過去の話

過去の話

過去のことを話すのが怖い。
躁うつ病を発症してから様々な経験をした。幻聴、妄想、不眠、人が多い場所への恐怖、希死念慮、複数回の自殺未遂、性的逸脱、度重なる転職⋯⋯。
話すのが難しい理由として、諸々の体験を恥じていることもあげられるが、大元の原因は他にある。話そうとすると感情が揺らぐのだ。その揺らぎは私にとって恐怖を伴う感覚だ。記憶の重みが大きすぎて、込み上げてくる感情を受け止めきれない。感じたら何かが崩壊してしまいそうな予感がする。誰かに昔のことを打ち明ける度、見えない手が鳩尾を掴み、肺を抜けて喉を思い切り絞めつける。
それらをエッセイに書こうと試みたこともある。しかし重要な記憶であればあるほど、心がストンと麻痺してしまう。直接的な感情を抜きにして無機質に事実を語る。違う、これは真実ではない、だが正確に表現しようとすると思いが溢れ出し、文章がめちゃくちゃになる。何度も何度も書いては消す。どうしても筆を進められない。
ネガティブな感情をさらけ出すのが怖いという性質も重なり、問題をさらに複雑にしている。人前で泣くのが、怒るのが怖い。友人に深い話をしようとすると拳が震え、笑顔が貼り付いて剥がれなくなる。笑うことで恐れを逃がす。理不尽な文句を言われても黙って微笑む。疎かに扱われても耐え忍ぶ。悲しくなったらトイレに駆け込み、涙を始末して平静を装う。多くの人が理想像を私に重ね合わせる。あなたは優しいと褒める。それは違う。私はもっと我儘だ。許せないことだって沢山ある。素直に表現できないだけなのだ。
怒って縁を切られてしまうのが怖い。むき出しの感情で傷つけてしまうのが怖い。声をあげて泣いてしまいそうで怖い。見捨てないでくれと取り乱してしまいそうで怖い。何もかもさらけ出したら底なしに甘えてしまいそうで怖い。その人を失いたくないあまり不安で夜も眠れなくなりそうで、怖い。リスクを犯すくらいなら「大丈夫」の一言で済ましてしまいたい。笑顔でごまかしていたい。別れても耐えられる浅さで関係を保っていたい。物狂わしい愛よりも寂しさを噛み殺していたい。そちらの方が楽だ。近づいたら、言葉にしたら、壊れてしまう。だから私は人が怖い。
当時の私が痛みを抱えたまま立ち尽くしている。胸に今にも破裂しそうな爆弾があり、それを抱えて途方に暮れている。どんなに無視しても、強がっても、傷を負った事実は消えない。「辛い記憶を消すことはできません」とカウンセラーは言う。そうだよな、と頷きながら、全て白紙に返す魔法をいつまでも諦めきれない。
人は私を放っておいてくれない。どんなに突き放しても手を握りたくなる。誰かに抱きしめられ、泣きじゃくり、許してほしいと叫び、許されることを望んでいる。そんな人は現れない、知っているから毛布を抱き夢見る。それから、きっと誰もが似た孤独を抱えていることを想い、切なさの海に瞼を閉じる。

過去の話

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-24

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