これは嫉妬の目だわ。あの霊魂は女性に嫉妬しているわ」
「なに、若いおなごの霊魂が沙織に嫉妬しておるじゃとう」   「ええ、しかも夜叉のように物凄い怨念で、、、この男性と霊魂の女性が生前にどんな関係だったのか分からないけど、肉親だったのは間違いないわ。たぶんお姉さんだと思うけど、なにを嫉妬しているのでしょう」
(うーむ、、、沙織に嫉妬しておる若いおなごの、いや姉らしい霊魂、、、試しに男に聞いてみるか、、、ワシの勘違いじゃったらええがのう、、、)
「ワシは目が見えんし耳も聞こえんじゃから、あんたら二人が目の前でラブシーンをしておってもかまわんが、ワシはちょっと彼氏と二人だけで話したいんじゃ。すまんが、沙織さんは外に行っといてくれんか」沙織は老人の声で男からパッと離れて外に行った。
「沙織さんは出て行ったかね」と言うと男が「ああ」と答えたのを感じ取った老人は言った。「あんたの兄弟は何人じゃね。姉はおるんかね」姉と言った時、男が驚いたのを感じ取った老人はカマをかけて言った。
「姉とどんな関係になったんじゃ。姉は自殺したのかね」   「うっ、、、自殺じゃねえ、交通事故で死んだんだ、俺のせいじゃねえ」   「、、、そうか、じゃが姉は死んだ後も怨霊になってあんたに憑りついておるぞ」
「な、、、やはり、、、寝ていたら身体の上に覆いかぶさる感じがして、、、翌朝下着が汚れていたのは、、、姉が、、、姉は死んだ後も俺を、、、」その後は言葉ではなく、懐かしい思い出のように、しかしどこか悔恨の念にも包まれた、姉との交わりの記憶が老人にも感じられた。
しばらくして老人は、男の手を離して静かに言った。「あんたは姉の墓前に沙織さんと行って、姉との過去に感謝し、沙織さんと結婚させてくれと、もう邪魔をせんでくれと祈ればええ。
それで姉の許しを感じたら、沙織さんに姉との過去を話せばええ。それで沙織さんが離れて行くんじゃったら諦めるしかないじゃろうが、、、ワシは沙織さんの心を信じとる、、、ワシに言えるのはここまでじゃ。さあ帰るがええ、、、あんたと沙織さんが幸せになるよう祈っておるぞ」
男が帰った後、ナオミが現れて言った。「弟と姉って、あるのね、、、なんか羨ましいような気もするわ。でも弟の彼女に嫉妬して邪魔するのは、、、」
「まあ、おなごは嫉妬深いんじゃろう。というよりも独占欲が強くて相手を独り占めしたいんじゃろうかのう。それで、死んだ後も怨霊になって憑りついておるとはのう、、、そう言えばナオミは」
「私は怨霊ではないです、、、おじいさんを裏切ったことの謝罪と、おじいさんの役に立ちたい一心で今もこちら側に居るんです。邪悪な心はありません」   
「そうか、、、ワシはナオミのおかげで精神異常者にならずにすんどるし、手を握れば相手の心が感じ取れるようになった。ナオミに感謝しておるよ」
「おじいさんにそう言ってもらえると私も嬉しいです。それにしても、おじいさんの霊感の上達はすごいです。もう霊魂さえ感じ取れるようになったんですね」   「それもこれもナオミのおかげじゃ、ありがとう」

それから1か月ほど経ったある日、高校生とその母親が訪ねてきた。ラムが手に書いてくれた説明では、墓場で沙織と彼氏に出会い、彼氏から霊魂が見え老人の話を聞いて、息子を見て欲しくて来たとのことだった。
高校生は成績優秀で有名大学入試に備え、ひたすら勉強に没頭していたのだが、3か月ほど前に女子高生の告白を断ったら、逆恨みして親戚の霊媒師に頼んで呪い殺してやると言われ、それから高校生は急に無気力になり、勉強に集中できなくなったと。
これでは大学入試も危ういので、本当に悪霊に憑りつかれているなら、どうしても除霊をして欲しいとのことだった。老人は「ワシは霊魂が見えても除霊はできんから、厄除け不動尊の坊さんにでも頼め」と断った。
すると母親は「何箇所も寺を回って坊さんに頼んで除霊してもらったが、高いお布施を要求されるばかりで、全く効果がなかった。せめて悪霊が本当に憑りついているかどうかだけでも見て欲しい」と、母親は老人の手を握って頼んだ。
息子を思う母親の強い気持ちを感じ取った老人は、とにかく高校生の手を握った。老人は心を静めて10分20分と高校生の心を感じ取ろうとしたが、高校生の心はまるで放心状態で何も感じ取れなかったし、悪霊が憑りついている気配もなかった。
老人は(この男の心はどうなっておるんじゃ。まるで寝ている時のように思考がない、、、うーむ、まさか夢遊病者では、、、いや夢遊病は寝ておる時じゃろう。昼間起きておって、こんな心が空っぽになるんじゃろうかのう、、、)
30分ほどして老人は言った。「心が空っぽじゃ、何も感じ取れんわい。こんな人は初めてじゃ。それと悪霊が憑りついておる気配は全くない。余談じゃが、子どものころ夢遊病じゃなかったかのう」
「「え、はい、この子は小さい時ひどい夢遊病で、今は睡眠時遊行症と言いますけど、、、もしかして再発したのでしょうか。医師には、強いストレスが溜まってくると再発する時があると言われましたが、でも日中に起きるものでしょうか」」と手に書かれた老人は苦笑して言った。
「ワシは医師じゃないんじゃ。そんなことまでは分らん。とにかく悪霊は感じ取れんかったわい。夢遊病再発の可能性があると思うんじゃったら病院に連れて行けばええ。ワシにはこれ以上何も言えん」
老人がそう言うと、母親と高校生は礼も言わずいそいそと帰って行った。周りに人の気配がなくなると老人は思った。(やれやれ、無駄骨おりじゃったわい。まあ、暇じゃからええか、、、)

月日は流れバロンは3歳になり、4月から幼稚園に行き始めた。朝、迎えのワゴン車に乗せた後は、、ラムは煩わしい子育てから解放されて、のんびりスマホを見て過ごしていた。
しばらく訪ねて来る人も居ず、老人も隣部屋でナオミと話したり昼寝をしたりして寛いだ日々を送っていた。
そんなある日、ラムが老人の横に来て手に書いた。「「父さん明日、目の検診日よ。タクシーを予約しとくね」」   「おお、そうか、頼む」半年に一度の検診日だったが、老人はこの検診が嫌だった。
手を握れば、ある程度周りの景色が見えるバロンと違って、ラムの手を握っても景色は見えず、それどころか手さえ握らせてくれないラムと病院に行くのは退屈な上に、いきなり手をひっぱたり背中を押されたりと手荒な扱いをされて老人は閉口していた。まあ病院まで一緒に行ってくれるだけでもありがたいと思うしかなかった。
今回も検査室に入ると、その後は看護師に優しく手を引かれて数種類の検査をされ、全盲という検査結果を知らされただけだった。老人は、検査結果は分り切っているのだから、検査する必要はないと思うのだが、病院側としては診断書作成のために検査せざるを得ないようだった。
全盲の上に耳も聞こえない老人は、医師や看護師とのコミニケションもできず、退屈でつまらなかった。だが今回は、ひとりの看護師の手を握った瞬間に、ゾッとするような悲しみを感じ取り、老人は思わず言ってしまった。
「何があったにせよ、最悪の決断だけはせんでくれ。ワシのような障害者でも良かったら話し相手になるぞ」
老人の言葉に驚いた女性看護師は不思議そうに老人を見た後で手に書いた。「「あなたは、、、もしかして私の苦しみが分かるのですか」」   「まあな、、、ある程度は解ると言えるじゃろう。特にあんたのような自殺願望者の心はの。
ワシはあんたをとめたりはせん。じゃが、今は時期が悪い。というのはの、今は三途の川が大洪水で、あちら側に渡れんのじゃ。それで成仏できん亡者どもがこちら側にあふれとるんじゃ。なかには喧嘩しとる者もおる。悪い事は言わん。いま死ぬのは止めておけ」
女性看護師は一瞬噴き出しそうな笑みを浮かべたが、すぐに真顔になり手に書いた。「「あなたは本当に三途の川が分かるのですか」」   「ああ、ほぼ毎日川のこちら側に居る霊魂と話をしておるからの。あの世の状態も聞いて知っとるんじゃ」
「「あなたは不思議な人ですね」」   「まあな、目と耳がダメになって人の心や霊魂が見えるようになったんじゃ。こう言うのを怪我の功名と言うんじゃろうかの。
あんたは死ぬ前にワシのアパートに来るがええ。冥途への土産話用におもしろい話を聞かせてやる。アパートの住所とかは娘に聞いてくれ」

数日後に看護師がアパートに来た。恐らく横浜駅のバス停横で買ったのだろう崎陽軒のシウマイを持って。
アパートの部屋に入ると看護師は、ラムに言われる通りに、テーブル横の椅子に座っている老人の横に座り手を握った。すると老人が言った。「名前を心の中で言ってみてくれ」看護師がそうすると老人は言った。
「松原かおるさんか、良い名前じゃ」かおるは驚いて手に書いた。「「手に触れただけで分かるのですか」」
「まあな、、、それに、あんたの後ろに居られるお母さんも感じ取れる。お亡くなりになられて一か月半ほどかの。あまりにも早い、、、いや、ずっと看病しておった、かおるさんには酷な言葉じゃから、これ以上は言うまい。
じゃが、お母さんは心配しておるぞ、あんたが死ぬのをな。お母さんも洪水のせいで川を渡れずにいるそうじゃ。じゃから、お前は絶対にここへ来るなと言うとるぞ」
「「本当ですか、本当に母が私に憑いているのですか」」   「ああ、あんたの後ろに居るお母さんがワシには見える」   「「なら、お母さんと話をさせてください」」と、かおるは涙を流しながら老人の手に書いた。
「うーむ、それは、、、ちょっと待て」老人はナオミお呼んで相談した。するとナオミは「今回だけは特別に、ということで、、、一時的にお母さんをおじいさんに憑かせるわ」と言って去った。老人はナオミの言葉をかおるに伝えた。
かおるはすぐに老人に向かって言った。「お母さん、なぜ死んだの、早すぎるわよ」
老人はかおるの母の声で言った。「、、、あなたが看病疲れで苦しむのを見て居られなかったのよ、、、8年も、、、ごめんね、苦労ばかりかけたね、、、」
「苦労だなんて、なにを言ってるのよ、親子でしょう、、、」そう言ってかおるは大声で泣き出した。老人はさらに言った。
「かおる、親子だからよ。親は子の幸せを一番に考えるものよ、、、私は病気が治らない、悪化するばかりだということを知っていたの。そんな私の為に、あなたを不幸にしたくなかったの。延命治療なんてお金の無駄遣いよ。私は自分で点滴の針を抜いたの」   
「お母さん、なんてことを、、、」かおるの声は絶唱のようだった。老人はかおるが泣き止むのを待ってから自分の声で言った。
「二度と、死にたいなんぞと考えるんじゃないぞ。お母さんの願いを叶えるんじゃ。あんたが絶対に幸せになっての。大丈夫じゃ、あんたの年齢ならまだ良い男が見つかる、、、帰りなさい。必ず幸せになるんじゃぞ」
かおるは老人の手に「「おじいさん、ありがとうございました。この御恩は一生忘れません」」と書いて、アパートから出ていった。

その、かおるが数十メートル歩いた所で僧侶と出会った。その僧侶は「御老人はご在宅でしたかね」とかおるに聞いた。
まるで知っていながら聞いているような雰囲気だった。その上、僧侶は「三途の川の洪水はもうすぐ収まる。あなたの御母堂も渡れるようです。四十九日の法要をなされるが良い」と言い、目を丸くしているかおるに軽く合掌して去った。

僧侶はアパートのドアをノックして、出て来て不思議そうに自分をじろじろ見ているラムに言った。
「ほう、まだお若いのに強い霊力をお持ちじゃな。両親からの遺伝じゃろうかの。無理に隠す必要がござらぬ。その能力を人を幸せにする為に使いなされ。さて、お父様に会わせていただけるかの」
僧侶は無遠慮に中に入ると、まだテーブル横の椅子に座っていた老人の前に自分で椅子を運んで座った。その気配を感じたのか老人は怒鳴った。 「無礼者め、何者じゃあ」
僧侶はすぐに老人の手を握った。すると老人は言った。「なに、長野の坊主じゃとう。坊主がなにしにここへ来た、、、なに、ワシの能力を人類の幸せの為に使うようにお願いに来たじゃとう。
ふん、要らぬお世話じゃ。ワシの能力はワシの為だけに使うんじゃ。人類の幸せなんぞ知ったことか。、、、なに、ワシの望む望まないに関わらず、ワシは人類の為にこの能力を使うようになるじゃとう。ふん、、、
なに、その時まで能力をさらに高めるように努力してほしいじゃとう、、、ふん、ワシの知った、、、」この時、僧侶は初めて声を出して言った。「御息女殿、このチョコレートを開けて御父様に食べさせてくだされ」
ラムがチョコレートを取り出して、一粒を老人の手に乗せた。老人は匂いを嗅いでから口の中に入れた。そして時間をかけて味わいながら言った。
「、、、なに、長野名産のボンボンチョコレートじゃとう、、、病みつきになるが、家族で取り合いせんように、なくなったら送るから電話するようにと、ふん、、、人類の幸せの為に協力したら、このボンボンチョコレートを腹いっぱい食べさせてやると、、、うーん、考えておくわい、、、」
それを聞いた僧侶は満足そうに頷き「お会いできて幸いじゃった。これで日本の、いや人類の未来は安泰じゃろう」と言って立ち上がった。その言葉は手を離しても老人の心に届いた。
だが、僧侶が帰って行った後で老人は忌々し気に呟いた。「なんじゃ、あの糞坊主め、、、ワシをボンボンチョコレートで釣りおって、、、ふん、まあええわい。人生は成るようにしかならん。じゃが、、、糞、ワシの人生は、まだまだワシをこき使いたいらしいわい、、、」
その時ナオミが現れて言った。「どうしたんですか、おじいさん、なにを怒ってるんですか」   「う、うん、いやなんでもない、、、ワシはこんな身体でまだまだやる事が、いや、やらされる事がありそうじゃわい」

その後も老人は、時おり訪ねて来た人の心を読んだり、霊魂の要望を聞いてやったりしていた。そうすることで老人は、知らず知らずのうちに超能力や霊力を高めていた。
そして数年後、白人男性と日本人女性のカップルが来た時には、白人の手を握った途端に背後霊ゆきこの存在を感じ取れたが、そこからの物語は「FBI特別捜査官トニーー」の、トニーと京子が横浜の佐々木老人を訪ねて来た所から読んでいただきたいと思う。
               2026年2月22日   完 

横浜の佐々木老人、超能力者になる

横浜の佐々木老人、超能力者になる

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-06-10

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