空の一升瓶
木漏れ日が揺れる。陽は肌を火照らせ、風は呼吸の一間をさらっていく。その風はまるで、あなたとの時間を奪うかのように梅雨を知らせる。その風は、あなたが吹いた最後の吐息であるように、生温く、時間を忘れるような、風だった。
耳鳴りのような途切れた一定の音が激しく揺らいだと思ったら、その音は紛れもない耳鳴りになっていた。
窓ガラスに数粒の水滴が投影され始める。水滴も音も、何もかもが虚しく閉じ込められたこの四角の部屋で、鮮やかな肌をしていた、手を握り締めた。温度を分け合おうと藻掻いても、もう耳鳴りは止まらない。もう鼓動は音を鳴らさない。まるで空き瓶のように何もない。
梅雨が来る前、彼女は山登りに励んでいた。帰ってくれば冷蔵庫に溜まった日本酒を酔いつぶれるまで飲んで、私に寄りかかっては、眠りにつく。少しでも酒量を減らそうと、私は頑張って酔いに付き合っていた。空になる瓶、まるで寿命とアルコールを混ぜて、頬の赤らみに変えるかのような魔法。あの頬はエノキの実に似た色彩だった。その色が時雨に紛れ込んでは、何処か遠くの季節に辿り着かぬような、早く実をなした業の色を持っていた。私はその頬を撫でる度に、引き波を思い出すのだ。まるで、波に置いていかれた、空き瓶のような途方もない不安を。
一升瓶に詰まった酒。それを飲み干した彼女の瓶はひび割れていて。割れた空き瓶は燃えては挙句溶けて。その溶けた亡骸を、私は持ち得る存在ではなかったこと。黒檀の前で、雨を降らせば、影を作るのは、あの頬の色のせいだ。
彼女が去った梅雨。その季節の、昼下がり。二人の部屋、二人の冷蔵庫、最後に残った酒は熱燗にする。昼間から寝酒。それを止まぬ雨と共に頂く。酒は減らず、雨は数滴瓶に沈むよう。次第に瓶の口部にアルコールがのぼる。瓶から溢れそうな酒を見て、ふと雨が止む。ひびが入る音が聞こえる。開いた窓の向こうを覗く。そうして気が付く、空に、雲に、遠くの稜線に色がないこと。また一つ息をのむ、私の体に火照りを感じない事。胸が焼けるような酔いが醒めたこと。あの火照りは、何をすれば味わえるのだろうか。ふとマッチを一つ、瓶に火を灯す。酒は燃えていく。その燃え様を見ても、色が分からない。風はきっと吹かない。木漏れ日は揺れない。陽も風も温度を与えてはくれない。忘れられないのに、瓶は燃え続ける。酒は燃え、水は揮発する。瓶はひびを増やす。そうして知る。梅雨が終わったことに。私の瓶が空になってしまったことに。
終わり
空の一升瓶