かれの名前を呼んで

無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。
    ──石川吉朗『確認されない死のなかで』

 石川公理は徴兵されていて、「誰ひとり殺さずに死ぬのを俟つ」という貞節を自己に課していたのだった。
 この貞節はかれの、水晶の骨組さながらに硬質でいまにも消え往こうとする脆くも(つよ)すぎる倫理から導きだされた、ある種かれにとり自明の理にもちかいものであり、またかれだけのいだく石川固有の結論、そして戒めのようなものなのだった。
 石川は訓練こそ懸命に参加していたけれども、ひとひとり殺せやしないであろう闘争心の欠落したような柔らかい表情をもっていたから、むろん軍隊では毎日のようにいじめられた。そのあいだずっとかれはかなしげな顔をして耐えるばかりだったのであって、それを終えると受けた暴力をかるくゆびで払うかのようなすずしげなうごきで元のしずかで優しい表情にもどり、軍のみんなに親切にしつづけていたのだった。
 いじめていた男たちにもいつだって親切だったから周囲のかれのことが好きな兵士はひやひやしていたのだけれども、「かれは、かれがそうしたいからしているのだろう」という意見でなんとなく一致させるアトモスフィアがあったために、すこしばかりの労いや慰めこそあれどかれの淋しい親切をそのままにしていたのだった。

  *

 外国の戦場に辿りつく。
 かれはなるべくひとりで行動するようにしている、なぜといい、かれの戦場での行動はいつもふしぜんであるし、かれを理解しない兵士が敵国の兵士へ暴力をふるうことを強要する状況はやはりしばしばあったのだから。
 腕に軽傷を負った状態で、石川はひとり夜空を眺める。銃から弾をいくつか抜いて、あたかも「拳銃を使用しました」とみえるようなカモフラージュをする。かわいた笑みで暗みが覆い被さるような夜空を仰ぐ、はらりはらりと音がするような淋しい笑みを浮べる。荒れ果て血の混じるかれのフィジカルは、水中に屹立する崖のような孤立した風景を連想させる。それはまっしろへ剥がれるような詩的イマージュを時々くらいは感じさせるけれども、しかし、強いものへ導くことはない淋しい絵画にえがかれたそれであるだろう。
 かれにはもはや、夢も、未来だってない。ただ貞節が、貞節の守護だけが、道徳的善への尊敬心、善意志にちかいものだけがわが身に残されているようにおもわれる。
 けれどもじつは、かれには一種かれじしんの怠慢によって発見されていない、硬く冷たく頸く残っている美徳が残っている。感情に聖域はない。感情に聖域はないかもしれないけれども、やはり、人間には、如何に悲惨でも惨めでも残りえる、人間にとって素敵な感情だってあるに決まっているのだから。
 背後で草が揺れる。石川はわが身を守護する気のいっさいない無防備な状態でそこへ近づき、草を分ける。
 敵国の兵士が、怯えた表情でかれを見る。かなり負傷し、しばらくはうまく歩けないだろう。
 地にころがる銃をゆびさし、腕を横に振る。「ゼロ」そう言う。
 石川は見ているこっちがくるしくなるような乾いた微笑で兵士を見る、ポケットのパン屑を渡す。
 兵士は涙をこぼす。うけとれない。そう仕草で表現する。けれどもかれの眼には、ひさびさの優しさに触れたうれしい気持が光っている。笑みを浮べる、それはひとにもとから付属されたかわゆらしさが、仄かにひかったように愛らしいそれだった。
 石川はパン屑を半分にして兵士の横に座り、片方を渡す。「Thank you.」そう言って兵士はうけとり、石川へ微笑しながら食べはじめる。
「Are you christian?」
 あなたはキリスト教徒ですか? そう尋ねて、胸元にひかるロザリオを掲げる。
「No.」
 石川はちからなき声で返す。
「I am Kouri Ishikawa.」
 もういちど繰り返す。
「I am Kouri Ishikawa.」

 その戦争を終え、あるひとりの兵士が武勇伝を語っている。
「そして、首を真ん中から刺し貫いて…」
 石川はかれらへ背を向け、わなわなとふるわせている、麻痺したほうが楽だ、麻痺したほうが楽だ、だが、ぼくは──ぜったいにそうなりはしない。
「それでさ、ナイフにロザリオが引っかかってて、これ、売ったら高いかな?」
 石川は表情をこおりつかせ、顔をてのひらでおおう。
「うん? いや、この素材は真鍮だ、一文にもならない」
「そうか」
 そのロザリオは、(ほう)られて火にくべられる。
 ある兵士は、ふだん温和な石川の顔が、一刹那火のようなおそろしい表情へ変容したのをみいだしたのだった。

  *

 その戦場での収穫は、慰安婦だった。
「石川、おまえもお世話になれよ」
「行かない」
「おまえだって男だろ、使え。使えよ」
 使う──ぼくは、人間にこの言葉を適用する行為を、ぜったいに是認しない。
「行かない」
 行かない。これだけを、くりかえす。なにも、説明しない。
 石川にはもはや、なんの自尊心も残っていないようにみえることがある。ただ、貞節を破ることだけが、かれの一抹残った自尊心をことごとく破るように考えられるのかもしれない。
「おまえみたいなやつ大嫌いなんだよ! 信号は守りましょうとか、ポイ捨てはダメとか、先生のいうこと聞けとか、そういうこと言うタイプだろ? 強いものへ向かえよ! 闘えよ! 野蛮になれよ。おい。おまえのなにがえらいんだ? 生物として、雄として完全な劣等じゃねえかよ。いっつも真顔で俺たちを馬鹿にしやがって!」
「行かない。ぜったいに、行かない」
 騒音。打たれる音。悲鳴すらない。うめき声だけ。
 ──かれらはわるくないんだ。と、石川は思う。戦争が、ひとのこころの重力性という宿命が、ほか様々の見えない事情が、原因なんだ。

  *

 ある日、石川が「ぼく、慰安婦のところへ行くよ。鍵を開けてくれ」と頼み、周囲は下卑た笑いをし、石川のことが好きな兵士たちはショックな表情で顔をそむけた。戦争。なんでこんなものがあるんだろう。
 モラルと思い遣りをはぎ取られた男の姿とは、こんなものだろうか。

 翌日、つねに閉じ込められていたはずの慰安婦は逃げ出していた。
 兵士しか場所を知らないはずの倉庫からは食べ物の一部が盗まれていて、だれがこんなことをしたのかは、明白だった。

 一部の石川が好きな兵士たちは涙を流して、かれへの心配ももちろんあったけれども、なにか、なにか人間の心を信頼し直すような気持に洗われたここちだった。

  *

 石川はずっと打たれている。鈍器で殴られ、集団で蹴られている。
 殺し合いを強要されることによって心が変わってしまった哀しい男たちに、もはや、石川の尊厳を大切にするこころは失われている。
 果して、かれらに罪があるのか?
 あるリーダー格の男は、血まみれでふしぜんに骨が折れ曲がった石川の後頭部をつかみ、こんな、優しいだけの弱弱しい男の、惨めな、敗北の顔を見ようとした。
 男が、恐怖に目をみひらいた。
 石川が、冷たい青い火のような劇しい怒りと憎しみの顔を向けたのだった、その顔はまったくもって、まったくもって弱い生物のそれではなかった。閉じ込められても人間へ牙を剥く肉食獣のそれだった。鬼のような顔だった。
 そのなかで、淋しく澄みきった眸が、みじろぎもせず、まっすぐに男をみすえていたのだった。
 ──どうして?
 そう叫んでいるようだった。
「…見るなよ」
 男は、ふるえながら言う。
「そんな顔で、俺たちを見るなよ! 俺たちは、俺たちだって被害者なんじゃないのかよ!」
 かれのいたましいまでに淋しく澄んだ視線は男たちの心の根まで迫り、一種慌てふためくような、ほとんど自責から逃げ込みたいという心の動きで男は石川をつよく床へ突き飛ばした、頭がこちらを向かないようにと命令し周囲の兵士たちへ後頭部をおさえさせながら、血にすべる手にちからをこめ、首元へぐいと刃物をいれはじめた。…

  *

 石川。
 石川。
 石川。
 石川は、かつては、ぼくの友達だった。
 こんなにもささやかで慎ましい優しさたちは、けっして歴史には残らずとも、まるで発表すらせず抽斗に仕舞われ、陽の目をみず灰になって往った詩編のように、世界に睡ってきたはずなのである。それはもしや、輝きの欠落したかたちで、むしろ世界をきらきらと綺麗に映させはしないだろうか?
 この世界が悪と悲惨に満ちているから価値がないと見做すのは誤りである。ほんとうにこの世界に価値がないのなら、悪はそこからなにを奪うのか?──シモーヌ・ヴェイユ、あなたの思想は、きっと美しかった。
 かれの眸の一途は、宇宙の暗みをあたかも射し貫くかのような光を燈していたのかもしれない──無明。無明という光を。その、絶世を。

かれの名前を呼んで

読んでくれてありがとうございました。ぼくたちも、ぼくたち固有の死にたい幾夜を切り抜けて、ぼくたち固有の生を生き抜こうね。

かれの名前を呼んで

短編小説 戦争

  • 小説
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  • 青年向け
更新日
登録日
2026-06-09

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