第二章 三つ星 前編
ミュウは山賊たちを退けた騎士たちを差し置いて、村長の家の中でよく冷えた水を三杯飲んだ。
ことんと彼が杯を置く頃になっても、キリエと呼ばれていた騎士とアイは外で何やら話し合っている。ミュウはそこに入っていく気にはなれなかった。自分を知らない名前で呼ぶ者と、知らない名前を本当の名前だと言うアイの間には。
「ティレアさま」
消え入るような声で、澄んだ夜色の髪の少女は椅子に身体を力なく預けるミュウに話しかけた。ミュウは苛立たしげに、しかしやはり力なく彼女を見上げる。
「僕、そんな名前じゃない」
「……いいえ、ティレアさま。あなたはティレアさまです。覚えていないだけで、あなたは……」
「あなたは、僕の何なの」
「私はルルスス。あなたの守護者です」
「……意味が分からないよ」
「ティレアさま。あなたは……」
ルルススは小さく俯くと、ふっと息を吸い、顔を上げ再びミュウを見つめた。その瞳はまっすぐで、ミュウは目をそらすことを忘れてしまった。炎色に、煌めく瞳。
「あなたは、ユスティーア王国第一王子。本来であれば正統な王位継承者なのです」
そのとき、ぱちん、と弾けるように、ミュウの頭の中で音がした。
いつも見る夢だ。
いつも見て、いつも忘れる夢。
白亜の城を背に、走るアイに抱かれて遠くへ行く夢。そうだ、確かに自分は───
「う、うう……」
「ティレアさま……!」
音と同時に脳裏に流れ出す映像に苦しげに頭を抱えるミュウ……否、ティレアを見て、ルルススは絞り出すような嗚咽を上げた。
「……ぼ、く……そうだ、弟と妹が、いて……」
「……! はい! そのふたりの名前は……」
「知ってる。思い出した、なんで忘れてたんだろう。……アルシェラと、レライエ。僕たち、同じ日同じ時間に、生まれたんじゃないか」
「ええ、あなたの片方の瞳と同じ紫水晶色の瞳の、あなたの弟君と妹君です」
目を見開くティレアを、ルルススは今にも涙のしずくがこぼれ落ちそうな大きな瞳を見開いて見つめる。
「でも、僕が王位継承者だって……? 僕だって知ってるよ、今のユスティーア王国の国王の名前を。……レライエでしょう? 僕の弟の名前だ」
「ティレアさまが王宮から消えてしまわれたから、弟君であるレライエさまが王となったのです」
「消えた……? でも、だったらそれって。僕は……幼い頃にアイに……」
「……」
「アイは、悪いことをしたってこと?」
「それは……」
口ごもるルルススから水滴がぽたりとひとつ落ちるのをティレアは見逃さなかった。それと同時に、彼は次々と自らの記憶の蓋が開かれるのを感じた。
そう、自分は確かにユスティーア王国の王子であった。そして、ふたりの魂のかけらがいた。母親の体の中で、三つに分かたれたひとつの魂。それがティレアと、妹のアルシェラと、弟のレライエだ。ほんの少し早くに生まれたことで、彼は"兄"となった。
ティレアはアイと旅をしていた頃、ユスティーア王国の王都の祭りを見に行ったことがあった。そして、城のバルコニーから手を振る、陽のひかりのような色の金髪の幼子ふたりとその両親の姿を見た。自分の色褪せた白髪とは似ても似つかない。国王一家はそれほど美しかった。
ティレア、否、ミュウが彼らの顔を見たのに自身と彼らが結びつかなかったのは───それは、彼の逃避願望によるものであった。
「……僕は、ミュウがよかったんだ」
そう、呟く。
またも記憶の蓋が開く。もう許してほしいとティレアは願ったが、彼の頭は彼の心を記憶の奔流に踊らせる。
王位の正統な継承者が、王になるためにとある儀式を行うのがユスティーア王国であった。ティレアはそれを思い出す。そして、ぐしゃぐしゃと髪を両手でかき混ぜた。
「そうだよ! 僕、ミュウがよかったんだ。ミュウでよかったんだ! それなのに、どうして今さら───」
「……ごめん。ティレア」
「……! どう、して。僕をそう呼ぶの」
話が終わったのか、家の中に入ってきたアイは彼をティレアと呼んだ。後ろ手に扉を閉めるキリエを見て、ティレアはびくりと身を震わせた。彼はキリエのことも思い出していた。ユスティーア王国の騎士団長。国王に忠誠を誓う存在だ。そんな彼がどうしてここにいるのか。ティレアは自身にとって悪い事態が思い浮かんだ。
「ティレア様。……王子殿下。貴方様には───レライエ様に替わり、ユスティーア王国の国王になっていただきたいのです」
キリエは椅子に座るティレアの前に跪き、目線を合わせてそう言った。ティレアの手は髪から顔に場所を移し、その表情がどのような形をしているのか全て隠してしまった。
「ティレア、わたしが悪かったんだ。お前を連れ出して、名前を付けて、身勝手が過ぎた」
アイの言葉に、ティレアはひゅっと息を呑む。
「ずっと、あなたのことを親だと……家族だと思っていたのに。そんなことを言うの」
「……ごめん」
「あそこにいて、ずっといらない子って思われるのが正解だったの?」
「そ、れは」
「殿下、身勝手なのは我々だってそうです。今さら貴方様を玉座につかせようとしている。しかし……今のユスティーア王国には、それが最善で、必要なことなのです」
「知らないよ! そんなの!」
白い髪を振り乱してティレアは叫ぶ。
そう、彼は"いらない子"であった。王位継承の儀式に失敗したのだ。髪の色は褪せ、片目は視力を失い、儀式の間で倒れ伏す幼いティレアを抱きしめながらも、彼の父である先代王が呟いた言葉は我が子を心配するものではなく、
『失敗した』
であった。それを、ティレアは思い出したのだ。
そして、その日から彼は離宮に隔離され、弟とも妹とも自由に会えない日々を過ごすことになった。
「王になれって、あれをもう一度やれってこと? 嫌だよ、絶対嫌だ。あんな……、……っ! 恐ろしいこと!」
ティレアの頭の中は激しい濁流のような感情で埋め尽くされた。王の儀式、それは───ひとつの肉体の中に歴代のユスティーア国王たちの魂を押し込める、記憶と意識の継承であった。王位継承者が必ず行う、ユスティーア王国が九百九十九年もの間同じ在り方であり続けた証。それを、千年目の王位継承者であるティレアは失敗したのだ。
彼は、王にはなれなかった。
「なれないよ。王になんて……」
消え入りそうな声でティレアは言う。アイはしばし逡巡し、そっとティレアの髪を撫でた。安心させるようなその仕草に、ティレアはそれでも不安げに顔を上げる。彼の瞳は涙で潤んでいた。
「ティレア。お前とアルシェラとレライエは、ひとつの魂をみっつに分けた存在なんだ。……初めてお前を抱きしめた時感じたよ、ああ、ずいぶんと軽いって」
「……なら僕たちは、一つにもなれないじゃない。三分の一のまま生まれてしまったのだから」
「……そうだよ。だからお前は、九百九十九年分の王の魂の激流に耐えられなかった」
「じゃあ……レライエは? どうしてレライエは僕のようになっていないの? それとも……」
レライエも、どこか壊れてしまったの?
おずおずと問いかけるティレアに、今度はキリエが切り出した。
「現国王陛下……レライエ様は、この十年で変わってしまわれた。彼の方がどうして生きているのか、私たちにはわかりません。ですが、アルシェラ様は仰いました。『欠けた魂で生きている私たちは、いつか消えていく儚い存在です』……と」
そこまで言い、キリエは一度息を呑む。
「レライエ様の"中身"は、レライエ様ではなく九百九十九年分の王たち……なのかもしれません」
「……!」
「……貴方方三つ子は、離れるべきではなかったのです」
───すると、ティレアはふ、と遠くを見るような眼差しで虚空を見つめた。その瞳はとろんとしていて、急に夢心地にでもなったかのようだった。ルルススが彼の背中をさすると、ティレアの眼差しはだんだんと地に足の付いたものになっていった。
「ティレアさま?」
「……ううん、レライエは消えてない」
「……なんと。わかるのですか」
「うん……そして、僕を求めてる。……この瞳があるから?」
ティレアが前髪をかき分けると、隠されていた方の炎色の瞳が顔を出した。紋章の刻まされたそれは、誰が何もしなくとも淡く輝いていた。
「……炎の紋章……」
「それって、何?」
「ユスティーア王族にしか意味は伝わっておりません。騎士である私には、なんとも。……神官であるルルスス様は、何かご存じでしょうか」
話を振られたルルススは、黙ってティレアの背中をさするのをやめ、皆の方を見た。
「私にも、詳しくは。……ですが、このハルモニア大陸を作った神からの贈り物、王の証であることは、知っています。アルシェラさまにも、レライエさまにも無く、ティレアさまのみに授けられたものです」
「神様からの贈り物……王の証……」
ティレアはそっと前髪を直す。その表情は相変わらず浮かないものであった。
「……レライエ国王陛下がどうして此度の戦を引き起こしたのかは、わかりません。あるいは、自国を安全な場所にし、ティレア様をユスティーア王国に誘導しているのかもしれませんが……もはや、我々の理解の及ばないところに、陛下はいるのです。ですが、ティレア様が言うとおりまだ彼の意識が残っているのなら……」
「……僕が、助けなくちゃ。レライエを」
ぽつりと彼が零したその言葉に、キリエたちははっと何度目かもわからない息を呑んだ。
「キリエ、僕みたいな臆病者は王様にはなれないかもしれない。でも、二人を欠けたままではいさせない。……アルシェラは、どこにいるの?」
「……アルシェラ姫殿下は、貴方様を探しに、我々が貴方様を探しにユスティーア王国を出るより先に、このアーシェス王国へ向かい離宮を出奔されました。家出だと、すぐに捜索隊を出すとレライエ様は仰っていました」
「……じゃあ、僕からも探さないと。僕とアルシェラは、きっと同じ気持ちだ」
このままでは、自分たちは壊れる。そしてその前に、戦争で多くの人が死ぬ。ティレアはすっくと椅子から立ち上がるとキリエに手を差し出した。
「僕、行くよ。二人をもう一度抱きしめるために。……わかるんだ。魂のカケラだからかな。どんな形にしても、僕たちはもう一度、きっと出会う」
その言葉を聞いたキリエは、ティレアの手を強く握った。
「ありがとうございます。ティレア様。共に行きましょう。私たちは貴方様の盾であり矛となります」
「……ありがとう。キリエ。……アイ、あなたも一緒に来てくれる?」
アイはゆっくりと顔を上げた。そしてティレアのその言葉を聞き、彼と目を合わせる。ティレアの瞳には未だほんの少しの怯えの心があったが、それでも、大きな決意をした少年の瞳をしていた。
「わたしは……お前の親でいたい。お前の命のために、わたしの命を使ってくれ」
「あなたがいないと、さみしいよ」
「……あはは、嬉しいな」
「アルシェラさまは、ティレアさまが儀式に失敗したなど、一度も仰いませんでした。『兄様は、私とレライエを守るために、一番重いものを持ってくれたのです』と……あの方は、ティレアさまの不在をずっと、自分たちのせいだと悔やんでおられたのです」
「ルルスス……。思い出した今ならわかるよ。なおさら会いに行かなくちゃ。あの子に、大丈夫だって言わなくちゃ」
「……やっぱり、お優しいのですね。あなたはアルシェラさまに、そしてかつて名君であった頃のレライエさまにそっくりです」
ティレアは腰に携えた剣の鞘を撫でた。彼の胸の中には、そして瞳にも、頭の中にも、二つの星が輝いていた。
この星がある限り、僕の魂のカケラは消えていない。そう、剣の鞘から胸へ手を移し、ぐっと握りこみ願う。旅の楽士の少年は、今このとき、ひとりの光として目覚めた。
第二章 三つ星 前編