座礁地帯

座礁地帯

座礁地帯

    掟とは約束ではなく告発である――
 
 

 二つのビル型映画館を抜けると、油と便所の匂いが停滞した古い路地に入る。路地には街灯を浮かべた水溜りができており、吸殻やら空き缶やらが捨てられている。その叢を背中を丸めた男が歩いていく。アスファルトの隅々に枝を伸ばした雨水が、男の靴底にしがみつく。直毛だったはずの髪は皮脂でひねくれ、黒染まり。細いピンクのストライプが入った白シャツは、ぶち猫のような柄になるぐらい、汚れている。汚れというのは社会良識で判断される汚れであり、当の本人は微塵も汚れだとは思っていない。本人とは男のことであり、男とは俺のことである。俺とは矢野誠。数年前の話だ。 
 俺は今、務所内にある敷地で、地面に伏したまま、なんとか手に息を当て、温もりの感じることを確認している。もはや立ち上がる気力もない。この物語は、最後の足掻き、俺の内側で語られる、追憶という断末魔。俺は迫る宣告の時を待っている。宣告を告げられてしまえば、この物語は幕を下ろすことになる。霧に語る叫び。死に際の本心に付けて加えると、断じてそのことに動揺はない。必要ならばそれを証明することだってできるが、今はもうその時ではないらしい。死に際の弱気に告白すると、この物語がどこかで見つかり、歪曲されていくことだけは恐ろしい。これをもし聞かされたとしても、語ることは許されない。さて、背中が丸くなるような説明はよそう。男の話に戻る。
 路地を抜けるとフェンスで覆われた公園に着いた。昨今のいやらしい安全意識のため、遊具は全て取り払われ、隅っこに置かれたベンチが向かい合っているだけだ。夜の公園は犯罪の温床になるらしい。ベンチに一人座った青臭い男。男一人に何ができるのであろうか。
 生温かい風が頬ずりしてくる。頭皮に沼のようにこびりついた汗が、領土を拡げつつある。それをどうにか食い止めようと、シーソーのように頭を揺らしている。汗への嫌悪はまだ持ち合わせているらしい。人間でいるためには、それで十分だ。さっき歩いた路地の影よりも、足を引きずった水溜まりなどよりも、どんよりと深い瞳で空を見上げている。周囲のビルから、灯りが消えていく。そこに投影する自意識が、いや、その投擲運動にこそ、自衛の本能があった。いじらしい反抗である。それと同時に、毎日の習慣でもあった。俺は取り残されたんじゃない、奴等を置いて先に出発してみただけのこと……俺の首はベンチの後ろに落ちていった。
 俺は死に底を這う人生を送ってきた。それは生まれてからずっとのことなので、今更救いを請うことはしない。しかし、今すぐ死に沈むことはない。いやなかった。現状はそうも言われぬ瀬戸際なのだが。ただ、これまでは違った。それはテーブルの上に並べられたご馳走を、どれから食べようか迷うように、どう死のうか吟味していたからだ。箸休めという表現もある。しかし俺の場合、箸を置いている間にフォークやらナイフやらを持ってきて、違うテーブルに手を伸ばしてしまうのだ。
 男は立ち上がり、目を覚ました夜の街を、再びさまよった。俯き始めた高層ビルの谷間を歩き、帰路に急ぐ車の往来を見つめた。煙のように広がるエンジン音。その雲の中から、サラリーマン達が先陣を切って歩いてくる。まだ濃紺の空を貫くビルは、どこかへ続く橋のように見えるし、それを背に歩いている彼らは、どこかからの使者のように思える。どちらでもいい、確かなのは、みんな帰る場所を知っているということだ。小走りになっている奴もいた。硬いアスファルトに、革靴の音が転がる。そして笑い声。
 再び、沼のように暗い路地に歩き出す。古いビルに挟まれた、コンクリート製の獣道。手の甲にそっくりな、ダクトの血管。頭の重みが辛くなる。
 歩く分には気持ちがいい気温。風のおかげで、毛根にちょうどいい振動が伝わる。走りは禁物だ。体力的にもここぞの隠し技っ……だし、快適と言っても、走ったらさすがに汗が噴き出す。
 通行人のほとんどが、会社帰りの男たちだった。中には学生とか、若い連中もいたが、何かしらの帰りってぐらいは見当がつく。だいたい疲れているような顔で、まあ、仕事も遊びも、大差ないようだ。駅に向かって飲み屋が集中しており、そのそれぞれから湧いた集団が、同じ方向に向かって進む。酔った男を、50代ぐらいか、を30代ぐらいの男が介抱しながら歩いている。スーツをはだけさせ、中の白シャツも、赤くなった肌を晒すための衣装布に成り下がっている。集団は8名ぐらい。本隊から分離して先を歩く集団も含めれば15名ぐらいか。野太い笑いと、のらりくらりな愚痴節の声。身体(からだ)中の影が退散し、続いて自動車の通過。瞬間、声は全て攫われ、しばらくして、誰にも分からぬ話の続きが引っ張り出される。声だけで男女の違いは見抜けるが、点滅するまとまりと考えたら、もうそれ以上にもそれ以下にもならない。
 ビルに入っている飲食店。その裏手に、ごみ袋で蓋が閉まらなくなったバケツがあった。街灯がビニールの中身を暴こうとしている。赤いカップラーメンの胴体が、モザイク越しに見えた。スープの油がビニールの表面を伝って……雨上がりのような……一瞬、ごみが弾ける泡のように動いた。口内を満たす唾液が歯の隙間を滑り、微かに音を立てた。向こうから人影が近づいてくる。バケツから空き缶がこぼれ落ちた。ぶちまかれた、鼻から舌の付け根を鷲掴みにされる臭い。続いて風に乗った弱酸性の、あるいは魚の腐乱臭。何かをまさぐる音。そう聞こえた次には、すでに目の前に来ていた。肥えた鼠だった。ビニールが鼠の重みで、老人の目尻のように垂れる。鼠は俺から逃げるように飛び降りた。ビニールにできたしわが潮目を変えた。バケツから伸びた影。暗闇には人を吸い込む深度がある。適当深度を超えた先は落下し――激突。鈍い音と共に、肥えたネズミは人影の方に走っていき、その目前で暗闇に消えた。点滅した街灯と擦り切れた話し声だけが聞こえてくる。人影は俺の視界の中で大きくなっていき、消えた。俺は両手に力をこめ、身体(からだ)を持ち上げようとした。筋肉が血管を圧迫するのを感じると、壁にもたれかかった。脂ぎった髪を壁になぞりながら、太腿で腰という受け皿を持ち上げた。振り返ると、人影は路地を右に曲がろうとしていた。俺はスーツを着たあの男たちのような足取りで、沼を歩いた。本当に酔っていたのかもしれない。都市という自家中毒。路地を抜けるまであと数歩だったはずだが、消えかかった蝋燭のような視界では、まるで砂漠を歩いているように果てがなかった。出口が見えない。日常の出口。消えたのか?いや消失したわけではない。
 いや、今思うと俺は出口なんか探していなかった。出発点を目指していたんだ。新たな日常への入り口を……。
 路地の終わりにある標識を掴み、右を窺うと、人影は廃ビルの方へ入っていった。ビルは7階建てで、周りには工場用のガードフェンスが置かれていた。一箇所だけ、フェンスが閉じきれてない場所があった。人影はそこを使って中に入っていった。俺は見えすぎた好奇心からフェンスをずらし、割れた窓から中を覗き込んだ。入り方から見るに、相手はビルと面識があるらしかった。ビルは戦後の好景気からあるもので、数回の改装が入ったものの、それでも綺麗だとはいえない見た目だった。廃ビルの歴史は根深い。改装は当然周りのビルにも入るのだが、経済が停滞し始めると工事が追いつかなくなっていった。一棟が潰れると、たちまち周りも廃墟と化していった。一時は有名な心霊スポットとして、若い輩を呼び寄せた。だが完全に動きが止まったたわけではなかった。新手の集客を期待して新ビルが完工されるなどはあった。まあ結局それも廃墟になり、次にタワーマンションになった。他のビルも次々一新され、廃墟はもうそこと、駅前の一部だけになった。ところで、人影がその廃ビルに消えたことについてだが、俺の好奇心が吸い寄せられたのは、そのビルは俺がよく出入りしていた「基地」だったからだ。
 俺が基地に住み始めたのは、14か15の頃で、生活は悲惨だった。まともを知らなかった。ただ、一生何もわからないまま死んでいくことは知っていた。そこでたまたま見つけたのが、その廃ビルだった。こんな俺でも、居場所を探していたんだ。俺はビルに潜伏し、とにかく歩ける範囲で安全圏をさがした。しかしどこもゴミだらけ、壁の隙間や天井の穴は風の抜け道となり、常に唸り声のような音が聞こえていた。俺はなるべく外から見られず、同時に逃げ道も確保された場所を求めた。極限状態だったかは知らないが、それに近い状況でも、人の判断は俊敏になる。そうは言っても、本質は視野を狭めているだけで、つまり見えるものを少なくして選択しやすくしているだけのこと。ビルに入ってからすぐ右にある、解体された部屋。もともと二つの部屋だったが、壁が取り壊され、剥き出しの鉄筋だけが、それっぽい境を決めている。そこを抜けて、正確にいうとその部屋の壁に空いた穴をぎりぎりくぐると、個室便所ほどのスペースが現れる。非常用梯子の名残で、壁には垂直にフックが取り付けられていた。俺はそこに拠点を置いた。それ以上の深追いはしなかった。そこも突然埃まみれで、暗く、ぼんやりとしていた。ただ一度寝床を決めてしまえば、欲を言う気も起きなかった。そこよりましな場所はあったと思うが、人間とはそういうものだろう。自然生物でも、巣を移動するのは環境の変化でやむを得ない場合か、餌の有無からしい。俺は生物らしく、寝床と夜の街を行き来した。ビルを出てはごみを漁り、盗みに励み、ただ生き逃れた。俺の身体(からだ)は生きたがっている。しかし、次第に分からなくなっていった。生きている意味、人生という単調な袋小路。そう考えることこそが、人間でいることの特権だと考えた。だが、社会から排除され、自分を囲む溝が深くなっていくと、その特権にも意味を見出すことができなくなっていった。頭の中には消えかけの煙が膜を張り、手をかざしてもすり抜けていく。俺の心は死にたがっていた。
 若い頃の順応力とはさすがなもので、生活自体には数ヶ月で慣れていった。決定的だった。手にまめができたみたいだった。ただ、遠くから見れば、結局悲惨であることには違いなかっただろう。当時の俺ではそんなこと考える余裕もなかったが、死にふせている今では憐れみすら感じる。相手は自分なのだが、陶酔だろうか。とにかく、それからずっと、その廃ビルを使わせてもらっていた。取り壊しの計画はあったらしいが、予算の都合か、一向にその兆しは見えなかった。いや。見えないだけでただ隠れていただけなのかもしれない。実際、俺はその時までに人影の出入りにすら気づかなかったのだから……結末を知っている俺から言わせると、こういうのは種明かしというだろうが、とにかくその人影はしょっちゅうビルを出入りしていたらしい。俺並みのご愛用っぷりだ。

 

 あぁ、だめだ。こうして思い出していると次から次へと要らない観念が浮かんでくる。割っても割っても膨らむ風船のように。ただ残骸の影だけが見える。まともに話が進まない。このまま飛び乗ってしまおうか。いやいやまだ早い。俺にはこれを話し終える義務がある。俺の生に課された最後の掟が。

 
  
 そこはビルに入ってすぐのところにある階段を使って降りた、地下二階のスペース。いたるところにガラスや劣化したコンクリートが散乱し、いつのものかも分からぬ勧誘ビラが転がってゆく。しかし商業ビルであったことは覚えているようだった。学校の教室のように間取りが分けられていた。そしてその空間の隅にある部屋。暗い地下空間に一筋の光を放っていた。虫に喰われたような天井。無数にあけられた穴によって音が乱反射し、結果室内の反響が抑えられる……だった気がする。
 俺は窓を覗いた。傷つき、ひび割れたガラス。そこに、さっき追いかけた人影が見えた。それぞれの椅子に座る計4人。皆テーラードジャケットを着ており、電気式ランタンを囲んでいた。最近のものだろう、LED特有の安っぽい陽だまりができており、床に燃えかすのような影が伸びていた。演出された陳腐さ。管理された永遠という幻。
 微かだが、声が聞こえた。会話のようだが、呪文を唱えているようにも思えた。教典なんかでも読んでいるのか……?そうやって不思議に耳を傾けていると、地面に激突しそうな目眩に襲われた。俺は何度も頭を引っ張った。会話ではない、いや、それとはまるで違った話し声。抑揚も、速さも、発音も、どれも聞いたことのないような音だったのだ。しかし人の声だというのは分かった。散っていく枯葉のような笑い声もした。なんだ……なんだこいつら……。まず疑ったのは国籍だ。俺は粘膜にとりつかれた脳をこすり、精一杯考え始めた。久しぶりだった。そんなことは。ただ毎日歩いて、ゴミを漁り、なんとか死をまぬがれ、生にうろたえる。頭に浮かぶものといえば、理想の死に際と、たまに女。しかし、どれも映像として流れていくだけ。とろけてべたついた煙のように。久しぶりだった。頭の中を言葉で捕まえたのは。
 俺は覚醒間際の夢のような揺らぎに、たちまち足を引いてしまっていた。しかし同時に、恐ろしいほどの興味に惹かれていた。これは一体なんの集会なんだ……。新興宗教かなにか……たまたまここを会場に選んだのなら、お門違いも甚だしい。
 しかしその小さな挙動を、地面は見逃さなかった。しまったと思った。瞬間、ガラスの弾け散る音。そこでは新たな沈黙の層をつくりだしてしまう。
「んぶは……!」一人が声を張り上げた。長いトンネルの中のような低音。
「気のせいよ」
「なあ、したっぽいね」
「あたしんないぬ……」
「何回目だっての!」
「しっ!……」
 三つの異なる声色。男二人と女の声。男のうち一つはさっきと同じ。もう片方はひょうきんな調子だった。そして女の声は……女にしては低く、落ち着いていそうだが、やや強がっている震えも聞こえた……あるいは怯えてもいないが、あえての演技……やけに落ち着き払っている言い方はどちらとも取れる深淵があった。
 俺はゆっくりと身を低くした。しかしいつでも走り出せる体勢に。これ以上迂闊な防衛反応はみせたくなかった。その気になれば走って逃げれる自信もあった。走力という名の、自然の防具。だがその自信は、相手を近づかせるためには十分すぎた。俺が着た鎧は重過ぎたのだ。
「なに……やるぅんける」
 その声は今まで聞いたことのないものだった。なんとか文字に起こせる、ほとんど低周波の塊のような響き。俺は右足首の向きを変え、立ち上がる素振りを見せた。ゆっくりと腰が上がっていき、靴底を地面に滑らした。砂利を擦る音と、太鼓のような鼓動が廊下に響く。俺は階段に向かって走り出していた。背後から近づくもう一つの太鼓。廊下の闇が雑木林のように過ぎていく。何かが俺の背中を打つ。俺は坂道を下り落ちるような足取りになり、そのまま転げていった。
「はあ、はあ……すぴいどだな。しかし。むうがより」地面を這う蛇が上下にのたうち回るような発音。そいつは坊主だった。緑色の鎖のようなストライプ柄がほどこされた、ジャケットを着ていた。
「はあ……なんだよ、てめえ」
「すぴいど。むうがより」
 向こうから残りの3人が近づいてきた。背の高い一人がランプを持っていた。心臓の鼓動が鼓膜を叩く。坊主の男は階段側に立っており、退路は塞がれていた。女が駆け寄るようにやってきた。そして倒れている俺に、膝に手をつき中腰になって、迷子の子供を見るような目つきを向けてきた。ランプがちょうど女の腰に隠れ、女の顔が見えなくなった。
「だけだ」坊主が女を見て、その次紺色のニット帽を被ったやつを見て言った。
「わかんないわ。ね、例外でしょ?鷹米、いいでしょ?ねえ?」女は首を時計のように回し、ニット帽に振り向いた。
「なんだ、小僧か。なら、例外は葉徒」
「やった!」女は両手拳を顎に近づけ、目を一瞬、ぎゅっとつむった。そして今度は完全に膝を折り、俺に目線を合わせた。
「あのね、えっとお、なんて言えばいんだろ」
「葉徒は例外!」坊主が差すように叫んだ。男にしては高音だった。
「ふふ、んー」いや、声は出していなかったか。ただ微笑んだのは確かだ。女の笑いは明らかに坊主に向けられたものだったが、目は俺を捉えたままだった。
「おい、なんの集会か知らねえが、ここは俺の縄張りなんだ。俺の興味が冷める前にさっさと消えな」
「年はいくつう?」
 俺はニット帽の男を見た。それは、そいつがリーダー格らしく、一番外交可能性を感じたからである。しかしそいつは俺を見つめたまま、髭の一つも動かさなかった。そいつの後ろから、俺がはじめに対峙した男が出てきた。そいつが一番の長身だった。
「馬鹿にしてんのか」
「ううん、あなたがどなたか知りたいの」女が返した。しかし俺の目はずっと、長身の男に向けられていた。女は自分に言われたつもりで続けた。
「さあ立ってごらんなさい、すごい汚れ」女は両手を俺の脇に差し、やはり子供のように持ち上げようとしてきた。女の年齢は24から7、8程度、俺とさほど身長差はないが、ずっと家にこもっていそうな細さだった。そいつの言う通りにするつもりはなかったが、かといってそんなことに反抗するのもみじめで幼いので、そこは素直に立ち上がった。
「んとお、案外大きいのね。メートル法だと176cmってとこかしら。グラム法だと50kgもなさそうだったから」俺の後を追って女も腰を上げた。
「あんたら何もんだ」女はニット帽の顔を確認し、その後俺の顔を見た。
「どうしてほしい?」
「きえてほしいね」
「でも、そんなちからもないでしょう?ほら、泥だらけよ、パンツ」下唇を掻きながら、俺の足に人差し指を向けた。
「さっき何話してた」
「世間話よ」両頬にしわをつくり、目線を俺に合わせた。
「お前ら、本当に日本人か?」
「それって土着的に?それとも国籍ってやつ?」
「両方だ」
「なんていうの?」
「なにが」
「名前よおっ。まだ聞いてなかったでしょ?ほら、呼び名って便利な道具があるんだから……お前だなんて呼び方野暮ったいでしょう」
「ならそっちから名乗ってもらおうか。一人ずつ、全員だ。ほら、お前から」
 俺の視線は女の肩をこえ、ニット帽の男に投げられた。女はそれに気づかず、いや、あえてそれを遮るように言った。
「しょうがないわねえ。あたしは葉徒よ、坊や」
「お前らもだよ」
「図に乗るな」ニット帽が制止した。した気。
「い!あのこと!」坊主が後ろではしゃいだ。
「うるせえな、なんて言ってんだ」
「それ、初めて聞いたって。「図に乗る」って言い方かしら」
 俺は坊主の方を振り返った。身長は俺より少し高いぐらい、180あるかないか、極寒の刑務所で人殺しでもしてそうな顔だった。三角定規のような吊り上がった目で、存在感のない鼻と唇。耳には補聴器のようなものをつけていた。足の速さといい、体格に自信ありげな立ち振る舞いをしていた。俺が坊主を見上げると、やつは上唇を翻し、前歯と、黄色がかった歯肉を見せていた。たぶんランプの光のせいだろう。俺は今すぐにでも、その歯に黒い穴をぶちあけてやりたいと思った。俺はまともに話せない奴が嫌いなんだ。
「木追山よ、どう?仲良くなれそ?」
女は両手を組み、自身ありげに顎をしゃくっていた。
「仲良く?どういうつもりだ」
「あたし達に仲間入りしたいんじゃないの?どうせ居場所もないくせに」
「なめてんのか」
「だったらどうしてこんなところにいるの?」
「まあいいじゃないか。そんなにいじめるなよ、葉徒」ニット帽の男が間に入ってきた。
「どうしたら素直になってくれるのかしら」女、これからは紹介通り葉徒と呼ぶ、は照れくさそうに唇を固め、上目遣いを残したまま後退した。
「ここで話しててもお互い都合が悪いだろう。あそこの安全は我々が保証している」そう言うとニット帽は、こちらを見ながら、踵を後ろに引いた。そしてその動作は、さっきの部屋に戻るまで続いた。
 俺たちはやつらが最初いた部屋で話すことにした。部屋に戻るまでの間、ちょっとしたことがあった。一つは、奴らの名前について。この時点で名前というより、ただの呼び名、コードネームだとは感じていた。だいたいなんだ、葉徒って。鳩じゃねえか……女は既出だが葉徒、黒いジャケットに白シャツ、黒いミニスカート。坊主のやつは木追山、おかしな名前だが、様子も一番おかしかった。ニット帽、やはりこいつがリーダーらしい、は鷹米。紺色のダブルジャケットを着ており、ジャケットよりも深い色のスラックス、それを締める茶色のベルト、そこには枝に絡みつく蛇の紋章が装飾されていた。そして背の高い、俺がはじめに遭遇し、追いかけた男は佐伯という……そしてもう一つ、葉徒とこいつについて。佐伯の年齢は40か50歳程度、差は感じる。見ようと思えば祖父と孫娘にだってなれる。葉徒は親の背中を歩く子供のように、こいつにぴったりくっついていた。気になったのは部屋に入る直前、奴らが何か話していたのだが、いかんせん何を話しているかは分からなかったし、そもそも小声だったので聞くことすら叶わなかったのだが、その会話のあと、たしかに見たのだ。二人が口づけするのを。当然そんなもので先入観を持つのは若気がすぎるが、しかし、葉徒の佐伯を見上げる目には、いや、あれは佐伯が葉徒をつりあげているようにも見えたが、そこには寂しさがあった。秋のような寂しさをした目。雨乞いでもしていやがるのかと思った。つまり、それは女が男に見せる甘えというやつだった。男が女に見せるものとは違う。それに、小声で話していたことも気になった。二人以外には聞かれたくない会話、秘密という契約、すでにできあがった関係……。
 それで、俺たちは部屋に戻った。相変わらず椅子は四脚だったが、一脚だけが倒れていた。それを坊主の木追山が立て、そこに座った。そのあとそれぞれも位置についた。入り口から見て手前側に葉徒、葉徒の左に佐伯。その正面に木追山が座った。そして葉徒の向かい、つまり部屋に入って一番奥に座ったのが鷹米だった。ランプも最初と同様、中央に置かれた。それからまた気の遠くなるような会話が始まった。

 俺は葉徒に手招きされ、彼女の右に立った。全員と目が合った。しかし、ランプの光量のせいで、俺は首なしで立っていた。
「お前らには消えてもらうが、その前に聞いておきたいことがある」
「消えるってのは、誠か?」鷹米が両手を膝の前で組み、影から顔を出した。
「んふんふんふ」木追山がまた音を立てた。
「まるで時代劇みたいな言い方ね」
「どうした、さっきまでのおしゃべりは」
「おしゃべり?」鷹米は手の組み合わせを入れ替えた。
「さっきの話し方はなんだ」
「誠にはどう聞こえた?」
「おい、その前にその呼び方……てめえらが勝手につけた名前だろ。次その名前で呼んだらぶち殺すぞ」
「つけられた自覚はあるのね。案外気に入ってそうだけど」
 そう、もう一つ言い忘れていたが、俺の矢野誠という名前、この時、正確に言えば廊下を歩いている時につくられたものだ。名付け方は以下の通り……俺たちが歩いている時、葉徒があるリズムを口ずさんでいた。それはすぐに、俺たちの足音だということに気がついた。そして、その一定のリズムに、木追山が奇声を発する。最初は少しずれていたが、だんだん二人の声が合っていき、奇声も、無意味そうだったものが、規則性を持つようになっていった。「んや―あん―のぉあおと」のように聞こえたが、まあ実際ここの正確さはどうでもいいのだが、それをもとに鷹米が俺の名を矢野誠としたのだ。一方的に。しかし、俺は否定できなかった。なぜなら俺は名前を持っていなかったからだ。
「そんなこたぁどうだっていい!てめえらがさっきまで使ってた言葉は何かって聞いてんだっ」
「俺たちの言葉か?何も隠しているわけじゃないさ……だが、その前に座りたまえ。聞く態度ぐらい、どの国だって同じだろ?」
「偉そうにしやがって」しかし、俺は言う通りにしてしまった。椅子がないので、葉徒がかわりに新聞紙をひいてくれた。
「さて……」鷹米の組まれた両手はそのまま、太腿の上を滑走し、胸のあたりまで上昇した。それに引っ張られ、右膝が上がったかと思えば、左膝の上に落ち着いた。俺は葉徒と木追山の間に座ったわけだが、位置の都合上、目の前にはランプの灯台が立ちはだかり、俺は目を細めた。そればかりか、一番俺を苛立たせたのは、葉徒という女だ。この女、自分の足をこれみよがしに椅子の外へ向けてきやがった。だから、俺の目には灯台と、その左に突き立てられた巨木が映っていたわけだ。八つ裂きにしたいと思ったよ。自分の目を。
「むう達についてだが、誠の言う通り、ある特殊な言語を用いている」
「そんなん分かってるわ」
「言語自体、いや、その生まれに特殊性がある。この組織の構成員はもともと、俺と佐伯だけだった。俺たちは偶然出会った。このビルでね。ちょうど外の廊下を出たところでだよ。俺は人間、佐伯は地底人としてね」
「何度も言わせるなよ……俺をなめてんのか」
「んついにてらを」佐伯が突然、廃棄された自動車のような声を出した。
「こいつに教えろって、ねえ、こんな感じでいいのかしら?あたしはずっと通訳者なの?」
「例外は鷹米」木追山が葉徒の余韻を刺す。
「はいはい」
「佐伯?」木追山は佐伯の顔を覗き込んだ。佐伯は首を振った。それを確認すると木追山は、体を引っ込めて、顔を消した。鷹米が続けた。
「佐伯は地底人なんだよ。そして言うと、木追山も。地底人には地底人の言語がある。俺たちと同様。ただ、言語体系も、発声も、俺たちとはまるっきり違う。地底と地上では空間のつくりが違うし、当然音の伝わり方も変わるからな……もぐらは耳が良いって話は聞いたことあるか?土の中に住む以上、音の振動には敏感にならないといけない。振動を頼りにミミズなんかを探り当てたりするわけだからな。ただ、土ってのは高音が吸収されやすい。代わりに低音の方が伝達効率が高い。従ってもぐらの可聴域も低音の方へシフトしていったという……」
「じゃあこいつらも低音しか聴こえないってわけか?」
「いや、そういうわけでもない。少しでも地上の生活に慣れようと、さまざまな音域を聴き分けられるように訓練しているんだ」
「どうして」
「共生のためだ。ただ、それでも日中の騒音にはまだ耐えられないらしい。電車なんか特に。地底にいても沿線付近には近づかないってな」
「馬鹿馬鹿しい……」
「あと日光もな……だからこうやって夜に集まっている。んで、また最初に戻るが……地底人には地底人固有の言語がある。つまり人間と似たような思考プロセスを持っていることになる。語彙だけじゃなくってちゃんと複雑な文法ももっている。ただ、先に言った通り、壁がある。発声の部分だ。それで苦労したね、発声が分からんと、そもそも文法の存在も確かめようがない。最初はただの鳴き声程度としか捉えてなかったが……ちゃんと文構造がある」
「それで、地底人語で話してたと」笑わせるよな。
「いや、俺たちが話しているのは新たな言語だ。日本語でも地底人語でもない。まだ完璧ではないが、ある程度の意思疎通はできるようになってきた……地底人は文字をもたない。つまり形のない意思疎通、完全に音を頼りにしている。地底人はそもそも一集団ごとの母数が少ないらしく、必要伝達規模も狭いらしい。一個体で完結できるんだろうな、我々と違って。まあとにかく、音の周波と振動数で、意思疎通を行っているんで、一見すると我々の言語とまるっきり違う、どちらかというと狩猟時代言語に近そうだが、なんとなく、共通の認識を持っていたんだ。つまり我々と地底人の間に、中間言語があったってわけだ」
「つまり、統合失調ってわけか。お前ら全員」
「違うさ。文化レベルで見ても我々と地底人では大した差がないってことになる。第二の人類の発見だよ」
「いたって健康体よ。医者とやらが認める健康を基準にするならね、誠の方がおかしいよ」葉徒がランプに伸ばした自分の足を見ながら言った。
俺は汚物を嗅いだような顔をした。
「おかしいさ。けどその俺にすら疑われるほど、あんたらは気持ち悪いんだよ」
「地底人を差別するな!」
「馬鹿か!」
「ふふふっ」
 俺と鷹米の小競り合いに、葉徒が鼻を鳴らした。小競り合いはたちまち、腹のつつき合いに変わった。そもそも小競り合いだったか?は分からないが。悔しいがこういうのも才能だし、男には持てない、恵まれたものだと思った。
「俺はな、懸命に生きてたんだが、一度踏み外したらころころ落ちてくのが人生ってもんだろう?社会から見放され、全ての事柄への参加権すらなく、万物から除外されてしまっていた。そこで佐伯に出会った。はじめは苦労したよ。なにせ意思疎通すらままならないんだからな。だが試行を重ねるにつれ、少しずつ分かるようになってきた……それは佐伯も同じだった。そもそも佐伯からしてみれば、我々は接近すべき対象みたいだったからな。俺たちは互いに歩み寄り、架け橋を建てた。お互いが、俺たちだけが理解できる言語……それは多分、彼らの約束された進化が、彼らの言語を独自にしつつ、我々と切り離せないようにさせたんだ。いや、そもそも祖先は完全に同一かもしれん。どこかで分岐したんだきっと、天災か何かがきっかけとなって……しかし切っても切り離せない……遺伝子が命令しているんだ、共に生きろって……素晴らしいじゃないか……国境なんてあんな表層に引かれた線は、やっぱり嘘っぱちだったんだよ……よく見てみろ、地上では左右の違いごときでいつまでも争っている。我々は言語で一つになるべきなんだ、違いは認めながら認め合える社会に。それが豊かさだろう?」
「これがこの組織の目的か」
「俺たちの言語は希望なんだよ。はじめはちょっとした指示や欲求を伝えるだけに使っていたが、この言語をもっと複雑にすれば、一つの共同体が生まれるんじゃないかと気がついた。それも、地上と地底によって育まれる、新しい世界。新しい世界はこの新しい言語によって開かれる」
「クレオールってやつか」
「よく知ってるな。だがまだピジン、つまり出来損ないだ。語数も多くない。しかし、我々がこの新しい言語を育み、新たな世界をつくれば、社会がもう一度、こちらを振り向いてくれるかもしれない」
「どう考えたらそうなんだよ。だったら新しい世界でやってけばいいだろ。一度社会に捨てられたからって、憎しみすらも捨てるな」
「もう立派になってきてるじゃないか。立派だよ」
「あんた、そんなキャラだったんだな」
「俺に名付けられた瞬間から……もう誠は立派な構成員だよ、その自覚を待ってこの組織を支えてほしい」
「いつから俺が……ただ……どうやってその言語を守るつもりだ?そんな言語を習得したいって奴どうせいないだろ。こんなの絶滅までほんのこうだぞ」俺は葉徒の首すれすれに、手刀を置いた。葉徒は健気な顔で鷹米を見ており気づいてなさそうだった。
「だから我々は掟を決めている……
1:組織内で生まれた言葉はそれを優先して使用する
2:言語は強制しながら、育むものとする
3:組織は開かれたものであり、同時に独立を貫く
4:組織内の秘密は一切を漏洩してはならない
5:例外は認める……だ。今は例外として、俺と葉徒が日本語を話しているが、本当は規則違反になる」
「違反したら?」
「脱退してもらう」
「ペナルティは?」
「ない、即脱退、もしくは然るべき制裁を」
「全く終わりが見えないな」
「人生と同じさ……それに、人は密かなるものに目がないだろ、自分らで盛り上げれば、仲間はすぐに集まってくるはずだ」
「そうか……目的は新しい共同体の誕生だって?それはまっぴらごめんだね。この世に共同体なんて必要ない。みんな孤独にやってけばいいんだ。ただそれ以外は……」俺はポケットからたばこを拾い、部屋の入り口に立った。
「同意する」
「そうかっ」
「いいか、だが勝手な真似はすんなよ。知らない奴らにここをうろつかれたくない。その監視だと思え」
 ランプの周りには依然として四つの影。うち一つが指の先を壁に泳がせた。指はたちまち魚影となり、潜水艦となった。潜水艦は壁の継ぎ目を越え、俺の足を塗りつぶした。足を失った俺は廊下に落とされ、全身はそのまま階段の方へ傾いた。背後から声がした。
「どうして佐伯を追いかけたのかって!」葉徒が誰かの代弁をした。わざわざそんなことを聞くとは、仏頂面のくせして……しかし、とことん誠意を向けてやろうと思った。
「金だよ金っ」反復する自分の声を背中で殺しながら、俺は階段を上がった。

 汗か湿気か、手のひら指の腹、鼻の先の膨らんだ丘陵がじっとべたついた。シャツも腕にはりついて、しかしこれも汗なのか湿気なのか分からない。ただ脱ぐにはまだ肌寒い季節だった。
 ぎょっとするような朱色のネオンサインが、中に吸われていく男女に微笑していた。
 俺はビルの裏手に設けられた螺旋式の非常階段に座り、右手にはたばこ、左手は膝に乗せ、雲になり損ねた煙に光が屈折するのを思い浮かべては、抹殺していた。指にまとわりつく煙下からは路地に捨てられた、生臭さが、立ち上ってくる。得体の知れなさは昔からだが、都市の発展とやらを耳にすればするほど、姿を消し、しかし鼻をつくそれは俄然強まる。かくも鼻をつく臭いだが、それを感じるということは、俺の生活がそこから距離を置いたところにあるという証明になる。その臭いを上書きするように、たばこの煙を吐き捨てた。ここの階段は、滑り止め施工がされているせいで、けつが痛い。
 階段の下から誰かが上がってきた。
「夜ももう暑いわね」葉徒だった。なぜ俺がここにいると分かったのか、あとをつけてきたのだろうか。
「ねえ、いつもここにいるの?」
 俺は葉徒の肩に手を伸ばし、ジャケットとシャツの間に手を滑り込ませた。そしてそのまま手を下ろすと、葉徒は自分の重心が後ろに引っ張られたことで、反射的に、ジャケットから脱皮し、一段下がった。
「なにするの」思っていた反応と違った。俺は露わになった葉徒のシャツをめくるように、顎をしゃくってみせた。葉徒は俺の意図を理解したらしく、目を細め、唇をややしぼませ、憎たらしい、ほんの上目遣いを見せた。
「返して」
「夜でも暑い、もう」
「そうね、もうシャツ一枚でもよさそう。でも返して」
「俺も脱ぐか」
「……下、何か着てるの?」
「どうだろうな。脱ぐには風が…まだ冷たいか」俺はジャケットを葉徒に手渡した。彼女は手渡される前から、俺との間を見つめていた。その視界にジャケットが入ると、視線はくるりと滑り、俺に背中を向けた。
「いつもここにいるの?」葉徒は階段に腰を下ろした。顔は外を向いていた。
「どうして気になる」
「いやあ、だって今まで見たことなかったもん。誠のこと……いつも2階にいるの?」
「いつもは下。ここはたまにくるだけ」
「どうして?」
「何がどうして」
「気分的な?」
「気分だな」
「分からないなあ」
「分かる必要ないさ。他人を理解することはできない。した気になるだけ……」
「それはそう。けど、理解できるところはあるでしょう?少なくとも……そこははっきりさせないと」
「どうしろと」
「文にして羅列していけばいいわ」
「そんなの取りこぼすに決まってる」
「言葉っていうより記号で、よ。たとえば血液中の鉄分量や心拍数なんかを調べて、それから体温と……」
「それでお前の内面を知れると?」
「案外感覚派?」
「そう言う割に、お前はデジタル脳か温情人か分からんな」
「どちらも両立するわ」
「普通は冷徹がどちらかに加担するさ」
「普通を知っているのね」
「俺の中の普通だな」
「まあ……いいや、でもあたしは例外」
「自分ではそう思ってるだけだろ……俺からすれば同様他人にすぎない」
「みんなそうかもしれないけど、あたしは外させて」
「自分にこだわりがあるのはおもしろいな……」
「こだわりっていうか……」しばらく置いて、答えた。
「誠はどうしてここにいるの?」
「生きてしまっているから」
「生きているとここにくるの?」
「きてもおかしくはない」
「一度生まれたら?」
「生まれてから死ぬまでの間、そのわずかな時間をいかに殺すかが、人生。殺せなくなった瞬間、人は人生にたまを持ってかれ、生涯を終える」
 突き放しすぎたか、沈黙が流れた。ただ、なんの罪悪感もないし、反省もない。むしろどういう反応をするかの楽しみすらあった。しかし予想に反して沈黙は長すぎた。そろそろ退屈してきた頃、返答が返ってきた。
「デザイナーベイビーなの、あたし」
「なに、それは」
「受精卵の段階で遺伝子を意図的に書き換えられて産まれてくる子供……外見や身体(からだ)能力も、親から受け継いだものを人為的に変更できてしまうの……」
「それは……かわいそうだな……」自分としてもなぜこう答えたのか分からなかった。振り絞って出したわけでも、直感でそう思ったわけでもないが、今思うと、これだけのさじ加減ができる俺ではあったらしい。この時の俺としてみても、悪い選択とは思わなかったし、そう思っていた自分を、今では不思議と可愛げがあるな、とも思う……いや、気色悪い……こんな時に。そして、その選択は考えすぎらしかった。
「そうね……」葉徒の横顔が見えた。正面のビルに備えつけられたいくつもの看板の……寒色を抜いた虹色の光によって、かろうじて輪郭を切り取れる程度だった。月の裏側を覗いているようだったが、なんとなく表情は読み取れた。
「べつに?」
「まあそれ自体は別にいいんだけど、どうしようもないし。ただまあ、親がいるってどんな感じなのかなあって。あたし、産まれてからずっと病院暮らしだったから。来る日も来る日も実験の毎日。あ、別に気にしてないよ?普通の人はかわいそうって思うのかしら」
 俺は下唇を弱々しく噛み、それを手で隠した。そしてその手で生えかけの髭をなぞり、その時にはもう口を平常に戻し、頬に添えた。
「特定の遺伝子を変えることで、病気にも強くなるって?」
「それもある。逆に、その弊害で症例のない病にかかることもあるね。けどあたしの場合、健康のことよりも、もっと実験的な……」
「どんな」
「人が言語を使いこなせる理由ってさまざまあると思うけど、その一つに遺伝子もあるの。たとえばFOXP2とか、聞いたことない?」
「名前だけは」
「この遺伝子も、これまでにどういう風な進化を遂げてきたか研究中らしいけど……とにかくこういう遺伝子が人の口腔運動機能や言語機能を決定したりするの。けどね、やっぱり言語の分野はまだまだ発展途上で……だからその研究の一環として、遺伝子スイッチの切り替えを人為的に行うっていうのがあるの。それによってどの遺伝子が人の言語発現に関与しているのかを調べる。身体(からだ)のあちこちの遺伝子をオンオフして、それぞれの役割を知る……無限の組み合わせ……その関数を機械学習を用いて、手に入れるんだけど、何せ膨大な量あるからね、もうあたしの身体(からだ)はめちゃくちゃよ。本来使われない、つまり抑制されてる遺伝子を発現させて、逆に必要な機能を遮断されてる」
「生活に支障は?」
「ふん、どうだろ。ないよーってのも……この国の生活水準がよく分かんないし」
「……朝起きて、飯食って、働いて、飯食って、寝る」
「それがあなたの普通なのね」
 正面のビルからスーツを着た男が出てきた。どうやら男がいたのはバーらしい。扉は半開きのまま、溢れた淡い桃色の光が、海底を泳ぐように揺らいでいた。男は少し歩いたところで、手に持っていたペットボトルを捨てた。音の響き的に、中身はまだあるようだった。
「……まあ、いつかはボロが出始めるかもね。病院にいた時は、何か不調があればその都度投薬されたり切り替えを戻したりしてたし。仕事をしてないのが救いかも」
「それで治るか?」
「治らないね、ふふん。もう手遅れ」
「それで……抜け出したのはなぜ?いや、誰だって抜け出したくなるか」
「えっ、どうして抜け出したってわかるの?」
「分かるさ。お前みたいなやつ、この世に放つわけないだろう?病院としては、というかその組織が何なのか知らんが……お前のことは闇に葬るつもりだったはずだろう……いじくるだけいじくって」
「案外頭まわるのね」
「子供扱いしてるだろ、さっきから」
「だって子供だもん!」何を今更、という具合に、葉徒は嘲りを含んだ笑いをした。
「たばこを吸う子供もいるもんだな」
「それ、言おうか迷ってたけど」
「言ってみろ」
「ふかしてるなーって思って見てた」
 葉徒が来てから、俺は一度もたばこを咥えていなかったことに気づいた。たばこはもうフィルターのところまで灰に侵食されており、じりじりと、燃え続けていた。俺はその長く芋虫のようになった灰を地面に落とした。灰は落ちてほぼ真ん中に切れ目が入ったが、依然として芋虫だった。俺は靴でそれを踏み潰した。手に持っていた、朽ちかけのたばこも、同様に地面に落とした。しかし、すぐに拾い、階段の外に投げた。葉徒の目の前を通るように。吸殻は月面すれすれを通過し、地球に落ちていった。彼女は顔色ひとつ変えなかった。
「健康に悪いよ」
「生きているなら、みんな健康に悪い」
「悪いかなあ」
「生きていることが、健康に悪い」
「でも死んだら健康もなにも……」
「どうせ死ぬ」
「言うと思った」後付けだろうが何でもいい。その発言に意味があった。見透かされているのか、それとも俺の発言を言い当ててやったという、俺よりも優位に立ちたいという思いか……どちらにせよ、その発言に、俺が意識されているということに意味を感じた。それほど深いものではない。ただ、なんとなく、その時の俺にとって、心臓がむず痒くなるものだった。たとえ遥か昔に感じたはずのものだったとしても……前代未聞……なんと言うか……ノスタルジー的なざわめきだった。男じゃ意味ない、騒ぎ立てるほどのものでもないが、女に言われたことが、その意味をさらに持ち上げていた。
「あいつとはどういう関係なんだ」
「誰のことよ」全く俺が口足らずの子供であるかのように、微笑でもって答えた。
「あの、背の高い。確か名前は……」
「あぁ、佐伯のこと?」甚だ誤魔化す気もない返答に、嫉妬すら覚えた。
「どんな人間なのか気になる」
「人間ってか地底人ね」
「別になんだっていいけど」
「その割には国籍なんか気にしてなかった?」
「よく覚えてるな」
「だってさっきのことだもん」
「相当前な気がするな」
「いやあ、だって一日も経っていないでしょう?」
「遥か昔だな」
「時間感覚も狂わされたのかしら」
「性別の違いだってあるさ」
「大した問題じゃないわ」
「問題あるよ。俺が男である限り」
「男女の違いなんて肉体的なものに過ぎない。染色体の違いよ。それにいろいろ、社会的な後付けをしてるだけで、明日にはそれぞれが果たす役割だって変わってるかもしれないでしょう」
「その違いが結構でかいんだな」
「気負いすぎよ」
 俺はポケットに手を突っ込み、すっかり柔らかくなった紙くずをまさぐった。手をポケットから軽く引くと、その紙くずが顔を出した。くずの両端をひっぱり、背を立たせてやると、箱になった。俺は階段に入り込む弱気な光に、箱を差し出した。萎縮した紙箱には、たばこが2、3本入っており、茶色い煙草くずが箱とそれを覆うフィルムの隙間に入り込んでいた。俺は箱を手の中でくるくると回したり、潰したり、腱のように伸びきったたばこを箱越しに撫でたりした。たばこ同士にできた谷間をすっとなぞっては、再び手をポケットに押し込んだ。
「たとえば社会的な役割が変わるとして、肉体的な違いは変化するのか?」
「そりゃあ、進化も退化もするんじゃない?そうなればそれに合わせた意味付けもする。まあ肉体が先でしょうね。……でも、それが人間でしょお?みんな抽象的に語りすぎよ。自分の経験で語らなくたって、ちゃんと解剖してけば、なんで違うのか簡単にわかっちゃうのに」
「簡単ではないな……」
「揚げ足取り……。そんなに気にするの?」
「この世にはそれで喧嘩する馬鹿が多すぎるのさ」
「性別は二つしかないわよ?」
「病院だと……」
 この後のことはよく覚えていない。会話の末尾が失踪し、俺もほどなくして、探すのを諦めた気がする。

 「ここはもう完全にあんたらの巣なんだな」
 割れたガラス窓は放置されており、部屋と呼ぶには、歯切れの悪い気もした。ただ、一応壁はその体裁を保っており、天井や床だって、役目を忘れていなそうだったので、ここを会合の場に選ぶのも理解はできた。
「来てくれると思ったよ」鷹米が調子良さげに迎えた。
「んむんにきん」木追山。親指の爪を執拗に見つめながら。昨晩と同様、皆それぞれの椅子に座っていた。俺がいたところにも変わらず新聞紙が敷かれていた。
「日中は何していた」
「忘れた」
「それでいいならその気で話せ。ただ、掟は守ってもらうぞ」
「守るもくそも、俺はあんたらの言語を話せないんだぞ。どうやってそいつらと会話しろと」
「意思疎通の過程にこそ、我々の目指すものがある。我々はその姿勢を評価する。歩み寄る姿勢を」
 俺はたばこを取り出し口に咥えた。
「ここは禁煙。それに彼ら、鼻がよく利くの。たばこは遠慮して」葉徒に割って入られた。こういう時の彼女は、言い方が冷たい。
「……誠、我々の構成員として、一つ指令がある……明日、役所前の大通りで、とある団体のデモが行われる予定だ。恐らく労働者たちによるものだらう……粗悪な労働環境を放置しているしわ寄せがきたんだな。参加者たちは早朝から集まって準備するだろう。誠にはそこに入り込んで一手打ってきて欲しいんだ」
「なんでそんな真似を、わざわざ……」
「いいか、これは社会に対する報復でもある。俺たちからすればデモ隊も役員も敵なんだ、そうだろう?」
「こぼれ落ちなきゃ皆同じってか」
 鷹米は背後からショルダーバッグを取り出した。
「この中に大量のビラが入ってる。葉徒、誠、木追山はこれを持ってデモに潜り込め。詳しい指示は木追山に出してある……次の集まりは明後日の晩、報告待ってる……」

 日が出てくると夜の涼しさも影を潜め、代わりと言っちゃなんだが、出勤するサラリーマン達がわらわらと出始めた。ジョギングをするランナーもいた。車通りはまだ少なかったが、信号は律儀に守っていた。信号待ちの時でも足を交互に上げ、その場で足踏みしていた。多分、そうしないと、逆に疲れが溜まるのだろう。休んでは走っての繰り返しは、余計身体(からだ)を追い込む。無論、そういう練習法もあるんだろうが。小さいキャリーケースを転がす老婆。あれは何なのか、たまに見かけるが、今だに分からない。リュックなんかより負担が少ないんだろうが、何を入れているのだろう。あれに体重をかけて歩いた方が、楽なのだろうが……俺の気にするところではないな。日中は普段寝ているので、明け方にこうして街を眺めるのは久しぶりだった。そして、何より眠気が何度も脳の裏側を撫でまわしてくる。目の奥がじんじんと熱くなり、自分でもなぜこんなところにいるのか分からなかったし、分かる気もなかった。しかし、分かることの誇らしさほど浅はかなものはないとも思っていた。
 頭皮を爪でなぞり、突起したところを見つけては掻きむしる。血が出たり、透明な体液がついたりする。妙な匂いが癖になる。眠気。再び俺の中が蒸気で満ちる。そして車や人の往来をぼんやり監視していると、明らかに車の数が増えてきた。
 俺たちは役所近くの公園にいた。公園というより、広場だったか。たしか遊具もなく、あるのはベンチと水道と、切らないのは明確な意図だろう、大木が不自然な位置に生えていた。社でもあったのか。どれだけ科学技術が進歩し、伝統が打ち壊されようと、祟りなんぞ恐れる……所詮人間の本質は変わらない。崇拝って機能が遺伝子に仕組まれてるんだな。理知にはなりきれないさ。
「あっあそこ」
 葉徒が指差した方向を見ると、60代ぐらいの、白髪混じりの男が数人集まっており、それぞれ手提げから白い棒と両手で抱えるほどの板を取り出していた。服装はさまざまで、工場の作業服を着て来た者や、ジャージのまま出てきた者もいた。それから黒紫色のバンもやって来た。バンからも数人降り、同様プラカードを組み立てていた。現場を仕切っている、スズメバチのような色のジャージを着た背の低い男は、拡声器を持っており、しきりに動作を確認していた。周囲もやや呆れ気味で、ただ、ごまをするような笑みを見せながら、その作業にどう(くさび)を打つか伺っていた。
「続々と集まってきたわねえ」外の光のおかげで、女の顔はよく見えた。思っていたよりずっと白い肌で、膨らんだ目頭から、やや下方に向かう目尻。二重の瞼から飛び立つような眉。眉骨に沈んだ目。身長で目立たなかったが、頬と額の境がよくわかる、はっきりとした骨格の顔立ちだった。ボブヘアだったが、前髪は眉にかからないぐらいで雑に切られていた。毛先のぼさつきが印象の大部分を操作していた。
「もうんむに」木追山は双眼鏡を覗いていた。大した距離ではなく、公園から彼らがいた、歩道の膨らんだ場所まではせいぜい80mぐらいだった。
「そうね、もうんむにがより」
「もううに?なんて言ってんだ」俺たちは公園のフェンスに茂っている、名前も知らぬ草木に潜んでいた。潜む必要はなかったと思うが、誰かがそこに陣取り始め、特に何か思う前に、他の二人も従った。
「んむに……があたし達が話す言語のことを指す。んむにがより。よりってのは比較級ね。だから、要するにもう日本語を喋んなってことよ」
「なあ……あんたらのその言語って……日本語と地底人語を混ぜたやつなんだろ?」
「んーまあ」
「完全に中間をとるってのは無理だろ?だいたいどっちかに偏るもんだ。語彙や文法は英語だけど、発音だけ日本語に近いみたいな……構造はあくまでどっちかに依存するもんだろ。するとあんたらのそれは、日本語寄りなのか?」
「そうね。あえて言うなら日本語かしら。地底人にも発音しにくい音とがあるから、音だけが独立して彼らに寄っていってんのかも。でもあたし達は研究員じゃないから。そういう分析はあとにおまかせって感じ。あとさ、やっぱり匂うわ」
「なにが?」
「髪よ。いや、服?肌全般かしら。あたし鼻敏感だから。洗ってないんでしょう?」
「雨で流れる。鼻をつまめばいいだろ。口でも呼吸はできる」
「顔は汗でびったりなのに、ほら、喉とか首元はかさついてる。白いかさかさと、茶色いかさぶたみたいな……あせも?」
「まあいづれ……」
「ういっ、ちちっちっ」木追山が舌を細かく鳴らした。
 これは言われなくとも分かった。注意しろってことだ。案の定、木追山が見ていた方向を向くと、デモの集団はさらに膨れあがっており、砂糖菓子に群がる蟻ばかりに歩道を占拠していた。そして、この一瞬の出来事は、木追山、ひいては地底人とやらの意図を初めて理解できた瞬間でもあった。なんとなく、手に馴染んでくる頃合いな気がした。何が……?そんなの覚えてねえよ。
「あじまりちかくる」
「そうね……どううごく」
「葉徒と誠は参加……」
「木追山は?」
「ぇる」木追山は親指と小指を伸ばした拳で合図をつくり、耳に当てた。後に分かったが、当人は「てる」と言いたかったらしい。音域の問題か。ただまあ、なんとなく分かった。
「そうね」
「連絡ってわけか」
「えぇ、連絡とか通信とか……そういう類はだいたいてる。木追山……例外は葉徒でいい?誠とあたし、ねえ」
 木追山は考え込んだ。なるほど、少しづつ分かりかけてきた。やっぱり俺との会話には日本語がやりやすいんだな。っていうわけで、俺は自信を取り戻してきた。
 木追山は首を縦に振った。許しが出たみたいだ。
「行くよ。それ、持って」
「あの集団に突っ込むのか?」
「溶け込むのよ」俺たちは準備したビラを持ってデモ集団に接近した。接近といってもごく自然に、朝の歩行者として。
 デモは不倫した議員の続投に対する抗議だった。プラカードには「不純議員」「誠実はどうした」「続投反対」「役所に逃げ込む不倫議員 頭隠して尻隠さず」「お役御免」「家族裏切り役所に忠誠」「説明求む!」「更迭希望」といった文言が書き込まれていた。そろそろ動き出すところだった。議員の出勤の時間を見計らった作戦なようだ。
 俺たちはさもデモ参加者のように集団に紛れ込んだ。子供の頃に見た祭りの景色とそっくりだった。そして、リーダーらしき小男の一声が掛かった。
「不倫議員続投反対!住民を馬鹿にするな!約束守れ!」といった感じで、行進が始まった。出発点は役所から数百メートル離れたところで、もちろん役所方面へ進行した。その通りは駅からずっと続く大通りで、時間帯も重なり、かなり多くの人で賑わっていた。大多数が出社か通学中の学生たちだった。冷ややかな朝日に急かされているようだった。
「反対!反対!」「いいですねえ、朝から」「あはは、精が出ますよ!」「こぉれはいい運動になりますな」「あはははは、議員の真似ですかっそれは」「ははぁ、これは一本取られましたぁ」「ほらっ、進んで進んで……足踏み合わせてっ……」「おぉ、君、若いのに偉いね」「もちろんですっ」「これからは若い子達の時代だからね、頑張ってもらわないと」「はいっがんばります!」「偉いねええうんうん。何、今日は学校休み?」「学校休みです!」「そうなんだねえ。あの……」「ねえねえ、お嬢ちゃんは政治についてどう思う?最近のさ……」「おいそんなの聞いてやるなよ、だいたいさ……」「はいせーのっ……声あげてー」「……退任希望!無能議員!誠実……」
 俺は様子を少し離れたところから見ていた。参加者のほとんどは老人で、どちらかというとおばさんの方が多かった。早朝に集まったおっさん達は幹部なんだろう。それか、今日限りのサクラか。サクラにしては張り切りすぎか。俺たちの方がその表現に相応しい。
 だが、サクラと違う点が一つ。俺たちの目的は、持ってきたビラで連中に工作することだった。ビラは「野菜に人権を」「排泄税導入!」「うんがより」「暫定思い出補正案はどうなった」「をんあんをんむぉ」「地球を少し細長く党」「鳩と鶏を入れ替えろ」「夢の続きは素敵?」「昨日改正法案」「むうのやば」「惑星差別反対!」「血液デジタル化運動にご支援を」「吹っ飛んだ布団の捜索依頼」「人生に所有権を!」といった感じたった。見つからないようにめくりながら、気恥ずかしさを感じた……そしてはっとした。俺は保身しているんだと。周辺というものを意識していたんだ。少なくとも、心の底では……何から守ってるんだ?俺を産み、俺を捨てたはずの……しかし俺はまだ……周りに人がいて、でも全員他人。けど、その集団に自分を認めていて、集団は尚も拡大し続ける。いつしかそれは社会と呼ばれるようになり、尚も俺はその中に自らの実存を確認してしまうのだ。
 役所まであと30m。抗議の声も力を増す。気づけば皆、役所めがけて、餌に群がる池の魚のように無我夢中で叫んでいた。葉徒もその中の一人だった。デモは山場を迎えていた。
 正義のために己の力を行使する、あるいは手を取り合う様子には、どこか嫌悪感を感じる。特に、あの微塵の疑いもない誇らしげな顔を見ると。何より、その正義とやらが、俺がとうの昔に無視して置き去りにしたものであるほど、余計に醜く、退屈さを、生理的無我の境地を感じる。しかし多分、それを感覚として捨てきれていないあたり、やはり俺は社会にしがみついていたのかもしれない。
 そして今が好機!その瞬間にも俺は集団を心の底で嚥下することができた。俺はビラを手に持ち、バッグに用意されていた透明のガムテープを取り出した。あとはご期待の通り。俺はそれを奴らのプラカードに次々と貼っていった。人と人の間を蛇のようにすり抜け、細工していく。
「若いのに偉いねえ」「ほらほら、持って持って」「うん、使って使って……」立派な行いをしているつもりらしいが、自分たちが掲げているものすら見ようとしない、結局、自分たちの終わりを見えていないのは奴らも同じだった。だから俺は奴らの背中とかにも貼ってやった。後ろのやつが見失わないように。
「……ねえ……ねえっ……」それは、たしかに聞こえた。背後からだったが、振り返っても声の主はいなそうだった。いや、まったく。俺も疑ったよ、けれど葉徒の声ではなかった。彼女のよりももっと高い、次元の違う声だったんだ。この時には見つからず、しかし今度ははっきりと、俺の背中を呼ぶ手を見つけた。こちらは葉徒だった。俺たちは密集を掻き分け落ち合った。
「どう?」
「全部貼り終わった」俺は始まりより一回り痩せたガムテープを腰際で回し、証拠品として提出した。
 遠くで音がした。誰かが用心か冗談かで隠し持っていた爆竹を投げ込んだのだ。閃光と破裂音。もしかしたら、爆竹でなかったのかも。音の連鎖はいたるところで聞こえたが、煙は一点から昇った。硫黄のような焦げ臭さ。灰色の雲から一斉に飛び出す人の弾丸。煙の中では劇的な、花火のように鮮やかな閃光が炸裂していた。
「これ、じゃーん」葉徒は腰の後ろから白い牛の生首を取り出した。それはあの小男が持っていた拡声器だった。葉徒はそれを俺に手渡し、目で合図してきた。俺は唇を濡らし、相槌を打った。
「え、え〜……皆の者〜全速前進!」
「ほらほらっ」
「ゴーゴーレッツゴー!」
 俺は立て続けに号令を出した。近くの奴らは不満の混じった棒立ちを取っていたが、その一層外では、俺から声だけが分離し、意思なき指揮官として連中を煽っていた。爆竹の連鎖は人にも続く。感化され、熱中した一人がいた。舵取りを失った、暴力的な暴発だった。一人が駆ければ一人が乗っかる。様子を見ようとついていき、小走りが疾走となる。そうなるともう手がつけられなくなる。小波が嵐となり、あくびが核戦争になる。制御を失った仲間を止めようと、さらに走り出し、それに釣られて周りも続く……いつしかどうして走っているのか分からなくなり、けれど、その一時的な発作に酔ってしまう。沸騰した湿地。狂喜乱舞ってやつだが、日常の発散が許される、合法的な無法地帯だと錯覚するのだろう。一度沸けば、頼れるのは時間だけになる。他のあらゆる鎮静法は逆効果だ。手はつけられない。
 役所前の広場はデモ集団と、それに巻き込まれたか、自ら飛び込んだ連中でごった返しになっていた。たぶんもう、外から見ていたやつからすれば、カルト集団か、芸術運動のパフォーマンスとしか思えなかっただろうな。まだこの時には、自分たちが掲げているものの異変に気づく者はいなかった。盲人の行進。皆わけもわからず、波に身を委ねていた。
 一人だけ、釣られずに足を地面につけたままの奴がいた。リーダーの小男だ。周りを見渡し、懲りずに安全確認をしている。その過程で、俺と目が合った。俺は葉徒を見た。彼女も俺を見た。俺たちは走った。嵐の中へ。
「祝福しろ!俺は生まれた」

 内臓を抜かれた暗闇に響く笑い声。冷たい紙面にはもう慣れた。人と話したり、活動、それも、生命維持だけじゃない、もっと人間的な、という意味での活動……最後にしたのはいつだったか。思い出すことも、現実だったか証明することもできない。しかし久しぶりに抱いた情感だった。何かこう……とにかく……久しぶりに笑った気がした。煙が目に染み、涙を溜めながら二人で走り抜けた。あの日の、あの一瞬の記憶は、何万分の一にまで細切れにされ、その後ずっと、俺の頭の中で引き伸ばされ続けることとなる。
 汗の滴る一瞬の緊張と、それを忘れる呼吸の仕方。俺は昔から、肉体の方を信じていたのかもしれない。それだけ。それだけのこと。
 4人は既に集まっていた。俺は少し遅れて登場した。小便でもしていた気がする。もししていたのなら、出が悪かった気がする。
「いやあ、そうですよ昨日のニュース〜見ました?ええ、ええ。日本でも起きるんですねえ……でも目的も分からないんでしょう?……あぁ、犯人もまた判明してないんだ。そっかそっか……あの人は関係ないんですかね、あの、えーとえーっと……そうそう、桜井さん。今回も声出てましたけど。いやすみませんすみません、憶測はね……でもほんとに、テロでしょテロ。まあ困惑顔でしたね、桜井さん。すると首謀者ではないのか。いやあでも分かりませんなあ、演出かもしれませんよ。何も知らないふりして、あの拡声器に色々仕掛けがあるんですよお……それか、本当に裸の王様やらされてたか。本当に。完全に乗っ取られてましたよ。だってみーんな意味不明な服着てましたし。えぇ、背中にみんな。なんでしたっけ……夜更かし注意報!みたいな……ははは。規則で縛りすぎた結果じゃないでしょうかね……ってことでお次はリスナーからいただいた……」いつも通りランプと、その横に長方形の薄いスピーカーが立てかけられていた。
「やば」
「うん、やば。誠は?何を感じた」
「やばってのは使いやすい句だよ。昂ったら言って」
「やば、は違うな。ただやりたいようにやっただけ」
「葉徒と、か。木追山からのてるで把握済みだ」
「むうはてる。葉徒と誠が……」
「げほっげほっ」埃が舞い上がったらしく、鼻を擦った。咳き込んだのは佐伯だった。
「佐伯、て?て?」すかさず葉徒が佐伯の腕を掴む。なるほど手っていうのは発音しやすいからな。
「うぅ……鷹米……てる、てる……」
「いや、だな。医者にてるは……むうらがより……」
「て……て?」葉徒は依然佐伯の腕を揉んでいた。親指の付け根から、肘関節の辺りまで。時折背中をさすり、顔を覗きこみながら。そして指示を待つ顔で……
「鷹米?」
「んん……時間がいや、だな」
「そうね……佐伯……」痰の絡まりというより、肺に水が入ったような咳き込みだった。こういう時は、ゆっくり、とろみをつけて飲むのよ……って感じだろうが、まあ、反応を見るに、急病ってわけでもなさそうだった。つまり俺からすれば、早く話を進めてくれ。
「佐伯、横に……ね?」葉徒は佐伯の肩に自分を入れ、持ち上げた。影の巨人が動き出す。みかんの皮を貼りつけたような横顔。暗闇に消えていく最中にも関わらず、はっきりと見えた。何よりも、己の身体(からだ)を差し置いてまで優先されるもの……差し置いて?その無知さ無邪気さ……愚かというが鼻につく。献身、というやつか。にしてもくせえ。骨の棘を残して抱きつくような……。
 葉徒は佐伯を抱き寄せながら、廊下に出た。一瞬、よろめいた気もしたが、足取りは力強かった。そのまま消えたが、隣の部屋にでも行ったのだろう。
「まあ、医者なんか呼べねえよな、あんたらが」
「んん、人命救助の精神だけで働いてくれればいいんだが……あいにくその後がな……」
「警察なんかが絡んでくると?まあ、少なくともここの居場所はなくなるな」
「ここはいいさ。他をあたれば」
「地下にでも潜れるって?そういえばあいつらも地底に帰ったのか?なあ……」
「問題はまだ未熟ってことだ」
「組織が?」
「言葉が……だ。まだ見つかるのは早い。もう少し時期を待って、それから……」
「完成を待ってるつもりか?悪いがその前にあんたは死ぬ」
「すん、すん」
「別に、新たな共通言語を広めたいってわけじゃない。新たな交流、新たな共同体の存在そのものが重要なんだ。そしてその共同体内で各々の生活が成立すれば。社会から切り離された、独立した日常が世界中で……」
「それも新しい社会だろ。馬鹿馬鹿しいな、やっぱり。他の3人も二つ返事で同調してるって?」
「それほどまでに嫌悪するか、人間を否定することになるぞ」
「もうしているさ……そして……」
「ちっちっ……鷹米……」
「あぁ俺も……木追山……。誠、上に行ったことは?」
「2階なら何度か。それより上はない……ならやっぱり……だよな……あんたらも。気づいてたか」
「てるはなし……木追山?」
「あぁ……」
「木追山と誠、外だ」
 鷹米が顔で促す。木追山は腰を低くし、ゆっくりと廊下に近づく。俺は地面の瓦礫を拾うと、窓ガラスに向かって投げた。思っていた高音は鳴らなかった。ただ割れて、地面とぶつかる音。
「おいっ、てるは無しとっ……」
 鷹米の咎めを振り切るように走り出す木追山。俺も続いて廊下に出た。木追山は少し先のところで静止しており、地面に鼻を近づけていた。しきりに俺の方を確認しながら。
「なにがっ……!」
 葉徒の声が階段の逆方向突き当たりから顔を出した。木追山の目線は俺から階段の方へ。俺の視線も同時に。数秒先なら見えるぐらい、はっきりとした共鳴だった。俺たちは有無を言わず階段に向かって走り出していた。
 あぁ、そうなんだよ、聞こえたんだ。でもその後ちゃんと見たよ。廊下から俺たちを覗いてた奴を。まるで俺みたいに。木追山についてだが、やっぱり頼るのは鼻と耳らしいな。目には映ったのかな。俺には見えたよ。奴の、瞳孔の反射が。
 木追山を追いかけるように俺も階段を上がった。自信通り、彼の方が速かった。見失わないように喰らいつく。そして自信といえば、追跡は彼の鼻頼りにすることにした。
 選択肢はいたるところにあったが、それらしい痕跡がない。もっと上か。上がって上がって、気づけば3階にいた。そして、そこで木追山の足も止まった。
「はあ……はあ……匂いはここからか?」
「ない……ない……ちかく……」
「途切れたか」
「いや……」木追山は段を後ろ向きで下がっていった。一段一段鼻を近づけながら。
「お前から逃げきれるなんて、相当な運動神経だぞ」
「ちっちっ……誠、ちかく」
 2階の廊下。突き当たりの四角い窓から、隣のビルの明かりが差し込んでいる。見覚えのある景色だった。そこを左に曲がれば、俺がよくいた非常階段に着くだろう。
「ちかくる……」
「どういうことだ」俺は再び彼らの言語を見失いかけていた。
「ちか……くる……ちっちっちっ……誠ぉ!」
 瞬間、影の隅から何かが飛び出してきて、階段を駆け上がっていった。俺たちが追いかけていたのは間違いなく"そいつ"だった。木追山が追いかける。俺は彼の背中を追うので精一杯だった。足首の固定、足先のバウンド、膝関節の駆動、ふくらはぎのばね、太腿のゴム。上半身はあくまでも身体(からだ)を上げるための助走をするだけ。下半身から生まれる爆発的なエネルギーが、階段の狭い地面に叩きつけられる。その勢いを殺さぬよう、意識は最小限に、ただ動作の継続に専念する。
 3階から4階にかけての踊り場で、ようやく彼らに追いついた。そいつは木追山に羽交い締めされた状態で、地面に押さえつけられていた。そいつは手に球体を持っており、それが光源となって白い光が放たれていた。生物学的には男の見た目、50代から60代、頭頂部の方が割合の高い白髪。汗か脂かで濡れてうねっていた。顎ぐらいまで伸びていた。体格は小柄で、木追山が被さるとその差がよく分かった。ただ、球体を持っている腕や、半袖カットソーに浮き出た肩背中には恵まれたものを認めてしまう。そのくせ迷彩柄の軍パンを履いていたんだ、抜かりない。
 俺が追いつく前に一試合あったみたいで、服は揉みくちゃにされ、髪も台風の後のように逆立っていた。反面、ジャケットの落ち着きとホールドしている腕の堅牢具合から、木追山の方が一段猛者だった。
「すぴいど!むうがより!誠……ふっ……ふんっ」
 そんな目で俺を見るなよ。狂気じみてるよ。俺を共犯者にするな。だが、まさかここでこんな仲間ができるとは、なんとも心強かった。味方になるとこうも頼れるのか。
「何……やってんだ、てめえ」
「ひっ、ひいっ……すまねえ、面白半分だよォ」
「木追山、てる、鷹米」木追山は拘束を解き、俺の後ろに退いた。代わりに俺がそいつの上に立った。
「ひっひいいぃ」
「……鷹米」
「……」
「俺と木追山は3階だ」俺は木追山の耳に向けて声を張った。やはりあの耳に通信のからくりがあるらしかった。あいにく向こう声は聞こえなかった。
「うっうぅ……」
「いつまで喚いてんだ」
「くそう、こんな血気盛んなガキがいたとは……」
「時期が悪かったな。おい、木追……」俺が振り返った隙を突いて、男は俺の膝裏を取った。
「うっ」俺はバランスを崩した。尻餅をつかまいと右手を犠牲にした。信管破裂が手首を襲う。咄嗟に可動を確認する。あわやのところだった。その間にも男の右脚が股間に迫っていた。俺は両膝を折った状態で交差させ、すんでで防いだ。男は蹴りの失敗を認めるとすぐに立ち上がって、階段を駆けていった。あの木追山が逃すわけがない。俺も後に続こうとした。その時、下から何者かが上がってくるのを見た。舞い上がった埃が分かれる。じっと待って、それが鷹米の息遣いだとわかった。
「はぁ、はあ、誠……か?」
「あいつらはもう上だ」
 暗闇での階段走りは、体力よりも神経の消耗が激しい。
 4階は他の階よりも廊下が狭く感じた。テナント空間が廊下を挟んでずらっと並んでいたが、分かるのはそれぐらいで、さすがに部屋の様子は見えなかった。二人が奥の部屋に入っていくのを見たので、俺たちも追いかけた。暗闇の中だと、どんな落とし物があるかも分からないので、自然と足幅も広くなる。この場合意識すべきなのは、回転速度よりもリズムなんだ。
 部屋に入った。球体の白光が男の手から漏れていた。部屋の奥には机と、ケーブル、その先には青や赤の点滅と、コンピュータ的な……モニターと操作用か何かのガジェットがあちこち置かれていた。
 二人は睨み合っていた。達人的な間合いで。
「おい、ずっずっ……」聞こえたはずだが、木追山は相手から目を離さなかった。
「んんん」木追山は喉奥から地割れのような振動音を鳴らした。
「それだよそれそれ!」
「誠、例外」
「許されるほど身についてねえよ」
「おーい、誠くん、新入りなんだろ?な?」
「こいつは一体……」
「んむにをねらってる」
「……その感じだと俺が来る前からか。誰なんだよ」
「ともだちではない。ずうんずずうん……」鷹米が指示すると、木追山は俺の背後に回り込んだ。どうやら交渉人は俺に選ばれたらしい。相対すると、選択肢は途端に狭まるんだよな。
「なんで会合を見ていた」
「会合じゃねえだろ、報告会だろ?昨日の一件の」
「それも見ていたと?」
「いやぁ、別にな、誠くん?あんたらはただ俺の研究対象の一つとしてやってくれてればいいんだよ」男は机に横たわるコードを引っ張り、スイッチを押しながら地面のどこかに繋いだ。
「おい動くな、下手なことしたら……」
「どうする?もう一度やるか?俺はこう見えても海外で軍人やってたんだ。軍曹様だぞォい」
「今は科学者か?」
「ばかっ!笑わせんなって、誰があんなしみったれた……俺は高貴な採掘者だ。発掘主義者とでも呼べ」
「反骨主義者はいつからここに?」
「発掘だ!あほか!誰が青春捻くれ病だと……5年前だっけか?」
「長いね。ずっと事務作業を?」
「事務ってよ……だから、採掘だよ、さ、い、く、つ」
「それ使って?」
「もちろんだとも。機械生成された作品は膨大なんだ。それを掘ってくにはこいつがマストだぜ」
「それが暇つぶしか?」目を擦ると、糊を塗ったみたいだった。
「言うね、僕くんよ。ちょっと気になってきたぞその言葉遣い」
「まあいじめるなよ、誠」
「俺をいじめるだあ?知ってんぞ、おめえは……」
「なんで俺たちを」
「なっ……まあ、いやあ、謎の言語に惹かれるのはしょうがないだろっ……新しい文法モデルとか、機械生成された言語?エルエルエムってのはもう古いよなあ」
「人工知能研究者か」鷹米が吐き捨てた。
「発掘者だ。そして人工知能も、人工じゃなくて、自動増殖を続けた知的ネットワークだな……このデスクだって、その一種だ。これ、解体くんな」
「んだそれ」飼い主に返事するように、机上の端末が光った。大小のコードが滝のように垂れている。明らかになった全貌は、おおよそ昔ながらの機織り機だった。
「人工知能が生成した作品群……音楽でも文学でも、全部デジタル、数値にすぎない。母体の人工知能が数値だからだ。だから、生成された作品に情緒がないってのは当たり前の話なわけで……つまりどんな曲でも完璧に解体できんだよ」
「たしかに、人工知能に手首のスナップなんかは再現できない」鷹米の謎の援護射撃。
「知らねえよ」
「まあなァ。坊主にはまだ早えか。な」
「つまり一曲を数値に置き換えるんだろ?音を全て。それをして何になる」
「一曲って言うからそうなる。全部だよ全部。人工知能の生成速度は人間のそれを遥かに凌ぐ。だから飽和してんだろ?当然っ俺たちが知らない曲だっていくらでもあるさ。どっかで一人でに作り続けられたら……大量の未発見音源が世界中に眠ってる。俺はこの解体くんと共に、それらを発掘し尽くす。とんでもねえスピードだぜえこいつァ」
「だから、それで何を」
「人間は発見し続ける生き物だろう?その義務があんだよ。ゆくゆくはあんたらの言語もそうするつもりだったが……だめかい、なあ」
「許可は出さんが、いいだろう、んむにには連れてく」
「鷹米」気追山が叫んだ。
 あまりにも話が早すぎた。こいつが何者で、何が目的で組織を追っていたのか、何も信用できないまま、段階だけが進んでいった。
「……あんたら、何回目だ。口裏合わせでもしてるみたいだが」
「いやあ、遭遇は何回かしてるが、こう面と向かって話すのは初めてだよ。まあ、研究は何年も前からだぜ?ついここ数ヶ月でばれ始めたってだけで……擬態は得意だからなァ……しかも、ばれたからって捕まったことはない、今のところ、俺の連勝ってわけ」男には意外な素直さがあった。その素直さが、懐につけ込む秘技なんだろう。
「ならこれで連勝ストップだな」
「そういうわけにはいかねえ。確かに俺は手の内を晒した……が、ほら、そこのそいつが言う通りだと、俺は招待状を貰ったらしい。これで五分五分だろう」
「本当に連れてくのか、鷹米」
「害はなし、あぁ」
 俺たちは地下のあじとに戻った。

「ずっと4階に?」
「そうだぜえ、坊主はなんで組織に」
「暇つぶし」
「オンライン地下室がざわめくぞォ」
「なんだそれ」
「……ちゃんと食ってねえだろ」
「なぜ」
「目え見たら分かる。隈もな」
「最近早朝出勤があったから」
「なにも活動すれば健全ってわけじゃねえ。睡眠状態が正常で、日中は寝るための準備期間だなんて話もあるぐらいだからなあ」
「街中のやつらは一日中起きてそうだぞ」
「どいつも本気じゃなくなってきてんだ。人間が人工知能に寄せにいってんだよ」
「みんな寝ろと」
「極限じゃなければなあ。ま、とにかく食わねえとでっかくなんねえぞ」

 葉徒と佐伯はランプのある部屋に戻っていた。俺たちがいない間、何をしていたかは知らない。葉徒は雑炊のようなものを佐伯に食べさせていた。そんなものを作っていたのか。銀のスプーンと、明らかに子供用の皿。どこで拾ったのか……これが外れ者たちの宿命とでもいうのだろうか。俺たちはいつものように囲んだ。俺は例にもよって新聞紙の上に。男は最初の方こそぎこちなく部屋中を見渡していたが、気づけばランプのすぐ横に立って詭弁を垂れていた。名はいけ、というらしい。本名かは不明。
「……それで、とうとう捕まっちまったんだなあ。ただこの状況、少なくとも捕縛ではないよな」
「その意思はなし。だが、その代わり要求がある。俺たちの研究をやめてほしい」
「……ふふふ、5対1だもんな。いいぜ、それくらい。本研究は作品整理と批評について、たもんで」
「それで同意とみなす」
「そうそう、俺はあくまで外の人間としてな。まあ、こいつとはもう打ち解けたからよ、安心してくれ、もうこそこそしねえよ。こいつとは馬が合う、なっ」
 俺は足元に倒れていたスピーカーの小穴を数えながら、頭に乗せられた男の手を払った。
「……大丈夫……ぐうど……ぐうどがより……」
 波立つ静寂に流れる、汁をすする音。
「風邪なんだって?」
「いいでしょ、鷹米」
「……例外は葉……」
「風邪じゃないわよっ。きっと地上病だわ……佐伯はあたしがいないとだめなの」
「たしかにある時から、彼だけ地下に居残ってたなァ」
「もうしばらくは籠っていないとだめそうね……」
「おいおい……それじゃあオンライン地下室の住人があんたらを虐めるぜえ」
「あっそ」葉徒の意外な反応に喜ぶ自分がいた。しかしそれ以上に、会話の参加手順を知らなかった。すでに出来上がってるらしい関係に、自分だけが取り残されていると感じた。
「装ってるようだが本当だぞ。ずっと引きこもってなんかいると」
「あなたも同じでしょ」
「いや、俺のことはもっとアクティブに考えてくれ。自分も外の方が好きだろ。あとさ、あんたら混合言語どうたらって言う前に、その名前どうにかするべきじゃねえか。全部漢字なんだろ?」
「その話だが訳がある。しかしここでする話ではない」
「どうして、鷹米」
「大人の話なんだなあこれは。お嬢ちゃんにはまだ早いかもな」
 男はランプを挟んで胡座をかいた。それによって鷹米の顔が消えた。
「いやあんたが聞いたんでしょ」
「理解できないんだったらそういうことだ。これは大人のお、と、この世界ってもんよ」
 穴の数は68個だった。68個目で、3回目の寝落ちに入った。目を覚ますと、穴は一つになっていた。
 暗闇に押し出された、にたつく木追山の頬。その目線の先には頭を掻く佐伯。ハリネズミのようになった髪に手をめり込ませていた。こちらまで聞こえる掻破音。顎を伝う汁を拭う、葉徒の細い指。誰の目から見ても、衰弱は明らかだった。巨大な身体(からだ)がほぼ右に傾いていた。葉徒の支え無しではまともに座れない状態だった。何かの疾患か。脳の問題な気がした。本当に外出が原因なのだろうか。だとしても、地底人とやらの身体(からだ)構造が分からない以上、詮索は無意味だった。
「装ってるのはあなたの方みたいね。じ、ぶ、んの世界を。それがないと守れないんでしょ?」
「女はすぐそうやって男のプライドを突けば崩せると……」
「性別の話にすり替えないで。あたしはあなたと話をしているの。私と同じ女なんてどこにもいないわ」
「あたしはあたし、あなたはあなた、か?はあ、現代人の大好物だな。オンライン地下室の住人がため息つくぞォ」
「だからなにそれ」鼻を鳴らして、笑ったような、しかし呆れと嘲笑が滲む。
「たしかにそれはおめえが正しい。都市社会ってのは連帯なんだ。繋がってる感じゃなくって、繋がってんだよ。その中に個人が独立してる。だからみんないるのに、孤独が同時に存在している。だから、自分は自分。けど、それに耐えられないんだな。ネットなんかは境界が海のように融け合うから……」
「もぉ結局どっちの立場なのよ」葉徒はジャケットを脱ぎ、椅子にかけた。なんてことないが、全員がその様子を見つめていた気がする。
「葉徒ちゃんだよ。あ、さっきの話」男は鷹米を見た。
「あぁ、ちょっと来てくれ」
「よしっ……んんん。じゃあ一旦一服してくっから、ちびちゃん達は待ってな……おいしょっこら……あぁあとさっきの話だけど、自分の個性なんか信用すんなよ……あの副リーダーの……そうそう佐伯ってのは……落書きがい……」男の声は廊下に出ると一瞬響いたが、すぐに減衰し、闇となった。あまりに一瞬の出来事だったので、誰も止めなかったし、俺はとにかく気持ちがよかった。なぜなら、鷹米の椅子が空いたからだ。背もたれは楽だあ。
 
「うゔん」葉徒の咳払い。
「ほんっとなんなの、あいつ」
「今に始まったことじゃないんだろ?」
「会ったのは最初よ、あたしは。木追山?」
「さんっつっ……さん……」
「3回目ね。いるよねえ、あぁいうヒキガエルみたいなおっさん」
「久しぶりにシャワーでも浴びようかな」
「どうして、急に」
「言ってみただけ……」
「ぐぅん、がはんっ」
「佐伯、しっかり……」
「前までそんな感じじゃなかったろ」
「物事は変わるの。自然も、人も」
「急性どうたらみたいな……」
「こんなこと、自分でもしたくないんだけど……あたしがいた病院に連れていくのは……」
「だめだろ、多勢に無勢さ、どうせ」
「ここの地下道をずっと行けば着くよ……」
「そんなのがあったのか」
「えぇ、あたしと鷹米はそこで出会った。施設から逃げてきた時に」
「……なんともな……けど希望がないとも言えない」
「あるかしら……」
「どちらにせよ、彼らには黙っていたほうがいい」
「えぇ……そうね……。木追山も、しっ……よ。あたし達だけの秘密」
 飴を転がす音。佐伯が食事を終えた。葉徒が食器を片付けた。木追山が空気をこねるように拍手をした。
「さっき向こうに行ってたけど、何かあるの」
「物置よ。一応、簡易的なベッドも置いてある。一台。ここ、もともと家具屋も入っていたから。それの忘れ物みたいね」
「俺たちが人工知能男とやり合ってる間に、そこを往復したと」
「ベッドは嫌だったみたい。横たわると胃酸が逆流するんだって」
 俯き気味の佐伯の胸に手を滑り込ませ、反対の手で首と肩のあたりを揉んでいた。胸を揺らし、首筋をさする。血流の促進がねらいか。専門的な知識は持っていなそうだった。熱心に堂々としていたから口を挟むことは控えた。
「人工知能男って、安直ね」
「それしかないだろ」
「いけって名前があるんだから」
「葉徒はどう思う、あいつ」
「人工知能の知性なんかいうけれど、期待してはその中に人間的な営みを見出せなくって落胆するだけ。いつだってそうよ。崇拝も奴隷も、人間にとっちゃ同じ道具に過ぎないのに、それで右往左往してる」
「その人間が人工知能に近づいているとしたら?効率を求めて、無駄を除き、肉体を捨て始めたら」
 二人が帰ってきた。肌が融けるような寒気と、岩の吐息のような隙間風。天井を穿つ砂嵐の音が、頭の奥でも鳴り始めた。
「……それを判断するのも人間でしょ」
「そうじゃねえなあ、自己増殖を続ける生命体、アメーバ的社会だよ」
「そもそも、近づくもなにも、すでに人間は人間を情報としか見てないわ」
「おぉおぉ、あんたもどっちの立場なんだい」
「個人は情報として分解できる。けど、その集合では必ずバグが起こる。それが人間の営みよ」
「いやあ、観念的唯物論者か」
「矛盾してるわよ」
「矛盾も人間の大好物だろう」
「あたしは知らない」開いた毛先を指でとかす。
「そうだなあ……まあ、とにかく話は済んだからよっ、安心してくれ」
「なんで二人だけなの、鷹米」
「首脳会談だからに決まってんだろ、嬢ちゃん」
「異論は無し。佐伯、状態はなんだ」
 計画前夜のせわしなさ。鷹米が新聞紙に座るか興味が湧いた。
「ぐうんっ。ふんっ、むうはいい。てるは……てるは、なし……な……」粘っていた喉も空気が通るようになってきた。
「大丈夫かあ?いやあ、俺はあくまでも外の人間だけどよ、ちょっとぐらい診ることはできるぜ。軍隊式のやつでよければ」
 少し引き攣った顔で葉徒が鷹米を見た。鷹米は男の後ろからやってきて、中央に立った。足の影が部屋に境界を作る。一度俺と目が合ったが、続け様に「これは試行錯誤の一連である。ここに、新たな関係が生まれた。新たな次元、新たな光。問題は無し。ここでの足踏みはいづれ飛翔となる」
 生ぬるく、緩い沈黙。ゆっるゆるの。メンバーの目つきは変わった。多少の揺らぎの差はあるものの、固い信念が見てとれた。男は一人、俯き加減で両手を腰につけた。そして鼻先を摘んで揺さぶり、乾水を啜った。
「まあなんだ、とりあえず今日のとこはこれで……あとはよろしく。一旦帰るからよ」男は振り向く途中で何かを発見した素振りを見せ……
「おっ、これからは鬼ごっこはなしな。あんたとやると訓練時代を思い出すから。うん、やめてな。もう敵わねえよ」木追山は前歯を擦り合わせながら、不敵な笑みを浮かべていた。男と男が認め合う瞬間は美しい。一切の情なしに、引かず踏み込まず、魂が独立している。さて、地底人にこの文化があるだろうか。
「鷹米と男は何を話していたの」葉徒の声が後ろにかけて小さくなる。
「んむにのくる」
「んむにのくるはなに……」
 蝋燭の最後のようにぱっと膨らみ、消えた。俺は男と部屋を出ていた。隣で男が言った。
「組織は開かれたもんなんたろ……ちょっと警戒しすぎじゃねぇか……。俺、そんなに怖いかな」
「俺はおもしろいと思うよ、おじさん」
「そう言われると、なんだか嬉しいな」
「気持ち悪い」
「思春期だな」
「そんなのないよ」
「そういうとこだ……あァやっぱりそうか……」
「なにが」
「いつからここで?」
「ずっといる……組織はまあ最近だけど…」
「まだ落ちてねえように見える。あいつらと違って」
「何が言いたいの」
「いやあ、あの掟だけどよ……言語は強制して育むって……会話の成立しない状況に自分達を追い込むってことだろう、わざと。原始に回帰……」
「ピジンだよ」
「そう、それ。いやァどれだけの時間をかけるつもりなんだってな……俺にはなんとも……」
「俺的には例外を許すってのも、曖昧な気がするけど」
「お前さん、がきの癖に賢いよな。ピジンだってよく知ってる……」
「昔読んだことがある、祖母の家で」
「婆ちゃんは……」
「死んだよ、だいぶ昔に」
「そうか……まあ、そうじゃなくって、さっきの話に戻るけど、鷹米と話したんだ」
「このまま4階に?」
「あ、あぁ、俺は住処に戻る……で、鷹米に聞いたんだ。言語を育むだなんて一代でどうこうできる問題じゃないから、どうするつもりなんだって……」
「そしたら」
「それと同時に計画があるって」
「……同時並行?」
「そう、もう進めているつもりだよ」
「テロか何か」
「手段は知らねえ。けど、やってることは革命と同じだよ。とにかく人使って、拡散しながら……新たな世界をつくるって。俺の見立てだと破壊工作も辞さない……」
「それを聞いたと」
「世界中の虐げられている人間を、その関係から救い、そして新たな、流動的な世界に置くんだと。だから言語も地底人と日本人だけじゃなくて、どんどん変化を続けるだろうって……これから先」
「なるほど」
「……革命だよ、俺ァ軍出身だから分かんだ。そんなんで平和なんてこねえよ。どうせその中で新たな争いが生まれるだけ。作戦が遂行される前に、世界には知る権利がある。信じてもらえるか分かんねえが、少なくとも情報証拠として……」
「漢字の話はどうなった」
「漢字?あぁ……名前のね。あれは表向きだよ。鷹米も気づいてたんだな、俺が計画を嗅いでいるのを。だから合図出したらすぐに勘付きやがった……呼び出しベルだよ。中々強引だったが、ここの権力構造的には許される具合だろ?まあ、あいつからすればここもあくまで実験場、サンプルだけ取っていつかは決起を起こすはずだぜ」
「そうか……」
「なんだ、さっきからやけに低調だな。眠いか?」 
 暗闇とは、その響き以上に懐が深い。一見すると何も見えないただの暗黒だが、乾いた空気の流れが目玉に衝突し、突如として現れる青白い質感を肩で切ると、意外にも奥行きがあることを知れる。厚みを知ると同時に、気遣いも感じる。差し込む光のもどかしさよりもずっと暖かい。誰かが言ったか、暗闇を覗けば、暗闇もこちらを覗いている。
「ほれ、見ろ」男は腰ポケットからあの球体を出した。「なんだ」半透明の球体の中には、黒い水晶玉のようなものが入っていた。
「これで全部撮った。こいつは録画も録音もできる。360度、指でこうやってスライドさせれば目玉のように動いてくれる」
「それでさっきの会話を?」
「さっきだけじゃねえぜ。だからこそこそやってたんだ」
「そこまでして阻止したいの」
「俺は平和に発掘していたいだけだ。平和に生きれればいいんだよ、ここで」 
「ネットが使えるならどこでもいいんじゃ。あの解体くんとかいうのも、ただのチップなんだろ?それさえあれば……」
「馬鹿言え、どこでも使えるもんじゃない……いや、俺が使えないんだよ……」
「回線の問題?」
「いや……その……まぁ、俺はただの退役軍人じゃねえ……あんま言うつもりはなかったが……おじさんとの秘密だぞ……俺は逃げ出してきたんだよ。脱走兵だよ。こんな俺がどこで生活しろと?ここはようやく見つけたオアシスなんだよ」
「指名手配が近くに、か」
「別に軍の機密を漏らすつもりはねえぜ?こんな俺だって世話になった。色々と教えてもらったんで、こんな場所でも悠々生活できる」
「電波のタダ乗りも危うく見えるけど」
「それ自体は違法じゃない。グレーな場合もあるが……」
「初めて知った。でもそうもしてまで発掘したいの。軍人やりながらでもできたんじゃないの。少なくとも脱走なんかしないで正式に除隊すれば……」
「軍への忠誠を捨てたかったんだよ。俺には許せないものがあった……シミュレーションだよ。人工知能を戦争に使うのが許せねえ。愛着じゃねえよ。戦争にこだわる人間のエゴが許せねえんだ。何万通りの戦況がつくられ、何万通りの死に方が算出されている。それで笑っているのは上層の人間だけ。現場では機械に肉体が駆逐されている。システムってのは見えないところで拡がり、浸透していくもんだ……戦場だけじゃなくて、日常にも」
「……じゃあ発掘ってのは……」
「時代の可視化……見られることのない進歩、拡張……それらを批評することが、人間の意識改革になる。気づかせる。ふふふ、こそこそやるのは好きじゃねェんだ。……まあ、なにも人工知能が悪とは思ってねえよ?技術進歩には頭が上がらねえ。あくまで俺が嫌なのは、それに背中を向けることだ」
「はぁーそれで、知らせるってことね。鷹米たちのことを……」
「そういうことだ。どうだ」
「どうって……俺は別に」
「無関心か、まさに……」
「いや、無関心ほど平和じゃないさ。組織の意向には賛同していない。俺はただ、自分の人生の落とし所を探しているだけさ」
「死に場所を探してるって?戦場にいけ」
「自分が死ぬ瞬間を、その準備を極限まで、細部まで想像する。死ぬ数日前から、死が近づき、当日、さらに距離は近くなる。ずうっと考えて……そして質感を帯び始める……気づけば手に縄を持っている。締めて、膨らみ、沸くのを感じる……」
「そしたら生きる意味が向こうからやってくるってか。あほ。やめときな。そんな自己破滅的な希望で間に合うわけねえだろ。授かった命を大事にするんだな」
「俺は絶望の中に希望を見出しているだけだ。光によって生まれた影より、手探りの光の方が前向きだろう」
「最近の子供は怖いねェ……じゃ、俺はこのまま上に、お前さんは1階だろ?」俺の言葉だけが彷徨っていた。
 男は鼻歌混じりに階段を上がっていき、消えた。男の目には訓練の代物らしい実用性があった。廃墟ビルの探索と密林での行軍では次元が違うのだろう。

 いのぉち みじぃかあしい こぉいせよぉとめ


 久しぶりの雨が空に畝をつくり、重い腰の朝だった。俺は夜中をビルの中で過ごした。雨が理由じゃない。出かけようと気分が変わった時にちょうど、たまたま雨が上がっただけだ。
 あのデモ隊の一件から、早朝の散歩というものを見つけた。朝は短い。日が出てきたらすぐに人間の時間となる。その前にずらかるのが鉄則なんだ。朝日と共に出てくる人間ほど、気味が悪いものはない。
 昨夜の残滓が頬をそっとすり抜ける。蒸されたアスファルトの匂い。他人の沼。どんよりとした風と熱気が首のあたりで切り結び、断裂層をつくる。
 映画館裏のゴミ捨て場には大量の食品廃棄が生まれる。脳を揺らす油を紙類で包んだ匂い。紙類は脆く、溢れ出てくる汁臭につい立ちくらみしそうになる。しかし嫌いではなかった。ゴミ捨て場にはカラス避けの(すだれ)がかかっていて、それを傘に漁った。見つかったことは一度もない。いや、一回あったか、警備員らしき男と、消えかけの電灯の下鉢合わせたが、どういうわけか見逃してくれた。相手は俺の方をじっと見つめ、一歩も動かなかった。それ以降、立ち寄るのは控えた。それがなくとも、いづれはそうなっていただろう。小腹を満たすにはうってつけだが、通うには鼻腔が邪魔すぎる……なので、寄るのは実に数ヶ月ぶりだった。かつての記憶通りの景色だった。錆びついたトタン板の遮蔽にすがる半透明の泡。そうそう、青いネットも欠かせない。匂いには拍子抜けした。たぶん、夜の間に消え失せたんだろうな。だが、潔さは俺の好みだ。
 駅から離れたところで顔を出す線路。それまでは地下を通っている。線路沿いを歩いていると、フェンスに引っ掛かった服を見つけることがある。多くは子供服だ。ついで女物。その日も遭遇した。よれたピンク色の、薄手のカーディガン。重さの問題だろうな。風に吹かれてここに漂着する……どうやって服が体から飛んでいくんだ。別名:古着漁

 首元で燻っていた熱気がさらに上昇し始める。汗腺の締まりを感じると、裏通りに小走りした。影から影へ、路地を縫いながら。穴のないピンボールのように、俺の影だけがひたすらに浮遊する。穴がなければ、始まることすらない。
 熱気を置いて、ビルに帰った。ダニか、汗疹か、全身痒い。毎日掻きむしり、赤い縞模様に腫れた手足。誰からも指摘されたことはなかったな。壁に張りついた埃を指でなぞった。それからズボンに手を突っ込み、股を掻いた。足の付け根の、湿った内腿のあたり。
 氷のような夢をよく見た夏だった。


 ビルの地下一階。ランプと四人。会話はなかった。理由を聞くと、考え込んでいたから、らしい。全員がそうだったか?いやぁ、そうでもないだろう。なぜ考え込んでいるのか尋ねると、ビル内で死体が見つかったから、だった。死体はいけという男のものだった。
「誠、どこに」
「木追山か」
「なに」
「死体」
「んん、むうがった」
「んっただけ、だ」
「殺したのはむうだ」
「なぜ」
「ない」
「んぶつはどこだ」
「埋めるがちかくる」
「なぜ」
「んぶつがなぜ」
「んんん」
「誠、これ」
 葉徒が部屋の隅からズボンを持ってきた。小さな灯りが、陰影を撫でて崩壊した。
「あっごめん」葉徒はランプを立て直し、ズボンを俺に渡した。迷彩が見えた。
「なぜ」
「んごれ」
「別に……」
「誠、全員にはもう話した」
「勝手に」
「ありがとう、おかげで防げた」
「掟、だろ」
「これぞ……これぞだよ……」鷹米の声が震えた。
 雲の端を歩いているようで気に入らなかった。もっとも、その雲には膨らみがあって粘り気はなかった。
 どうやって男を殺したかは聞かなかったし、その後も知ることはなかった。死体は青い敷物に包まれ、上からガムテープが巻かれていた。顔は見せてもらった。外傷はなかった。
 男の履いていた軍パンと、黒のダブルジャケットを贈呈された。色も型もたぶん意味ない。イタリア製だった。サイズが合わず、当時の俺だと前衛な着こなしになってしまった。
 煙を出そうと探ったが、生えかけの苔のようだった。

 

 
  いのちいみじかぁし こいせよぉとめ
  あかきいくちぃびる あせぇぬうまに

 なに、下に誰かいんのか、話し声がきこえるぞ……エイリアンの集会で……呑気に歌いやがって……あぁ、すごい振動を感じる……生ぬるい何かが、腹のあたりで広がって……腹に……心臓があるみたいだ……くそう、なんだ、なに歌ってんだ……
 少しの間、眠っていたらしい。目頭の方がくっついてて、瞼が開ききらない。ふう、まだ息はあるな。たしかまだ昼休み中だったよな……みんなまだ戻ってきてないらしいから、今も昼休みか。くそ、今日はやりたくねえなあ……昨日は頑張って作りまくったからよ……1日ぐらい休ませてくれ……鉛筆なんてこの時代誰も使わないだろ……なんだよおい、まだこんなに意識があるぞ。それなら……そう、あれは……いつだっけか、たしかそのあとの……



 国道バイパスがビルの合間をうねって貫いている。それとも、ビルが国道を野次馬しにやってきただけか。車の窓から飛行機が見えた。深い青空に浮かぶ飛行機は止まっていた。
「こっちで合ってるの」
 昼間なのに腹は立たなかった。バイパスをくぐって今度はでかい街道を避けるためトンネルに入る。信号はない。歩行者にとっては不便だろうな。
「次の信号で右」
 血溜まりのような色のワゴン車。あれは小さい型だったのか、車は詳しくないから名前は知らない。シートは二列。何も置かなければトランクにも2、3人入れた。すし詰めになっているところは見たことないが。あいつらがそうなっていたら吹き出してしまう。運転手は葉徒。俺は後部側を独り占めして寝ていた。
 車の保管場所は不明だった。いつも鷹米が運転し、停める前に俺たちを廃ビル付近で降ろしてしまうからだ。出発の時も鷹米一人でやって来て、俺たちを拾う。この時もそうだった。しかし今回は途中で降りていった。探索のためだと言っていた……男の言っていた鷹米の計画は本当だった。疑っていたわけじゃなかったが、訂正も予感していた。しかし鷹米はあっさり認めてしまった。だから全貌を聞かされた時は人知れず傍観を決め込んでしまっていた。だってなんの前触れもなかったから。共同体をつくるってのは聞いていたけど、この組織がそれだと思い込んでいた。この時ようやく違和感が解けた。実際は外向きだったんだな。
 ……で、鷹米が降りてから運転は葉徒に交代になった。免許など持っていなかったが、技術はあった。物覚えがいいらしい。
 ……男の死で何が変わったか。少し感傷的になったか。もちろん俺のことじゃない。
「ちょっと動揺してたね」
「待って、今運転に集中してるから」
「大丈夫、盗聴器の類はついてない」
「……わかってる」
「俺は分からないな。傷つきやすさに性差はあるの」
「このまま真っ直ぐ?」
「そう、当分道なり」
「……性差というより、与えられ方ね。引きずるのも無理ないわ」
「俺が気にしてるって?」
「そうでしょぉう?まさか本当にやっちまうなんて……って」
「期待は込めたよ」
「でも不思議、こっち側につくなんて」
「たしかに、おかしな話だ。そっち側にな」
「試してるの」
「試していたら」
「受けて立つよ。あたしはこっちでもそっちでもない。元からここにいる。んむにがあたしの居場所。外の世界なんかで生きれると思うの」
 古い車だった。入手経緯を葉徒が責め立てるように聞いたが、秘匿とされた。運転席の後部収納ポケットには、地図本が入ってあった。だいぶ昔のものだった。そしてその表紙には落書きが書いてあって、妙に頭に残っている。

  飽きられた夏
  夜は優しく
  厳しい朝
  白波を誘い
  夕陽と語る
  短い秋
  落ちかけの午後

 俺と葉徒は前の持ち主のことを、血まみれの詩人と呼んでいた。
「俺は初めから賛同していなかったよ。その辺は」
「ビル内で完結できた話よ。元々。だから、ここだけでやってくのかと思ってた」
「だからって……おかしな使い方だな。他人なんて信用するなよ」
「いけみたいな話し方」
「取り憑かれたな」
 腹の中で起こる洪水。座り直しドアに背をもたれた。
「この辺ね」
 大通りから外れてしばらく走る。黒の境界を敷いた高架下に停まった。技術はあると言ったが、運転はあくまで移動手段としか思っていないらしく、この時も覚めるような急停止だった。というか、わずかに横滑りしたような気もした。葉徒は慣れた手つきを見せるような手つきでいろいろ操作していた。名前は知らない。
 窓を開けると震える熱気が立ち上った。車内の冷気とぶつかり断裂層を……車の冷房はほとんど故障しており、運転席側からしか風は起こらなかった。陽の下よりはましだった。
 鷹米からはここにいるように言われていた。粉っぽさを感じる灰色の柱が等間隔で並び、その下には石が敷き詰められていた。その空間はフェンスで囲まれている。石の隙間から伸びる雑草が、上部を張る有刺鉄線を誇張する。さらに、その脇の細道をスケートボードに乗った5、6人の集団が往復しており、まるで裸の王様のような滑稽さだった。王様にとって救いなのは、他人に見られていたことだが、そのスケボー集団の目に有刺鉄線は映っていなかった。彼らの目線は時折こちらを向いていた。
「さっきの話だけど、嘘じゃないわよ」
「似てきてるって話?」
「似てきてるっていうか、元々似てるのかもね、二人とも」
「そんな冗談やめろよ」
「でも一つ違うのは、いけなら嘘ってとっくに見抜いてる」
「嘘なのかよ」
「そういうところ」
 シャツの縫い目が腹を擦り、欠伸が出た。
「トイレに」しばらくして、俺も外に出た。
 昼間、しかも真夏に外にいるなんて俺からすれば全くもって久しぶりのことだった。俺は反対車線の縁石に座り、たばこを咥えた。日陰でも夏であることには変わりない。手元のほうがずっと熱いはずなのに、それは近づけてしまう。
 肩に不愉快な弾み。
「デザイナーベイビーって言ったでしょ、あたし」
「早いな、近くにトイレあるの」
「いやぁ、ちょっと見てほしいのがあるんだけど」
 そう言うと葉徒はみぞおちの辺りを押さえ俯いた。口に何か入っているのか、言葉にならない声でいくよ、と言った。すると本当に口から水が出てきた。しかしそれは口の許容量を遥かに超えた、壊れた蛇口のような勢いだった。彼女は息継ぎでもするかのように、実際その意味だったかもしれないが、そんなの気にせずにって感じで一息ついてから、再度水を吐き出し始めた。どっかの国にこんな像があるらしいが、生身の肉体でやられるとさすがに正気か疑いたくなる。
 勢いは徐々に弱まり、出てくるのが水滴になってようやく顔を上げた。
「特技よ、あたしの」
「いつそんなの」
「ちょっと前ぐらいかな。最近なんか声が出づらくて、喉を潤すといいって言われたから。でも手元に水がなかったからその前に飲んだのが胃にあるかなーって思って吐き出してみたの。そしたらこれよ」
「誰に言われた」
「潤せって?鷹米」
「……は」
 スケボー集団から一人が近づいて来た。その背後に様子を見ようともう一人。他の連中は板を足で転がしたり、誤魔化すような蹴り合いをしていた。
「あのぉ、もう一回やってもらっていいっすか」
 少年はスマホをこちらに向けて、申し訳なさそうな笑みを精一杯見せてきた。当時の俺と同じくらい。つまり世で言う高校生ぐらいか。
「ごめんねえ、これ一回やったら水ないとできないの。さっきのは3リットルぐらいかな。だからごめんね」
「いやあまじすか。ちょっと撮ろっかなーって思ったんすけど、無理かあ」
「無理じゃない。持ってくればいい」
「いいやいいんすか、ええへへっ……3リットル……」
 葉徒が俺の方を向いた。なんの意図もない、様子見の眼差し。俺を頼るな。だが立場は決まった。
「いいよ、持って来なよ」
 すると少年は草を引っ張っるように歯を見せ、仲間に失敗の合図を送った。だが仲間たちはそれを認めなかったらしく、仕方なく近くのコンビニに行く計画を立て始めた。少年は去り際言った。
「え、カップルっすか」
「どうして」
「いやあ、お姉さんかわいいなって思って」
 まだ何か取ろうというつもりなのか。そう思うと前歯の黄ばみからよだれが垂れているようにも見えた。
「ありがとう。でもそうなの、あいにくね」
 嫌いな男はいくらでもいたが、恥とともに持つ嫌悪は生まれて初めてだった。それとすれ違うように、今度はあの男の声が聞こえた。少年たちとは反対の方、俺の背中を押すように。
「何が」
「あっ鷹米」
「何が、葉徒、誠」
「葉徒がんずを」
「んず、了解」
 鷹米は地面を見て理解したらしい。俺はフェンスを掴んで揺らした。その振動は、というより音が先だろうが、は少年たちの元へもすぐに伝わり、こちらを振り返ってきた。彼らの計画も実行段階に入りそうな雰囲気だった。
「葉徒、誠、中へ」
 俺たちは車の後部座席に座った。運転は鷹米。
 階段を登るような単調な手つきで車は発進した。地面を擦る振動が音と伝わる。少年たちの姿が窓を流れる雨粒のように滑っていき、後ろで止まった。そして大きな水溜まりとなり、小さくなっていった。
 発車からしばらくは沈黙が続いた。シート越しに聳えるニット帽の山頂だけが、鷹米の表情を教えてくれる。わざわざ聞く必要はない。途中で降りたのは、自分の足の方が信用できたからなんだろう。
 いけが死んだ……彼は間違っていなかった。んむに語圏を拡大し、世界中に集会所をつくる……廃ビルの地下のような。作戦のための下見なんだ。この時はまだ準備段階なんだろうと思っていた。だから俺が先手を打つ好機はあると踏んでいた。第一、俺はんむになんて興味がなかった。ちょっとした時間稼ぎか、墓場の内見として参加しただけのこと。俺の立場から言わせれば、水溜まりの中で干上がるのを待つだけでよかったんだ。それを次から次へと……
 俺たちは駅の南側にある商店街入り口で降ろされた。駅を起点に狭い道が枝分かれて広がっている。
「んむにてぇ。木追山と佐伯に」
「鷹米はもどるの?」
「あぁ」
「どぅおう」
 鷹米は自信ありげな笑みで足を指した。疑いはしなかったが、信じもしなかった。俺たちはとりあえずそこで別れた。

 鷹米が出た後すぐに、信号で歩行者と自動車の言い合いが起こった。車側が無駄にクラクションを鳴らしたかららしい。歩行者側の信号は青だったし、煽りか不用意か分からない。歩行者は横と後ろをざっと刈り上げた、スーツにベスト、ポーチのようなものを持った男だった。サングラスをかけており、虹色の丸い穴がぽっかり空いた奇抜な仮面に見えた。それか、黄金虫が張りついたような。それでクラクションを鳴らされたのかもしれない。
 俺たちは商店街の脇にある歩道を進んだ。二車線道路、緑色のガードレール、灰色の靴下……
「……鷹米、んなにを……」
「んむになんてやめろ」
 彼女は一瞬歩みを硬直させた。手と足を交互に出したからだろう。
「は、なんて……」
「ここに入って分かったことがある。言葉を武器にするな」
「なにを……」
「自分の内側に強制するだけ……だから苦しくても疲れてもだるくても、それに気づかない。言葉に依存して、自分の身体(からだ)を信じれなくなるぞ。いつしか分からなくなる、自分が喋っているのか、言葉が喋っているのか。だから葉徒、んむになんてもう拘るな。お前に必要なのは居場所なんだろ、それは言葉じゃないさ、少なくとも……」
「あたし……」
「言葉に居場所なんて探すな、あんなの道具にすぎない。目的じゃないさ……ここに来て分かった唯一のことだ……だから言い切れる」
 自分を上から見ているような気分になった。俺たちの髪は、陽の下だとよく黒光る。
「最低限度の会話なんてする必要ないんだよ。ここは軍隊か?俺たちはただ生きてるだけだ。それだけのこと」
 葉徒は何かを言おうと口を開きかけたが、僅かな空気が漏れるだけで、言葉にはならなかった。ただ地面のどこかを見つめ、ジャケットに手を滑らせ肩を掻こうとしていた。しかしぎこちなく、肩幅と手の動きが噛み合っていなかった。だからいつまで経ってもジャケットの左肩が上下に動くだけで……だけど分かっていた。本当にしたいのは肩を掻くことじゃないって。
「暑いな……」
「ええ……暑い、暑いのよ……ね」
 彼女はそのぎこちない手で肩を切り落としていき、ジャケットを手にぶら下げた。俺が右手を差し出すと、彼女は俺の腕にかけた。
「んむには俺たちを縛りつける。なんでか分かるか?語彙が少ないからだよ……組織がこのまま時を待って熟されるならいいさ、だが、これ以上勢力を拡げるなら俺は降りるぜ……もどかしいんだよ、いちいち」
 葉徒は下唇を指で掻きながらひん曲がった眉をこちらに見せた。下まつ毛のあたりが血色の線を引いていた。
「何笑ってんだ」
「いやぁ、そうね……んむにだと言いたいことは伝えづらいわ」
「お前らがどう思ってるか知らんが、俺は片足突っ込んだだけってことを忘れるなよ。俺は言いたいことを……」
「気持ちが上手く伝わらない?」
「気持ちっていうか……」
「んむにはあたしが居たい場所。すべきかどうかなんて、あたしたちみたいな人間が語っていいものなの……きっと誠には分からない、んむには希望なの。日本語を使えなくなっても……言葉を使わなくても伝わるものがある」
 こいつ……俺はひどく狼狽した。緊張した、焦った、腹が立った。俺は自分を惨めに思った。初めてだった。こいつ……ふざけるなよ……言葉以外にも伝わるもの?じゃあなんで「んむに」に拘る。ものの分別を知らないのか、とてつもないもどかしさを感じた。思えばそれは俺が組織に入ってからずっと続くものだ。自分の言いたいことも、んむにではまだ変換できない。俺と奴らでは生きている世界が違ったんだ。俺はそこまで強制されていない。んむにで何を伝える?それに希望とかほざきやがったぞ……この時俺はこう思っていた……あいつらの土俵に立って何を話す、そんなことをして、俺に何の利点があるんだよ。
「誠は知りたくないんでしょ」
「……なにを」
「知りたくないけど、見えないところにいてほしくないから、手で触れられる寸前の位置で立ち止まってる」
 もうそこは廃ビルまで数十秒のところだった。


 二人はいなかった。日中、地底人は本当に地底に潜っているのだろうか。昼間でも地下は暗い。ランプがなければ入り口すらも見失う。太陽を刻印された四つの椅子。俺は部屋に入らず、ただ立ち尽くしていた。地下は外よりもいくらか涼しかった。コンクリートをなぞった気流が右から左へ……それを追うように俺は廊下の奥へ歩いていった。ランプのある部屋から二つの扉を挟んだところ……錆びでささくれたシャッターが膝のあたりで止まっていた。どうしてそこで立ち止まったのかは分からない。ただあるのは、どうして俺は今、将来のことなんて考えているのだろう、という焦燥を打ち負かした疑問の念である。
 みかんの皮のような色の光を閉めきれない。痩せこけた近衛兵。俺は右膝を上げ前方にゆっくりと向けた。左大腿の締まり。その少し上、骨盤のあたりにレンガ大の重み。指を吸盤に変え靴底に引っ付かせる。土踏まずの空虚。そして折りたたんだ右膝を高速で捻り、足先を繰り出した。雷鳴が響く。放尿に似た身震い。
「なに!」
 葉徒の声が闇の向こうで聞こえた。闇を手繰り寄せていく。卵黄光に押し出された影が二つ。それらは近づき、一瞬の間に重なり、バラバラに千切れていった。

 俺は自分の寝床に戻った。何かを期待していたわけではないが、まあ、特に変わり映えしない場所。壁にもたれかかる。金属の取手がちょうどうなじに当たるので、工夫しなければうまく寝れない。なので首は前屈みに曲げ、膝を抱える体勢に落ち着いている。
 寝床はビル内で言う端の方にあり、やりようによっては外の光も僅かに入り込む。昼間だと特に。一筋の光とか、そういうのではなく、全体的に明るくなったような感じ。黒から灰……で、微かに見えるチラシか何かの破片の赤。虚とは人生で最も心地の良い瞬間。瞬間なのに、酔いそうになる。虚には量があり、拾った空き瓶に残っている酒とちょうど同じぐらいである。それを集めるのも、習慣だった。

 目の下のこぶを鎮める。頬に紙切れの重み。乾いた糊が融ける瞬間。それでも、目を開けていることに自信が持てなかった。頬を持ち上げ、こぶをつくっても、視界が変わらないからだ。
 腰の歪みを気にしながら、廊下の端まで歩いてみる。それぐらいの手探り加減は、長い漂流期間で身についた。幸いにも、モザイク調の窓が白く明るかった。白いということは、もう夜だと暗にもせず教えてくれる。
 なんとなく、さりげない境界。地面が消える。頭を貫く芯の感触。それでも足を繰り出し続ける。頭の中で張った蜘蛛の巣のような霧も、気づけば等間隔のその音に居場所を譲っている。手すりは滅多に使わなかった。頼っても埃がまわりつくし、第一頼るほどですらない。
 俺は地下の集会所に出向いていた。いたのは佐伯一人だった。部屋の端で寝そべっていた。俺が手にしたランプで頭を覗くと、トンネルの奥から囁くような声で反応した。
「誠……んむになにくる……」
「鷹米んを」
「むうはんのぉに……」
「葉徒は……」
「葉徒は誠のんちに……」佐伯は口だけを動かしていた。
「非常階段か……そうか……」
 俺は椅子に息を吐いて座った。秒針の音が聞こえた。もちろんそこに時計なんてなかった。それを助長するかのように、いや、紛らわしてくれるかのように低音の振動が響いた。唇と唇の間から吐き出されたやすりの雑感が、俺の耳を血だらけにする。起きてはいるのでいびきではなさそうだが……覚醒中かどうかなんて簡単に分かるもんじゃない……地底人とやらはそうやって喉の奥を振動させるだけで意思疎通が可能らしい。
 たばこのケースを掌で転がした。そういえば……地底人はたばこいけんのか。嗅覚が発達してはいるらしいが、やはり刺激すぎるのか……なんて思いながら白線に火をつけた。こういう時、葉徒や鷹米ならなんて言っただろう。どうせ二人とも一言目には俺の名を……
「ここで何している」
 俺は思わず振り向いた。…………かだって……なんの当たり障りのない言葉を、俺は椅子を盾に最大の防御で応じてしまっていた。いや、確かに言ったし、聞こえたんだ。もしかしたら、違うことを言っていたのかもしれない。だが、そんなのどうだっていい……誰が言ったかが肝心なんだ。なぜ、そんなことを……それ以上の含みが……だとしたらどんな……俺は頭の中を駆け巡る雲の中から、かろうじて一言を引っ張りだした。
「お前、喋れんのか……」
「……喋れるさ……無理だと?」
「い、いや……地底語とんむにだけかと……」
「日本語は話せる。そうしないだけだ」
「……掟で?」
「例外は与えられていない」
「いや……今はどうなんだよ……」
「今、自分の意思で選択している」
「どうして……あんたの組織じゃねえのかよ」
「だからだ。掟は鷹米と二人で決めた……掟は守るものだが、最終判断者はここにいない」
「鷹米のことか……なら、あんたも組織を」
「葉徒から聞いた。この命ももう長くない」
「何を聞いたって」
「それは言えない。葉徒との会話だからだ」
「だからめんどくせえんだよ!そういうの!じれったいなあ……はっきり言えよ……俺の態度の話だろ?どうせ、なあ」
「否定はしない」
「あははは、はは、いや、あのさあ……まじで……地底人すぎるだろ」
「どういう意味だ。地底人に伝統はないし、慣習もない。だから木追山以外の地底人を知らないのだが」
「知らねえよ。俺が組織に入ったのはちょっとした興味だって、それだけだよ。あいつから何を聞かされたか分かんねえけど、それ以上の意味はない……でも、日本語を話してる時点であんたも規則違反中だからな。これでおあいこってのははっきりさせとく」
「何を勘違いしている……誠がどうしようと、告発はしないさ」
「あんたら、やっぱり初めてじゃねえだろ。俺が来る前までに、どれぐらいやった」
「はっきりしないのはお互い様なようだが」
「黙れ、殺すぞ」
「……掟を破った奴にはそれ相応の処罰を下してきた。だから、誠の前にもメンバーは何人かいた」
「全員でなくとも……少なくとも前例はあるんだな。なるほど……」
「今、こう考えているだろう。俺は誰かに告発されるんじゃないか、しでかしているんじゃないか……誰かに殺されるかもしれない……って」
「なにを……」
「安心しろ、鷹米には言わない。」

座礁地帯

座礁地帯

  • 小説
  • 中編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-06-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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