柿の木
雨の降る日だった。つい最近まで暖かかったというのに、その日は嘘のように気温も下がった。私の暮らす地域は一日中霧が晴れなかった。朝から降り続ける雨の音を聞きながら、朝食のヨーグルトを食べる。居間では祖母が毎日楽しみにしている韓国ドラマが流れ、男女が何やら激しくもめていた。なんてことない平穏な土曜日の朝だ。
「おはようございます。文子さぁん」
玄関扉が開くと同時に、祖母を呼ぶ声が居間まで響く。彼女は「はい、はい」と忙しそうに返事をしながら座布団から立ち上がった。朝から祖母を訪ねて誰か来ることは珍しくなく、私はそちらに目を向けることすらしなかった。前回の内容を知らないので頭が追いつかないままぼーっとドラマを見続ける。ヨーグルトはそろそろ食べきりそうだ。
「お家の前、猫が死んでるわよ」
祖母の驚愕の声が聞こえる。私の心臓は一際強く脈打ち、スプーンを動かしていた手が止まった。そこまで大きな声で話しているわけではないので、話の全貌は聞き取れない。
「黒い縞模様」
「轢かれてた」
「森内さんの家の」
ばらばらの言葉が耳に届くが、私にはそれで十分だった。轢かれたのは幼なじみの冷香の家の飼い猫のようだった。しばらくすると顔も知らない来客は去り、祖母が居間に戻ってきた。
「みゃあちゃん、轢かれて死んじゃったって」
私の予想通りの言葉が、祖母の口から発せられた。
私はヨーグルトをテーブルに置き、すぐに自室で適当な服に着替えて玄関へ出た。傘を手に持つと居間から祖母が顔を出す。
「冷香ちゃんのお家の方に言わなきゃね。まずは猫をタオルかなんかに包んであげましょ」
祖母は家のタンスから古くなったタオルを2、3枚引き出し、私と共に外へ出た。濡れたアスファルトに横たわり、ピクリとも動かない猫が家の石畳の通路から確認できる。すぐ近くまで来て見下ろすと目と口を開いたままだった。本当に死んでいるのだとそこに来てようやく理解した。口と足から血が出ている。
「かわいそうに」
祖母は道路にタオルを敷き、その上に猫を移動させた。古い布に包まれた猫を持ち上げ段ボールの中へと入れる。華奢で小さい猫のはずなのに、ものすごく重く感じた。
「動物に食べられると悪いから、あそこに入れとこうね」
祖母に言われるがまま冷香の家の車庫まで歩き、その中に段ボールを置く。それが終わると祖母はすぐに家へ引き返そうとした。
「私はもう少し見てから帰る」
そう伝えると彼女はうんと頷き帰っていった。私は地面に置かれた箱の前にしゃがみ込む。
冷香は一軒はさんで隣の家に住んでいる。同い年なので彼女も今頃春休みだが、今日の午前中は買い物に行くと言っていた。昼からは私の家に呼ぶ予定だった。
冷香の飼い猫は家と外を自由に行き来していた。近所の人から何故かみゃあと呼ばれていたが、本名はジャズだ。人懐こく、誰にでも鳴き声をあげてすり寄る。結構な年齢のはずだが、黒い縞模様の身体は昔から変わらず華奢でスラリとしていた。薄黄緑の瞳がビー玉に似ていると冷香と話したことがある。愛らしく美しい猫だった。
そんなジャズが、もう二度と甘えた声をあげず、濁った瞳を雨で濡らす死体となってしまった。私は飼い主ではなかったが、この美しかったメスの猫を轢き殺した奴を許せなかった。轢いてしまったことについてはまだ許せる。一家の総意の元、ジャズを室内飼いにはしてなかったのだ。事故に遭う可能性があることについて、全員が理解していた。しかし首輪をつけている、明らかに飼い猫である彼女を見てなお放置したことに腹が立った。飼い主に責められることが怖かったのか、理由は知らないがとにかく面倒だったのだろう。だから無視して逃げ去った。
はらわたが煮えくり返るような怒りと悔しさ。気が付くと私は涙していた。まだ硬直しきらないジャズの身体を撫でる。ジャズからは雨に濡れただけでない独特のにおいが漂っていた。生き物が死ぬとこんなにおいがすることを、私はこの日初めて知った。
こうなる可能性を理解しつつ自由にさせていた飼い主の責任だろうか。私をはじめとする、近所で会っては何も考えず彼女を可愛がるだけの人々にも罪があったのかもしれない。
ジャズを殺した奴と私、一体何が違うのだろう。しばらくして凪いだ頭の中にそんな思いが浮かんだ。考えたってキリがないのだろうが止められなかった。
どのくらい時間が経っただろう。冷え切った身体を自宅で温めていると、冷香が帰ってきた。
「森内さん、帰ってきたね」
祖母が窓の外を見ながら言ったので、私はうんと返事をした。そして二人で外に出た。雨はもう止んでいる。
「あ、月子だ。ただいまー」
冷香は車から降りると、にっこり笑って手を振る。私は「おかえり」と返事をし、冷香の母親にも挨拶した。祖母が冷香の母と共に荷物を置きに車庫を出る。
私は少し緊張しながら、ジャズが事故死したことを冷香に話し始めた。
冷香の反応は意外にもあっさりしたものだった。
「そうなの。でも、ジャズもおばあちゃんだったし、轢かれていなくてももうすぐ死んじゃってただろうね」
うふふと小さく笑った彼女は、ジャズを埋めに行こうと私の手を引いた。なんだか拍子抜けしてしまったが、飼い主である彼女はジャズの死や事故のリスクに対して十分に心構えできていたのかもしれない。私は森内家の車庫にあった園芸用のスコップを持ち出す。ジャズが安置された段ボールを持つのは冷香の役目だ。
「どこに埋めるの?」
湿っぽい空気が流れる外を見渡しながら私は聞いた。冷香は言われてみればという風に目を丸くして歩みを止める。首をキョロキョロ左右に振ると、彼女のセミロングの髪の毛も揺れた。
「柿の木の下はどうかな」
冷香は車庫のすぐそばにある柿の木を指した。この木は森内家の敷地内にあるものの、いつ誰が埋めたのか近所の人々も把握していない。それほど昔からあったものなのだろう。毎年実るのが不思議なくらい柿の木はやせ細り、弱々しかった。
「この木にジャズはよく登ってたね」
冷香の声に私は頷く。ジャズはたびたび柿の木に登りくつろいだり、老人の肌のように乾いてごつごつした幹で爪を研いだ。何を話すでもなく、二人でそんなジャズの様子を眺めた日を思い出す。轢き逃げをした犯人への怒りが私の胸によみがえった。
ここの敷地は森内家のものだ。誰も文句など言うまい。私は冷香の前を行き、柿の木に向かって歩みを進めた。
「どの辺?」
「どこでも。とにかく、木の近くならいいんじゃない」
言い出しっぺのわりに適当な冷香の一言に内心苦笑しつつ、彼女の言う通り適当な位置を掘り始めた。冷香も段ボールを置いて私に続く。
ちらりと冷香を見ると、なんの印象も感じられない表情をしていた。私と比べて明るい色をした彼女の瞳は、ただただ雨で湿った地面を捉える。伏せられた目は一定の間隔でまばたきを繰り返し、唇は引き結ばれたまま開かない。こんなにも無表情な冷香を私は見たことがない。
「何」
冷香はこちらに気付いて、笑った。
「スコップ、そんなに似合わないかな」
それでも、彼女の顔からは何も感じられなかった。
「終わったあ」
冷香が腰を伸ばしながら大きな声を上げた。たぶん午後三時くらいだろう。私は小腹がすいていた。
ジャズを埋めた場所は雑草が不自然に掘り返され隆起している。まあまあ不格好なお墓だった。私たちは冷香の家の庭からツツジの花をもいで供えた。濃い赤色をしたツツジは、どこか炎を彷彿とさせる。
「柿の実、今年はたくさん生るかもね」
冷香はお墓を見下ろしながら言う。
「だったらいいね。けど、寂しいね」
私はいよいよジャズの死に対する冷香の心に触れるような、そんな言葉を放った。何も意識したわけでなく、なんとなく言ってしまったというのが正しい。私はジャズが死んだことが悲しかった。しかし飼い主である冷香を思うと、私がそれを露呈するわけにはいかないと感じていた。
しかし今までの冷香の反応といえば私を裏切ってばかりである。だが私を前に気丈に振る舞っているだけという可能性もある。私は冷香の心に触れたかった。
それでも私は裏切られた。冷香が何食わぬ顔で私に微笑んだのだ。
「柿の木は黄泉に繋がっているんだって。漫画か何かで読んだの。だからね、何度だって会えるよ。ここに来ればなんにも寂しくないの。平気よ、大丈夫よ、月子」
漫画かよ。私が笑うと冷香はきゃらきゃら声を上げた。無表情な瞳だった。その後、一緒に私の家でおやつを食べたけど、冷香の瞳はもう私の記憶の中にある無垢な様子で笑わなかった。ジャズの死が彼女にもたらしたものを私はゆっくり噛みしめて、そうして春休みが終わった。
その年の秋、柿は例年よりも多くの実をつけた。
柿の木