江戸の忍法録

人生初の小説が山田風太郎先生の『甲賀忍法帖』でした。
それから忍法帖を読み漁り、私の中には常に小説とは娯楽である、という強い意識があります。
それを教えてくれたのが山田風太郎先生であり忍法帖シリーズでした。
リスペクトと敬意を込めて、書きます。
※なお一部、AIを使用して執筆しておりますので、ご了承ください。

忍法:蜜毒の壺

 男は泡を噴いて唸った。

 この日、徳川家光は42歳という年齢の衰えも知らず、新しく大奥に入ってきた女を吟味していた。

 徳川家三代将軍として、母を織田信長の姪、江にもち乳母を春日局とする、産まれながらの征夷大将軍として育てられてきた、色白で細身の、病弱な男である。

 しかしながらその肉欲はとどまることを知らず、大奥に新しい女が入ってくると、すぐに袴を脱ぎ女を吟味するという行為を長年続けてきた。これも将軍家の血筋を絶たぬようにする仕組みという、口実があってこその吟味であった。

 政治に常に関心を持ち、政策が歴史上稀に見る長期徳川政権の基盤を作ったといっても過言ではない。

 そんな色白の病弱で政治家としての手腕に優れた家光が泡を噴いて、女の壺の中から真っ赤に晴れ上がった男根を抜いたのは、子の刻を過ぎた頃の事である。

 障子の外で待機していた侍女たちが慌てて障子を開け、将軍の寝床に入ると、将軍家光の男根は真っ赤に晴れ上がり、途切れることなく白濁した体液を垂れ流しながら、青白い顔がさらに蒼白になり、泡を噴いていた。

「上様」

 悲鳴を上げ、1人の侍女。もう1人は家光の身体を抱き上げた。その時に周囲を見回すが人の影はなく、一緒にいるはずの『お清』の姿が見えない。

「お清、お清はどこじゃ」

 侍女が大声で叫ぶ。

 その時、真っ白な裸体で屋根裏の太い柱の陰にお清の姿はあった。眼下の騒ぎを天井裏の板の隙間から覗いている。白く濡れ光る腿の間からは、暗闇でもわかる、濡れた愛液が一筋、流れていた。

 彼女は心中でニヤリとして呟いた。

忍法:影人形

 大老、井伊直孝はこの年、61歳になった家光家臣の中でも、最大の権力を保持する、家光政治の中心人物であり、家光が将軍になる際に光景人となり、それが大老としての初めての大役であって、家光とは深い縁で結ばれた江戸城の大人物だった。

 家光が倒れてすぐの事、真夜中に駆け付けた直孝は、あまりの苦悶にうなされ脂汗を流す家光の姿に、思わず喉を鳴らした。

 寝床の布団ははぎとられ、白い寝間着ははだけ、薬師が腫れた男根に薬を塗り、下半身をさらしで硬く包まれていた。薬師の見立てでは、男根からなんらかの毒が注入されたとみられ、このままでは数日のうちに毒は全身に回り心の臓が止まるであろう、とのことであった。

 これは一大事、と井伊直孝はすぐに大老、老中を江戸城に招集、直ちに次の将軍選抜や、将軍が亡くなったときのことを話し合い始めたのだった。

 そこには家光の小姓から出世し、今は亡き春日局と共に家光を支えた松平信綱の姿もあった。55歳の恰幅のいい老中は、次の将軍の話をする大老たちに苛立ちを感じていた。

 上様の敵を探すのが先ではないか。心中でそう呟きながらも、言葉にはできない。この場でそれを口にした時点で江戸城の中に彼の居場所はなくなり、どのようなことになる分っていた。

 また夜明けの会合を井伊直孝は皆に言い渡し、その場は解散となった。

 すぐに信綱は小姓、薬師、正室の孝子が控え、中心でうなされ暴れる将軍のあまりにも苦しそうな姿を初めて見て、苦悶に顔が歪む。

 幼いころからずっと家光に仕え、将軍になってからもずっと支えてきた人物がここまで苦しんでいるのだ、家光をこうした人物への怒りは激しいものがあった。

「宗冬はおるか」

 叫ぶとすぐに夜闇からぬるりと出てきた男がいた。

 38歳になる色白の侍が襖の影から出てきたのだ。身の丈五尺七寸と大柄の侍であった。精悍な顔立ちをした柳生宗冬は、父柳生宗矩が正保三年(1646年)に兄柳生十兵衛が慶安三年(1650年)に急死した事から柳生宗矩の三男である宗冬が急遽、柳生家の主として、将軍家剣術指南役として任命されていた。

 家光を支えた宗矩、春日局はすでに亡く、松平信綱だけが家光政権を支えた、最後の一人となってしまい、その頼もしい腹心として、宗冬は信綱を支えていた。

「柳生の手で上様をこのようにした謀反人を捕まえ、我が眼前へ連れてまいれ」

 五尺七寸の大男は、ゆっくりと頭を下げ、その心中ですでに、任に当たらせる裏柳生の配下の顔を思い浮かべていた。

 柳生家は表向きは大目付、将軍家剣術指南役として全国の藩に眼を光らせる役割を担っていた。しかし裏では各国へ草と呼ばれる諜報員を、農民、町民、侍として潜り込ませ、少しでも幕府の憂いとなる事柄があれば、宗矩の耳に入り、権力を持って潰す。そうした裏工作によって、幕府が支えられてきたのも事実であり、宗冬はその裏稼業とも呼べる裏柳生の仕事も受け継いでいた。

 その時、下げた頭をゆっくりと宗冬が上げると、喉元に冷たいものがあたった。短い直線的な白刃である。

「曲者」

 松平信綱は一瞬、上様の命を狙って来た曲者と思い、帯刀に手を伸ばした。

 が、すぐに信綱の背後の障子の裏から、低くくぐもった声が聞こえてきた。

「この仕事、私めにお任せくださりませぬか」

 声を聞いただけで信綱、宗冬はすぐに誰が障子の裏に潜んでいるかわかった。

「六兵衛か」

 百地六兵衛。

 天正十年伊賀の乱。

 戦国の時代、まだ魔王と呼ばれた織田信長が天下を取ると誰もが信じていた時代。伊賀忍者たちは、信長の政を嫌い、信長の再三の領土明け渡し要求を拒み、とうとう織田信長は軍勢を伊賀国へ進め、その力で伊賀を集中にした。

 これによって伊賀の忍者たちの多くの命が失われた。

 この天正伊賀の乱で伊賀忍者の頭領を担い、伊賀三大家の一つ服部家、藤林家と並ぶ伊賀の名家が百地家である。

 その現頭領こそこの百地六兵衛であり、御前を守る忍びの頂点、御庭番として常に江戸城内を隅々まで、細い独特の眼で、見張っていた。

「今更何を申すか。そもそも貴様が大奥を見張っておれば、上様がこのようなことになることは、なかったのじゃぞ」

 憤慨した声で信綱が障子を開けると、紺碧の着物、袴を着て、とうてい将軍の前に姿を現す格好ではない小男が立っていた。

 総髪を後ろで縛り、浅黒い顔をして、江戸城ではまず見ない顔つきと肌の色をしていた。

「私めの失態。なれば汚名返上の機会をくださりませ。狼藉者に心当たりがござりまする」

 怒り心頭の信綱だったが、その顔色から赤みが引き、冷静な心を取り戻した。

「なんと、ならばすぐに連れてまいれ。ここに、我が目の前に」

 指を畳に突き立てんばかりに腕を振った信綱の命は、御庭番の出動が承認されたことを意味した。

「百地殿。その前にこの配下の者を下げてはもらえまいか」

 大男の若者、柳生宗冬はこの命がくだされる間もずっと、首筋に白刃をつけられたままだった。

 柳生当主の背後には同じくらいの大きさの、人影が立っていた。

 すると宗冬の言葉に、細い眼を更に細くニンマリとした六兵衛は、呟いた。

「忍法影人形」

 言葉と同時に黒い人影はゆらゆらと蝋燭の灯火の如く揺れ動くと、そのまま一気に小さくなり畳の中に吸い込まれるように消えてしまった。

 更に驚いた事に宗冬の喉に突きつけらていた刀は、六兵衛の手の中にあり、それを腰の鞘におさめていた。

「宗冬殿、今のは配下ではござりませぬ。私の影、でございまするよ」

 そういうと六兵衛は一つ頭を下げ、唸るように笑いながら立ち上がると、江戸城の廊下を足音も立てず、闇に溶けるかのように消えていくのだった。

次回へ続く

忍法の支度

 古今、浅草は人気の観光地であり、裏手にある浅草奥山は、見世物小屋の集まる観光地である。

 浅草の見世物小屋といえば、庶民の娯楽の王様として君臨していた。

 いくつもの見世物小屋が立ち並び、多くの客引きがその巧みな口上で江戸の民たちの足を止めさせ、小屋の中に引き入れていた。

 その中でもここ半年の間に急に人気を博した小屋があった。

 江戸時代の見世物小屋は、サーカス、博物館、美術館、お化け屋敷、大道芸を組み合わせた総合娯楽という体であり、特にその小屋では大道芸が盛んに行われ、その人と思えない動きに、江戸の観客たちは満足した。

 今の通貨でいうと歌舞伎が最安で2000円の時代、見世物小屋は640円程度で楽しめたので、浅草のこの小屋も賑わっていた。

 人気が半年前から急激に上昇したというのも、江戸にこつ然と現れ、小屋の一座に入り込んでいた五人の男たちの、まさしす人間離れしたその動きにあった。

 ある者は中を舞い、あるも者は糸の上を歩き、ある者は天井にへばりつき、ある者は関節を逆に曲げ、ある者は真剣を素肌で受けながら無傷であった。

 この芸当はたちまち江戸の城下で噂となり、人気は爆発的になった。

 しかし一座の者もこの五人の素性を知る者は一人もおらず、口数は多いものの五人の口から話されることもなかった。

 座長はこの五人が自らに富をもたらすから、あえて素性などにこだわらず、他の者たちも自分の給金が増えたことに、目の色を変え、五人をえらくもてなした。

 しかしこの五人に眼をつけた男が一人いる。

 江戸城御庭番、百々地六兵衛だ。


 ある日の晩の事、子の刻を過ぎた頃のこと。人気のない見世物小屋に獣のような唸り声が響いていた。

「ほほう、いい鳴き声をする」

 られ蝋燭を舞台の四方に置き、派手な垂れ幕の内側に籠もり、男は指先を女の下の口から中に入れ込み、暖かく湿った女の中を、ゆっくりとかき回した。

 舞台の中央に横たわる女の白い肌は、すでに汗で濡れ光り、男の身体に吸い付くような肌が、悶絶して波打っていた。

「まだ指先を入れたばかりだというのに、いい音をたてる」

 女の今にも叫びだしそうな声に男はニタニタと笑っていた。

 指を抜くと指先は濡れ、糸を引く。男はしげしげとそれを見てから着物の裾を左右に開くと、すでに固くそそり立った棍棒がある。

 女の眼はとろけて今にも気を失いそうになって、甘い息を吐く。

 浅黒い40歳の男は巨根を女の蜜壺に一気にねじ込む。

 女は身体を弓なりに反らせ、声が逆にでなかった。

 男は女の乳房を鷲掴みにして、腰を動かしていた。

 この様子を蝋燭の明かりで見ている者たちが、戯れる男女の周囲には居た。今、腰を動かしている紺空なる男の仲間である。

 見世物小屋の軽業師・紺空の仲間、

剣夢 37歳
雨倉半明 30歳
楽四郎 35歳

の三人であった。

「紺空のやつ、よくも続けられるものじゃ」

 呆れ顔の剣夢が半袴から出た毛むくじゃらのスネを掻き、感心するように言う。

「奴の女好きにも困ったものよ。今宵で何人目のおなごじゃ」

 楽四郎が舞台の横、桟敷に眼をやると白いナメクジのような裸身の女たちが、素っ裸のままでそこに投げ捨てられ、息はしているが精魂を吸われたかのように、ぐったりとしていた。しかも6人も居る。

「武家の娘好きとはいえ、流石にこれほどの娘が一晩で居なくなれば、江戸市中でも噂が流れる」

 憮然と太い腕を組み、一人だけ浪人風の雨倉半明が腰にさした刀の柄に肘を置き、唸るように言った。

「そういうおめぇこそ、その服をどうした。どこぞの侍から盗んできたものであろう」

 そう言いながらゆっさゆっさと舞台の袖から現れたのは60歳をとうに過ぎた初老の腐呂斎だ。農民ふうの格好をしている最年長の男は、その背に荒縄を結んで背負った丸い棺桶を担いでいた。

「腐呂じいよ。また墓荒らしか。いい加減にせんと、奉行所が動くぞ」

 重そうに土のついた棺桶をゆっくりと下ろす腐呂斎に、怪訝な顔を剣夢が向けた。そこには確かに死人独特の臭いがあり、農民ふうの老人の着物には、腐った肉の臭いがついていた。

 それでも老人は満足げに、その紛い白髪眉の下で、ドジョウのように眼を細めるばかりだった。

「それよりもお前さんの忍法で早く女の記憶を吸うてしまえ」

 雨倉半明が女たちの裸体の束を視線で示す。

 声をかけられたのは楽四郎だ。

 面倒そうに農民風の楽四郎もまた、女の女体の山を見た。

「紺空め。何が忍法の支度じゃ。おなごの髪の毛なればあれほど集めたではないか」

 と、蝋燭の下に黒く固まった女の髪の毛の塊を見つめ、楽四郎は不機嫌そうに言った。

 これを紺空は忍法のために使う支度としょうして集め、そのついでに女に1つ、入れていたのであった。

 この奇妙な五人こそが『伊賀鍔隠れ』より江戸に出てきた忍者たちであった。

 女の声が悲鳴に変わりつつあった時、紺空は急に激しく上下させていた腰の動きを止め、視線を天井に這わせると、女から巨根を抜き、着流しの裾を下ろし、身構えた。

 同じく剣夢、雨倉半明、楽四郎、腐呂斎も舞台の上に跳ね上がり、周囲を見回した。

 忍者たちは小屋の周囲が複数人の気配が囲んでいるのに気づいた。


《忍法:風閃灯》へ続く

忍法:風閃灯

 鍔隠れの五人衆は、見世物小屋の周囲を常人ならざる人影が囲んでいるのを、異常なまでに鋭い聴覚で感じていた。

 人影の群れに足音はない。迷うことなき忍者の足の運び方だ。忍者とはどのような場合でも足音を消す術を心得ている。

 舞台の上で愛液をこれでもかと絞り出され、汗と混じりむせるような雌の匂いが立ち込める中、蝋燭の明かりに薄っすらと、舞台を囲む人影の姿もちらほらと見え始めた。

 まだ女のとろける蜜壺での快楽を吸い足りないようすの紺空は、名の通りの紺碧の着流しと草履で舞台から降りると、蝋燭の下に溜め込んだ女の髪の毛をむんずと掴み、懐に突っ込んだ。

 複数の影は音もなく暗闇に消えては、蝋燭の灯火に姿を現しを繰り返し、明滅しているかのように、ジリジリと舞台を囲む半円を狭めていく。

 ある瞬間から、影の手には短い白刃がきらめき始めていた。

 紺空もまた影の動きに合わせ、ジリ、ジリと前へ進み出る。

 と、やにわに暗闇を流星が一閃したと思った刹那、蛙が潰されるような声を発し、1人の忍者が床に倒れ込んだ。

 その喉にはマキビシが突き刺さり、血で濡れていた。

 おのれ、と白刃を構えた忍者たちであったか白刃が動かない。身体ではなく白刃自体が空中に貼り付けになったように動かないのである。

 何事か、と忍者たちは自分たちの刀に眼をやって愕然とした。

 蝋燭の灯火に薄っすらと浮かび上がる糸が見えたのだ。しかも雲の糸ほども細いそれは、忍者たちの白刃を絡め取り、それぞれ刀を引っ張ると仲間の刀が引っ張られるように絡み合っていた。

 こしゃくな、とばかりに忍者の1人が懐から濡れた手裏剣を手にとり、すばやく投げつけた。

 伊賀忍者に伝わる秘伝の毒は、傷口に付着したら最後、命は失われる。

 その手裏剣が空中を閃くと、なんとそれも空中に張り付いたような停止した。またしても糸が手裏剣を絡め取っていたのだ。

 次々と忍者たちが手裏剣を手に、紺空に狙いを定める。

 と、そこに思いもよらぬ加勢入った。客席の床に素っ裸で放り投げられていた女たちである。

 まるで肉の壁を作るかのように紺空の周りに立ち、忍者たちから視野を奪った。

 だがよくよく見ると女たちはまだ瞼を閉じ、中には快楽のよだれを流している者もいた。

 これは、と忍者たちが訝しく見ていると、蝋燭に細い糸が見えた。

 女たちも糸で操るか!

 愕然とする忍者たちの動きが、貼り付けにされたとき、忍者たちは本当な金縛りなり、身動きが取れなくなっていた。いつの間にか四肢が例の糸で縛られていたのである。

 すると1人の忍者が鼻を鳴らした。

「油の臭いじゃ」

 が、それは忍者たち最後の言葉になる。

 紺空が指先からどういう原理か灯火を発すると、またたく間に、見世物小屋に張り巡らされた糸を伝わり、炎が燃え上がった。

 忍者たちも皆、身動きできぬまま断末魔の叫びを上げ、炎の中に消えていった。

 小屋は火の海となり、そこから5つの影が裸体の女たちを抱え飛びどしてきた。

「せっかくのアジトもこれでおしゃかじゃのう」

 残念そうに棺桶を担いた腐呂斎がぽつねんと言った。

「腕は鈍ってないようじゃな」

 複数の忍び装束の忍者が五人の前に忽然と飛び現れ、その中から声がした。

「御庭番殿か」

 紺空が叫ぶと、黒い布を口元か外し、百々地六兵衛が褐色の顔を炎に照らして、五人の前に凛然と立った。

「鍔隠から抜け出たお主たちに帰る場所はない。知っておろう」

 御庭番の言葉に、抱いている女たちを地面におろし、楽四郎がニタリと笑った。

「面白おかしく死ねればそれでいい。俺たちはそれだけだ」

 これは御庭番の思惑通りの返答だった。

「なれば面白い話を聞かせてやろう。将軍様はもうすぐ亡くなられる。やったのは忍法使いのおなご。探し出せば、お主らの言う面白く死ねるかもしれぬぞ」

 そういうとケタケタと笑い、御庭番は自分の部下たちと闇夜に消えていった。

 その後、浅草の見世物小屋はつけ火として奉行所は判断され、その場に倒れていたおなごたちは、その晩の記憶を失っていた。着物はきちんと着せられ、それぞれが旗本の娘であることすらも互いに知らず、なぜそこに居たのかも覚えていなかった。

 この怪事件の後、見世物小屋の軽業師たちが焼死したという噂が流れた。その晩から姿を消したからであった。

張孔堂の軍学者へ続く
 

張孔堂の軍学者

 神田連雀町に向う道すがら、江戸の喧騒の中を、1人は着流し、1人は農民、1人は浪人、1人は半袴、1人はくたびれた町人姿の一団が歩いていた。伊賀の里の奥に位置し、その忍術は音に聞こえ、怪しき忍法を操る鍔隠れ谷。そこから抜けて江戸に来た忍者5人衆であった。

 浅草の見世物小屋で軽業師として人気を博していたが、幕府御庭番、百々地六兵衛の「面白く死ねる」という言葉を真に受け、将軍家光をその忍法で、毒の死期へと追いやった忍法使いを探していた。

 この時、紺空には心当たりがあったのだが、他の4人には皆目検討がついていなかった。

「腐呂爺、今朝は棺桶は担がんのか」

 いつも棺桶を担ぐ腐呂斎を、からかうように浪人姿の雨倉半明が、口に楊枝ををくわえて聞いた。

 老人はケラケラと蛙のような妙な笑い声で答えた。

「朝から棺桶というのも無粋であろうて。それに紺空が飯屋の女中を喰らってる最中、棺桶を担いでおるのも年寄りには、きつうてならぬ」

 この直前、五人衆は飯屋によって朝飯にありついていた。銭はちゃんと払った。が、女中に朝のうずきをぶつけるべく、飯屋の裏で紺空が情事を繰り広げている中、四人は飯屋の親父の関節を手のひらを当てただけで外し、遊んでいた。

 その後、農民姿の男が外に出て行くと、ケロリとした顔で女中が帰ってきたことに、関節をもとに戻された飯屋の親父は驚いた。

 陵辱を受けながら、女中はなにも覚えていなかったのである。

 五人衆はその後、紺空の足取りに合わせ、神田連雀町に向かっていたのだ。

「例の忍法使いに心当たりがるとみたが、紺よ。次第を話せ」

 半袴の剣夢が先頭を行く紺夢に聞く。その眼にはどことなく、楽しげな光が鈍く光っていた。

「ワシ等は忍法とは何かを知っておる。並の人間に扱える忍術ではない。伊賀、甲賀を中心に忍法使いはおるが、根来にも忍法は伝わっておる。そこでじゃ。ワシは根来からこの数年来、江戸へやってきた者はおらぬか探した。そこで三人の女人が根来から江戸へ入った。正確には戻ったそうじゃ。それぞれ身分は旗本の娘」

「それが忍法を使っておると」

 農民姿の楽四郎が興味深げに聞く。

 紺空は頷く。

「女子とは魔性。ワシは女子とまぐわって、つくづくそう思うのじゃ。ワシはいつか女子に喰われる気がする。話はずれたが根来から帰った旗本の娘三人は、そのまま家に帰らず、由比正雪のもとに身を寄せておる」

 これに眼を細めたのは腐呂斎だ。

「張孔堂の軍学者か。南木流兵法を教える道場、張孔堂を開き、誰にでも惜しみなく兵法を教えておるとか。浪人はもとより最近では旗本の侍衆も通っておるとか」

 紺空は頷いた。しかもニタリとした顔で。

「噂では近頃、その物言いが幕府に矛先を向けておるとか」

 浪人姿の雨倉半明は納得したよに、楊枝を口から吐き捨てた。

「なるほど、幕府に謀反を起こす。その一番槍が根来の忍法というわけか」

 五人の行く先がそれで定まった。

 向かうは張孔堂の軍学者、由比正雪のもとである。

忍法:肉空へ続く

忍法:肉空

 神田連雀町に入る五人衆は、その人だかりに例の軍学塾『張孔堂』がどこにあるのかすぐに見て分かった。

 張孔堂と看板が掲げられた道場の門前には、大男から小男、町人、百姓、旗本、浪人、女の姿までも見られ、神田の人間が全員、殺到しているのでは、と思えるほどの人だかりであった。

「これじゃあ入れやしねぇ」

 楽四郎が鼻を鳴らしふてくされたように言った矢先、紺空、腐呂斎の二人は合わせたわけではなかろうが、同時に地を蹴飛ばし屋敷を囲む漆喰の塀の上に飛び乗った。

 真っ昼間から忍者の技を使って目立たないものか、と下で見ていた楽四郎が見上げるが、周囲の視線は塀の中、道場の中に向けられていた。

 壁が取り壊され、抜けた道場の中央には、総髪で整った白肌の男が膝を折り、まっすぐと押し寄せた民衆に向かって熱弁をしている。その内容は軍学のこと、時勢のこと、徳川家のこと、政のことなど、今にも奉行所の連中が解散させに入ってくるのではという内容ばかりを、大声で叫んでいた。

 その両脇にはこれもまた大男が二人、長い槍を構え、仁王像のように立っている。

 紺空はこの三人を一瞥したがしかし、一番に目に入ったのは、道場の橋に正座して姿勢を崩さずに座る、雰囲気から所作までが町娘のそれとは雲泥の差がある、明らかに武家の娘たちと見える三人だった。

「あれが根来から帰った女じゃろ」

 横の老人も眼に止まった。それほどこの熱気のある場には似つかわしくないほどの、美麗な三人なのだ。

 漆喰塀から居りて、裾を治す若者と初老の男は何食わぬ顔をして、残りの三人にいう。

「中も人で溢れておる。夕刻までまつよりほかはあるまい」

 紺空の見る限り、この人混みで事を起こすにも話を聞くにも難しいと判断し、夕刻を待つことにした。


 だが夕刻どころか日が暮れるまで人は道場に居り、最後の百姓男が帰った時には、蝋燭の灯りが必要となる時刻を過ぎてきた。

 道場に蝋燭の灯火が灯る。

「今日も盛況でしたな」

 総髪の軍学者は蝋燭明かりの中、軍学書を静かに正座して読んでいた。そこへドカドカと足音を立ててやってきた大男が豪快に言った。

 丸橋忠弥である。

 出自は定かでないが宝蔵院流槍術の腕前はたしかで、この張孔堂の門弟になる前は、御茶ノ水に自らの槍術道場を持つほどの腕前であった。その腕前を認め、由比正雪はこの大男を自らの右腕として重宝していた。

「このぶんですと、明日も山の人だかり。先生の名も更に天下に轟きまするな」

 同じく丸橋の横にドタドタと歩いてきた、この男も大男なれど腹が出ているところが少しだらしないが、元は長州藩毛利家に使えていた身分の男で、その剣術の腕前を丸橋に認められ、更に由比正雪の博学に惹かれ、自らも門弟となった金井半兵衛が言った。

 丸橋は長い宝蔵院流の槍を手の持ち、金井は腰に、戦国の世では戦刀と呼ばれた、身の丈ほどもある長剣を携えている。

 この二人が由比正雪の第一、第二の門弟として、荒くれの浪人がもしも由比正雪に襲いかかるものならば、その矛先、白人がどんな豪腕、剛力であろうと、一閃して血煙の中に消し去るのである。

 由比正雪も門弟二人の屈託のない笑みに頷き、その背後に座る武家の娘たち、お清、お銀、おみねも静かに優しい笑みをたたえていた。

 が、その中心に座る由比正雪の顔が急にこわばる。

 丸橋、金井は自らの師が何かに警戒したことに、瞬間的に身構えるも周囲に人影はなく、闇ばかりで視界はない。

 と、武家の娘お銀が不意に懐に手を入れると、その腕を天井に向け振り上げた。

 するとなにか黒い塊がドサッと音をたて床に転がると、まるで巨大な芋虫の如くうごめいた。

「もののけか」

 叫んで金井半兵衛がそのとんでもなく長い刀身を抜き払い、振りかぶった刹那、高速で目の前を銀色の鈍い光が一閃したかと思うと、振り上げた金井の戦刀が真っ二つに折れていた。

 床に転がり落ちた黒いそれは、すっくと立ち上がると腰の打刀を抜刀し、眼にも止まらぬ、とはまさしくことことで、瞬時に金井半兵衛の刀を砕いてしまったのであった。

 何が自分の身に起こったのか、丸い顔の中に丸い眼をして声も出せずにいる金井の前に立つ浪人風の男は納刀すると、今度は丸橋忠弥の方を見た。

 浪人は雨倉半明である。

 彼は鍔隠れ谷の忍びでありながら、その抜刀術の腕前は、居合を得意とする他流はにも負けぬ腕前であり、伊賀一の剣術使い、とまで言われるほどの腕前であった。

 だからいつも仕事の時には侍、浪人に変装し、腰には常に刀をさしていた。

 たかが浪人、と侮る風体ではあるが弟弟子の金井の太刀が真っ二つにされたのを見てからでは、さすがの宝蔵院流の槍を握る手にも、自然と力が入った。

 しかし死合いは最初から決まっている。打刀と槍ではまったく間合いが違う。しかも宝蔵院流槍術の腕前が江戸に聞こえる丸橋忠弥であるからさすがの雨倉半明でも、その矛先を避けるのは至難の技である。

 丸橋はこの浪人どう動くと心の中で囁きつつも、丸太のような脚を少しずつ先に進め、矛先は間違いなく半明に近づく。

 けれども半明は微動もせず、ただ立っているだけであった。

 何を考える。丸橋は心中でそう叫んだ矢先、一気に空気を切るように槍を突いた。丸橋の手には間違いなく仕留めた感触があった。

 だが矛先には浪人の衣服はあるものの肝心の半明の姿はない。

 と、丸橋の首筋に冷たいものが触れた。

 なんと素っ裸になった雨倉半明が刀だけを手に丸橋の懐に入り、刀を太い首に当てて居たのである。

 この死合いを見ていた由比正雪、金井半兵衛、丸橋忠弥自身にも何が起こったのか見えなかった。

 しかし由比正雪の後ろに控える三娘には、確かに浪人風体の男が何をしたのか、忍法者が持つ独特の眼球がしっかりと見ていた。

「忍法、肉空」

 素っ裸の半明はニタリと笑い、丸橋を見上げてつぶやいた。

 そして刀をゆっくりと引くと、一糸まとわぬ筋肉質の裸身を後ろに引き、死合いの結果が決まったことを、自ら無防備になることで、丸橋、金井に知らしめた。

 これに不服なのは武家の娘たちである。おみねは懐に手を入れ、そこからさっきお銀が飛ばした同じ物を出そうとした刹那、おみねの顔のすぐ横を黒いものが飛び過ぎ、道場を抜け庭の松の幹に突き立った。

 それは鋼鉄の細い棒状のものであり、棒手裏剣と忍者の間では呼ばれる、手裏剣の一種であった。

 お銀がさっき天井に向け投げつけたものを、暗闇から投げ返した者がいた。

 手裏剣が飛んできた闇に由比正雪一党が眼を向けると、さっきまで誰も居なかったはずの道場内に四つの人影が立っていた。

 紺空、剣夢、楽四郎、腐呂斎であった。

「お主たちか、伊賀鍔隠れ谷とやらから抜けた忍びとは」

 由比正雪は軍学書を閉じ、五人をみやった。その眼には恐れもおののきもない。しっかりと五人を見据えた、腹の座った視線である。

「最近話題の軍学者にお尋ねしたい。将軍に毒を仕込んだのは、その後ろの女人たちの誰かじゃな」

 紺空がニタリとして言った。

恋慕の死合いへ続く

恋慕の死合い

 蛾が蝋燭の灯火で照らされた張孔堂の道場へ舞ってきた。それを一筋の光が通り抜け、庭の松の木へ蛾を貼り付けにした。それは一本の針だった。

 投げたのは鍔隠れ谷の剣夢だ。

 早業にも動じることなく、由比正雪は正座をして鍔隠れ谷の五人衆と相対していた。

 両脇には丸橋、金井があぐらで座り、仁王像の如く五人を睨みつけていた。

 その後ろには旗もの娘たち三人が美しい百合の如く咲き誇っていた。

 五人は由比正雪に視線をあわせ、この男が何を考えているのか思案した。が、さすがの鍔隠れ谷の忍者たちですらも、由比正雪の底が見えなかった。

 まるで井戸の底を覗き込むような、まるで考えが掴めなかった。

「お前さんは何をなさるつもりです」

 紺空が珍しく神妙な面持ちで由比正雪に言葉を投げかけた。井戸に石を投げ込むような気分であった。

「日本国の歴史を貴様らは知っておるか」

 突然の問いかけに五人衆は顔を見合わせた。由比正雪は何を言い出したのかと、眼を丸くしている。

「この国の成り立ちを貴様らに聞いておる」

 由比正雪は帯から扇子を抜き取り、ゆっくりと五人衆の顔を動かしていく。

「神武天皇より日本国は始まった」

 紺空は女好きなばかりではなく、歴史にも少し詳しかった。伊賀の里の奥にある鍔隠れ谷には、伊賀の里にもたらされた情報や書物が貯蔵されていた。天正伊賀の乱、と後に呼ばれる織田信長が伊賀に攻め込んだ時の教訓から、最も奥にあり地の利を活かせる谷に貯蔵するのが伝統になっていた。

 紺空はそこで歴史の書物を少し読み漁るくらいはしていた。

 扇子の先を突きつけ、由比正雪はうなずいた。

「その通り。日本国は神武天皇より開かれたとされておる。それが今の歴史だ。だが、それが間違いとしたらどうだ。神武天皇より遥かなる昔、天より降りてきた天上人が日本国を作り、海の外の国々も作ったとしたら。その天上人の血を引く日本国民が呪われし血を引いていたとしたらどうじゃ」

 絵空事とした思えない言葉に、紺空は眉間を狭くした。

 他の四人は耳をほじるほど、呆れた様子である。

 しかし饒舌な由比正雪の言葉は止まらない。

「竹内文書という書物がある。朝廷につかえていた竹内なる者が書いた書物である。偽書と言われ朝廷でも将軍家でも知らぬふりをされておるが、そこには天上人が天を作り、この日本国へ降りてきたとある。そこで五つの肌の色の人を造り、海の外へも置いたと。わたしはこれを真実と思うておる。天上人の血を引く日本国の民にはそれが如実にあらわれておる。貴様らがその最たるもの」

 五人衆はさらに顔を見合わせ、肩を突き合い、互いを指差した。

 その子供じみた反応にも由比正雪の言葉は揺るがない。

「貴様ら忍法者の由来はおそらく邪馬台国に遡ろう。だが伊賀と甲賀の忍びが対立を初めたのは源平の時代より。その後、柳生が加わり日本国を支える三つの影が作られた。戦国の世では幻術師・果心居士が根来寺に忍法を伝え、根来忍者が室町幕府の小姓と壮絶なる殺し合いを行い、武田信玄の死にも忍法者が関わり、北畠家に集まった剣豪衆と忍法者が戦ったとも伝えられ、忍法を恐れた織田信長は伊賀の里を襲い、豊臣秀吉は根来寺を焼いた。秀吉の北条攻めで北条方に忍法者がおり、忍城は最後まで持ちこたえ、関ヶ原でも忍法者が家康に勝利を引き込み、幕府が開いてからは、大久保長安の乱にも忍法者が関わっておると聞いている。里見家では八人の忍法者が里見家を救ったとあり、何よりも現在の将軍家光は甲賀と伊賀の忍法争いで選ばれた将軍。そしてこの正雪自身がこの眼で見てきた。島原の乱で死したはずの天草四郎が女の身体を脱ぎ捨てこの世に生まれ変わった様子を。荒木又右衛門、柳生但馬、宮本武蔵。死してもこの世に蘇り、それを柳生十兵衛が斬り捨てた。その柳生十兵衛も死の間際、能楽師の世阿弥により時を行き来して死んだと聞く。
 これはわたしの調べた限りのことで、これ以外にも忍法が関わっている事柄で歴史が作られてきた呪われた者の国が未来永劫続くのだ。わたしはこの呪われた国を今一度、人の手に取り戻したい。家光を亡き者にし混乱の内に江戸、京で同時に大火を起こす。それに乗じて将軍家も朝廷も我が手に収め、この国をやり直させる。それがわたしの計画だ」

 忍法使いの五人衆ならば今、由比正雪が口にした話のいくつかは伝え聞いていた。それを呪いとは思っていないが、たしかに忍法で歴史を動かしてきたのは事実である。

 それを自覚している五人衆なだけに、この話を聞き終えた時には、あれだけ子供じみた反応をしていた連中も、静かに聞いていた。

「ならばどうする。この五つ首、この場で斬るか」

 紺空が憮然と由比正雪に向かって言い捨てた。

 望むところ、と仁王像が動き戦刀と槍を手に取り、膝立ちになる。

 それを由比正雪の扇子が止めた。

「これはわたしの言い分だ。次は貴様らの言い分を聞こう」

 紺空は由比正雪の後ろに咲く三つの花を見つめ、ニタリと笑った。

「ワシはその女達に惚れた。抱きたいと思うておる」

 女を前に身分もわきまえずズケズケと紺空はいう。しかも彼は提案もした。

「こうしようではないか。もしそこに並ぶ女のうち、一人でもワシに惚れさせたならば、お前さんが企む天下転覆の計画をやめていただく。もし女たちがワシに惚れず、ワシら全員が死んだ場合、お前さんの好きにすればよい。幕府にも朝廷にも密告はすまい」

 丸橋、金井ははっと後ろの旗本女たちを見たが、女達は背筋を伸ばしたまま、憮然と構えている。

 由比正雪は眼を細くして頷いた。

「なるほど、よかろう。貴様らの死合いにのろう。
 よいか、各方」

 と、後ろの女衆に声をかけると、女達は合わせたかとように、首を縦に振った。

「では恋慕の死合い。開始でございますな」

 紺空はカラカラと声を立てて笑った。

 神田雀町にその日、怪鳥のような奇妙な声が轟いたのは、江戸の町が寝静まった頃合いだった。

 その笑い声はいつまでも星がまたたく夜空に高らかと響き渡っていた。

縄地獄の五人衆へ続く

縄地獄の五人衆

 半蔵門と後に呼ばれることになる西端の門の近くには、服部正辰の江戸屋敷がある。服部家の三代目服部半蔵を襲名していた。伊賀同心をまとめ江戸を裏から支える、忍者の棟梁としての役割を果たしていた。

 その屋敷内に1つの蔵があった。

 ある夜のこと、提灯を前に挿して百々地六兵衛は蔵の前に立った。後ろには柿色頭巾を被った、見るからに位の高い人物が立っている。

 周囲には服部屋敷の護衛、伊賀同心たちが控えていた。

 百々地六兵衛は御庭番として、同じ伊賀出身者として江戸城内では顔見知りの中であり、服部半蔵の屋敷の一部を、ある目的のためにここ数日、借り受けていた。

 服部半蔵は六兵衛のやることであるから、忍びの掟としてあえて蔵の使用方法などは聞かなかったが、夜な夜な屋敷前に武家の女人が座り込んでいるのを、伊賀同心たちが発見するという、奇っ怪な事件が多発していたのは、六兵衛に蔵を貸した晩からのことであり、なにか訝しいところがあるのだが、御庭番とすでに武家の身分となった服部家の腹のさぐりあいをあえて服部半蔵は控えることにし、武家の女たちは伊賀同心に家まで運ばせていた。

 蔵の扉を開け、六兵衛は提灯を持ちながら中に入っていく。柿色頭巾の男も最初は少し戸惑った様子だったが、暗闇の中に脚を踏み入れた。

「お主らはここまでじゃ」

 伊賀同心たちを六兵衛は手のひらを上げて止め、ニタニタとするとした顔つきで扉を閉めた。

 提灯の明かりがあるとはいえ、蔵の闇は不気味で、締め切った室内はカビのジメジメした臭いで充満していた。

 だがそればかりではない。どこか甘い吐息のような匂いも頭巾をしていても男にはわかった。

「こちらでござりまする」

 そういうと天井から下がった鎖を引くと、六兵衛の足元の床が左右に開いた。そのまま六兵衛は階段に着地し、地下へ案内した。

 この先に何があるのかこのまま殺されるのではないか。そんな予感も柿色頭巾の中で考えていた。だが男は階段を降りていく。

 すると奥の方に蝋燭明かりで照らされる人影がいくつもうごめいていた。

 階段を降りきるとそこは石で作られた広い部屋だった。部屋の隅々には蝋燭が立てられ、武器倉庫として使われているらしく、忍者道具が揃っていた。

 その部屋の中央に畳が敷かれ、男が1人、座っている。雨倉半明である。しかもいつもの浪人風体ではなく、一糸まとわぬ黒々とした裸体であぐらをかいていた。

 しかしそれにも眼を行かない壮絶な光景がその上に広がっていた。

 真っ白な透き通る皮膚に荒縄が食い込み、両腕は後ろに縛られ。膝と足首を締め付ける縄は天井の梁を通して床の金具にくくりつけられ、宙吊りになっている。それは髪を振り乱し、唇をうねらせ、両足をガバと広げ、蜜壺を顕にした女の姿であった。

 柿色頭巾の男はあまりの光景に呆然としていると、

「頭巾はもうよろしいかと」

 と六兵衛が言う。

 女から視線を離すことができず、ただ手で頭巾をとった。それは松平信綱であった。

 その目の前で半狂乱になった女の蜜壺に座ったまま半明は腕を伸ばし、ゆっくりと指をそのネットリとした中に埋め込んでいく。

 女は獣のように悲鳴を上げ、縄から逃れようとするが、それは無理なこと。

 半明のミミズのような指は蜜壺の中で這い回り、愛液が次第に溢れてくるのが分かる。

 これに男はニヤリと満足げに笑いを浮かべると、指をさらにもう一本、蜜壺に入れると、まるでかき回すかのように、指を動かした。その速さは次第に加速していき、愛液と声は比例して量を増していく。

 糸を伸ばして垂れる愛液は、油の如く半明の額から身体まで、すべてを濡れ光らせた。

 この壮絶な光景に喉を鳴らす信綱。

 横の六兵衛は平然としていた。

 女の声が消え失せると、全身がテラテラとした半明は畳の上に立ち、身体に愛液を塗らこんでいた。

 これが先日、丸橋忠弥の槍をまどろませた、忍法の正体であった。

 愛液で身体に抜け殻を作り、白刃で斬られたところでそれを脱ぎ捨てるのであった。

 忍法の支度を終わらせた半明は、満足げに畳から立ち去る。

 すると今度は吊り下げられた女の体に、天井から縄を伝って忍び寄ったのは、剣夢である。すでに身体には一糸なく、蜘蛛のように天井から女に這い寄ると、愛液で濡れそぼった蜜壺に、巨根をひねり入れた。

 女は悲鳴すら枯れて、身体にへばりついた男の腰の動きに合わせて、ただ思うがままにされていた。

 それにしても見ていた信綱は、女の手足がよくちぎれぬもの、と不可思議に思っていた。

 大の男が空中にぶら下げられた女に乗っているのだ。二人分の体重を支えられるほど、女の身体は丈夫には見えない。

「伊賀の忍術でござりまする。己が身体を無き者として、女は重さすら感じてはおりますまい」

 呆然とする信綱に声をかけたのは、紺空であった。女好きの彼にしては、珍しく着流しを着て、普通の格好をしている。

「そちがワシをここへ呼んだのか」

 天下の老中を呼び出す。そんなだいそれたことができるのも、何にもしがらみに縛られない、風来坊の彼らだからである。

「信綱様、将軍様を牙にかけた者の正体が判明いたしました」

「それは誠か! なればそやつの居場所を言うのじゃ。直ちに奉行所、伊賀同心を差し向け、首を取ってくれる」

 怒り心頭の様子の老中に手のひらを見せ、紺空はまったをかけた。

「老中さまのお怒りはごもっとも。されどこの件に関しては二つ、条件がござりまする」

「褒美ならば思うがままじゃ。金でも女でも地位でも構わぬぞ」

 信綱の言葉に紺空は首を横に振る。

「一つはこの勝負、我らにお任せくだされ。徳川様は一切、手出しは無用のこと。二つ目は将軍様を襲いし者を討ち果たしたあかつきには、天下を下さりませ」

 信綱は思わぬ言葉になにを言っているのか、一瞬、頭が混乱した。

忍法:腐乱合に続く
 

忍法:腐乱合

「何を驚かれることがござりまする。天下を揺るがす一大事。それを解決するのですから褒美はそれを相応のものと決まっておりますれば」

 あまりに図々しく、あまりにバカバカしい物言いに、信綱は呆れた様子で最初を紺空を見ていたが、次は鼻で男を嘲った。

「馬鹿は山程みてきたがここまでの大馬鹿者は初めて見た。何を抜かすを思えば天下がほしいと? 気でもふれたか」

 そう言い放った時である。地下室の闇の中に突如、白い靄のようにボウっと人影が立った。それはあまりにも色が白く、象牙のようなぬめり家を帯びた裸体の女であった。女体は一糸まとわず、陰部の黒々とした茂みも、乳房の桃色とした先も隠すことなく、のそり、のそりと信綱の方へ歩み寄ってきた。

 思わぬ妖艶さに喉を鳴らした信綱。

 その時、突然、女は狂ったように信綱に駆け寄ると、黄金のしま模様の袴にすがりつき、白蛇のような腕を這わせ、いきなり信綱の陰部をむっしりと掴んだ。

「うっ」

 と思わず声を上げた天下の松平信綱。

 構わず女は黒髪を振り乱し信綱の袴の裾から手を入れ、ふんどしを一気にはぎとろうとした。

 そこは流石に天下の信綱、女の手が自らのそれに触れる前に女を蹴りつけた。しかし男の本能は信綱自身を大きくしている。

 蹴り飛ばされた女は地面に仰向けに倒れる。が、そのまま二度と動くことはなかった。

 ただ蹴り飛ばしただけだというのに、事切れていることに気づき、信綱は訝しく倒れた女体をみやった。

「忍法、腐乱合」

 闇の奥で彼はをすり合わせたような声とともに、1人の老人が現れ、ほくそ笑んでいた。腐呂斎であった。

 60歳になる初老の男は後ろで腕を組み、自らが忍法をかけた女のところへ近づいていくと、女の首元をポンと叩いた。すると今まで白く吸い付くような皮膚をしていた首が見ている間に腐乱して、首が動から離れたのだ。

 女の首を持ち上げ、初老の老人はこの世のものとは思えぬ笑みを浮かべ、信綱にこのからくりを説明した。

「この女人は死人でござるよ。墓から掘り起こした新鮮な女人の身体をつなぎ合わせ、1人の女人といたしたもの。死人はオラの言う通りに動くのでござる」

 誇らしげに初老の男は頭を下げたのだった。

「死人を操る。勘の良い信綱様であればお分かりとぞんずるが」

 不敵に紺空が笑うのだった。

「まさか、上様を……」

 信綱のこの問に紺空はただ不敵に微笑するばかりだった。


女人恋慕に続く

女人恋慕

 子の刻を過ぎた夜道は、提灯の火だけが頼りとなる。

 神田連雀町から張孔堂を出たお銀は、提灯を手に夜の江戸を歩いていた。白い肌と黒髪が夜の闇に溶け込みそうなほど、物音ひとつ立てない足運びである。根来で鍛えた忍びの歩法は、下駄の音すら殺していた。

 その時だった。

 尻に、ぬるりとした感触があった。

 着物の上からとはいえ、明らかに人の手のひらが尻をゆっくりと撫でている。お銀は素知らぬ顔で歩きながら、周囲の気配を探った。後ろには誰もいない。提灯の火が照らす範囲に人影はなく、軒先の影も、屋根の上も、何もない。

 だというのに、今度は着物の裾がゆっくりとたくし上げられていく感触がある。

 続いて白い内ももを這い上がるように、指が陰部へと伸びてくる。

「っ」

 お銀は声を殺して真上に跳んだ。根来仕込みの脚力で屋根の高さまで一気に跳びあがると、着物の裾を押さえながら路地に舞い降りた。提灯を下に向け、今まで自分が歩いていた場所を照らす。

 やはり誰もいない。

 だが次の瞬間、胴体に縄のようなものが素早く巻き付いた。

 引き寄せる力は強く、お銀の身体は夜の闇の中へ引きずられた。提灯が地面に転がり、火がちらつく。その橙色の明かりの中に、半袴の男が立っていた。

「剣夢」

 お銀は低く言った。

 男は血の気のない白い顔に、ニタリとした笑みを浮かべていた。腕がおかしかった。肘の節も、手首の節も、まるでないかのように、腕全体がうねうねと縄のごとく蛇行し、お銀の胴体を縛り上げていたのである。

「忍法四肢亀」

 得意げに剣夢は言い放った。

 関節が消えたかのごとく、自在に伸び縮みする四肢。亀が甲羅から四肢を出し入れするが如く、腕を自在に操るこの忍法で、お銀の後ろから手を伸ばし、着物の裾をいじっていたのである。

 縛られたままのお銀を引き寄せ、剣夢は無理やり唇を奪った。

 同時にミミズが這うような感覚が内ももをゆっくりと這い上がってくる。伸びた指先が、内ももを這い回っているのだ。

 お銀は静かに目を閉じた。

 次の瞬間、剣夢の唇に歯を立て、力いっぱい噛んだ。

「ぐっ」

 剣夢の顔が離れた。その刹那、お銀は額を剣夢の鼻先へ思い切りぶつけた。骨と骨がぶつかる鈍い音が夜道に響く。剣夢がのけぞり、四肢亀の腕が一瞬ゆるんだ。

 その隙を逃すお銀ではない。縄のような腕をするりと抜け、三間ほど距離を取った。

「下品な男はおなごに嫌われまする」

 そう静かに言い放ったお銀は、次の動作で誰もが予期せぬことをした。

 自ら着物の帯に手をかけ、するすると解き始めたのである。

 提灯の橙色に照らされ、白い肩があらわれ、乳房が夜気の中に露わになった。

 血の滲んだ唇をゆっくりと舐め、剣夢はにやりとした。

「自ら女体を差し出すとは、よい心がけじゃ。俺に惚れたか」

 言い終わる前だった。

 露わになった乳房の先から、白い液体が弧を描いて夜空に向かって放射された。

 剣夢の胴体に液体が触れた瞬間、彼は悲鳴を上げてのけぞった。焼けるような熱さが着物の上からでも皮膚を貫いてくる。

「忍法花しぶき」

 お銀は静かに呟いた。

 根来に伝わる忍法の中でも、女人にのみ伝授される秘術である。乳房に溜め込んだ毒液を、意のままに放射する。触れたものを焼き、溶かす。

 お銀は縮んだ剣夢の腕めがけ、再び乳房を絞った。白い液体が夜の闇を割り、剣夢の腕に命中した。

 ぼろり、と音がした。

 腕が溶けて落ちた。骨ごと、肉ごと、まるで腐った果物が落ちるように、剣夢の腕が地面にぐずりと崩れた。

 剣夢は獣のような苦悶の叫びを夜道に撒き散らした。四肢亀の残った腕を亀の頭のごとく伸ばし、お銀の身体へ向けて振りかぶった。

 拳がお銀の白い肩に触れた瞬間、剣夢は再び叫んだ。

 お銀の身体に垂れていた花しぶきの液体が、拳を焼いたのである。触れるものすべてを溶かす毒液は、お銀自身を鎧にしていた。

「おしまいじゃ、外道」

 お銀は乳房を両手で力いっぱい絞った。

 液体が四方へ飛び散り、頭からそれを浴びた剣夢は絶叫した。夜道に白い霧のように広がった液体が、剣夢の頭から肩、胸、腹を次々と焼いていく。男は膝をつき、それでも四肢を伸ばし暴れたが、もはや立つことも叶わず、じわじわと焼ける苦悶の叫びを最後に、夜の路地に倒れ伏した。

 お銀は静かに着物を纏い直した。帯を締め、乱れた黒髪を手で払う。倒れた剣夢を一瞥すると、何事もなかったかのように夜道を歩き始めた。足音はやはり、どこにもなかった。


 翌朝のことである。

 浅黒い顔の浪人と農民風の男が、野次馬をかき分けて路地に入り込んできた。雨倉半明と楽四郎である。

 路地の真ん中に転がっていたのは、全身に無数の穴が開き、焼けただれた男の死体だった。腕の片方は根元からなくなり、頭部は原形をとどめておらず、着物は溶け、皮膚が黒く爛れていた。

 半明は腰を落とし、死体の顔のあったあたりをしげしげと見やった。

「剣夢じゃ」

 楽四郎は腕を組み、苦い顔で言った。

「女にやられたか」

「先走りやがって」

 半明は短く言い、立ち上がった。

 路地に朝の光が差し込み、剣夢の焼けただれた身体を照らした。その周囲の石畳には白い液体が点々と残り、朝の光の中でぬらぬらと光っていた。

 楽四郎はそれを見て、静かに鼻を鳴らした。

「紺空に知らせるか」

 半明はただ何も言わず首を軽く縦に振った。

 二人は野次馬を押しのけ、朝の江戸の喧騒の中へ消えていった。

忍法:憶忘舌へ続く

忍法:憶忘舌

 夜の武家屋敷に、女の呻くような声が響いていた。

 子の刻だというのに、一部屋だけ障子から明かりが漏れている。廊下には気を失った侍たちが折り重なるように倒れ、蝋燭の火が風もないのに揺れていた。

 鍔隠れ衆がこの屋敷に忍び込んだのは、まだ日が天高く昇っていた頃のことである。

 それからずっと、隣の部屋から生臭い空気と女の喘ぎ声が絶えることなく漏れ続けていた。

 疲れ果てたような、まだ続いている。

 その隣の間では、蝋燭の明かりを囲んで三人の男が酒を飲んでいた。雨倉半明、楽四郎、腐呂斎である。何本目かの酒瓶が空になり、楽四郎は畳に放り投げると、隣の部屋へ向けて顔をしかめた。

「いい加減にしねぇか。いつまでおなごを突いてれば気が済む」

 呆れ果てた声である。半明もやれやれといった顔で盃を置き、腕を組んだ。腐呂斎だけはドジョウのような細い目をさらに細め、にやにやと笑うばかりだった。

 昼から今に至るまで、紺空はこの屋敷の武家の女を相手にし続けていた。

 やがて隣から声が消えた。

 しばらくして襖がゆっくりと開き、汗ばんだ裸身の紺空が満足げな顔でどかりとあぐらをかいた。濡れた黒髪を後ろへ掻き上げ、盃を手に取ると一息に飲み干した。

「次はお清を狙う」

 唐突に言った。

 半明は眉間に皺を寄せた。

「先刻のこともある。根来の女は一筋縄ではいかんぞ」

 剣夢が焼け死んだ夜のことを思えば、怖気づくのも無理はない。しかし紺空はニタリと笑い、空の酒瓶を指で弾いた。

「ワシら四人、鍔隠れでも悪鬼と音に聞く五人衆ではないか。二人で行けば、勘定しても元が取れる」

 断言する口ぶりに揺るぎはなかった。

 困り顔の半明はやれやれと立ち上がり、隣の間へ足を踏み入れた。

 薄い蝋燭の明かりが照らす布団の上に、汗で濡れた白い裸身の女が気を失って横たわっていた。起伏のある身体がまだ熱を持ち、ほんのりと湯気を立てているかのようだ。腿の内側には愛液が糸を引いて垂れていた。

 半明は着物を脱ぎ捨てた。黒々とした筋肉質の裸身をさらすと、女の腿に指先を這わせ、まだ垂れ続けているそれを掬い取り、己の腕へ、肩へ、胸へと丁寧に塗り込んでいく。

 忍法肉空の支度である。

 支度をじっと見ていた楽四郎は、やおら立ち上がると女のそばに膝をついた。気絶した女の顔へゆっくりと顔を近づけ、唇に口を重ねた。

 何かを吸い込むように、楽四郎の喉が静かに波打った。

 唾液が糸を引き、女の唇を離すと、楽四郎は満足げに立ち上がった。

「これで明日には何も覚えておらぬであろう」

『忍法憶忘舌』

 唇を重ね舌を絡めることで、相手の記憶を根こそぎ奪い取るこの忍法は、楽四郎が鍔隠れ谷より受け継いだ秘術である。紺空が女を抱いた後の後始末は、常にこの男の役目であった。女たちは翌朝には何も覚えず、着物をきちんと着せられ、なぜそこにいるのかも分からぬまま、ぼんやりとした顔で目を覚ますのである。


 翌日の夜のことだった。

 お清の武家屋敷。彼女の寝所は静まり返っていた。蝋燭の火は落とされ、闇の中に女の寝息だけが聞こえる。

 お清は寝入っていた。

 しかし根来で鍛えた忍びの眠りは浅い。枕元に人の気配が立ったのを感じた瞬間、目を開けるより先に、懐剣を引き抜き一閃した。

 刃は空を切った。

 柔らかい腕をむんずと乱暴な手が掴む。

 楽四郎であった。農民風の男は布団の上のお清を見下ろし、ニタリと笑った。

「おぬしであろう、将軍を亡き者にしようと策をめぐらせたのは」

 見抜いたのは自分だと言いたげな得意顔で、楽四郎はお清を布団から引き起こすと、そのまま唇に吸い付いた。

 憶忘舌。これで記憶を全て奪えば、俺たちの勝ちだ。そういう算段であった。

 背後の障子の裏では雨倉半明が待機していた。腰に刀を帯び、いつ声がかかってもいいように、静かに息を殺して立っている。

 楽四郎は舌を動かした。

 ところが思わぬことが起きた。

 お清が自ら舌を絡めてきたのである。

 これは美味とばかりに楽四郎は舌を波打たせた。根来の女はなかなかどうして、と心中でほくそ笑んだその時、楽四郎は何かに気づいた。

 口の中が、おかしい。

 後ろへ飛び退くと同時に、口の中へ指を突っ込んだ。

 舌がなかった。

 楽四郎の舌が、消えていた。

 背後の障子の裏で待機する半明に向け、闇の中からお清が口を開いた。

「後ろだ。後ろにお清がいるぞ」

 その声は、紛れもなく楽四郎の声であった。

『忍法声盗み』

 根来に伝わる女人秘術。舌ごと相手の声を奪い取り、己の口から自在に操る。楽四郎の憶忘舌を逆手に取り、お清は舌そのものを奪っていたのである。

 楽四郎は叫ぼうとした。違う、と声を上げようとした。しかし肝心の舌はなく、口から出るのは空気だけで、声にならない。

 障子が一閃で断ち切られた。

 半明の刀が闇を走り、楽四郎の胴体を真っ二つにした。血煙が上がり、障子が倒れ、楽四郎の身体が畳の上に崩れ落ちた。

 何が起こったのか分からなかった。

 半明は愕然として立ち尽くした。斬ったのは楽四郎のはずがなかった。確かに後ろからお清の声が、いや楽四郎の声でお清の名を叫んだのだ。なのに斬ってみれば楽四郎が真っ二つになって畳に倒れている。

 懐剣を逆手に構えたお清が闇の中に立っていた。その口が静かに動き、何かを吐き捨てた。

 畳の上に、ぬるりと赤黒いものが転がった。

 血まみれの舌だった。楽四郎の舌であった。

 半明は冷や汗が全身を伝うのを感じた。

 何が起こった。忍法か。

 心中でそう呟いた瞬間、半明の身体は動いていた。考えるより先に、夜の闇へ向けて飛び退き、屋根へと身を躍らせていた。

 振り返る余裕もなかった。ただ夜の江戸の屋根を、音もなく走り続けた。背後には気配もなく追手もない。しかし半明の背中を、見えない何かが追いかけているような、不気味な恐ろしさがいつまでも消えなかった。

忍法:肉穴じめ へ続く
 

忍法:肉じめ

 夕暮れの光が張孔堂の奥の間に差し込み、畳を赤く染めていた。

 由比正雪の前に三人の女が正座していた。お清、お銀、おみねである。武家の娘として凛とした風貌を持ちながら、その白い肌からはどこからともなく甘い香りが漂い、夕暮れの赤い光の中でそれぞれが妖艶な花のように咲いていた。

 だが正雪の眼に、今その美しさを愛でる余裕はなかった。

 扇子を畳に叩きつけんばかりに膝の上で握り、正雪は三人を見据えていた。眼の奥にあるのは苛立ちであり、しかしどこか女たちに頼り縋るような、複雑な光でもあった。

 計画はまだ途中だった。将軍家への謀反をいますぐにでも起こしたいのに、忍法争いに巻き込まれたまま動けずにいる。地団駄を踏みたいほどの焦りが、この男の腹の底で煮えたぎっていた。

「まだ終わらんのか」

 低く、苛立ちをおびた鋭い声だった。

 女たちはその言葉の意味を十分に承知していた。剣夢は花しぶきで焼かれ、楽四郎は憶忘舌を逆手に取られ仲間の刀で両断された。二人の悪鬼を地獄へ落としたのは事実である。

 お清は背筋を伸ばしたまま、凛然と口を開いた。

「あと鼠は三匹。すぐにでも潰せまする」

「ならば早くせよ。人には有限の時間しかないのだぞ」

 怒りを露わにした正雪の顔を、おみねがふと見て、クスリと笑った。

「何がおかしい」

 怒気を含んだ正雪の声に、今度はお銀が意味ありげに微笑んだ。

「おなごの心は正雪様でもはかり知れませぬか」

 なんのことだ、と正雪が思った瞬間だった。

 夕暮れの赤い光が一気に部屋へ流れ込み、畳の上に長い人影が伸びた。

 正雪が腰の刀に手をかける。女たちも瞬時に動いた。お清が懐剣を、お銀が手裏剣を、おみねがまきびしを、それぞれ音もなく構えた。

 そこに雨倉半明が一人、刀を抜き払い仁王立ちしていた。

 夕日が裸身に近い浪人の黒々とした身体を照らし、黒々とした炎に縁どられた眼には取り憑かれたような光があった。楽四郎を失い、剣夢を失い、この男の中で何かが断ち切れたのかもしれなかった。

「くだらぬ約定など、もはや無用。ここで忍法勝負は終わりにする」

 言い終わるより先に、半明は床を蹴った。

 一瞬で間合いを詰め、由比正雪の首めがけて白刃を一閃する。正雪が刀を抜こうとしたが、間に合わない。

 刃を止めたのはお清の懐剣だった。

 金属のぶつかる音が奥の間に響き、弾かれた刀が畳をかすめた。正雪は後ろへ飛びのき、首に濡れた感覚を覚えた。手を当てると指先が赤く染まる。皮一枚、確かに切れていた。

 正雪の顔から血の気が引いた。

 弟子たちを呼ぼうと声を上げかけたが、丸橋も金井も今日に限って出かけており、屋敷には正雪と三人の根来女たちだけである。

 半明は刀を引くと、今度は女たちに次々と斬りかかった。闇雲に見えてその刀さばきは正確だった。鍔隠れでも随一と謳われる剣の使い手は、一振りごとに確かな狙いを持って白刃を振るう。

 お清が懐剣で受け、押された。

 横からお銀が手裏剣を投げつけるが、半明は刀で軽々と払った。

 お銀は一瞬、眼を細めた。着物の帯に手をかけた。

 するすると着物が落ち、白い裸身が夕暮れの赤い光に晒された。乳房を露わにしたお銀は般若の形相で半明を睨みつけ、力を込めた。

『忍法花しぶき』

 白い液体が霧状になって半明を包んだ。

 が、半明の身体がぐらりと揺れたかと思うと、まるで蛇が皮を脱ぐように白い膜が剥がれ落ちた。忍法肉空。愛液で作った抜け殻を脱ぎ捨て、花しぶきの霧をやり過ごしたのである。

 霧を抜けた半明の白刃が、まっすぐにお銀めがけて振り下ろされた。

 乳房を露わにしたまま般若の形相のお銀に、刃が一直線に走る。

 血しぶきが上がった。

 お銀の身体が縦に両断され、夕日の赤い光の中に崩れ落ちた。白い裸身が畳に倒れ、赤黒い血が広がっていく。

「お銀」

 お清が悲鳴を上げた。懐剣を構えたまま、その声には初めて動揺が滲んでいた。

 おみねがまきびしを握り、投げつけた。しかし裸身の半明は刀でそれを軽々と弾き、今度は由比正雪へと向き直った。

 正雪は動けなかった。首の傷から血が垂れ、刀を構えているものの、この男を相手に太刀打ちできないことは分かっていた。まさしく鬼人と化した半明が間合いを詰めていく。

「おみね。何をしておる。恥など捨てよ」

 お清が鋭く叫んだ。

 おみねは一瞬、躊躇するように眼を伏せた。色白の頬がわずかに赤らんだ。次の瞬間、おみねは着物の裾をたくし上げた。下半身があらわになる。

 おみねは床を蹴り、真上へ跳んだ。

 由比正雪へ向かう半明の、真上から降ってきた。

 何が起きるのか分からぬまま半明が見上げた瞬間、おみねの尻が半明の頭上に迫った。

 尻の割れ目から肉のひだがぶわりと広がり、半明の頭を包み込んだ。

 ぐぷりと濡れた音がして、半明の頭が尻の奥へとすっぽりと飲み込まれた。首まで埋まった男の身体が、宙でぶら下がる。壮絶にして奇妙な光景が、夕暮れの赤い光の中に出現した。

 おみねは力を込めた。

 ボキリ。

 鈍い音が部屋に響いた。

 半明の身体が膝から崩れ落ちた。おみねは静かに着地し、尻から半明の頭を抜くと、恥ずかしげに裾を直した。

「忍法、肉じめ」

 お清が静かに呟いた。

 忍法肉空で白刃を無効にした男を、その身体ごと締め殺す。お銀の花しぶきで半明の肉空を使わせ、抜け殻のない裸の状態にしておみねが仕留める。二人の忍法が連なった結果であった。

 夕日に照らされた畳の上に、雨倉半明は壮絶な形相で倒れていた。首は折れ、裸身には傷ひとつなく、ただ死んでいた。

 お清は倒れたお銀のそばに膝をついた。返事はなかった。

 由比正雪は壁に背を預け、首の傷を押さえたまま、畳に広がる血と、三人のうち一人が倒れたその光景を、言葉もなく見つめていた。

 夕暮れの赤い光が、闇に飲み込まれていった。

おなごなぶり へ続く

おなごなぶり

 病床の家光の呼吸は浅く、乱れていた。

 蝋燭の明かりが揺れるたびに、その青白い顔が闇に沈んでは浮かび上がる。さらしで硬く巻かれた下半身から、じわりと滲む汗の臭いと薬の臭いが混じり合い、部屋の空気は重く澱んでいた。

 松平信綱は夜通し、家光の枕元に座り続けていた。

 五十五年の生涯で、これほど無力を感じたことはなかった。天下の老中として幕府を動かしてきた男が、今は何もできない。ただ目の前で風前の灯火となった命を、見守ることしかできないのである。

 家光は信綱にとって主君であった。しかしそれだけではなかった。春日局に育てられた病弱な将軍を、信綱は幼い頃から支え続けてきた。親と思ってきたふしがある、と言えば語弊があるかもしれない。しかし息子同然に、自らの夢を託してきた人物が、今こうして毒に蝕まれ死の淵に立っている。

 その痛みは怒りに変わり、怒りは憤怒となって信綱の腹の底で煮えたぎっていた。

 気配もなく、人影が現れた。

 信綱は一瞬、身を固めた。しかしすぐに誰であるかを察し、視線を家光から動かさぬまま口を開いた。

「下手人はまだ始末できぬのか」

 百々地六兵衛であった。紺碧の着物に浅黒い顔をした小男は、蝋燭の明かりにも影を作らぬように、静かに信綱の傍らに立った。

「今、江戸で評判の由比正雪が下手人と調べはつきましてございます」

 忍者らしい冷静な声だった。

 信綱は立ち上がった。病床の家光を踏み越えんばかりの勢いで六兵衛に向き直り、声を抑えながらも怒りを滲ませた。

「ならばすぐにここへ連れてまいれ。八つ裂きにしても足りぬ」

 怒りは収まるどころか、言葉にすることで油が注がれたように燃え上がった。しかし六兵衛は眉ひとつ動かさず、細い眼をさらに細めた。

「もうしばらくお待ちくださいませ。計略は順調に進んでおりますれば」

 それだけ言うと、六兵衛は蝋燭の明かりが届かぬ闇へと溶けるように消えた。

 信綱は拳を握ったまま、再び家光の枕元に座った。浅い呼吸が続いている。まだ生きている。それだけが今の信綱の拠り所だった。


 その頃、江戸の町外れにある武家屋敷の一室から、女の喘ぎ声が漏れていた。

 肉がぶつかる音が規則的に続き、その合間に男の憤慨した声が荒々しく響いていた。

「何故じゃ。なぜ半明は一人で行ったのだ。ワシら総出でかかれば、造作もないことであったのに」

 紺空であった。

 着物の裾をはだけ、武家の女を組み敷いたまま、腰を動かしながら憤慨するという、この男にしかできない所業を続けていた。女の白い身体は汗で濡れ光り、もはや叫ぶ力も残っていないのか、喘ぎともうめきともつかぬ声をくぐもらせるばかりである。

 紺空は乳房をわしづかみにし、容赦なく腰を打ちつけた。武家の女の柔らかな身体は、他の女とは違う。育ちの良さが肌に出る。その感触は癖になる。

 部屋の隅では腐呂斎が座り、腐乱した肉の塊をこねくり回していた。

 蝋燭の明かりが照らす老人の顔は、どこか恍惚としていた。この男は死体にしか興味を持たなかった。目の前で繰り広げられる妖艶な、それでいて女にとっては地獄のような行為には、まったく眼を向けようとしない。腐った肉の感触を指先で確かめながら、ただにやにやと笑っているばかりであった。

「じい様、ワシとおぬしだけになった」

 紺空は腰を動かしながら言った。抜こうとはしない。女の中に居なければ落ち着かぬ性分が、憤慨しながらも腰を止めさせなかった。

「今宵で終わらせるぞ」

 腐呂斎はにやにやと笑いながら、顎を引くように頷いた。

 紺空は女の身体を乱暴に突き続けた。剣夢が死に、楽四郎が死に、半明が死んだ。五人衆のうち三人が根来の女たちに殺された。それでも男の腹の底に湧くのは怒りよりも先に、闘志と、奇妙な興奮であった。

 残ったのは腐呂斎とワシだけ。

 ならば二人で仕留めればいい。それだけのことだ。

 もうひとつ、紺空が心中でひっかかっていたことがあった。

 楽四郎がいない。つまり、もう女の記憶を奪うことができない。

 翌朝になれば、武家の女はすべてを覚えている。なぶられたことも、快楽に溺れたことも、男の顔も、何もかも。それは紺空にとって都合が悪い話だった。しかし紺空は不憫とは思わなかった。女の身体はその場限りの欲望のはけ口であり、それ以上でも以下でもない。後のことなど、考える気にもならなかった。

 紺空はひとつ深く腰を打ちつけると、女から身体を引いた。

 女は布団の上に放り出されたように横たわり、白い裸身が蝋燭の明かりに照らされていた。波打つ胸だけが、まだ生きている証だった。

 紺空は素早く着物を着直した。帯を締め、懐に女の髪を一束突っ込んだ。忍法の支度である。

「行くぞ、じい様」

 腐呂斎は腐乱した肉をぼろ布に包んで懐に入れ、よっこらせと立ち上がった。

 二人は音もなく武家屋敷を抜け出た。廊下に倒れた侍たちを跨ぎ、縁側から庭へ降り、塀を音もなく越えた。

 夜の江戸に月明かりが白く降りていた。

 目指すは神田連雀町、由比正雪の屋敷である。

 紺空は月を見上げた。綺麗な月が天から見下ろしていた。

 横を歩く腐呂斎は相変わらずにやにやとしていた。この老人が何を考えているのか、長い付き合いの紺空にも、いまだに半分も分からなかった。

 月明かりの中に二つの影が伸び、夜の路地へ消えていった。

 武家屋敷の一室では、蝋燭の火が揺れ、白い裸身が同じ月明かりに照らされていた。女の身体と夜の月が、どちらも同じ色に光っていた。

忍法合戦へ続く

忍法合戦

 月明かりが由比正雪の屋敷を白く照らしていた。

 門のあたりには数人の門弟が腕組みをして立ち、縁側にも二人、庭の要所にも人影がある。数日前の壮絶な忍法試合を目の当たりにした正雪は、それ以来、自らに心酔する門弟たちを護衛として屋敷に配置していた。宝蔵院流の槍を使う丸橋忠弥の姿もあった。

 屋敷の奥の自室で、由比正雪は孫子の軍学書を読んでいた。

 蝋燭の明かりが文字を照らし、正雪の眼がゆっくりと行を追う。この時に至ってもなお、この男の頭の中は謀反のことで占められていた。幕府転覆への最短の道を、軍学書の中に探し求めていた。忍法争いに足を取られ、計画が滞っているこの状況を、どう打開するか。それだけを考えていた。

 障子が静かに開いた。

 おみねであった。盆に茶を載せ、静かに正座すると、正雪の傍らに茶碗を置いた。

「すまぬ」

 正雪は軍学書から眼を離さぬまま、茶をすすった。

 おみねはしかし、立ち上がろうとしなかった。正雪はそれに気づきながらも、眼を書に向けたままでいた。

 数日前の忍法試合以来、正雪はおみねに対してよそよそしかった。根来の女たちの忍法の恐ろしさは分かっていたつもりだった。お清の蜜毒の壺も、お銀の花しぶきも、覚悟の上で傍に置いてきた。しかしおみねの忍法だけは、正雪の想像の遥か外にあった。あの夜、半明の頭が尻の中へ飲み込まれ、ボキリという音と共に男が膝から崩れ落ちた光景は、いまだに正雪の眼の裏に焼き付いていた。

「正雪様」

 おみねが唐突に言った。

 正雪は軍学書から眼を上げた。

 おみねは身体を正雪へ寄せ、白い肩が触れるほどの距離に座っていた。甘い香りが正雪の鼻先を打った。

「抱いてくださいまし」

 何を言い出すか、と正雪は思った。しかし甘い香りと白い肌が眼の前にあり、思わず正雪の手がおみねの肩へと伸びかけた。

 その手を、正雪は自らの意志で止めた。

 おみねの身体を突き放す。

「やめぬか。大望の前に何をぬかしておる」

 声は鋭かった。しかし喉が上下した。おみねのくねる身体から眼を逸らし、軍学書に視線を戻す。

「おみねの、おみねの尻を――」

 おみねが言いかけた、その時だった。

 屋敷の外から怒号が響いた。

「曲者じゃ。斬り捨てよ」

 正雪は立ち上がった。おみねも素早く身を起こし、二人は廊下へ出ると縁側の障子を勢いよく開けた。

 月明かりの庭に、複数の人影があった。

 門弟たちはすでに抜刀し、人影へと斬りかかっていた。白刃が月光を受けて煌めき、確かに人影の腕へと食い込んだ。しかし手ごたえがなかった。斬りかかった門弟の侍は訝しく眼を細めた。

 腕がぼろりともげた。

 切断された腕が音もなく庭の土に落ちた。もがれた人影は声を上げない。痛みに顔を歪めることもなく、ただ無言のまま立っている。

 次の瞬間、まるで蟻が砂糖に群がるように、人影たちは斬りかかった門弟へ殺到した。押し倒された侍が悲鳴を上げた。人影に嚙みつかれ、肉を食いちぎられたのである。

 他の門弟たちが慌てて駆け寄り、侍に群がる人影に斬りかかった。しかしやはり手ごたえがない。腕が落ち、肩が削げ、それでも人影は痛みを感じる様子もなく、無言で侍の肉へと顔を埋めていく。

 月明かりが人影の顔を照らした。

 血の気がなかった。皮膚は腐敗し、眼は虚ろに開いたまま、動くはずのない、生きているはずのない顔だった。

「死人じゃ」

 誰かが叫んだ。声にならない悲鳴が上がり、門弟たちは我先にと逃げ出した。丸橋忠弥でさえ、宝蔵院流の槍を構えたまま後退した。死者に槍を突いたところで、何の意味もない。

 その時、女の悲鳴が夜気を裂いた。

 おみねの首筋に白刃が突きつけられていた。

 いつの間に縁側まで上がり込んでいたのか、おみねの背後に男が立ち、片腕で身体を拘束していた。紺空であった。紺碧の着流しに、にやにやとした笑みを浮かべたまま、白刃をおみねの白い首筋に押し当てている。細い血の筋が一本、白い肌を伝って落ちた。

「正雪、今宵が決着じゃ」

 静かな声だった。怒気もなく、興奮もなく、ただ淡々としていた。それがかえって凄みを持っていた。

 正雪は刀の柄に手をかけながら、じりと一歩前へ出た。

「待て。おみねを見逃してくれ」

 両腕を広げ、なだめるように言う。しかし眼は油断なく紺空を見据えていた。

 紺空は正雪の顔から視線をゆっくりとおみねへ移した。拘束された白い顔が、怒りと羞恥で赤く染まっている。

「おぬしを抱くのが楽しみじゃ。ワシはお前のような尻の大きなおなごが好きでな」

 言い終わった瞬間、背後から轟音の如き声が響いた。

「おのれ、無礼者めがあっ」

 丸橋忠弥であった。逃げ出しかけていた大男が踵を返し、宝蔵院流の長槍を大上段に構え、地を踏み砕かんばかりの勢いで縁側へ走り込んできた。続いて数人の門弟が大太刀を振り上げ、雪崩れ込んでくる。

 さすがの紺空もおみねを抱えたまま逃げることはできなかった。舌打ちをすると、おみねを突き放し、庭へ跳んだ。

 刹那、空気を切る音がした。

 手裏剣が二枚、紺空の頬をかすめて飛んだ。

 お清であった。騒ぎを聞きつけ、道場の方から駆け付けたのだ。懐剣を逆手に構え、根来忍者の足運びで縁側に駆け上がってきた。

 庭に降り立った紺空は、お清の顔を見た刹那、にやりと笑った。

 その眼の奥に、欲の光が宿った。

 お清は背筋に冷たいものが走るのを感じた。この男の笑みを見るたびに、本能が警告を発する。しかし今は自分に意識が集中している、その隙をとばかりに、おみねへ向けて叫んだ。

「おみね」

 おみねは動いた。

 着物の裾をまくりながら、まるで地を蹴飛ばすように、空中へ舞い上がった。月明かりの中に白い下半身が露わになり、巨大な尻が夜空に向けて突き出された。肉のひだがぶわりと広がる。

 その瞬間だった。

 紺空の腕から黒いものが伸びた。

 蛇のようにうねり、空中のおみねの身体へと巻き付いた。女の髪の毛を束ねて作った黒い縄が、おみねの胴体をきつく締め付けた。男の力が一気に加わり、空中のおみねの身体は容赦なく地上へと叩きつけられた。

 鈍い音がして、おみねが庭の土に崩れ落ちた。

 黒い縄には、次の瞬間、炎が宿った。

 紺空の指先から発した小さな灯火が、油を含んだ縄を伝い、瞬く間に燃え上がった。忍法風閃灯。炎はおみねの着物へと燃え移り、白い身体を包み始めた。

「おみね」

 お清が駆け寄ろうとした。

 しかし庭には腐呂斎が操る死人の群れが、おみねの周囲を無言で取り囲んでいた。腐敗した身体を持つ人の壁が、炎が燃え広がるおみねへの道を塞いでいた。門弟たちも駆け寄ろうとして、死人の群れに阻まれた。

 炎は瞬く間におみねの身体を包んだ。

 悲鳴が夜空に響いた。

 おみねの声だった。根来の忍びとして鍛えられたこの女が、生まれて初めて上げた恐怖の叫びが、月明かりの夜空に高く、長く、響き渡っていった。

 お清は死人の壁の前で立ち尽くした。懐剣を握る手が震えていた。眼の前に炎があり、その中におみねがいた。

 紺空はその光景を、庭の真ん中に仁王立ちになって眺めていた。笑みは消えていた。ただ静かに、燃えるおみねを見ていた。

 月明かりと炎が混じり合い、夜の屋敷を赤と白に染めた。

忍法合戦2へ続く

忍法合戦2

 炎がおみねの身体を包んでいた。

 悲鳴はすでに止まっていた。

 お清は死人の壁の前に立ち、燃えるおみねを見ていた。懐剣を握る手は震えていた。眼の奥に映る炎が、揺れるたびに大きくなっていくように見えた。

 紺空は庭の真ん中に仁王立ちのまま、腕を組んでいた。にやにやとした笑みが、炎の明かりに照らされた浅黒い顔に浮かんでいる。腐呂斎が操る死人の群れが、おみねの周囲を無言で囲み続けていた。炎が死人たちの腐敗した顔を照らしても、その虚ろな眼には何も映っていなかった。

 お清は懐剣を握ったまま、動かなかった。

 動けなかったのではない。

 考えていたのだ。

 やがてお清の手から、懐剣が音もなく廊下に落ちた。

 横に立っていた由比正雪が、その音に眼を向けた。

 お清は着物の帯に手をかけていた。

「何を」

 正雪が声を上げた。しかしお清の手は止まらなかった。帯がするりと解け、着物が白い肩から滑り落ちた。

 一糸まとわぬ裸体が、炎の明かりと月明かりの中に晒された。

 なまめかしかった。炎の赤と月の白が混じった光の中で、お清の白い肌が濡れたように光った。乳房は濡れていた。先端が尖り、液体が滲んでいた。蜜毒の壺の忍法が、すでに発動していた。

 お清は廊下に横たわった。

 膝を立て、足を開いた。白く光る腿の奥に、濡れ光る液体が見えた。

 月明かりがその身体を照らした。

 正雪は言葉を失い、門弟たちも息を呑んだ。丸橋忠弥でさえ、槍を持つ手が止まった。

 庭の紺空だけが、眼を細めた。

 すぐに理解していた。この女が何をしようとしているのかを。この女が何者であるかを。

 だからこそ、紺空は笑った。

 衣服を脱ぎ捨てた。紺碧の着流しが庭の土に落ち、裸身が炎の明かりに晒された。黒々とした筋肉質の身体の中心で、すでに固くそそり立ったものが月明かりに露わになった。

 紺空は一つ飛びに廊下へ上がった。

 廊下に横たわるお清の上に、音もなく覆いかぶさる。お清の白い顔が紺空を見上げていた。恥じらいの色が頬に滲み、しかし眼の奥には揺るぎない光があった。

 紺空はニタリとした。

 お清の唇に吸い付いた。

 腰に力を込めた。

 強引な乱入に、お清は痛みに顔を歪めた。しかしその足は紺空の腰に絡みつき、離さなかった。紺空の腰が動き始めると、白い乳房が揺れた。上下する動きは速く、廊下に二人の息の音だけが響いた。

 正雪は眼を逸らした。

 門弟たちも顔を背けた。しかし誰も動かなかった。動けなかった。庭には死人の群れがいた。そしてこの二人の間で何かが起きようとしているのを、その場の誰もが本能で感じ取っていた。

 異変が起きたのは、それから間もなくのことだった。

 紺空の動きが、止まった。

 息苦しさが喉を締め付けてきた。そればかりではない。お清の中に入った自分自身が、じわりと熱くなり、針で刺すような痛みが走った。

 抜こうとした。

 お清の足が、腰に絡みついたまま、離さなかった。

「一倍濃い毒じゃ。外道」

 お清がニタリと笑った。

 蜜毒の壺。大奥で家光を死の淵へ追いやったあの忍法を、この女は今一度、この男のために用意していた。しかも一倍濃い毒で。

 紺空は苦い顔をした。

 しかし次の瞬間、その表情が変わった。

 両腕をお清の白いほっそりとした首に当てた。絞めるというよりも、骨を折ろうとする、静かな、しかし確かな力が込められていた。

 毒が身体に回るのが分かった。

 足先から痺れが上がってくる。呼吸が浅くなる。腹の底に熱い塊が生まれ、それが全身へと広がっていく。それでも紺空は腕に力を込め続けた。

 お清の白い顔が赤くなった。

 細い首に紺空の両手が食い込み、お清の眼が潤んだ。しかし足の力は緩まなかった。腰への絡みつきは最後まで解けなかった。

 乳房の上下が次第にゆっくりになった。

 やがて、止まった。

 お清の足から力が抜けた。白い腕が廊下に落ち、乱れた黒髪が広がった。炎の明かりと月明かりが、息絶えたお清の顔を静かに照らしていた。

 紺空は身体が自由になったのを感じた。

 しかし腰を引くことができなかった。

 毒は即効性が高かった。足先の痺れはすでに腹まで達し、呼吸が荒くなり、荒くなったそれが次第にゆっくりになっていくのが、自分でも分かった。腕の力が抜けた。首から手が落ちた。

 紺空はお清の白い裸身の上に、ゆっくりと倒れ込んだ。

 荒い息が、一つ、二つ、三つ。

 やがて静かになった。

 下半身は繋がったままだった。

 廊下に二つの裸体が重なり合い、動かなくなった。月明かりがその上に白く降り注いだ。炎の光が揺れ、二人の身体に影を作っては消した。

 由比正雪は言葉がなかった。

 門弟たちも、その場から動くことができなかった。丸橋忠弥でさえ、槍を持ったまま立ち尽くしていた。

 庭に広がった沈黙の中、死人の群れだけが無言のまま、虚ろな眼で立ち続けていた。

 その時、丸橋の眼が屋根の上を捉えた。

 月明かりの中に、動く影があった。

 屋根の上で何かが蠢いていた。人の形をしているが、動き方がおかしかった。まるで糸で操られているような、不自然な動きで屋根を這い回っていた。

「おのれ」

 丸橋忠弥は地を蹴った。

 宝蔵院流の槍を大上段に構え、助走をつけ、全力で投げた。

 長い穂先が月明かりを裂いて飛んだ。

 鈍い音がした。

 黒い影を貫いた槍は、その影と一緒に屋根から転がり落ちてきた。

 ドサリと庭に落ちた。

 土煙が上がり、月明かりが照らした。

 槍に貫かれていたのは、腐呂斎の死骸だった。

 農民風の着物をまとった初老の老人の身体は、すでに事切れていた。いつ死んだのか、庭に落ちた骸には、丸橋の槍が深々と刺さっていた。

 その瞬間だった。

 糸が切れたように、庭の死人の群れが一斉に崩れ落ちた。

 腕のない者も、肩が削げた者も、腐敗した顔の者も、一人残らず、その場に倒れ伏した。操り主を失った骸たちは、もはやただの死体だった。

 夜の静寂が戻ってきた。

 炎はすでに小さくなっていた。おみねの身体が燃え尽き、庭の土を黒く焦がしていた。

 由比正雪はゆっくりと廊下に眼を向けた。

 重なり合った二つの裸体が、月明かりの中に白く横たわっていた。紺空の黒い身体と、お清の白い身体が、下半身を繋いだまま、もう動かなかった。

 長い沈黙があった。

 正雪はやがて眼を閉じた。

 悪夢は終わった。

あぶり出しの策へ続く

あぶり出しの策
 
 江戸城の夜は深かった。

 廊下に控える侍女たちも、薬師も、みな押し黙ったまま、ただ息を殺して座っていた。蝋燭の火が揺れるたびに、その顔に落ちる影が深くなる。誰もが同じものを待っていた。しかし誰もそれを口にしなかった。

 松平信綱は家光の枕元に座り、難しい顔をしていた。

 家光の呼吸は浅く、乱れ、一つ一つが途切れそうなほど細かった。さらしで巻かれた下半身はもはや薬師も手を施さなくなって久しい。毒は全身に回りきっていた。青白い顔はさらに蒼く、唇の色は失われ、ただ胸だけが微かに上下していた。

 信綱は動かなかった。

 怒りはもうなかった。下手人への憤怒も、幕府への憂慮も、この部屋の中では静かに沈んでいた。今の信綱の胸の内は、静かな湖面のようだった。波一つない、しかし深く、底の知れない静けさだった。

 目の前に居るのは主君だった。しかし信綱にとってそれだけではなかった。幼い頃から支え続けてきた。春日局と共に、この色白で病弱な子供が征夷大将軍になる日のために、全てを賭けてきた。師であり、息子のようでもあり、自らの夢を乗せた船でもあった。

 その船が、今、静かに沈もうとしていた。

 信綱はただそれを、見守ることしかできなかった。

 音もなく、影が動いた。

 部屋の隅の闇の中に、一つの塊がある。それが人の形をしているのに気づいたのは、片膝をついて屈んだ瞬間だった。信綱は思わず身を固めた。しかし次の瞬間には、誰であるかを理解していた。

 百々地六兵衛であった。

 浅黒い顔が蝋燭の明かりに薄っすらと浮かび上がり、細い眼が家光の顔を一瞥してから、信綱へと向いた。頭は下げたままだった。将軍の寝所に忍び込むこの男を、今の信綱は咎める気にもならなかった。

「あぶり出しの策、おわりにござりまする」

 六兵衛の声は低く、静かだった。起伏がなかった。感情というものが、この男の声からは削ぎ落とされていた。

 信綱は眉間に皺を寄せた。

「あぶり出し、とは」

「鍔隠れ五人衆と、下手人たる由比正雪が使いの根来の女どもをぶつけ、潰しあわせました」

 六兵衛は顔を上げなかった。畳に向けたまま、ただ事実だけを並べた。

「由比正雪は江戸で乱を起こそうと策を練っておりました。動き出しまする。必ず。その火の手が上がる前に、火種のうちに動き出す由比正雪を潰す。将軍家は盤石になりまする」

 信綱は黙って聞いていた。

 言葉の意味は分かった。しかし言葉の奥にあるものが、じわりと染み込んでくるまでに、少し時間がかかった。

 鍔隠れの五人衆。根来の女たち。由比正雪。それらが互いに潰しあうように仕向けた。将軍を毒で倒した下手人を炙り出すために、別の忍びをぶつけた。炙り出しの策とはそういうことだった。

 信綱の背中に、冷たいものが走った。

 六兵衛の頭は下がったままだった。その顔は見えない。しかしこの男の頭の中で、全ての出来事が最初から駒として動かされていたのだと、信綱は今初めて理解した。

 鍔隠れの五人衆も駒だった。根来の女たちも駒だった。由比正雪も駒だった。信綱自身も、もしかすれば。

 将軍家さえも。

 この浅黒い小男の細い眼の中で、全てが動かされていたのかもしれない。

 信綱は何も言わなかった。問いただす気にもなれなかった。問いただしたところで、この男が答えるとも思えなかった。

 ただ背中の冷たさだけが、いつまでも消えなかった。

「ご苦労であった」

 信綱はそれだけ言った。

 六兵衛は頭を下げたまま、音もなく闇に溶けた。気配が消えた。蝋燭の火が揺れた。部屋の隅には最初から何もなかったかのように、ただ闇だけがあった。

 信綱は再び家光へと眼を向けた。

 胸の上下が、さらに小さくなっていた。

 蝋燭の火が、静かに揺れていた。


 慶安四年、四月二十日。

 徳川家光、崩御。

 享年四十八。三代将軍として二十年余り、この国の礎を築いた男は、静かにその生涯を終えた。枕元には松平信綱が座っていた。最後まで、一人で座っていた。

 家光が眼を閉じた時、信綱は声を上げなかった。泣かなかった。ただ深く頭を下げ、額を畳につけたまま、長い間、動かなかった。


 同年七月二十六日。

 由比正雪は駿府の旅籠において、幕府の役人に包囲された。

 謀反の計画は露見していた。江戸と京で同時に大火を起こし、混乱の内に幕府を転覆させるという壮大な野望は、火の手が上がる前に潰されたのである。

 丸橋忠弥は江戸で捕縛され、斬首となった。金井半兵衛は逃亡の途中で捕らえられた。張孔堂の門弟たちは散り散りになった。

 由比正雪は包囲された旅籠の中で、一人、刀を手に取った。

 最後まで軍学書を読んでいたという。孫子の一節を口の中で繰り返しながら、この国の歴史を作り直すという夢を、胸の奥に抱いたまま、自ら腹へ刃を当てた。

 慶安の変は未遂に終わった。

『江戸の忍法録』 完

江戸の忍法録

江戸の忍法録

【あらすじ】 慶安4年(1651年)の春先の事。 大奥にて1つの悲鳴が響いた。 三代将軍徳川家光が股間を大きく痛め、泡を噴き倒れたのである。 家光をこのようにしたと思われる、新しい大奥の女、お清は逃走してしまう。股間から毒を受けた家光はその日から病床につくことになる。 老中たちは次の将軍の話、政の会議に入った。それと同時に大目付柳生但馬守は、お庭番の百々地六兵衛に犯人の確保を命令する。 六兵衛には心当たりがあった。江戸にたむろする伊賀の隠里、『鍔隠れの谷』より江戸へ上洛して以来、風来坊としてくらしていた忍びの徒党。 そやつらの仕業と睨んで六兵衛は城下町へ向かうのだった。

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2026-05-27

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