父と母
父と母
両親について書く。
親と子供の関係というのは奇妙なものだ。子供は親の意思で、いつの間にかこの世に存在させられる。何年も彼らの世話にならなければ生き延びることができない。子供は彼らを通し人間関係を学ぶ。愛を学ぶ。例えそれがどんな形であっても。
小学五年生。私は不登校になった。
母は祖母が電話口で言った「あの子は出来損ないで障害者、失敗作」という言葉を、包み隠さず私に伝えた。差別用語満載な罵り言葉にショックを受け、それを聞いた子供がどう思うかというところにまで頭が回らなかったようだ。いや、回してくれよ。そこが一番大切なところでしょ。そもそも私は出来損ないだから不登校になったのではありません、いじめが原因なんです、蚊帳の外の人間が余計な口を出して論点をずらさないでください。ちなみにこのエピソードでお分かりのように、祖母も少し、いや大分クセの強い人物であるが、この話はまた別の機会に。
母は私に父の愚痴を言う。「お父さんは私の言うことを何も聞いてくれないし愚痴を言うと怒る」父にはそういうところがある。自分が脅威にさらされる気配を感じると、相手のせいにするか、問題を誰かに丸投げするかして逃げてしまうのだ。今回の件においても、一家団欒の際に母を「お前が甘やかしたから、しっかりしなかったから」とよく責めていた。全て母の責任にしてしまおうというわけだ。私は思う。お父さんは弱虫だ。
何回も言うが私が不登校になったのはいじめが原因なのであり、誰のせいでもない。なぜ本人を差し置いて周囲の大人が取り乱しているのか。というか夫婦のコミュニケーションの問題に子供を巻き込まないでくれないか。
小学六年生。短時間だけ別室登校をするようになる。しかし、それ以外の時間は家にいることになる。
家にいる間中、母は私に私の愚痴を言った。「育て方を間違えた」「私は駄目な母親だ」「どうしてこんな子に育ってしまったのか」子供としては母が自分のせいで悲しんでいると思うと辛い。だが母は夫をあてにできない上に親を病気で亡くしている。つまり今話を聞いてあげられるのは私しかいないのだ。あるいはこれは、私が真っ当な人間として振る舞えないことに対する罰なのではないか。それならば、私は何としてでも彼女の話を聞き続けなければならない。話を聞いている最中に涙が溢れて止まらなくなる。別室に逃げ込んでも着いてきて話し続ける。これ以上聞きたくないと味噌汁を投げる。母は無表情で汚れた襖を拭いた。
同じ頃、母は宗教にのめり込み始めた。私も宗教施設に連れていかれる。わざわざ二時間もかけて他県の施設に出向くのだ。父は送迎係を務めていたが「お母さんには何を言っても無駄だから」とのたまい、自分はその辺で時間を潰していた。母の話によれば、祈ってお布施をおさめて前世の因縁を断ち切れば、私の不登校は直るらしい。そんな馬鹿げた理屈があるか。何度も言うが私の不登校はいじめが以下略。幸せになるために祈っているのに、家に帰れば暗い雰囲気が垂れ篭め、事態はちっとも好転しない。私は考える。もしかして神様なんていないんじゃないか。いたとしても傍観するだけで何もしてくれないんだな。
この学校には年に一度「弁当の日」というものがあった。この日は給食が出ず、家から弁当を持っていくのだ。その当日、私は登校できなかった。母は溜息を吐き、私の目の前に弁当をバン!と叩きつけた。震える手で蓋を開けてみる。可愛らしいキャラ弁だった。少しでも教室にいる時間を楽しめたらと、早起きして作ってくれたのだろう。また母を悲しませてしまった。申し訳なさに身が縮む。昼、冷たい弁当を口に運ぶ。母がじっと私を見ている。胃が締め付けられるようで味が分からない。食べながら泣きそうになる。ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい。なんて、ちょっと辛気臭いですね。やめやめ。
今、当時の母と近い年齢になって思う。私達は外部に助けを求めるべきだった。意地を張らずに福祉に頼ればよかったのだ。12歳の私は話を聞くことで母を救おうとしたが、私も同じくらい誰かにケアされる必要があった。図々しいことを言えば、一人くらい庇ってくれる大人がいてもよかったのではないか。だが、いなかった。仕方がない。巡り合わせが悪かったのだ。
私は子供だった。あの状況は私の手に余るものだった。だから私は悪くない。あの時代は終わって、私はもう大人なのだ。怖がらなくてもいい。言い聞かせても、何かの拍子に当時の光景を思い出し、恐怖や罪悪感にかられることがある。
中学一年生。地元の学校に進学するも、やはり不登校になる。この頃には対人恐怖の症状が出始め、人が密集する場所に行くと恐ろしさを感じるようになっていた。親や担任になぜ教室に入れないのか問いただされるが、うまく説明できない。心療内科を受診していればよかったのだろうが、父が「うちの娘はどこもおかしくない」と突っぱねた。父なりの愛だったのだろうが、彼の愛はいつも的外れだ。
学校にはカウンセラーが配置されていたが、これが話にならないほどポンコツだった。私が相談室で過ごすほとんどの時間、鼻ちょうちんを出して寝こけているのだ。それなりに頼りにしていたが、成人してから再会した際にラブホテルに連れていかれたことで、彼との思い出はゴミに変わった。全力で逃げたので安心してほしい。最後に彼から受け取ったメールは「パンツ何色?」であった。テンプレートすぎて笑えてくる。ちなみに彼は妻帯者で小学校教論である。地獄に落ちてほしい。
話が逸れた。学校に行けないのなら習い事を始めたらどうかという話が出た。母と一緒に見学に行く。その帰り道、私は「学校に行けない私が習い事などやりとげられるのだろうか」と不安になってしまった。思わず母に「私には無理かも。やめようかな」と弱音を吐く。母は表情を強ばらせ「ふうん。やっぱりダメだと思った」と冷たい表情で言い放った。その一言が胸に突き刺さる。母は最初から、私には習い事などできないと思っていたのだ。私は何も成し遂げられることができないのかもしれない。うなだれて帰宅する。
私と母が話をしても、父は「それはお前のやり方が間違っているのだから考えを正すべきだ」の一点張りで取り付く島もない。気分の波が激しく、日によって言うことが変わるため振り回される。父の言う通りにしても別の日には違う理論で説教されてしまう。お前もしや、何でもいいから言いがかりをつけてストレス発散したいだけだろ。そんな彼が「人には優しくすべき」とほざくのだから笑えてくる。優しいとはどんな態度を指すのかぜひ教えていただきたい。人には「立ち振る舞いはきちんとすべき」と言いながら、クチャクチャと音を立てて食べる、トイレや風呂場の扉は開けっ放し、使ったものは置きっぱなし、洗濯物は散らかしっぱなしという行儀の悪さを見せつける。説教する人がきちんとしていないと相手は聞く耳を持ってくれないので注意した方がいい。ちょっと意地悪なことを言いました、すみません。多分仕事が忙しくてイライラしていたのだろう。だとしても人を傷つけて発散することが許されるとは思いませんがね。
色々な出来事が起こったが、私が彼らに示した反応はただ一つ、黙って耐え忍ぶことだった。母に意見を言ったところで取り乱されるだけだし、父は上記の通りだ。どこかへ飛び出そうにもここは辺ぴな田舎。暇を潰せる場所といえばローソンだけだ。私は不登校をしている「いけない子供」だから、どんなことをされても文句は言えないと思っていた。彼らにしてみても問題解決能力があまりない人々だったのであり、まあ、何というか、色々と仕方がなかったのである。
でももし、あの頃の気持ちを正直に打ち明けてもいいのなら、私は不安を受け止めてほしかった。話を聞いて、励ましてもらいたかった。それが叶えられる環境が存在することを、つい最近まで知らなかった。
中学二年生。相談室登校を始めるも、登校できる日と、学校の敷地にすら足を踏み入れられない日がある。登校できた日は相談室で給食を食べた。朝起きた時、体が鉛のように重ければ、行けない。そんな日は、台所から食器を叩きつける音が聞こえた。そういう日は決まって母の足音が怒り狂ったように荒かった。
体を動かすのが辛い日は、母に車で送ってもらう。だからといって必ずしも登校できるわけではなく、車から降りられずに引き返す時もある。その日、私は車から降りられなかった。母に「やっぱり無理みたい、ごめん」と告げる。母は暗い顔で「分かった」と頷き、「気分転換に山へ行こう」と言った。送ってもらったのに、行けなかった。罪悪感にもやもやとしながら、助手席の車窓から新緑を眺める。母の顔を盗み見ると、固い表情で前を見つめていた。私は母の表情や声色や足音の大きさで、彼女の機嫌を推し量れるようになっていた。この表情から察するに、母は落ち込んでいる。私の心も沈む。
山道の急カーブに差し掛かった時だった。母は「一緒に死のうか」と呟き、めちゃくちゃにハンドルを切った。ガクガクと車体が軋み、全身が強ばる。道を外れてしまえば川に真っ逆さまだ。フロントガラスの緑が粉々に揺れていて、それだけが場違いに美しかった。しばらく暴走してから、母は車を停めた。肩で息をしている。私は逃げ出すこともできず、助手席にべたりと張り付いていた。母は私が殺したいほど憎いのだろうか。
その後、展望台で何事も無かったかのように景色を見た。母は険しい顔をしている私に「どうしたの?」と言った。どうしたのって。あなたさっき私と心中しようとしたじゃん。なかったことにするつもりなの?
この出来事は実際に、なかったことになった。母と私はこの出来事を封印した。父には言わなかった。どうせ話をしたところで、母を責めるだけで終わらせてしまうのだから。成人してから母にこの話をすると、全く覚えていないと言った。ひどい。そんな軽い気持ちで心中を図るなよ!殺人犯も時が経てば人を殺したことを忘れるのかな。はい、炎上しますね、何でもないです。冗談だよ、冗談。
子育てに思い詰めたからといって心中しようとするのはやめた方がいいです。子供は普通に傷つくので。病院でも保健所でもいいので福祉に相談してください。もしかして助けてもらえるかもしれないし、死ぬよりはマシでしょ。
また、ある日。帰宅し台所でぼーっとしていると、母が後ろに立って私の髪を触り始めた。母から体を触られることは長らくなかった。嫌な予感がする。案の定母は奇行に走り始めた。突然ケラケラと笑い出し、私が2歳児であるかのように「あなたは可愛いでちゅね、本当にいい子でちゅね」と言いながら頭を撫で始めたのだ。私はゾッとして「やめてよ!」と彼女の手を振り払った。おいおい、B級サイコホラー映画かよ。不登校の娘のワンオペ育児に追い詰められた母が正気を失っていく展開、意外と使えるかもね。
また、ある日。まだあるんですよ、衝撃エピソード。私は伸ばしていた髪を鋏でばっさりと切ってしまった。何でそんなことをしたかって、第二次性徴を受け入れられなかったからである。ショートパンツや恐竜が大好きだった私は、制服のスカートを履かされることや、自分が女らしい体になってゆくことに耐えられなかった。ブラジャーを付けなければならなくなった時、生理が来た時、私は悲しくて泣いた。私はいつまでも軽い体で山々を駆け回り、探検ごっこをしていたかったのだ。それなのに。ニキビだらけになってしまった顔。硬い上に量が多くまとまらない髪。丸みを帯びた体。いつの間にか「女」にカテゴライズされ、体毛を剃るのが義務になり、カミソリ負けと生理痛にげんなりする日々。私は女としての自分が嫌いだった。だから、女のシンボルである髪の毛を切り落としたのだ。半分だけショートヘアになった私を見て、母は「あなたはおかしい」と言った。訳を聞いてくれよ、訳を。私達はいつもコミュニケーションが足りないんだよ。私は次の日美容院に連れて行かれ、ショートボブにされた。その髪型も嫌いだった。3ヶ月後、私はベリーショートになり、男物の服を好んで着るようになった。ブカブカの服に身を包んでいる時、私は私ではない人間になれた気がして、少しだけ安心した。
この感覚は今でも継続しており、日によって「男」になったりする。男っぽいハンサムテイストな服と、女らしいゆるめのカジュアルな服を着回すのだ。女らしいとはいっても、装飾のないシンプルな服が好きだ。私は女だが、トイレは一人で行きたいし、昼ご飯は一人で食べたいし、青が好きだし、噂話は嫌いである。ジェンダーを定められてしまうと途端に居心地が悪くなる。
中学三年生。テストもろくに受けなかったので、私の学力でギリギリ入れる私立高に進学することになった。入れただけ奇跡だ。先生方が配慮して下さったのだろうが、一年後、私はこの高校を中退することになる。恩知らずですみません、学校というものが嫌いだったんです、そりゃもう純粋に。
母はまだ宗教にこだわっており、頻繁に「集会」を開いた。集会とは家に黒づくめの信者達がわらわらと詰めかけ、皆で地鳴りのような読経をあげることを言う。何の意味があるのか分からないが、信者同士の交流を図るとかそういうトンチンカンな理論だったのかな。サークル活動かよ。集会が開かれるとそこら中に線香の匂いが充満した。あまりの煙たさに家中のゴキブリが死滅しただろう。バルサンいらずである。そんなこんなで今でもお寺に行くと妙なノスタルジーにかられる。同じ匂いがするのだ。
ある日の集会。とある信者の婆さんが母に「あなたの子供が不登校なのは、あなたが真剣に祈らないせいよ。このままじゃ親子共々地獄に落ちるわよ!」と言った。うるせーよくそババア! 頭湧いてんのか。あ、失礼。思わず本音が。私の周りには余計な口を挟む婆さんが多すぎる。うーむ、これがド田舎か。しかし、しかしだ。驚くべきことに母はその言葉を信じ、毎月お布施に二万を費やすようになってしまったのだ。いやいやいや冗談だよね。これって現実ですか? もう一周回ってギャグである。西原理恵子風に描けば売れるかもしれない。ちなみにその頃細木数子がブレイクしていたが、私は彼女が大嫌いだった。地獄なんてあってたまるかってんだ! あるとするならこの世こそが地獄だ。芥川龍之介も言ってたじゃないですか。なんつて。
夜、家族が苦しんでいるのは私のせいだと自分を責める。私が普通の学生として振る舞えないから彼らは悲しむ。何としてでも学校に行かなければならない、彼らのために「普通」にならなければならない。普通のレールから外れたら、恐ろしいことが起こる。それからというもの私は「普通」という概念に固執し、苦しむようになる。
高校一年生、及び浪人時代。私は私立高校に馴染めず、両親に秘密で七日間授業をサボった。
それを担任に知らされた母が無表情で私を見つめた。「どうすればいいのか分からない」と打ち明けた私に、吐き捨てるように「やめれば?」と言った。私は学校を辞めた。
その年、私の体重が10キロ減ったことに彼女は気づかなかった。
再び高校一年生。定時制に進学した。
母は精神不安定になり、一心不乱に雑巾で床を磨き始めた。出かける時、鍵を閉めたか火の元は問題ないか確認しに戻る。旅行に行く際も車内で悲痛な声で「ポットを消し忘れたかもしれない」と何度も喚いた。「きちんとしなくては」と毎日のようにフランス料理が出てきた。他にも誰かに見られている、近所の人が買い物先まで私をつけてくると言う。
私が学校の愚痴を漏らすと「また行けなくなるんじゃ」と取り乱した。私は何かを相談することを一切やめた。
不登校だった頃のことを話題にすると「あの頃には戻りたくない。思い出したくない。地獄だったから」とくしゃくしゃの顔で俯いた。
高校二年生。
母は相変わらず不安定だった。しがらみが負担になり宗教をやめるもマインドコントロールが抜けず、「祈らないと地獄に落ちるんじゃ、やめたから罰が下るんじゃ」と真剣に怖がっていた。
私は学業と家庭でのストレスでリストカットをするようになった。後に母は「切っていたことには気づいていた」と言った。私には何の言葉もなかった。
高校三年生、高校四年生、上に同じ。
母は病院に行きたがらないし過去の話をしたがらない。母の親兄弟は癌で死んでいる。病院は何もしてくれない、検査を受けたら自分も癌かもしれないという恐れがあるようだ。母を病院に連れて行きたいが子供の力ではどうにもできない。
私は幻聴が聞こえるようになり苦痛のあまり授業をサボるようになった。母はそのことを知らなかった。
大学に受かった。母は「たくさん受験生をとる年だったから受かったのね」と言った。
大学一年生。病院に通い始める。
母は私の病気について何も聞いてこない。
マインドコントロールも精神不安定も随分落ち着いた。
時々ろれつが回らないほど酒に酔い、私が不登校だった時代を「悲しかった、辛かった」と嘆いた。酔っ払うと何度も同じ話をする上に翌日言ったことを覚えていない。
私の学費のせいでお金がないとよく愚痴を零していた。お布施に使ったお金を貯金するなりできたのではと私が言うと「どうなってもいいと思って全て使い切った」と言った。
大学二年生、大学三年生。上に同じ。
大学四年生。卒業制作と就職活動に追われる。
私は将来が見えず就職活動がおざなりになっていた。両親は教授に呼び出され、「もっと真剣になってあげてください」と言われたようだ。彼らは私の選ぶ求人にダメ出しをした。勝手にハローワークに行き「こっちがいいんじゃない?」と求人情報を押し付けた。
この年、母の兄が死んだ。彼女の最後の血縁だった。母の酒量は増え、毎日のように居間に転がって「いつ死んでもいい」と呟いていた。悲しいから言わないでと言っても翌日は同じことの繰り返しだ。冬になり氷点下の中でもそのまま寝ている。起きないので布団をかけてあげる。
卒業制作を逃し自殺未遂をする。朦朧としながら家に帰り失神から目覚めた後、締切を逃したことを怒られた。
社会人一年目。仕事も決まり一人暮らしを始めた。
母は2週間に1度は私の家に来たがる。食べきれないほどの野菜を持ってくる。1度夜中に勝手に入り込んでいたことがあった。あんなに好き放題やっておきながら友達のように接する彼女に薄気味悪さを感じた。
正月もお盆も実家に帰らなかった。
社会人二年目。躁鬱が悪化し入院する。
両親には入院したことを言わなかった。どんなに取り乱すか想像すると怖かった。仕事を辞めてすぐ母は次の求人を持ってきた。そこも上手くいかず実家に戻った。
社会人三年目。仕事を辞める度母は求人を持ってくる。鬱に陥りもう社会でやっていけないのではないかと嘆く私を励ましながら次の仕事を勧める。
四年目、五年目。比較的平和に過ぎる。母に、過去のことが私にとっても辛かったという話をようやくするようになる。
母は私と心中しようとしたことを覚えていないと言った。
六年目。七度目の転職をし、私は失踪する。家に戻り自殺未遂に失敗し、これ以上頑張ることはできないと障害者手帳を取得した。
母は私の病気の話をようやく聞くようになった。
父と母は私の弱い部分に介入しようとしなかった。父は母の精神的ケアを私に全て押し付けた。母は私をストレス発散の相手として扱った。私は精神的なサポートが全くないまま、子どもの頃から自立し生きていかねばならなかった。大変な時に頼る、謝ってもらう、気にかけてもらう、慰められる、否定せずに話を聞いてもらうという経験ができなかった。その影響で私は、人を信頼できない、深い関係を築くことが難しい、人の顔色を伺ってしまう、困りごとがあっても相談ができない、頼り方が分からない、ネガティブな感情を感じられない、または表現できない等の問題を抱えている。
しかし一方で私は、衣食住には全く不自由しなかった。父は部長として毎日出勤し、高額なボーナスを手にして帰ってきた。愛情表現がひねくれすぎてはいるものの、母を一途に愛しており不貞の影もない。母は完璧すぎるくらい家事をこなしたし、美味しい手作りの料理を食べさせてくれた。精神が安定していれば、友人の愚痴を何時間でも聞いてあげる、優しすぎるくらい優しい母であった。
彼らは音楽や物語が好きだった。母は不登校の私を、部屋に閉じこもってばかりいては息がつまるからと、映画館やライブハウスに連れて行ってくれた。「ピンポン」「Laundry」「リリイ・シュシュのすべて」を観て、私は映画が好きになった。母の影響でthe pillowsやGRAPEVINEを聴いた。エゴラッピン、スピッツ、くるり、GO!GO!7188のライブを観に行った。荒吐フェスティバルで夕日をバックにしたACIDMAN「赤燈」は素晴らしかった。父は60年代、70年代のロックが好きだった。父の運転する車の中には必ず、ジミヘン、ストーンズ、ビートルズ、クラプトンが流れていた。はっぴいえんど、ビル・エヴァンス、U2、キングクリムゾンのCDは父から借りた。ウッドストックの話をふるととまらなくなる彼である。
幼稚園の頃、父は私を抱き上げて遊んでくれた。母は毎晩絵本の読み聞かせをしてくれた。おしいれのぼうけん、白いうさぎと黒いうさぎ、キャベツくん、はらぺこあおむし⋯⋯だから私は今でも本が好きだ。
毒親と言い切れればもう少し簡単だった。私は、彼らが私を深く愛していることを知っている。毒親に育てられた人々の体験談を聞いていると、私が辛いと嘆くなんて、甘え以外の何物でもないと思う。
「親なんてそんなもんだよ」「誰にでもあることだよ」「育ててもらっておいて甘えているよ」「家を出ればいいんだよ」きっとそうなのだろう。けれど、簡単に終わらせられないから、毒親やアダルトチルドレンという言葉があるのだろう。多くの人が解決策を求め悩むのだろう。親が悪気もなく狂っていて、彼らも不遇な人生の被害者だったのだとしたら、子供は一体誰に怒りをぶつけたらいいのだろう。親との関係が辛かったと公言する、これだけのことが、どうしてか難しい。
私は今までも、これからも、子供は産まないと決めている。
彼らから学ぶことはたくさんあった。
誰かを支える役割を担う人にも苦しみはある。
メンタルの弱った人を一人で支え続けるのは難しい。
異を唱えず話を聞き続けるのは時に辛い。
子供のまま親になる人もいる。
問題から目を背けてもいいことはない。
相手を傷つけたと思ったら意地を張らずに謝った方がいい。
人間関係は諦めなければならないこともある。
相手に期待しすぎない方がいい。
距離感が近すぎるといいことはない。
人は簡単には変われない。
酔っ払いには何を言っても無駄である。
例え血縁であろうとも、失くした人の代わりにはなれない。
誰かの大切にしているものを馬鹿にしてはいけない。
度が過ぎるお節介は相手の自由を踏みつける。
福祉について最低限知っておく必要がある。
問題を知らないままでいることが無意識な差別へと繋がる。
上手な甘え方を学ばないと大人になってから苦労する。
宗教は金儲けにちょうどいいシステムである。
人は自分が満たされていないと他人を攻撃してしまう。
不幸だからといって誰かを傷つけていいことにはならない。
苦しい時は苦しいと言わなければ誰にも気づいてもらえない。
例え親であれ、感謝できないこともある。
この世はどんなことだって起こりうる。
愛しているからこそ傷つけあう時もある。
愛には様々な形がある。
愛は微量の狂気を孕んでいる。
父と母