ジブニスト(自分主義者)の告白
我々はつまり、自分主義者というのだそうです。つまりジブニストと呼ばれて居ります。
つまり我々は心に秘めて居るのだそうなんですね。
自分の価値を認めない者は皆、野蛮人だ!
そのようなのです。
然ういうことでありますからに、尚一層に各方面に囁かれて居る説と分断が目に餘るのです。
「自ら」とは、「ミヅカラ」とは、「MIZUKARA」とは、一体何のどこまでを意味して居るのだろうか?
始まりの言葉は簡潔に綴られて居ました。自らの、自らの価値を認めない者は皆、土人であると。
その「自ら」とは、自分から見た自分のことか。それとも、他者にとっての自分のことか。
どちらか一つにしようというのです。
何と馬鹿らしく、わからず屋なのでしょうか。
言わせて下さい。そのようなことをぬかす者達は皆、土人であるということを。
分離主義者。敢て過激に呼び捨ててしまいましょう。
引き裂かれるのは世論ではないのかも知れない。
人ひとりが、あなたひとりが然うした乱暴な分離主義論者によって内側から真っ二つに破り捨てられるのです。
自分自身の価値を自分自身で認められるか否かもあなた自身を左右し構成する問題でもあるならば。
自分の価値を他者が認め知って居るか否かもまたあなた自身の今日と明日を物語ります。
あなたを知らない。知るべきことをまだ知らない。未開の人たち。然うです。その価値を知らないのがあなた自身であろうと他者であろうと皆、土人なのです。未開なのです。
しかし自分が知るのと他者が知るのとに、一体何の違いがあるのでしょうか。
分離主義者が言うのです。自らを認め知らない者がすべて土人だというのは只の単なる傲慢であると。
何を言います。土人を教え諭すように自らの価値を布教すべきとでも言うのでしょうか。
自分が土人だと思わない人、思わなくなった人はみんな自分にとって、土人ではない。
ただそれだけのことが何故わからないのでしょうか。
縦に割り、分断を生み、主義闘争に明け暮れようとするその悪い趣味をおやめ下さい。
然様な方々はいつもそのように大袈裟な上に、決定的に誤解して居る。
景勝を理智を人命を、恰もそれぞれ全く別の主義思想として捉え引き裂いた人達です。
それらはそもそも、一つの連続し一貫した道筋なのです。
いっそのこと自他という区別なくすべてを通る道として鑑として一途に進めば良いだけのことなのに、一体ひとりで何を騒いで居られるんですか。
然ういう人達が、自分を認める自分と他者に認め知られる自分とを逸れ逸れにさせるのでしょう。
認めるのも認められるのも、その何れもが自分であり自分ではなくもあるどころか、自分であり他者の存在ありきでありすらあるのです。
然うです。いわば北極点にでも頭頂を合せなさい。
どうです。そこには自分があるんですか。誰かが在るんですか。あったりなかったりするのでしょうけど、それより雲を追うことでしょうね。闇に見える宇宙のこの一所に丸で奇蹟のように浮かぶ空色の星を考え直すことと思います。
すなわち、無禮者。あなたは今すぐ、その無禮をやめなさい。さもなくば、、、。
何もない。
然う。何もないのです。
苦しみなさい。
そして生れ変るのではなく、本来の姿にでもなりなさい。
責任は持ちません。責任は常にあなたにある。
それが嫌であればそれまでなのです。
それまでなのであれば、惜しくはない。最初から残念であることはもう決まって居たのですから。
苦しみなさい。あなたは苦しむ。
私は違う。もう苦しまない。
その分あなたが、苦しむのです。
私は知らない。あなたは違う。
苦しみなさい。
然う。そのように。
ジブニスト(自分主義者)の告白