宝来灯子のぬるい生活

三年前の大寒波から別時空にある町、霧ヶ峰タウンへと逃れてきた宝来灯子。仲間たちと和気あいあいとぬるい生活を送る灯子だが、知らぬ間にこの暮らしの終わりへの足音は、ひたひたと近づいていたのだった。

金曜日の恒例の

 天井に設置されたスピーカーから、時報代わりの「アニーローリー」が流れる。午後五時、日勤の工員の勤務が終わる時間だった。
 宝来灯子は小麦粉まみれの両手指を開き、ううーんと絞るように唸りながら伸びをした。一日中立ちっぱなしで腰は痛いし、腕を動かし続けていたためか両肩が張っているのを感じる。
 小麦粉をすり込んだ右手で、ころころと細長く生地を伸ばし、左手に持ったスケッパーでそれを切り分ける。素早くスケールにのせ、重さが均一かどうか確認する。ひたすらひたすら、午前八時から午後五時まで、一時間の昼休憩をはさんでメロンパンの生地を計り続ける毎日。
 混合機と生地を練るラインでは、もうすでに簡単な後片付けが終わっている。エアーシャワーの外側では、掃除用具を弁慶の七つ道具のように構えた掃除のおばちゃんたちが、仁王立ちで扉が開くのを待っていた。
 工場の敷地は狭く、使える機械類も限られているので、灯子たち日勤の作業が終わった後で、清掃をはさんで夜勤の製造がおこなわれる。昼間メロンパンを作っているこのラインでは、夜間はビーンズロールが作られるという。夜勤の工員たちの姿を、もう三年も働いている灯子は見たことがなかった。夜のシフト表を見ても、まるでまことしやかな噂だけで実体のない都市伝説のように感じられる。
 灯子は手洗い場で小麦粉まみれの手を綺麗にし、キャップを外しネット帽もとった。中途半端な長さのボブが汗で首に張り付いている。それを邪険に指で払いのけながら白衣を脱いで私服に着替える。素人の寄せ集めである、五軒隣の工場で作られたオレンジ色のTシャツと、広めストレートのデニム。そのどちらもが、生地も縫製も染めも適当だった。
 だが、そんなことは灯子にとっては、二軒先の夫婦のいざこざのようにどうでもいいいいことなのである。楽しい金曜日の夜に、身なりを構う必要は何処にあると言うのだ。
 灯子は同じく計量担当で土地っ子のリズさん、調合担当でケニア出身ののオタワさんと雑談しながら着替えを終え、汚れた白衣を丸めて擦り切れた黒のリュックにぎゅうぎゅうと詰めた。それから手にハチミツの匂いのハンドクリームを塗って、ロッカーが雑然と並ぶ更衣室から、蛍光灯がぺかぺか光る無機質な廊下に出て、検便検査の張り紙を横目に靴脱ぎ場へ向かう。
 外へ出て食品加工場の正門の前で二三分待っていると、額から抜けるように澄んだソプラノの声が灯子を呼んだ。
 「灯子、待った? 」
 「うううん、ちょっとだよ」
 振り向けば、腰まであろうかと思われる黒髪をさらさらと揺らした千鳥咲羅が、生成りの手提げを大儀そうに下げて右手を振っていた。
 咲羅は出来の悪い白いデッキシューズの足で、ワインカラーの更紗のロングスカートの裾を乱しながら駆けて来た。ぱりっとアイロンがけされた桜色のシャツは、グラマラスで女性らしい体つきの彼女によく似合っていた。
 咲羅が追い付くや否や、二人は肩を並べて歩き出す。右脇を歩く咲羅の髪には、ゴムでひっ詰めた跡がくっきりと残っている。いくら自慢の黒髪でも、ハムソーセージを加工する工場の中ではネット帽をかぶり、更にキャップで重武装することを余儀なくされる。身なりに無頓着な灯子とは違い、咲羅はそのことが痛く不満らしかった。
 咲羅の雪のように白い肌は、五月半ばの発展途上の暑気と労働とに赤らんでいた。その目鼻立ちはくっきりと冴えて、黒目が少し青く吸い込まれそうに深い。物資不足の町にあって、ささやかながら薄化粧も施されている。咲羅に「もっと自分を可愛がりなさい」とお小言を食らうたび灯子は、「咲羅はあたしとは美貌の桁が違うから」と、ひがむでもなくのんきに言い訳するのだった。
 かく言う灯子の方はといえば、中途半端な長さの焦げ茶色のボブ、温かみのあるアイボリーの肌に、「まるでウサギみたいだね」、と言われる赤みを帯びた奥二重の目をしている。前歯が大きくて、笑うと白い歯が二枚覗くところも、より一層ウサギを思わせる。
 実は灯子も十分美人な方である。ただ惜しいかな、バルザックいうところの、女性を後天的に美しくする要素である「衣装と恋文」というその二点において致命的に欠けていた。更に言えば、灯子の美しさは周りの女性たちの美しさに、容易く霞んでしまうささやかな、まるでコスモスを麻紐で花束にしたような性質のものなのであった。
 だが、そんなことも、灯子にとってはやはりどうでもいいことだった。
 煙突の生えた四角い工場が立ち並ぶ無機質な道を、二人並んで帰路に就く。
 「いい天気、今日は庭にテーブル出せそうね」
 「先週は雨だったからね。咲羅は何か仕込んでる? 」
 「ひっつみの生地を寝かせてるわよ。鶏ガラで出汁もとっているわ」
 「わあ、やったあ」
 「灯子は何か用意していて? 」
 「料理は期待しないで。キャベツの浅漬けだけ。でもいっぱい氷は作っといた」
 「そうね、ロックが美味しい季節ね」
 どんどん夏至の近づいて来るこの季節は、夕方五時であっても十分に明るい。さっきまで日差しが強かったと見えて、その名残が灯子の首筋をぬるくする。それでも砂利の敷き詰められた道の上には淡い風が吹き、暑熱が急激に空へ逃げてゆくのを感じた。
 二人は三分ほど歩いて、乗合馬車の停留所から車に乗った。工業区と居住区の間の路線は、通退勤の時間帯はほとんど五分おきに馬車が出る。霧ヶ峰タウンの工場労働者たちにとってはありがたい足だ。
 自動車は軍用車を除けば町に三十台ほどしかない。ガソリンは貴重品である。人々は古風に馬やロバを使用する。乗馬なんてしたことがない灯子にとっては、十人掛けの乗合馬車がなくては不便極まりないのだ。
 一頭立ての馬車は、馬鈴をシャンシャン鳴らし、蹄の音もぽくぽくと工業地区から北上する。当然冷房なんて無いので、乗客たちは当たり前のように窓を全開にする。ハチが入ってこようが、アブが入ってこようがお構いなしである。排気ガスの臭いがない代わりに、時より馬の落し物の臭いがむっと立ち上がって来る。
 それでも乗客たちには窓を閉めるという発想は無いようだった。灯子も自動車に慣れ親しんで育った身としては、大分に生ぬるい車窓からの風に、額をさらし髪を躍らせて涼をとる。
 そう、窓からはいつも川風が入って来る。砂利道に沿うようにして夜沢川が、いかにも渓流らしい荒らかな音を立てて、赤みを帯びたさざ波をきらめかせていた。
 この川は城壁の北側から流れ込んで町を突っ切り、南側の城壁に開けられた水路を通って外の世界へと出てゆく。山々の雪解け水を集めた清らかな川水。加えて数多の湧水に恵まれたこの町は、こんな閉ざされた環境でも水問題とは無縁でいられる。
 川水が淡い紫の影をまとい始める。薄い薄い絽を徐々に降ろしていくように、夜のとばりが降りて来る。街灯がともりだし、馬車の北上とともにちらほらと増えてきた家々の窓も、黄色く暖かく浮き上がり始める。左前方の丘が切れて、中央区の方に眺望が開ける。「アイリス様の塔」の菫色の高い螺旋がちらりと覗く。その足元に石造りの官庁舎も見える。
 遠景には、夕焼けに照らされた霧ヶ峰山脈が、切り立った青い山肌の上に、雪原と氷河の筋をまとって、三百六十度そびえたっている。
 だいたいどうしてこれが霧ヶ峰なんだろう? 灯子は初めてここへ来た時からの疑問を晴らすことが出来ない。霧ヶ峰と言ったらここは長野県に当たるはずなのに、八ヶ岳も車山も槍ヶ岳も剣岳すらも、土地の人々の話には上らない。最高峰は厳六岳、次いで佐渡山、優に四千メートルは越している山々だという。
 富士山ですら真夏は雪がないのに、ここの山々は本物のアルプスよろしく万年雪をいただいているのだ。郊外にピクニックに行けば、黒百合とエーデルワイスとニッコウキスゲがチャンポンに咲いている。一体ここはどこだというのか? 
 異変があった時に北東北にいた自分も、北米やらアイルランドやらアフリカやら、更に言えば明らかに江戸時代以前の人である咲羅までもが、とりあえず手近な避難場所としてこの霧ヶ峰タウンに逃げ込んげ来たのだから、そもそもその時点で、灯子たちの居るこの世界の時空はおかしくなっているのかもしれない。
 でもそんなことも目の前に近づいてきている金曜日の悦楽の前では、灯子にとっての優先順位は底辺となってしまう。灯子は咲羅が作ってくれる鶏出汁スープのひっつみの舌触りを思い浮かべてつばを飲み込んだ。
 いくら教わったように生地を何時間も寝かせて引っ張っても、灯子の作るひっつみは団子のようにゴテゴテになってしまう。咲羅のように薄く均一でちゅるんとした喉越しには出来ない。
 「さすがにキャベツの浅漬けだけじゃ申し訳ないかな? 」
 灯子はそう独り言ちて、記憶している冷蔵庫の中身と相談し始める。
 「何だっていわよ。どうせ涼雅もイツキも、アーモンドだって何か持ち寄ってくれるんだろうから」
 「エスメラルダはどうするかな。またピザとか用意してくれてると嬉しいな」
 「まあ、あの人は暇人だもの。それにして灯子、食べることとなると熱が違うわね。その情熱をもうちょっと他のことに向けてくれるといいのだけれど。わたしがあげたカミツレの化粧水は使っている? 」
 「うん、乾燥が気になるときは……」
 実は適当にしか使用していないそれの甘い香りを思い出して、灯子はしどろもどろになった。町の上で山ガラスが鳴き交わし、乗合馬車はゴトゴトと揺れながら灯子たちを、すずかけ通りへとゆっくり運んでゆく。

 灯子たちの住んでいるエスポワールエスメラルダは、霧ヶ峰タウンの東地区の、すずかけ町すずかけ通りに位置している。灯子の部屋は二階にある203号室だった。咲羅の部屋はその隣の204号室だ。
 古い木造のアパートは、南北に伸びた短い通りに面して建てられていた。
 中央区がパリをモデルにしたと思しき放射状の通りを整然と巡らせているのとは対照的に、歴史ある居住区である東地区西地区の街並みは、ごちゃごちゃと無秩序で錯綜している。このすずかけ通りもまた、町の発展とともに無計画に伸ばされたと思しき、小さく意外性に満ちた通りである。
 道の両側には名前の通り、背は高いがキャラクターじみた、可愛らしいフォルムのすずかけの並木が、不規則な間隔で植えられている。建ち並ぶのはせいぜい三階建てが限度の、築五十年は経っていそうな木造の建物である。外壁はそろってペンキ塗り、それも白、青、黄色にピンク、様々な色合いである。
 エスポワールエスメラルダも木造二階建て、白いペンキの塗られた外壁も少し剥げかけた、まるで僻地の学校のような建物だ。屋根が瓦葺ではなくトタン葺きなのは、ここが雪の多い気候だからだろう。重量のある瓦は霧ヶ峰タウンの建物には向いていない。
 アパートの反対側にはすずかけの水と言う湧水があった。木製の水槽が張られた水くみ場の奥には祭壇があって、霧ヶ峰タウンの住民たちが崇拝している造物主様が祭られている。白木のお堂の中の極彩色なご神体は、男のようにペニスがあって、女のように何かを孕んでいる。男女同体、それが造物主様の特徴だった。そんなサイケデリックともいえる像の足元の水槽の水がたぷたぷと揺らめいて、石造りの水路の中へと溢れてゆく。溢れ出た水は近隣の湧き水たちと合流して、まるで網目模様のようなネットワークを作って、夜沢川へと流れ込んでゆくのだった。
 灯子たちが家へと帰りついたとき、その水路の上には薄暮への気配が落ち、家々の灯りが黄色く揺らいでいた。
 灯子は部屋に入ると汚れた白衣の入ったリュックをベッドの上に放り投げて、自分も大の字になってそこに倒れ込んだ。灯子は一分間ほどもそうやって棒っ切れのように転がっていたが、やがておもむろといった調子で起き上がると、狭いキッチンに置かれた小さな冷蔵庫を開ける。大きな鉢に、昨日漬けた大量のキャベツが入っている。
 残り物をチェックした灯子は、さすがに浅漬けだけでは申し訳ないので、今朝食べ余したゆで卵と、ニンニク、マヨネーズでドレッシングを作って、トマト三個とサラダにした。咲羅ならさぞや可愛らしく盛りつけただろうが、灯子にそんな芸当は無理である。ただボウルの中の大量のトマトの上に、卵色のドレッシングをどろりとかける。
 浅漬けとサラダを持って一階に降り、裏口から屋外用ライトを灯した庭へと出ると、ピンクの髪の毛を巻き髪にした巨大な女性(?  )が、細長い木のテーブルの上に、白いレースのクロスを降ろしているところだった。
 「あらあ、灯子、一番乗りじゃない、二品も用意したのお? 」
 彼女(? )が野太いのに甘ったるいという、なかなかに矛盾に満ちた発声で灯子に声をかけた。
 「浅漬けだけじゃ申し訳ないからね。エスメラルダは何か作ってきた? 」
 灯子は後の文節にはひとかたならぬ期待を込めて言った。
 「何と、バターチキンカレーがあるわよ。スパイスが手に入ったのお」
 「うはあ! 」
 灯子の目が一番星のように輝く。
 「灯子は食べることとなると前のめりねえ。でもアタシとしては、もっと別方面にも気持ちを入れて欲しいわあ」
 エスメラルダは195センチ101キロの体躯にまとった、ピンクの花柄ワンピースの腕を組んで唇を尖らせた。ローズピンクの口紅がこってりと塗られた唇の周りには、青々しいひげの剃り跡が分厚いファウンデーションでも隠蔽しきれずに目立っている。
 「エスメラルダまで咲羅と同じようなこと言うの? 」
 「咲羅? やっぱりあの子も同じこと考えていたのねえ」
 エスメラルダはそう言って、なおのこと唇を尖らせた。彼女(彼? )は灯子たちが暮らすアパート、エスポワールエスメラルダの大家である。見ての通りのオネエ、それもマドンナのごとく慈愛に満ち溢れたオネエであった。
 「あたしも咲羅も心配なのよお。秘めたる恋が秘められたままになってしまうんじゃないかって……」
 「誰が誰に恋してるって? 」
 通用口からすらりと背の高い金髪の青年が姿を現した。ルネッサンス期の彫像のように端正な顔には、その涼し気な容貌にはふさわしくない、下級生にちょっかいをかける小学生男子のようなにやにや笑いが浮かんでいた。
 「お帰りイツキ、イツキには関係ないよ」
 「まあ大方の予想はついてるけどな」
 「あらあやっぱりイツキも? 」
 「もう、イツキには言われたくない。イツキより難しい恋している人、この町にはいないじゃん! 」
 「お、いい香り、カレーか」
 「はぐらかさないでよ! 」
 「解ってるんならそっとしといてくれよ。叶う恋じゃないのは重々承知なんだから」
 「で、あたしには構うの? 」
 「灯子は手を差し出しさえすれば望みあるだろ」
 「いいわねえ、若いって」
 エスメラルダが首の前で祈るように手を組む。
 「イツキは何作ってきたの? 」
 今度は旗色が悪くなってきた灯子がはぐらかす。イツキは右手に持っていた金属製の大皿を掲げもった。
 「フライドポテトとソーセージの盛り合わせ。適当」
 「お、アメリカン」
 イツキ・ウォレットは彫像のように整った顔に、くつろいだ微笑みを浮かべて、ポテトとソーセージの大皿をテーブルの上にどんと置いた。
 イツキはすでに保安官の制服から、平服に着替えていた。灯子の適当な普段着と違い、ライトブルーのシャツは糊が利いているし、グレーのパンツもプレスがきちんとしている。イツキは長い脚をスマートに組み、隙のない仕草でテーブルの横に置かれたいすに座る。
 「涼雅はまだ? 」
 「一緒に六時上がりだったからもうそろそろ……」
 またもやにやにや笑いを浮かべてイツキが答える。
 「灯子、お疲れ」
 その言葉ととも、通用口から黒髪の青年が姿を現した。白いTシャツにブラックデニムというシンプルな装いは、派手ではないものの整った彼の容姿にとてもよく似合っている。背丈はイツキよりもやや低く、体の線が少し骨ばっている。彼は歯が浮いたような表情のイツキとエスメラルダ、顔を紅潮させた灯子を見て、興味津々と言った調子で問いかけた。 
 「何々、何の話? 今なんか面白いこと話してただろ」
 イツキとエスメラルダは顔を見合わせてこらえきれずに笑った。灯子はと言えば、
 「それ言わなきゃいけないの、何の罰ゲーム! 」
 と、ポコポコ噴煙を吹き出す火山のように一人おかんむりだ。
 森嶋涼雅は、男性にしてはやや蒼白い、柔和な顔に疑問符を張り付かせながら、手にした鉢を卓の上に置いた。
 「あ、きんぴらごぼうだ」
 「渋い! 」
 「咲羅直伝だよ。俺ここに来るまで料理なんてしたことなかったからな。レパートリーもだいぶ増えたけど、だいたいここに落ち着いて来るんだよ」
 「やっぱり咲羅も和食系が得意だもんね」
 「でも、この間は俺が故郷の味に飢えてるからって、ミートパイ焼いてくれたぜ」
 「そうだった。ここに来て間もなく、エスメラルダの親戚からガスオーブンももらったんだよね」
 「あの子は研究熱心ねえ。レシピもよく調べているのよ。いいお母さんになるわあ」
 そう他愛無い雑談をしていると、「薄暮」の「薄」の比重が薄くなりつつある庭に二条のライトがすうっと伸びてきた。赤いマイクロバスが、工業区より外側にある農業区から、退勤する労働者たちを送り終えて帰ってきたのだ。少し細長い車は砂利をパンパン弾きながら、器用にアパートの駐車場に停車する。
 「お疲れ」
 皆が声をかけると、車中の姉弟もまた元気よく声を返す。
 「お疲れ」
 町から運転を委託されているこのマイクロバスの運転席から、トマトのように真っ赤なツナギを着た女の子が、勢いよく滑り降りてくる。続いて助手席からは、ピーマンのような緑色のツナギを着た青年も、ごそごそと這い降りてきた。
 姉のチューリップ、弟のアーモンドのコル姉弟はともに農場で働いている。揃って小柄で華奢、ほわほわした質感の赤毛に、エメラルドのような緑色の瞳という、妖精のように愛らしい容貌だ。チューリップはその赤毛をショートカットにし、アーモンドは鎖骨までの長髪にしていた。
 「遅かったね」
 「今日は薬剤散布が長引いて」
 「でも大丈夫、料理は昨夜のうちに作り置きしといたから。着替えながら持ってくるよ」
 家事のほぼすべてを担当しているアーモンドが、丸眼鏡の鼻あてに指をやりながら答える。
 二人は荷物の入ったザックを抱えて、一階の南端の姉弟で住んでいる部屋へと向かった。101号室は、灯子たちが住んでいる部屋の二倍の間取りだ。
 やがてチューリップがぴょんと通用口から飛び出した。
 「あらあ、チューリップ、そのワンピース可愛いわねえ。真っ赤な綿布に緑の水玉なんて、あなたにピッタリよお。まるで妖精の座っているキノコみたい」
 「ありがとう。これとっても楽なんだよ。ガボッて被るだけでいいんだもん。ボク、楽な服以外来たくないんだ」
 「姉さんは一日中パジャマのままでいたいんだろう? まあ、かく言う僕も楽な格好に落ち着くけどね」
 アーモンドの方はダボっとした緑色のスウェットに着替えていた。手にはサラダボウルが抱えられ、中にはよく冷えたサラミのポテトサラダがてんこ盛りになっている。
 「咲羅は遅いね」
 「ひっつみ作ってくるって」
 「きっと今頃引き千切っているよ」
 「引き千切るからひっつみなんだよね」
 「俺のばあちゃんは、『はっと』って言ってた」
 待っている間に大量の氷をアイスペールに入れて運んできた灯子は、容器の表面にかいた汗を指で拭った。麦焼酎、日本酒、林檎ワイン、炭酸、梅干し、更にはすずかけの湧き水に冷茶にクラフトコーラの素、ドリンク類も準備万端だ。
 「灯子、運ぶの手伝って」
 二階から咲羅の額から抜けるような声が呼んだ。灯子はすぐに立ち上がった。カレーの蓋を開けて匂いを嗅いでいたチューリップもまたぴょんと立つ。
 三人でひっつみの大鍋と、出汁巻き卵とおにぎり、レアチーズケーキの皿を抱えて裏庭まで降りてくる。
 「随分凝ったなあ」
 「いける口じゃないメンバーがいるから厄介なのよ。肴だけだったならこんなに手こずらないもの」
 イツキが決まり悪そうに唇を歪める。アーモンドは丸い眼鏡の鼻あてに指をあて、最敬礼のように腰を曲げて丁寧に謝った。
 「申し訳ないです」
 「さ、みんな、乾杯しようぜ! ボク、早く飲みたい」
 チューリップが急かす。涼雅が手際よくみんなのグラスに飲み物を注ぎだす。
 「乾杯! 」
 一同はそう高らかに宣言して、ライトの黄色い光が漁火のように揺れるグラスをかかげ、かちんかちんと合わせた。灯子はお気に入りの王林のワインを口に含んで、杯に映る光さえ飲み干してしまおうかしらんと笑った。
 ――――これこれこれよ、この感覚! ―――― 
 まず咲羅の作ったひっつみの滋味深い汁を含み、生地を食す。舌で歯で、更に喉の奥でまでちゅるんちゅるんとした感触を堪能する。それをワインで流し込んでさっぱりさせた後、ひんやり冷たいポテトサラダを食べ、ちょっと味が濃い目のきんぴらごぼうをつまむ。そこでまたワイン。フライドポテトを口に放り込み、自分で作った浅漬けで箸休めする。おっと、バターチキンカレーも忘れてはいけない。小皿によそってどんどん口へ運ぶ。
 隣に座った咲羅は結構なペースで焼酎のロックを開けていく。彼女は飲んでいる最中には料理はつまむ程度だ。
 チューリップも、かなり濃い目に割った焼酎でどんどん楽しくなっていく。この小柄な体のどこに入るのか、料理の方も相撲取りのような勢いで消費していく。涼雅は終始ハイボールばかり飲んでいるし、イツキとアーモンドは、冷茶に氷を入れてもっぱら食べる専門である。
 和風お姫様然とした容姿と性格に反して、咲羅は結構な酒豪である。特に度数の高い焼酎を好んでいる。対していかにもスマートに呑みそうなイツキは、アルコールが全く駄目な体質だった。アーモンドは下戸なわけではないが、飲酒するとお腹を下してしまうという。二人とも酒には目もくれず、会話と料理だけを楽しんでいる。
 チューリップとエスメラルダがけたけたと笑い声を立てて、お互いの頬っぺたをつまみあっている。二人ともお酒の味が好きというよりも、酔って気分が盛り上がるのが楽しい質なのだる。
 灯子はすべてを楽しんでいた。美味しい料理を肴に美味しいお酒を飲みながらの、気の置けない仲間との歓談ほど楽しものはない。
 ――――あああ、毎日が金曜日だったらいいのになあ――――
 この時の灯子は、何時までもこんなぬるい暮らしが続くことを信じていたのだ。

ようこそ霧ヶ峰タウンへ

 あれは灯子十八歳、翌年に控えた大学受験のための勉強にいそしんでいる、秋の始め頃のことだった。
 世界中がどこもかしこも平和だったというわけではないが、とりあえず灯子たちの暮らすの身の回りに置いては平穏無事だったはずの元の世界に、その日何の前触れもなく「異変」が起きた。それは人が起こす災い、戦争、紛争、テロリズムなどとは全く成り立ちを異にした、理由不明な得体のしれない「異変」だった。
 その朝灯子はニュースで、雪など降らない常夏の国々で、氷点下のストームが吹き荒れだしたという映像記事を見た。何だろうといぶかしんだものの、所詮自分とは遠い世界の出来事と高をくくっていつも通り登校した。だが、その日の午後にそれは灯子たちの住む町にもやって来たのだ。
 まだ日差しが強いはずの九月の午後二時に、急激に空がどんよりしだした。わずか十分の間に窓ガラスが凍りだし、更には立春にしてもあり得ないというほどの猛烈な吹雪が吹き荒れだした。
 折悪く避難所であるはずの学校の体育館が補修工事中であったため、すぐに先生の指示で、学校から一キロ離れた武道館への避難が始まった。家のことを案じている暇もなかった。
 まだ夏服の白いシャツ一枚きりの生徒たちは、一列になって粛々と歩いた。当然誰も防寒着は持っておらず、皆尋常ではない寒さに震えた。雪に対応していないスニーカーの足をつるつると滑らせながら、灯子ももくもくと避難所を目指す。
 見上げれば空は日が暮れたように暗く、産業革命下のロンドンの空のように濁った灰色をしていた。「太陽が死んでしまった」、そんな言葉が頭に浮かんだ。生徒たちは軽口も忘れて、寒さにカタカタと歯を鳴らしながら、歩くことで少しでも体温をあげようと、目的地を目指し懸命に足を動かした。
 灯子がはぐれた、いや、はぐれさせられたのは、釣具店の前の小さな橋のたもとだ。橋に足をかけようと体重をずらした瞬間、右脇からヒグマほどもある、大きな犬の形をした獣が襲い掛かってきた。銀色の荒々しい毛並みの中に、アニメ映画の巨大な蟲の眼のように、赤い電球めいた瞳が爛々と燃えている。
 それは沢山いる生徒たちの中から、何故か灯子に狙いを定めていた。灯子がよろめきながら一度目の攻撃をかわすと、脅すように唸り、上半身も低くしなって、再び飛び掛かる用意を見せた。灯子は目を見張り、危うく尻餅をこらえた。それからたまらず叫び声をあげ、下流であるはずの左側へと逃げた。
 犬の形をした獣(今思えばあれは雪オオカミだった)は、ウォウウォウと吠えたてながら灯子を追いかけてきた。後ろの方でクラスの子が何か叫んでいるのが聞こえたが、灯子にはそれを聞き取る余裕もない。雪道によろめきながら懸命に逃げるしかなかった。
 すぐにでもとどめを刺せそうな雪オオカミはしかし、遊びながら狩りをするシャチのように、灯子が恐怖し逃げまどうさまを見て楽しんでいるようだった。灯子は寒さを忘れ、手足を引き千切る痛みさえ忘れ、背中を汗で冷たくさせながら転げるように逃げた。
 やがて足を滑らせて、川の土手から転がり落ちる。雪オオカミの気配が近くなった。今ならがら空きの首筋に牙を突き立てられそうなのに、それはなぶるように唸り声をあげてゆっくりと灯子に迫る。灯子は新雪に半ば埋もれ、這うようにして、尚も下流の方へと逃げ延びようとする。
 雪だるまのようになって逃げていると、ふと右手の景色に違和感を感じた。素早く視線を送る。川の向こう岸が少しだけ明るくなっている。そこだけ雪雲が切れ菫色の薄日が差し、見慣れた町の風景とは全く異質な、険しい山々のフォルムがくっきりと浮かび上がっていた。
 それは灯子が見慣れている山並みよりも明らかに高い角度にあった。その山肌は地上の吹雪にもももろともせず、青瑪瑙のように澄み、ただそこに在ることだけで厳父のような存在感を放っていた。
 超然とそびえる山々の懐に抱かれるように、灰色の「何か」(多分これは人工物だ)が、林檎を剥いた皮のようにひらひらと収まっているのが見える。何だろう? 灯子は近視気味の目を凝らす。壁だ、壁が築かれている、灰色の石壁だ。壁の中には何がある? そうだ町だ、町がある、まるで中世ヨーロッパの都市国家みたいな町だ。
 そう連想がつながると、灯子には本能的なひらめきが落ちた。きっとあそこは安全に違いないぞ。
 後から説明を求められても、どうしてもそう確信できた理由を答えることは出来なかった。ただそう直感したのだ。そして灯子は、そういった直観を裏切られたことはほとんどないのだ。
 もちろんこの時の判断は一瞬だった。なぶるような雪オオカミの気配はどんどん近づいているし、このまま追いかけっこを続けていれば、確実に凍死してしまう。灯子は全力で走りながら、渡れる橋を探した。
 やがて進入禁止の標識が立った小さな橋を見つけ、雪に覆われた土手を這いあがる。信号機が止まった交差点を突っ切り、一気に橋を走り抜ける。雪の紗の向こう側に間近に、さっきまで遠くにあるように見えた灰色の石壁が迫っていた。
 灯子は石壁に掌を当て、ペタペタと叩いた。石は厳冬期の氷のように乾いた冷たさを湛えていた。山脈と比べれば小人ほどの背丈に見えたのに、足元に立ってみればそれは見上げるような高さだ。灯子は左手を壁に沿うようにして、左回りに壁を探って走った。どこかに出入り口があるはずだと、何故かはっきり確信していた。
 何時の間にか辺りの景色は、見慣れた地元の街並みから、ロシア民話を連想させる針葉樹の森に移り変わってしまっていた。降りしきる雪に、暗緑色の森は色の無い墨絵のように濃淡のグラデーションを作っている。厳かな森だった。残酷なものが潜んでいるのと同時に、神々しい存在もまた宿っているかのようだった。灯子には疑ったり不思議に思ったりしている余裕はなかった。雪オオカミの声が、吹雪の音に切れ切れに届いている。
 ふいに真っ赤な点々が白一辺倒だった視界に飛び込んできた。南天の実だ。壁際に南天の茂みがあるのだ。そのクリスマスの暖炉を連想させる鮮やかな赤に、はっとして足が止まる。まるでその実が目印であるかのように、巨大な木戸が姿を現した。灯子は一瞬、クレーン車さえ入れるかと思われるほどの間口を見上げてはっと息を吐いたが、すぐに我に返ってバンバンと扉を叩いた。
 「開けてください、お願い助けて! 」
 「もし、もし、どなたかそこにおられますか? 」
 右側から、額から抜けるようなソプラノの声が響いた。視線を走らせると、市女笠を被り、桜色の壺装束で身を固めた若い女性が、灯子と同様に雪まみれで立ちすくんでいた。
 彼女は市女笠の垂を持ち上げてこちらを覗き込んだ。寒さに頬と鼻のあたりが赤くなっていたが、雪白の肌に、宇宙を思わせる少し青い瞳をした美しい娘だった。年齢は灯子と同じか少し上か。
 「あなたも逃げてきたの? 」
 ウウウウウウウウウ、灯子はぞくりとしながら振り返った。灯子たちの周りを複数の獰猛な気配が取り囲んでいる。真っ白いストームの中に、赤い電球のような目が何対も輝いている。何時の間にか数を増やした雪オオカミが、灯子と娘を追い詰めるかのように唸り声をあげる。彼らは息を合わせたようにじりじりと包囲網を狭めた。
 ガウウウウウウ、一体が咆哮して真っ直ぐと灯子にとびかかって来る。灯子は金切声を上げ、雪に覆われた大地の上に伏せた。
 ドオオオオオン、破裂音が響き渡って、灯子を襲おうとしていた雪オオカミが、蹴とばされた犬のように甲高い悲鳴を上げる。目を開けて見上げれば、扉の上の方から、オレンジ色の火薬の軌跡が連発して伸びていた。ドオオン、ドオオン、まるでロケット花火のようだ。光球は直線を描いて混乱した獣の群れに飛び込んでゆく。ものの十秒もしないうちに灯子たちを取り囲んでいた雪オオカミの気配は四散していった。
 「おい、無事か? 」
 かすれた男性の声が降ってきた。さっきまで厳重に閉ざされていた木戸が、ギシギシと音を立てて開く。
 木戸の中、つまりは壁の内側から、暖かく少し湿った風が流れ込んで、灯子の凍え切った頬を温めた。柔らかく差す光を背負うようにして、数人の人影が見えた。軍人っぽい迷彩柄の服を着た彼らは、バズーカ砲のようなものを構えて、太いパンツを履いた足を開いて立っている。
 「さあ、早く入って、入るのよ」
 女性にしては低くハスキーな声が強い調子でそう言って、扉の外で逡巡している灯子と、市女笠の娘を急かした。灯子は考えるのはひとまず後回しにして、その温かい光が漏れてくる扉の中に飛び込んだ。市女笠の娘もやはり中へと転がり込んで来る。
 ギシギシと音を立てて扉が閉まる。分厚い木製の戸がぴったりと閉じてしまえば、体中を包んでいた冷気はその源を封じられて消えた。扉の中は、今朝まで過ごしたの初秋の穏やかな気候のように暖かくかつ涼しかった。あの獣の唸り声を思い返して、灯子は大きくため息をついた。
 「危機一髪だったな。どこか痛いところはないか? 」
 この声はさっき扉の上から降ってきたあのかすれ声ではない。身長二メートルはあるのではないかと思われるほど大柄で筋肉質な男の人が、体つきに反して囁くような小声で語りかけてきたのだ。彼の灰色の髪の毛は、タンクトップからのぞく首や背中にまで広がっている。まるでたてがみのようだなと灯子は思った。たてがみの男は灯子たちを怯えさせないためなのか、大きな体を小さく丸めて、小さな花を摘むような姿勢で手を差し伸べた。
 「かたじけのうございます。助かりました」
 呆然としている灯子が答える前に、乱れた袿の裾を直しながら市女笠の娘がそつなく礼をとった。この緊急時にもかかわらずその所作はよどみなく、淑やかで品格に満ちている。灯子も思い出したように頭を下げる。
 「あ、ありがとうございます」
 「外の世界では何が起こっているの? 」
 全身を迷彩柄で固めた、背が高く筋肉質で、忠実にして知的な軍用犬を思わせる女性が、ひそめたようにこう尋ねる。それは灯子たちに中に入るように促した、ハスキーな声の持ち主だった。
 「ええ、突如氷雪が吹き荒れまして……」
 やはり答えたのは市女笠の娘だった。灯子はただウサギのような目を見開いて、座り込んだまま口をパクパクさせているだけだ。
 「今日の避難民はお前たちですでに十人目だ」
 頭上からさっきのあのかすれ声が降ってきた。顔をあげると、原始的な猿のように身軽な身のこなしで、一人の男が城門脇の物見やぐらの階段を駆け降りてきた。くりんくりんの天然パーマにカンカン帽をかぶり、黄色い花の咲いた真っ赤なアロハシャツの襟を開け、ラクダのステテコを履くという怪しいいでたちをしていた。
 「ようこそ、霧ヶ峰タウンへ。俺はリーダーのピノ、こっちは防衛軍の司令官オオカミ、背が高い女は副官のカリンだ」
 そう言って、ピノと名乗る男は愛想よく微笑んだ。灯子はその微笑みを見て、命の恩人であるはずの彼に対して失礼にも、こう頭の中で独り言ちた。
 ――――こんな胡散臭い笑顔の人は見たことがないなあ……――――

 灯子たちはピノと名乗る男たちのジープに乗って町を目指した。
 壁の中には雪と氷の世界とは打って変わって、長閑さが髪の毛の先まで満ちてゆきそうな、生き物の命で大地さえ薫るような世界が広がっていた。ジープは何色にも及ぶ緑と、黄色や赤みを帯びた畑がパッチワークのように連なる農業地帯を軽快に飛ばした。でんぱたにはぴかぴかの農業機器が行き交い、思い思いの作業着を着た人々がのんびりと働いている。道々ピノから町についての説明を受ける。
 「俺たちの町は霧ヶ峰タウンと言う。霧ヶ峰山脈の山懐に切り開かれた町だ。今のところ人口は五万人。
 お前たちが今入ってきたのは第二の城壁。第二の城壁の外側には見て来ただろう、雪と氷の世界が広がっている。だから交易するのも命懸けだ。そうなんだ、交易も細々とだがやってはいるんだ。だが、あの寒気と忌々しい雪オオカミのせいで、他の町とも大々的には商売できない。武装した行商人がまばらに行き来する程度だ。つまりここは閉ざされた世界で、ほぼ自給自足制ってことだ。
 第二と第一の城壁の間には農業地帯がある。ここで町内消費の農産品をほぼ賄っている。もちろん町で育てられない作物や、生産できない工業品も一部ある。そういう物資は交易に頼るしかない。輸出品として有益なのは、まずサトウダイコンだな。これが一番金になる。お前たちも町で暮らすんなら、お砂糖には不自由しないよ。
 そして第一の城壁の中に居住区がある。ここは小さいがなかなかに快適な町だ。きれいな川も流れているし、湧き水も多い。下水道だって整備されている。冬場はちょっと寒くて雪が多いけど、夏は楽だぜ。まあ、エアコンは無いから手動式で涼をとるしかないがね。でもしのげない暑さではない。電気は通っているよ。風力と水力の発電所が郊外にあるんだ。ガスもある。でも電話はない。スマホは製造できないし電波も通っていない。もちろんネットもない。テレビもない」
 その部分の説明を聞いた灯子は、うへえっと思った。余暇を楽しむ手段がほぼない。何を楽しみに生活すればいいんだろう? 
 そこまで考えて灯子はふと違和感を覚えた。自分はずっと前から、ネットやSNSだけを楽しみに生活していたのだろうか? いや、むしろ避けて生きて来たんじゃなかっただろうか?    
 「でんわにねっとにすまほ? それよりも、わたくしたちはその町へ運ばれたのちはどういう扱いとなるのでしょうか? 流民は売買の対象となるのでしょうか? 」
 千鳥咲羅と名乗った娘が口をはさんだ。のほほんと外を観察している灯子とは違い、彼女は少し青い目に怯えを浮かべ、本当はつややかなはずのその唇もまだ青ざめて見える。
 車中では邪魔な市女笠を外したので、漆黒の美しい髪が腰まで流れているのがあらわになる。袿の、明らかに高級品の絹の布地を盛り上げる体の曲線は、同性である灯子の目から見てもかなり魅惑的だ。
 灯子は思わずうっとりしてしまう。本当に綺麗な女の子だ。まるでアニメかマンガのヒロインみたいではないか。市女笠を被っているあたり、和風伝奇ものかなんかがぴったりである。
 ――――お友達になりたいなあ――――
 灯子はのほほんと悠長な微笑みを浮かべる。咲羅の不安など一向に解せず、ピノやオオカミたちが自分を悪く扱うはずないと思い込んでいる。灯子には根拠などない。ただ自分が直感していることだけが根拠だ。そしてオオカミはあっさりと、その思い込みを肯定した。
 「いいや、避難民はアイリス様の許可が下りれば、戸籍を与えられて市民の扱いとなる。町はこの方法で人口を増やしてきた。お前たちにもこれから『アイリス様の塔』に行ってもらう。まず拒まれることはない。安心するといい」
 相変わらず囁くような声だった。カリンもこう口を添える。
 「この町の城壁に結界を張って、外からの脅威を防いでいるのは、巫女姫であらせられるアイリス様なのよ」 
 ここで灯子たちはアイリス様についての説明も受けた。特定の血筋に生まれる選ばれた乙女が、結界の巫女となる資格を得られる。このへんてこな霧ヶ峰タウンは、様々な時空とつながっている。そしてその国々が危機に瀕するたびに、多種多様な時空から避難民が流れ着いて来る。それらを受け入れることで霧ヶ峰タウンは発展してきたという。アイリス様は城壁の中を雪と氷や雪オオカミから護るだけではなく、避難民が順応する者か仇なすものかを見極める霊力をも備えているのだ。
 やがて車は緑の農業地帯を抜けて、第一の城壁の門をくぐり居住区内に入った。
 壁の中に入ると一瞬で空気の色が変わる。豊穣で眠たくなるほど甘い光に満ちていた景色が急激に色彩と密度を増し、細やかでより多彩、より饒舌になる。
 木造の古い家々はカラフルなペンキの上から風雨に洗われ、黒ずんだ木肌をさらしている。町のそこかしこに、網目のような水路が巡っている。その水の色は澄み切ってきんと冷たそうだ。道に沿い、庭木ともつれ合うようにして街路樹が街を彩っている。木の葉はまだ夏の名残をとどめた緑色だ。
 本物の暮らしがない所には出せない、エキゾチックな匂いが漂っている。住人の体臭と食べ物と、水と土と工業製品の放つ、慣れてしまうと感じ取ることができなくなる、どこか胸苦しく懐かしい匂い。
 軒には揺れる洗濯物、屋根の上には猫。塔を目指してスピードを出しているジープとは、比べ物にならないほどのんびりと、馬車や馬やロバが歩いている。蹄の音と首に吊るされた鈴音が、灯子の生まれ育った町とは全く異質な、この町独自の生活のリズムを刻んでいる。
 灯子は魅入られたように車窓を覗き込見ながらこう思った。
 小さくこじんまりとしていて、何て過ごしやすそうな町なんだろう。自分もここで暮らすことになるのだろうか? それともアイリス様とやらの審判で引っかかったら、再び雪と氷の世界に追い出されてしまうのだろうか? 
 そんなはずないなと灯子は思う。こんな温かな手触りの町が、自分を拒むなんて絶対にない。何故ならもう何年も暮らしてきたみたいに、風が肌になじんできているではないか。
 ジープはやがて、路地と建物と水路が、名人の作ったレゴブロックのように錯綜する居住区を抜け、塔のあるという中央区へと進み入った。
 またもや景色が一変した。あの魅惑的な迷路みたいだった多彩さ、饒舌さが別のものへと切り替わった。それは無機質で均質な美しさだった。城壁を形作っていたのと同じ灰色の石で、装飾を排した建物が築かれ、道もまた整然と整備されている。
 道という道は定規で引いた線のようにまっすぐだった。だが碁盤の目とは少し違う。それより道と道の長さに差がある。  
 「塔」に近づくにつれてその意味が解るようになる。中央区はパリのシャンゼリゼ大通りよろしく、「塔」を中心に八条の大路を伸ばしているのだ。路地も横道も、それをつなぐ八角形にめぐらされている。
 建ち並んでいる大きな商店や官庁舎は、民家よりも背が高く五階建てほどのものまである。商店には電飾で出来た看板が掲げられ、今それは光を落として陽光にしらしらと照らされている。町役場と思しき建物には「ようこそ霧ヶ峰タウンへ」と書かれた大きな横断幕が掲げられている。「あの字は俺が書いたんだ」と、ピノがかすれた声で自慢した。
 「アイリス様の塔」は、周りの建物の倍ほどはある高さだった。灯子に石や鉱物の知識はないので種類はわからないが、それは半透明な菫色の石で出来ていた。石壁は宝石のように滑らかに磨かれ、その塔自体がまるで巨大な紫水晶の結晶であるかのように、すっくと天を突き、初秋の澄んだ陽光をキラキラと反射させている。
 造りはケーキを重ねたような段々ではない。外壁にめぐらされた階段が、ぐるぐると螺旋に続いている。灯子はこれと似たものをどこかで見たなあと思った。少し考えてああそうだったと思いだす。図鑑か何かで見たバベルの塔に似ているのだ。だがこの塔は、禍々しさはまったく感じない。天上へと憧れる人々の心の体現であるかのように、真っ直ぐに凛然と天を見据えている。
 灯子はピノたちに連れられて、外壁にとり付いた階段を上った。昇り慣れたピノたちはいざ知らず、灯子も咲羅も五階を過ぎたところで息絶え絶えとなった。
 やがて汗だくの灯子たちは控えの間に通された。審判を受ける人はここで、アイリス様が準備を整えるまで待たされるのだ。

 そこは窓の広い部屋だった。塔より高い建物がないため、窓の外には切り立った山々と、気持ちの良い青空の景色だけが広がっている。壁は宝石のように磨かれた、外壁と同じ菫色の石壁だった。今はともっていないが、白い蝋燭を沢山立てた贅沢なシャンデリアが吊るされている。その中心を囲むようにして、白に菫を刺繍した布張りのソファーが四脚おかれていた。
 灯子と咲羅が通された時、もうすでに四人の人物がそのソファーに腰かけて、アイリス様の審判を待っていた。どうやら灯子と同年代と見える彼らは、二人を認めると、居住まいを少しだけ正してぎこちなく笑顔を浮かべた。
 「こんにちは。君たちも審判を受けに来た人? 」
 すらりと背が高く、鮮やかな金髪に青い目の、特に額から眉骨にかけての骨格が美しい、まるで若い木立を連想させるようなハンサムな青年が話しかけてきた。その表情からは、皆を緊張から解き放とうとする真っ当な思い遣りがくみ取れる。
 「ええ。わたくしたちも先ほど流れ着きました。あなた方も審判ですの? 」
 「ああ。俺もつい一時間ほど前にここへ保護されたんだ。俺はイツキ・ウォレット。北米ロードアイランドはプロヴィデンスから来た」
 「え、知ってる。恐怖小説で有名なところだ」
 イツキの隣のソファーに掛けていた黒い学生ズボンの少年が、思わずと言った調子で身を乗り出してくる。イツキよりは小柄なものの、その身長は高い方だろう。黒髪に深い黒の瞳。やや蒼白い肌に柔和な顔立ちをした、灯子とほぼ同じくらいの年頃の子だ。
 「ラブクラフトを読んだのか? 」
 「読書が趣味なんだ」
 「君、名前は? 」
 「俺は森嶋涼雅。日本の江刈市から来た」
 「え、あたしと一緒じゃん」
 灯子はウサギのような奥二重の目を見張り、、思わずとぼけた声で叫んだ。同じ町からここに迷い込ん出来た人がいるのは幸運だと思った。それだけでとても心強く感じた。
 「どこの学校? 」
 「緑風高校」
 「男子校だ」
 「何年生? 」
 「二年」
 「じゃあ、一個下だ」
 「センパイ、名前は? 」
 「宝来灯子。江刈東高校だよ」
 「進学校じゃん」
 「中途半端なね」
 「リョウガにトウコ、どういう字を使うんだ? 俺ちょっとだけ日本語かじっているんだ」
 「Cool、(涼しい)にElegant(雅やか)」
 「Light(ともしび)のChild(子)」
 涼雅が薄く骨ばった肩を乗り出して尋ねた。
 「なあ、イツキって言った? 日系人には見えないけど何で日本語名なの? 」
 「親父が大学で日本文学を教えている。ちなみに妹はメイじゃなくってサツキっていう」
 元々緊張していない灯子は噴き出した。涼雅もくしゃりと表情を緩めている。イツキはグレーのパンツを履いた長い脚を組み替え、誠実で気配りのできる人柄を感じさせる笑顔で、不安げに立ったままの咲羅にも問いかけた。
 「そっちの美人さんは、まさかコスプレ会場から来たのかい? 」
 「こすぷれ? 我が名は千鳥咲羅、霧州の国司の娘でございます」
 「ムシュウ? 」
 「霧州ってどこ? 」
 「みちのくの果ての険しい山国です」
 「俺たちも東北の果ての方から来たけど、そんな国名は知らない」
 咲羅の顔にさっと影が差した。明らかにより蒼ざめて、途方に暮れたような表情になった。
 「何と、霧州を知らぬと、黄州に次ぐ大国でございましたのに……」
 「ねえねえ咲羅さん、今って何年だった? 西暦って分かる? 」
 涼雅の問いかけに咲羅がこう答えた。
 「慧元三年にございました。あのう、せいれきとは……」
 「慧元三年、センパイ分かる? 」
 「分からない。あのねえ、あたしたちが来た日本は今、令和五年なんだ」
 「令和……」
 「ねえねえ、咲羅さん、市女笠なんか被ってたってことは、あなたはどこかからどこかへと旅している途中だったんだよね」
 灯子は身振りで咲羅にソファーをすすめながら、努めて穏やかに質問した。もし自分の仮定が正しかったら、咲羅は今どんなにか心細い状況であることか。
 咲羅は素直に腰を下ろしながら、にわかには現実を受け入れがたいと言った表情で、こう答えた。
 「わたくしは将軍様の命で、菊之助とこの世の存亡にかかわるという、文書を探す旅の途中だったのでございます。しかし猛吹雪に出会い、あの山犬のような物の怪に追われ……」
 「将軍? あなたの時代には将軍がいるの? じゃあやっぱり……」
 イツキがぽかんとしながらこう問いかけた。
 「ショウグン、それってトクガワ? 」
 灯子は咲羅の着物と髪型、今はかかえられている市女笠を観察した。いいや、これは明らかに江戸時代以前の物だろう。
 「いいや足利かも……」
 同じ町にいた涼雅が、同じようにここへ迷い込んできたことはすとんと納得が出来る。 
 だが、イツキはアメリカにいた。咲羅は数百年前にいた。距離も時間も滅茶苦茶だ。そう言えばピノが、「様々な時空から避難民が来る」、というようなことを言っていたような気がする。それはつまりはこういうことなのか? 
 「菊之助さんていう人とはぐれたの? 」
 灯子はウサギのような目を少し上目遣いにして、震えている咲羅を見つめた。菊之助と言うのはもしかしたら……、気遣う思いで言葉を呑んでいると、穏やかに咲羅を見つめながらも、イツキが正面から質問をぶつけた。
 「ねえ、サクラ、キクノスケって君の大切な人だったの? 」
 やはりイツキもそう思ったのか。
 「菊之助は家臣ではございますが、七世を誓った仲にございます」
 「大丈夫、きっと無事でいるよ。もう今日明日にも、ここに保護されるよ」
 灯子も言った。咲羅は震えながら少し鼻をすすった。泣いている咲羅はなおのこと可憐で美しかった。やはり何かのヒロインのように思われた。状況からするとかなり無責任に、灯子の心はときめいている。咲羅の様子は灯子が心に負った何らかの傷を、神秘的に満たしていく作用を持っていた。
 するとそこで、話に取り残されたと感じたのか、あとの二人のうち、真っ赤な赤毛をショートカットにした妖精のような女の子が、待ちきれないといった感じで自己紹介を始めた。
 「ねえ、ボクの名前はチューリップ・コル。アイルランドはリムリックから来た。隣が弟のアーモンド。君たちもやっぱりあの銀色の、狼みたいなやつから逃げてきたのかい? 」
 彼女は大きな緑色の瞳を、何かに急き立てられてでもいるかのようにピカピカと光らせながら言った。
 「ほらアーモンドも自己紹介しなよ」
 隣に座っている華奢で中性的な丸眼鏡の少年、(チューリップ同じように赤毛で緑の瞳)もおずおずとあいさつをする。
 「どうも、アーモンドです」
 「あれって何だったんだろうね。銀色で赤い目で、馬鹿でっかい狼みたいなやつ」
 チューリップが自己紹介の時の勢いのままに問いかけた。まるで今、こんなに暖かく明るい部屋にいてもなお、あの残忍な雪オオカミに追い立てられてでもいるみたいな目をしている。
 「あいつ、俺のことしっかり識別していたよ。避難する学校の奴らの中から一人俺を選んで追い立てたんだ」
 涼雅の言葉に灯子が相槌を打つ。
 「それってあたしと全く同じ」
 「俺もそうだ。キャンパスの大勢の仲間たちには見向きもしないで、あれは俺だけを真っ直ぐ狙っていた」
 イツキがそう言えばチューリップたちも口をそろえる。
 「ボクらもだよ。学校の講堂から、僕ら姉弟二人だけが追っかけられたんだ」
 「ほんとさ、しつこいよねあのオオカミ」
 「それでいてなぶるみたいに延々ととどめを刺さない」
 先ほど味わった恐怖の鬱憤を晴らすかのように、皆口々に雪オオカミを糾弾した。
 「菊之助! 」
 咲羅が叫んだ。
 「菊之助は無事なのでしょうか? もしやわたしとはぐれた後、あの銀色の山犬に襲われて……」
 チューリップが言った。
 「キクノスケってサムライ? だったら強いんじゃない? 刀でぐるぐるーって、炎の渦巻きとか出せるんじゃない? 」
 「姉さん、マンガの読みすぎ」
 蒼ざめ引きつったた顔ながらも、まるでそれが自分の投げ出せない使命だとでも言うように、すかさずアーモンドがツッコミを入れる。  
 「チューリップって言った? すごい中二病だね。歳は幾つ? 」
 どうやら年下らしいと当たりを付け、大変失礼なことも付け加えながら灯子は質問する。
 「十七歳」
 「はあ。十七にもなって中二病……」
 やはり蒼ざめ引きつった顔のまま、アーモンドがぼそりと言う。どうやらこの姉弟は、姉よりも弟が精神的に大人らしい。
 「だってそうだったなら面白いじゃん」
 そう言い張るチューリップを、呆れたようにアーモンドがたしなめる。
 「面白いとか面白くないっていう問題じゃないよ」
 その言葉を引き取ってイツキがこう言う。
 「待て待て、この場合面白い展開だったほうが救いがあるぜ」
 「まんが? ちゅうにびょう? 」
 これは室町時代にはなかった語彙だろう。咲羅のその弁を聞くとチューリップは、面倒くさがったりめげたりするそぶりも見せずに、機関銃のように説明を始めた。
 「あのね、絵で物語を表現するのがマンガ。一ページが何コマにも分けられて、そのつながりで時間と空間を表す。吹き出しっていうのがあって、その……」
 そのとき灯子は察することはなかった。チューリップの多弁は不安に追い立てられているかのようなものだ。イツキの快活さは周りに対する気づかいだし、涼雅の表情も微妙に陰っている。アーモンドは明らかにびくびくとしているし、咲羅の唇だって蒼ざめたままだ。
 灯子一人だけがこの状況をのほほんと楽しんでいた。家に帰りたいとか家族と連絡を取らなきゃとも思わなかった。外の世界での思い出や生活の比重はこの上なく軽くなっていた。これからずうっと続く人生のレールが果てしなく、この町の中に伸びて行っているような気がした。何を憶えていて、何を忘れてしまったのか。憶えていないことは多分、忘れてしまいたいことだったのだろう。何時しか灯子は忘れたことさえ忘れてしまう。
 そのまま六人は審判を待つ間、しみじみと交流を温めた。短い時間ではあったが、彼らの間にはぼんやりとした連帯感が生まれていた。
 「ああ、腹減ったな」
 「かなり寒い所走って逃げたから」
 「寒さが極端だとカロリー消費するんだ」
 「ボク今日家に帰ったらブドウのタルトを食べるのを楽しみにしていたんだ。今頃冷凍になっているよ」
 「冷蔵庫ごとね」
 「おばあちゃんのひっつみが食べたい」
 「材料があればわたしが作ってあげてよ」
 「おおい、お待たせー」
 相変わらず胡散臭い笑顔で、ピノが扉を開けて手招きする。
 彼に付き従って、六人は最上階にある審判の間に通された。
 わずか五分ほどの審判で、アイリス様は六人に市民権を与える判断を下した。
 その日の夕刻には、六人はそろってエスメラルダのアパートに引き取られた。部屋には寝具、ガスコンロ、冷蔵庫、洗濯機は備え付けだった。そして六人は体一つでそこに収まった。文字通り着の身着のままだった。
 その週のうちには皆仕事が割り振られた。灯子と咲羅は公営の食品加工工場に、涼雅とイツキは町の保安署に、チューリップとアーモンドは公営の農場に、それぞれ二人ずつ配置された。
 それから三年、灯子はこの町で暮らしている。ひたすら心穏やかに。

翳りだしたぬるい暮らし

 土曜日の朝、平日ならば始業時間の午前八時に、かなりゆっくりと灯子は目覚めた。
 何だか変な、あまり思い出したくない夢を見たような気がした。体が凍えて、手足の感覚がなくなっていくような、段々と死に近くなっていくような、そんな夢だった。
 水を飲んで洗面所へ行き、鏡を見る。焦げ茶色のボブに、爆発したような寝癖がついている。ウサギのように赤みを帯びた奥二重の目は、余計に重たくむくんでいるし、右目尻には、涙が流れたような跡があった。
 灯子は蛇口から水を出して豪快にじゃぶじゃぶと髪を濡らした。その後で、町の工場で生産されている、昔ながらの製法の硬い石鹼で顔を洗う。思い出したように咲羅からもらった化粧水をつけて、乱暴にパンパンとはたいた。
 縞々のパジャマを脱いで放り投げ、蜜柑色のTシャツと履き古したブルーデニムに着替える。それから玄関を出て階段を降り、アパート共通の入り口の奥に設置されている牛乳瓶受けを開けた。全部で六本入っているべき新鮮な牛乳が三本残っている。
 そうだった、と灯子は思い出す。イツキと涼雅はたしか仕事だった。咲羅もおおかたもう起きてるのだろう。そんなことをぼんやり考えていると、荒い息に膨らみながらも爽やかに呼ぶ声が聞こえた。
 「おはよう灯子」
 通りの方に目をやると、黒いジャージを着た涼雅が、すずかけ通りを北の方から軽快に駆けてくるのが見えた。彼は息を弾ませながら門の前に枝を伸ばすすずかけの木の下をくぐると、錆びかけた金属製の扉をギイと開け、タッタッと規則的な足並みのまま、アパートの敷地に入って走るのをやめる。
 「あ、涼雅おはよう、走り込み? 」
 「ああ。なるべく戦力でいたいからな」
 そう言いながら涼雅は自分の膝を抱えてしゃがみこみ、一瞬ハアハアとした後で、クールダウンとして、屈伸や伸びなどの軽いストレッチを始めた。これもイツキに教わった方法なのだろうか。
 涼雅はイツキとともに、町のサッカーチーム「ジャグワール東霧ケ峰」に所属している。涼雅のこれまでのサッカー経験は、体育の授業を受けた程度のものだったそうだが、この町に暮らすうえで彼はチームに参加した。
 というのも霧ヶ峰タウンの娯楽はと言えば、歌と踊りと読書、市民演劇と市民スポーツぐらいしかない。少しでも有意義な余暇を求めようと思うのならば、何らかの団体に所属するのが一番手っ取り早い。そして、物資不足の町で気軽に始められるスポーツは、野球ではなくサッカーだった。
 イツキは小学生のころからサッカーをしていたそうだ。今もチームのエースストライカーである。対して涼雅はレギュラーと控えの境界ら辺にいるらしい。仕事の上で「相棒」であるイツキに懸命に届こうと、涼雅はコツコツと努力をしていた。
 涼雅のやや蒼白い顔は、今はほわりと赤く火照っていた。額や鼻の下に、汗が細かな水滴を作っている。少しだけ、若い獣じみた体臭が香った。
 灯子は体の内に、もぞもぞうずくようなひどく歯がゆい感覚を覚えた。頬が熱い、耳が熱い、今すぐベッドにダイブして、両手足をジッタンバッタンさせたい。まるでエデンの毒蛇に指先を嚙みつかれたようではないか。死さえ近づけてしまいそうな甘い毒が、灯子のからだ中を駆け巡っている。
 だが灯子は、現実には愛想よく微笑んだだけだった。
 「頑張ってるねえ」
 当たり障りのない一言を芝居がかった調子で口にする。適当に濡らしてきただけで、爆発を隠しきれていない中途半端な長さの髪の毛に、今更ながら灯子は激しい羞恥心を憶えた。灯子は指で髪の毛を引っ張りながら、ニンジンを食むウサギのように口をもごもごと動かした。 
 ああ、この想いは伝えるべきか、伝えぬべきか。「衣装と恋文」に欠ける灯子にもやはり、秘めたる恋心はあるのだ。ここへ越してきてもう三年も、本丸の周りでただひたすらうろうろとしている。想いは告げられず、かといって諦めるような事態にもならない。涼雅は灯子に優しくて、だが決定的な意思表示もない。OKともNOとも。だからますます灯子は自分から動くことが怖くなる。
 ただ結果に怯えているだけだなんて、格好が悪く情けない限りだと、灯子にももよく分かっていた。イツキに色々と言われるのも道理なのである。灯子にも一応の自覚はあった。
 「出勤前に走り込みなんてさ、誰にでもできることじゃないよ。あたしなんて特にダラダラと……」
 「いいや、頑張るしかないのさ、上を目指そうと思うんだったら、う、コフッ……」
 突如言葉の途中で突き上げるように涼雅が咳き込んだ。気管支全部からひくひくと絞り出される、ひどく苦しそうな咳だった。涼雅はどうやら、灯子に咳き込んでいるところを見せたくないようだった。顔を背けるように背中を丸くして、それでもこらえきれず全身を使って咳き込み続ける。
 「涼雅、どうしたの、大丈夫? 」
 灯子は思わず涼雅の背中に手を回しかけてひっこめた。背中をさすってあげた方がいいのだろうか? でも、触ったら迷惑なのだろうか? どちらとも結論をつけられず、灯子はただ涼雅の周りであたふたする。ああ、これにかこつけて触れればよかったんだと悟ったのは、涼雅の咳が収まった後のことだった。
 咳き込んだからだけとは思えない、涼雅の引きつった顔を見て、灯子は思わずひそめた声で問うた。
 「ねえ、大丈夫? そう言えば前も咳してたことがなかった? 」
 「ああ、ちょっとなんか引っかかっただけだ。別に病気じゃないから心配いらないよ」
 赤らんでいた涼雅のの頬は、夏の衰えを知る夕暮れ時の影のように、少し青ざめて見えた。
 「そう? 本当に? 本当に大丈夫? 」
 「しつこいなあ灯子。どこも痛くないよ」
 涼雅の前に立ち尽くしておたおたしていると、すげなくこう言われた。
 「そこに立ってると部屋に入れないよ。俺これから着替えて出勤しないと」
 涼雅の部屋は灯子の部屋の真下の、103号室だった。さっき牛乳瓶の数で思い出した通り、涼雅は今週は土曜日も休みではなく出勤日だった。
 「ああ、ごめん……」
 灯子はシュンとして脇にどいた。
 「おい、涼雅、何してんだ、早く着替えろよ」
 イツキがとすとすと足音を立てて、金属製の階段から降りてきた。ブルーグレーのシャツにカーキのパンツをサスペンダーで吊った、町の保安官の制服を着ている。
 「ああ、すぐに行く」
 涼雅は足早に部屋へと戻っていった。取り残された灯子はなおのことシュンとなった。時々そうなる。時々何かのスイッチが入って、涼雅は灯子に冷たくなる。そして時々、涼雅はとても具合が悪そうにしていることがある。
 部屋に帰って目玉焼きを焼いていると、アパートの窓から、連れ立って出勤する涼雅とイツキの姿が見えた。灯子は黙って見下ろしたまま、瓶の中の牛乳をごくごくと飲み干した。

 その後はぼんやり朝ご飯を食べ、掃除にすら取り掛からないまま怠惰に毛布にくるまって二度寝した。朝の涼雅の背けた顔が脳裏から離れない。気分が落ち込むと余計に灯子は怠惰になる。やらなくてはいけないことからどこまでも逃げてしまう。
 だが、十時を回ったころ、ドアの前で咲羅の額から抜けるようなソプラノが、浮き浮きとした調子で呼んだ。
 「灯子、これからチューリップたちと『緑の良書館』に行くんだけれど、付き合わないかしら? 」
 「ん。遠慮しとく」
 なおのこと毛布にくるまるようにして灯子は答えた。本がたくさんある空間なんてただでさえ行きたくないのに。
 「珈琲があるそうよ」
 「え? 」
 「エチオピアイルガチェフェですって」
 「え、行く! 」
 灯子はがばと毛布を跳ね上げた。
 「緑の良書館」とは、アパート経営の傍ら、エスメラルダが営んでいる貸本屋だ。広い一間続きの三階建ての建物に、床が傾いでしまうほどぎっしりと本が収められている。
 霧ヶ峰タウンには製本業者も出版社もない。だが、何時何処で出版されたのか定かではない各国語の本たちが、どういう訳か大量に集積されている。
 エスメラルダによるとこの町では本は、人知れず何時の間にか本棚に収まっているのだという。本は本を呼ぶ。本たちは仲間の多い環境に寄り集まって来る。かくしてエスメラルダの蔵書は、毎日人知れずコツコツと膨れ上がっているのだ。
 灯子はあまり本とは関わりたくない。よくみんな恐怖感も感じないであの店内にいられるなあと思う。読書がだるいとか嫌いと言うのではない。たくさん並んだ背表紙の前に立っていると、ページ一枚一枚に詰め込まれた数えきれない言葉の圧力で、手足が冷たくなり、背中には冷や汗が湧いて来るのだ。何だか自分にとって都合の悪い事実を、声高に責め立てられているような心地になる。灯子にとって本の沢山ある空間は、とても怖い場所だった。
 だが、珈琲、それもエチオピアイルガチェフェがあるんなら話は別だ。灯子は勇んで起き上がり、再びつき始めていた寝癖を指で引っ張った。
 「緑の良書館」はアパートの北隣にある。灯子たちはわずか三十秒ほどで店の前にたどり着く。木造だがなかなかに洒落た洋館だ。扉にはささやかだが、緑の葉の中に薔薇をあしらったステンドグラスがはめ込まれている。
 一階には小説と児童書がぎっちりと詰まっている。文学が好きな涼雅はよくここにお世話になっていた。二階には夥しいタイトルのマンガ類、三階は小説以外の教養本、実用書、雑誌、辞書などが、やはりざっくりとした分類で収まっていた。
 「緑の良書館」を利用するもののほとんどが、この店の心地よい混沌について述べる。熱帯ジャングルの植生のように、あの本の隣にこの本、その上には何とこの本が……、といった具合に、書物は整然とではなく、何かいわくがつけがたいような感じで、植物の蔓が絡まり合うように収まっているのだ。
 灯子の友人たちもこの心地よい混沌に魅了された口だ。もちろん霧ヶ峰タウンの住人にとって読書の習慣は欠かせない。長い夜、これなくしては有益な時間の潰し方は出来ない。特に灯子の仲間たちのような一人暮らしの人間にとっては。
 咲羅は新しいレシピや収納術や掃除のノウハウを探しに、主に主婦雑誌を求めている。アーモンドは自然科学や民俗学の本を好んでいるし、チューリップはもちろんマンガ全般を愛している。三人とも毎週休日に、決まってここを利用していた。
 灯子たちは直接店には入らずに、わきにある通用口から中庭へと入った。日向の匂いのする芝生の上に白いパラソルが広げられている。その下の瀟洒なテーブルセットに、巨大な体のエスメラルダが腰かけていた。分厚い胸板にピンクのワンピースをふわりまとって、珈琲ケトルを握り(エスメラルダが持つと何もかも縮尺を間違ったみたいに小さく見える)、一心不乱にドリップしている。灯子たちが入って来るのを認めると、いかつい顔にマドンナのような微笑みを浮かべてこう言った。
 「あらあ、いらっしゃい。待っててね、今淹れているからあ」
 「エスメラルダ、ボク先にマンガを選んでくるよ」
 「わたしもそうします。ネルドリップ式だと一回に淹れる人数が決まってしまうわ」
 「灯子は先に楽しんでなよ」
 チューリップを先頭に、三人が口々にそう言うので、灯子は一足先にエチオピアイルガチェフェを味わうことになった。
 ゆるんだ笑顔を浮かべながら、エスメラルダの左隣に座る。
 「はうああああ、いい香り! 」
 灯子はお酒も好きだが実はもっと珈琲が好きだ。インスタントや缶でいい、できたら朝食時や昼休憩の時にも毎日飲みたい。今日みたいな土日には、ゆっくりと豆にお湯を落として、ふうわりと広がってくる薫りに鼻をひくつかせながら、優雅に時間をつぶす楽しみだって味わいたい。
 だが霧ヶ峰タウンでは珈琲は贅沢品だ。
 例えば咲羅が好む焼酎は、農業地帯で栽培されている麦や芋を使って醸造することが出来る。日本酒やワインもそうだ。だが珈琲豆はどうしても熱帯性の気候でないと栽培できない。細々と行き来する行商人がもたらしてくれる、貴重な貴重な逸品なのだ。
 エスメラルダが水色に金の縁取りを施した珈琲カップに、なみなみと茶色の液体を注ぐ。表面には白いパラソルの色を映したさざ波が立っている。灯子は息をのんだ。
 「はい、どうぞ」
 「いただきます」
 灯子はまず鼻を近づけて香りを楽しんだ。白いドレスのデビュタントが初めてのワルツで回転する瞬間のように (もちろん灯子にそんな経験などないが)、華やかで心浮きたつ香りだ。口に含んでゆっくりと呑み込む。本当に美味しい珈琲を飲んだ時にだけ感じる、すうっと心地よいリラックス感が、体の中に満ちていった。
 「はあああ、美味しい……」
 今年に入って珈琲を飲むのは五月の今が初めてだ。お金にものを言わせても手に入れるのが難しいこれを、もっと頻繁に楽しむ方法は無いものか。
 「ねえエスメラルダ、昔、雪と氷の世界が町の外側に攻め入ってくる前までは、行商人はもっと自由に行き来していたの? 」
 灯子は思いついてそんな質問をした。昔、壁の外側の脅威が今ほどではなかった時代は、交易ももっと大っぴらだったという、年寄りの話を聞いたことがあるのだ。それを復活できないものか。
 「そうよ。アタシがまだ子供の時分には、もっと町と町との行き来は楽だったはず。お茶も珈琲もバナナも海産物も、高価な化粧品だってあったのよ。それがいつの間にだかこんなに不便になってしまったのねえ」
 エスメラルダはしみじみと溜息を洩らした。灯子はなおも質問を続ける。
 「何か方法はないの? 」
 「一つ予言があるのお。歴代の町のリーダーもこの予言を元に色々と試みているわ」
 「予言? どんな予言? 」
 灯子は身を乗り出した。エスメラルダはファンデーションを重ねた眉間に、ピンクのネイルアートをしたごつい右手の人差し指を当て、大神官が神のお告げをもたらすように大仰な感じでせりふを吟じた。
 『彼の者はこの世の基礎石。彼の者が目覚めるとき世界もまた目覚め、氷は緩み、吹雪は陽にきらめく雨となり、高い空は掴めそうなほどに近くなるだろう。彼の者は造物主様のしもべ、その足元から高みへと這い登ろうとする者、その両性具有の象徴的ミニチュア。彼の者が目覚めることなくここで死ねば、寒さの冬は永遠に続く』そう予言に読まれているの」
 「目覚め……」
 「目覚め」というキーワードに、「あ」、と灯子は独り言ちた。何かが海馬にひゅっと引っかかったのだ。たしか父親が少年時代に好きだったというマンガに、魚が目覚めて世界が解放される話があったような気がする。今エスメラルダから聞いた予言の話も、父親が好きだったというマンガも、ともに目覚めと世界の開放をワンセットにしている。何とはなしに似ていた。ああこれは物語的手法の常套手段だよな、と灯子は一人うなずいた。もちろん予言の話は創作物ではないにしろ。 
 と、そこで、あれ、と灯子は思い返す。自分は家に居たころは本を読めていたのだろうか? いや、だが、読んだ記憶があるということは、自分はそれを読んでいたのだ。常套手段だなんて判定できるほど、沢山の物語を読んでいたのだろうか?
 風が吹いて生け垣がざわざわと揺れる。エスメラルダの隣で白いペンキ塗りの椅子に座っている紛れもない自分が急に、見知らぬ人のように思われてくる。エスメラルダは灯子の当惑に気づかずに続けた。
 「この予言はね、アイリス様の先々代の巫女姫様が行ったの。つまり城壁の外の世界を強烈な寒さが支配し始めるその時に。以来ずっと、町のリーダーたちは必死に『彼の者』を探しているわ」
 「ピノも探しているの? 」
 「もちろん。町役場には専門の部署だってあるのよ」
 「初めて知った。その人たちにはぜひ頑張ってもらわないとね」
 灯子は珈琲の香りを深く味わいながら言った。この悦楽をより頻繁にするためには、彼らにはぜひ結果を残してほしい。
 「灯子にとっても重大な結果をもたらすはずよ。その予言の続きによると、『彼の者』が目覚めれば心ならずして町へ迷い込んだ避難民も皆家に帰れる、とあるのお。『彼の者』が見つかったら、灯子だってお家に帰れるのよ」
 「ほんとのところを言うとあたし、この町で死んでもいいかな」
 言ってしまってから灯子は、驚きあきれぽかんとした。自分は一体何ていうことを考えていたのか! それではまるでいかにも……。だがそれは嘘偽りのない灯子の本音だった。
 「何を言っているの灯子! 」
 エスメラルダは悲痛な声で叫んだ。
 「お家に帰りたくないの? ご両親は? 」
 エスメラルダの顔は焦っているようにも見えた。お父さん、お母さん、そう呟いても灯子には、他人事のようにしか感じられなかった。ぼうっとしながらもうなだれる。お母さん、お父さん、それは遠い存在だった。死者が彼岸から現世を眺めるような気分だ。頭の中にずっと晴れない靄がある。二人にかけたい言葉が見つからない。
 「うん……」
 灯子はやっとつぶやいた。エスメラルダは切々と続ける。
 「灯子はよくても他の子たちは? イツキにもチューリップにもご家族がいるし、咲羅だって将来を誓った人が……」
 「そっか、そうだよね……。あたしたちの他にも避難民は多くいるしね。あたし一人だけ良くてもねえ……」
 灯子は苦笑いして言った。みんなにはみんなの人生がある。それを思えば、この暮らしが永遠に続くことはよくない。誰だか分からないけれど、目覚めるべき人はさっさと目覚めて、世界を開放しなくてはいけない。
 でも、家に帰ったら自分はどうするのだろうか? もう大学受験する気力も残っていないし、ここの工場みたいなところで働くのだろうか。
 そもそも、元いた世界に進学したり就職したりするところが果たして残っているのか。住人ごと冷凍になってしまっているのではないのだろうか。そんな想像を残酷に巡らしても、灯子は特には痛みも感じなかった。
 それよりも、何時かここを離れなければならないと思うことの方が、胸苦しくやり切れないことのように思われるのだった。みんなはどう思っているのだろう? 咲羅も涼雅も本当は帰りたいんだろうか? ここでの生活よりも家族を選ぶのだろうか? その想像は灯子の心をじわじわと痛めつけた。そしてふっと思い当たる。
 「でも、もしかして、イツキも帰りたくないかも……」
 「イツキがとどまっても、あの子の想いは一生叶わないわ」
 灯子はアイリス様の絶世の美貌を瞳の中に巡らせた。あの審判の日、イツキは望みない恋をした。造物主様の清らかな依り代アイリス様。巫女姫の役目は一生ではない。だが引退後は尼としての生活が待っている。
 エスメラルダもふと黙った。どれほど美男子であっても望みの無い恋心。
 灯子は昨夜イツキに言われた言葉を思い出す。灯子の恋は手を差し出しさえすれば何とかなるかもしれないものだと。そうかもしれない。そうなんだろう。イツキから見れば自分はただうだうだ悩んでいるようにしか見えないかもしれない。だが……。
 灯子はふと見えない壁に隔てられているような切なさを、涼雅に対して感じることがある。彼はこんなにも近くにいるのに、本当はもう手の届かないところに居る。そんな気がしてならなくなる。自分でも説明できないけれども直観できる。そして灯子の直感は当たる。
 「エスメラルダにも好きな人っている? 」
 心の痛みを振り切るように、灯子はウサギのような前歯を出して笑顔を作った。エスメラルダはぽっと顔を赤らめた。
 「やだ、灯子、からかわないで」
 「からかってないよ。だってエスメラルダ面食いだって公言してるわりに、イツキにも涼雅にも色気出さないじゃない」
 「昔はいたわ、大好きな人」
 そう乙女のようにつぶやいてから、エスメラルダは野太い声でロマンチックに歌い始めた。
 ――――あした露置く、野のしじまに……――――
 灯子は目を丸くした。
 「これって『アニーローリー』? 」
 「そうよ。この歌の主人公二人のようにアタシと彼もまた引き裂かれてしまったの」
 灯子は目を丸くした。
 「『アニーローリー』ってそういう歌だったの? 恋人を賛美しているだけの歌じゃなかったの? 」
 「そうよ。彼らは決して結ばれない仲、敵対しあう氏族同志の出身だったのお。この歌は叶わなかった恋にささげる哀歌なのよ。アタシと彼もまた、アタシの体の性別が男だったということで彼のご両親が断固許さなかったのよ。別れの夜、アタシをこの庭に残して去る彼がアタシに聞こえるように、この歌を歌ってくれたのお……」
 そう言ってエスメラルダは追憶の瞳で宙を見上げ、濃いアイシャドウが塗られた瞼を哀し気に歪めた。
 「エスメラルダにそんな過去があったなんて……。ごめんね、あたし変なこと聞いちゃった」
 「いいのよ。気にしていないわ」
 そう言うエスメラルダに、灯子は恐る恐る聞いてみた。
 「まだ彼のこと忘れられないの?」
 エスメラルダは一瞬考えた後、マドンナのように眩しい微笑みを浮かべた。
 「ええ、もうとうに彼は別の女性と結婚して幸せな家庭を築いているけれども、アタシはまだ彼のことを愛しているんだわあ。でも、あの時彼は間違いなくアタシだけを愛してくれていたのよ。だからこそその思い出だけで、アタシは未来へ生きていく力を得られているのお。ねえ、そんな愛の形があったっていいじゃない」
 エスメラルダはそうオペラのヒロインがアリアを歌うときの表情で言った。そしてまばゆい太陽が雪雲に陰ったかのようなひやりとした真顔で、こう付け足した。
 「灯子、あなたはあらかじめ知っていたはずだわ……」
 「え? 何を? 」
 灯子の背筋をまるで薄氷を踏みぬいたときのような寒気が襲った。
 そのとき、
 「エスメラルダー、珈琲おねがーい」
 と、マンガが数冊入った手提げをぶんぶん振り回して、チューリップが駆け込んできた。後ろの方には主婦雑誌数冊を手にした咲羅と、文庫本を三冊持ったアーモンドが歩いて来る。
 「灯子、今の話、ナイショよお」
 エスメラルダが真顔から一転、お茶目にウインクしながら唇の前に人差し指を立てる。
 「うん。内緒ね」
 灯子の心の中はまるでテレビのチャンネルが切り替わったように、すとんと入れ替わった。切なげな笑みを作ってエスメラルダを真似、右の人差し指を立てた。
 「何? 何話してたの? 」
 チューリップが大きな緑色の瞳をなおのこと大きくして訊いた。
 「内緒」
 「うん、内緒」
 「何々? 」
 灯子とエスメラルダは親密に目でシグナルを送りあった。
 だがその後で灯子は、あれ、今自分は一体何を言われたのだろうかと目を瞬き、首をひねった。そのときには、もうあのエスメラルダの言葉すら思い出すことが出来なかった。

 六人が霧ヶ峰タウンに保護されたあの日、審判の間の扉が開けられて一歩踏み入れた灯子は、まず鼻をクンクンとさせた。源氏物語の世界をほうふつとさせる高貴な薫りがする。香炉でも焚かれているのだろうか。
 チューリップが慎重に足を運びながら不安げにきょろきょろと見まわしている。アーモンドは怯えたように、涼雅とイツキは緊張したように、咲羅は覚悟を決めたように、それぞれこの審判の間に足を踏み入れていた。
 そこは樹木のように曲線的に巡らされた柱や梁が、ドーム型の屋根を支えるように高く伸びた空間だった。細長い窓には、藍色を基調とした色硝子がはめ込まれている。教会のステンドグラスとは違い、人物の絵柄は採用されていない。まるでイスラムの祈りのための建物のように、幾何学的な文様が繰り返されている。
 等間隔に燭台がもうけらられてはいたが、今は灯されていない。灯りなどなくとも十分に明るかった。色硝子をすり抜ける光は深海のようなブルーに染まって、扉から玉座の前まで伸びる菫色のカーペットに、紫藍に混じりあった影を落としている。
 平床から数段高くなった白い玉座の上には、一人のうら若き女性が座っていた。「白い乙女」灯子の頭の中にはそんな言葉が巡った。
 腰まで届くかという髪の毛は白銀で、癖なく真っ直ぐと垂れていてた。座っている印象だけでも背は高い方、鶴のようにすらりとした体つきだ。そのしなやかな体に、純白の光沢ある絹に紫の刺繍を施したローブをまとっている。瞳はアメジストのような鮮やかな紫。
 絶世の美女だ! と灯子は心で叫んだ。それも、神霊めいた神聖な美しさである。人間の造作がこんなにも完璧な眉の曲線を描けるものなのだろうか。こんなにも清冽な目の形を刻みこめるものなのだろうか。灯子は息をのむ。咲羅も見惚れる。イツキが震えながら長く深く溜息をつくのが聞こえた。 
 「あなた方が今日最後の避難民か」
 彼女は、若く可憐な声に威厳を滲ませてこう尋ねる。灯子たちは口も利けないほどに圧倒されていた。一目見たときの恍惚が過ぎ去ってしまえば、とてもじゃないけど恐れ多く直視できない。黙って頭を低くして跪く。
 灯子は自分の首の後ろに、アイリス様の視線が突き刺さっていることを感じ取り、緊張で歯がカタカタと鳴りそうになった。
 「なるほど」
 しばしの沈黙の後、巫女姫は独り言のように言った。
 「今は饗宴の季節と言うことか」
 数回ため息の音が聞こえた。彼女は何を頭の中で巡らせているのか。
 「顔をあげよ」
 灯子は跪いたままおずおずと頭をあげた。紫の瞳と目が合った。どこまでも心の中に踏み込んで来るのに、あちらの心に浮かんでいることがまったく見通せない瞳だった。
 「あなた方を受け入れよう。六人そろってじゃ。一人も離れ離れにしてはならぬ。エスメラルダと言ったか? あの貸家の主は。そこがよい、そこにしなさい。ピノ、わらわの審判はそうじゃ。そうはからえ」
 「は」
 灯子たちの後ろの方で膝を折っていたピノも、かしこまってアイリス様に同意した。
 灯子の横では咲羅が、ようやく安堵したように溜息をついた。チューリップとアーモンドの顔からも険しさが消えていた。涼雅もきょとんとしている灯子と目が合ってにこりとした。
 イツキは……、イツキは妙に虚脱したような顔をしていた。表情はないのに目は潤み、体の奥底からしみだしてくるような憂いがある。緊張は解けているはずだ。だが表情は浮かない。別のものが激しい熱を放ちながら魂を苛んでいる。その時点で、もうイツキにもこれが望みの無い恋であるのが解っていた。
 灯子たちがそのことを知るのは少し後、このアパートに皆がすっかりと落ち着いてからのことだった。

 灯子は平日はお弁当として、大きなおにぎりを一つ握っていく。だが休日ともなるとそれさえもがおっくうになってしまう。シイタケの佃煮をお茶漬けにするだけとか、自分で軽量したメロンパンをかじるだけとか、とりあえず食べた格好だけ付けば満足である。この日も十二時のチャイムが町のスピーカーから流れてくるのを聞いて、さてメロンパンの袋でも開けようかな思っていると、咲羅が玄関を叩いて、額から抜けるようなソプラノで呼びかけた。
 「灯子、かるぼなーらというのを作ってみたのだけれど、食べるかしら? 」
 「食べる」
 灯子は即答する。浮き浮きと咲羅に付いて部屋に入った。
 咲羅の部屋は一歩足を踏み入れた途端、ふわりといい匂いがする。高級品である香木を焚けない代わりにラベンダーのポプリを下げているのだ。鏡台に文机が並び、桜色のカーテンやファブリック類が彩る、いかにも上品な女性が住んでいそうな部屋に、灯子はいつもながらもこう独り言ちた。「参ったな、あたしの部屋と同じ間取りのはずなんだけどな……」。灯子は自分の雑然とした部屋の様子を思い描いて溜息をつく。咲羅の部屋が美人女優なら、灯子の部屋はすっぴんのお笑い芸人だ。
 「さっき借りたレシピに載っていたのよ。丁度材料があったから作ってみたくなって。灯子は食べたことあって? 」
 ここへたどり着いた当初はチーズも生クリームも知らなかった咲羅は、今ではバターも牛乳もパスタも使いこなす。更には仕事の伝手から手に入れやすいハム類は、冷蔵庫にいつも常備されているのだ。
 まろやかなチーズとベーコンの香りの立つパスタを、ウサギのようにもぐもぐと咀嚼しながら、灯子は素直に美味しいと言った。咲羅も微笑んで、灯子やチューリップから教わったように、行儀よくフォークでパスタを食べた。
 「地中海料理って作ってみたいのよね。でも、オリーブオイルだけが高級品なのよ」
 咲羅はレシピ本の他のページを覗き込みながら言った。
 その知的で落ち着いた目つきに、灯子は初めて会った日の、凍え切った咲羅の様子を思い浮かべる。あの時にはむしろ灯子の方がしっかりとしていて、何とか咲羅を安心させたいと思っていた。だが、彼女が心細さを見せたのはあの日だけだった。もう次の日から咲羅は、灯子を世話の焼ける妹のように扱った。
 窓からはアクアリウムの中から望むような、五月の陽が射している。夏に向けての助走スピードを上げ始める季節。どこまでも陽気でクリアな光に、咲羅の長い髪が黒繻子のように輝いている。毎日シャンプーをしている分、その艶は初めて会った日よりも良くなっているし、顔立ちも凛とした風情が増し、より美しくより官能的に成熟していた。
 自分や仲間たちがそばにいないとき、咲羅はどんな表情をしているんだろう? 気丈な顔をしているのは表向きだけで、一人になった途端菊之助を想い、あの日のように泣きそうな目になっているのではないだろうか?  灯子はそう感傷的に思いを巡らせてみる。 
 咲羅は菊之助という恋人について、あまり多くを語ろうとしない。だから今の今まで灯子も、彼について漠然とした情報しか知らない。家臣であること、咲羅より一つ年上であること、矢柴流という剣の使い手であること、それくらい。他の誰かが気遣う様子を見せたとしても、咲羅はこう言い張って気丈さを保った。
 「きっと立派に務めを果たしてわたしを迎えに来るわ。菊之助は強い、強い男よ」
 灯子の心にふと何かが引っかかった。咲羅と菊之助は、この世の存亡にかかわるという「文書」を探していた。この場合「この世」とは、どこからでどこまでの範囲なのか? 
 今まで漠然と咲羅の居た室町時代の日本だけだと考えていたが、もしかしたならそうではないのかもしれない。灯子も涼雅もイツキもチューリップたちも、あの吹雪に同時に巻き込まれたのだから、咲羅の他の五人がいた二十一世紀もひっくるめて、地球規模で入っているんじゃないのか。
 何で今までそんなことも考えつかなかったんだろう? 灯子はそう心の中でつぶやいて、それから自分のごまかしを悟り顔を曇らせた。
 それは、これまで幾度となく浮かびかけてきた疑問だった。灯子は何度もそう考えかけて、でも苦しくなって考えるのをやめてきた。この仮定は、灯子にとって都合が悪い……。
 「ごめんください」
 チャイムが鳴り、呼びかける声が聞こえた。礼儀正しい感じの壮年男性の声だ。 
 「千鳥咲羅さんはご在宅ですか? 」
 「はい、わたくしが咲羅です。ただいまお開けいたします」
 咲羅は立ち上がって、木綿のロングスカートのすそを揺らしながら玄関へと向かった。灯子は座ったまま伸び上がる。そもそも狭いアパートの部屋である。ちょっと首を伸ばしただけで玄関の様子は見て取れる。ガチャリとドアが開けられ、どこか見覚えのある赤毛に口ひげを生やした男性の姿がのぞいた。
 「ああ、あなた様は……」
 咲羅が少し高揚した声で言った。誰だろうか? 灯子は少しだけ記憶をさらった。そして去年の秋に、咲羅が情報提供を求めた行商人の男性だったことを思いだした。
 咲羅は何も無策に、ただ菊之助の来報を待ちわびていたわけではない。ぱらぱらと訪れる行商人たちに、菊之助に関する情報提供を募っていたのだ。確か今尋ねてきた男性は、これから北の方を回ると言っていた。灯子も咲羅の親友として、行商人のもたらしてくれる情報に聞き耳をたてた。
 「吉報です」
 彼は言った。
 「菊之助さんにお会いできました」
 「え? 菊之助に会えた! 生きて、生きているのですね! 」 
 「はい。とてもお元気そうでした。体を痛めているご様子も、病気をされているご様子もありませんでした。あなた様のことを大変案じていました」
 「一緒に来てはくださらなかった……」
 「ええ、自分にはまだやることがある、下命をまだ完全に果たせてはいないと」
 「まだまだかかりそうなのですか……」
 咲羅が途方に暮れたような声を出した。
 「八割は果たしたと仰っておいででした。長ければあと一年はかかると。ここに菊之助さんからのお手紙をあずかってまいりました。どうかお納めください」
 そう言って行商人は、時代劇に出てくるような、細長く折り畳まれた毛筆の書状を咲羅に手渡した。
 ちゃぶ台の奥から見上げる咲羅の全身は震えていた。「ああ、菊之助の字だわ」そうつぶやく咲羅の声もまた震えていた。
 咲羅の震える背中を見つめながら、灯子も友人として、胸の奥が熱いココアを飲み下したときのように熱くなるのを感じた。彼が無事でいてくれて本当に良かった。今はまだ会えなくとも、咲羅と菊之助が生きている限り、結ばれる明日はきっとくる。 
 だが純粋に咲羅を思い遣って安堵した後、ふとこの先のことを考えて灯子は奈落に落ちたかような気持になった。菊之助が迎えに来たならば、咲羅は一緒に旅立っていくのだろうか? 自分とみんなを残して、この町を発って行ってしまうのだろうか? 本来喜ぶべきことだということも分かる。だが……。
 もちろん二人がこの町で一緒になって、隣人が一人増えるだけの結果になる可能性だってないわけではない。だがそれを灯子の直感は否定した。菊之助の来訪と同時に、灯子のこの奇妙で居心地の良い三年間の暮らしは終わりを告げるだろう。咲羅がいなくなってしまえば、この六人プラス一人の絶妙な関係は崩れてしまう。誰一人欠けても駄目だ、自分たちはみんな揃っていなければ。
 そこまで考えて灯子は慄然とする。自分は何て身勝手なことを考えているんだろう? 親友ならば友の喜びを喜びと感じ、友の悲しみを悲しみととらねばならないというのに……。
 咲羅はなお少しだけ詳しい報告を聞き、丁重に礼を述べた。行商人は「お役に立ててよかった」と言いながら辞して行った。咲羅が玄関から戻って来る。灯子はでき得る限り快活で、思い遣りに満ちた笑顔を作って見せた。
 「よかったね」
 そう言葉をかけると咲羅は、雲の上をふわふわと歩いているような笑顔を作って、「ええ」とだけ言った。その全身は、灯子がまだ経験したことのない幸せで輝いていた。そうであるのに咲羅は、何だか物思いに沈んでいるようにも見えるのだ。
 「お昼ご飯のお礼に洗いものはするね」
 そう言って灯子は、空のお皿と大鍋とフライパンを、白いカピカピした台所用石鹼で洗った。灯子の後ろで咲羅は、待ちきれない様子で菊之助からの手紙をカサカサと広げていた。そして無言で食い入るように読みながら、何かを抑え込もうとしているような吐息をついていた。
 その日咲羅が手紙の内容について語ることはなかった。

過去からの使者

 その午後灯子は一人部屋の中でごろごろして過ごした。
 歌にも踊りにも演劇にも、スポーツにも手芸にも美術にも興味がなく、更には本が怖い灯子は完全なる無趣味人間だった。これで仕事一筋だと言えば格好もつくが、決してそういう訳ではない。ただ何かを飲み食いしておしゃべりをしてダラダラと過ごす、それだけを楽しみに生きている。
 普段なら午後ゆっくり休んでいると、夜にはだんだん体力がたまって、夕ご飯の支度でも頑張ってみようかなという気にもなるのだが、あいにく今日の灯子はそんな気持ちにもなれなかった。咲羅の受け取った手紙のことが気にかかっていた。
 だがさすがに五時のチャイムが鳴ると、幾ら怠惰な灯子でも本日の飢えに対する危機感がひしひしと迫って来る。先週買った食材が尽きてきて、冷蔵庫の中にはほんの残り物しかない。霧ヶ峰タウンの食料品店は、土日は六時で閉店してしまう。灯子はごそごそと起き上がって髪に櫛を入れた。通勤時も持って行く黑いリュックに買い物用バックを詰め、アパートを出る。そのまま自分の影を左目に、すずかけ通りを南へと歩いて行く。
 太陽はとうに傾いているものの、辺りにはまだ明度の高い光が満ちて、余熱が冷めかけたオーブンの中のようだった。昼と夜の間にしか立たない緑の香りがする。きゃあきゃわいわい言いながら、子供たちが浅い水路でまだ水遊びをしていた。手作りの水鉄砲から、水晶のような水しぶきが弧を描いて飛び散っている。
 グローサリー斎藤はすずかけ通りから歩いて十分ほどの所にあった。赤と黄色の縞々のテント看板も派手派手しい、灯子の私的な感想を述べるとどこか暑苦しいお店だ。軒先には店主が趣味で作っているという、妙にリアルな老婆の人形が置かれている。
 「まず肉と卵は買わないと」
 タイムサービスのシールをにらみながら、灯子は店内をのそのそと歩く。店は家族経営の小規模なスーパー位の広さだった。死にかけたように薄暗い電灯に、青果、肉類、乳製品、川魚、養殖サーモンなどの生鮮食品がやや不味そうに照らし出されている。その他、お菓子、お米、小麦粉、砂糖から塩から缶詰などが、あまり分類もされずにうずたかく積みあげられていた。
 内陸奥深く山に閉ざされた霧ヶ峰タウンには、当然のことながら海産物がない。海魚に海藻は高級品である。塩蔵わかめの値札をにらみながら灯子はゾクゾクと震える。とてもではないが手が出る値段ではない。
 安く手間なく日持ちがよいものをと考えて、サラダチキンとチーズ、冷凍のお徳用豚小間を籠に入れた。卵と野菜類、食パン一斤、菜種油とあと、常備していたものが切れかけていた料理酒と出汁の素を一瓶籠に突っ込む。
 総菜コーナーに通りかかると、店員が新玉とチーズのかき揚げに値引きのシールを張っていくところだった。今日はサラダチキンとこれと、レタスのお味噌汁にしよう。そう思って手を伸ばすと、丁度灯子の左脇の方からもう一本の手が伸びてきてふと触れた。顔をあげると、まだ制服姿の涼雅が、意表を突かれたかのような顔つきで、心細げに灯子を見下ろしていた。二人は瞬時に手を引っ込める。
 まるで平成初期のラブコメのようにベタなシチュエーションである。こういう場合、スマートにふるまうには一体何と言えばいいのだろう? 「あれ、奇遇だね、涼雅もかき揚げがよかったんだ、良かったらお味噌汁とおかずももう一品作るから、あたしの部屋で夕ご飯一緒に食べない? 」そんなあざといセリフなど切れ端すら浮かばず、結局灯子は一言も発することが出来なかった。そしてこの微妙な間に耐えかねた涼雅が、照れくさそうに唇を歪めてこう言った。
 「灯子も晩飯の買い物? 」
 「うん。それと、来週分のストックが欲しくて」
 無難すぎる涼雅の言葉に、灯子もやっと口を利くことが出来た。
 灯子と涼雅は同じかき揚げを黄色いかごの中に入れた。涼雅のかごには卵と牛乳とサラダチキンと豆腐と豚もも肉、更には灯子のよりも種類が多い野菜が入っていた。体つくりがしたいんだなと灯子は思う。
 なんとなく並んで店内を回り、なんとなく並んでレジを済ませ、なんとなく並んで二人アパートまで歩いた。目的地が同じだと、「ああじゃああたしはこれで」なんて尻のまくり方は出来ない。
 灯子と涼雅はほぼ毎日顔を合わせ会話もしている。だが、大体咲羅やイツキが一緒だし、こんなふうにアパートの外で二人っきり、というシチュエーションはなかなかない。
 灯子の心臓は終始バクバクしていた。そのバクバクに送り出され、脳に異常な量の血流が行っているためか、あまり上手にものが考えられない。
 涼雅に「こいつおかしい」、と白い目で見られるのが怖くないのなら今すぐ、死にかけた虫のように両手足をじったんばったんさせて、恋に狂ったオオカミのように甲高く雄叫びをあげたい。あくまで、涼雅に白い目で見られるのが怖くなければの話ではあるが。
 そんな嵐のような感情を心に隠しているというのに、灯子の頬は朱に染まり、常にはないほど柔らかな笑みを浮かべ、歩く足取りはゆっくりで、暮れ始めた空を見上げながら後ろ手に手を組んでみたりもする。灯子は心の中でそんな自分を縛めたが、自分自身に、普段のキャラクタ―とはかけ離れた振る舞いをやめさせることは出来なかった。 
 「ねえ、涼雅」
 灯子は自分の行動検閲機関の追及を逃れるように沈黙を破った。
 「なに」
 「菊之助さんは生きているらしい。さっき咲羅の部屋に行商人の人が来て、彼からの手紙を届けてくれた」
 「ええ、そうなの! 咲羅ほんとに安心したろうな。じきに迎えに来るんだろうか」
 「それが、まだちょっとかかるらしい。使命がまだ完全ではないんだって」
 「大変だね、サムライってやつも」
 「うん。でも、もしかして、使命を無事に終えれば咲羅との結婚も認めてもらえるんじゃないのかな」
 「え、まじで? そう言ってた? 」
 「いやいや、はっきりとは聞いてないけどそうかなあって」
 「うん、まああるかもね」
 「そうなればエスポワールエスメラルダの入居者は、五人になっちゃうね」
 灯子は初夏の夕方の光を見上げ言った。西の山脈の万年雪が、じんじんと発光するような茜に染まっている。その、人知の及ばないスケールで落ちてくる暮れ方の色は、灯子の戸惑いと行き場のない悲しみを代弁しているかのようだ。
 咲羅には幸せになって欲しい、だが、自分の前からいなくなって欲しくはない。自分を置いて出て行ってほしくない。だが、咲羅には幸せでいて欲しい……。灯子の想いは振り子のように揺れていた。
 「いやいや、そうはならないだろう」
 以外にも涼雅は否定した。灯子は期待したように涼雅を振り返る。だが、涼雅はその後で、先ほど灯子の頭もよぎって行った、最も受け入れがたい残酷な仮説を披露した。
 「菊之助さんは『この世を救う文書』を探しているんだろう。あのストームや雪オオカミに、俺たちまとめて追われてきたってことは、『この世』とはつまり、咲羅の居た室町時代から、俺たちの居た二十一世紀までひとくくりになっているととっていい。つまり、咲羅が出ていくときは俺たち避難民も全て出ていくときだ」
 「家に帰れるの? 」
 灯子の口から咄嗟に出てきた言葉はそれだった。動揺し追い詰められた心理から、プラスの意味に、マイナスの感情を込めた一言が転がり出てきた。灯子の舌は嘘を吐いた。本当はちっともうれしくなんかない。元いた家に、学校に何があるというのだろう? 
 「帰りたくないな」
 灯子が考えているのと同じことを、涼雅が言った。
 「俺なんて帰ったら、面白くもなんともない毎日が待っているぞ。ここで三年暮らして、まるで夢見ているみたいだった。仕事してみんなでワイワイ飲んで、スポーツやトレーニングもして、それから……。でもな、本当はこれが潮時なのかもしれない。いい夢は、いい夢でいるうちに目覚めなければならないんだろう」
 「夢……」
 灯子は涼雅の言葉を反芻した。何だろう? 何かが心に引っかかる。この言葉と相互しあう言葉を、今日どこかで聞いた。
 「どうしても目覚めなければいけないの? ずっといい夢を見続けることは出来ないの? 」
 灯子の体に不思議な戦慄が満ち、声は凍えたように震えた。涼雅は哀しく笑った。
 「いい夢はな、いい夢のうちに目覚めないと悪夢に変わるんだよ……」
 夜の濃度がどんどん深まっていく薄暮の中で、涼雅のやや蒼白い顔は、一層儚げで、触れればはらはらと散ってしまう泰山木の白い花のように見えた。またこの感覚だ。どうあがいても涼雅は手の届かないところにいるという、出どころの分からない絶望感。もしかしたら……、灯子の直感は囁く。もしかしたら涼雅は、自分たちの知らないことを、何もかも分かっているのではないのだろうか? 灯子たちがこの町へ迷い込んだことの意味さえも……。
 「なあ灯子」
 口ごもってそれ以上言葉を続けられない灯子を見て、この話はこれでお終いとばかりに、涼雅が明るい声を出した。
 「明日、午前九時半から麹町公園で試合がある。どうやら右サイドバックで先発できそうだ。もしよかったら……」
 「行くよ。涼雅、観にいく」
 灯子の声は少し震えた。ちょっとでも涼雅に近づきたかった。
 運命が灯子たちみんなのことを追い越していく。この展開を残酷だと思うのは、灯子だけの身勝手なのだろうか? それとも涼雅も同じ気持ちでいてくれているのだろうか? 
 灯子と涼雅は同じ時代の同じ町から来た同年代だ。帰ったとしてもまた出会える可能性が高い。
 元の町に帰っても自分に優しくしてくれないだろうか? 夢の中みたいなこの町でしてくれているように……。
 灯子の頭の中ではそんな思いが、オーブンの中のパン生地のように膨らんでいった。
 思いのたけを込めた灯子の真顔に、涼雅は照れたように笑って、
 「ありがとう」
 と短く返した。その夕陽に照らされた顔色からは一時的に、あの侘しげな蒼ざめた感じは消えていた。
 灯子は夢を見ていた。永遠に続く夏休みのように、枯れない花のように、思い出の中の鮮やかさだからこそ色褪せない夢だった。その時点でもう永遠は衰え、最後の一撃が楽園を殴打する瞬間は刻々と迫っていた。ここに至ってなお、灯子はこの幸せの延長が現実に長く伸びることを信じていた。

 翌朝、いつも日曜日だと油断して朝寝を決め込むのに、緊張からか灯子は六時にはっきりと目が覚めた。その後はいつも通り顔を洗い朝ご飯を食べる。昨夜悪戦苦闘しながら作っておいたサンドウィッチは、濡れ布巾に包み重しをかけて冷蔵庫に入れておいた(これは咲羅から教わった方法)。後は切り分けるだけなので、今しておくことはほとんどない。灯子は奇妙に空いてしまった時間をもてあまし、部屋をうろうろする。
 八時に、涼雅とイツキは連れ立って出て行った。それを窓から見送った後、灯子はハンカチ棚を漁った。切り分けたサンドウィッチを、ようやく探し出した一番可愛いナプキンで包んで籠に入れていると、すっかり身支度したチューリップが灯子の部屋の扉を叩いた。
 「灯子も試合観にいくんだろ。ボクたちもイツキから誘われているんだ」
 「そうだったんだ」
 「なんかね、護衛が欲しいんだって」
 「護衛? 」
 チューリップは妖精のように可憐な顔に、にやにや笑いを浮かべた。
 灯子は咲羅も誘ったが、ぼんやりとした様子の彼女は、今日はそんな気分じゃないと答えた。

 灯子は、チューリップたちと乗合馬車に乗って、市の北西部にある麹町公園へと向かった。比較的新しい居住区にあるここには、町内で一番大きいサッカー場があった。およそ五千人が収容できる規模の、木製ベンチの観客席も設けられている。残念ながら屋根まではついていないが、今日のところはそんな贅沢は言うまい。風は気持ちよく乾いているし、高原の五月は晴れ渡っていても暑すぎるということはまずない。つばのある帽子さえ被っていればしのげる日差しだ。
 東側の観客席に座った灯子は空を見上げた。初夏特有の空色は、春のように眠たげでも冬のように凛と冴えてもいない。輝かしくそれでいて親しみやすい。化粧コットンをくしゃくしゃに丸めたみたいな雲と、陽光とがまじりあうかと思われる高みから、ヒバリが伸びやかに歌を降らせていた。灯子は訳もなくときめく。今日という日に対する期待感が、その声に勇気づけられてどんどん膨らんでいく。
 やがて灯子の向かい側のスタンドでは、対戦相手、ベアレン刈宿の赤いゲートフラッグが勢いよく揺れ始めた。チームカラーの朱赤のユニホームを着たサポーターが足踏みをして、楽しそうに声を上げて歌いだす。後ろを振り返ればこちらでも、チームカラーの茄子紺のユニホームを着たジャグワール東霧ケ峰のサポーターが、ネコ科の猛獣を描いた旗を振り回して歌い始めた。二つの陣営の声は、親しみやすく陽気な五月の空に、高く高く吸い込まれて行った。
 灯子は紺色のリボンのついた麦わら帽子をかぶっていた。昨日箪笥の奥から引っ張り出して、アイロンがけしたくすみオレンジのドットシャツに、持っている中で一番いいデニムを履いた。大きな篭にはサンドウィッチと冷たく冷やした麦茶が入っている。
 チューリップは赤と黄色のギンガムチャックのワンピース姿で、テンガロンハットを被っていた。アーモンドもいつもと同じように、グリーンピースみたいな色のスウェットの上下に麦わら帽をかぶっている。二人とも、色気を出す相手がチームの中にいないからか、本当に本当の普段着だった。
 灯子のささやかな乙女心など問題にならないほど着飾っている娘さんたちが、こちら側の観客席のへりに、ばらけつつ固まるという微妙な距離感で座っている。
 スポーツ観戦にはおよそ不向きだと思われるような、レースやフリルやリボンのついたブラウス、またはワンピース、または日焼けするんじゃないかと思われるほど露出の多い服。
 この物資不足の中念入りに化粧をして、落としたら地殻まで突き抜けるんじゃないかと思われるほど想いの重そうなお弁当箱を下げ、周りに座った仲間たち(? )と無言で火花を散らしながら、サッカーコートを見下ろしている。
 アップのために両チームの選手たちが姿を現した。
 「イツキー! 」
 「イツキー! 」
 着飾った娘さんたちが叫び始めた。
 「こっち見て、イツキー」
 「試合頑張って! 応援しているわ」
 灯子はポカンと口を開けた。
 「ねえ、あの子たちってみんなイツキのファンなの? 」
 「そうだよ」
 アーモンドが眼鏡の蔓を触りながらにやにやした。
 「試合が終わった後、いつもお弁当攻撃にさらされるから、僕たちとグループになってやんわりとお断りしたいんだって」
 「そういうことか」
 イツキが眼下のフィールドを、センターラインから斜めに駆け抜ける。無駄な脂肪のないふくらはぎや太腿の筋肉が、その動きに連れて躍動する。身長からすると小さな頭の金髪が、自ら生み出すスピードになぶられ、たなびく。明るく健全で溌溂とした笑顔。若い肉食獣のような俊敏な動き。まるで輝く光の戦士のようだった。なるほど、これであの顔である。灯子はふむふむとうなずいてみせる。イケメンにも色々いると思うが、イツキは極めて分かりやすいイケメンだ。
 対して……、灯子はゴールポスト間際を走る涼雅の姿を目で追っていた。相変わらず肩のあたりは骨っぽいが、その太腿もふくらはぎも二の腕も、前に見た印象よりも確実に精悍さを増していた。黒い髪の毛はすでに汗に濡れ、蒼白い顔も今は赤らんで見える。その身にまとった淡い陰りを、脱ぎ捨てようとするかのように涼雅は走る。動きの方も、一つ一つの派手さはないが、連続した流れの中で確実に役割をこなそうとしているのが見て取れる。必死に努力していることを、手を添えて労わってあげたい、可憐なたたずまいだった。
 イツキが向日葵なら、涼雅はそう、まるで月見草だ。華やかさはなく、こじんまりとしている。咲いている姿は人の目にはつかない。だが、確かに淡く発光している。青い光に輝いている。
 ゴールサイドを駆け上ってくる涼雅と一瞬目が合う。そのとたんスタジアムの喧騒が遠のき、世界が二人だけになったかのような静寂を感じる。涼雅は頬を染めた灯子を見てふっと微笑んだ。灯子はやっとの思いで微笑み、小さく手を振った。

 試合が始まった。天然芝のフィールドの上を、選手たちが縦横に駆けまわる。茄子紺も朱赤も入り乱れて、若いのももう若くはないのも、俊敏なのもそうでないのも、みな愉し気に、体を動かす解放感に満ちて躍動する。
 スパイクから芝生の切れ端と黒土が散って飛ぶ。スライディングをしてユニフォームが泥だらけになる。高いセンターリングを追ってヘッドで競り合いになり、肩と肩とがぶつかり合う。選手たちの激しいプレーのたびに、観客席からどよめきが湧く。
 両チームのサポーターたちが陽気に声を上げて応援歌を合唱する。茄子紺と朱赤のゲートフラッグがハタハタと揺れる。まるでちょっとしたお祭りのようだ。灯子もチューリップも知らないおばさんと肩を組んで、ジャグワール東霧ケ峰の応援歌、「密林の王者」を歌った。
 イツキがボールをキープするたびに、女の子たちが黄色い声を上げる。灯子も、涼雅が読みを当ててゴール前でフリーになった時に「行け、涼雅! 」と叫んだ。もちろん友人としてイツキにも温かい声援を送る。チューリップもアーモンドも、隣人二人の活躍に声をあげ、喝采を送った。
 二対二で迎えた終了前五分、右サイドを駆け上がっていった涼雅が決定的なパスを送った。それをイツキが頭で押し込んで、試合はジャグワール東霧ケ峰の勝利で終わった。灯子たちは手をとり合い、小躍りして勝利を喜んだ。

 ユニフォームから着替えた選手たちが観客席に出てきた。スタンド右側の前段の席に固まって座っている灯子たちを見つけると、いつものTシャツとブラックデニム姿の涼雅、は照れ臭そうににこっとした。
 「大活躍だったね、涼雅、こっち来てみんなでお昼にしようぜ」
 チューリップが屈託なく大声で言った。
 涼雅は晴れやかな表情で灯子たち三人に近づいて来た。
 「涼雅、ナイスアシスト」
 灯子は想いのたけを込めてほほ笑みそう言った。涼雅はちょっと視線を外して嬉しそうに唇を歪めた。
 「ありがとう灯子、お昼作って来てくれたんだ」
 灯子の手元の籠に目をやって涼雅が言った。
 「うん。でも大したものじゃない。サンドウィッチだけ……」
 言いながら灯子もまた視線を落とした。
 アーモンドが大きな肩掛け鞄から、保温材に包まれた丸いものを取り出した。
 「僕はコーニシュスパティー焼いて来たよ。よかったなあ、灯子と被らなくて」
 「コーニシュスパティー? 」
 「肉とじゃがいもと玉ねぎのパイ」
 四人が一列になって座った瞬間、女の子たちの黄色い声が一斉にイツキの名を叫んだ。
 「イツキー、一緒にお昼ご飯食べましょ」
 「あたしベーグルサンド作ってきたの」
 「何を言っているの、イツキはあたしと松花堂弁当をご一緒するのよ」
 「何を言っているの、あたしとよ! 」
 着飾った女の子たちが十数人、アイスブルーのTシャツとグレーのパンツで隙なく装ったイツキを取り囲んで、レトロなロボットが繰り出す光線のような眼差しを戦わせる。
 当のイツキはなるべく気楽に、カジュアルな雰囲気を醸し出そうと、さりげなく装った笑顔(しかし引きつりまくっている)を張り付けて、こう切り出した。
 「あのね、気持ちは大変うれしいんだけど、俺今日は同じアパートの友人たちと、お昼を一緒に食べる約束をしているんだ。だから……」
 イツキの言葉の滑りは悪かった。恐らくこのセリフは、何度も頭の中で想定し確認していた内容だったはずだ。だが、イツキは女の子たちの気迫に、すっかりと気おされてしまっていた。だからその言葉は、終りの方になるにつれて段々に心もとなくなってくる。
 イツキが結論まで示せずに口ごもると、女の子たちはそろって、灯子たちの方にぐりんと首を回した。怨霊のように嫉妬深いまなざしだった。灯子は思わずぞくっと震える。涼雅もチューリップもアーモンドも、一様に肩をゾワリとさせている。女の子たちはすぐにイツキに向き直った。
 「そんな約束は断ってもらって」
 「未来の妻とただの友人のどちらが大事なの」
 「何言ってるのよこの女狐、イツキの妻になるのははあたしに決まっているじゃない」
 女の子たちには素直に、イツキを灯子たちのグループに入れるつもりはないようだった。数の優位性でイツキは、着飾った女の子たちの輪の中に取り込まれ、手作り弁当の攻撃にさらされることとなった。
 「イツキの計略は見事に外れたね」
 眼鏡の蔓に指をかけてアーモンドが言い、こう続けた。
 「こういう時、女って怖いね。まあ、僕ほどファンがいないのもどうかって思うけど」
 「しょうがないな。ボクら四人でお昼にしようぜ」
 言いながらもうチューリップは鼻歌混じりで、コーニシュスパティーを切り分けにかかっている。灯子が「うわあ、これ大きいなあ」と思いながら、
 「イツキの分が余っちゃうな」
 と言うと涼雅が、
 「大丈夫だ、余った分は灯子が食べるから」 
 とにやりとした。
 「何言ってるの涼雅! 」
 灯子が頬を染めて抗議する。涼雅は籠の中から、卵とチーズをはさんだ不格好なサンドウィッチを取り出すところだった。
 「いただきます。うん、旨いじゃん」
 涼雅は彼の青白い陰りを打ち消すかのような笑顔を作って言った。灯子はニンジンをかじるウサギのように口をもごもごさせる。涼雅に喜んで欲しくて苦手な料理を頑張ったのに、いざ涼雅が嬉しそうに食べていると身の置き所が分からなくなってしまう。
 「良かった……」
 やっとそれだけを言葉にする。
 空は清々と澄み渡り、風は若草の匂いを運んできた。スタンドに巣を作っている鳥たちが、餌を探してフィールドの上を飛び交っている。朝よりだいぶん気温が上がったので、冷たく冷やした麦茶が嬉しい。アーモンドのパイもとても美味しかった。「結局イツキの分も残らなかったね」といいながらみんなで食べてしまった。
 お腹がくちくなり、すっかり満足して四人で空を見上げた。応援歌がなくなると、再びヒバリの歌の輝かしさが、豊かに高々と聞こえた。
 それは平和な光景だった。観客たちも着替えた選手たちも、皆めいめいにリラックスして初夏の晴れた一日を楽しんでいる。色々なところに色々な人の輪が出来ている。パンにおにぎり、チキンに卵にお稲荷さん、様々なお弁当が広げられている。歌っている人、踊っている人、一杯ひっかけている人もいる。イツキを巡る女の子たちのバトルを含めても、本当に平和そのものの眺めだった。イツキはまだ解放される望みはない。
 このまま涼雅と抜け出して、麹町のパーラーでアイスクリームでも食べられないだろうか、灯子はそんな考えを思いついた。出来れば今日は二人っきりがいい。だが、自分にそんなこと切り出せるだろうか? 
 そう思いを巡らせて苺のように頬を赤らめていると、後ろの方で誰かがクスリとした。その笑みの気配は、若い女性の可憐で甘やかなものだった。
 「随分と楽しそうね」
 蜜のように甘く澄んだその声には、何故だろう? 血を汚し、命をむしばんでいくような毒が感じられた。灯子の背筋が氷のように冷たくなっていく。
 これは誰だろう? 
 知らない声のはずだった。
 振り向いてはいけない、灯子は直感した。振り向いたならば取り返しのつかない事態が待っている。
 だが灯子には、振り返らざるを得ないこともまた解っていた。まるで呪いにかけられたかのようだ。破滅を予告されながら、自分では何一つ打破することが許されない神話の主人公のように、灯子は為すすべなく後ろを振り向いた。まつ毛を震わせながら凝視する眼の中に、口角の完璧に引き上げられた笑顔が飛び込んで来る。
 それは灯子と同じくらいの年頃の女の子だった。栗色の長い巻き毛を、黒いベルベットのリボンでハーフアップにしている。日本人と西洋人の血の混じった顔立ちをしていた。瞳孔が開いた薄茶色の瞳は、十一月の嵐のように冷たい憎しみに見開かれている。スレンダーな体には、フリルやリボンの多用された漆黒のドレスがよく似合っていた。彼女は右手で自分の顎に触れ、左手を腰に当てて、灯子の凍り付いたような瞳を、酷薄そうな笑顔を浮かべて見つめていた。
 あっと思った瞬間くらりと眩暈がした。視界が一気に暗転していく。手足は冷たくなり、切り落とされたかのように感覚がなくなる。息が出来ない、叫びたいが声にならない。
 ――――苦しい、苦しい、助けて! ――――
 灯子の体は一瞬痙攣した後、横向きにバタンと倒れた。
 「灯子! 灯子! なに? どうしたの? 」
 涼雅やチューリップたちが慌てて騒ぎ出す。三人とも何が起こったのか分からずうろたえるばかりだった。イツキを取り囲んでいた女の子たちも騒ぎを聞きつけて黙った。イツキがその輪の中から抜け出て駆けつけてきても、しんと言葉を呑んでいる。
 「灯子、灯子、しっかりしろ! 」
 涼雅が灯子の肩をつかんで揺さぶったが、灯子の蒼ざめた瞼は閉じられたままだった。



 「ねえそこ座ってもいいかしら? 」
 灯子は鼻白んで見上げた。画版を抱え、校庭のプラタナスの良く見える保健室前に座る灯子に、突然彼女は話しかけてきた。木々が一斉に芽吹き始める四月だった。
 「いいけど……、平気? 」
 「平気って何が? 」
 「だって……」
 彼女は灯子の答えも待たずに右隣に腰を下ろした。そのまま灯子の水彩画を覗き込んで来る。
 「ふうん、何の心得もない感じではないわね。あたしもあなたと同じあの木を描こうかしら」
 「……」
 「心配しないで。あの子たちにあなたのあることないことなんか、話す義理なんて感じていないから」
 「……でも、どうして? 」
 「単純よ」
 彼女は深紅の薔薇がほころぶような、うっとりとするような微笑みを浮かべた。
 「お友達になりたいの、あなたと」
 
 そして十か月後、灯子は死んだ。

 
 気が付いたとき灯子は、観客席のベンチに寝かされていた。意識を失っている時に見ていた短い夢は既に、すっかりと流れ去っていた。
 チューリップとアーモンドが、掌で灯子の顔のあたりを扇いでいる。その脇から、涼雅とイツキが険しい顔つきでのぞき込んでいた。
 ここは確かに、何の変哲もなく霧ヶ峰タウンだった。灯子はいつもの仲間たちに囲まれている。咲羅はアパートにいるが、ここには涼雅にイツキ、チューリップにアーモンドもいる。そして灯子もまたここにいる、間違いない。
 日差しは明るく気候は暖かで、風は適度に乾いて爽やかに吹いている。空はアクリル絵具のブルーで、硝子のように透明に輝く、いつもの霧ヶ峰タウンの空の色だった。そのまばゆい青の中から、ヒバリが相変わらず歌を降らせている。
 「あ、良かった、目が開いた」
 チューリップがほっとした声を出した。
 「熱中症? ではないよな」
 涼雅が深い目に不安の色を浮かべて、首を傾げた。
 「何? あたしどうしたの? あの栗色の巻き毛の子は? 」
 灯子は唇を歪めそう言った。瞬時に震えが湧き上がり、歯がかみ合わなくなってしまいそうだ。突き上がってくる脅えが、体中で竜巻のように暴れている。
 四人はお互いに顔を見合わせた後、さっと周りを見回した。涼雅が目に戸惑いの色を浮かべて、チューリップとアーモンドに尋ねた。
 「栗色の巻き毛の子、そんな子いた? 」
 「ボク見てない」
 「僕も」
 イツキも怪訝そうに言う。
 「それって灯子の知り合い? 」
 灯子は寝転がったまま横を向いて、あの子がいたところを見た。そこには誰もいなかった。いた痕跡もなかった。
 「栗島クリス」。
 頭の中で知らないはずのあの子の名前が鳴り響いた。それは灯子の中で、何重にもエコーして、訳も分からないまま慄然とさせた。
 「栗島クリス」、灯子を殺した子。
 そう、灯子はあの日冷たくなって死んだはずだった。でも同時に生きていたという記憶もある。これは一体どういうことだろう? 
 灯子は心の中心に今まで確固としてあった、自分が自分であり、なしてきたことはすべて憶えているという自信が、どんどん頼りなくあやふやになっていくのを感じた。
 記憶の根拠があやふやになっていくと、後には疑問符だけが増えていく。灯子は果て度もなく自分に問いかけを続けた。
 自分は本当はどうやってここまで来たのだろうか? 寒い所をさまよっていたのだけは確かな気もするが。だが、吹雪のなかを学校の子たちと一列になって逃げたのは、あれは幻だったのだろうか? 雪オオカミに追い立てられたのは、凍え切った咲羅と門の前で出会ったのはリアルだったのだろうか? それとも虚構だったのだろうか? もしかしたなら今ここにこうして座っている自分の血や肉や体温は、かりそめの物なのではないのだろうか? 灯子の本当の体は本当には……。
 もしかして、霧ヶ峰タウンって、天国? 
 灯子の真っ白く靄がかった頭の中には、そんなフレーズが響いた。 

 結局その日灯子たちは、大事を取ってすぐにアパートまで帰った。みんな灯子を案じ、出来るだけ長い距離を乗合馬車で移動した。
 車を揺らす心地よい揺れに身を預けながら灯子は、初めてこの町へきて、みんなと出会った時のことを心でなぞっていた。
 あの時のことははっきりと覚えている。咲羅の凍えて蒼ざめた唇も、初めて来た時感じた町の匂いも、塔の外に浮いていた雲の色さえ思い浮かべることが出来る。それなのに、灯子の心にはもう一つの想い出が、夜闇の中、不意に月光に照らし出される雪原のように忽然と姿を現していた。
 灯子は泣きながら彷徨っていた。冬の制服を着たまま、コートも身に着けず一心不乱に歩いていた。驚異的な速さで降り積もっていく雪に、ブーツを履いた足は半ばうずもれてしまいそうになる。灯子の頬に髪にむき出しの太ももに、零下二十度の風が吹き付けてくる。もう死んでしまいたい、さっきから思い浮かぶのはこのフレーズだけだった。そう、灯子は死にたかった。
 このまま雪の中で永遠に眠りについてしまえたら……。灯子はそう思いながら険しい山道を一層奥深くへと踏み入っていく。やがて凍えた体は動かなくなった。意識がもうろうとしてくる。灯子は力尽きる寸前の意識で思った、眠い、眠い、そうだ、今こそ自分は望み通り永遠の眠りにつくんだ。灯子はあおむけに倒れた。閉じかけた瞼でしばし宙に目をやる。暴虐と暴れる雪片が渦を巻いている。
 すると不意に、凍てついた空気の向こう側から小さな光が降ってきた。それはみるみるうちに大きくなり、気が触れた猛獣の様な吹雪などもろともせずに、灯子の全身をサイケデリックな祝福で包んだ。
 ――――我が巫女として一生をとして尽くすことを誓うか? ――――
 男のような女のような、人間を超越したかのような声が呼びかけた。
 ――――さらば受け入れよう、我が足元にハーケンを突き立て、我が技の習得に人生を傾けるならば――――
 灯子は涙に滲む目で光を仰ぎ、右手を差し出した。逆光の中解けていく自分の手の輪郭が網膜に焼き付いている。光は洪水のように振り注ぎ、灯子の全身を飲み込むのだった。

 その晩、灯子が倒れたという話を聞いた咲羅は心配して、灯子を夕ご飯に呼んでくれた。居心地よく整えられた部屋で、灯子は鶏五目ご飯と、ニジマスのグリル、根菜のお味噌汁をご馳走になった。程よい塩味が美味しい料理を、灯子はウサギのようにもぐもぐと咀嚼した。
 「どうしたのかしらね、食欲はあるようだけど」
 と咲羅が首を傾げた。
 「自分でもどうしたのか分からないんだ」
 それは灯子にして嘘偽りのない言葉だった。だが同時に真実だと言い切るには、微妙なうしろめたさがある。灯子が何故倒れたのかは自分でも分からない。しかしそれに、「栗島クリス」という栗色の巻き毛の子が関わってきていることだけは確実と思われた。それを、「何もわからない」と言い切ってしまってもいいものかどうか……。
 だが灯子は、「栗島クリス」という名を口にしたくなかった。誰かとその存在を共有し、公にしたくはなかった。
 「咲羅はさ、一つのことに対する思い出が二つあることってある? 例えば、今まで初恋のあの子と両想いだったいい思い出しか憶えてなかったけど、ある時を境に、実はあの子に冷たくされてたっていう思い出が、前の想い出を上書きすることなく、二重になって浮かび上がってくるみたいなことが」
 「あなたが言っていることは複雑ね。同じ事柄についてイという思い出も、ロという思い出も、並行してあるっていうことかしら? 」
 「うん、そういうこと」
 咲羅は思案顔を作って言った。
 「わたしにはそんな思い出はないわ」
 「うん。やっぱりそうだよね、普通は……」
 灯子は声を落とした。
 「そのことと、昼間倒れたことと、何か関係があるの? 」
 「うん……。ちょっと……」
 「そういえば涼雅が、灯子は『栗色の巻き毛の子』を見て倒れたらしいって言っていたけど、それって灯子のお友達? 」
 「灯子のお友達? 」、その言葉が発せられるや否や、灯子の掌に背中に汗が湧いた。横隔膜が痙攣する。心臓は不規則な動悸に見舞われ、体が硬直して息が出来ない。
 見る見るうちに息が乱れ、蒼ざめていく灯子を見た咲羅は、おろおろと声をあげた。
 「灯子、灯子、ごめんなさい、この話はやめにしましょう。そうだ、昨日菊之助から手紙が届いたでしょう、その話をまだしていなかったわね、わたしにしても何だかまだ夢の中にいるみたいで」
 咲羅は菊之助からの手紙の内容を話し始めた。灯子もなんとか呼吸を落ち着けて聞き入る。
 「わたしたちが探していたのは、この世の存亡にかかわる文書だと、前から話していたでしょう? 菊之助は、わたしとはぐれてから三年もの間、小さな断片をかき集めるようにして、その文書の全てをまとめたそうなの。『緋桜伝』という三巻の物語だそうよ」
 「ひおうでん? 」
 その言葉は灯子の中で、深い滝つぼに吸い込まれていく川水のように心の暗部に落ちて、幾重にも水音をこだまさせた。何故か胸がざわざわした。
 「菊之助はこれを集めるためにだいぶん苦戦したらしいわ。ほうぼうの町や村の、貸本屋や図書館や、好事家の蔵書をしらみつぶしに探したそうよ」
「菊之助さんそんなに苦労したんだ。本当に使命感が強い人なんだね。でもその『緋桜伝』ってどんな物語なの? 」
 「それが菊之助にも分からないの。この世の誰にも読むことは出来ないでしょうね。何しろ、その物語は白紙だそうなの。題名と頁と『了』の一文字以外は何も書かれていないの。真っ白い紙束なの。菊之助はページ番号だけを頼りにそれを集めたそうよ」
 灯子の背中の汗がふっと冷えた。
 「菊之助は思案したそうよ。これを集めれば何かが起きると期待して集めて来たけれど、いざ集め終わっても何も起こらない。物語の内容から推察することもできないし。一体どうすれば下命を果たしたことになるのか、これからどうすればよいのか、そう思いあぐねて彷徨いながら野営していたある晩、焚火の向こう側に不思議な老人が現れたそうなの」
 「不思議な老人? 」
 「ええ。まるでエスメラルダのように、男だか女だか分からない、髪を紫に染めた老人だったそうよ。その老人はこう告げたの。この世界のどこかの町にいる、『眠れる核』を探し出しなさいと。彼の手にこの白紙の物語が渡って初めて、奇跡は完成するのだと」
 「『眠れる核』……」
 「彼の者が目覚めるとき世界もまた目覚める」灯子の脳裏にエスメラルダの言葉がよみがえった。やはり、灯子たちを襲ったストームと、この世界を脅かす雪と氷は繋がっている。アイリス様の先々代の巫女姫様の託宣が本当ならば、「眠れる核」はきっとこの町のどこかにいる筈だ。彼を探す菊之助もいずれこの町へとやって来るだろう。そして彼の使命が果たされた時、このアパートにいる仲間たちはばらばらになる……。
 「菊之助はこれから『眠れる核』を探索する旅程に出ると書き送っていたわ。そして無事下命を果たした暁には、父上から正式に私を妻としてめとることを願い出たいと」
 最後の一文を語る咲羅の声は震えていた。それはまだ実感できない喜びへの、期待とおののきにに満ちた言葉だった。幸せ過ぎるとき、人はかえって物思いにふけるものだ。
 灯子はよっぽどエスメラルダの言葉を引いて、「眠れる核」がどうやら霧ヶ峰タウンにいるらしいことを伝えようと思ったが、それは喉の奥で頑固に抵抗して言葉として発されることを拒んだ。代わりに、当たり障りのない一言が出てきた。
 「咲羅、菊之助さんと帰っちゃうんだね」
 「ええ……」
 咲羅の微笑みはとても幸福で満ち足りているのと同時に、隠し得ない寂しさに満ちていた。
 「なんだか寂しいわね。菊之助と一緒になれるのは嬉しいけれど、灯子やチューリップたちと離れたくはないわ」
 「ねえ、今まであえて訊いたことなかったけど、菊之助さんとのなれそめは? 何時、どこで出会ったの? 」
 灯子は無理やりに笑みを作ってそう尋ねた。咲羅がもうすぐいなくなってしまうなら、これっくらいは訊いてもいいはずだ。咲羅は少しうつむきぽっと頬を赤らめた。その後で、漁火が落ちる夜の海のように煌めく瞳でこう語りだした。
 「菊之助はね、わたしの護衛の嫡男だったの。もう三つ四つのころから見知った仲だった。菊之助はどうだか知らないけれど、わたしはもう少なくとも七つのころには彼を想っていたわ。
 菊之助は十四で元服して、お父上の後を継いで私の護衛になったの。一緒にいる時が長ければ、気持ちは伝わるものね。わたしたちはひそかに思いを告げ合った。でもそれを知った父上が激怒なさって……。
 その時この世を異変が襲ったの。父上は、もしわたしとの仲を認めてほしければ、厳しい使命を課す、かねてから命じられていた、将軍様からのご下命を果たして戻って来いと菊之助にお命じになったの。本当は菊之助一人で旅立つはずだったのが、わたしが無理やり付いて行ったの……」
 なんとなく、灯子が想像していたようなことを咲羅は語った。何だかあらかじめ知っているお話を、再度人の口から聞いたような心地だった。
 「そうか。菊之助さんは咲羅の初恋の人だったんだね」
 「灯子は? 」
 と、咲羅が尋ねた。
 「灯子の初恋の人は誰だったの? 」
 咲羅が照れ隠しのように尋ねた。
 灯子は、咲羅が女同士のときだけふと見せる、この悪戯っぽい表情がとても好きだった。そうれがもうあとわずかで思い出の中でしか出会えないものになってしまう。灯子は焼き付けるように咲羅の表情を見つめながら言った。
 「小三の時の同級生。大河君て言ったかな。その子と男女四人くらいのグループで、よくお互いの家で大騒ぎしたっけ。咲羅みたいにロマンティックでもドラマティックでもないよ。照れくさくて、気持ちはとっても告げられなかった。ああ、今と一緒だね」
 とうに遠い思い出になった彼を、灯子は鮮やかに思い出した。これが自分の好みなのか、涼雅にかなり似ている気がする。華奢で黒い瞳の男の子だった。
 「灯子、後悔の無いようにね」
 咲羅が少し青い深い瞳に、何億光年旅してきた、星の光のような輝きを宿して灯子を見つめた。灯子も言った。
 「そうだね……」
 この奇妙で居心地のいい生活はもうおしまいに近づいている。ならば、離れ離れになる前に想いを伝えなくてはならない。せめていい夢であるうちにいい夢を味わっておくのだ……。
 そこで灯子はふと引っ掛かりを憶える。いい夢? これは誰が言った言葉だっただろう? 
 灯子は首をかしげ、宙に視線をさまよわせたが思い出すことは出来なかった。 

 その晩夢の中で灯子は、初恋に胸ときめかせる小学校三年生の女の子に戻っていた。
 九歳の灯子は今とさほど変わらない長さのボブに、オレンジのキャラクターTシャツとカーキのハーフパンツ姿で飛び跳ねている。灯子の隣ではコントローラーを握った大河君が大笑いしている。後ろにはモッチとはせぴょんも居る。中学を卒業してから顔を合わせる機会のなくなった仲間達。
 ここは大好きだった彼の家だ。灯子たち仲良しグループ四人は、当時流行っていたフィットネス系のゲームに興じている。同い年の四人の体格は似たり寄ったりで、なかなか勝ち負けがつかない。皆大声を上げて、仔犬が転げるように大はしゃぎする。
 やはり大河君は涼雅とよく似ている。夜の海のように深い瞳をしている。彼が後ろから灯子の頭を小突けば、灯子もお返しとばかりに彼の脇腹をチョップする。画面の中のひっくり返ったカートに彼が大きなため息を吐けば、灯子は大きな声で「次だ次」と言う。
 笑って笑って笑って跳ねて、仔犬のように、野兎のように、子供たちは大はしゃぎする。楽しいことは必ず終わってしまうということを、あの時の灯子たちは知らなかった。未だ人生の荒波を知らない少年少女たち。
 「大河君、大河君」、うっとりと頬を染めた灯子は、そう何度も何度も呼び掛ける。涼雅とよく似ている大河君は、涼雅と違って蒼ざめてはいない。健康な日向の匂いがする。
 「大河君」
 「灯子! 」
 不意に力強く名を呼ばれる。その声は確かに、成人した涼雅の声だった。大河君の家のリビングが光の渦に飲み込まれていく。意識が現在に引き戻される。灯子は目覚めた。
 「涼雅……」
 朝の五時半だった。

灯子の告白 その顛末

 月曜日から灯子の日々は、また単調で規則正しく続いて行った。
 朝七時に乗合馬車に乗った灯子は、八時から工場でメロンパンの生地を計り続け、十二時には大きなおにぎりを食べて同僚と談笑する。一時から五時までは、再びメロンパンの生地を計り続け、五時になればアニーローリーととも(何故この曲が業務終わりを示すのか灯子にはいくら考えても分からない)帰り支度を始める。
 木曜日に帰るとき、乗合馬車で灯子の右隣に座った咲羅は、妙に嬉し気に瞳をキラキラとさせていた。灯子は首をかしげたが、その疑問は呆気なく晴らされた。帰って早々に咲羅たちが計画を明らかとしたのだ。
 アパートに着くや否や咲羅は、一足先に帰っていたチューリップと一緒になって、灯子の部屋に押しかけて来た。二人とも盛りの付いた種牡馬のように鼻息が荒かった。
 「灯子、今度の土曜日にピクニックに行くよ。そこで灯子は涼雅に告白をするんだ! 」
 チューリップが妖精のような緑色の目をキラキラさせながら、両こぶしを握って言った。
 「ココココ、告白! 」
 灯子は盛大にどもった後、オウム返しにかえした。
 「どうしてそんな……」
 咲羅も少し青い目に力強い炎を宿して力説する。
 「だって灯子、わたしが『後悔の無いようにね』、と言ったら、『そうだね』って言ったじゃないの」
 チューリップもしきりに頷きながら続ける。
 「そうだよ、このまま何のアクションもないまま終わらせていいものか! 」
 灯子は二人の勢いに圧倒されて言葉が出てこない。へどもどするだけの灯子に、咲羅もチューリップも一層に、顔を赤くして力説する。あたかも、告白するのが自分の方であるかのようだ。
 「灯子、いいこと? 土曜日にわたしたちが行くのは、第一の城壁と第二の城壁の間の農業区の外れにある『玉鬘の丘』という静かな丘よ。そこにはね、怪しいうわさがあるの」
 咲羅の説明にチューリップが続ける。
 「丘のふもとにある『黒髭の谷』に足を踏み入れた人の何人かが、とうとう戻って来なかったんだって」
 二人の弁に、灯子は声をひっくり返した。
 「なになに、怪談じゃん! どうしてそんなぞっとするようなところにわざわざ? 」
 「吊り橋効果だよ。聞いたことない? 恐怖を共にすると二人の距離がぐっと縮まるって」
 チューリップが言えば、咲羅も続ける。
 「わたし達は三組に分けて二人ずつ谷に降りて丘に登って帰って来るの。その間に、灯子は涼雅に思いを伝えるのよ! 」
 「いやでもそんなこと急に言われても……」
 咲羅の少し青い瞳に真剣な光がきらっと宿る。想いを告げたことのある女性の先達として、灯子を熱く叱咤激励する。
 「灯子、本当にしっかりして。ここできちんと行動しなければ、一生後悔することになるわ」
 灯子はごくんとつばを飲み込んだ。ほっぺたが額が、火が出るみたいに熱くてたまらない。「一生後悔することになる」咲羅の言葉は本当だと思った。灯子は大河君をはじめ、想いを告げることなく自然消滅した、二三回の片思いの相手を思い出していた。それは全て灯子の意気地のなさが原因だった。今やる気にならなければ、一生これが繰り返されるような気がした。
 「わかった。頑張ってみる……。でも、期待はしないで……。でも、チューリップまで何で涼雅のこと知っているの? 」
 チューリップはあきれたように笑った。
 「そんなの、アーモンドもイツキもみんなボク達の同志だよ。気付いてないとしたら涼雅くらいだ」
 そう言いながら灯子の肩をバンと叩いた。咲羅も励ますように言う。
 「大丈夫よ、わたしの見立てでは、涼雅もきっと灯子を憎からず思っているはず」

 金曜日の勤務も、その後の恒例の飲み会も、灯子はずっと上の空だった。先週同様中庭で飲み食いする他のメンバーは、明日行くピクニックの話題で盛り上がっている。咲羅もアーモンドも、気合を入れたお弁当を作ってくるらしい。灯子も何かメニューを考えなければならないのに、頭が真っ白になったみたいになって何も浮かばない。
 灯子はワインを含みながら自分の左手を胸の上に当てた。周りに聞こえるんじゃないかというくらい心臓がバクバクしていた。頬に手を当てれば火のように熱い。とてもじゃないがアルコールがなければ胡麻化すことが出来ないほどだ。やっとの思いで平静を装う灯子だが、会話の中身もほとんど頭に入ってこなかった。
 涼雅はどういう顔をしているのだろうか? 灯子が盗み見る彼の顔は、いつも通り蒼白く、柔和で穏やかな微笑みを浮かべていた。思わず見とれてしまうような笑みだった。
 灯子がうっとりとし過ぎていたからかもしれない。盗み見ていたつもりなのに計ったように涼雅と目が合う。涼雅はその度「どうしたの? 」という顔で灯子をのぞき込んでくる。灯子は当たり障りのない会話を差し出すのでやっとだった。
 夜が深まり、月が高くなる。灯子の不安はどんどん増していく。本当に自分は明日、告白なんてできるのだろうか? 

 その晩灯子は緊張からかなかなか寝付くことが出来なかった。
 一人になると自分の心臓の音ばかりが大きく聞える。それを振り切ろうと、灯子は何度も寝返りを繰り返す。目を閉じて一心に眠りを念じても、涼雅の微笑んだ顔ばかり瞼の裏に見える。灯子の血潮はますます熱く燃え上がっていく。
 十二時を回ったころ、灯子はごそごそと起き出して中庭に出た。
 月の美しい晩だった。わずかに欠けた月が白銀に輝いている。満月に一歩足りない十四夜の月だった。どこで聴いたのかは忘れたが、そんなポップスがあったなと灯子は思った。満ちれば後は欠けていくだけだから、満ち切らない十四番目の月が一番好き。
「まるで今のあたしみたいだ」
 昼間の熱気が嘘のようにかき消え、ひんやりとした夜気が灯子の肌を撫でた。月は魔術のような光線を地上に放っている。どこか濡れているような空気だった。そうだ、月の光と言うものは、どこか湿り気があるように感じられる、灯子はそんなことを思いながら月を見上げていた。
 灯子はふと駐車場の方に目を留めた。チューリップが町から委託されて、農場の同僚たちを農業区へと運んでいくための赤いマイクロバスの隣に、ジープが一台停まっていた。軍事用のジープだった。灯子はあっと気付いた。これは恐らく、初めて町へ来た時にピノに乗せられてきたあの車ではないか? ということはピノが来ているのだろうか。だがこんな夜更けに何のために? 
 灯子は反射的に辺りを見回した。一階の北端のエスメラルダの部屋から、黄色い灯りが漏れ出していた。灯子は思わず足音を潜め、窓の端へと寄り聞き耳をたてた。カーテンの隙間からピノとオオカミとカリンが、エスメラルダと何か深刻そうに話しているのが見えた。
 「……凶兆が出た……」
 「それは未知のものだ。俺たちもいずれはその力に……。両性具有のお前なら……」
 「時間が少ない……」
 「もう俺たちにしてやれることは……」
 「あの子があんなことを言いだすなんて、想定外だった……」
 「大体あなたが甘やかしすぎたんです……」
 「いや、それを言うならわたしたちも同罪か……」
 「でもそもそも造物主様に、アタシ達は逆らうことは……」
 深刻な顔で話される会話の断片は、ひどく灯子を怯えさせた。自分の中で二重になった想い出を自覚した時のように、今まで確かだと感じていたことが、ことごとく覆されていくようなあの感覚が襲い掛かって来る。
 何故ピノは誰にも気取られないようにここへ来たのか? 何か灯子たちに隠していることがあるのか? それはエスメラルダもグルになっていることなのか? そして何か隠していることがあるとしたら、それは灯子たちにとって不都合なことなのか? 
 灯子は気付かれないうちに通用口から入ってひっそりと部屋に戻った。より一層眠りが遠くなっていくのを感じた。
 何度も寝返りを打ってぼんやりと天井を見上げれば、黒いドレスを着た「栗島クリス」がぽっかりと浮かんだまま、見開いた瞳孔で灯子を見下ろしていた。
 ――――ねえ、どうしてあたしを追い回すの? ――――あなたの勘違いを正すためよ――――あたし何か勘違いしている? ――――ええ、あなたが今持っているものは、本来あなたの物じゃない――――あたしが何を持っているっていうの? ――――世界、仲間、やすらぎ、全てあなたがずるして手に入れた――――ねえ、それをとったらあたしには何も残らないよ――――どうして残らなかったら駄目なの? いいじゃないの、あなたが不幸になるくらい、それこそがあなたの正常な形じゃない。だってあなたは死んでいるんだから、何も持っているはずはないのよ。せっかく自ら死を選んだんだから、大人しく死んだままでいなさい――――

 いつの間に灯子は眠ってしまっていたのだろうか? 気付いたときには朝の七時半になっていた。しまったお弁当! そう思いながらガバリと布団を跳ね上げる。すっかりと寝過ごしてしまった。出発まであと三十分しか残っていない。

 八時に一行はアパートを出発した。予定通りのスタートだ。灯子はどうにかこうにか、お徳用冷凍の豚小間を使い、回鍋肉的なものを作ってタッパーに詰めた。後は顔を洗って化粧水をつけるので精いっぱいで、爆発気味の寝癖を完全になくすことすら出来なかった。灯子は嘆いた。
 「今日告白するはずなのに……」
 灯子はサッカー観戦の時に着た、くすみオレンジのドットシャツを再び取り出した。身なりにかまわない灯子は、当然のことながら服のレパートリーが少ない。パンツだけはこの間と変えて、伸縮性のある黒ストレートのものにする。あああ、もっと前もってわかっていれば……、と再び溜息をつく。
 「本当に今日告白するはずなのに……」
 昨夜のことはどこまでが現実で、どこからが夢だったのか、灯子には判別がつかなかった。ひょっとしたら、中庭で月を見上げた時からもう、夢の中の出来事だったのではないだろうか。灯子が確かだと言えることはただ、寝不足で目がしょぼしょぼするということだけだ。
 それだというのに灯子は、一時間も眠気を誘う乗合馬車に揺られていても、うたたね一つしなかった。眠いという欲求は、何億光年と離れた星雲のようにかなたの事象に感じられた。
 一行は乗合馬車の座席に固まって座り、同じようにピクニックに行く高齢者のグループ四人に教わって、のんきに大昔の歌なんぞ歌っていた。
 「喧嘩をやめて、二人を止めて……」
 灯子はなんとかかんとか会話に付いて行こうとする。
 「この町では流行りの歌も、本みたいに何時の間にかひっそりと入ってくるんですね」
 「じゃあ志摩子さんにとっては、八十年代ポップスとかも、最近の歌に入るんですね」
 嘘くさい顔で何を話しても、どれだけ平気な素振りをしようとも、片足一歩分の半径の円環が、すぐさま灯子を同じ結論に連れ戻してしまう。
 ――――後数時間後にはあたし告白するんだ――――
 果たしてその後灯子は、恋の成就に微笑んでいるのか? 失恋の痛手に涙しているのか? 
 涼雅はと言えば馬車の窓枠に肘をついて、いつも通り柔和にほほ笑んでいる。隣に座ったイツキと、後ろに座ったアーモンドと、その隣に相席になった老紳士と一緒になって、男の料理について尽きない話題を滾々と続けている。
 咲羅たちの話が本当なら、イツキもアーモンドも、灯子が今日告白することを知っていることになる。駄目だったら即、全員にそのことが知れ渡ってしまうのだ。灯子はプレッシャーにカクカクと震える。
 咲羅もチューリップも、涼雅も灯子を憎からず想っていると励ましてくれた。咲羅はこうも言った、「好きでもない娘にあんな眼差しを送る男はいないわ」
 だが、灯子には客観的に考えることなんて出来ないのだ。自分が涼雅にどう映っているかなんて、主観で塗りつぶされた目では見ることが出来ない。灯子の心に浮かぶ思いはただ、「想っていて欲しい」という願いと、その裏腹の「駄目だったらどうしよう」という恐れの二極端だけだ。
 そして灯子の不安定な気分をなおさら不安定にするように、昨夜のピノたちとエスメラルダの、夢だか現実だか分からない密談が追い打ちをかけている。
 灯子は涼雅がOKと言う可能性と、NOと言う可能性の間を、振り子式の絶叫マシンのように揺られながら、その基台さえ破壊するような不安にもじわじわと攻め立てられている。それだというのに、表面上はいつもと何も変わらないように、平凡におしゃべりしなくてはならないのだ。
 なんとかかんとか平静を装う灯子だが、それでもやはり挙動不審なのだろう。涼雅が時たま怪訝そうに灯子を見つめている。咲羅もチューリップも、二人が同志だと言ったイツキもアーモンドも、そんな灯子に目で励ましを送って、暖かくスルーしてくれた。
 居住区の外れで、居住区の乗合馬車が終点になる。ここで別方向へ行く高齢者グループとお別れする。そこから城門の外出許可を得て、一行は農業区の乗合馬車に乗り換えた。そこからさらに一時間、農業区の外れ、目当てである丘の連なる地域へと揺られていく。乗合馬車の終点が来れば後はみんなして、リュックや水筒を下げててくてくと歩いていく。
 やや雲は多いもののピクニック日和だった。薄雲が太陽にかかっているからなおさら、暑さが苛烈にならずに過ごし易い。昨夜からやや湿った風が吹いている。それはじっとりとするほどではなく、まるで肌に薄絹をまとっているかのようにひんやりと感じられる。
 眺望の良い丘の上に出れば、遠くて高い山並みが青瑪瑙のように輝いているのが見える。遠くの峰にはベールのような雲がかかっていた。アラバスタのむらの様なその切れ目から、五月の陽光がひび割れたように漏れ出している。熱と冷たさ、その両方を感じさせる雄大な輝きは、天使が群れながら降りてくるかと思われるほど神秘的だった。
 六人は怪しい噂のある谷間を目指して、なだらかに連なる丘を何度も登っては降りた。道は町がピクニック用に整備した、白砂利を敷き詰めたものなので、迷うこともなく歩きやすい。
 丘の上は若草が生い茂り、中腹は白樺の木がまばらに生え、谷間は湿った灌木が徐々に勢いづいて来るところだった。足元に難儀することが無いからか、まだまばらな葉群れから落ちる、木漏れ日の美しさが素直に心に差し込んで来る。
 「お花はあんまり咲いていないのね」
 咲羅がそう言うと、
 「まだ山野草シーズンじゃないんだよ。でも、水場の方に行けば水芭蕉が咲いているかも」
 と、自然科学な好きなアーモンドが答えた。
 六人は馬車に揺られていた時よりも会話のボリュームを上げた。遮るものの無い空が高く声を吸い込んでいった。幼い子供の物とはまた違う、成熟して若い今だからこその無邪気さなのだろう。誰もかれも声を張り上げ、もつれるように笑い合い、時には前を歩く人の頭を小突いたり、わざと大きく足取りを乱したり、無駄なことこそ楽しめるような活力で、意気揚々と歩いて行った。
 「なあ、ここなんじゃないの? 」
 小高い丘を一つ登り切った時、イツキが砂利道の傍らの木製の案内板を指さして言った。そこには「玉鬘の丘―黒髭の谷」と書いてあった。アーモンドも手にしていた折り目だらけの地図を出してうなずく。
 「そうだね、ここだね」
 丘の上は丈の短い草に一面覆われていた。よく見てみると、小さな青い花が咲いているのが分かる。それは霧ヶ峰タウンのお年寄りが「ナミダグサ」と呼んでいる山野草だった。「学名は何だったかな? 」とアーモンドがポケットから図鑑を取り出してめくる。頂上には三本の白樺の木が生えていた。若い緑の葉群れがセロハンのように光を透かして、心地よい日陰を作り出していた。
 「ねえ、ここでお弁当食べようよ」
 チューリップがそう言って、ミニトマトみたいな色のリュックを背中から降ろした。そろそろ空腹をおぼえる時間だったので、皆素直にその弁に従った。
 咲羅が白い大きなビニールシートをリュックから取り出して、白樺の作り出す木陰に敷いた。アーモンドもまた、少し小ぶりのシートをその隣に敷く。降ろしたリュックや脱いだ靴で端っこに重しをして、六人はお弁当を広げた。
 咲羅は大きな三段の重箱を開けた。一段目には繊細な錦糸卵をのせたちらし寿司が詰まっている。シイタケと根菜、それからこの辺りでよく採れる山菜を甘辛く煮しめて酢飯に良く混ぜ込んである。それにはまるでケーキのように四角く、包丁で切れ目が入れてあった。二段目には、生姜がよく利いた唐揚げ、三段目には特製のぼた餅が入っていた。
 アーモンドは鶏レバーと、養殖サーモンのサンドウィッチを作ってきた。涼雅は梅紫蘇を巻き込んだ鶏ハム、イツキはコーン缶が入ったチーズマカロニサラダ、皆彩りよく美味しそうなメニューだ。その中で一人灯子のお弁当だけがどんよりと茶色で、「やっつけ」感がすごい。
 灯子の「回鍋肉的なもの」を見た瞬間、イツキが「あああー」という表情を作った。咲羅は天を仰ぎ、チューリップは大きな目をぱちぱちさせ、アーモンドは眼鏡の鼻あてに何度も触れた。
 何の会話も交わさないうちに、灯子は地よりも深く落ち込んでいく。ああそうだ、こんな茶色のごった炒めなんて、これから告白する人の作ってくるお弁当ではない。
 「灯子、さては寝坊したな」
 灯子の「やっつけ」感がすごい回鍋肉的なものを見た涼雅が、そう言って白い歯を見せた。
 「うん……」
 灯子は歯切れの悪い返事を返した。自分自身が歯がゆくて情けない。本当にこんなんでこれから告白なんか出来るのだろうか? 灯子の自信は全てにおいてなくなっていく……。
 「いただきまーす! ボク、咲羅のちらし寿司大好き」
 チューリップが灯子の「回鍋肉的なもの」から注目を逸らすように、ちらし寿司に手を伸ばす。咲羅が笑いを作って応じる。
 「アーモンドのレバーサンドウィッチも、手が込んでいるものではなくて? 一ついただこうかしら」
 「ありがとう、咲羅。ペーストにするのが面倒だね」
 と言いながら、アーモンドは何回も眼鏡の鼻あてに触った。
 「おっ、ぼた餅だ」
 イツキが食べ順を無視してぼた餅をすくいあげる。
 「イツキ、甘いものは最後にしないと口の中が不協和音になるわよ」
 咲羅が相変わらず快活に作った微笑みを浮かべて、姉のようにイツキをたしなめてみせた。
 灯子は目に涙を浮かべて、手抜きと判断されても反論できない、「回鍋肉的なもの」を抱えて固まっていた。せめてもっときれいに盛り付けられたらよかったのに、完全に普段ストックを保存するとき用の半透明のタッパーに、荒っぽく流し込んだだけだったのだ。
 「灯子、そんなに抱え込んでいると料理がとれないよ」
 涼雅が穏やかな微笑みを浮かべて言った。
 「だって、こんな何て言う料理だか分からないような茶色いもの皆に勧められないよ……」
 灯子の視界は歪み鼻奥はつうんと痛くなってきた。どうやら涙が湧きかけていた。
 「ちょっと見た目はあれだけど、食べれば案外旨いかもしれないだろ」
 「でも……」
 「灯子、涼雅にやれよ」
 脇からイツキが複雑に抑揚を隠した声で助け船を出した。灯子はがっちりと胸に抱え込んだタッパーをもじもじと差し出した。涼雅は長い菜箸でそれを大きく一つまみして、自分の紙皿に乗せた。そしてひとくち口に入れて破顔した。
 「うん、旨いよ。急いで適当に作って旨いなら上出来だよ。灯子も段々上手になって来てる」
 失敗さえもポジティブに、陽だまりで包み込んでくれるかのような涼雅の言葉に、灯子は胸がいっぱいになった。愛おしさと信頼感、ときめきが潮のように満ちてくる。灯子の目にはさっきとは違う涙が湧き上がって来る。
 ――――あああ、涼雅は優しい、涼雅が好き、涼雅の特別になりたい――――
 灯子は自分の体から、まるで天まで突き抜けるような想いが放たれたように感じた。そして強い覚悟を新たにする。ここで自分がアクションを起こさなければこの想いは伝わることはない。「涼雅の特別」になるには、自ら想いを告げるしかないのだ。灯子よここで意地を見せずして何時見せる! そう灯子は自分の心を自分で鼓舞する。
 灯子の目が前向きな覚悟に燃え上ったことに気づいて、イツキが「おっ」という顔を作った。咲羅も灯子の表情の変化に目を見張っている。チューリップもアーモンドも同様だったようで、お互いに目を合わせながら軽くうなずきあった。四人は改めて計画を実行する段取りへと入って行く。

 お弁当を食べ終わっても一行は、咲羅が用意したカモミールティーを飲みながら、ハチの巣をつついたみたいににぎやかに談笑を続けた。涼雅以外の全員が、話の転がっていく先に注視し、タイミングを見計らっている。
 灯子も燃える心を隠して、和やかに話を合わせながら、咲羅とチューリップが怪しい噂について話し、ちょっとした肝試しを提案するのを待っていた。
 「ねえ、聞いたことあって? 」
 少し会話が途切れたすきに、咲羅が何気なさを装って切り出した。
 「このふもとの『黒髭の谷』に奇妙な噂があるって」
 「何それ」
 全て知っているチューリップが、いかにも興味を示した風に合わせる。
 「二人の人がこの丘から降りて、谷間の道を登っていったそうなの。でも、帰ってくるとき一人になっていた。誰がどうやっていなくなったのか、戻ってきた一人にも分からなかったんですって。でも確かに二人で谷間を通っていったことだけは憶えているの。それが繰り返し繰り返し、数度あったそうよ」
 「へえええ」
 イツキがわざとらしい声を出した。
 「魔の領域に近い場所ならでわの噂だよね」
 実は一番演技が自然なアーモンドが、そう言いながらうんうんとうなずいている。
 「もしかして、肝試しでもするのか? 」
 話の行き着く先を察した涼雅が言った。
 「やってみたくてはなくて? 」
 咲羅が完璧なお姫様スマイルで言った。
 「まあいいんじゃない。いい思い出作りにもなるし」
 涼雅は自分を除く全員が、一つの目的に向かって枝道を刈り込んでいるなんて、思いもよらない様子で軽く応じた。
 彼が快諾したということは、むろんほかの五人にも異論はないということだ。さっそく三組のペアが組まれた。くじ引きにすると上手い具合に灯子と涼雅がペアになれない可能性があるので、何気ない風を装ってイツキと咲羅が誘導した。結果、イツキとチューリップ、アーモンドと咲羅、涼雅と灯子がペアになった。
 まず最初、アーモンドと咲羅が連れだって降りて行った。
 「ねえ咲羅、こうやって色々仕組んで、僕らのどっちかが帰ってこられない可能性って、無きにしも非ずなんじゃないの? 」
 「そんな可能性ひとまず忘れましょう」
 降りていく二人の背中越しに、そんな会話も聞かれたものの、二十分ほど経って、二人は息をはあはあしながら坂を登ってきた。
 「異常なし」
 「ヤー」
 咲羅とチューリップがハイタッチした。
 「小川が流れ込む湿地帯に、水芭蕉が咲いていたよ。とても綺麗だった。みんなも見てくるといいよ」
 とアーモンドが言った。
 「次は俺たちの番だな」
 とイツキが言うと、
 「イツキ、変な幻とか見ないでちゃんと順路を行ってよ」
 とチューリップが返した。
 「何だよ変な幻って」
 「ボクの国では、色男は妖精に惑わせられやすいんだ」
 そんな軽口をたたきながら、イツキとチューリップもまたさくさくと丘を下っていく。そして二人もまた、二十分ほど経って何事もなく戻ってきた。
 「水芭蕉がよかった」
 イツキが言えば、
 「平和すぎて肝試しの意味なんてなかったよ」
 とチューリップもうそぶく。
 「次は俺と灯子の番だな」
 涼雅がそう言って立ち上がった。顔を朱に染めながら灯子も両足に力を込めて立ち上がった。
 「灯子、何緊張してんだよ。大丈夫だよ、噂だ、ウ、ワ、サ」
 涼雅がそう言いながら振り返った。
 「う、うん……」
 「灯子ってさ、そんな怪談なんか気にする方だったっけ? 」
 「え、いいや……」
 そんな会話とは言えないような会話を交わしながら、灯子と涼雅は谷底へと下る道を順々と歩いていく。
 「大丈夫かしらね」
 二人の帽子が小さくなって行くのを待って、咲羅が言った。
 「今回ばっかりは灯子を信じるしかないな」
 イツキが言えば、チューリップも言う。
 「大丈夫、灯子はへっぽこだけどそこまでへっぽこじゃないよ」
 「姉さん意味わかんない」
 アーモンドがそれに律義にツッコミを入れた。灯子と涼雅の帽子が遥かふもとで谷あいの灌木の陰に消えた。

 灯子はやや先を行く涼雅の背を追って、谷底の湿った灌木の中へと降りて行った。絡まり合うような細い枝には、まだ若く小さな葉が、何者にも抑えることのできない強い意志を持って生い茂っていくところだった。遠目に見ていても、こうして近くで覗き見ても、それは何だか渦を巻く炎のように見える。灯子はその緑の香りをいっぱいに吸い込んで、大きくため息をついた。体中の血液が沸騰しているみたいだ。
 いつも通り白いTシャツを着た、涼雅の骨ばった背中に、思いのたけを込めた熱い視線を送る。灌木が砂利道の外側で、涼雅の頭半分を覆う高さになる。涼雅の服に淡い緑色の影が落ちている。茂みの中から小鳥の可愛らしいさえずりが聞こえた。
 「涼雅、鳥が鳴いているね」
 「ああ、何て言う鳥なのかな。アーモンドに訊けば分かるだろうか」
 何とか間を持たせようと、灯子は果敢に涼雅に話しかけた。だが、決行するにはまだ早いはずだと慎重に考える。今みたいに谷底にへ降りていくために、足元に対する注意力が多く占められてしまうタイミングでは駄目だ。灯子は心臓をバクバクさせながら道が平らになるのを待った。
 やがて丘を迂回するようなスロープが下り切り、両脇が浅いV字型を示すようになった。灯子の心臓は沸騰しそうな血液を送り出して、ドッキンドッキンと主張している。「さあ、灯子、想いを告げるんだ」、灯子には小鳥のさえずりがそう励ますかのように聞こえた。
 「何か聞えるね」
 必死に呼吸を整えながら、危うく右手と右足を一緒に動かしそうになっていると、涼雅の方から話しかけた。
 「え、小鳥が? 」
 「いや、これは水音じゃないか」
 灯子は耳を澄ませた。確かにさらさらと歌うせせらぎの音が聞こえた。
 「多分右手の方だ。灯子、アーモンドもイツキも水芭蕉を見て来たんだったよな。俺たちもちょっと寄り道して見て行こうぜ」
 涼雅がそう言うので灯子も大人しく従う。実は灯子にはちょっとした打算もあった。美しい水芭蕉を眺めながら告白するのは、そうでない場合より成功率が高くなるような気がした。
 涼雅は白砂利の順路を逸れ、わずかに踏み固められた跡の残る脇道へと足をすすめた。灌木が縦横に枝葉を伸ばして、灯子の頬をかすめていった。驚いたように飛び立つ小鳥の声と羽音を聞きながら、灯子は必死に呼吸を整えていた。
 やがて目の前が開けた。密な灌木の向こう側に、小さな湿地帯がのぞいた。小さな川が三本、それに注いでまた流れ去っていた。
 「うん、綺麗だな」
 涼雅が腰に手を当てて賛嘆の声をあげた。
 「綺麗だね……」
 灯子も素直に同意した。湿地帯には一面、白いキャンドルのような水芭蕉が、初夏の爽やかな日差しの中咲き乱れていた。薄黒い水場の中から、何物にも毒されていないかのような純白の、可憐な花々が立ち上がっている。水紋が花の一つ一つを慈しむように、雅な曲線を描いている。流れ込み流れ去る小川がさらさらと、慎ましやかなせせらぎを響かせている。
 「確かあたし達の町にも在ったよね、こんなふうに水芭蕉の咲く湿地が」
 「そんなんあったっけ? 」
 「あったよ。小三で遠足に行った。涼雅の学校は行かなかったの? 」
 「憶えてないな。俺アクティブな方じゃなかったから」
 必死に会話を転がしながら、灯子はタイミングを見計らう。この自然に交わされた会話がふと途切れるところ。二人の気持ちが綺麗な花に、一緒に真っ白に染められているこの時に。
 ――――そうだ、想いを告げられるとしたら今しかない――――
 「あたし、帰っても、涼雅と一緒に水芭蕉が見たいな」
 「ええ、どういう意味? 」
 灯子は大きく息を吸い込んだ。胸の底から湧き出してくる怯えを押さえこみ、必死にこう訴えかける。
 「あたし、涼雅が好き。もしも家に帰るようなことになっても、涼雅とずっと付き合いたい。あたしのことどう思っている? 」
 涼雅はゆっくりと振り向いた。口元は固く引き結ばれ、目には奇妙なまでに硬質な光が輝いていた。全く嬉しそうに見えないことに、灯子の体は冷たくなった。
 「俺も灯子のことが好きだ」
 答えは「OK」だという。なのにむしろ打ち沈んでいくような抑揚の声で涼雅は言った。灯子は望みがつながって微笑みになりきらない微笑みを浮かべたものの、目に映る涼雅は、たとえようもなく哀し気なのである。灯子は混乱した。微笑みになりきらない微笑みはこわばって、問いかけの意味を込め唇が半開きになる。
 「でも、俺たち付き合うにしても、この町にいる限りにおいてだろうな。帰ってからの保証は出来ない」
 「何で? 」
 灯子は反射的に尋ねた。涼雅の言葉が理解できなかった。
 「何でって、何でもだよ。家に帰った俺を見たら、灯子はきっと幻滅する」
 「何で、そんなことないよ! 涼雅の言い方だと、家に帰った涼雅が水クラゲにでもなっているみたいじゃん! 」
 「大差ないよ」
 涼雅は相変わらず哀しく笑うだけだ。
 「ねえ、本当はあたしのこと好きじゃないの? 上手に逃げようとしている? 」
 「違うよ。恋人同士でいられるのはこの霧ヶ峰タウンの中だけだって言いたいんだ」
 「どうして? 」
 「言えない」
 灯子の目の中にはいっぱいに涙がこみ上がっていった。鼻の奥が痛くなり、まつ毛が濡れてくるのが分かる。
 「ねえ涼雅、何を知っているの? 涼雅はもしかして、あたし達の知らないことを全部知っているんじゃない? 」
 涼雅は両手を握りしめうつむいた。
 「全部じゃない、ここへ来てからのことは俺にとしても想定外だらけだったし、そもそも俺、ここへ来られるだなんて……」
 「え? 」
 「望み以上のことがどんどんと起こった。肉体的にも経済的にも、それから何よりもヒト的に……、俺はここにお前が来ることは……、いや、よそう。長くて後一年、俺たちがここを出ていくまで、その期間だけ楽しく付き合おう。な? 」
 「何? 何言っているの涼雅? 」
 「だから、俺たち付き合えるのはこの町の中だけなんだよ。俺とお前とじゃ世界が違う」
 「付き合いたいって言うことは、もしも未来がどうなるにせよ、その時点ではずうっと一緒にいたいっていうことの意思表示なんじゃないよ! どうしてそういう『恋人契約』みたいなこと言い出すの? 結局涼雅、あたしと後腐れなく遊びたいだけなんじゃないよ! 」
 ぐしゃぐしゃに歪んだ顔で灯子は叫んだ。涼雅は普段よりなお一層蒼ざめ、まるで土砂降りにでも打たれているような姿勢で、灯子の叫びに耐えていた。
 ―――――あはは、そうね、そうなるわよね、当然よ――――
 不意に甘やかな声が辺りに響き渡った。灌木に隠れた小鳥が一斉に飛び立つ。灯子は鷹に狙われたウサギのように、せわしなく瞬きして周りを見回した。
 「誰? 」
 何時の間にか、目の前の水場に張り出した枝にしなだれかかるようにして、あの「栗島クリス」が立ち、圧するような眼差しで灯子を見詰めていた。
 彼女は今日も栗色の巻き毛を黑いベルベットのリボンでまとめ、装飾過多なブラックドレスを身にまとっていた。フリルの付いた長いスカートはまさに水面に触れんとし、尊大に張った胸にはサテンのリボンが揺れている。彼女の服同様黑いエナメルの靴は、水芭蕉の咲き乱れる水面の上にあって、沈むことも濡れることも全くなくきちんと支えられていた。尖ったつま先から、みずすましの立てるような波紋が銀色に輪を描いている。
 ――――だってヒロインはあなたじゃないんだもの――――
 「ヒロイン? 」
 灯子は涼雅の肩のむこう側に浮かぶ「栗島クリス」に向かって、鷹に狙われた野ウサギのように震えながら問い直した。
 「灯子、誰と話してるんだ? 」
 涼雅は怪訝そうにあたりを見回す。
 「栗島クリス…… 」
 灯子はつぶやいた。
 「栗島クリスって誰だ! 」
 涼雅が戸惑ったように叫んだ。
 「栗島クリスは栗島クリスだよ。あたしを殺した子なんだ。涼雅の後ろに立っているじゃない」
 涼雅はぎょっとして振り返ったが、五秒間ほど後ろを凝視した後、戸惑ったように灯子の怯えた目を見つめ直した。
 「誰もいないじゃないか……」
 だが灯子の視線は今、目の前に迫る涼雅の顔ではなく、ずっと遠くへ残してきた、沈痛な過去へと向けられていたのだ。その眼差しは取り留めがないようでいて切実だった。涼雅は夜の海のように黒い瞳に、困惑と危機感を滲ませてこう訴えた。
 「灯子、お前の方こそ、俺たちの知らないことを全て知っているんじゃないのか? 俺はここにこんなに暖かい人たちが住んでいるなんて知らなかった。もしかして灯子は……」
 灯子は涼雅の目を見ていなかった。彼の存在がまるで透明な窓ガラスであるかのように、その向こうの水場に浮かぶ「栗島クリス」を見ていた。だがその唇は、神がかりの巫女のように、目の前の涼雅に早口で伝えた。
 「知らない、知らなかった、ここにこんなふうに心地よい町が広がっているなんて……。でも、ここへ来れば幸せでいられることは知っていたのかな? それって、全て解っていることになる? 」
 ――――解っているなら手放しなさい。これは間違ったことなんだから――――
 「あたし何を間違えたの? 」
 ――――ここは彼と彼女の物よ。あなたはまんまと忍び込んだだけ。家賃も払わず間借りしているようなものよ。不当に手に入れたものは速やかに返すのが道理でしょ。ルール違反なのよ。主人公はあなたじゃない。その立ち位置は早急に捨てなさい。とうの昔に死を選んだあなたが、まるでヒロイン気取りで、ここで幸せに暮らしているだなんて許せない。わたしを……したくせにそのあなたがぬくぬくと――――
 「栗島クリス」は開いた瞳孔を憎々し気に見開いて、残酷に灯子は死んだと告げた。
 「やっぱりあたし死んだんだ……」
 灯子の瞳からは生き生きとした光が消え、うつろな洞窟のような暗闇が支配した。灯子の意識はどんどん「死」の領域に近くなっていく。涼雅の顔は焦りに歪んだ。
 「灯子、灯子、何だ? 何が起こってる! 」
 涼雅が灯子の両肩を掴んでゆすぶり手に力を込めた。爪が食い込み痛いほどの握力を感じながらも灯子にはもう、涼雅や肌を撫でる水場の風の方が幻であるようにしか思えなかった。
 「触らないで……」
 灯子は早口でつぶやいて、涼雅の手を振り払った。その仕草は弱弱しいのに、自らをすすんで損なう者の発する奇妙な迫力に満ちていた。それをまともに食らった涼雅の手からは力が抜け、灯子はするりと身をかわした。
 「涼雅の気持ちは分かった。あたしと深く付き合う気はないんだね。分かった、分かったよ……。だから出ていく。今まで仲良くしてくれてありがとう」
 まるで目測で測りがたいほど大きなものに命令された様に、灯子の足は湿地の方へと進んでいった。
 灯子は繁り始めた下草の領域を抜け、柔らかい春の泥の中へと足を踏み入れる。首を傾け、雲のむこうで鏡のようになった太陽を見上げながら。その足取りは緩慢なようでいて迷いなかった。そして一歩二歩進むごとに、灯子の体は非情な速さで泥の中に沈み込んでいった。
 涼雅は仰天して必死に手を伸ばし、灯子を引き上ようと大股に歩み寄った。だが水場に入ったところで、まるで悪魔にでも呪われたかの様に足元がぬかるんで身動きが取れない。
 灯子の体は白い水芭蕉の咲き乱れるただなかにずぶずぶと沈んでゆく。黒いパンツを履いた下半身が見えなくなり、オレンジのシャツ迄あっという間に泥に呑み込まれる。
 「灯子! 灯子! 」
 蒼白な顔を火花が散りそうなほど赤く燃やしながら、涼雅は必死に叫んだ。灯子の上半身が沈み切ったところでようやく、涼雅の足はぬかるみを脱した。涼雅は大胆に体を投げ出した。沼地に腹這い、泥まみれになって、涼雅はもう肩半分しか出ていない灯子に手を伸ばした。
 「駄目だ、行くな、この手をつかんでくれ! 」
 「出来ないよ涼雅」
 灯子のウサギのように赤みを帯びた奥二重の目から涙がこぼれ落ちた。そう言う間にも灯子は急激に沈んでゆく。
 「そうだ、帰っても涼雅と付き合えるはずなかったんだ。あたし、もう死んでいるんだから……。困らせてごめんね……。元気でね」
 その言葉が最後だった。灯子の全身は泥の中に見えなくなり、そのつむじさえも涼雅の視界から消えた。水場に不気味な曲線を描いて、灯子を吞み込んだ泥が波打った。
 「灯子! 灯子! 灯子! 」
 涼雅は狂ったように叫んだ。そして顔や服が汚れるのも構わず、灯子が沈んだあたりの泥を両手でかき分けた。しかし灯子は跡形もなく消えていた。そもそも水底の泥は人が沈むほど柔らかくはなかった。ここに灯子の全身が隠れているなんてとても想像が出来ない。現にほぼ同じ位置に腹這っている涼雅の体はまったく沈んでいないのだ。
 「灯子――! 」
 涼雅はがちがちと震え涙目になって叫んだ。灌木に隠れる小鳥が怯えて飛び立った。

 *******************
 *******************

 「君の頭の中覗いてみたいな。あたしも馬鹿気た夢ばかり見ているってよく言われるけど、君の頭の中の方がよっぽど面白そうだ」
 「……」
 「これ誰かに見せた? 」
 「いいや、僕には見せる人なんていないから」
 「そうなの? もったいないね。こんな素敵な作品なのに」
 「素敵かな? 」
 「うん。なんかモウソウが広がらない? 」
 「どんなモウソウが? 」
 「冒険活劇。町に眠る秘宝と秘密の暗号。美しいお姫様と秘密の恋人、それから愉快で頼りになる仲間たち。ねえ、何時か一緒に作りたいね」
 「一緒に? 」
 「そう、一緒に」
 「どうやって? 」
 「コラボだよ。あたしのジャンルと君のジャンルがキョウメイするんだ」
 「僕のでいいの? たとえばお兄ちゃんじゃなくても……」
 「君だからいいんじゃない」
 「じゃあ、約束して。きっとコラボしよう」
 「うん、約束する」
 

 *******************
 *******************

再び 霧ヶ峰タウンへ

 頬が痛い。指先がかじかんでいる。足の感覚が痺れてなくなりそうだ。灯子は全身をギリギリと締め付ける寒さのなか目を覚ました。風がごうごうと唸る音が聞こえる。視界いっぱいを鉛色のばらばらと舞うものが埋め尽くしている。まだ半分夢の中にいる心地で手を伸ばす。
 伸ばした手が太い根と幹に触れた。ごつごつした氷のような感触に、灯子は改めて凍り付いた。目を見開いて必死に、さっきまで自分を包んでいた爽やかな初夏のひかりを探す。だがそこは見れば見るほど一面暴風雪の世界だった。灯子はガバリと跳ね起きた。
 そこは針葉樹の森だった。モミや松などの背の高い木々が、暗緑色の枝葉を巡らせている。そのひさしのような木立のおかげで、灯子の体は無慈悲な吹雪の直撃をまぬかれていたが、もう三センチほどの新雪が、体の上に積もっているのだ。
 「ここ、何処? 」
 ウサギ革の帽子から雪の塊が滑り落ちた。灯子ははっとして自分の全身をかえりみた。さっきまで夏物のオレンジのシャツを着ていたはずのその身なりは、毛皮の上着に革手袋、ブーツといった、雪道を何日も野宿していく行商人のような重装備に変わっていた。
 町は? 涼雅は? みんなは? そんな疑問が一息に灯子の頭の中を巡る。
 自分は確かに霧ヶ峰タウンの郊外で、仲間と一緒にいたはずだ。丘の上でお弁当を広げて、爽やかな初夏の空を仰いで。だがここはどう考えても城外だった。いくら記憶を手繰っても靄がかかったように、何故自分がここにいるのかが思い出せない。
 よろよろと立ち上がり、灯子は霧ヶ峰タウンの外側の城壁を探した。初めて霧ヶ峰タウンにやって来た時、遠くから城壁が見えたことが思い出された。だが、ここは森の中である。見回せど風雪に耐えるようにして生えそろう木立に遮られ見通しが利かない。
 うかつに動く危険も感じたが、灯子は森の果てを求めて歩きだした。方向に関してはあてずっぽうだ。だが灯子は、霧ヶ峰タウンと自分をつなぐ強い絆を信頼していた。霧ヶ峰タウンはいつでも自分を呼んでいる。あの町が自分を見捨てる筈がない。灯子は温帯の森とは違うまばらな木立の合間で、足の下で崩れ落ちる粉雪の中を漕ぐようにして、必死に足を動かした。
 やがて視界を覆う鈍色の薄闇がすううっと明るくなった。嘘のように吹雪がやみ、十メートルほど先の木立の間から、パウダリーな青空がのぞいた。まだらに散った筋雲が、慌ただしく流れている。そこは森の果てだった。灯子は思わずうまく運べない足でよろよろと駆けた。息を弾ませ木立と木立の入り組んだ向こう側へと飛び出す。
 そこは足元から垂直に落ちてゆく崖の上だった。灯子は胸のわななきを押さえながら、懐かしい山脈や高く巡らせた城壁を探した。息を切らせながら霧ケ峰タウンを求める灯子の目に、残酷な景色が飛び込んできた。
 「無い……」
 崖の下は一面の森だった。粉糖をまぶしたような暗緑色の森が、凹凸のある織り目のカーペットのように果てもなく広がっている。雪雲は晴れたのに、町や城壁はおろか、霧ヶ峰タウンを守るようにそびえていた山脈の影すらも見えなかった。真後ろだけは森の木立に遮られて見えなかったが、右を見ても左を見ても、森の作り出す黒緑の地平線の上に直接空が載っていた。
 「どうして……」
 灯子は膝からがっくりと崩れ落ちた。
 「ここは何処? 何処なの― ! 」
 灯子は思わず叫んだ。
 叫びは遮るもののない空に残酷に吸い込まれて、こだますらも返ってはこない。後ろの森の枝葉から雪がどさりと落ちる音、思い出したように吹く風の笛に似た音、その他は、どんなもの音も聞こえなかった。生き物の気配すらまるでなかった。
 灯子はへたり込み、両手を腿の上に落としたまま、滂沱と涙を流して泣き続けた。嵐のような激しい嗚咽だった。
 「咲羅、イツキ、チューリップ、アーモンド、涼雅! 涼雅! 」
 灯子は順繰りに仲間たちの名前を呼び続けた。
 「何であたしみんなと離れてこんな所に! 」
 そう言いかけてはっとする。ここへ飛ばされる直前の記憶がよみがえった。
 ――――あたし、自分の方から進んでここに来たんだ―――――
 五月の谷間の芳しい風、可憐に咲く水芭蕉、「栗島クリス」の見開いた瞳、そして悲しげで困っているように見えた涼雅の顔……。自分が中途半端に振られたことも思い出す。今更ながらに心に痛みが走った。だが、それでも……。
 「何で? 何で? どうして……」
 解らない! 灯子の脳裏には閃光が飛び散るように、沈んでいくときに感じた冷たい泥の感触とともに、自らの口で放った言葉たちがひらめいた。自分が話した内容なのに、全く理解が出来なかった。自分で自分がまるで解らなかった。
 「一体あたしが何を知っているって言うの? 知らない、あたしは何にも知らない、死んだ記憶だってない、仮にあたしが死んでいるのなら、今ここでこうして凍えているあたしの身体は一体何なの! 」
 そう言ってしまった後で灯子は改めて、最初に「栗島クリス」を見た後に出現した、並行世界のような記憶を思い出して言葉を呑んだ。あの時こつ然と現れた思い出の方によるのならば、灯子は霧ヶ峰タウンへ来る前に死んでいることになる。そして灯子は涼雅に向かって、彼女が自分を殺したと自ら言った。
 「栗島クリス」は知っているのか? 灯子が死んだ経緯について。灯子が忘れてしまったことを知っているのか? 
 だが、到底信じたくはなかった。自分はすでに死んでいるから、仲間達との暖かな生活を捨てるのが相応だなのだと誰が認められよう? 灯子が信じたいのは元々あった想い出、学校から避難する途中に雪オオカミに追われて、咲羅と城門の前で出会ったという、心のよりどころとしているエピソードの方だった。灯子は両手を握りしめて膝の下に積もった雪を打ち付けた。さらさらとした粉雪は粉々に散って、灯子の拳には痛みすら走らない。雪煙に西日が映えてシトリンのような粒々が輝いた。
 「何で、何で? どうしてあたしはこんな……、死んでない、あたし死んでないよ! 」 
 灯子はへたり込み、呆然と泣きながら、太陽がゆっくりと傾いていく様を眺めていた。どうやらここからの眺望は、ちょうど西を向いているらしい。辺りを包む日差しが束の間色濃くなり、凍てついた艶消しブロンズの太陽が赤く染まっていく。青空もマンダリンの色に変化し、散らばったせわしない筋雲が鬱金色に輝く。太陽は高笑いして灯子の無様さをあざけるかのようだった。誰も見ていない。灯子は恥も外聞もなく泣きじゃくった。
 「死んでない、あたし死んでないよ! ねえ誰か聞いて、咲羅、イツキ、チューリップ、アーモンド、涼雅、涼雅! 誰かあたしを見つけてよ! 」
 これではまずいと思い始めたのは、太陽が森の地平線の下に姿を消し、辺りが薄闇に包まれ始める頃だった。空は再び激しく吹雪き始めていた。崖の上は木立が無く、吹き付ける風雪から身を隠す場所が無いので、灯子は追いやられるようにさっき抜けてきた森の中に入った。
 当初の呆然とした気持ちが落ち着いて来るにつれ、激しい危機感が灯子を襲った。気候は猛烈に寒かった。へたり込んで泣いている間にも灯子の体は冷え、ひょっとしたら指を何本か失うんじゃないかと思われるほど、手足の感覚がなくなっている。
 「まずいぞ、まずいよね、このままじゃ凍死だ……」
 装備が何故か自動的に雪中軍行用に変わっていたことに感謝し、またそれをいぶかしみながら、灯子は衝立になって風から守ってくれる太い幹を探した。辺りが真っ暗になってしまう前に、何とか身を守る場所を確保しなくてはならない。灯子は目をすがめ、睫毛に雪を凍らせながら、必死に足を動かした。
 ウオー、ウオー、アオーアオー、不意にこちらを取り囲むように、獣の甲高い遠吠えの声が複数の地点から聞こえた。灯子の背筋が冷たくなった。初めて霧ヶ峰タウンに来たとき、散々追い立てられた雪オオカミの、銀色の体毛と赤い目が脳裏にひらめいた。
 灯子は息を弾ませて足を速めた。全力で逃れようとした。だがその獣の声は、一声ごとに範囲を狭め、確実に灯子を追い詰めて来る。灯子は肩で息をして、木と木の間をすり抜けながら大股に雪を搔いた。毛皮のコートに、帽子にブーツに、雪が絡まりつき、まるで雪だるまのようになって灯子は逃げた。
 一際大きなモミの木の根元にたどり着いたとき、前方の太い幹と幹の隙間から、巨大な雪オオカミの姿がのぞいた。体長は三メートルほどはあるか。狂気を含んだ血のように赤い目が毒々しい。
 灯子は「あ」と小さな叫びをもらした。一瞬の判断で踵を返そうとした。だが、右側に巨大な銀色の頭とよだれに濡れた牙がのぞく。左側にも緋に燃え、残忍に光る目がのぞく。後ろも同様、前方の獣に負けるとも劣らない体躯の雪オオカミが、頭を低くして力をため、何時でも飛び掛かっていいのだぞと唸り声をあげていた。
 灯子は思わず目の前のモミの木にしがみついた。何とかこの木を登って上へ逃れられないものか。だが木の幹は太く真っ直ぐで、低い所に横枝がない。灯子の体格ではとてもではないが上ることは不可能だ。灯子は木にしがみついたまま雪オオカミをにらんだ。もしも灯子がメドゥーサなら、雪オオカミは即座に石化してばらばらと砕け散ったことだろう。だが当然ながら灯子にそんな能力はない。
 灯子を囲む包囲網が徐々に狭められてゆく。半径五メートル、三メートル……。雪オオカミたちは低く唸りながら、灯子から片時も視線を移さずぐるぐると回る。緩慢な動きは慎重さの表れではない。獲物をいたぶって楽しむ残忍性だ。灯子は幹をしっかりと抱きしめて目を見張った。
 灯子の硬直した白い顔に冷血な胸が満たされたのか、左側の雪オオカミがばねのように飛び掛かって来た。それに続き前方と右の雪オオカミも後ろ足で雪を蹴る。灯子はぎゅっと目をつぶった。神様仏様、霧ヶ峰タウンの造物主様! そう頭の中で救いを求める。雪オオカミの残忍な咆哮が耳をつんざいた。
 ズドーン、突如銃声がとどろいた。灯子の脳裏には初めて霧ヶ峰タウンにたどり着いたとき、ピノたちの放ったバズーカ砲の音がよぎった。ピノたちが灯子を助けに来てくれたのか? 
 左側に迫っていた雪オオカミが、ギャインギャインと悲鳴を上げた。夜目でもほの白く浮かび上がる新雪の上に、その左前肢からどす黒い血液が振りまかれる。彼は、これまでの優位性をかなぐり捨てるようにして、なりふり構わず逃げ去ろうとしていた。再び銃声がとどろき、周りを囲んでいた雪オオカミたちも、足を引きずりながらばらばらと四散してゆく。
 灯子はまだモミの木にしがみついたまま、ゼイゼイと肩で息をして雪オオカミたちの敗走を見送った。この寒さの中、あまりに必死に走ったせいで毛皮の装備の下にじっとりと汗が湧いていた。濡れた額に容赦なく吹雪が吹き付けてピリピリと痛んだ。
 「ピノ! 」
 灯子は叫んだ。ザッザッと雪を漕いで歩く音が聞こえた。灯子は振り向いた。黄色っぽい毛皮の装備で身を固めた背の高い人影が近づいて来る。
 「ピノ! 」
 灯子は再び叫んだ。黄色っぽい人影は灯子からあと二メートルほどの所で立ち止まった。灯子は改めてその人をよく見た。ピノではなかった。
 「怪我はござらんか? 」
 その発声は灯子の頭に、力強い能楽や狂言のセリフ回しを連想させた。ゼイゼイと息を切らす灯子にかけられた年若い男性の声は、腹の底、正しい姿勢からくっきりと発せられる。
 「失礼ながらお探しの方ではござらん。『ぴの』というお方はあなたのお連れ様ですか? 何処ではぐれたものでしょう? 」
 黄色い毛皮を着た青年は、立ち止まっていたところから再び大股に近づいて来た。
 艶のある深い茶色の髪は、紺色の麻の紐で総髪にくくられ、黄色っぽい毛皮のコートの下には毛皮の脚絆で裾を絞った辛子色の袴をはいていた。腰には長い刀、いや、これは太刀だろう、とにかく、侍の象徴のようなものを吊り下げているのだ。
 彼は今は腰の物ではなく、行商人が武装に使っているような、長い竿の猟銃を右手に持っていた。灯子は戸惑って目をぱちぱちさせた。ピノではない。だがこれはもしかして……。
 「菊之助さん? 」
 何故そう思ったのか。咲羅が語る菊之助のイメージが、あまりにも彼の様子と一致していた。
 「いかにも。それがしは霧州の国司千鳥宗尊様が家臣、水上菊之助光貞にござる。はて、あなたとはこれまでにどこかでお会いしたものでしょうか? 何故それがしをご存じか」
 「咲羅が、」
 灯子はだしぬけに叫んだ。
 「咲羅があなたを待っています」
 「咲羅? 姫様をご存じか! 」
 「はい。一緒のアパートで、隣の部屋に住んでいて、おんなじ工場で働いて……」
 菊之助と名乗った男は、背中に物差しでも入れたみたいな良い姿勢で、灯子から三歩ほど離れたところで立ち止まった。細面で、少し骨ばった額に涼しげな切れ長の目をしているのがはっきりと目に留まった。
 「姫さまのご友人であらせられましたか。お名前をうかがってもよろしいか」
 「灯子です。宝来灯子」
 「灯子殿。失礼ながら、灯子殿はいったいどうしてかような場所にお一人で震えておられるのか? まさかとは存じますが、姫様もご一緒なのでしょうか? 」
 「いえ……」
 灯子は口ごもった。
 「あたしにもどうして自分がここにいるのかさっぱり分からないんです。咲羅はきっとここにはいないはず。みんなと一緒に、町の郊外の丘の上で……」
 そこまで言いだして灯子は、初めてはっきりと残してきた仲間たちのことを思いやった。自分が急にいなくなって、みんなどんなにか心配していることだろう。谷間や湿地の周りを、どんなにか探していることだろう。
 「ねえ菊之助さん、ここって一体どこなんでしょう? あたしは霧ヶ峰タウンっていう町から来たんです。咲羅もそこにいる筈です」
 菊之助は銃を持っていない左の手で、自分の尖った顎に触った。
 「ここは東のタイガの中央、つららの森と呼ばれている地域でござる。一番近い町といえば北の方、ノヴォシビルスクシティーじゃな。霧ヶ峰タウンという町は確か、ここから東に五百里以上はござろうか。灯子殿はいったいどうやって、かような遠い町からここへ……」
 「わかりません……。よく分からないんです。気がついたらここで倒れてて……」
 灯子は心細くつぶやいた。菊之助は再び自分の顎に触れた。
 「もしや、ここへ迷い込んだ時と同様の、『時空魔法』とやらが働いているのやも。灯子殿と仰ったか? ここはひとまずそれがしに付いて参れ。見たところ随分と凍えておられるご様子。暖を取る焚火が必要じゃ。案内いたす。詳しい話は火を囲んでからに致そう」
 そう言うと菊之助は、くるりと背を向けて歩き出した。右手には油断なく猟銃を構え、膝まで覆うキャラメル色をした脚絆の脚を踏みしめるようにして、一歩一歩歩いていく。灯子も無言でそれに従った。確かに、今自分に一番必要なのは暖かい焚火であると思った。
 ウォーン、遥か遠くの森影から雪オオカミの遠吠えが聞こえた。

 「つまり灯子殿は森嶋なにがしという男に袖にされて、自ら沼地に入ると不思議なことに泥に沈んでしまい、気がついたらこの森の中だったということでよろしいか? 」
 「そういうことになります。すごくかいつまんで言うと」
 言いながら灯子は、恥の思いで顔が燃えるようだった。本当は涼雅に振られたことは省いて話したかったのに、自ら沼にはまりたくなる気持ちの説明を、疑いを知らない柴犬のように真っ直ぐな目で求められて、どうにもこうにも話さざるを得なくなった。灯子は分厚い羊毛の毛布にくるまり、指で足元の敷布をいじっていた。
 菊之助が案内してくれたのは、森の真ん中に走る崖のふもとにぽっかりと開いた岩の洞窟だった。菊之助はその入り口に手製の木の扉を半分ほど嵌めて、中で焚火を燃やした。洞の中は強い火力で暖められて、まだ十分にとは言えないが、火にかざした灯子の指や、熱の反射する頬はポッポッと火照っている。鍋の中で粥が炊かれ、菊之助が捕って来たキジ肉が焙られる。寒さに耐えて必死に走った灯子の腹にはすこぶる効く匂いだ。
 「そして姫様とは、三年もの間同じ長屋の隣部屋同志だったということでよろしいか? 」
 「はい。咲羅は親友です。あたしがここへ来るきっかけになったピクニックにも、一緒に来ていました」
 菊之助は、何時の間にか高くなった夜半の月を見上げるかのような微笑みを浮かべた。
 「姫様はお元気であらせられるのですね」
 「はい。この間も、菊之助さんからの手紙が届いて、とても嬉しそうでした」
 「そうか、文は届いたのか」
 菊之助は遠い目をしてつぶやいた。その表情に灯子は、彼からの手紙を手にした時の咲羅の、戸惑いと喜びの混ざった眼の色を思い出した。
 「時に灯子殿、貴女はこの不思議な世界へ来られる前は、一体どちらでお暮しだったのか? そもそも姫様とそれがしは、それもここへ来て初めて知った名称じゃが、『十五世紀』の日の本から参った。灯子殿はご容貌やお名前から、同じ日の本の出とうかがえますが、時代は何時でござったか? 」
 「ご推察の通りあたしも日本の出身で、でも時代は違くてずっと後、二十一世紀から来たんです。元号は令和でした」
 菊之助は目を丸くし、焚火の向こう側から身を乗り出した。
 「何と、六百年後のお方でありましたか」
 そう言って菊之助は大きく息を吐いた。
 「やはり突如強烈な寒さと吹雪が国を襲ったのでしょうか? 我らの時代と同じように? 」
 「はい。まだ九月なのに急に寒くなって。イツキやチューリップやアーモンド、その子たちも一緒のアパートの仲間なんですけど、同じ時代の遠い国にいた三人も、やっぱり吹雪と雪オオカミに追われるようにしてやってきたんです。咲羅も雪オオカミに追われていましたね」
 菊之助は深いため息をついた。
 「あの魔物は襲うものを選んでおる。それがしには見向きもせず、姫様だけを執拗に追っていった。何ゆえか……」
 菊之助は一瞬考えたのちこんな質問を放った。
 「ときに灯子殿、灯子殿お父上はいかなお方にお仕えしておいでだったのか? 姫様同様灯子殿もやんごとないお方でありますのか? また、仲間であると仰った御方々も、それぞれ高貴なお生まれであるか? 」
 灯子は鼻白んで右手をひらひらと振った。
 「いいえ、いいえ、とんでもない! イツキのお父さんは大学教授でお母さんは看護師だし、チューリップとアーモンドのご両親も自動車修理工だし、涼雅のお父さんは製薬会社に勤めるサラリーマンだし、あたしの両親もただのしがない地方公務員で……」
 「地方公務員? ああお役人のことでござったな。しかしその割にはお名前に『子』という字もついておられるし、言葉ぶりから随分と学識が広く感ぜられる。ご両親もさぞや学のあるお方だったと推察されるのじゃが」
 「え、でもあたしの時代だと誰でも普通に十二年は勉強するから、だからお父さんもお母さんも、普通に……」
 そのとき灯子は唐突に、今まで決して光の当てられることのなかった強烈な違和感に背筋を凍らせた。
 確実に覚えていたはずの、自分の両親の学歴や出身校はおろか、顔や姿、人となりすらも想い出せなかった。「地方公務員」、若しくは「市役所の職員」、その肩書は憶えている。仲間たちに尋ねられた時にもそう語った。だが、自分を包んでくれていたと思われるぬくもりや育まれた思い出、そのただなかに在ったと思われる過去の自分自身の姿、それが漂白された布地のように、そっくり姿を消していた。そしてそれにたった今気が付いた。
 いや、それどころか、保育園、小学校、中学校、高校と、灯子が今まで歩んできた人生の大部分が白紙だった。ただ尋ねられて会話に困らないくらいのざっくりとした輪郭が残っているだけだ。そしてそれを憶えていないことに露ほども気づいていなかった。
 咲羅に初恋のことを質問された時、灯子は大河君のことを憶えていた。だがそれは、尋ねられたことに答えられるように、忘却の海の水面から浮かび上がってきた小島のような記憶だった。あの時思い出せた大河君や仲間たち、あのエピソードの前も後も彼らの背景も、不毛な荒野のように真っ白だった。
 そもそも霧ヶ峰タウンに来てから今まで、灯子は元の町、両親、家族、友人のことを思い出そうともしなかった。だからこそ、今の今までこんなにもあからさまな自分の欠落にも気づかずにいたのだ。
 灯子の額に脂汗が浮いた。体が震え、息が乱れる。自分は都合の悪いことをすべてを忘れている。灯子の脳裏には「栗島クリス」の見開いた瞳がひらめいた。その薄茶色の眼には何処までも灯子の「罪」を追及してくるような、荒々しい決意が宿っていた。
 「自ら死を選んだ」、きっとそれは灯子が忘れている記憶の中に刻まれているはずの出来事なのだろう。それは本当に本当の事なのか。灯子は死んでいる、でもそれだとしたら、今ここで心臓をバクバクさせ、握った手の中に汗を感じ、それでいて肉の焼ける匂いに腹を鳴らしている灯子のこの肉体は一体何なのだろう? 
 「灯子殿、如何なされたか? それがし何かまずいことでも? 」 
 「いえ、いえ、いいんです、大丈夫です。あたし、随分とたくさんのことを忘れていることに今更気が付いたんです。両親のことも家のことも友達のこともなにも思い出せない……。そしてあたしは本当には死んでいるかもしれないんです……」
 菊之助は少し黙った。凛々しい眉を哀し気に寄せ、切れ長の目には幼い子供を気遣う犬のように暖かい光を浮かべた。その眼差しに滲んでいたのは、目の前の人には礼儀正しく接せねばというただの義務感ではなかった。温かい心臓から発せられる、血潮の通った篤実さだった。
 菊之助は淡く微笑み、焚火にくべた鍋の中で煮える粥をよそってよこした。よく焙ったキジ肉も差し出す。
 「灯子殿、まずは食べなされ。しっかり腹にものを入れるのじゃ。あの雪オオカミが貴女を狙うことには何か意味がある。姫様やお仲間が狙われることと同様に。自らのことを思い出すのも何故狙われるのかを考えるのも、まず体あってのこと。しっかり喰い、温まってお休みなされ。詳しいことは道々うかがう」
 「道々? 」
 「そうじゃ。それがしが貴女を姫様の元へと送ってゆく。姫様の友を見捨てられようはずもない。それとも、それがしと旅するのは嫌か? 」
 「いいえ……」
 灯子は洟をすすった。菊之助の善意が、何にもない荒野で、一か月ぶりに見る人家の灯りみたいに心にしみた。小刻みに肩が震え、涙がどっとあふれてくる。
 「ありがたく乗っからせていただきます。あたし霧ヶ峰タウンに帰りたい……」
 グスグスしながら答える灯子に、菊之助は力づけるように微笑んだ。
 「ではまず食べなされ」
 菊之助はそう言って、再び粥と肉を灯子に差し出した。
 「ありがとう、ありがとう……」
 灯子は鼻水と一緒に熱々の粥をすすった。粥は塩味で香りの強い干し野草の匂いがし、脂肪分を補うための獣脂が浮いていた。灯子は泣きながら掻きこみ、キジ肉にかじりついた。焚火のむこうで菊之助も自分の椀に粥をよそい、キジ肉をかみちぎった。

 次の日から三日間、灯子は熱を出して寝込んでしまった。急に寒い所へと放り出されて、無理に動いた末、汗が冷えたのがたたったらしい。早く霧ヶ峰タウンに帰らなければならないのにと焦る灯子を、菊之助がなだめた。万全の体調でない者が、五百里(つまり二千キロ)の旅程を行けるほど、この寒さの森は甘いものではないと。
 彼は親身に世話を焼いてくれた。灯子はひたすら火の隣で寝て、菊之助の炊いた熱い粥をすすり、苦い薬湯を呑んだ。
 熱が引くと、いよいよとばかりに二人は出発した。この霧ヶ峰タウン行きは、菊之助の「下命」にとっても大きな意味を持っていた。灯子がどうやら霧ヶ峰タウンに、菊之助の探している「眠れる核」がいるらしいと教えたのだ。
 言葉には出さないが菊之助も、並々ならぬ熱意をもってこの旅へと乗り出したのが分かる。一方の灯子はひたすら迷いを振り切ろうとしていた。祈るような気持で雪を踏み、一心に前へと進んだ。

 ある晩、野営の折に、灯子は菊之助が集めた「緋桜伝」という「文書」を見せてもらった。灯子は咲羅からその存在を聞かされた時、胸に不穏な風が吹いたことをよく覚えていた。
 菊之助は防水用の油紙に丁重にくるまれたそれを、慎重に取り出した。焚火に赤々と照らされるそれは、聞いていた通りの白紙だった。だが灯子が予想していた物とは全く違っていた。
 「緋桜伝」のタイトル、ページ番号、(了)のエンドマーク、それらはすべて光沢紙に印字された活字だった。字体は明朝体。「文書」と言うからにはてっきり、毛筆に手書きの巻物であるものと予想していたのに。
 「菊之助さん、これは一体どこで印刷されたものなんでしょう? どこかにパソコンかスマホ、コピー機でもある町があるのでしょうか? 」
 「はて、ぱそこんすまほにこぴーきとは? 」
 灯子は菊之助にそれらの技術についての説明をしなくてはならなかった。
 「なるほど、それでこの文字は判で押したようにきっちりと粒がそろっておるのじゃな。かような技術がある町は、それがしの記憶にござらん」
 「ではこれば、あたし達の居た世界と時代、つまりは外から来たってことなんでしょうか? 菊之助さんに『眠れる核』のことを教えたっていう不思議な人、お爺さんだかお婆さんだか分からない紫の髪の人は、そのことについて何か言っていましたか? 」
 「いいや、そのことについては何も。あの老人が語ったことでそれがしが心にとめたのは、『眠れる核』が目覚めるとき、失われた数多の世界が復活する、全ての子供は家に帰るという言葉じゃった」
 灯子はまじまじと活字のない白紙を見つめた。その奥に、あぶり出しのように幻の物語が透けて見えるような気がした。

 旅の途中、雪オオカミに遭遇することは一度もなかった。だが、いつも遠くから二人を見張っているかのように、遠吠えが数キロ離れたところから囲むように響き合っていた。菊之助は油断なく銃を構え、何時なんどきでもそれを放ったり、腰の太刀を抜く構えで歩いているのだった。
 二人はほとんどの晩を野営で過ごした。菊之助はこの辺りを何度も行き来したらしく、何処の森に上手い具合に暖をとれそうな洞穴があるかよく熟知していた。そして菊之助の行李には熊の毛皮を張り合わせたテントが入っていて、路中にめぼしい洞窟がないときにそれを張った。そこで火を焚いて冷えた体を温めた。
 菊之助は道々猟をし、鳥やウサギを狩った。雪を掘って頑強に生える下草を食料や薬剤とした。彼は野外で生活する術をよく心得ていた。灯子も出来るだけそれを覚えて手伝った。二千キロの旅程の最後の方では、火打石で火を起こせるようにもなったし、丸のままの鳥をさばくことだってできるようになった。
 菊之助はあまり饒舌なタイプではなかった。必要なことはよどみなく言うが、イツキや涼雅のように軽口を叩いたり冗談を言ったりするわけではなく、当然のことながら会話は弾まない。
 始めは何とか間を持たせようと果敢に話しかけた灯子だが、そのうちその必要はないのだと悟るようになった。菊之助にとって沈黙はごく自然な態度で、不快感を表わすものではないのだ。
 菊之助はしゃべるよりも笛を吹くことを好んだ。いつも懐に竹で出来た横笛を携えていて、火の隣に座り、一曲、二曲と楽を鳴らした。菊之助の笛の音は寂しい夜さを明るくするというよりも、その寂しさに寄り添って、懐炉のように心を温めてくれるような効力を持っていた。
 灯子も黙って火の前に座り、菊之助の笛の音に耳を傾けた。この音色こそが彼の温かい人柄の表れのように、使命感で張り詰めた灯子の心を深くなだめてくれた。
 このように野外で夜を超すことが多い二人ではあったが、近くに立ち寄れる町があった時には、入る許可を得て町の宿をとった。そういう場合はたいてい三四日泊り、厳しい寒さを行くための体力を回復させ、米や麦などの糧を求めた。何となれば菊之助は、咲羅の父親から託された路銀を豊富に持っていたのだ。
 町々の気候は様々だったが、何処へ行っても城壁の外側とは全く異質な、温暖な空気が待っていた。温泉の湧く町や、灯子の愛する珈琲の豊富な町もあった。どの町へ行っても、青い空に親しみ深い太陽と月が望めた。
 だが、灯子は霧ヶ峰タウン以上の町を見つけることはなかった。あそこをしのぐ町などどこにもない。発光するような空の色も、郷愁を誘う風の匂いも、青瑪瑙のような山並みも、全てすべて特別だった。
 次に霧ヶ峰タウンに到着する時、灯子はそこに永遠の別れを告げることになるだろう。灯子は町々の空を見上げ、ひたすらに霧ヶ峰タウンの空を思った。
 あの町が一足ごとに近づいて来ると思うと、灯子の心により一層迷いが絡まるようになる。
 菊之助が霧ヶ峰タウンで「眠れる核」を探し当て、彼にそれを託した時点で菊之助の「下命」は完遂される。そうなれば後は、町で暮らす咲羅を連れて、自らの時代へと戻っていくだけだ。仲間たちもそれぞれの家族が待つ家へと帰ってゆくことになるのか。
 つまり灯子はあの「楽園」を、永遠に追われてしまうことになるのだ。
 灯子にはあの町を失った自分がどうなるのか全く想像がつかなかった。「自ら死を選んだのだから……」、「栗島クリス」は言った。以前は霧ヶ峰タウンを出たら家に帰るのだと、灯子は単純に考えていた。だがもし自分が死んでいるとなれば一体どうなるのだろう? 当然家に帰ることなく、死者として成仏しなければならくなるのだろうか? 
 「わからない……」
 灯子は寒さに耐え、雪に埋もれる足を必死に動かしながら、何度もそう呟いた。菊之助の広い背中はいつでも導くように灯子の前に在った。灯子はそれを追いながら、ひたすらに前へと進んだ。戻ること、とどまること、若しくは逃げること、灯子はそれらのことをするまいと心に誓った。
 灯子は明らかとしなくてはならない。自分が死んでいるのか生きているのか、つまりは今ここにいる自分は何者なのか。寒さに凍えながら足を動かし、それでいて背中に汗を伝わせ、半日食べ物が無いと飢えてしまう体、この左胸の奥で始終主張している鼓動、確かにめぐっている実感のある血潮は何なのか?  灯子はその謎から逃げてはいけない。
 この三年もの間、灯子はのんべんだらりとぬるい生活を続けてきた。自分の人生の意義を問うこともなく、ただひたすらに安楽を求めてきた。それはまやかしであったと、今更ながら思い知らされた。
 だがまだ灯子にも守るべきものがある。こんなふがいない自分を温かく受け入れてくれた、咲羅をはじめ涼雅やイツキ、チューリップにアーモンド、彼らは必ず家に帰らなくてはならない。死者である自分と違って彼らはまだ生きている。それぞれの家族が待つ場所へ帰してあげたい。それが、残された灯子の時間、残り短い人生の使い道だと思った。
 灯子の道は永遠の虚無に向かって真っすぐに伸びていた。それを息もつかない熱心さで、ひたすらに邁進して行った。

 城壁の外側はどこまで行っても雪と氷の世界だった。
 朝が来て昼になり、陽が落ちて夜になる。一日のサイクルは規則正しくやってきてはいたけれど、行けども行けども氷点下の続く森をひたすら歩き続けていると、季節の感覚が麻痺してゆく。
 菊之助は雪道をしっかりと踏みしめるためのストックに刻みを入れて日数を数えた。灯子たちが出発して三か月余り、遠くの方に青いそそり立った山並みが見えてきた。それは紛れもなく、灯子が見慣れた景色とは反対側から見た、霧ヶ峰の山々だった。灯子はそれに気づいたとき、体が震え、涙が湧くのを感じた。
 とうとうあの霧ヶ峰タウンが、灯子の故郷よりも懐かしい町が近づいて来た。灯子の心に深い感慨が満ちる。苦しかった。長い道のりだった。何度寒さの中で死んでしまうかもと思っただろう? だがやっと目的を果たせる見通しが立った。これでみんなを家に帰してあげられる。灯子はただそれだけで報われる思いだった。
 だが、報われたとして果たして自分には「死」以外の結末しか許されていないのか。納得ずくで歩いてきたはずなのに、灯子の心にはふと、負け戦と知って歴史映画を見る時のような空しさも湧くのだった。
 それなのに灯子の脚は力づけられてその踏み出しを強くした。顎の角度は斜め40度上向きになる。目はあの結晶のように青い頂を真っ直ぐと見あげる。ハアハアと荒い息を漏らす口元には解けていくこぶしの蕾のような笑顔が浮かぶ。たとえ奈落の底へと落ちていくしかなくとも、ひたすらに流れ続ける急流のような意思が、灯子の心を貫いていた。
 ――――あたしにはもうこうする以外には道はないんだ――――
 霧ヶ峰の山々が見えてきたということは、灯子と菊之助にとってこの旅で一番の、そして最後の難所に差し掛かったということを意味していた。霧ヶ峰タウンは霧ヶ峰山脈の山懐に抱かれた町だ。つまり二人はこの高い山々を乗り越えなくては目的地に達することは出来ないのだ。
 二人は最寄りの町で整えた装備をほとんど使い果たすようにして、二週間もかけて山越えをした。幾夜も洞穴やテントで野営し、顔のしもやけに悩まされ、凍傷で手指を失うことに怯えながら、まるで氷河時代の原始人にでもなったような心持で、灯子は何とか菊之助の後ろに食らいついて行った。
 菊之助の体は頑健で、雪を踏みしめる足にも風雪に耐える背中にも一分の歪みすら見とめられなかった。まるで春のあぜ道でも歩いているような足取りで、彼は淡々と歩いていくのだ。
 灯子は心から菊之助に感謝した。彼がいなかったら自分は、ただ雪中右往左往して挙句に凍死するのが落ちだっただろう。霧ヶ峰タウンにたどり着くなどとんでもなく、ただ見当はずれの所で力尽きて終わっただろう。灯子は彼の黄色っぽい毛皮の外套を追って、最後に残った力を振り絞るようにして歩いた。
 二週間と一日目、寒さと疲労から、もうこれ以上の体力は続かないのではと灯子が思い始めたころ、高い山の尾根を東側に降りてゆくとき、ジオラマのような町の灯りが、眼下にちらちらと煌めいているのが見えた。
 コンパクトな丸い城壁の中には6等星のように小さな灯がさんざめき、中央部には赤い電飾とひときわ高い塔、それは遥かに見下ろす懐かしい霧ヶ峰タウンの夜景だった。まるで灯をともされたバースデーケーキのように、祝福とぬくもりに満ちた町だった。灯子の脚は止まり、目は不意の涙に潤んだ。時刻は夕刻だった。夜沢川が町の灯を反射させ、うねったリボンのように流れている。あの中に咲羅や涼雅たちが暮らしているのだ。
 「ああ、あの町だ、帰って来たんだ……」
 目からは熱い涙がこぼれ、山の冷気に冷やされて頬がビリビリと痛んだ。そして灯子は、これから果たさなくてはならない別れの数々に向けて、頬の痛さなど問題にならぬほど熱い炎が、新たに心に燃え上がるのを感じた。
 ――――絶対にもう逃げない。全て明らかとしよう! ――――
 「灯子殿、あれは何でござろう? 」
 不意に菊之助が町の反対側、やや下の尾根伝いを指をさした。低い灌木に覆われた山の斜面に、山から調達したらしき木材を寄せ集めたような、急ごしらえとも見えるバリケードが出来ていた。その奥の方に目を凝らすと、噴火の名残なのか十数個転がった大岩に隠れるようにして、数多の掘立小屋が立てられている。それらの上にはまるで目くらましのように、雪がまぶされて気配が隠されていた。
 「何でしょう? あたしにも分からない」
 菊之助が銃を構える。灯子に手でとどまるように指示を出しながら、すり足のようにそろそろとそれに近づいて行く。ズドーン、威嚇するように空に向かってバズーカ砲が打ち鳴らされた。灯子はびくりと震え、菊之助も立ち止まる。
 「偽姫巫女の手の者か! 」
 バリケードの奥から怒りがこもった女性の声が響いた。灯子ははっとした。このハスキーでパワーを感じさせる声、これはカリンの声ではないか? 
 「違いまする。我が名は水上菊之助光貞、15世紀の日の本から参った、霧州が国司、千鳥宗尊様の家臣にござる。将軍様の命がため、長い旅路の果てに霧ヶ峰タウンまで参上仕る途中にござる。それがしには何の害意もござらん。ただ人探しをせねばならぬだけ。偽姫巫女など存じ上げぬ。そちらの方こそ近づくものにいきなり威嚇するとは、旅の者に対する礼節にいささか欠けているのではござらんか」
 菊之助は正しい発声で朗々と言った。バリケードの内側が何だか浮足立ってざわざわと騒いでいるようだった。どうやら大勢の人がその中にいるらしい。そしてそんなざわめきを切り裂くように、額から抜けるようなソプラノの声が響いた。
 「菊之助! 」
 咲羅だ! 灯子の胸には真っ直ぐに陽光を浴びたような喜びが湧き、だがそれを圧するような混乱が巻き起こった。何故こんな城外の山の中に咲羅がいるのだろう? そしてカリンがここにいるということは、ピノもオオカミも一緒にいるのだろうか? 涼雅は? イツキは? 
 全身を使ってバリケードを乗り越えて、灰色の毛皮の衣で全身を覆った咲羅が、薄暮の中でも分かるほど顔を火照らせながら駆けて来た。
 「姫様! 」
 咲羅が菊之助に抱き着き、菊之助は控えめに抱きとめた。その右手はくくられた黒髪を撫でる。咲羅は菊之助の胸に顔を押し付けて号泣した。それは実に三年もの間離れ離れだった恋人たちの再会だった。
 「ああ、ああ、よく無事で……」
 涙に震える咲羅の声に、灯子の目にも熱いものがこみあげてくる。灯子は、迷ったり苦悩したりもしたがここまで歩いてきてよかったと、心から思った。自分は咲羅の親友として最後に最低限度のことができたのだ。菊之助に霧ヶ峰タウンのことを教えて本当によかった。灯子はそう思いながら手袋の指で目をぬぐった。
 咲羅を追うようにして、やはり毛皮の服で重装備したイツキとチューリップ、アーモンドが駆けよってきた。彼らもやはり咲羅にもらい泣きしているようだった。チューリップが
 「良かったねえ、咲羅」
 と言えば、
 「愛って、結局は勝つんだね」
 とアーモンドも口をそろえる。イツキも常に見えない晴れやかな表情で、よりそう咲羅と菊之助を見つめている。どういういきさつか分からないが、灯子の仲間たちはここに集っているらしい。
 灯子はゆっくりと進み出て咲羅とみんなの間に立ち、一言「ただいま」と言った。自分は随分とみんなに心配をかけてしまった。だから灯子はどんな表情を作っていいのか分からなかった。嬉しさが七割、申し訳なさが二割、これからの別れに対する決意が一割、灯子が作った笑顔の内訳はそんなところだろうか? 
 だが、チューリップがきょとんとした顔でこう尋ねた。
 「君は誰だい? 」
 チューリップの隣ではアーモンドも、まるで道端で他人が急に話しかけて来たみたいに、戸惑った表情を作ってこちらを見ている。
 「ただいま? 」
 「君は、咲羅の恋人にお仕えしている人か何かだろ」
 イツキも怪訝そうにそう尋ねた。灯子は全身が石化したように硬く冷たくなり、鋭い痛みで心臓を貫かれたかのように感じた。
 「誰って、灯子だよ。三年間エスメラルダのアパートにいたじゃない、咲羅の隣の、203号室で……」
 「203号室なら月子の部屋じゃないか」
 イツキがいい、チューリップもアーモンドもそろって頷いた。
 「うん、月子の部屋だ」
 灯子は瞳の表面が凍り付くんじゃないかと思われるほど目を見張った。その、早くも涙の気配に満ちた視界は、アーモンドの右側に立っている、見慣れない一人の若い女性をようやくととらえた。
 彼女は栗色の長い髪の毛を一つ結びにしていた。目が大きくくっきりとした二重で涙袋が大きかった。思わず応援したくなるような、素直で明るいタンポポのようなたたたずまいだった。「月子」と呼ばれた女性も、怪訝そうな表情を作って、呆然と立ち尽くす灯子を黙って見つめていた。
 ―――どうして? どうしてみんなあたしのことを憶えていないの? 月子って誰? ――――
 灯子は言葉もなく呆然と立ちすくんでいた。尾根のむこうに間もなく陽が沈もうとしている。

灯子の導きの星

 灯子が予想した通り、このバリケードの中にはピノとオオカミもいた。表の騒ぎを聞きつけて、彼ら二人が菊之助への応対で出てきた。そして驚くべきことに、このバリケードに立てこもった人々の中心には、アイリス様の気高い姿まであったのだ。
 アイリス様が許可を下し、遥々訪ねてきた菊之助が客人として招き入れられた。灯子も菊之助の口添えで中に入ることを許された。本当だったら、胡乱なことを言う曲者と捕らえらえてもおかしくはない状況だったのに。
 掘っ立て小屋のうち一際丁寧に整えらられてはいるものの、隠しようもなく簡素な小屋に、灯子と菊之助は迎え入れられた。室内ではかんかんと火が燃やされていた。壁には黄色と青の霧ヶ峰タウンの旗が斜に掲げられている。その真下には、箱のようなものを積み重ねて高くした椅子に、紫のビロードをかぶせた急ごしらえの玉座があって、それに着座したアイリス様が二人と謁見した。
 アイリス様は白銀の髪の毛を太い三つ編みにし、菫色のビロードのリボンでまとめていた。純白の毛皮の装いで、この山中の「拠点」においても、絶世の美貌を顕示していた。右横にはピノとオオカミ、そしてカリンが、緊張に満ちた表情で控えていた。そして左隣には忠実な番犬のように青い瞳を燃やして寄り添うイツキ、やや離れて、咲羅、チューリップにアーモンド、更に相去月子が、困惑した面持ちで立っているのだった。
 彼らの灯子を見る視線に、灯子は涙がにじむ思いだった。つまりは灯子のことは誰も覚えていなかったのだ。咲羅も、イツキも、チューリップもアーモンドも。
 アイリス様の口を煩わすことを厭ったピノは自発的に、自分たちがなぜこんな山中で隠れ住むことになったかを説明した。
 突如「真の姫巫女」を名乗る黒いドレス姿の女性が現れ、すっかりと町を制圧してしまったのだという。彼女は数多くの漆黒のオオカミたちを引き連れていた。それらが城壁の内側町のいたるところに出現し、町の兵隊も保安官も不意を突かれて抵抗らしき抵抗は出来ず仕舞いだったという。
 「偽姫巫女」は塔の内部にも、黒オオカミたちを引きつれて堂々と現れた。銃もバズーカ砲も効かず、彼女は審判の間まで無傷で上りきった。その神通力はアイリス様をしのぐというよりも、効力を発揮する次元というものが違ったのだと、アイリス様が口をはさんだ。多くの警備の者が偽姫巫女によって氷漬けにされる中、ピノやオオカミ、カリンが尽力し、市中から駆けつけてきたイツキの働きもあって、辛くもアイリス様は救い出されたが、塔をはじめ、町の支配権は奪われてしまった。
 偽姫巫女は結界を張らないのか張れないのか、本来ならば初秋であるはずの霧ヶ峰タウンも、城壁の外側と同様酷寒の気候となっているという。
 落ち延びたアイリス様やピノたちは、同じように逃れることに成功した少数の者たちとともに、この山中にバリケードを築き、レジスタンスとして町を奪取する機会を狙っていた。その中にイツキをはじめ咲羅、チューリップたちもいたのだ。
 みんなの輪の中に涼雅がいないことに、灯子は早い段階から気付いていた。強風にきりもみされる風見鶏のように、胸がくるくると回った。そして居ても立っても居られないというのに遠慮がちに、自分なんか口も開いていいのかという表情を浮かべながら小さな声で「涼雅は残ったの? 」と訊いた。イツキは「何で涼雅のことまで知ってるの? 」と怪訝そうな顔でつぶやいてから、一転険しい表情を作ってこう答えた。
 「涼雅はあの女に捕まった。塔の中に幽閉されているらしい」
 「涼雅が、涼雅が捕まった! 」
 灯子は悲鳴を上げた。足が震え、歯がかみ合わなくなってくる。荒れ狂う海に丸腰で放り出されたみたいに、恐怖と混乱が襲い掛かって来る。
 何故? 何故涼雅が捕まっているのだろう? 一体何の理由があって「栗島クリス」が涼雅を捕らえたのか……。
 アイリス様が渋い表情で重々しく口を開いた。
 「森嶋涼雅は確かに、妾たちの探しておった『核』じゃった」
 「『核』? 涼雅が核? 」
 「そうじゃ。偽姫巫女があやつを捕らえたことによって、皮肉にも妾たちも気づいた」
 灯子の脳裏には、「目覚めればいいのよ」と言ったエスメラルダと五月の中庭が、「眠れる核」を探していると言った菊之助と氷雪の夜が順繰りに回った。そして「いい夢はいい夢であるうちに……」と言った涼雅本人のさびしげな表情が浮かんだ。
 灯子は想像もしていなかった。涼雅本人が目覚めるべき「核」だったのだ……。
 「何と! ではそれがしは森嶋涼雅とやらを救い出さない限り、下命を果たすことは出来ぬという訳か! 」
 灯子ははっとして菊之助の横顔を鋭く見た。
 ピノが言った。
 「と仰ると? 」
 菊之助は彼の携えている文書「緋桜伝」と、旅の途中で出会った不思議な老人の言葉をピノや灯子の仲間たちに説明した。
 「なるほど、森嶋涼雅が『眠れる核』だとすれば、全てつじつまが合う。「偽姫巫女」はそれを察知してあいつをさらったという訳か。ということは、外の世界のこの異常気象も、あの女が原因か」
 赤いアロハとステテコの代わりに狐毛の上下で身を固めたピノが、胡散臭い笑顔を封印して真剣な表情で言った。
 「一刻も早く涼雅とやらを救い出さなければならない。こうして山中に潜んでおっても、守りを固めた町へは入りがたいのではないか? 」
 菊之助の質問にオオカミが小さな声で答えた。
 「策ならある。我らはひそかに町の中と連絡を取り合っている。明日朝、夜明けとともに、町は一斉蜂起する」
 「一斉蜂起! 」
 灯子と菊之助の言葉が重なった。咲羅とイツキの表情がピリリと緊張をはらむ。チューリップもアーモンドも真顔で唇を結ぶ。ピノがオオカミの続きを引き取る。
 「町は少年から老婆に至るまで抵抗を試みる。ここに集った者たちもすべて戦う覚悟だ。菊之助とやら、お前も協力するつもりはあるか? 」
 「それがしに出来ることであれば協力は惜しまぬ。加えてそれが姫様をお救い申し上げるような結果と相成れば」
 菊之助はきっぱりと言い切った。右脇に立つ咲羅が頼もしそうに頬を染めて彼を見上げる。
 ピノが菊之助の左隣に立つ灯子に向かってこう言った。
 「そっちの娘、お前の連れか? そいつは一体何なんだ? お小姓代わりのつもりか? 」
 「まさか。姫様の親友だと申すので、この町まで連れ申した。だが、姫様は灯子殿をご存じないと? 」 
 「知らないわ……」
 咲羅が申し訳なさそうに言った。チューリップもアーモンドも目を伏せている。そして今や望み通りアイリス様のそばに控えたイツキは、異分子に対する警戒感に満ちた眼差しで、突き刺すように灯子を見るのだった。
 
 咲羅もイツキもチューリップもアーモンドも、深い疑りの目で灯子を見ている。ピノたちですら灯子のことを憶えていないと言い、警戒心を隠そうとしない。霧ヶ峰タウンに置いての灯子の存在は、完全に無きものとされていた。
 灯子の占めていたポジション、思い出、その全てがあの相去月子という活発そうな女性にすり替わってしまっていた。咲羅と城門の前で出会ったのも月子、料理が下手で飲み会が大好きなのも月子、そして涼雅と両想いになっているのも月子だという。彼女は食品加工場で、金曜日を除いて夜のシフトのビーンズロールの工程にいるのだという。
 月子は戸惑ったような、それでいてどこか憮然とした表情で灯子を見た。菊之助が、灯子が涼雅に中途半端に振られたことを話したときには、ほとんど憎しみに満ちたような眼差しを送ってきた。菊之助は灯子について可能な限り弁明を行った。だが誰も覚えていないとなればどんな説明も徒労に終わる。
 灯子はしばらく菊之助の隣で疑りの視線に耐えていたが、やがて涙ぐんで「もういいです、もう何の意味もないです」と言って一人部屋を辞した。そして自らバリケードの一番端の、やっと風雪が耐え忍べるだけの倉庫の中に黙ってもぐりこんだ。
 米と小麦の袋が山と積まれた真っ暗な倉庫で、灯子は膝を抱えてすすり泣いた。火の気もなく手や足が千切れるほど寒かったが、温かい場所に行きたいと求めることすらおこがましく感じられた。
 灯子の三年間、ぬるま湯のまやかしではあっても幸福に満ちた生活の記憶が、みんなの心からすっぽり消え落ちている。
 そうだ、灯子はあまりにも幸せであった。幸せ過ぎるほど幸せであった。だから、分不相応なものを手にした罪ですべて失う羽目になったのだろうか? だが、幸せは失っても、幸せだったことの痕跡が跡形もなく消えているということが、灯子には悲しくて悔しくてならなかった。
 栗島クリスは言った、「主人公はあなたじゃないでしょ、不当に得たものを今すぐ返しなさい」、栗島クリスが何かして、みんなの記憶から灯子を消したのだろうか? 
 何の権利があって? 灯子は歯を食いしばる。栗島クリスは自分を裁判官か何か、若しくは全知全能の神であるかのように考えているのだろうか? 仮に不当に得てきた幸せであっても、灯子の生きてきた軌跡まで奪うなんて残酷だ。自分がこれから消えてしまうことよりも、これまでの生の証明がどこにも残っていないことの方が、灯子にとっては耐え難く感じられた。
 雪雲が切れ、冴えた星々が硝子もはまっていない窓の隙間からのぞいた。霧ヶ峰タウンの灯りはそんなに激しいほどではなく、街中でも比較的星は見えた。だがこの山中にあって見上げる星座は、粉々になったラムネの瓶が、夜空に不規則にふりまかれて輝くように、その冷たい煌めきで灯子の心にチカチカと突き刺さってきた。いまや灯子の幸せは、あの星々よりももっと遠くに退いていた。
 灯子は声を殺してしゃくりあげた。絞っても絞っても涙は止まらない。どうして、何で、どうして! 心に浮かぶのはそんなセリフばかりだ。
 「灯子殿、ここにおられたか」
 ガタリと扉が開いて、菊之助が入ってきた。灯子は膝を抱きしめたまま顔も上げられなかった。
 「ここは冷えまする。居住用の棟へ行きましょう。姫様が心配しておられる」
 「行けません! 」
 灯子は声を震わせて答えた。
 「あたしがいるとみんな疑います。もうあたしにかまわないで。菊之助さんにまで迷惑が掛かってしまう」
 「灯子殿……」
 菊之助はそう呼びかけると、ふっと小屋を出ていった。ややあって、菊之助は再び小屋の扉を開けた。
 「灯子殿、これをお使いなさい」
 菊之助は厚い毛布二枚と懐炉、大きなパンと湯気の立つ雑炊を持って入ってきた。灯子は震えながら黙ってそれを受け取った。懐炉を抱き、毛布にくるまって震えていると、菊之助がこんな言葉をかけた。
 「灯子殿、それがしは貴女を疑ってなどおらぬ。灯子殿の言葉には真実味がござる。決して弱音も吐かずに酷寒の森を四月もの間歩きとおすことなど、自らを偽ってよこしまなことを企む者には不可能でござる。それがしは自らの見たこと感じたことを信じまする。貴女を信じまする」
 灯子は毛布の中に顔をうずめてなお更泣きじゃくった。 
 「姫様もお仲間たちも、やがてきっと思い出しましょう。森嶋涼雅とやらもきっと救い出されよう。しばしの辛抱じゃ」
 そう、正しい発声でぬくもりのある声を放つと、菊之助は一礼して出ていった。灯子は泣きながら菊之助の置いて行った雑炊をすすった。彼の篤実さが心にしみわたった。

 雪雲はなかなか戻っては来なかった。灯子は懐炉を抱き、毛布にくるまって、刻々と角度を変える星々を眺めていた。
 町にいる時にはこんなに熱心に星は見なかった。灯子の関心は地上にあった。星に願いを託すようになったのは菊之助と旅してからだ。星々を見ていると灯子が忘れている大切な記憶を、片手でひょいっと摘み上げることが出来るかのような気分になる。その度にするりと逃げてしまうが、その密やかな感覚は繰り返し繰り返し灯子の心臓を内側からノックする。
 「涼雅、涼雅に会いたい、涼雅は何処? 」
 灯子はそう呟いて涙を流した。灯子の告白を中途半端に受け入れて中途半端に拒んだ涼雅も、灯子のことを忘れてしまっているのだろうか? あの時は確かに「俺も灯子が好きだ」と言ってくれたはずなのに。
 町が「栗島クリス」を追い出すことに成功しても、涼雅は灯子のことを知らないというのだろうか? 相去月子は涼雅とはもう二年も前から真剣に付き合っているといっていたし、咲羅もチューリップもそう証言した。灯子は、相去月子と手をとり合って見つめ合う涼雅を想像して、胸がキリキリと痛くなった。
 ギギイ、再び小屋の木戸が開いた。菊之助がまた何か差し入れを持ってきたのだろうか? 灯子は毛布に埋めた首で震えながら振り向いた。そこには、思いつめた面持ちで唇をきりりと結んだ相去月子が立っていた。
 「ねえ、あなた何なの? 」
 相去月子はこう切り出した。不快感と不安感を一緒くたにして苛立ちで彩ったような声音だった。彼女は左手に掲げもった燭台の灯りに、赤々と照らされていた。ぱっちりとした形の目が、フランドル画派の絵画のような光を宿して揺れている。
 「何って、宝来灯子だよ。三年前の異変で霧ヶ峰タウンに逃げてきた」
 「それはあたしのことだよ。涼雅と同じ町から逃げてきたのはあたし。江刈東高校に通っていたのも、両親が市役所の職員だったのも、みんなあたしのことだよ」
 「家のことはっきりと覚えているの? 」
 灯子は相去月子を直視できずに視線を落として尋ねた。相去月子は灯子よりも豊かな胸を張った。
 「うん、はっきりと。三歳の七五三のあたりからちらほらと記憶が現れ始めるの。あなたはほとんど覚えていないんだってね」
 灯子には答えることが出来なかった。
 「ねえ、あなた、本当に人間なの? 育ってきた記憶がない人間なんて、本当に生きているって言えるの? あの偽姫巫女が涼雅に対する罠としてこしらえた、命のない人形なんじゃないの? 」
 灯子は震える息を漏らした。自らの存在への疑問がぼこぼこと気泡をはらんで吹き上がっていた。
 「あたしはね、家に帰ったら小説を書くの。涼雅と約束したんだよ、この町での楽しい生活を作品に書くって。こんな望みがあるってことも、あたしには実体っていうものがあるからじゃないの? あなたには無いんでしょ? ねえ灯子さん」
 灯子には何も答えることが出来なかった。そうなのだろうか? そう言われてみればそうなのかもしれない。灯子には実体が無いのか。だから何も憶えていないのか。この凍えて熱を求める手も足も、涙をこぼす目も確かに熱いと感じる涙も、何とか体を温めようと必死に巡っている血液もそれを懸命に送り出す心臓も、全てまやかしの人形なんだろうか? 自分には魂がないのだろうか……。
 灯子が黙ってすすり上げるのを見ていた相去月子は、「やだこれじゃあたしが虐めてるみたいじゃない」と苛立たしげにつぶやいた。そしてまだ何かを言い出しかけた後、「泣くのはずるい」と吐き捨てながら踵を返して出て行った。
 「宝来灯子」という人間は一体何者なのだろう? この三年間の灯子の記憶は、一体どこから来たものなのだろう? 相去月子が言った通り、「宝来灯子」が「栗島クリス」が作り出した命のない人形だとするならば、「栗島クリス」は何故、今更になって灯子からすべてを奪ってしまったのか? どうして得させて奪うというまどろっこしい手段をとったのか? 灯子は果て度もなく自分に問いかけ続けた。
 相去月子のセリフで、灯子にはもう一つ心に突き刺さったところがある。彼女は小説を書くと言っていた。ここでの楽しい生活を作品にすると。それを聞いたとき灯子は、生まれ育った懐かしい家に、幸せそうな他人が暮らしているところを、垣根の外側から覗き見てしまったかのような、激しい喪失感が湧いたのだ。
 灯子は書物を恐れてきた。書くことを倦み避けてきた。それなのになぜこの喪失感? 自分は決して本が嫌いなわけではなかったのだ。書く行為には神聖視するほど憧れを抱いて来た。だが向き合うことに恐怖し、キツネに怯える野ウサギのように、気配すら許せず逃げてきた。今更のように気付かされる。
 確かにこう言える、灯子は怠けている。いや、正確に言えば怠けて来たのか。だがそうだとしたなら、ここでの生活を書くと言った相去月子と間を張るような、灯子の役割とは一体何なのだろう? 工場での労働ではないことだけは確かだ。灯子はいつだって交換可能な部品だった。仲間たちの間における役割についても、灯子の存在は相去月子にすり替わってしまっている。
 もっと本質的なところで、灯子の存在、その努力を求めてやまないような役割とは何なのだろうか? どういう行動をとれば、世界の歯車にはまって貢献できるというのだろうか? 
 菊之助は旅をして文書を集めた。同じように、灯子にも世界に定められた使命と言うものがあるはずだ。この世界に迷い込んだということは、灯子も必ずそれを負っているはずなのだ。「眠れる核」であった涼雅が、究極的には目覚めるということで、世界の開放を求められているように。
 そうだ、涼雅だ、と灯子は思う。涼雅を救い出さないといけない。もしも「栗島クリス」が灯子からすべてを奪うために涼雅をも幽閉しているというのなら、灯子がとるべき手段は一つしかない。
 「栗島クリス」が何を思って町を奪ったのか? 灯子は訳も分からないままはっきりと直感していた。それは自分からすべてを奪うためだ。何故一旦得させた後で奪ったのは分からないが、それは「栗島クリス」にとって必要な手順だったのだろう。だから、灯子が本当に何もかも失って、この世の全てから完全に用済みとなれば、「栗島クリス」は霧ヶ峰タウンを返すのだろうと灯子は思った。つまり灯子は今すぐにでもさらにすべてを差し出さなければならない。反逆の意思が露ほどもないことを、「栗島クリス」に申し開かなくてはならない。
 その為には自分は何としてでも町へ向かわないといけない。自分の残された役割は「栗島クリス」の前で死ぬことだ、と灯子は思い定めた。理屈と理屈の深い谷間を、灯子の直感は飛躍した。それこそが自分の、世界に求められた交換不可能な役割のはずだ。そうはっきりと決意を固めた。
 灯子は洟をすすりながら窓の外の星を眺めた。最下等の屑星が、涙に滲む視界に光の脚を延ばしたり縮めたりしながらちかちかと瞬いている。その透明なパワーは灯子の震える心臓に力を注ぐようだった。ここでただ黙って泣いているわけにはいかない。灯子の胸の中には星々の注ぐ静かな炎のような熱が満ちていった。
 ――――立ち上がれ! ――――
 菊之助の与えてくれた毛布で涙を吹いていると、頭上の星々のささやきに思われてならないようなリンリンリンリンという、可憐な響きがかすかに聞こえた。それは一音鳴らされるがごとに歩く速さで近づいて来る。
 「あ、これは鈴の音だ」と気付いたとき、再び背後の扉がばたりと開いた。灯子は体を震わせながらもなめらかに振り向いた。そこにいたのは菊之助でも相去月子でもなかった。パーマのかかった紫の髪の毛をした、小柄で小太りの、少し見ただけでは老爺とも老婆とも見分けがつかない、中性的な老人だった。
 その人は菫色の分厚い毛織物のワンピースの上に、白い毛皮のマントを羽織り、腰に可憐に鳴り響く鈴を吊り下げ、右手に小さなランタンを掲げて扉から真っ直ぐ灯子の前へと歩いて来た。口元に浮かんでいるのはモナリザのように謎を含んだ微笑み。掲げもったランタンの灯りに、目には炎の小鳥のような輝きを宿し、刻まれた皺の一本一本にはぬくもりを感じさせる影をまとわせている。
 「あなたは誰? 菊之助さんに涼雅のことを教えたのもあなたなんでしょ」
 灯子は不思議なほど冷静な声でそのようなことを言った。その人は謎をはらんだモナリザの微笑を強めた。
 「わたしはディアマンテス。導きの魔女」
 その人の発する声から灯子にも、これはエスメラルダと同じように、女性の心を持った男性なのだということが分かった。この人は味方だ。灯子は何故かそう直感し、凪いだ海の水面のような心持でこう尋ねる。
 「あたしにも導きを授けに来たの? 」
 「そうよ」
 ディアマンテスは灯子の前にしゃがみこみ、肩にかけた鞄から一冊の本を取り出した。
 「これをあなたに」
 そう言って可愛らしく小首をかしげる。灯子の胸には一瞬で脅えが巻き起こったが、冷たい本の角が手に触れた途端花火のように何かがはじけて、一転しっかりとそれを両手で握りしめた。ディアマンテスは微笑みを漏らすとすぐに立ち上がり、くるりと背中を向けた。
 「チャンスは一回だけ。きちんと受け取ったかしら」
 そう言ってディアマンテスは振り返ることなく、星屑の照らす光に新雪が輝く尾根を下って行った。鈴の音が遠ざかっていく。その姿は地吹雪が舞う斜面を下って小さな点になり、そのマントは一面の白と一体化して見えなくなった。可憐な鈴の音もまた消えた。
 灯子は魅入られたように閉じた戸口の板をじっと眺めていたが、やがて震えながら手の中の本を覗き込んだ。「銀河鉄道の夜」とタイトルされていた。本が怖い灯子だって知っている名著だった。
 灯子は三回息を吸って震えながら吐いた。その後で、数行だけ文章を読んだ。先生の銀河についての説明に、今窓の外に覗く星々が二重写しになる。
 ――――ああこの本を読むのは初めてではない。前に一度、いいや、三度四度、もしかしたらもっとたくさん読んできたかもしれない――――
 灯子は心の中に得体のしれない衝動が蠢くのを感じた。雪が解けて春になり、仮死の眠りから目覚める蛇やカエル、喜びに満ちて芽吹きだす雑木の木の芽、待ちわびたかのように開花する桜やコブシ、それらのものに指令を出すいわくいいがたい大きなものが、灯子の心にも激しい口調で命じている。目覚めよ、目覚めよ、目覚めよ宝来灯子! 
 灯子はおもむろに立ち上がった。二枚の毛布を脱ぎ捨てる。寒さを圧する熱が、体に心に満ちている。
 行かなくてはいけない。灯子にできることをしなくてはならない。

 立ち上がった灯子はその足でアイリス様に会いに行った。何としてでもこの許可だけは取り付けなくてはならなかった。
 小屋の前まで行くと、ライフルを構えたイツキが、張りつめた所作で見張りに立っていた。彼は灯子を見ると整った顔に、子羊を狙うオオカミに気づいた牧童のような表情を浮かべた。その眼差しから、到底中へ通してはくれないことを察した灯子は計画を変え、イツキの前でガバリと土下座した。
 「イツキさん、お願いします、明日霧ヶ峰タウンへ征くときにはあたしも連れて行ってください。せめて内側の城門をくぐるまででも。後生です、お願いです! 」
 灯子の行動が予想外だったのか、イツキは「待て待て、何なんだ」と言いながら灯子を立ち上がらせようとした。小屋の扉があき、中からカリンが顔を見せた。
 「何かもめてるの? 」
 「いえ、この女が……」
 イツキはいきさつを説明した。その内容を聞き取ったらしいアイリス様が中から声をかけた。
 「その娘を中へ」
 辛くも灯子は、アイリス様との再びの謁見を果たした。イツキの敵意に満ちた顔を見たときにはもう駄目かと思った。ここまでこぎつけられただけで体の緊張が抜けそうになる。だが本題はここからだ。
 灯子は心を燃やそうと、瞼の裏にさっき見た星屑の光を思い浮かべた。嘆願の想いを込めて跪き、両手を床に付けた。涙が渇いたばかりの頬をあげて、むくんだ目で北極星を拝む人のようにアイリス様を見上げる。
 部屋にはピノたちの他、咲羅と菊之助を除く、灯子の仲間たちが集まって部屋の左脇に立っていた。あの相去月子の姿もある。彼女は泣きはらした灯子の顔をまともには見ようとしない。
 アイリス様は急ごしらえの玉座に深く沈み込み、小首をやや左に傾け、灯子の胎児時代の面影さえ見抜くかのような眼差しを向けて尋ねた。
 「さて、宝来灯子とやら、そなたは何のために城内へと向かうというのだ? 我らとともに戦うためか? それとも覆い隠してきた目論見を果たさんがためか? 」
 灯子は大きく息を吸い込んでやや震えがちな、だが腹からの声を発した。
 「偽姫巫女の前であたしが完全に死んだことを見せるためです」
 「死んだこと? 」
 背後でイツキが当惑したようにつぶやいた。灯子はさらに畳みかける。
 「偽姫巫女、『栗島クリス』はあたしに言ったんです、あたしは本当には死んでいて、不当に得たものはすべて返さなければならないと。あの女はあたしからすべてを奪うまで矛先を収めない。わざわざ町を奪ったのもきっと、あたしが霧ヶ峰タウンを愛していたからなんです。ただあたしを追い出すためだけに町を奪ったんです。だから、あの女の前で完全に死んで、もうあたしからは何も奪えないということを示せばきっと、涼雅を、町を返すはずなんです」
 アイリス様のアメジストの瞳に、雪原に走る雪雲の影のようなものがよぎった。
 「具体的にはどうするつもりじゃ? 」
 灯子は山鳥をさばくときに使っていたナイフを腰から取り出して言った。
 「あの女の前で喉をかき切る」
 ピノもオオカミもカリンも眉を顰め、イツキもチューリップもびくりと息をのんだ。アーモンドは眼鏡の鼻あてに手をやりながら「そこまでする必要ある? 」とつぶやいた。イツキが言った。
 「あの偽姫巫女とお前との間には、何か曰くがあるのか? 」
 「多分そうです。直感でわかります。事情はあたしが忘れているだけなんです」
 「直観って、直感で命も捨てられるというのか! 」
 「捨てられます! あたしの直感は当たるんです」
灯子の決然とした叫びに、イツキは痛ましそうに眉を歪めて言葉を呑んだ。チューリップとアーモンドは、横目を合わせて瞬きを繰り返した。相去月子はあからさまに灯子から視線をそむけている。 
 灯子の熱く煮えた血を吐くような言葉に、アイリス様も打たれたように答えた。
 「正気か? 幾らそなたが怪しげな存在であっても、その自死の上に勝利を得ることは妾にも認めがたい。更にそれが無駄死にだったとしたなら……」 
 「無駄死にではありません。あたしの直感は本当に当たるんです」
 一同のものは唇を閉ざして黙り込んだ。途方に暮れた溜息だけが響いた。本当なのだろうか? この女の言っていることは本当で、本気で自分の命と引き換えに町を救うつもりなのか? 誰も言葉にはできなくとも、案ずるところは一緒だった。
 反対に灯子の表情は油を注がれた炎のように燃えた。更にこう言ってたたみかける。
 「あたしは何にも持っていないんです。今まであたしが持っていると思っていたものはみな借り物で、本当は何も持っていなかったんです。今のあり方が本来の持たざるあたしの姿なんです。こんなあたしが差し出せるとしたらこの命だけです。もう欲しいものを手に入れられる望みはなくなってしまいました。だから迷わず差し出せます。涼雅が戻ってくるなら、みんなが家に帰れるなら、あたしは笑って喉笛をかき切ってやります! 」
 そう言って灯子は、両膝を床に付けたまま右手で喉をかき切る手ぶりをして、熱せられた硝子のような目で笑った。
 「わかった、妾の乗るジープに乗せて進ぜよう」
 アイリス様が、天上から射貫く星のような眼差しを灯子に注いでこう告げた。
 「アイリス様、よろしいのですか? 」
 イツキが信じられないというように、目を丸くして首を振る。ピノもオオカミも口々にいさめる言葉を発する。
 「こんなあてのない話はありませんよ」
 「何処に保証があるのです」
 「いや……」
 アイリス様は反論を制してこう主張した。
 「妾とて巫女姫の端くれ、結界を張るだけではなく正邪を見破りわずかながら未来視の能力もある。この者は邪ではない。嘘をついてもおらぬ。造物主様はなにがしかの使命をこの者に託しておられる。額に印の光がある。宝来灯子、妾はここにいる者たちを引き連れ、ジープで塔へと乗り込むつもりじゃ。妾自身が偽姫巫女と対峙せねばと思うておったが、本当にあのものと決着を付けねばならぬのはそなたの方じゃったな。造物主様はそこに望みをかけよと告げておられる」
 灯子の瞳にまた新しい涙が湧き上がってきた。その顔色は、新鮮な酸素を得た炎が燃えるような色に染まった。
 「あ、ありがとう、ありがとうございます! 死んでもお心遣いは忘れません! 」
 「よろしいのですか……」
 イツキが灯子から少しも視線を動かさずに、再びそうつぶやいた。その眼差しには当惑と痛ましさ、まだ晴らせない疑念がせめぎ合っていた。だがもう激しい反論の色はなく、ただアイリス様の決意を確かめるために発せられた言葉であった。アイリス様は言った。
 「妾は決意した」
 「おい、」
 脇に控えていたチューリップが、不安定な息遣いで言葉をはさんだ。
 「明日午前四時に、ここにいるみんなはボクが運転するメガジープに乗って、城壁に備え付けの抜け道から城内に侵入する。君もそこに乗っていくんだ」
 「うん。ありがとう」
 冗談じゃないというように瞳を燃やした相去月子が、唇を尖らせて反論した。
 「でも、そんな、こんな信用でき無さそうな人を連れて行くのですか? わたしは反対です。何かきっと裏に目論見があるのよ、あの偽姫巫女が裏で糸を引いて……」
 「そなたは妾の巫の力を疑っておるのか? 」
 アイリス様の神聖な眼差しがじろりと相去月子をにらんだ。まだ何か言いたかったらしい相去月子は、言葉を呑んでシュンとした。灯子は跪いた姿勢のまま相去月子の顔を見上げて、こんなふうに諭した。その顔には高揚した微笑みさえ浮かんでいたのだ。
 「ねえ、涼雅が戻ってくるとき、あたしは確実に死んでいると思うよ。だからあなたから涼雅を奪うなんてことは出来ないはずだよ。安心して。あたしがあなたのものを不当に得てきたのだとしたら、あたしが死ぬことですべて正しい形に戻るはず。たとえ死ぬことになったって、あたしはみんなが幸せになれることの方を選ぶ」
 動揺も見せず、自らの死の利を諄々と語る灯子の燃える瞳に、相去月子の不安はかえって増していくように見受けられた。イツキもチューリップもアーモンドも、胸を重しで押さえつけられたような苦しげな無表情を作っている。
 「ボクらが憶えてもいない過去のために、本当に命を捨てる気なの? 」
 チューリップの顔はやや青ざめていた。灯子は「うん」とうなずいて力強く微笑んだ。アーモンドは視線を落とし、イツキは灯子の泣きはらした目に、尚も疑り深い視線を注いでいた。だが、そこには隠し切れない痛みの色も見て取れる。
 ピノがぴしゃりと手打ってこうまとめた。
 「そうと決まればお前、灯子と言ったな、明日に備えてそろそろ仮眠をとれ。俺たちもこれから四五時間休む。一番西端の小屋を使え。寝具はまだ余っている。三時起床、四時には進軍を開始する。もし仮にお前の目論見が当たって、死ぬことで町が解放されるとして、これがお前の最後の眠りだ。せいぜい温まってのびのびと眠れ。いい夢を見ろよ」
 アイリス様は一言、「一同下がれ」と告げた。ピノたちを含む全員が退室し、代わりにおそば仕えの侍女が一人入って来る。
 イツキがライフルを構え直して見張りに戻ろうとすると、アイリス様がこう告げた。
 「イツキ、ブノワに交代せよ」
 イツキは白い顔を酩酊したように赤く染めて反論した。
 「いやしかし、アイリス様の護衛は私が……」
 「そなたは明朝、妾とともに死地に赴く。寝不足の護衛に役が務まるほど妾の命は軽くないぞ」
 「は……」
 イツキは胸に甘い牙を突き立てられたような表情を作って、外で控えていた他の青年にライフルを渡し、見張り役を交代した。そしてアーモンドと連れ立って、自分たちの小屋へと何度も振り返りながら向かった。火の焚かれた小屋から屋外へ出ると、灯子の新しく湧いた涙の跡が凍りそうに痛んだ。星空は西半分ほど雲に覆われていた。
 灯子は小屋に案内してくれるチューリップに尋ねた。
 「咲羅と菊之助さんは? 」
 「ああ、二人きりにしておいてあげたんだ。三年も離れ離れで、明日にはもう決戦に臨まなくてはならないからね。せめて今夜一晩だけでも水入らずで過ごせるように」
 チューリップの後ろを、憮然とした表情の相去月子が歩いている。二人は同室であるらしかった。チューリップは灯子に「ピノから西端を使えと言われていたけどね」と言いながら、西から二番目の小屋を案内した。どうやら灯子と相去月子を隣同士で眠らせることにはばかりがあったらしい。灯子はその好意をありがたく受け取った。
 アイリス様の小屋は一応丁寧な白木造りに整えられていたが、灯子たちが休む小屋は、皮も剝いでいない丸木を乱暴に組み立てただけのログハウスだった。壁はざらざらとした灰色の樹皮に、生えた形のままの小枝が幾本も突き出して、油断すると怪我をしてしまいそうだ。
 中央に石で積まれた簡素な炉があった。部屋の灯りは落とされ、そこで赤く燃える炎だけが炉の石や壁の凹凸、その周りで布団にくるまっている人たちの影を映し出している。美しい炎だった。最後の晩をこの炎の周りで過ごせるのも悪くはない、と灯子は思った。火勢は強く、灯子の凍えた体には何よりもありがたかった。
 火を焚いたまま寝てもいいのかなと思ったが、しわがれた老婆が火の番をしていて、今夜一晩勤めるので心配はいらないと請け合った。既にその周りで休んでいたのは四人の女性たちのようだった。部屋の片隅にあと二組の布団が寄せられていた。
 チューリップは布団を敷いで好きに休むように言い、大きくごつごつしたものを呑みこんだかのような哀し気な眼差しでこう言った。
 「死なずに済めばいいね」
 灯子はむくんだ目で微笑み、
 「死ぬのは大丈夫なんだ、ありがとう」
 と言った。
 チューリップは妖精のような緑色の瞳で少しにらむようにした後、相去月子と西端の小屋へ寝に行った。灯子はしばらく火のそばにしゃがみこみ、かじかんだ手と足を温めた。ようやく指先の血流が感じられるほど温まってきたところで、外套を脱いで寝床に潜り込む。二十日ぶりの布団と枕だった。
 ピノは「いい夢を見ろ」と言った。灯子としては到底夢なんか見られないと思った。こんなときにのんきに薔薇色の世界を描けるほど自分はお気楽ではないと。だが灯子は夢を見た。今まで完全な空白だった「栗島クリス」の夢だった。

 「ねえ、明日の土曜日、あたしの家に遊びに来ない? 」
 「栗島さん」はそう言って、赤い唇を薔薇のようにほころばせた。
 ここは校庭の隅に並んだプラタナスの木の下だ。「栗島さん」の白いブラウスに重ねられた紺のセーラーカラーの上に、栗色の巻き毛がポニーテールになってこぼれていた。淡い若草色のスカーフに、木漏れ日が落ちてまだらを描いている。
 夢の中の灯子も、白いブラウスにラインが二本入った紺色の襟を着け、同じ色のプリーツスカートを穿いていた。これは江刈東高校の夏の制服だった。
 灯子と「栗島さん」は、日焼けした肌を労わるヴェールのような、涼しい木陰の中に立っていた。校庭の中央の方からは、バレーボールを追う生徒たちの溌溂とした歓声が響いて来る。
 頭上ではギザギザの楓にも似た葉がさわさわと揺れていた。若葉のように瑞々しくはなく、真夏ほどむせかえる濃厚さのない、だがまだ黄変も始まっていない、大人びた色をした初秋の緑。
 空は透明かつ輝かしい水色で、まだらの雲がぽかりぽかりと浮かんでいた。太陽は中天にある。まだ暖かかったものの空気は寂しく乾いていて、冬の序章としての歩みを踏み出し始めていた。
 「栗島クリス」の表情は灯子が嬉しがるのと同等に、友を家に招くことを喜んでいるかのように見えた。これでは「栗島クリス」は、灯子のかけがえのない親友のようではないか? 霧ヶ峰タウンであんなにも敵意に満ちていた彼女が……。
 「いいの? あたしと仲良くすると栗島さんまでいろいろ言われるよ」
 夢の中の灯子はそう言ってしり込みをする。口元には卑屈で小心な笑みが張り付いている。眉根は中途半端にゆがめられ、胸と腹の間にももやもやとした恐れが乱層雲のようなわだかまっている。
 「うん、いいの。言いたい人には言わせておきなさい。あたしは気にしないわ。明日はママがディプロマットを焼いてくれるのよ」
 「ええ、じゃあ、本当にお邪魔してもいいの? 」
 「ええ。そう言っているじゃない」
 「栗島さん」の栗色の巻き毛を結んでいるのは、校則に違反しない茶色のヘアゴムだった。至近距離から見ると、きめの細かいビスクドールのような肌をしているのがよく分かる。霧ヶ峰タウンに現れた時のように黒みがかったルージュはひかず、その素の唇はナツメヤシのように穏やかな赤色をしていた。今、彼女の瞳孔は、初秋のまばゆい陽光の中自然に閉じていた。
 「よかった。ママが灯子のことよく知りたいって。日本に帰って来て初めてのお友達だもの」
 夢の中の灯子はこらえきれずににんまりと唇を歪めている。
 「ねえ、例のあれ、どこまで進んだ? 」
 「ああ、あれね、ようやく半分まで来た。受験勉強もあるから、一日に一時間ぐらいした時間を割けなくて。でも頑張るよ。大学に受かったらもうちょっと出来るんじゃないかって思うから。出来れば浪人してまた一年間受験勉強する羽目になるのは勘弁」
 栗島さんは淡く笑った。
 「大丈夫よ。灯子は頭がいいから。あたしこそ勉強頑張らないと。英語が問題ないのはいいとして、日本語を使った問題文のほとんどが弱いもの。十二年の海外生活のブランクは痛いわ」
 「ねえ、栗島さん、女優になるにしても学歴って必要? 」
 灯子の質問に「栗島さん」は柔らかな微笑みを作った。そして妹に話しかけるかのような、穏やかな口ぶりで言った。
 「必要よ。わたしはただの可愛いお人形さんで終わりたくないの。知性を役作りに生かせるような、中身の詰まった付加価値の高い女優になりたいの。誰も私の代わりを見つけられないような。灯子だって他の人にはできないものを……」
 だがそこで、思い出のエピソードが完全に終わり切る前にガラガラン、ガラガランという金属音が鳴り響いて、無理やり灯子を現実へと引き戻した。

進軍そして襲撃

 「起床! 起床! 」
 甲高い声の少年が鍋の蓋をレードルで叩きながら、小屋という小屋のドアをあけ放って叫んで回っている。ドアからは極寒の風雪がヒョオオオオッと吹き込んできて、灯子の頬を突き刺し、炉で燃えている炎をぼふぼふと乱した。灯子は目を開けるとむくりと起き上がった。一瞬で現実が押し寄せて来る。
 そうだ、灯子が「栗島クリス」の前で死ぬ一日が始まったのだ。
 だが、今日になってみればなんだか灯子には、それが他人事のよう切実さを伴わない。今朝見たまばゆい初秋の夢が朝もやのように胸に残っていて、自分がすぐにでも家に帰って、学校に通えるような心地さえする。
 灯子は顔も洗わず昨夜脱いだ外套を着こんで、同室の女性たちに炊事寮へと連れて行ってもらった。小屋から一歩出れば、外はまだ闇に包まれていた。灯子も同室の女性たちも、肩をそびやかしながらうつむき、足早に歩いた。
 炊事寮はやはり急普請の丸木小屋で、床は木材ではなく土間のたたきだった。三分の一ほどの広さまで大きなかまどや流しが並び、そことの境の木の衝立から、食事を配っているようだった。
 食器の触れ合う音と人々のざわめきが辺りに満ちていた。大きな鍋からは水蒸気が立ち込め、飯の炊ける匂いが漂っている。大勢の人が木の椀を持って立ったまま食事をしていた。決戦の前の慌ただしい朝食の風景だった。
 忙しく働いている飯場の女性たちの中に、黒髪を頭巾に押し隠した咲羅の姿も見えた。彼女は椀の中に熱く煮え立った雑炊を注いで配っていた。
 奥の人群れのむこうに、灯子の仲間たちと相去月子が固まって立っていた。その表情は張り詰めて、少しの気遣いすら示せぬほど尖り切っている。灯子にはそちらの仲間に加わる勇気が湧かなかった。黙って壁に寄りかかったまま、咲羅によそってもらった雑炊をもそもそとすする。
 「灯子殿、こちらにござったか」
 右脇から菊之助が声をかけた。彼は右手にまるで常温の水でも入っているみたいに、熱々の雑炊を満たした木の椀を持って、灯子に機嫌よく話しかけた。
 「菊之助さん、おはようございます」
 灯子はぺこりと頭を下げた。
 「昨夜はよう眠れたか? 姫様が心配しておられた」
 「はい。夢なんか見られないつもりだったのに夢も見たんですよ。菊之助さんはいつもとお変わりないんですね。今日決戦なのに」
 菊之助は切れ長の目を細めて、頼もしく微笑んだ。
 「それがしは武士じゃ。何時命を奪われるやもしれぬ修羅の世界に生きておる。それがたまたま今日であった。それだけじゃ」
 「咲羅とはゆっくり話せましたか? 」
 「ああ。今生の望みはすべて果たした。思い残すことはない」
 灯子は男の子を叱る、ずっと年上の姉のような顔になって言った。
 「それじゃあ困ります。あなたには使命を無事果たして、咲羅を連れ帰り、幸せになってもらわないと」
 菊之助は太い眉を八の字にして、きまり悪そうに笑った。
 「おお、そうじゃったな、そうじゃった。それがそれがしの望みであった」
 その後で菊之助は、八の字眉毛を一転、苦し気に潜ませ、瞳に月の下に走っていく雲のような陰りを宿してこう切り出した。
 「灯子殿は死ぬるおつもりか? 」
 「はい。きっとそれが根本的な解決になるはず」
 「それはまことにそうであるのだろうか? 」
 菊之助は星空の示す真実を、一心に求めるみたいな目の色をしてこう言った。
 「それがしには、その『栗島クリス』とやらが、灯子殿を追い詰めよう、自壊させようと思い込ませているように思えるのじゃ。何か作為の匂いを感じるのじゃ」
 灯子はびっくりして菊之助の顔を見つめた。
 「あたしはそんなふうに考えたことはありませんでした。全く疑っていなかった。菊之助さんの理屈も分かりますが、『栗島クリス』の言うことは、あたしの心の深い所でとても納得のいくものなのです。特にあたしがもう死んでいるというところは。きっと今のあたしの肉体はずるをして手に入れた何かなのです。だからあたしは本当には自殺することにはならないはずなんです」
 灯子の決意は揺るがなかった。菊之助は死地に赴く戦友を見送るもののふの目をしていた。とうに覚悟を決めていたはずの灯子の心に、一抹の罪悪感が湧いた。菊之助はこんな自分の言うことを信じて、ここまで灯子を連れて旅してくれたのだ。文字通り同じ釜の飯を食った仲間、友情が芽生えないはずはなかった。
 「菊之助さん、申し訳ないです。こんなあたしの言うことを信じてくれて。でも、その御好意を水に帰さないためにも、あたしは何とかして『栗島クリス』の前で死に切って見せます」
 菊之助の目は深い悲しみをたたえていた。
 「そうか、それがしのとやかく言うところではないというか……」
 「菊之助さん、本当に申し訳ないです」
 灯子はぎゅっと目をつぶって菊之助に頭を下げた。菊之助は「よいよい」と言うと、黙って雑炊をかき込んだ。灯子もやはり黙って残りの雑炊を平らげた。

 慌ただしい朝食が終わり、皆が装備を点検し始める。灯子もここまで背負ってきた荷物の中から、どうしても必要と思われるものだけを厳選して、小さめの荷物にまとめ直した。ディアマンテスから渡された、「銀河鉄道の夜」も重ね着したセーターの胸ポケットに大切に入れた。
やがてレジスタンス全員は、小屋小屋の中央の広場に集まった。出撃を前に、短い壮行会が開かれるのだ。
北極星のように冷たい威厳に満ちたアイリス様が見守るなか、ピノが檄を飛ばし、進撃に加わる者四十五人すべてが、士気を高めるために声をあげた。灯子も周りのレジスタンスたちに混じって、決意に満ちた腹からの声を張った。
 全身を覆う毛皮の装備からわずかにのぞいた顔の皮膚に、細かく鋭い雪の粒が吹き付けてくる。ゆうべ寝るときに空の西半分を覆っていた雲は、空全体を覆いつくす雪雲に成長していた。午前四時であれば今頃は、すでに薄明が始まっていてもおかしくはない時刻だ。だが見上げても、不透明な黒に塗りこめられた空に銀色に浮かび上がる、細かな雪以外光るものは何も見えない。数人の男性がライトを高く掲げているその灯りに、吹き付ける雪は鈍く光って落ちた。
 少数の女性たちがここに残るという。咲羅もその中の一人だった。彼女は白い頭巾をとり、そのつややかで美しい黒髪を露わとして、炊事寮の入り口に立っていた。その少し青い目は億光年離れた星を仰ぎ見るように菊之助の目を見つめている。菊之助もまた大きく美しい朝の太陽に向けるような微笑みで、それに返していた。
 灯子たちはいよいよと車に乗り込む。それは特別に大きい十人掛けの軍事車両、この町でメガジープと呼ばれている、上部に小さな砲台を備えた軍用車だった。迷彩色の車体は縦にも横にも大きく、六つあるタイヤは灯子の腰の高さまである。乗るのに難儀して、灯子は菊之助に上から引っ張り上げてもらった。
 ここではチューリップが運転手を務める。助手席ではアーモンドが補佐についていた。二列目にピノとオオカミが砲台を受け持ち、三列目にアイリス様と彼女を守るイツキとカリン、最後列に菊之助と相去月子と灯子が座を占めた。
 灯子を除く全員が、バズーカ砲やライフル、拳銃など、飛び道具で武装している。灯子は自らを殺害する予定のナイフの他に武器を持たなかった。訓練する時間はなかったし、そもそも灯子の負った使命の種類からすると、単身でも「栗島クリス」のふところに潜り込めるように、身軽な方がいいとの判断だった。
 車が走り出す。巨大なタイヤが雪を噛みしめて回転する。内臓をゆする振動ととも、灯子の目に映る景色が移ろい始める。残った人々の間から口々に叫びが起こって灯子たちを追いかけた。その中に「武運長久を」と叫ぶ咲羅の、額から抜けるようなソプラノが混じっていた。

 車は五台しかなかった。元々車両を持って逃げることが困難だったのだ。更に乏しいガソリンを出撃まで温存するため、レジスタンスはほぼ徒歩で行動していた。その代わり、ピノたちは密かに市中と連絡を取り合っていた。こちらの到着と同時に町中が一斉に蜂起する計画なのだという。あくまでも主戦力は市中の住人であるのだ。町では水面下で武器がやり取りされているという。
 アイリス様の車は縦列に並んだ車列のちょうど真ん中を走った。前の車両のテールランプが、灯子の目に赤くにじむ。灯子は何かを思い出しかける。幼いころ、こんなふうに夜道を走る車に乗ったことがある。ちょうど冬で、やはり前の車の赤い光が雪の車窓に滲んでいた。
 思い出の中の冬はいつも雪に覆われていたような気がする。ということはつまり、灯子も寒い地方の出身だったに違いない。かろうじて保っていた記憶の断片がここに裏打ちされる。
 悪路に車はがたがと揺れた。魂までゆすぶるような揺れの中、灯子は自問自答する。自分はいったい何者なのだろう? 「栗島クリス」と自分との間に一体何が起こったというのか? 夢の中であれほどまでに親しげな微笑みを向けてきた「栗島さん」が、今、灯子を木っ端みじんに叩き潰し、すべてを奪い去ろうとしている。何故? あの親しげだった「栗島さん」を、敵意に満ちた「栗島クリス」に変える罪を、灯子は犯してしまったとでもいうのだろうか?  
 灯子は胃液がせり上がって来るような不安に耐え、必死に視線を前に保ちながら、「栗島クリス」の開いた瞳孔と、「栗島さん」の自然に閉じた瞳孔を心に浮かべた。自分は一体何を忘れているのだろう? 忘れていたいことだということだけは確かだ。灯子はやはり罪を犯したのか? 徹底的に痛めつけられなければ償えないようなことをしたのか。
 もしそうならば灯子はなおのこと「栗島クリス」の前で死ななくてはならない。自らが死ぬ時のことを灯子は、ありありと思い浮かべることが出来る。灯子の切り裂いた喉からあふれる鮮血を見て、「栗島クリス」は真実満足した顔を見せる。復讐を果したことに溜飲を下げ、玩具に飽きた猫のように町を、涼雅を開放するだろう。
 チューリップは慎重にコース取りをして、尾根の急こう配を徐々に下り、より標高の低い灌木の中へと車を走らせる。灯子の全身を暗闇が飲み込む。その刹那、真ん中に座った菊之助のむこう、一番右側の相去月子が、両手を組んでまるで何かのヒロインのように、少し上向けた眼差しを潤ませているのが雪明りに浮かび上がった。灯子の魂の最下層を流れる川のようなものが囁いた。――――コレハダレ? シュジンコウダヨ――――あれっと思う。車窓を覆うように灌木の影が流れていく。灯子の当惑は小さなものだった。今はまるで張り詰め切った気分でいるからなのか、幻想と現実が識別できない心地だった。、暗闇と雪灯りに交互に浮かび上がる相去月子が、「涼雅、すぐにあたしが助けてあげるからね」と健気な様子でつぶやいた。灯子は複雑な気分になった。
 灯子は昨日のように彼女の正当性を全面的に受け入れられないでいた。灯子は「栗島クリス」の夢を見て、自分が江刈東高校の生徒だったことを確信していた。自分と「栗島クリス」との間の因縁が、霧ヶ峰タウンを奪われたという事態につながっているなら、自分が涼雅同様江刈市から来たということは、確実なことに思われたのだ。
 だがだとしたら、相去月子は何者なのだろう? 灯子には相去月子が嘘をついているようには思えなかった。彼女はただちょっと意地悪なだけの女の子で、何か企んだり欺いたりしてる気配は見受けられないのだ。却って、好きかどうかと訊かれたら、灯子は相去月子を好きだと答えるだろう。頻繁に自分に向けられる牙や毒も、ちょっとしたスパイシーな魅力だと答えるだろう。
 涼雅はどちらを愛しているのだろう? 灯子と相去月子、どちらの思い出を胸に灯しているのだろう? 灯子が自らの命と引き換えに、町と涼雅を救う決意を下すことが出来たのは、涼雅が中途半端にではあっても、自分の愛を受け入れたからでもある。あの時確かに涼雅は言った、「俺も灯子が好きだ」と。確かにそう言った。
 森林地帯に入っても、既に人の手が入ったらしき道が、細々と前に続いていた。それが、霧ヶ峰タウンのレジスタンス四か月分のなせる仕事であったらしい。車の揺れはいよいよ激しくなった。
 細い道の両側から、高い木立が空を塞ぐように枝を伸ばしている。黒緑のぼろ布のような葉の塊が、雪雲に濁った夜明け前の空と混じりあっている。車窓から見上げる灯子の額に影が落ちる。相変わらず相去月子は手を組んで目を潤ませている。そして灯子の視線に気づくと、舌打ちせんばかりに口元を歪めてにらみつけた。
 ――――チョットイジワルソウダネ、イマハコレックライガハヤリナンダヨ――――再び灯子の内側を流れる記憶が囁いた。だが、それも身近に感じるせせらぎが意識化できないように、灯子の中でわずかな手触りだけ残して流れ去って行った。
 ウオオオオオオオー、ウオオオオオー、遠くの方から風に切れ切れに乗って、雪オオカミの吠え声が届き始めた。灯子の体の中心がさっと冷たくなり、反射的に肩に力が入る。目線は声の源を探るように落ち着きなく彷徨いだす。
 雪オオカミの吠え声は数を増やし、一声鳴くごとにずんずん近づいて来る。灯子の背中の嫌な汗は、どんどん冷たくなってゆく。やがて道幅が少しだけ広い所に差し掛かった時、道なりに爛々と光る赤い目玉が並んでいるのが見渡せた。思わず「あっ」と声をあげると、カリンがハスキーな声に自信を宿して灯子を鎮めた。 
 「大丈夫よ、心配ないわ。どういう訳なのか偽姫巫女が町を占拠してからこっち、雪オオカミたちはわたしたちに協力的になったの。灌木を刈ったり、木を切り倒したりするときにも力を貸してくれたのよ。食べ物だって町から調達してきてくれたの」
 灯子は目を見張って、ルビー色の街灯のように光る雪オオカミのまなこを眺めた。
 五台のメガジープが通り過ぎると、雪オオカミたちは駆け足でそれに続いた。彼らもこの襲撃に加わり、人間たちのために町を奪還するとでも言うのだろうか? 迷いない足取りで雪オオカミは車列の後に続く。墨汁のような闇に包まれてよくは見えないが、その数三十頭はいるだろう。
 アイリス様が白銀のおくれ毛を風になびかせながら、車窓から顔を出して叫んだ。
 「ご助力申し出るというか? 」
 先頭三頭の雪オオカミが低く吠えて答えた。それは灯子にも敵意が無いとわかる吠え方だった。
 「感謝痛み入る」
 アイリス様はそう鋭く呟いて頭を下げた。
 背後から粛々と付き従う、雪オオカミの赤いまなこを見る灯子の脳裏に、ふと菊之助のセリフが浮かんだ。
 ――――あの魔物は襲うものを選んでおる――――
 今まで気にも留めなかった雪オオカミの、行動原理のようなものに疑念が湧いてきた。
 あの日、灯子を追い立てた雪オオカミは、どうして灯子を選んであの町へと追い込んだのだろうか? そして同じように、どうして灯子の仲間たちを選んで追ってきたのだろうか? それは脅したり命を奪ったりするのが目的ではなかったのではないか? 追いついてもなかなかとどめを刺さないのは、並外れた残忍さのなせる業だと思っていたが、そうではなく、灯子や皆を霧ヶ峰タウンに導くためではなかったのか? 
 事態が進めば進むほど、分からなくなることが多くなる。灯子たちはまだ肝心な答えにたどり着いていない。謎という大樹の影に差し掛かったばかりで、まだそのゆるぎない真実である幹からは程遠い。
 ふと思いついて、灯子は菊之助に尋ねた。
 「菊之助さん、あの文書、『緋桜伝』は持っているんですか? 」
 「ああ。ピノ殿からいただいた、これに入れて持ってござる」
 菊之助は鋼の書類ケースを掲げてこう答えた。すると相去月子がこんなことを言いだした。
 「ねえ菊之助さん、その『緋桜伝』とかいうの、あたしにも見せてくれませんか? 」
 アイリス様も後ろに顔を出してこう口をはさむ。
 「妾もう一度見たい」
 菊之助は金具を外して、油紙に包まれた白紙の紙束を取り出した。本当にタイトルと頁と(了)以外全くの白紙。いくら目を凝らしても光沢紙のつるつるとした表面に、文字が印字されていたという質感違いの跡さえも見いだせない。相去月子が言った。
 「この中に涼雅へと届けられる魔法の力が宿っているのね」
 「うん、確かに感じる、強い力じゃ。恐らくはこの世界の根幹にかかわる。定かとはわからぬが、文字の形をした魔力がここに込められておる」
 そうアイリス様も合わせた。
 灯子は菊之助の左脇から、「緋桜伝」のタイトルの黑いフォント文字を眺めた。灯子にはそこに込められているという魔力など感じ取ることは出来ない。相去月子に与えられているような、その魔力が解放された末の明るい未来など無い。
 それなのに台風の前触れの風が風見鶏をくるくると回すように、灯子の心の中がざわざわと騒いだ。そして額の上に冷たい雫がポタリと落ちてくるような、説明不能な震えの感覚と同時に、紅い先端の花びらが鮮やかに開くかのようなひらめきが湧いた。
 ――――それは元禮帝の御世のことだった。その冬は厳しく、雪解けを待たずして力尽きる領民も多かった。ようやく迎えた雪解け四月、館では御仏に鎮魂を祈願するための法要が……――――あれ、これはなに? ――――
 ひらめきは灯子の額に落ち、からだ全体を震わす響きとなって玲瓏と鳴ったが、それは一瞬で過ぎ去った。それから先は何も思い浮かばなかった。ただ今浮かんだワンフレーズだけが、繰り返し繰り返し頭の中にこだました。
 ――――それは元禮帝の御世のことだった。その年の冬は厳しく……――――
 元禮帝という皇帝また天皇の称号も灯子は知らない。記憶がない灯子にも、明らかに習ったことないと断言できるような類の知識だ。これは何処から来たものなのだろう? 何故こんなフレーズが灯子の頭の中にひらめいたのだろうか? そして、この美しい胸の響き方は一体何なのだろう? 灯子の心が楽器になってシャンシャンと打ち鳴らされたみたいだ。
 「アイリス様、そんなに身を乗り出すと危のうございます。前をお向きください」
 イツキがアイリス様の右脇から、秀麗な顔に忠実なシェパード犬のような表情を浮かべて諫めた。
 「イツキ、チューリップは運転が上手い。そなたも心配症だの」
 「私は目の前でアイリス様の御身が傷つくところを見たくないだけです。命に代えてもお守りしますから、どうか身を慎まれますよう」
 イツキの言葉に、脇で見ているカリンもピノも相去月子も、皆一様にキャラメルで歯をねばねばさせているような表情を作って淡く笑っていた。ひらめきから一瞬で現実に引き戻された灯子も、やはり友情を込めて淡く笑った。イツキの片思いはもう秘密でも何でもないのか。アイリス様は一体どころまで気付いてらっしゃるのか? 
 「イツキは本当に心配性じゃ」
 アイリス様はそう言って、不思議に無表情な顔を作った後前に向き直り、白いうなじを逸らして右脇のイツキにそっぽを向けた。その押さえた息遣いに白銀のおくれ毛が淡くなびいた。ああ、もしかしたならもうイツキの片思いではないのかもしれない。だが……、灯子の胸に一抹の寂しさが舞う。
 計画通り灯子が「栗島クリス」の前で死んだなら、イツキは家に帰ってしまうのだろうか? 涼雅が解放されれば菊之助は「緋桜伝」を彼に届けるだろう。そして「眠れる核」である涼雅が目覚めればこの世界を覆う雪と氷の呪いは解け、灯子の仲間たちは家に帰ることになるのか。イツキも、こんなにも想っているアイリス様を町に残して、一人プロヴィデンスに帰っていくのだろうか?  
 今ハンドルを手にちょっと振り返ってにやにやしているチューリップも、「姉さん前前」と口やかましいアーモンドも、やはり両親が待つアイルランドに帰っていくのだろうか。もちろん咲羅は菊之助と自分たちの時代に帰っていくのだろう。
 涼雅が相去月子と江刈市に帰っていくことになれば、もう灯子には帰りを待っている人、その死を悼んでくれる人すらいないということになるのか。自分がこうであるはずと信じていた場所に、相去月子がすっかり収まるのなら、大切な人たちにとっての灯子の想い出は永遠の不用品、用済みのガラクタとして宙に放り出されて行ってしまう。
 数か月前までゆるぎなく、固いものだと信じてきたそれまでの生活の何という脆さ儚さよ! こうやって灯子は死に、みんなはばらばらに帰っていく。
 この三年間の生活の意義とは何だったのだろうか? 浴びるほどの安楽にまみれていた麗しき日々。みんなと共に過ごせて灯子は幸せだった。本当にここで一生を終えてもいいと思っていた。だがみんなの記憶の中にはもう灯子はおらず、代わりに相去月子が居座っている。
 涼雅はどうだろう? 涼雅も灯子のことを忘れ去っているのだろうか? 灯子との想い出が完全に相去月子との思い出にすり替わって、相去月子を愛していることになっているのだろうか? 
 予定通り灯子が死んで涼雅が助け出されるそのとき、涼雅は一体どんな顔をするのか? 見も知らない女が自分のために死んだと聞いて、当惑した表情を見せるのだろうか? 墓に白菊の一本でも供えて手を合わせてくれるだろうか? だがそれよりも何よりも、灯子が一番欲しいのは、涼雅がその白菊の上に落とす一滴の涙なのだ。
 だが、灯子はそんなささやかな見返りすら求めるまいと自らを戒めた。涼雅を、みんなを家に帰してあげられるのは自分だけだ。決して相去月子ではない。灯子は涼雅をみんなを愛している、だから笑って死ねる。
 灯子は一回洟をすすって目を袖で拭い、前だけを見つめた。そしてお守りのように、セーターの胸ポケットに入れていた、「銀河鉄道の夜」を手で探った。厚紙の固い角に手が触れた途端、鮮やかな紅の先端の花びらが開くかのような感覚が再び訪れる。
 ――――法要はにぎにぎしく、赤や青色の仮面をつけた剣舞が、わらじ履きの脚を高く宙に持ち上げて――――
 そのひらめきもまたハツカネズミの瞬きのように過ぎ去った。当惑しながら前の車のテールランプを見つめていると、菊之助がいぶかし気に尋ねた。
 「灯子殿、どうなさった? 」
 「いえ、いいえ、何でもないんです。ちょっと変な考えが……」
 菊之助のむこうでは、相去月子が不審そうな顔で凝視している。
 灯子は自らの体の中に、太古の地層に隠されたクジラの化石のようなものがうずまっているのを感じた。今、それはほんのスクリューのような尾の先端が顔を出したに過ぎない。だが、そこから連なるように誰にも想像がつかないくらい巨大な、常軌を逸したスケールのものが眠っている。
 あるいはそれは永久凍土のマンモスに近いのかもしれない。毛皮も血も肉も、繊細な角膜に至るまで生きていた時そのままに保存され、掘り起こされるや否や大きな足で踊りだすかのような、激しく声を上げて歌いだすかのような、巨大で荒々しく、迫るような勢いを持った何か……。それが、凍った土の中で再びの鼓動を上げ始めた。
 西巻の風が車窓に雪をばらばらと吹き付けてくる。灯子の目は闇色の空を見つめていたが、その眼差しは自らのうちに注がれていた。自分は自分の謎を解かなくてはならない。この灯子のうちに眠っている巨大なものもやはり、「栗島クリス」の謎とつながっているのだろうか? 
 ―ボク、オネエサントガイイナア、エ、アタシ? ベツニイイヨ―――
 風の唸りが耳の中で渦を巻いた。
 
 三十余匹の雪オオカミを従えた五台のメガジープは、吹雪のため上部まで見渡せない第二の城壁の下までたどり着いた。
 灰色の城壁は今までに灯子が見上げたどんなそれよりも、冷たく陰惨で心ふさがるような色をしていた。その下部は袴のような雪で覆われ、上部は石積みと石積みとの目に雪が入り込み、この町に住んでいるのはあの勤勉で心優しい人々ではなく、氷のような心を持ち、血と殺戮とを好む、おぞましい姿をした魔物であるかのようだった。
 ピノが素早く降り立ち、巧妙に隠されたタッチパネルで何か数字を打ち込んだ。重い音を立てて城壁の地面の下がトンネルの口を開けた。そこは内部への抜け道となっていた。五台のメガジープと雪オオカミたちは、慎重にそこを潜り抜けた。
 地上に出ると、そこには数台のジープが止まっていた。待機していたのは、町に残った軍人や保安官たちだった。彼らが町との連絡役だったのだ。少しだけ膨れ上がった戦闘要員は雪オオカミたちを従え、隊列を組むようにして農業区の畑の中を進んでいった。そして暗闇を何条にも照らし出すヘッドライトの中に、かつての緑の楽園だった農業区の惨状があらわとなっていった。
 これがあの美しかった田園地帯だろうか? 転作を繰り返す田畑が創り出す緑と褐色のパッチワーク、そこを区切る木々や小川や畔、のんびり草を食んでいた牛や羊や勤勉なロバ、つやつやと磨かれて輝いていたトラクターや農業車、全てが何の面影もなく消し去られていた。本来であれば豊かな実りの季節を迎えているはずの今、そこは一面灰色の雪で覆いつくされていた。
 霧ヶ峰タウンの食糧は、基本的には自給自足性だった。これでは今までのように町に糧を供給することは不可能だ。このままでは町の人々は遠からず飢えて死んでしまう。
 灯子は改めて町全体が一斉蜂起するに至った覚悟に、身が引き締まる思いだった。住民たちは皆命がけなのだ。勝利しなくば命は繋がらない。
 灯子は、自らの死の意義に、改めて決意を固めた。灯子はしっかりとやらなければならない。必ず「栗島クリス」の前で死に切らなくてはならない。どれだけ理不尽な運命だとしても、この町の人々のためだったらやれる。たとえ「栗島クリス」の要求が如何に酷いものであっても、町の人々がどんなに灯子の犠牲に鈍感であるとしても。
 灯子は唇をしっかりと結んで、湧き上がってくる涙を抑えた。泣いてくれる人がいなくとも、その存在がなかったことのように忘れ去られようとも、みんなのために、世界のために、灯子は死ななければならない。灯子は歯を食いしばった。

 第一の城壁の下でもピノが車を降りて、やはり巧みに隠されていたタッチパネルを操作した。軋るような重い音を立てて城壁の下部が開き、総勢六十人のレジスタンスたちの乗る車が、速足で駆ける雪オオカミたちを従えて短いトンネルをくぐった。
 灯子の車はそのほぼ真ん中ら辺を走った。前の車のテールランプと、後ろの車のヘッドライトが、決意に大きく見開かれた灯子の瞳を突き刺した。やがて車列は再び地表に顔を出した。
 そこは東区の外れの、ややさびれた地区にある自転車置き場の脇だった。屋根は雪にひしゃげ、沢山の錆びた自転車がそのまま凍り付いて打ち捨てられていた。その向かいの木造の馬宿にはもはや一頭の馬もおらず、その前の通りに設置された乗合馬車の停留所も、雪に覆われ裏寂しく立ちすくんでいた。それらの光景がようやく差し染めた夜明けの光に、白々と浮かび上がっていた。
 「おかしいな」
 ピノが囁いた。
 「予定ではここにこの地区の住人ほぼすべてが武器を持って集まっているはずだ」
 町には人の息吹と言うものが感じられなかった。住人の全てが雪と氷に追い出されてしまった、ゴーストタウンといった趣だった。ピノたちは顔を曇らせて、自転車置き場の奥に、馬宿の屋根の下に、武器を手に手にこちらが気付くのを待っている、主戦力の住人たちを探していた。
 ヴウウウウウウウ、車列に続いて地表に抜けてきた雪オオカミたちが口々に、敵意に満ちた低い唸り声をあげた。振り返って窓から見やれは彼らはタワシのように全身の毛を逆立てていた。
 まだ馬宿の中にわだかまっていた夜の名残の闇の中に、真っ青な光が閃いた。それはまるでLEDの電飾のように数多煌めいて、それぞれ自立して明滅した。そこから闇を煮詰めたかのような真っ黒い何かが、じわりじわりと這い出してきた。
 「まずい! 」
 オオカミのつぶやきは相変わらず小さかったが、鋭くとがってひりひりとしていた。
 馬宿の暗闇の中から這い出してきたもの、それは雪オオカミたちと同様に全身の毛を逆立てた、灯子が今までに見たことがない、汚らしく真っ黒い毛並みの巨大なオオカミたちだった。青い電飾のように輝いていたのは、暗がりに潜んでいた彼らの両のまなこだった。
 ウォウウォウウォウウォウ、背後から車列の脇をすり抜け、または上を飛び越えて、雪オオカミたちがとびかかった。漆黒のオオカミたちも、メガジープを半分押しつぶさんばかりに飛び上がって応戦する。
 「見て、上を! 」
 アーモンドが鋭く叫んだ。その言葉通りに見上げれば、停留所の脇に並んだポプラの並木に、何か黒っぽいものが無数に吊るされていた。よく見るとそれは、黒っぽい毛皮の防寒具を着こんだ人間たちだった。まるで大きな冷凍のマグロのようにかちかちになって、言葉もなく鈴なりにぶら下がっている。
 「まずい! 」
 ピノが叫んだ。
 「こちらの計画が事前に察知されていたの? 」
 カリンが呆然とつぶやく。その言葉が完全に消えないうちに、ドオオオオオオンという、遠い爆音がかすかに響き、ここから望む東の峰に土煙が立った。
 「姫様! 」
 菊之助の悲鳴混じりの叫びに、灯子も気が付いた。あれは、丁度レジスタンスのバリケードや小屋がある辺りではなかったか? 灯子の顔からも血が引いて行った。
 「咲羅……」
 「動揺するな! まず自分の身を考えろ。俺たちは何としてでもここを突破しなくてはならない! 」
 ピノが鋭く叫んだ。周りに目を戻せば、町の方からは更に圧倒的な数の漆黒のオオカミたちが押し寄せてきていた。そのくちは血に汚れ、牙の先には頭髪や衣類の一部がぶら下がっていた。彼らがやって来た町の方からは、何の叫びもどよめきも悲鳴も起きなかった。ただ生きているものがいないことを示すかのように、静まり返っているだけだった。
 「チューリップ、走れ! 」
 ピノが叫んだ。チューリップはすぐさまアクセルを踏み、雪オオカミと黒オオカミのもつれあっているただなかを突っ切るように、メガジープを急発進させた。
 相去月子が悲鳴を上げ、イツキとカリンがアイリス様の体の上に覆いかぶさった。灯子は身を丸めて舌を噛まないように歯を食いしばった。菊之助が相去月子と灯子の上に両腕を広げて庇ってくれた。
 前を走るメガジープの上に黒オオカミが飛び上がり、巨大な前脚で砲台をつぶした。乗員たちのくぐもった悲鳴が響いた。頭を噛まれた人が三名、車内から引きずり出されて行った。朝日に真っ白く輝きだした新雪に、どす黒い血の点々が滴る。更に後ろからも金属の破壊される音ともに、同様の悲鳴が響き渡った。
 チューリップの運転は巧みだった。上から飛び掛かろうとする黒オオカミの前脚を小回りに避けて、急展開を繰り返しながら阿鼻叫喚の修羅場をくぐり抜けてゆく。ピノとオオカミが大砲を滅茶苦茶な角度に乱射して、すがりくる黒オオカミたちを退けている。灯子はひたすら身をかがめ、チューリップが何とか突破してくれることを祈った。自分は何としてでも「栗島クリス」の前にたどり着かなくてはならない。
 ガッシャーン、中列右の窓ガラスが突っ込んできた黒オオカミの前脚で砕けた。イツキがすかさずバズーカ砲を放つ。だがそれを鼻先で逸らした黒オオカミが、巨大な頭を割れた窓から突っ込み、アイリス様の白銀の三つ編みに喰いついた。アイリス様の細い首がのけぞり、体全体が引っ張られた。
 「アイリス様、後でどんなそしりも受けます」
 イツキがそう叫んで腰のナイフを抜き、アイリス様の太い三つ編みを根元から断ち切った。短くなった白銀の髪がぱっと広がる。アイリス様の体は反動で左にもんどりうった。そしてアイリス様の三つ編みを吐き出した黒オオカミは、代わりにイツキの右腕に喰いついた。そのままイツキの体は車外に引きずり出される。
 「イツキ! 」
 灯子は悲鳴を上げた。
 「イツキ! 」
 相去月子もカリンも、同様に叫び声をあげた。
 「くそ! 」
 ピノとオオカミがイツキを引きずり出した黒オオカミを狙うが、それは車が走り出すのと逆方向に、赤黒い血を滴らせたイツキの体を引きずって駆けて行った。チューリップは速度を緩めることは許されなかった。
 「イツキー! 」
 アイリス様が悲痛な叫び声をあげた。
 「イツキー、嘘でしょ! 」
 灯子も再び叫んだ。だが、イツキを案じている暇は灯子にもなかったのだ。はっと窓を見やれば、巨大な黒オオカミが鼻面を近づけて迫り、その大きな右足で灯子の左脇のガラスを木っ端みじんにした。そのまま灯子のコートに爪を引っかけて、たちまちのうちに灯子の体を血で穢れた雪の上に引っ張り出した。
 「灯子殿! 」
 菊之助が叫んだ。だがメガジープは速度を落とさず、灯子を置き去りにして走り去っていく。灯子の頬に乾いた細かな雪の粒が触れ、全身に激しい痛みが走った。交通事故に遭遇して体が投げ出されたのと、ほぼ同じ衝撃が灯子の体を傷めつけた。特に黒オオカミに引っかけられた右肩の痛みは鋭く、どうやら脱臼でもしているらしい。
 痛みで遠のきかけた意識を必死に奮い立たせ、灯子は懸命に目を開いた。もうすでに乗っていたメガジープのエンジン音も遠い。口元を血糊でべったりとさせた黒オオカミが、牙をむきだして残忍に笑っていた。灯子は何も考えられないままに立ち上がろうとした。自分はたとえ這ってでも、「栗島クリス」の元へとたどり着かなければならない。
 ウウウウウウウウー、そう唸り声をあげて両脇から雪オオカミが、灯子を庇うように飛び掛かってきた。たちまちのうちに銀と黒の毛皮が、まるで陰陽図のように絡まり合って噛みつき合う。灯子は必死に前に踏み出した。少し体に力を入れただけで全身が痛んだ。三歩あるいたところでたまらず膝をつく。灯子は崩れ落ちながらも必死に両手を前に突き出した。痛む体を引きずって雪の上に這う。
 だがそこで力尽きた。灯子の倒れた上に雪オオカミと黒オオカミが、お互いの毛皮を血で汚しながら凄まじい戦いを繰り広げている。
 ―――涼雅、涼雅、みんな……――――
 灯子の意識はそこで遠のいた。

 ――――ネエ、イツカイッショニツクリタイネ。イッショニ? ソウイッショニ。ドウヤッテ? コラボダヨ。アタシトジャンルトキミノジャンルガキョウメイスルンダ。ボクノデイイノ? タトエバ、オニイチャンジャナクテモ…… キミダカラインジャナイ。ジャア、ヤクソクシテ、キット……――――

裏切ったのはむしろ……

 「あなたがうらやましいわね」
 「栗島さん」が何の前触れもなくぽつりと言った。
 彼女はバス停からバス停の坂道の途中で、右側に大きく開けた団地の光景を見下ろしながら、白いガードレールの上に黒いコートの肘を持たせかけていた。
 冷たい風が吹いて来て、「栗島さん」の栗色の巻き毛がふわふわとそよいだ。灯子の焦げ茶色のボブも、同じ風にさらさらとなびいている。灯子は二人の間の空気が、自分の乏しい理性では分析することのかなわない哀しみを含んでいることを感じ取った。灯子は「栗島さん」の後姿をじっと見つめる。
 小高い丘に囲まれた小さな谷間には、十棟の県営住宅が立ち並んでいた。その足元に、開発が始まってすぐに建てられたと思しき戸建て住宅が不規則に並んでいる。家々の隙間には真っ赤だったり、煌めくような黄色だったりする秋の木の葉が盛りを誇っていた。今、その深く鮮やかな色どりは、黄昏始めた空気により深みを足されて燃えるようだった。
 灯子と「栗島さん」は、紺色のセーラー服の上にウールのコートを羽織っていた。プリーツスカートからのぞく脚には、薄手のタイツを履いている。膝の間をすり抜ける風は、すでに半分以上冬に足を突っ込んでいるかのように冷たい。
 「うらやましいって何が? 」
 灯子は鼻白んで聞き返した。美貌もお金も才能も、何もかも持っている「栗島さん」が、何故こんな自分なんかをうらやましがるのか。
 「0から有を作り出せる」
 「栗島さん」は右手を握ってまた開くのを繰り返した。そんなふうに言う「栗島さん」の薄茶色の目には、今まで灯子に見せたことのない憂いが沈んでいた。少し思い詰めているようにも見えた。
 「栗島さんだって演技には……」
 「でも0からではない」
 珍しく灯子の言うことを遮って、「栗島さん」が声を張った。「でも誇りは持っているけど」と弱弱しく付け足す彼女の眼差しは、菫色に染まるアパートの外壁を見つめているように見えながらその実、世界のどこも見えていないかのようにも見えた。その薄茶色の目にこの世はどんな風に映っているのだろう? 灯子は「栗島さん」が見ているものと同じ世界を見たいと思った、だが悲しいことに、自分には到底無理なのだということも分かっていたのだ。
 「だって、栗島さんはオーディションである程度の所まで行く人だし、あたしは多分このまま死ぬよ」
 「もったいない! 」
 「栗島さん」は短く一喝した。思いもかけない剣幕にびくりとしながらも、灯子は当惑に唇を歪め、卑屈で小心な声をさまよわせた。
 「あたしの才能はゴミみたいなものだよ」
 「そんなことない。あなたはもっとみんなに認められるべき」
 灯子の反論をシャットダウンしておきながら、「栗島さん」は両手をガードレールの上に揃えて、眼下のアパート群を見下ろしていた。瞳の憂いはさらに凝って、彼女が今まで決して見せてこなかったような心細ささえ漂わせていた。そして冷たい空気の中赤く染めた鼻をスンと鳴らして、ヴァイオリンが難しい音程をさまようかのような声で言った。
 「ねえ、灯子、もしもあたしがあなたの才能を買っていて、それを認めようとすることが深い嫉妬心を掘り起こしたら、あなたはあたしを軽蔑する? 」
 「どういう意味? 」
 「栗島さん」はそれきり口を閉ざした。カラスが鳴き交わしながら群れを作って飛んでいる。その黒い集合体は、それ自体一つの生き物のように、ぐにゃぐにゃと変形を続けて丘から丘へと飛び交っている。灯子は首をかしげながらも、心細げにそよいでいる「栗島さん」の栗色の巻き毛を眺めていた。
 向こう側の丘の縁を走る古い玩具みたいな路線バスが、ライトを黄色く浮かび上がらせながら走って行く。二人は黙ってそのバスが、ミニチュアの町のように建ち並ぶ丘の家々の間に見えなくなるのを見送った。

 メガジープから投げ出された後の灯子は、立て続けに短い夢を見ていたようだった。
 「栗島クリス」の夢も見たし、そうではないものもあった。灯子がほんの子供の頃の思い出も出て来たし、今まで空白だった両親に関する記憶もよみがえった。灯子は自分がごくごく平凡な、暖かい家庭で育ったことを思い出した。両親と兄と弟、クリスマスケーキを見てはしゃいでいる情景も夢に出てきた。
 うすうす感づいていたことだったが、家族でお祝い事をするとき、必ず灯子へ贈られるプレゼントは本だった。灯子とよく似た顔立ちの母親は、待ちきれず包み紙を外す灯子にこう言うのだ、「結局灯子はこれが一番喜ぶから」
 灯子は決してプレゼントを本棚の飾りにはしなかった。その日のうちに開いて、熱心にページを繰った。うっとりと頬を染めて本をめくる灯子を見る父親も母親も、とても幸せそうに微笑んでいた。兄と弟が周りでレスリングの真似事を始めようと、読書する灯子の周りの静かな空気を乱すことは出来なかった。灯子の心は、魂は、古代から超未来、宇宙の果てから深海の底、魔物が跋扈する国から可愛らしいロボットの国まで、自由自在に飛び回った。いくら打ち込んでも飽きるということはなかった。
 十歳の誕生日に贈られたのは「銀河鉄道の夜」だった。その表紙は、蒼白い銀河と愁いを浮かべた少年を繊細に描いたものだった。版元は倉島書房というマイナーな子供向け著作の出版社。その全てが、ディアマンテスから渡されたものと全く同じものだったのだ。
 あれから灯子は幾度となくその本をめくったので、ページは黄ばみ背表紙は丸くなった。その古びた本は今も実家の本棚に大切に並べられてあるはずだ。それが今灯子の胸ポケットの中に、思い出の中から取り出されたかのような新品のまま息を潜めている。心臓の上で暖かく鼓動を受け止めている。
 何故、灯子は本が怖いと思うようになったのだろう? その答えとなる記憶はなかなか浮かんでは来なかった。思い出そのものにチェーンを巻き付けて錠前で閉めているように、灯子の心がそれが再生されることを拒んでいるのだ。
 何故? 灯子の問いに灯子が答える。
 ――――心が壊れてしまうから――― 

 どれほどのときが経っただろう? 灯子の意識は浅いまどろみの水面から、一瞬、また一瞬と浮かび上がるようになっていた。それは救命ブイを付けた人が、波をかぶりながらも繰り返し顔を出す様にも似ていた。空気を付けた体は浮かび上がる。眠りはいつか覚める。それは厳格な決まり事だ。
 一瞬の目覚めが連続した意識の流れとなるにつれ、灯子は自分の体が誰かの大きな背中に負ぶわれているのに気が付いた。とても温かく、居心地のよい背中だった。
 まだぼんやりした頭でこう思う。はて、自分を負ぶっているのは誰だろう? お父さんのようでいて、お母さんのようでもある。どこかで嗅いだような香水の香りがするけれど。灯子はしばらく瞳を閉じ、舞い戻って来たばかりの記憶たちの余韻に浸っていた。
 灯子のノスタルジーを追い越して、意識はさらに覚醒していく。雪オオカミたちと黒オオカミたちの戦いが脳裏によみがえった。血の匂い、アクセルを踏むメガジープの軋み、車外に投げ出された衝撃、全身が砕けたかのような痛み。はっとして灯子は左肩に力を入れた。痛みがきれいさっぱり消えていた。
 さらに雪と氷の地獄と化した町の光景がよみがえった。急ハンドルを切りながら、不安げに見開いていたチューリップの大きな瞳、懸命に方向を指示していたアーモンドの華奢な背中、灯子を庇ってくれた菊之助の力強い左腕、咲羅が待っている辺りから響いて来た爆音、そしてイツキ、黒オオカミに引きずり出されたイツキは一体どうなったのか!  
 何故自分はここにいるのか? 灯子は身震いしてはっきりと瞼を開けた。鮮やかなピンク色に染めた巻き髪が灯子の鼻をくすぐっていた。それは広くいかつく温かい背中だった。そうだ何故気が付かなかったんだろう? これは、エスメラルダが愛用していた香水の香りではないか。
 「気が付いたかしら灯子」
 野太く慈愛に満ちた声でエスメラルダが尋ねた。
 「エスメラルダ! 」
 灯子は湧き上がって来る涙に割れた声で叫んだ。
 「エスメラルダ、イツキが、イツキが……」
 「大丈夫よ」
 背を向けているため顔の見えないエスメラルダだが、その穏やかで自信に満ちた微笑みが浮かぶかのような、大地のようにどっしりとした声だった。灯子は全身から、がちがちに気張っていた力が抜けて行くのを感じた。そのままエスメラルダの、フローラルムスクの漂う背に顔をうずめて泣きじゃくった。
 「大丈夫よ灯子、アタシ達はみんな造物主様が守ってくださる」
 「でも、でも……」
 「灯子、体は痛くないかしら? 」
 灯子は再び思い出して自分の左肩を見た。あれほどの激痛がすっかりと抜けているのは、一体どういう訳なのだろう? 灯子が言い淀んで唇を開いたまま固まっていると、エスメラルダが言った。
 「あなたは死なない、死ぬはずがない」
 泣きじゃくりながらも、灯子は不思議と心が静まるのを感じた。自分がここにこうしているということは、まだ「栗島クリス」の前にたどり着く可能性が消えてしまったわけではない。自分のやるべきことは変わっていないではないか。
 灯子は歯を食いしばって、エスメラルダのピンクの髪で涙を拭いた。動揺が収まると自分がいま置かれている状況がひどく気になるようになった。ここは何処なのだろう? 
 灯子を負ぶったエスメラルダが歩いているのは、とても暗い場所だった。空気はよどみじんみじんみりとしけているのに、湿気の全てが粉のように凍り付いている。カビと珪藻に雪をまぶしたみたいな臭いがする。
 見上げれば、頭上三メートルほどのところからわずかに白い光が差し込んでいた。それは一つの道であるかのように、幾つも連なって続いているのだ。その灯りの元に辺りを見回せば、ここは石積みの大きな地下空間であるらしかった。見下ろせばエスメラルダの大きな足が、凍った水の上を踏んで歩いている。
 「ここは? 」
 「霧ヶ峰タウンの地下水路よ。アタシたちは今丁度、すずかけ通りの下を歩いているの。このまま中央区を目指すわよ」
 灯子はウサギのような目を見張った。今更ながらとても不思議なことに気が付いたのだ。
 「エスメラルダ、あたしのこと憶えているの? 」
 エスメラルダは慈しみ深い吐息をついた。
 「ええ、もちろんよ。宝来灯子、203号室の住人」
 「何でエスメラルダだけ……、みんなあたしのこと忘れちゃったのに」
 「それはね、アタシが魔女だからよ。『癒しの魔女エスメラルダ』。ディアマンテスには会えたかしら? 」
 灯子は星灯りの照らす、ディアマンテスの紫の髪の毛を思い出して息をのんだ。
 「ディアマンテスと知り合い? エスメラルダが? 」
 「ええ、アタシたちは造物主様よりの重い使命を負った魔女だから、あの混血の女の魔力には屈しないの」
 「重い使命……、魔女……、わかったような、わからないような……」
 「それでいいわ。それより灯子、自分の足で歩けそうかしら? 」
 エスメラルダの言葉に、灯子は素直に背中を降りた。どういう訳なのかは知らないが、もう体は痛くないのだ。灯子も最寄りの町で買い替えたまだ擦り切れていない皮のブーツで、表面のざらついた氷を踏んで歩いた。エスメラルダは灯子のすぐ前を歩いている。地上から差し込む光の弱さに目が慣れてくると、灯子にもエスメラルダがピンク色に染めた毛皮のコートを着ているのが分かった。
 灯子は最初はおっかなびっくりに、体に痛みが走らないかどうか確かめながら歩いていた。だが本当にどこも痛くないことが分かると、背が高いために一歩一歩が大きいエスメラルダに合わせて、ストライドを大きくして急いで歩いた。イツキや咲羅の安否や、囚われているという涼雅のことが案じられて気が急いていた。
 エスメラルダは複雑に交錯する地下水路の道筋を知っているようだった。分かれ道や合流地点でも、少し考えただけでどちらに進むのかを決めることが出来た。その穏やかで自信に満ちた表情に、灯子は自分の命運を丸ごと預けた。安堵してゆだねながらも、灯子のひりひりとした決意は氷のように研ぎ澄まされてゆく。咲羅やイツキの安否についても、これから自分がなすことに意義があるのなら、結果さえ塗り替えられる気がした。そうだ、自分は「栗島クリス」の前で……。灯子は腰に隠したナイフを探った。
 「灯子は死ぬつもりなのかしら? 」
 灯子の思考を読んだかのようにエスメラルダが言った。灯子は唇を歪めて弾かれた様にナイフから手を離した。答える声は半分裏声になっていた。
 「だって、それ以外方法があるとは思えない」
 「灯子、あの女との因縁は思い出したのかしら? 」
 灯子の言葉は詰まった。
 「まだ完全には……。でもどうして『栗島クリス』とあたしとの間に何かがあったってわかるの? 」
 エスメラルダは人差し指を唇に当てた。
 「そ、れ、は、アタシが魔女だからよ」
 「魔女……魔女の性別は女だから……」
 「心は女よ」
 「……」
 「灯子、ちゃんと思い出しなさい」
 エスメラルダがいつも灯子たちを穏やかに叱るときの声で、もぎたての林檎をさくりと輪切りにするみたいに鮮やかに言い切った。灯子の頑なな覚悟に、雪解けのゆるみのようなものが走った。そこから覚悟の裏で凍り付いていた想いが溢れだしてきた。
 「どうやったら思い出せるの? あたしだって全て明らかとしてもっといい方法があるんなら知りたい。でも、いつも思いがけない時に、ほんの断片的なことしか思い浮かばないんだ。あたしは誰? 宝来灯子だよね? 三年間ここで暮らしていたんだよね? じゃあ、相去月子は? 『栗島クリス』は誰なの? 」
 「導きの贈り物は受け取ったんでしょ? 」
 「贈り物? もしかしてそれって……」
 灯子は胸元に手を突っ込んで、ディアマンテスから渡された「銀河鉄道の夜」に触れた。
 「そうよ、それよ」
 しわがれた老人の声が言った。灯子ははっとして目をあげた。髪をピンク色に染め、ピンク色のコートを着て立っていた背の高いエスメラルダが、一瞬で菫色のワンピースに白いマントを羽織った、小柄なディアマンテスに変化していた。
 「あなたはディアマンテス……、エスメラルダは何処? 」
 「ここよ、ここにいるわよ」
 白いディアマンテスの輪郭がぼやけ、身長は引き延ばされ、その像は一瞬でピンクのエスメラルダに結び直された。灯子は目をぱちぱちさせた。口からはまともな言葉も出てこない。
 「え、何々? どういうこと? 」
 エスメラルダは悪戯に微笑み片目を閉じた。そして唇に人差し指を当てた。
 「だから、アタシたちは魔女だって言ったでしょ」
 「私たちは三位一体で一つの使命を負っている」
 目の前の人物はぼやけて縮み、またもやディアマンテスへと変わった。
 「宝来灯子を癒し、導き、護る、それが私たちの役回り」
 灯子はからからになった喉でようやくこうとだけ言うことが出来た。
 「でも、あたしにはそんな価値なんて……」
 「世界中に無価値だと言われても、私たちにとってのあなたは世界の中心なのよ。さあ、私の導きの贈り物をもっとじっくりとお開きなさい。あなたのお友達もきっと戻って来る」
 灯子は黙って胸のポケットに隠していた本をすぽりと取り出した。それを開くのは昨夜に続いて二度目だ。だが、まだそれには相当な覚悟を必要とした。三度震える息を吐いて吸って、ようやく灯子はページを繰った。

 冒頭、教壇に立つ先生が銀河についての授業を行い、主人公ジョバンニに質問をする。ジョバンニは銀河の白く光るものが星だということを、分かっているはずなのに答えられない。そしてそれをよく理解している親友のカムパネルラもまた答えない。クラスメイトはみな意地悪そうに笑っている。
 そうだ、これは江刈東高校での灯子の姿だ。灯子もまた、こんなふうに虐げられていた。持ち物は隠され、ボールペンでびっしりと悪口が書き込まれた状態で返ってきた。制服は汚され、椅子の座面は画びょうだらけになった。教室に灯子が入ってくると一瞬で級友は皆黙り、敵意と侮蔑の眼差しで灯子を一瞥した後、灯子が精一杯発した挨拶にも反応せずに再び談笑を再開した。何時しか灯子は教室に入るのすら恐ろしくなっていた。
 虐めの範囲は対面のレベルでは収まらない。灯子の目に入るように、LINEには侮蔑の書き込みが連ねられられた。屈辱的に加工された動画がアップされた。クラスメイトがSNSでつながっている見も知らない他校の生徒にまで、灯子はさらしものにされた。灯子は傷つくのが怖くて、自然とネット環境から遠ざかっていった。余計に本だけが友達になった。
 灯子が学校に通い続けたのは、大学で文学の勉強したかったからだ。頑張って合格した進学校である高校をやめるのにはあまりにも悔しかった。灯子は一日中誰とも口を利かず、歯を食いしばって勉強をした。
 灯子はいじめの対象となってしまったことを家族、ことに両親にひた隠しにしていた。こんな存在になり果てて申し訳ないと思っていた。だが、一年生の時の担任が、自分の担当から外れる三学期末、そのことを母親に伝えた。
 両親はひどく動揺した。せめて灯子が家では安心して過ごせるように、温かく接してくれればよかったのに、二人とも灯子に非があったかのように受け取った。そのように担任が話したのだ。そして二人とても仲が悪くなった。灯子がこうなったことについての責任のなすりつけ合いをした。
 兄は進学して県外で一人暮らしをしていたし、多感な時期に当たっていた弟は、そういう立場に貶められた灯子のことを厭うようになった。こうして灯子を包んでいた温かい世界は崩壊した。灯子は自分が世界でたった一人ぼっちだと感じるようになった。
 灯子に「カムパネルラ」が現れたのは、高校三年の四月だった。アメリカからの帰国子女、「栗島クリス」がクラスに編入してきたのだ。美しく特別感のある神秘的な少女。「栗島さん」は一瞬でクラスの上位カーストに食い込んだ。それなのに「栗島さん」は、みんなの目など気にせず、対等の立場の友人として灯子に近づいて来た。休み時間にはいつも親し気に話しかけてくれた。
 灯子と同じく部活に入っていない「栗島さん」は、まるで当然のことのように帰りにも灯子を誘った。バスの中でも灯子には容赦なく冷たい視線が向けられる。「栗島さん」にも奇妙なものでも見るような、侮蔑と畏れの紙一重の視線が向けられた。恐怖を感じてもぞもぞする灯子を尻目に、「栗島さん」は実に堂々としたものだった。会話の内容が皆に良く聞こえるように、朗々と話しまた笑った。
 ハーフで美貌で裕福な「栗島さん」は、それでも灯子と同等に扱われることはなかった。クラスの上位カーストの女子が顔を歪めて、「やめた方がいいよ」と言ったときも「栗島さん」は皮肉っぽく笑うことで、そんな提案は受け入れないと暗に仄めかすのだった。そしてそんなことがあった後、何時もひどく傷つけられるのは灯子の方だった。
 「どうしてあたしにかまうの? もっと栗島さんにふさわし友達はいるよ」
 何時だったか、下校の途中に灯子は言った。このニ三年で否がおう無くしみついた、卑屈で自己否定的な態度で、泣きたいんだか諦めているんだか分からない、曖昧な笑みを唇に張り付かせていた。「栗島さん」は自信に満ちた笑みを浮かべて言い切った。
 「ふさわしいかどうかはあたしが決めることよ。灯子からは面白そうな匂いがするの。他の子からは感じないわ。日本でそれを感じたのはあたなだけよ」
 「あたしは平凡だし、人から褒められるようなところなんて何もないよ」
 「おやめなさいよ、自己否定なんて。みんな灯子から自分にはない面白そうな気配がするから、嫉妬して虐めているの。平凡なのは他のみんなの方よ」
 春、夏、秋、冬と、灯子と「栗島さん」は友情を深めていった。「栗島さん」は国際的な女優になるという夢を持っていた。アメリカの演技学校に通っていたこともあるという。受験勉強の傍ら、日本でもオーディションを受け続ける日々だった。
 夢を語る「栗島さん」の目は、この世に二つしかない薄茶色の宝石のようだった。ほころんだ口元には希望が、額の上には未来が、金色に煌めく旗のように翻っていた。灯子はずっと「栗島さん」の隣にいたいと思った。「栗島さん」の隣にいる時だけ、世界から赦されているような気分になれた。自分も夢を見て歩んでもいい、大切な世界の一部なのだと感じることが出来た。
 灯子の夢、それは「栗島さん」だけが知っていた。家族にすら話したことはなかった。夢を夢のままで終わらせようと努力する灯子を、「栗島さん」は大海原に放り投げて、ずっと向こうに浮かぶ夢へと泳ぎ出すように促すのだった。
 「『宝来灯子』という人間は面白い。あなたには才能がある」
 だが「栗島さん」は、灯子の「カムパネルラ」は……。
 灯子は怒りに燃えて静かに本のページから目をあげた。
 ああ、罪を犯したのは灯子ではなかった。裏切ったのは、復讐されるべきなのはむしろ……。

 「思い出した……」
 灯子はつぶやいて再び唇をキリキリと結んだ。目には涙がにじみ、怒りのために体が細かく震えた。
 「どうしてあたしからすべて奪うの? 」
 「では行こうか」
 聞き慣れない、女性的な艶をまとったテノールが言った。灯子ははっとして目をあげた。そこにいた人物は白いディアマンテスでもピンクのエスメラルダでもなかった。紅に染めたショートカットに、真っ赤なレザーのライダースを着て大きな槍を背負った、エスメラルダよりも二回りは若い筋肉質な、女性の心を持つ男性だった。
 「あなたは誰? 」
 「闘いの魔女、ルビア。ここから先は私が露払いを勤める。小雪! 」
 ルビアと名乗った赤い「魔女」は鋭く指笛を吹いた。地下水道の分岐点から、暗がりでも真っ白く浮かび上がる毛玉のような動物が飛び出してきた。それは雪オオカミに似ていたが、オオカミよりはずっと頭が大きく体が丸い。むしろ巨大な犬と言うべき生き物だろう。灯子の知っている犬種の中ではサモエドに一番近い、だがその丸く大きな目は、厳冬期の空の様に青く輝いている。背中には乗馬用の馬具のようなものが一式括り付けられていた。
 小雪と呼ばれた生き物は、ハアハアと舌を出して首をかしげ笑い、それからお利口に伏せてルビアに背中を見せた。ルビアは真紅に染めた皮のロングブーツの脚を鐙にかけて、ひらりまたがった。そして灯子に左手を差し出した。
 「さあ、乗りなさい」
 一瞬ひるんだ灯子だが、自分の運命を前へと進める勢いに乗ったまま、その手をしっかりとつかんだ。瞬く間に灯子も、小雪の肌触りの柔らかな暖かい毛皮の上に引き上げられた。
 「しっかりとつかまって」
 ルビアがきびきびと言った。灯子も恥じらいを捨てて、ルビアの良く鍛えられた筋肉質な腹に腕を巻き付けた。ルビアが小雪の腹を蹴り、その白い大犬は一声甲高く吠えて走り出した。灯子は歯を食いしばりながらルビアの肩越しにのぞく地下水道の暗がりの先だけを見つめていた。灯子が解っていること、それは「栗島クリス」と決着を付けなければならないということだけだ。
 だが、いざ彼女と対峙したとき、一体どうすれば決着をつけたことになるのだろう? 灯子があの女を打ち破らねばならないということだろうか? それは自分が死ぬ決着のつけ方よりもはるかに難しい。だが過去の記憶を取り戻して灯子ははっきりと知ったのだ。自分は死ぬ必要はない。そんな無念なことはする必要はない。二度もあの女に殺されるいわれはない。
 裏切られた、裏切られた……。

 灯子が「栗島さん」に「あのこと」を告白したのはいつのことだっただろう? 
 そうだ、あれは夏休みの補習の帰りだった。灯子と「栗島さん」は二人して、コンビニの店先でアイスバーをかじっていた。蝉が恋の歌を響かせ、その脂ぎった騒音が、ペンキを塗ったような青空を熱っぽく焦がしていた。入道雲がホイップクリームを絞ったようにもりもりと育ってゆく、暑い暑い一日だった。
 コンビニの車除けのストッパーに寄りかかりながら、灯子は実に三ヵ月もの逡巡の末にそれを「栗島さん」に告げた。「栗島さん」は何故か得意げに笑い、それから「やっぱりそうね」と言い、その後でまた白い歯を見せた。そして、
 「だから灯子からは面白そうな匂いがしたのね。誰にでも出来ることではないわ。ねえ、今書いている作品が完成したら、是非あたしに読ませて欲しいの」
 と、顔中をほころばせて言った。灯子も安堵と感激から、握りしめたチョコレートのようにぐにゃりととろけた笑顔を作ってうなずいた。
 「うん、是非読んで。ありがとう」
 正直それは簡単な話ではなかった。灯子は受験生だった。志望校である公立大学に合格するには、五科目の点数を一割ずつ上げなければならなかった。周りもみな寝る時間を削って勉強している。そんな時に、悠長に小説なんぞを書いている余裕は灯子にもあるはずがない。
 そうだ、灯子は小さなころから愛する本たちを模して、「物語」を書き散らしていた。特に高校に入り、孤独が深まってゆくにつれて、灯子は余計にそれにのめり込むようになっていった。現実のやり切れなさを、架空の世界に遊んで埋め合わせしようとした。最初粗雑で断片的だった「作文」は何時しか、紛れもない一つ一つの指向性を持った「作品」へと成長していった。灯子は個人名を特定できないようなペンネームを使って、反応の返ってこないサイトに投稿したりもしていたのだ。アクセス数が増えることに、密やかな慰めも感じていた。
 だが受験に際し灯子は、それを一時封印しようかとも思っていたのだ。来春大学に合格して大学生となれば、今よりはるかに時間の余裕は出来る。それまで我慢しようかと思っていた。だが、「栗島さん」が灯子の作品を読みたいという。「栗島さん」は芸能活動のため、東京の大学を受験予定だった。春になったら別れ別れだ。栗島さんは小説はウェブで見ない主義だという。
 「紙という実体を得た言葉の方が、よりすとんと心に入ってくるのよ。スマホやパソコンの画面だけなら、流れていく川の水面を読み解こうとしているようなものよ。全て心に残らずに流れ去ってしまう」
 灯子は自分に負荷をかける方を選んだ。細々と書き続けたのだ。一日一時間、一日三十分、細切れの時間で粘り強く書き継いだ。それは少しずつ灯子の世界観を反映した、一遍の物語となっていった。
 灯子は「栗島さん」に喜んでもらいたかった。彼女が見たいと言っているのだ。全ては「栗島さん」のためだった。そして灯子は二月の前期と後期の受験の間のある金曜日に、「栗島さん」にそれを渡した。「栗島さん」は、「土日にゆっくり読むわ」と言って、嬉しそうに笑った。
 「栗島さん」から感想のLINEは来なかった。不安半分、だがそれをうわ回ってはるかに大きな期待を持て余して、灯子は月曜日の朝登校した。いつも通りちょっと逡巡しながら教室のドアを開け、「栗島さん」の笑顔を探した。灯子を待っていたのはクラス全員の嘲笑だった。
 「お、大作家様のお出ましだ」「すごーい、よくあんなにうっとりとした文章書けるね」「勉強があんだろ、随分と余裕こいてんだな」「自分感性が他の人と違うんですから」「俺たちをヒブンカジンと嘲笑ってたんだろ」
 クラスの生徒たちは皆そう口々に言い、嬉しそうに灯子を罵倒した。一人の男子生徒が灯子が家のプリンターで印刷した原稿をガサガサと広げている。彼はその、灯子が最も熱を入れて書いたあたりのセリフを音読した。下手な役者のように大袈裟で小馬鹿にしたような口まわしだった。灯子は「やめて! 」と叫んで思わずそれに手を伸ばした。彼はそれを灯子の手の届かないところに持ち上げて、別の男子生徒に渡した。彼もまたそれを高い所で別の男子生徒に渡す。彼の手の中からはらはらと白い紙束がこぼれ落ちる。生徒たちは床に落ちた紙を無造作に踏みつけにした。
 灯子はなす術もなく立ちすくんでいた。更に彼らの口からは容赦ない侮蔑の言葉が浴びせられる。
 「このヒロインみたいに誰かあたしを助けに来て! 」「こんな男何処にもいねえよ」「いたとしてトンコな、んか相手にするか」
 灯子は呆然としながらも、一つの事実に思い至った。
 灯子は自分の席に黙って座っている、「栗島さん」に歩み寄った。彼女は、悪びれもせずに真っ直ぐ背筋を伸ばして灯子の目を見つめた。
 「見せたの? 」
 「栗島さん」は黙っていた。感情の揺らぎが一切見えない薄茶色の目で灯子をじっと見つめていた。灯子が傍にいないとき、「栗島さん」に猫のようにすり寄っていく女子が馬鹿にしているみたいに言った。
 「何一人前に抗議ぶってんの? 何か面白いネタがあったら提供してね、って、前前から頼んでたんだから」
 灯子は自分の中に真っ黒くどろりとした感情が湧き上がって来るのを感じて、ゾクゾクと震えた。彼女ではなく「栗島さん」に詰め寄った。
 「そうなの? 」
 「栗島さん」は無言を突き通した。薄茶色の目にはわずかの罪の意識さえ見当たらなく、却って誇らかに、自信に満ちた眼差しで灯子を堂々と見つめた。それは、何時も灯子を励ますときの目だった。
 「ねえあんた、もしかして栗島さんが自分の友達だとか思っていたの? そんな訳ないじゃん。愚鈍なあんたが、誰かから対等に思われることなんか無いんだからね」
 一人の女子の言葉に、嵐のような相槌が巻き起こった。そうだそうだと大声で、みんなで灯子をそやした。
 灯子は心臓に太く鈍い錐が打ち込まれたような心地だった。痛く痛くそしてけだるかった。灯子は目を伏せた。そして眼差しをあげるのと同時に、一筋の涙も見せないまま教室を出た。廊下に出ても侮蔑の言葉が何処までも追いかけてきた。校庭に出ても、コートも羽織らず雪の中を歩く灯子の背中に、クラスの生徒は楽しいお祭りのように暴言を投げつけ続けるのだった。
 灯子が涙を流したのは、学校を出て最寄りの駅から電車に乗ってしまってからだった。月曜日の赤字路線は乗客の数もまばらだった。灯子の乗った二両目には灯子の他に、耳の遠そうなお婆さんただ一人しか乗車していなかった。灯子は最初声を殺して泣いた。涙に感情が解かしだされてくると、すぐにそれはこらえきれない嗚咽となって溢れた。
 ――――信じていた、信じていたのに――――
 灯子はもう何もかにもが嫌になった。この世に誰からも温かい感情を向けらることのない、自分が存在することそのものが嫌になった。こんな人生が続いていくことがほとほと嫌になった。だが何故灯子はあと一か月の我慢だと気づかなかったのか。苦行の日々が終わりに近づいていることも知っていたはずなのに。それはすべて「栗島さん」の裏切りに起因していた。その衝撃がこれまで保っていた理性を吹き飛ばした。
 灯子の乗った電車は北へ向かった。折から大寒波が来ていた。電車の窓にはびっしりとレース編みのような雪が凍り付いていた。灯子が降りたのは、本州一寒いという集落の駅だった。そのまま短い防滑ブーツの足で、半分雪にうずまりそうになりながら真っ直ぐに、駅舎の裏手にそびえる小高い山の方へと分け入って行った。
 雪が煙のようにもうもうと吹雪いていた。気温はマイナス十度を下回っていただろう。半分枯れつつも、こんな気候でもまだ青さを保つクマザサの茂みを抜ける。木々は不思議な形のつららを付けてお化けのように灯子を覗き込んでいる。
 灯子は何かに憑かれた様にずんずんと進んだ。体を痛めつけることが唯一の救いとなった。手足が痛くなるのを通り越すと、段々体が言うことを訊かなくなってもうろうとしてくる。誰も見ていない。灯子はそのことに深い安堵を感じて、力尽きたようにそのまま倒れた。そこで灯子の人生は終わったはずだった……。
 
 それなのにどういう反則技を使ったものか? あの雪山で死んだはずだった灯子は、気が付けば霧ヶ峰タウン城外をさまよっていた。世界を異変が襲い、学校から避難する途中ではぐれたという荒唐無稽な筋書きを、一体何から信じ込んでいたのかわからない。だが、そのときには既に、ほとんどの記憶を失くしていた。特につらいこと悲しいこと、虐めや、家族や、もちろん「栗島さん」についての思い出は、その根幹から消し去られていた。そして自分が忘れていることすらもすっかりと忘れ去っていた。
果して灯子は本当に死んでいるのであろうか? 
 あの雪山でフェイドアウトした記憶がよみがえってくると、灯子には今ここでこうしている自分自身の身体が、ビニールの袋にプラスチックビーズを詰めて膨らませたような、まがいものに思われてならなくなった。
 まがいもの、そう、多分これはイメージだけの、ヴァーチャルな身体なのだ。だから全身が砕けたはずなのに何時の間にか治っている。つまり灯子の本当の体はもう死んでいる。灯子にはそのことが、先ほどよりもずっと強く確信できるようになった。
 だが、いくら仮初の命だからと言って、このまま大人しく「栗島クリス」の前で死ぬのも灯子にとっては屈辱的だ。自分が「栗島クリス」を傷つけて恨みを買ったならわかる。だが他でもない、「栗島クリス」の裏切りのために自らの命を絶つ羽目になったのは灯子の方なのだ。
 その上、この町で築き上げてきた幸せを丸ごと奪われるなんてあまりにも業腹ではないか。そうだ、いっそ、と灯子は思う、「栗島クリス」を追い出せばいいのだ。そして元通りになったこの町でまたみんなとずっと……。
 だがそれも灯子の直観は否定した。涼雅は多分目覚めるつもりでいる。「いい夢はい夢のうちに」涼雅はあの時そう言った。
 「涼雅」と灯子は口の中でつぶやいた。涼雅が「眠れる核」ならば、眠れる涼雅の見る夢が、灯子をこの町へと呼び寄せたのかもしれない。灯子は懐かしい霧ヶ峰タウン本来の景色を思い描いた。ペンキを塗られたばかりの木造の家々に差す朝日、街路樹が砂利道に落とす真昼の短い影、玩具のように立体的に入り組んだ街を染める夕暮れ……。 
 ――――涼雅、この町は涼雅が見ている夢のなかにあるの? 今あたしはあなたの心の中にいるの? ―――― 
 涼雅が自らの夢に灯子を呼んだことが真実であれば、灯子と涼雅は以前からかかわりがあったことになる。そして「栗島クリス」がここに割り込んできた理由。それも灯子と涼雅の関係に絡んで来ているのだろうか?  
 「わからない」灯子は口の中でつぶやいた。そして、勇ましく小雪を駆ってゆくルビアに回した腕に力を込めた。雪煙でもうもうとした平原のただなかに立っているように、事実と事実の輪郭が模糊として判別できない。何が何と、誰が誰とつながっているのか? 過去にあったこと,それは灯子の戻った記憶の限りであったのか? 
 だが一つだけはっきりと分かっていることがある。灯子は「栗島クリス」と決着を付けなければならない。そうしなければ涼雅は奪われ町は滅びる。死ぬのは簡単で打ち勝つのは難しい。だが、灯子は二度もあの女のために死にたくはない。ではどうすれば……。
 「ねえ、あたしは一体どうすれば『決着』をつけたことになるの? 」
 訴えかけるような声で灯子はルビアに質問をした。ルビアは言った。
 「『雪の女王』という話をご存じ? 」
 「うん、アンデルセンだね。もちろん知ってる」
 「雪と氷を解かすのは熱、熱いもの。あの女の心を溶かすことが出来れば、この絶対零度の魔力は消える」
 「熱? あのお話をなぞるのだったら、涙が涼雅の胸にかかればいいの? 」
 「熱いものが涙だけとは限らない。愛が熱いなら希望も熱いし、怒りや憎しみや恨みもまた熱い。それに凍っているのはあの女で、涼雅の心が凍っているわけではない」
 「『栗島クリス』の心を解かせって言うの?難しそうだなあ……、素直に解かされる女だとは思えない」
 「大丈夫」
 ルビアが言った。
 「名にしおわば、宝来灯子、あなたの名前には火の字がある。それはきっと天の思し召し。炎をもって氷を解かすの」
 「炎……」
 灯子はつぶやいて自分の心臓が熱く脈打つのに意識を向けた。まるで盾のように、「銀河鉄道の夜」がその心音を護っていた。頭の中にページをめくるときの風が吹いた。黒いフォント文字が瞼の裏に明滅する。
 ――――それは元禮帝の御世のことだった。その年の冬は厳しく、雪解けを待たずして力尽きる領民も多かった。ようやく迎えた雪解け四月、館では鎮魂のための法要が……――――
 先ほどメガジープに揺られていた時ひらめいたフレーズが、再び頭をかすめていった。灯子ははっとなった。自分にはまだ忘れていることがある。人生の記憶は取り戻したけれど、まだ肝心なところは思い出しきれていない。一体何を忘れているのか? 
 そんな直感におののきながら、灯子は小雪の背にまたがり、力を込めてルビアの腹にしがみついていた。やがて頭上から差し込める光の形が一直線になった。ルビアが言った。
 「中央区に入った」
 ジャリジャリという重たいタイヤ音が、水路の上の道路から数台行き交っていた。灯子はメガジープに乗っているチューリップたちのことを思った。誰一人欠けずに皆無事でいて欲しい。仮に自分が決着を付けられたとしても、「緋桜伝」は菊之助が持っている。彼らが塔までたどり着くことには意味がある。
 中央区は地下水路さえも放射状につながっているらしい。その正八角形の丁度中心の部分で、ルビアがぴたりと小雪を止めた。
 「さあ、塔の真下に着いた。少しだけ耳を塞いでいて」
 そしてルビアは、背負った槍を抜いて、おもむろに天井に突き立てた。ズガーンと爆弾がさく裂したような音が響いて、菫色の石が粉々に砕け、灯子たちの上にざらざらと降り注いだ。灯子は咳き込んだ。砂埃が収まってから目をあげれば、頭の上に丸い大きな穴が開いていた。
 「さあ、行こう」
 ルビアが言うと小雪がジャンプした。二人と一匹は「アイリス様の塔」の最下部から最上階の「審判の間」に向けて、進撃を開始した。

カタストロフ

 これまで灯子が「アイリス様の塔」の内部に足を踏み入れたのは、霧ヶ峰タウンにたどり着いた日の一回だけだった。それもその日はしきたり通り、外壁にとり付いた階段を上ったため、控えの間と審判の間以外の内部がどうなっているのかは見たことがなかった。伝え聞いたところではそこには、ピノやオオカミや塔の職員たちの部屋部屋が並んでいるらしい。
 灯子とルビアをのせた小雪が、穴から飛び上がって侵入した場所は厨房だった。ステンレス製の四角いシンクの横に、やはり銀色に磨かれたコンロが整然と並んでいる。白大理石の調理台の横には黒光りするオーブンが据えられ、壁や床には菫色のタイルが敷き詰められていた。
 だが今、この煌びやかな厨房では、コンロにかけられたフライパンの中のベーコンと卵が凍り付いている。蛇口もシンクも霜に覆われ、調理台の上では刻みかけのキャベツが、まるで食品サンプルのように包丁をくっつけたまま固まっていた。
 灯子は案じた。町中こんな状態だったら住民はすべて死に絶えてしまったんじゃないか。ルビアが励ますように言った。
 「大丈夫。市民には一定の食糧と燃料の配給はある。みな細々と生き延びている」
 灯子は思わず叫んだ。
 「でもさっきは、蜂起しようとしていた人たちが氷漬けにされて吊るされていたよ。このままいけば一人残らず虐殺されてしまう」
 「その為にあなたがあの女に勝つんだ」
 厨房の扉を出るとそこは誰もいない大きな円形のホールになっていた。どうやらここは職員のバックヤードとして使われていたようだ。誰かのキャンディーの袋が放置されたままの休憩用ソファーの横に、雑多な備品の段ボールが積みかさねられている。その全てが凍り付いていた。ルビアは迷いなく枯れ落ちた観葉植物の陰に小雪を進めた。その奥からは右回りに螺旋階段が始まっていた。小雪がやすやすと上れるような大きな階段だった。
 その階段の踏板も側壁も、塔の材質と同じ、菫色のすべすべとした石で出来ていた。小雪が大きな足で着地するたび、その硬くとがった爪が石に突き立てられてカチャカチャと鳴る。内臓をゆすぶる衝撃に、灯子は必死に胃袋を落ち着けようとみぞおちに力を入れた。
 塔の中には人っ子一人いなかった。ただ一人の召使、ただ一人の役人、ただ一匹の黒オオカミでさえ、全く姿を見せることはなかった。ルビアは小雪の足を急かした。このまま「栗島クリス」に邪魔をされないうちに距離を稼ぐ作戦らしい。灯子はぎゅっと目をつぶって、ルビアの引き締まった腹にしがみついた。
 神様、神様、神様、霧ヶ峰タウンの造物主様! 灯子は心の中でそうひたすら叫んでいた。エスメラルダたちがあんなにも信奉しているこの町の造物主様は、果して灯子を救うつもりはあるのだろうか? 試練として灯子に全て甘んじろと言うのではないだろうか? 灯子はここへ迎えられた記憶の本物の方に感じた、サイケデリックな光を瞼の裏に浮かべた。しっかりしろ灯子、造物主様はお前を信じているから無理難題を吹っかけているのだ、人間には、乗り越えられる試練しか与えられない、灯子はそう自分自身に言い聞かせた。確かに続いていく呼吸と心音に耳を傾ける。
 目を閉じていると自分の意志とは離れたところで世界が回っていく気がする。灯子の体に頭に、ぶわりと遠心力がかかっていく。その渦の中に涼雅の笑顔と「栗島クリス」の開いた瞳孔がある。それがふと、思い出の中の「栗島さん」の、明るく自信に満ちた笑顔に変わった。灯子の心の中に、何重にも重なった時間、何重にも重なった想い出が閃いた。
 「灯子、あなたには才能がある」
 ――――それは元禮帝の御世のことだった。その年の冬は厳しく、雪解けを待たずして命を落とす領民も……――――
 これは、このフレーズは何だったろうか? 頭の中でページがめくれていく。それが巻き起こす風が灯子の閉じられた睫毛をそよと揺らし、心をかき乱す。あともう少し、もう少しで思い出す。出来れば「栗島クリス」の前にたどり着く前までに思い出しておかないと……。
 だが、灯子がまだそのフレーズの正体を確かめられないでいるうちに、ルビアが「どう」と声をかけて小雪を止めた。目を閉じていてもその部屋の尋常ではない寒さが、灯子の頬を突き刺した。
 「招かれざる客」
 「招かれざる」と自ら言っておきながら、まるで全て予定調和であるかのような口調で、「栗島クリス」の声が灯子の額に投げかけられた。灯子はつぶっていた眼を恐る恐る開いた。あの日、みんなと立った審判の間は、その幾何学模様の青いステンドグラスや厚みのある絨毯、白い玉座の精巧な装飾に至るまであの日のままだった。
 だが、それらはやはりすべてが凍り付いていた。燭台には炎もなく、菫色の絨毯にはうっすらと雪が積もっていた。硝子には霜がつき、差し込む光の明度も鈍い。空のただなかに浮いたこの部屋は、雪雲にくすんだ陽が藍色のガラスを透かして、まるで氷山の底の海の中のようだった。
 「栗島クリス」は玉座には座っていなかった。玉座にいたのは涼雅だった。涼雅はいつもの白いTシャツとブラックデニム姿で、背もたれとひじ掛けにもたれかかり、今日の空模様のように翳った瞼を力なく閉じていた。その顔色は魂のない人形のようにくすんで蒼ざめている。灯子は思わず叫んだ。
 「涼雅! 」 
 「大丈夫、死んではいないわ。『眠れる核』ですもの。眠ってお姫様を待っているの」
 そう言って残忍な微笑みを浮かべている「栗島クリス」は、玉座に向かって始まる階段の右側にしつらえたテーブルセットで、紅茶のカップに唇をつけ、凍った苺を食べていた。相変わらず装飾過剰なブラックドレスを身にまとい、制服姿の時には健康的だったはずの唇に黒みがかったルージュを引き、開いた瞳孔で毒々しく灯子を見つめた。
 灯子の体はひるむ心に反して、迷いなく小雪の背中から滑り降りた。手でルビアにとどまるように示して、震えながら玉座へと続く階段の左側まで歩み出て問いかける。
 「どうしてあたしを裏切ったの」
 「栗島クリス」は苛立たし気に鼻を逸らした。
 「裏切ったですって? 一体誰が」
 「何故すべて奪うの」
 「あたしは間違いを正しているだけ。一度言ったわ。あなたは不当に得てきたと」
 「嘘だ」
 「何故そう思うの」
 「栗島さんはあたしを妬んでいる」
 そう言い切ってしまってから、灯子はゾクゾクと震えた。「栗島クリス」の薄茶色の目に、憎しみがゾワリとひらめいた。
 「……」
 「涼雅を返して」 
 「ここは寒いわね」
 「栗島クリス」はそう言って天井を見上げ、両手で豪華なドレスの両肩を抱くようにした。灯子は抗議の声を荒らげた。
 「あなたが凍らせているんだよ」
 「いいえ、あたしを凍らせてしまったのはあなただわ」
 自分の両肩を抱きしめながら「栗島クリス」は、何も見えていないかのように目を漂わせた。
 「涼雅を、涼雅を返して! 」
 「彼はあなたのものではないわ」
 灯子は一瞬口ごもったが、すぐに抗議の色を目に浮かべてこう反論した。
 「その意味においてならより一層、涼雅は栗島さんのものじゃないじゃない! 」
 「彼が帰りたいのはあなたの所じゃない。あたしは彼が帰りたいところへ彼を返すわ」
 ガッシャーン! 
 そのとき塔の外壁にとり付いた階段の最上部分から、壮麗なステンドグラスを粉々にしながら、迷彩色をした大きな塊が飛び込んできた。灯子はひるんで数歩後ろに退く。迷彩色のごつごつしたものは砕けた藍色の色硝子の粉にももろともせずに、巨大なタイヤでガリガリと前進し、玉座への階段の手前で止まった。
 「あ、チューリップ! 」
 灯子は叫んだ。運転席に座るチューリップと目が合ったのだ。チューリップも驚いたように、助手席に座るアーモンドに何事かを叫んでいる。迷彩色の大きな塊、それはさっきまで灯子も乗っていたメガジープだった。右前方が押しつぶされ、バンパーは外れあちこち窓が割れて隙間だらけになっているが、エンジンやタイヤは問題なく動いているようだ。
 メガジープを追うようにして三頭の黒オオカミが飛び込んできた。その漆黒の毛皮は誰かの返り血を浴び、口からは雪オオカミの毛皮と汚らしい唾液が垂れていた。黒オオカミたちは姿を現すや否や、明らかな攻撃の意図を持ってウォウウォウと叫ぶと、そのままめいめい好きな角度で、身を低くしてメガジープに襲い掛かる。メガジープは急激な角度で左旋回、右旋回を繰り返して巧みにその攻撃を避けた。と同時に、砲台が流れるように一回転して一頭の黒オオカミの側頭部に正確な一撃を与えた。黒オオカミの頭が右半分はじけ飛ぶ。そのまま黒オオカミは、まるで水銀が蒸発するようにジュッと湯気となって消えた。更に砲弾は後ろから襲い掛からんとしていたもう一頭の腹に命中する。ジュッという音とも黒オオカミが消える。更にはもう一頭ののけぞった喉笛にも砲弾が命中した。三頭を仕留めてもなおメガジープと砲台は動きを止めない。車はそのまま左旋回を強め、砲台は逆回りにくるりと回転して「栗島クリス」に照準を合わせ、火を噴いた。ズガーン! 
 だが、完璧な角度で的をとらえていた砲弾は、空中で凍り付き失速した。ゴン、重たい音を立てて砲弾が転がった。ズガーン、ズガーン、ひるむことなくメガジープの砲台が火を噴く。「栗島クリス」をけん制する目的なのか、幾度も切り替えし急発進を繰り返すメガジープの上で砲弾が連射された。恐らくピノとオオカミが行っているのであろう、発射角度、間隔、全てパーフェクトな砲撃だった。
 「うるさいわね」
 「栗島クリス」が右手を振り上げた。既に放たれた二発の砲弾が凍り付いて落下する。
と同時に、今放たれんとしている三発目が、物理的に説明のつかない力で筒の中に押し込められ、メガジープの中で炸裂した。かろうじて残っていた二列目の座席の窓ガラスにびしゃり、クランベリーの果肉のようなものが飛び散った。アイリス様の声が響いた。
 「ピノ! オオカミ! 」
 右手一つで二人の命を奪った「栗島クリス」はそのまま流れるように、オーケストラを従わせる指揮者のごとく右腕をふるった。「栗島クリス」の紡ぐ聞こえない音楽に操られるように、それぞれ金色と銀色の、狼の目と耳をかたどった仮面をつけた、二人の人物が玉座の裏側から姿を現した。
 金色の仮面の人は男性ですらりと背が高く、金髪の下からのぞく額から眉骨にかけて、彫像のように整った造作をしていた。銀色の仮面の人は女性で、その体つきはグラマラス、裾の広がった黒いドレスの襟元からのぞく肌は、白い桜の花のよう、腰まである黒髪は漆を塗ったようにつやつやと輝いている。
 二人とも、「栗島クリス」のゴシック趣味をなぞったかのような、フリルやリボン、金属製のカフスやベルト、大きな色宝石で飾られた、黑いシルクタフタの洋服を身にまとっていた。そして男性の手には短銃が二丁、女性の手には抜き身の長刀が握られていた。
 灯子の背中に冷たい刃を当てられたかのような戦慄が走った。
 「咲羅、イツキ! 」
 「栗島クリス」が残忍な笑みを浮かべながら右手をふるう。イツキは迷いなく階段を降りると、短銃を握った両腕を水平に上げた。それは感情と言うものが全く見えない動作だった。まるでリモートで操縦される機械のようだ。「栗島クリス」の意志が、彼のギリシア彫刻のように均整の取れた両腕を、自在に動かしているのか。そしてその銃口の先にはメガジープの運転席があった。
 「チューリップ、逃げて! 」
 だが、その叫びが灯子の口から完全には飛び立たないうちに、四発の銃声と、弾がフロントガラスをピシッと貫通する音が鳴り響いた。灯子の目にはスローモーションのように、チューリップががっくりとハンドルに崩れ落ちる様、アーモンドが痙攣し白い喉を見せてのけぞるさまが映った。灯子の全身からは力が抜け、思わずへたり込んでしまうところだった。信じられない、イツキがチューリップとアーモンドを……、惨劇に目を塞ぐことも出来ずに辛うじて両足を保つ灯子。そしてここで完全にメガジープの動きが止まった。
 「イツキ! 」
 まだ辛うじて残っているかもしれない人間的なものにすがるような叫びを漏らして、三列目のドアからアイリス様が転がり出てきた。
 その姿を見たとき灯子は、これまでに見たどのアイリス様よりも美しいと思った。白い毛皮は返り血を浴び額から血が一筋流れ落ち、さっきイツキに断ち切られた白銀の短い髪はもつれ、汗のためか涙のためか、紅潮した色素の薄い頬に張り付いている。そこには一国の姫巫女の気高さと調和しながら、一人の恋する女性の純情が輝いていた。そのたとえようもなく美しいものに打たれながらも、灯子は声にならない叫びを自らの頭蓋骨の中に響かせていた。アイリス様駄目だ、出てきちゃいけない! 
 「アイリス様、危のうございます」
 カリンも追って座席を降り、女性にしては随分と大きな体を盾にして、世界とアイリス様との隙間を埋めようと、必死と言った仕草で覆いかぶさった。「栗島クリス」が流れるように右腕をふるう。イツキの両肩と両腕の関節は無感動に機械的に動いた。その手首が固定され定められた銃口の先には、砕けた硝子の破片の上でかばい合うアイリス様とカリンの姿があった。銃声もまた無機質で無感動だった。八発鳴り響いたその音はどれも人間技のようには思えない即物的なものだった。アイリス様の純白の毛皮に赤黒いしみが滲む。カリンの迷彩柄のコートも朱に染まる。カリンはアイリス様を庇い、アイリス様はその肩のむこう側のイツキに手を伸ばし、二人しばらく悶えていたが、やがてともに力尽きたように動きを止めた。灯子はただ呆然と立ち尽くしていた。
 「姫様! 」
 菊之助が叫びメガジープから降りてきた。灯子の身体にはさらなる惨劇の予感とともに、菊之助という人間に対する圧倒的賛嘆の感情が満ちた。どうしてこのような状況で、このように朗々とした、このように正しい発声で美しい声を発することが出来るのだろう? 彼の魂の純度、篤実さ、歪みのなさ、それらがすべてこの声には込められている。彼には何としてでも咲羅と幸せになってほしかったのに……。
 「姫様それがしをお忘れか? 菊之助でござる。姫様の……」
 それは冬の青空で風に翻弄される凧のように、不安げでいて伸びやかな声に聞こえた。灯子は立っている地面がどんどんと削られていくような感覚に震えた。菊之助は絶対に、咲羅には刃も銃口も向けることはない。そんなことするくらいなら甘んじて死ぬと思っているはずだ。このままでは彼もまた、愛する人の手で殺されることは免れない。
 灯子は激流の中漂う捨て猫のような眼差しで、自分の後ろに立っているルビアに助けを求めた。だが、ルビアも小雪も少しも動き出すそぶりは見せなかった。嵐の中でじっと動かない、野生動物のように静かな目で彼らが見ていたのは、咲羅でもなく菊之助でもなく、灯子だった。その冷静で達観した眼差しは語っていた、「何とかしないといけないのはあなたなのよ」
 「栗島クリス」は面白い見世物のように、頬杖をついて鼻を逸らし、酷薄な笑みを浮かべて、数奇な道をたどった咲羅と菊之助の運命の行き着くところを眺めていた。彼女が左手で指を鳴らすと、審判の間に真っ白い桜吹雪の幻影が巻き起こった。雪のようでいてしかし燃えているような、情熱の色をしたはなびらが舞っている。
 「姫様」
 菊之助がしっかりとした足取りで一歩踏み出す。咲羅がなぎなたを低く構えて二歩出る。はなびらが狂おしく舞っている。憤りととともに、ある種の感動で陶然となりながらも灯子の脚は辛うじて直立を保っていた。これが、三年もの間別れ別れだった恋人たちの顛末だというのか? 灯子は背中に、手の中に冷たい汗をかいて、押し寄せる津波をなすすべなく見下ろしている、山の上の木立のように立ち尽くしていた。
 「姫様、それがしが分からぬのですか? 」
 咲羅のなぎなたが攻撃の圏内に菊之助を捕らえる。菊之助がまた一歩踏み出す。咲羅は無感動に摺り足で進む。「栗島クリス」は唇をほころばせる。この殺戮という「お芝居」を心から愉しんでいる。
 どうすればいい? 灯子は目を塞ぎたくなるような情景にだがしっかりと両眼を見開いて、どこかに何か糸口が見つからないか探した。ここまでみんなで紡いできた糸を、今つなげられるとしたら自分だけだ。だが灯子の体は、その使命感とは裏腹の、あまりにも無力な自分自身に強ばるばかりだった。
 咲羅のなぎなたが上に振りあがった。切っ先が菊之助の喉元に伸びた、その瞬間だった。メガジープの左側のドアから、長い髪の毛を揺らした相去月子が弾丸のように飛び出してきた。不意を突かれた「栗島クリス」は慌てたように咄嗟に右腕をふるい、咲羅のなぎなたの刃を相去月子へと向けさせた。
 だが相去月子は咲羅の刃の切っ先の少し先を全速力で駆け抜けた。そのまま真っ直ぐに玉座の上の涼雅を目指す。その右手には、菊之助が携えていた「緋桜伝」の書類ケースがしっかりと握られていた。灯子もはっと気づく。そうだ、「緋桜伝」、あれを涼雅の元に届ければ……。
 相去月子が階段の手前で立ち尽くしている灯子の前までたどり着く。だがその果敢な姿を認めた灯子の背中には再び鳥肌が立った。こちら側から見ている灯子の目には、相去月子の背中にむけられたイツキの銃口がはっきりと見えたのだ。その非情できな臭い二つの黒い穴を認めた途端、灯子の中で何かが花火のように打ちあがった。
 二発の発砲音が響くか響かないかのうちに、灯子は相去月子から「緋桜伝」をひったくって駆けだした。相去月子は額に汗を浮かべ、糸を切られた操り人形のように崩れ落ちながらも懸命な声で懇願した。
 「どうか、涼雅を自由に……」
 灯子は鬼神すら道を開けるような勢いで玉座の階段を駆け上がった。三段飛ばしで関節をきしませ、気管支から鉄臭い息を吐き出しながら、まっしぐらに涼雅を目指した。今にもイツキが、灯子の背中にも銃弾を撃ち込むかもしれないのに灯子は振り返らなかった。心の中で叫ぶ。「涼雅、涼雅、目を覚まして、みんなをこの残酷な夢から解放して! 」
 灯子はあえぎながら、玉座に沈む込んだまま眠っている涼雅の前にたどり着いた。白いTシャツの胸が規則正しく上下していた。灯子の荒い息の隙間に、涼雅の淡い寝息が響いた。灯子は素早くかがみ、深い眠りの中を漂っている涼雅の手に、ケースから取り出した白い紙束を握らせた。
 「涼雅、涼雅、『緋桜伝』だよ、目を覚まして! 」
 だが、昏々と眠り続ける涼雅の両の瞼は、蒼白い影をまとってぐったりと閉じられたままだった。灯子は呆然として振り返った。審判の間の凄惨なありさまを震えながら見回す。
 チューリップとアーモンドは車の中でがっくりとこと切れ、ピノとオオカミは砲台の下で肉片と化してしまった。アイリス様とカリンは抱き合って絨毯の上に血だまりを作り、仲間を、愛する人を撃ったイツキは、心を失くして機械のように立ち尽くしている。恋人の手で殺されることを甘受しようとしている菊之助と、操られ彼を一突きにしようとしている咲羅。階段の上でうつぶせに倒れている相去月子。こんなのはない、こんな現実は到底受け入れられない。こんな犠牲を払ってまでここにたどり着いたのに、それなのに何故涼雅は目覚めない! 灯子は叫んだ。
 「何故何も起こらないの! 『眠れる核』に文書を渡したのに」
 「まるで憶えていないのね」
 口元に右に歪んだ微笑みを浮かべて、「栗島クリス」が言った。噛みつく勢いの灯子も返した。
 「あたしが何を忘れているって言うの! 」
 「世界よ」
 まるでここが舞台で、自らが主演女優であるかのように腕を広げ、ここが見せ場だとセリフを吟じているような口ぶりで、「栗島クリス」が言った。
 「何? 」
 灯子の瞳はいつになく狂暴な炎を秘めていた。 
 「内側に広がる世界を丸ごと」
 「何が言いたいの」
 「もういい、あなたには失望した」
 言葉ぶりは冷たかったが、その口調には苛立ちという裏腹な熱があった。そのつぶやきととも、「栗島クリス」はまるで最後の手段だとでもいうように、立ち上がってつかつかと灯子に歩み寄ってきた。その背中から、花吹雪の幻影がごうと渦を巻いて灯子の前髪をかすめていった。灯子は思わず一歩後ろに後ずさる。脛が涼雅の膝にぶつかって、その上から「緋桜伝」の白紙がはらはらと滑り落ちた。にわかにひるみながらも、灯子は隠しもしない本音を叫んだ。
 「どうしてあたしからすべて奪うの」
 「すべてを奪ったのはあなたの方じゃない。あたしが努力して築き上げたものを丸ごと」
 「栗島クリス」の薄茶色の瞳を暗くする瞳孔は開いたままだったが、さっきまで氷の結晶のように冷たくとがった光を宿していたそれは、沸き起こる憎しみという炎にめらめらと燃えていた。
 「何のこと? 栗島さんはあたしを裏切ってみんなにあれを見せた、そして今、三年間の幸せも丸ごと奪ってしまった。あたしが栗島さんに何かした? あたしはあなたと友達のつもりでいたのに」
 怒りと憎しみの業火を宿していた、「栗島クリス」の眼差しは、不意に晩秋の雨のように濡れて心細く揺らいだ。そこには地球一つ分より重い悲しみがこもっていた。
 「友達なものですか。あなたのせいであたしは……」
 灯子は後ずさろうとしたがもう後ろはなかった。眠り続ける涼雅の体に触れるばかりだった。再びぶつかった拍子に、膝の上に残っていた「緋桜伝」が床に滑り落ちる。それは灯子の足元をすり抜けて、玉座へ上る階段の上にまで滑っていった。その乾いた音を聞きながら、ぎりぎり残った思考力で、灯子は自問自答した。過去に何が起こったのか? 自分は何を忘れている? そんなことを考えている間にも、「栗島クリス」はまっしぐらに灯子を目指し階段を上がって来る。そしてその氷のように冷たい手で、灯子の襟元を力任せにつかみあげた。
 「あなたの、あなたのせいで……」
 「栗島クリス」の声は、嗚咽をはらんだ涙声だった。そう何度も繰り返しながら、灯子の茶色い毛皮の頑丈な縫製を引き千切ろうとする。
 「それはこっちのセリフだ! 」
 灯子の背筋は凍えて縮み上がりそうだった。それなのにそんな恐怖さえ押しのけて、怒り恨み憤り、憎しみと悲しみと自分でも訳の分からない激情が、灯子の行動をがっぷりと飲み込んでしまっていた。気が付いたときには灯子も「栗島クリス」の栗色の巻き毛を掴んで引っ張っていた。
 灯子の目からはボロボロと涙がこぼれた。命を散らした仲間たちのためなのか、自由を奪われたままの涼雅のためか、それとも踏みにじられ続けている自分自身のためなのか。何もかも、そう何もかも、「栗島クリス」のせいで滅茶苦茶ではないか。
 そうだ、諸悪の根源は「栗島クリス」だ。この女がいるから灯子は自ら死ぬ羽目になったし、三年間育んだ幸せも、心許した仲間たちもすべて失ってしまったのだ。灯子の現実、いま置かれている受け入れがたい状況、それらはすべて「栗島クリス」がもたらしたものではないか。
 「あんたなんか、あんたなんか」灯子がそう叫べば、「あなたなんかあなたなんか」と「栗島クリス」も声を張り上げる。互いに頬をひっかき、鼻を殴り、髪をむしり、靴で蹴り上げ、組合いもみ合い、目まぐるしく上になったり下になったりしながら、灯子と「栗島クリス」は、本気で噛みつき合う犬のように床を転げた。
 「栗島クリス」の象牙のような肌には幾筋もみみずばれが赤く走り、灯子のツンとした鼻からは二筋、鉄の味のする鼻血が垂れ落ちた。「栗島クリス」の結い上げられた栗色の巻き毛は瞬く間に鳥の巣のようになり、灯子の茶色い毛皮の上着は右袖ががばり肩から外れた。
 その様子を、小雪の手綱を握りしめたルビアが、まるで二つの季節がせめぎ合う繊細な闘いを見守るかのように眺めていた。その緋色のルージュを引いた唇から、こんなつぶやきが漏れる。
 「熱が生まれる」
 ふわり、相争う二人を中心に風が巻き起こった。それはルビアの前髪を揺らし、確かに熱気をはらんだ空気を額に伝えた。絨毯に積もった雪が灯子と「栗島クリス」を中心に解けてゆく。割れ残ったステンドグラスに張り付いていた霜も緩む。凄惨な血だまりと化した審判の間に、清澄で輝かしい光が差してくる。
 階段の上で前のめりに倒れている相去月子に、メガジープに伏してこと切れているチューリップとアーモンドに、爆死したピノとオオカミに、かばい合ったまま力尽きているアイリス様とカリンに、菊之助を貫いたまま崩れ落ちている咲羅に、もはや何のあてもないように立ち尽くしているイツキに、早春のさきがけのような純度の光が落ちる。外は雪雲が晴れつつあった。太陽が繰り返される爆発そのままの火力で、鋭く砕けた色付きの硝子を、濡れたダイヤモンドのように輝かせていた。
 「何故、何もかも忘れてしまったの? あなたは卑怯者よ」
 「そっちの裏切りの方が何倍も卑怯じゃないか」
 「あたしは裏切ってない」
 「じゃあ何であれをみんなに見せたの」
 「栗島クリス」の爪が容赦なく灯子の喉に食い込む。灯子も負けじと黒いドレスの首のリボンをぎゅうぎゅうと締め上げる。
 「良すぎたからよ……」
 灯子の赤みを帯びた目に不意を突かれた驚きが満ちる。「栗島クリス」が薄茶色の瞳を宙にきっと見開いて、輝かしく暗謡した。
 「元禮帝の御世の三年目、その冬は厳しく、雪解けを待たずして力尽きる領民も……」
 それは将来を嘱望されている女優にふさわしい、絹のように滑らかな発声、人の心の琴線に触れる台詞回し、さらには計算し尽くした間すら兼ね備えた朗々たるものだった。それなのに、既に老成していると言ってもいいその声は、抑揚は、採りたての桃のような瑞々しさも兼ね備えているのだった。
 灯子の心臓が何かを主張して大きく拍を打った。心の中で、記憶を固く封印していた錠前がかちりと開いた。闇に吞まれていた星が、再び光のドレスをまとって輝きだす。
 灯子の中で枯れた泉から再び水がほとばしり出て、立ち枯れていた木々が緑の葉をほどかせてゆく。灯子の命と等価なもの、生きることと同義だったもの、それが誇らかに声を上げて復活した。灯子の中に洪水のように言葉が、イマジネーションが、物語があふれ出してきた。
 ――――それは元禮帝の御世のことだった。その冬はことさらに厳しく、雪解けを待たずして力尽きる領民も多かった。ようやく迎えた雪解け四月、館では御仏に鎮魂を祈願するための法要が行われた。
 法要はにぎにぎしく、赤や青の仮面をつけた剣舞が、わらじ履きの脚を高く宙に持ち上げては、どすりどすりと大地を踏んだ。抜き身の刀が青い空を映す。真昼の光に銀色に光る。その様子を、国主千鳥宗尊と北の方、三人の姫君が縁台の上から観劇していた。
 姫君たちは皆器量自慢だった。年若い家臣たち、招待されて参上した隣国の貴人たちは皆、姫たちのつややかな黒髪に陶然となった。
 一番上の姫君の容色が特に優れていた。姫は芳紀十七歳、白い肌は桜の花びらのよう、黒髪は丁寧に重ねられた漆のよう、少し青い瞳は瑠璃玉のよう……――――
 涼雅の足元に落ち重なっていた「緋桜伝」が、自ら風を巻き起こしはらはらと舞い上がった。その白紙だった紙面には、びっしりと黒いフォント文字が浮かび上がっていった。紙たちは一枚一枚意志を持っているかのように、各々あるべき場所に順番に浮き上がった。そして自らがまるで惑星であるかのように、灯子がまるで太陽であるかのように、その周りをぐるぐると巡るのだった。灯子の胸に、これを書き上げる時ついていた机の灯り、窓にたかっていた蛾の水色、眠気覚ましに呑んだ熱い珈琲の苦味がよみがえった。内なる世界とそれを介在する灯子だけの言葉が、白い熱を放ってよみがえった。
 「栗島クリス」に首を締め上げられながらも、灯子の両眼からは涙がほとばしり出た。
 ――――思い出した、思い出した、思い出した……。咲羅は、菊之助さんは、あたしが書いた「緋桜伝」の……。そしてチューリップもアーモンドも、イツキもアイリス様もエスメラルダもみんなみんな……――――
 滂沱と流れて落ちる涙を見た「栗島クリス」の口元に、歪ではない微笑みが浮かんだ。その瞳も、そこにたたえられた感情が憎しみなのか怒りなのか、哀しみなのか喜びなのか、容易には推し量ることのできないような潤みを帯びて光った。灯子の目に彼女の薄茶色の瞳は、未だ高熱の冷めやらない、だが透明に輝く二粒の硝子のように映った。そしてそこから一筋の涙がこぼれて落ちた。
 ――――ごめんなさいね――――
 そう聞えるか聞こえないかぐらいの弱い声で囁きながら、「栗島クリス」の身体は足元からすっと透明になり、幻のように消えた。それはまるで、四月の雪が濡れた地に付くや否や、瞬く間に消えるかのような儚さだった。
 「栗島クリス」が消えた世界で、酷寒の氷のゆるみはさらに顕著となった。
 割れ残ったステンドグラスからは雫がぽたりぽたりと垂れ落ちていた。かすかな水音は幾百と連なり、自らが氷の呪縛から自由になったことをことほぎ歌っていた。
 薄雪が全て解けた絨毯には、素の陽光に照らされたものと、色硝子を透かしたものと、七色の輝かしい光が落ちていた。その清澄さは、灯子がこれまで見てきたどの雪解けよりも明るく、希望に満ちていた。
 灯子は見上げる。雪雲は切れ、望む青空は随分と近く感じられた。灯子のひっかき傷だらけの濡れた頬に触れる風も、またぬるくなった。
 「うん……」そんな声に我に返って振り向けば、昏々と眠り続けていた涼雅の指がぴくりと動いた。灯子ははっとなって涼雅の手を取った。跪き、両手で大切に暖めるように包み込む。涼雅の青白い瞼が動き、黒い瞳が現れた。灯子は覗き込んだ。
 「涼雅……」
 「灯子……」
 その声は弱弱しくかすれて、しかもたった三音しか発せられなかった。だが涼雅は灯子をしっかりと見つめた。黒い瞳で灯子をとらえ、はっきりとそう発音した。
 灯子の唇は震えた。何を言うべきか? 涼雅は目覚めた。彼が目覚めればこの夢も覚めてしまうのか。最後に何を伝えたらいのだろう? 
 好きだとはもう言った。ずっと一緒に居たいとも。だがもうそれも、果せない夢となってしまった。
 灯子は何故か涼雅をねぎらいたかった。記憶を思い出して灯子は思い知った。目覚めるということは何と大きな勇気を必要とすることなのだろう? 涼雅、偉いね、偉かったね……、そう思いながら灯子は泣きそうな微笑みを作った。
 そのとたん、世界は電源が落ちたように暗転した。

さようなら、みんな、霧ヶ峰タウン

 目を開けているのか閉じているのかもわからなくなる真っ暗闇である。灯子のひっかき傷だらけの頬に感じられていた、霧ヶ峰タウンの風も途絶えた。
 そこは雪解けを感じさせた審判の間とは異質な、寒くもなく暑くもなく、それどころか涼しくも暖かくも、湿っぽくも乾燥してもいない場所だった。どことなく無機質で、そっけない匂いがした。
 灯子には状況は飲み込めなかったが、これがあるべき世界の進展なのだということだけは理解ができた。恐怖はなかった。とは言え、今自分がどのようにふるまえばよいのかは分からない。灯子は戸惑い、ただ立ち尽くすばかりだった。
 闇があまりに深いと、本当に自分の身体がここに在るかどうかすらも疑わしくなってしまう。灯子は「栗島クリス」に殴られた鼻や、切れて血のにじむ唇に、自ら触れて確かめようと右手を持ち上げた。その途端、そこは何の前触れもなく明るくなった。蝋燭のようにぼんやりと明るくなるのではない。大きな電灯に一息にスイッチが入ったように、唐突に、一瞬で世界が浮かび上がった。
 そこは破壊され、血塗られた審判の間ではなかった。まるで舞台がはねた後の袖のように様々な大道具や小道具が、乱雑に積み重ねられた板張りの空間だった。
 足元には誰かの脱ぎ散らかした衣装が折り重なり、光沢のあるカバーをかけられたグランドピアノのむこうには、紙で作られた太陽と月が放り投げられている。町の夜景を模したとみられる書き割もある。世にもおぞましい姿をしたモンスターの着ぐるみも、壁のフックから吊り下げられている。
 灯子はやや戸惑って辺りを見回した。誰もいない。しかし何事かが起ころうという気配に満ちていた。これから起こるであろうことに期待をかけて、灯子は深く息を吐き出し、ぎゅっと瞳を閉じた。
 「灯子」
 咲羅の、額から抜けるようなソプラノが言った。
 「灯子殿」
 菊之助の正しい発声が言った。
 「灯子」
 イツキの溌溂とした声が言った。 
 「灯子」
 チューリップのやんちゃな声が言った。
 「灯子」
 気遣うようなアーモンドの声が言った。
 「灯子お」
 野太くたおやかなエスメラルダの声が言った。
 そこには灯子の心から愛する六人の仲間たちがいた。銃弾を浴びてこと切れたはずのチューリップとアーモンドも、なぎなたで一突きにされた菊之助も、操られ心を失くしていたイツキと咲羅も、あの愛おしい日々で灯子に向け続けてくれた、五月の太陽より暖かく明るい笑みを浮かべていた。そしてその衣装は、灯子が勉強の合間にイメージして色鉛筆で描き留めたキャラクターデザインそのままだったのだ。
 「すごい、咲羅のその恰好、初めて見た」
 咲羅が桜色の唇でにっこりと微笑む。
 「あなたが考えたのよ」
 「でも、この目で見るのは初めてなんだもの。やっぱり咲羅はお姫様だね」
 咲羅は朱鷺色をした正絹の小袖の上に、桜が舞い散る様を和刺繍した薄紅梅の打掛をまとっていた。滑らかな光沢を放つ綸子の着物地の上に、一針一針糸を重ねて表現した桜の花びらの上に、艶めく黒髪が落ちかかっている。
 その右脇で穏やかに微笑む菊之助は、辛子色に白い直線的な染め模様の入った直垂という、いかにも中世の武士らしい質実剛健な姿をしている。その腰に差した大小の太刀の凛々しいこと。灯子は思う、やはり菊之助には猟銃よりバズーカ砲より刀の方が似合う。
 「灯子って面倒くさがりの癖に変に凝り性なんだな。この脚とか腰のベルトって、トイレに行くとき大変だろうな」
 水色のリネンのボタンダウンシャツにグレーのレザーワークパンツ、ごつい皮のブーツを合わせ、肩や腕、腰に巻かれたベルトにたくさんの短銃を吊り下げたイツキが、右唇をめくるようにして軽口をたたいた。いかにも軽やかで、洒脱で、自分の格好良さを十分に意識したスタイル。ああそうだ、イツキがお洒落さんだったのは、灯子がそのように設定したからだ。
 「ボクらだけ今までとあんまり変わらないよ。まあ楽だからいいけど」
 チューリップがそう言って鼻の付け根に皺を寄せて笑った。彼女はミニトマトのような赤に、ミントグリーンの水玉の散ったブロードのワンピースを被っていた。一見ありがちな服装に見えて、そのスカート部分はパラシュートのように広がっている。元気でキュートなチューリップの衣装として、灯子が睡眠時間を削って考えたものだ。
 「多分僕らの話は時代設定的に灯子の時代と大差ないんだよ」
 と結論付けるアーモンドは、メロングリーンのメーカー不明のTシャツ(漢字で闘魂と書いてある)に、深緑色のカーゴパンツを少し引きずるようにして履いている。沢山ある膨らんだポケットの中には、異界を冒険するための地図、方位磁石、折り畳み式の双眼鏡、文庫本サイズの妖精図鑑が詰まっているはずだ。
 「あらあ、チューリップ、アタシの方こそ普段と全く変わらないわあ」
 霧ヶ峰タウンでの日常着と同じように、ピンクの総花柄ワンピースをまとったエスメラルダが、右手を右頬に添えてピンク色に染めた厚い唇で微笑んだ。
 「灯子、すべて思い出したんでしょ? 」
 エスメラルダの問いに、灯子はきまり悪そうに唇を歪めた。
 「うん……。みんなはあたしが書いた拙い小説の登場人物だったんだね」
 そう言って灯子は「照れくさいなあ」と言って頭を掻きながら、その名に冠した通り灯りの赤々と燃える瞳で、今自分を取り囲んでいる大切な人たちを見回した。
 七人の間にふと沈黙が降りる。皆微笑んだまま次の言葉を探しあぐねている。ここでのやり取りが先へ進むほど、別れが近づいて来ることに誰もが気付いている。灯子はためらいがちに尋ねた。
 「これは全部夢だったの? 」
 「そうよ」
 エスメラルダが答えた。
 「夢の中でも夢って見るんだ。あたし普通に眠って夢とか見ていた」
 「夢の中で見ている夢は、きっと現実での思い出だったのでしょう? 」
 灯子は自分の鼻先を見つめるように目を寄せてこうつぶやいた。
 「そうだったかもしれない……」
 そう絞り出しながらも灯子は、魔法の最後の一匙が宙に消えてゆくのを感じていた。ああ、この夢はもう覚めてしまう……。
 「ねえ、咲羅と菊之助のお話はどういう話だったの? 『緋桜伝』って、灯子が書いた咲羅の物語だったんでしょ? 」
 チューリップが妖精のような緑色の瞳を生き生きと輝かせて尋ねた。灯子は何故か元気な気分になり、言葉を尽くして自らの生み出した物語について語った。
 「うん、『緋桜伝』は姫と家臣と身分違いの恋に落ちた恋人たちが、戦乱の世の中で敵味方に引き裂かれ、数奇な運命をたどるんだ。虜囚になったり、放浪したり、意に染まぬ結婚を強いられたりしながらも、ひたすらに想いを貫き通すんだ。ちなみに舞台は室町時代の日本ではなくて、架空の日本国の架空の時代なんだ。『慧元』って言うのも想像上の元号なんだよ。丁度霧ヶ峰タウンでの『文書』の存在は、『阿闍梨の笛』っていう救いをもたらす秘宝と入れ替えになっているんだ」
 咲羅は微笑んで聞いていた。その少し青い瞳に、無機質なこの空間の光が温かく揺らいでいる。その眼差しで幼い妹の卒園式を見守る姉のように灯子を見つめている。そして灯子が語り終わった時、そこに少し茶目っ気を滲ませて尋ねた。
 「それで、わたしたちは幸せになれるのかしら? 」
 「うんもちろんだよ。『阿闍梨の笛』のおかげで敵は滅びて、咲羅の父上も頑なだった心を解かす。二人が祝言をあげるところで物語は終わっている」
 菊之助が破顔し、いつもよりも数段朗々とした声で言った。
 「それは何とも、喜ばしい話じゃの」
 灯子はウサギのような前歯を見せて笑った。
チューリップが妖精のように大きな緑色の目を見張りながら訪ねた。
 「ねえ、ボクらのお話も聞かせてよ」
 灯子はわくわくとした大きな笑顔を作った。
 「チューリップとアーモンドは、妖精の女王様と自動車修理工の間に生まれた子供なんだ。二人は両親が再び一緒に暮らすことができるように大冒険を繰り広げるんだ。月明かりが燃料の真っ赤なジープに乗って、妖精界を疾駆するんだ。もちろん運転手はチューリップで、アーモンドは助手席で異界の地図を広げるんだよ。チューリップは自分たちだけいつもとあんまり変わらないって言ったね、でもよく見て、二人の背中には翅があるよ」
 チューリップとアーモンドは目を丸くしてお互いの背中を見やった。チューリップの背中にはモンキチョウの様な翅が、アーモンドの背中にはギンヤンマの様な翅があった。二人はお互いを指さして笑いあった。
 イツキがいかにもスマートな仕草で腕を組んで尋ねた。
 「俺の話は一体どういうんだ? 」
 「うん。イツキの話はこうだ。邪悪な魔物がはびこる十九世紀のプロヴィデンスに、バチカンから聖女の素養を持つアイリス様が送り込まれてくる。魔物に加えプロテスタント勢力の強い町で、アイリス様の立場は危ういものとなる。そこで登場するのがイツキ。イツキは旧幕臣に育てられたガンマスターで、アイリス様の美貌にほれ込んで護衛になり、邪悪な魔物たちとプロテスタント系の刺客と死闘を繰り広げるんだ」
 イツキは秀麗な顔を大きな微笑みで輝かせた。
 「なあるほど。俺があの方にほれ込んだのはその設定のせいか。じゃあ、ピノやオオカミやカリンは? 」
 「ピノたちはあたしが子供のころ一番最初に書いた作品の登場人物で、正義の心を持つ山賊の親玉なんだ。誰もかれもを傷つける戦争を機知と機転でやめさせるんだ」
 エスメラルダが野太い声を甘ったるく張り上げる。
 「灯子、アタシたちの話もしてえ」
 「エスメラルダは小さい二人の姉弟の守り役なんだ。冥界にお父さんを探しに行った姉弟を守って連れて帰るのが、男の心と女の心、その両方を持った、オネエの魔女のエスメラルダたちの役目なんだ。あたしの設定では、女の心を持っていないと冥界には入れなくて、男の心を持っていないと帰れないんだ。だからエスメラルダがオネエであることはとっても重要なんだ。そうだ、エスメラルダを魔女って決めたのはあたしだったんだね。エスメラルダと元恋人の悲恋話もあたしが……。あ……、それじゃあもしかして……、エスメラルダが言っていた『造物主』様って言うのは……」
 エスメラルダはたしなめるようにピンクの唇をすぼめ、その前に右の人差し指をぴんと立てた。
 「そ、れ、は、灯子、あなたであってあなたではないわ。あなたにアタシたちの物語を書かせたおおもとの力、それが造物主様よ。あなたの意志であってあなたの思惑を超えたところにあるもの、人が物語を求めずにはいられないその根源におわすもの」
 「よく分かんないけど分かった気がする……。時々思っていたんだ。物語ってあたしが考えているようでいてあたしの力だけで出来ているものじゃない。もっと大きな何かが、あたしの頭を楽器みたいに使って、あたしの身に余るような何かを表現しているのじゃないかって。ねえ、エスメラルダ、エスメラルダはどこまで知っていたの? あたしがもう死んでいて、みんながあたしの考えたキャラクターで、現実から逃げてきたあたしをひたすらに甘く包んでいてくれたってことを」
 エスメラルダは慈しみ深く微笑んだ。
 「ええ、最初から知っていたわ。アタシだけじゃない、アイリス様やピノ、オオカミ、カリンたちも最初は知っていた。アタシたちは造物主様から、しばらくここで灯子の心の傷を埋め合わせした後、現実に返すという使命を負っていたの。まさか三年もかかるなんて思ってはいなかったけれどねえ。クリスちゃんが現れた時、アイリス様やピノたちはその氷の魔力で使命のことを忘れてしまったけれど、アタシたちは造物主様より授かった特別な力のおかげで、忘れないでいられたのよ。そして灯子、間違いを正しておくけれども、あなたはまだ死んではいない。ここで再び目覚めれば、あなたは現実の世界へと帰れるの」
 灯子の赤みを帯びた茶色の瞳が希望と不安に輝いた。
 「え、あたし死んでないの? 雪山に踏み入っていって感覚がもうろうとなっていったよ」
 「ええ。でもまだ死んではない。目が覚めたら本来の肉体が待っているわ。この体は、涼雅同様、現実世界の荒波からの一時避難場所としてここで暮らすために与えられたものなのよ」
 その言葉に灯子は、不意に心に痛みが走るのを感じた。
 「そうなんだ……。それで……涼雅はどうなったんだろう? 」
 「一足早く現実に戻ったわ。『眠れる核』が目覚めて、町の幻影は消えた。後は人が消えるのみ」
 「『眠れる核』? でも涼雅に『緋桜伝』を渡しても何も起こらなかった。ねえ……、本当はどっかで予測していたけれど、『眠れる核』って……あたしのことじゃなかったの? 」
 「灯子、『眠れる核』は二人いたのよ」
 エスメラルダはピンク色に塗られた唇を悪戯っぽくすぼめた。まるでここまで隠しおおせたことを、楽しんでいるかのような口調でこう言う。
 「一人目は涼雅、もう一人は灯子。造物主様は男でもあり女でもある。忘れた? 『眠れる核』は『両性具有の象徴的ミニチュア』、その両面性を表そうとしたなら、必然的に男女一対が必要となるでしょう? その一対であるあなたたちの傷ついた魂を癒すため、造物主様によってこの世界が招へいされたの。涼雅は目覚めた。あなたも目覚めれば住人たちの幻影も消えて、この夢は完全におしまいになる」
 灯子ははっとして自分を取り囲んでいるみんなの姿を見回し、夕陽の最後の熱で赤く火照ったかのような心で思った。終わりになる。お終いになる。そうか、これが最後なのか。自分が現実に帰れば、みんなも灯子が作ったあるべき物語の中に戻っていく。霧ヶ峰タウンは跡形もなくなる。灯子は急に怖気づいて声を震わせた。
 「何だか怖いなあ……。もうみんなと飲み会をしたり軽口をたたき合うこともなくなるんだな。馬車で通勤したり貴重な珈琲にため息を吐くことなんかもなくなるんだね……」
 エスメラルダがなだめすかすように言う。
 「現実に帰れば毎日珈琲が飲めるわよ」
 「うん。でも、あのドリッパーの中で粉が膨らんでいる時のわくわく感は、めったに味わえないものだからこそだったんだよ。エスメラルダの淹れる珈琲、美味しかったなあ」
 咲羅が泣くような笑うようなどっちとも取れる形に目を歪めて、世話の焼ける妹に噛んで含めるかのように言った。
 「灯子、珈琲ぐらい自分で淹れられるようにしなさい。珈琲だけではないわ、料理も掃除も洗濯も、もっと力を入れることよ。もうわたしも灯子の世話を焼くことは出来ないんだから」
 「そうだね、解っているんだけど……。でも、咲羅と同じくらい美味しいひっつみを作る自信はないなあ」
 菊之助が明朗な声でからからと笑って言った。
 「大丈夫じゃ。灯子殿、料理など出来なくとも死ぬる訳ではない。灯子殿はあの酷寒の旅程をすべて歩き切った。生きる力は十分にござる」
 「灯子、ところで告白は成功だったのか? それともどぼんか? 」
 イツキがいつものあのにやにや笑いを浮かべて言った。最後の最後までイツキはちょっと意地悪で、そして最高にスマートだ。灯子は顔を赤くして口の中でもぞもぞと言った。
 「半分成功で半分ドボン。あたしのことは好きだけど霧ヶ峰タウンにいる間しか付き合えないって。つまりは今となっては涼雅と付き合える望みはなくなってしまったわけだ。とほほ、これじゃあ完全ドボンになったね」
 イツキのにやにや笑いは、離れ行く友を励ます微笑に変わった。
 「そうか……、そうなんだ、うん残念。まあ、灯子は結構可愛いから、またいくらでも男が寄ってくるさ。そう落ち込むな」
 「うん……」
 チューリップが短いストライドでたたたと駆けよって来て灯子にギュッと抱き着いた。
 「灯子、偉いね、ちゃんと告白できたんだ」
 「うん、ありがとう。チューリップにも色々助けてもらったのに、いい結果を出せなくてごめんね。あたしチューリップのいつも全力なところ好きだった。離れるのが辛いなあ」
 チューリップの声は涙声になっていた。
 「ボクも灯子と離れるの辛い。ボクのこと忘れないでね、絶対絶対忘れないでね! 」
 灯子もチューリップの背中に生えた黄色い翅の背中にぐるっと腕を巻き付けた。
 「うん、忘れない、忘れないよ。チューリップたちの冒険も成功に終わるはずなんだ。みんな幸せになれる」
 「姉さんばっかりずるいや。僕だって灯子に抱き着きたいよ」
 少し離れたところでアーモンドも、腕で目をごしごしと拭いている。灯子はチューリップの黄色い翅の間に回した両腕を広げた。
 「いいよ、アーモンドもおいで」
 アーモンドは駆けよってチューリップの上から灯子にひしと抱き着いた。三人は固く抱き合って涙を流した。
 ふとエスメラルダが宙を見上げた。急にちかちかと、辺りを満たしていた灯りが明滅した。灯子ははっとして目を見張った。エスメラルダが言った。
 「さあ、刻限が迫ってきたわ。宝来灯子が目覚める時が来たのよ。灯子、現実の世界がどんなに厳しいものであっても、今のあなたならやって行ける。ここでの出来事はたとえ夢であってもあなたを強くしてくれるわ。さあ、お行きなさい、宝来灯子」
 チューリップとアーモンドが涙を拭きながら名残惜しそうに灯子から離れた。灯子もまた涙を拭いて、なんとか嗚咽を抑え込もうとするぐしゃぐしゃの顔で笑った。
 「ありがとう、みんなみんな。あたし強くなるよ。誰にいじめられても裏切られても耐えられるぐらい強くなる。そしていつかきっとみんなのお話も、あんな拙い文章ではなくてきっちり本格派の読み物として書き直してみせる。その日まで待っていてね」
 最後の最後に、嗚咽をこらえきれない咲羅が灯子に抱き着いた。灯子は滑らかな綸子の打掛と、さらさらと落ちかかる咲羅の黒髪との間に手を回した。
 咲羅の肉体は仮初のものだ。霧ヶ峰タウンの造物主様が作った作り物だ。それでも灯子は確かに脈打つ心臓の音を聞いた。体中に巡らされた血管に血が巡るのも、そこから立ち昇る力強い熱も感じた。若々しく詰まった肉も、雪のように冷たいと見えて実は火照ったしなやかな皮膚も感じた。
 咲羅は、一体灯子に何を感じ取っていたのだろう? この仮初の体のむこう側の、眠り続ける灯子本来の体のぬくもりを感じていたのだろうか? 灯子がここまで逃げてこなければならなかった悲しみを、それでも戻ってゆかなければならない不安を、それなのにいや燃え盛る希望の火を感じ取っていたのだろうか? 灯子と咲羅はしばらく言葉もなく、ただ泣きながら抱き合っていた。
 世界の明滅は激しくなる。言葉では介在できない様々な想いを灯子との間に交わして、咲羅もまたすすり泣きながら菊之助の隣に戻った。イツキが涙でもこらえているのか、不自然に力強い微笑みを浮かべて言った。
 「灯子、もしも涼雅に会うことがあったら伝えてくれ。三年間涼雅と親友として過ごせて楽しかった。お前は最高の相棒だったと」
 その言葉の途中から、辺りにはいつも仕事終わりに聞いていた「アニーローリー」が響きはじめた。世界の明滅はいよいよ激しくなり、演目の終わりを告げる冷酷なブザー音が鳴って、まるで公演はもうお終いとでも言うように世界は暗転した。もう咲羅やチューリプのすすり泣きも、イツキの励ます声もアーモンドのさよならという声も聞こえない。

 そこは真っ暗闇だった。
 闇にも濃度はある。光が薄く届いてきそうな闇もあれば、何処まで求めて行っても永遠に続く闇もある。
 灯子を包んでいたのは真綿のように柔らかく、羽毛布団よりも分厚い、奇妙に居心地の良い闇だった。不快な暑さも寒さも一切なかった。ただ空気だけはじっとりと湿っていたかもしれない。動物由来のような匂いがした。これは血の匂いだったろうか? それともミルクの匂いだったろうか? 何の音もしない。何の痛みもない。何の哀しみもない。

 灯子はどれほどの間その居心地の良い闇に漂っていただろう? 不意に灯子の耳にかすかに、誰かが呼びかける声が、ボリュームを最低に引き絞ったラジオのようにかすかに響きだした。徐々に徐々に、その声ははっきりと大きくなっていた。どうやら二人の男女の声で、二人ともこの世が双肩にかかっているかのような悲壮感を込めて語りかけてきた。二人が繰り返しているのは、どうやら灯子の名前だった。
 「灯子……」
 「灯子……」
 何かの薬品の匂いがした。嗅いだことがある匂いだ。そうだこれは消毒液の匂いだ。そんなことを思っていると、灯子は自分の指がぴくりと動いたのを感じた。
 そのとき灯子は、これがまぎれもなく自分本来の肉体であることを確信した。重力にずっしりと重く、右手の人差し指を動かすだけでやっとの体。誰かの大きな手が灯子の手を包んでいる。
 「灯子」
 その声はようやくはっきりと聞こえた。そうだ、これは……。
 「灯子、目を覚まして」
 ――――お父さんとお母さんだ! ――――
 灯子は目を開けた。外の世界でどれほどのときが経っていたのかは分からない。だが、灯子の目は、百年ぶりに深海の底から陽の光を仰いだ人魚のように眩んだ。目がチクチクと痛く涙がにじんで流れた。
 「灯子、灯子、ああごめんなさい! 」
 灯子の両親はそう泣きじゃくりながら、灯子の萎えた体を力いっぱい抱きしめた。起き上がろうとしても、二人を抱き返そうとしても、体がぐにゃぐにゃのクラゲにでもなったみたいに力が入らない。灯子は戸惑った。この体は一体どうしてしまったんだろう? 
 徐々に目が光に慣れてくると、灯子はようやく両親の顔が見分けられるようになった。二人は老け込んでいるとまでは言わずとも、記憶に残っていたよりもやつれ疲れ切っているように見えた。二人はしわが刻まれ始めた目じりに大粒の涙をこぼしながら灯子の名を呼び続けた。
 「ああ、看護士さん、看護士さん、目を覚ましました、灯子が目覚めたんです! すぐに先生を呼んでください! 」
 その言葉に、灯子はここが病院であることに気づいた。そこはどうやら六人部屋で、仕切りのカーテンのむこう側では身じろぎ一つしない患者たちが横たわっているようだった。看護士が慌ただしく駆けてゆく音が聞こえた。
 灯子のベッドは窓際だった。窓の外は初秋の景色が広がっていた。敷地ぎりぎりまで立ち並んだ住宅の手前に、瑞々しくもなく老け込んでもいない緑をしたイチョウの木立が三つ、金色の午後の光に照らし出されていた。

灯子の本当の人生は

 灯子のリハビリは一年近くにわたって粘り強く続けられた。灯子は立って歩くことはおろか、寝返りを打つことも、首を持ち上げたり体を起こすことすらも難しい状態だった。水の入った小さなマグカップすら、自分の手でもつことが出来ない。箸やスプーンを使って自ら食事をとることも困難だった。
 あの雪山での自殺未遂騒ぎから三年半、灯子は昏睡状態にあった。と言っても入院から一週間も経った頃には、既に体の働きは正常に戻っていたらしい。医者にも理由の付かない症状で、灯子は昏々と眠り続けていた。
 あの日灯子は随分と山奥に入り込んだつもりでいた。だがそこは、実際には麓のスキー場のすぐ奥に入っただけの場所だったのだ。バックカントリースキーを楽しんでいた外国人観光客たちが灯子を見つけ、警察に通報した。灯子は速やかに救助され、凍傷で指を失うという事態も回避された。
 灯子の両親は、自分たちの娘がどれほどひどい扱いを受け、どれほど傷つきどれほど孤独であったのか、娘が昏睡状態に陥ってからから初めて思い知ったのだった。二人は自分たちが如何に愚かで傲慢であったかということを、声を詰まらせながら語り、涙ながらに灯子に謝った。娘を癒し守ってやるべき自分たちが、逆に冷たく突き放したことについて、はらわたをえぐりたいほど後悔していると言った。
 両親が灯子が味わったいじめがどれほど理不尽で酷いものであったのか知ったのは、あの事件の後、ぽつりぽつりと尋ねてきた、同じ高校に通っていた同じ中学出身の同級生たちの証言によってだった。
 彼らは灯子には虐められる非があったわけではないと語った。灯子の一年生の時の担任が、どれほど信用ならない教師であったかも語った。灯子は味方がいないと思っていた学校で、はらはらしながら見守ってくれていた子たちがいたことを知った。
 東京で働いている兄からは、メールを打つのも困難な灯子を気遣って、毎晩のように電話がかかってきた。弟もぶっきらぼうな様子を装いながらもその実、灯子のリハビリの進捗状況にただならぬ興味があるようで頻繁に顔を見せた。灯子が失っていた暖かな世界は、形を変えてはいるもののゆるやかに回復しつつあった。
 毎日厳しいリハビリに耐える灯子の心を支えるのは、懐かしい霧ヶ峰タウンでの思い出だった。
 あの日々は確かに夢だった。この世の苦しみから逃げてきた灯子が思い描いた夢だった。だが灯子は思うのだ、あれは夢ではあってもただの夢ではなかったと。
 ただの夢であれば覚めた途端にその手触りは失われ、霧の海に漂う蜃気楼のように模糊とした印象だけとなってしまう。だが霧ヶ峰タウンの夢は目覚めてしまってなお、光の色から空気の匂い、手に触れた感覚、味わった料理の数々に至るまで精巧にイメージすることが出来た。灯子は最後にピクニックが行われた土曜日が、五月二十二日であったことすらはっきりと覚えていた。
 咲羅にイツキ、涼雅にチューリップ、アーモンド、エスメラルダ、仲間たちの想い出は、中学校まで共に過ごした幼馴染たちの記憶と何ら変わりなく、実体を伴った存在として思い起こすことが出来た。
 まるで粘土の彫刻をペタペタと触って確かめることが出来るように、霧ヶ峰タウンでの暮らしは、歯ブラシの形から洗濯ばさみの色のような細部に至るまで、豊かな実感を伴って灯子の胸に宿っていた。
 霧ヶ峰タウンやそこで共に暮らした仲間たちのことを思い起こすことは、その暮らしを終わらせた「栗島クリス」を思い出すこととセットになっていた。灯子の夢に現れた「栗島クリス」とはいったい何者だったのだろう? 彼女に裏切られた灯子の無意識が見せた幻影、「悪役」としての姿だったのだろうか? 
 灯子は「栗島クリス」の出現に宿命じみたものを感じ取っていた。彼女が現れなければ、灯子は町での暮らしをやめずに現実に帰るなんて選択はしなかっただろう。あれは必要な痛みだったのだ。
 だがいずれにせよ、灯子は今現実を生きているであろう「栗島クリス」が、眠り続けていた自分に関わってくるいわれが無いこともよく分かっていた。「栗島さん」は灯子とはかかわりのない世界で、今も華やかな暮らしを送っている。
 家族との会話に「栗島クリス」の話は出なかった。多分家族は灯子が死を選んだ直接的理由を知っているはずだ。あの事件について知っていて語らないのだ。彼らは灯子が信じていた親友から裏切られたことを、まだ苦しんでいるのだと思っている。
 だが、不思議なことに灯子にはもう「栗島さん」を恨む気持ちは残っていなかった。辛い日々の心の支えだった彼女との時間を、それ自体甘やかな思い出として、淡い微笑みととも思いだせるようになっていた。
 灯子が「栗島クリス」の運命を知ったきっかけは、退院が叶い、家のソファーの上に座ってHuluで映画を検索したことだった。
 「あ、栗島さんだ! 」
 灯子は「裸足でダンス」という映画の主演女優に、「栗島クリス」の名前を発見した。彼女は望み通り、東京へ出て女優として活躍していた。灯子は我が事のように嬉しくなり、迷わずその映画を見た。
 物語は若者四人の複雑に絡み合った恋模様を描いた清新なものだった。灯子は引き込まれた様に「栗島さん」の演技に見惚れた。彼女は素晴らしかった。美しくプライドが高い少女の、不器用な恋心が魅力的に表現されていた。灯子は切ない場面ではぎゅっと手を握りしめ、嬉しい場面ではウサギのような前歯を見せて笑った。
 ――――すごい、すごい栗島さん、本当に夢をかなえたんだね――――
 灯子は黙っていれなくなり、隣で一緒に見ていた弟に、「栗島さんだよ。あたしと同じクラスにいた綺麗な子。高校時代から本当に努力していたんだ。ねえ、これより他に、もっと彼女の映画はないの? 」と尋ねた。
 弟は喉に大きな林檎の塊でもつっかえたように口ごもった。それから数度落ち着かなく瞬きをし、開きかけた唇を何度も閉じて盛大にためらった後、ようやくこう答えた。
 「これで最後だよ、灯子、彼女は死んだんだ、自殺したんだ……」
 灯子は胸に巨大な砲弾を食らったかのような衝撃を味わった。何故? どうして? 信じられない、信じられない……、何かの間違いではないか? 栗島さんがもう死んでいるなんて、それも自ら死を選んだなんて……。あんなに努力家で夢に真っ直ぐだった栗島さんが……。
 「栗島さんが死んだ? 一体どうして? 」
 身を乗り出して噛みつく勢いの灯子に、弟はとても言いにくそうに、つっかえつっかえに答えた。
 「この映画がヒットして半年ほどでSNSに灯子へのいじめのことで書き込みがあったんだよ。栗島クリスが同級生を自殺に追いやって自分はのうのうと女優をしているって。それが瞬く間に広がって、週刊誌にも記事が掲載されて、映画もドラマも降板になって、毎日毎日バッシングされて、今までちやほやしてくれた世間が、一気に敵に回ってしまった。それで自宅に引きこもって、住んでいたマンションのベランダから……」
 灯子は呆然としてソファーから身を起こした姿勢のまま凍り付いた。
 ――――死んだ……、栗島さんが死んでいる……――――
 凍り付いた審判の間に響いた彼女の悲痛な声がよみがえった。
 ――――あたしからすべて奪ったのはあなたの方じゃない――――
 灯子の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
 「あたしが自ら死のうとしたことが、栗島さんの未来を奪ってしまった……。あんな軽はずみなことするんじゃなかった……、あたしなんてあと一か月我慢出来たら学校からも解放されたはずだったのに……」
 弟は灯子とよく似た赤みを帯びた茶色の目に、未だ燃える激しい怒りの色を滲ませて、突き刺すように言った。
 「そんなやつのことなんか悼んでやるなよ! 灯子を裏切って追い詰めた張本人だろ。当然の報いだよ、自分の行いが自分に返ってきた、それだけだ」
 灯子は頬を涙につたわせながらも首を横に振った。
 「いいや、いいや、多分栗島さんは裏切ったんじゃないんだ。あたしが書いた小説が本当に気に入って、みんなに読んで欲しくって、だからあれをみんなに見せたんだ……、やましい気持なんかなかったんだ……」
 「でもあいつは灯子の見舞いには来なかった。家に謝りにも来なかった。人間らしい情があるんなら、罪悪感を感じる筈だろ? 」
 「いいや……」
 灯子はひたすらに首を横に振り続けた。
 「栗島さんが罪悪感を感じていなかったのは、自分にやましい感情なんかなかったからだよ。謝るべきでないことには絶対に謝らない、それが栗島さんらしい潔さなんだ。それにあたしはもう謝ってもらっている……」
 灯子はようやく素早く動かせるようになった右手でテーブルの上のティッシュをとった。ああ、自分の身体はこんなに動かせるようになったのに栗島さんは死んでしまった。彼女にはもう役を憑依させて演じ切る体はない。これから先の人生がよくなる見込みも展望も、何もない。何も残っていない……。あの日語ってくれた夢は、ついには何処へも行けないまま停止してしまった。

 それから一か月ほど、灯子は「栗島さん」の喪に服した。食事もあまりとらずリハビリにも熱を入れず、自室に引きこもって涙ばかり流していた。頭の中には最後に審判の間で「栗島さん」が囁いた、「ごめんなさいね」の一言が風の唸りの様に鳴り響いていた。
 一か月後、灯子は何かに目覚めたかのように立ち上がった。母親に「パソコンを買い替えたいからお年玉からためていた貯金を下ろしたい」と頼んだ。
 ヴァ―ジョンアップがすべて終わったパソコンの前に座って、灯子は猛烈に書きだした。既に両手の指は問題なく動くし、長時間座ってもいられる。これまで灯子が創作活動を行っていなかったのは、霧ヶ峰タウンの仲間たちに誓った言葉がかえって重くプレッシャーとなってのしかかっていたからだ。良いものが書けない限り書くことは無意味だと思ってしまっていた。
 だが、栗島さんの運命を知って、灯子は自分の遺された命のことを思った。灯子はまだ若い。この先何十年も人生が残っているはずだ。だが、かつて自分は自ら死のうとした。栗島さんは自ら命を絶った。何処でエンドマークが付けられるのか分からないのだ。
 そして最も大きな理由が栗島さんへの供養の心からだった。栗島さんが死んでしまった以上、自分は筆を折っているわけにはいかない。彼女の意志を抱きとるように、書いて書いて書きまくらねば。栗島さんはあの審判の間で灯子の「緋桜伝」について、「良すぎたから」と言った。
 灯子はリハビリ以外の自由時間のほぼすべてを使い、三百枚の長編を書いた。綺麗なお姫様と物乞いの子供の友情を描いたファンタジー作品だった。灯子はそれを腕試しだと、あるエンタメ系の新人賞に送った。
 期待をしてはならないとも思ったが、胸の奥が否応なく勇んで燃え立つのを感じた。

 灯子のリハビリは粛々と進んだ。元々年齢も若く体力があった灯子は、一年ほどで日常生活や軽い運動に耐えられる体を手に入れた。
 ここで灯子は選択を迫られることとなった。
 元々望んでいた通り進学を目指すのか、それとも職を得て働きだすのか。
 四年前の時点で最大だった学力には、今では到底かなうべくもない。両親は灯子の治療費にお金を使い、灯子が安心して長く勉強できる学費を支払うことは難しい。
 灯子は迷ったが結局働くことを選んだ。両親はバイト経験すらない灯子が働くことについて、不安を感じているらしかった。だが灯子はそれほどの抵抗感も不安感も感じなかった。霧ヶ峰タウンでは、三年間もパンの生地を計る業務についていた。
 厳しい現実を思い知ったのは、ハローワークの紹介で最初の面接を受けた時だった。高校卒業(灯子は何とか卒業できていた)から今に至るまでのブランクについて尋ねられて、正直に「自殺未遂して三年半昏睡状態でした」と言ったら即落とされたのだ。次の面接のときには「病気で入院していました」と言ったが、後でハローワークの職員に落とされた理由を聞いてみたところ、「健康上の不安で」という答えが返ってきた。世間では、一年以上社会的なブランクがある人間は敬遠されるのだ。
 就活を始めて半年、灯子はようやく冷凍食品会社の製造工程に職を得ることが出来た。灯子は霧ヶ峰タウンの経験から、工場労務であれば自分にも無理なく働くことが出来ると思い込んでいた。
 その考えが甘かったと思い知らされたのは、働き始めて一週間もたたないうちだった。上司が時代錯誤なパワハラを繰り返す人だったのだ。灯子は直接の標的にされていたわけではないが、他人が痛めつけられるのを見聞きすることは、高校でのつらい記憶を刺激することとなった。
 そしてとにかく仕事がきつかったのだ。灯子は手ごねハンバーグをこねる部門にいたのだが、一日中ひき肉とパン粉の混じった生地をこね続けて、両手が腱鞘炎になった。霧ヶ峰タウンの食品加工工場でのヴァーチャルに甘やかされていた労働と、実際の肉体を持った労働とでは疲労度の桁が違った。
 灯子は疲労感と戦いながら夜の時間を使って細々と執筆を行っていた。このまま腱鞘炎が悪化すればキーボードすらも打てなくなってしまう。栗島さんへの供養が、咲羅やイツキと交わした約束が果たせなくなってしまう。
 灯子は半年間我慢して、結局工場を辞めてしまった。再び面接を受け続けなければならないことへの不安もあったが、ここで働き続けるのは到底無理だと思ったのだ。せめて上司がもっと話せる人であればよかったと心底思った。
 次の半年間ほどの就職活動も灯子にとっては苦しい日々だった。丁度新人賞の結果が発表されて、第一次にも残らずに落選していたことが分かった。期待しないようにしていたにもかかわらず落胆は大きかった。灯子の文章は箸にも棒にもかからなかったのだ。
 多分基礎が出来ていないのだと察しがついた。文章の基本を学びたくて、ネットで文学講座を探してはみたが、どれもこれも灯子が稼げるような収入では受講できないものばかりだ。自分は一から一人で戦わなければならない。どうやったらみんなの活躍を神経の行き届いた文章で生き生きと描けるのだろう? どうやったらみんなとの約束を果たせるのだろう? 
 半年もの就職活動の末、やっと決まった次の仕事はファミリーレストランの調理だった。早朝からのシフトに回されて、毎日五時起きで朝の七時から午後の四時まで勤めた。
 収入面では大幅な減となった。最低賃金の時給で働かなければならない。霧ヶ峰タウンで楽々稼いでいた月給には到底かなわない。灯子は一人暮らしを目指すという目標を、留保せざるを得なくなった。
 ファミリーレストランでの仕事もすこぶるきつかった。
 目まぐるしく鳴り響く注文のベルの中で働かなければならない。とにかくじっとしている暇がない。調理工程を効率よく組み立てて効率よく動くことを、一瞬で判断しなければならない。麺をゆでながら卵を焼き、電子レンジでドリアを加熱し、ハンバーグもポテトも同時に出さなければならない。ちょっとオーダーが途切れれば皿洗いが待っている。並行作業、それは灯子の最も苦手としていることの一つだった。
 灯子は出来が悪いと店長から邪険にされた。辞めようかなと思ったことは一度や二度ではない。同僚たちの温かい励ましが無ければ、灯子は到底一年以上働き続けることは出来なかったことだろう。
 一緒に働いている同僚たちはそのほとんどが、学生アルバイトや主婦パートだった。少し年下の学生たちは灯子を頼りない姉のように扱い、年長の主婦の方々は灯子を世話の焼ける娘のように扱った。彼らの間では、灯子はそれなりに居心地よく過ごすことが出来た。
 灯子が再び現実を思い知ったのは三月の卒業シーズンを迎えたころのことだった。バイトの学生たちが社会へと旅立ってゆく。灯子がやっとのこと見つけた職場は、学生たちにとっては仮の居場所でしかなかった。彼らは卒業して、もっと給料の高い、もっと将来性の高い、自分の価値を見込んでくれる職場に意気揚々と漕ぎだして行く。灯子にはどこまで頑張っても、ここから昇進する見込みなどない。灯子は自分の人生のレールが、低賃金労働者として定められてしまったことを悟った。
 灯子が思わず不安を漏らした主婦パートの人たちは、皆「結婚しちゃえば」とこともなげに言った。灯子は言葉を呑んだ。確かにそういう道もある。結婚して夫の扶養になれば、ここまで人生をかけて見込みのない労働にあくせくすることもない。子供の一人さえ産んでしまえば、世間が灯子のたどって来た道についてどうこう言うこともなくなる。
 だが灯子は言葉を呑みこんだまま「うんそうですね」とも言わなかった。生活のためだけに結婚して自分の性を売りつけるということ、世間への免罪符のために一つの命を生み出すということ、その二つに灯子は激しい罪悪感を感じるのだった。
 昏睡から目覚めた灯子はまだ一度も異性と付き合ったことがなかった。言い寄る男がいなかったのが一番の理由だが、たとえそういう人が現れても、灯子は今はまだ応じることは出来ないと思っていた。
 退院して自力で移動できるようになってからずっと、灯子は涼雅を探し続けていた。

 まず最初に分かったこと、それは緑風高校に「森嶋涼雅」という生徒は在籍した形跡がなかったことだ。緑風高校に通っていた中学の同級生に話を聞いても、「森嶋涼雅」という名前を聞いたことがある人はいなかった。下級生や上級生に範囲を広げてもまるでかすりもしない。つまりは、涼雅が緑風高校に通っていたことは考えにくいと判断せざるを得ない。
 灯子は捜索の範囲を近隣のほぼすべての小学校、中学校に広げた。だがここでもはかばかしい成果を上げることは出来なかった。誰一人「森嶋涼雅」を憶えてはいなかった。 
 果たして、「森嶋涼雅」という人間はこの世に実在するのであろうか? 霧ヶ峰タウンの仲間たちが灯子の創作物から現れた幻であったように、涼雅もまた、灯子の妄想から派生した架空の人間ではなかったのだろうか? 
 それにしても自分は今更涼雅を探し出してどうしようというのか? 涼雅ははっきりと言った、現実に帰ったら自分たちはつき合えないと。頭では理解している。もうとうに望みのついえた恋をいまさら蒸し返してどうしようというのか。
 だが灯子は、再び涼雅と向き合うことをしないままで、新しい恋を始めようと思うことは出来ないのだった。一度リアルな涼雅の顔を見て、きちんとした決別の言葉を交わして、それから、それからでなくては……。
 だがその望みの中にはもしかしたら、あわよくばと甘い展開を期待する下心が潜んでやしないか? 灯子はどこかで夢を見ている。霧ヶ峰タウンで焦がれていた涼雅が、現実でも灯子の恋人となってくれることを。
 中途半端な覚悟と期待を抱き孕んだままで、灯子の捜索は三年間も続いた。

 「涼雅」の謎が解けたのは、建物の中にまで雪雲のくすみがにじみ出してくるような暗い、一月下旬の寒い一日のことだった。
 その日灯子は入院していた病院に、定期の検診のため仕事を休んで通った。検診を問題なく終え、総合受付の待合室で会計を待っている時、後ろから声をかけられた。
 「灯子、灯子じゃないか」
 振り返った灯子の胸に甘い衝撃が走った。
 「あれ、涼雅だ! 」
 それは霧ヶ峰タウンでの涼雅よりもやや短めに髪を切った涼雅だった。灯子が反射的に生み出されるときめきの鼓動を胸に感じていると、彼は怪訝そうに眉をゆがめた。
 「俺は大河だよ。ほら、小学校から中学校まで一緒だっただろ」
 灯子は目を見張った。
 「あれ、大河君……」
 「うんそうだよ。さては俺がイケメンになりすぎて見違えたか。お前、高校から大変だったんだって? もう体はすっかりいいのか? 」
 「うん。今日はただの検診だよ。もう問題なく歩けるし仕事だってしてるよ」
 そう答えながらも灯子はまじまじと、目の前に立っている大河君の顔を見つめた。前から記憶の中の大河君と涼雅はよく似ていると思っていたが、こうして成長した大河君を見ていると、その酷似の仕方は偶然とは言い難く感じられた。
 張りのある黒い髪、深い瞳、細面で整った鼻梁、だがそれは涼雅を彩っていたあの陰りという一点で、目の前の大河君とは一線を画していた。今は真冬で日焼けしていないにもかかわらず、大河君は蒼白くはなく健康的な顔色をしていた。立ち姿からもそこはかとなく日向の匂いが漂っている。
 「大河君はどうして病院に? どこか悪い所でもあるの? 」
 そう言いながらも灯子は、彼に具合が悪いところがあるだなんて、とても見えないなあと思うのだった。
 「いいや、俺は三年間風邪一つひいていないよ。今日は弟の見舞いできたんだ」
 その言葉に、灯子の脳裏にはあるひらめきが打ち続く稲妻の様に明滅した。
 大河君の苗字は嶋森だ。嶋森大河がフルネームだ。そして大河君には弟がいる。そうだ、どうして忘れていたんだろう? もう名前も忘れてしまっていたけれど、彼とは二三度会ったことがある。大河君とよく似た病弱な子供だった。
 「大河君、大河君の弟の名前って……」
 「え、うん、涼雅っていうんだ。実はあいつ難しい病気でな、今度大きな手術をすることになっているんだ。って、灯子、あいつのことがどうかしたのか? 」
 灯子は震えを抑えることが出来なかった。だが何とかつばを飲み込み両手を握りしめ、意を決して大河君に頼んだ。
 「大河君、あたしも大河君の弟のお見舞いに行きたい。駄目かな? 」

 小学六年生の灯子の前に一人の男の子が座っている。彼が座っているのは椅子ではなく、電動式ベッドの上だった。
 昼間なのに部屋の窓には水色のカーテンが閉め切られ、冬のくすみを脱ぎ捨ててなお冷たい、二月末の青空を遮っている。ベッドのすぐ横には薬の束が沢山乗ったキャスター式スツールが置かれている。だが、殺風景になりがちなその部屋の印象を支配していたのは、沢山の繊細巧緻なジオラマたちの方だった。
 おそらくは木造家屋なのだろう、カラフルなペンキを塗られた低い建物の数々、砂利を敷き詰めた狭い路地、立体的に交錯する街並み、そこかしこに広がる木々の茂み、湧いては流れやがて合流する清水。中心街には八条の大路が広がり、それらが集約する一点には菫色の高い塔がそびえている。その全てが、この陽を遮った部屋からほとんど出ることの叶わない、病弱な少年の蒼白い指先が創ったものだった。
 飛ぶことの叶わない彼のイマジネーションは大空に舞い上がり、彼が決して見ることのできない日向の世界を鷹の目で俯瞰した。鳥のように町を見ろしつつも、地上を歩く動物の目で周りを見上げ細部を作り込んだ。家を一軒一軒異なった色に塗り、屋根に洗濯台を作り、道の上に可愛らしいロバの置物を置いた。湧き水の前に木製の祭壇を造り、通りからは直接見えない家々の中庭には色鮮やかなベンチを置いたり、真っ白いパラソルの下にはささやかなご馳走が載ったテーブルを用意したりもした。
 その彼が、やや心細げな表情を作ってこう尋ねるのだ。
 「ねえこれは誰? 」
 「誰って、主人公だよ。物語には主人公が必要、これジョウシキ」
 「ふうん。でもちょっと意地悪そうだね」
 彼は灯子が色鉛筆で描いた、下手くそなイラストを指でなぞる。色を重ね過ぎた焦げ茶色の長い髪の毛が、日光を遮った部屋を照らす電灯にてかてかと光っていた。その下に小学生の灯子は、「月子」と拙い筆跡で書いていた。
 「今はこれっくらいが流行りなんだよ。真面目で健気なヒロインは時代遅れなんだから」
 「ふうん」
 彼は何だか不服そうだった。少し唇を尖らせ嫌そうな顔を作った。 
 「この子とね、後三四人の仲間たちが、君と町を冒険して回るの。君の彼女役の女の子だよ」
 「ええ、僕の彼女役? ……、ねえ、それこの『月子』じゃなくっちゃいけない? 僕出来れば……」
 「出来れば何? 」
 彼は蒼白い顔を赤く染めて、何度も口ごもりながらこう切り出した。
 「お姉さんとがいなあ……」
 「え、あたし? べつにいいよ」
 彼は蒼白い顔をほわりと赤らめて笑った。それから灯子が内心訊かれたくないと思っていた質問を口にした。
 「ねえ、あと三四人の仲間って? 」
 「あああ、まだできていない。中学校に行く準備で忙しくって。でも、今度来る時までにはきっときっちりまとめておくよ。楽しみにしていてね」
 灯子は確かに約束した。人形のように小さな体だった涼雅と確かに約束をした。
 「お姉さん、約束だよ、忘れないでね」

 灯子は病室から出てきた大河君のうなずきに促されて、静かに部屋に入った。それは灯子が入院していた六人部屋の真下にある静かな個室だった。
 灯子は大河君に、家族にさえ話したことのない霧ヶ峰タウンでのことを話した。和気あいあいと過ごした仲間たちの中に涼雅がいたのだと語った。丁度エスポワールエスメラルダの、灯子の部屋の真下に涼雅も住んでいたのだと。
 大河君の話によれば、灯子が昏睡状態にあったあの期間に、涼雅もまた昏睡状態に陥っていたという。右足を切断する手術のときに麻酔から覚めず、三年ほど眠り続けていた。
 大河君は灯子の語るこの不思議な話をあらかた信じたようだった。彼は「そうとしか思えなくなった」とも言った。
 「あいつも言っていたんだ、不思議な夢を見続けていたって。どこか別の世界にある懐かしい町で、愉快な仲間たちに囲まれて、三年も面白おかしく暮らす夢を見たって。仕事をして、今では出来る見込みのない運動もして、親友がいて好きな子もいた。その子は涼雅の部屋の真上に住んでいて、風呂場でハミングする声が聞こえてくるたびどきどきしていたって。お前が今話したことと全て裏合わせなんだ」
 灯子は大きく息を吸い込んでドアノブを回した。震える息を吐き出しながら後ろ手にドアを閉める。ベッドの上に起き上がった涼雅は、霧ヶ峰タウンで見た時よりもずっと痩せて小さく見えた。顔色も蒼白いのを通り越して黒ずんでいる。だが、間違いなく涼雅だった。灯子の回鍋肉的なものをほお張った時と同じ、サッカー場で微笑んでくれた時と同じ、深い黒の瞳をしていた。
 「涼雅、久しぶりだね。元気、まあ、あんまり元気そうには見えないね? 」
 灯子は苦笑いを作って、努めて明るく言った。涼雅は唇の後ろまで出かかった言葉がなかなか出てこないというように、ためらいがちに息をしていた。
 ベットの脇には車いすが置かれていた。現実の涼雅は右足を切断し、もう自力で歩くことは難しい。灯子は霧ヶ峰タウンのスタジアムを髪なびかせて走る涼雅の姿を思い起こしていた。ああ、あれは、涼雅にしてあまりにも切実な夢だったのだ……。
 「灯子、幻滅しただろ」
 たっぷり十呼吸も間をおいて、涼雅はかすれた声でようやくそう言った。
 「幻滅だなんて、そんな! 」
 灯子は吐き出すように低く叫んだ。幻滅はしていない。幻滅など決して決して……。だが、自分の中に残っていた淡い期待が潰えていくのははっきりと感じた。灯子と涼雅の恋は、霧ヶ峰タウンの中だけでしか成立しなかったのだ。現実には二人別々の道が用意されている。それぞれ、自分の人生を送らなければならない。そしてそれはもうとうに走り出している。今、涼雅を目の前にした灯子は、理屈ではなく実感として、そのことをはっきりと思い知ったのだった。
 「涼雅、手術をするんだって? 」
 やや間をおいて、涼雅が言い切った。
 「いや、しない。肺を三分の一切除するなんてしない。酸素ボンベを背負って生きていくなんてまっぴらなんだ。俺にはあの町での思い出だけあればそれでいい」
 「駄目だよ涼雅」
 灯子は言った。
 「ちゃんと生きないと」
 「わかったようなこと言うなよ! 」
 そう声を荒らげた後涼雅は、荒い息を吐いて激しく咳き込んだ。銃声のように鋭い響きを持った咳の音が病室にぎゅんぎゅんと響いた。
 「だって涼雅、新作も創ってるじゃないか」
 そう言って灯子は、ベッドわきに並べられたテーブルの上のジオラマたちに目をやった。
 そこは小学生の時に見たジオラマよりも更に精巧さを増した町の模型が、部屋の半分を覆いつくすように並べられていた。車いすの反対側のサイドテーブルの上には、粘度やパーツ、ボンド、塗料、絵筆や工具などのジオラマづくりのための道具類が、作業がまだ途中であることを思わせるように雑然と置かれている。
 「ねえ、解ってる? あたしたちにとって、生きるっていうことは創ることだよ」
 灯子の瞳は霧ヶ峰タウンでは決して見せなかった、潔い力強さを見せた。目は否応なく、涼雅が一番思いを込めて作ったと思われる、一際見事なジオラマに引き寄せられていた。それは範囲としてはごく小さいのに大きく詳細に拡大されていて、その描写の繊細さにおいては他の作品より群を抜いている。
 砂利が敷かれた小さな通りの両脇に、すずかけの街路樹がさらさらと葉影を揺らしている。緑は水を含んで瑞々しく、これがきっと初夏の風景であることをうかがわせる。道のわき、木製の水槽に清らかな水が湧き、小さな水路がちょろちょろと流れ出ている。
 道に向かって右脇に、二階建ての小さな白いアパートがある。壁には「エスポワールエスメラルダ」とカタカナの文字。裏庭の駐車場には真っ赤なマイクロバスが停められ、ベランダにはめいめい住人の洗濯物が揺れている。真っ赤なワンピースに緑色のスウェット、水色のシャツ、ピンクの花柄ワンピース。灯子の一張羅だったくすみオレンジのドットシャツもかかっている。この真っ白いシーツと布団カバーの揺れるベランダには、今にも咲羅が洗濯籠を片手に出てきそうではないか。
 「涼雅、生きるんだ」
 灯子はそれだけを囁くように言い切って、腕でごしごしと目を拭いた。
 「わかったようなこと言うなよ! 」
 涼雅はそうとだけ叫ぶと、布団の中に丸まって身を隠した。
 「こんな姿、灯子だけには見られなくなかった。俺は現実には満足に歩くこともできない。体を使って働くことも、スポーツすることだってかなわない。お前にはあの、霧ヶ峰タウンでの健康な体を持った俺だけを憶えていて欲しかったのに。なのに、どうしてここへ来たりなんかしたんだよ! 」
 そう弱弱しくも激しい口調で言った後、涼雅は布団の中で黙り込んだ。
 灯子はさらにあふれ出す涙の勢いのままにこう叫んだ。
 「涼雅、あたしはもう絶対に逃げたりはしない、自分の人生からは逃げない。書くことからも、生きるために働くことからも逃げたりはしない。いつか自分の人生に追いつくことが出来たら、また会いに来るね。その時まで死んじゃ駄目だよ。咲羅やイツキの物語も、チューリップやアーモンドの、エスメラルダの物語も書くよ。きっと涼雅の目に届られるように頑張る。だから涼雅も……」
 涼雅は布団の中で丸まったまま、もう言葉を返そうとはしなかった。
 灯子は何度もためらいながら、閉じられた扉の方に向き直りそっと開けた。そこでふと思い出し、一言付け足した。
 「涼雅、イツキから伝言をあずかっていたんだ。『三年間涼雅と親友として過ごせて本当に良かった、お前は最高の相棒だった』と……」
 布団に丸まったままの涼雅が嗚咽を漏らした。灯子は頬に涙を伝わせたまま毅然と前を向き、そっと病室から出た。

 病院を出ると、鈍色にくすんだ冬空が広がっていた。今年の冬はやけに厳しい。もう二週間も気温は氷点下のまま凍り付き、濁った空からは毎日のように灰色の雪が降り続いている。このまま永遠に春が来ないのではないかと、そんな錯覚さえしてしまいそうなほどに、暗澹たる季節が続いていた。自分の人生も、涼雅の人生も、果たして心躍る春を迎える日は来るのだろうか? 
 病院は新興住宅街にあった。真新しい戸建て住宅の中に、広い敷地を備えた半円形の建物が、大きなパズルピースのように組み込まれている。風が唸り、電信柱が鳴いた。雪靴を履いた小学生たちが騒ぎながら下校してゆく。寒さなど意に介さないとでも言うように、無邪気で希望に満ちたその声。
 灯子は耳を千切る空気のなか空を見上げ、後ろに残してきた灰色の病院を振り返った。丁度三階のあのあたりに、涼雅の病室がある。雪雲に薄暗い冬の午後、病院の窓々にはすでに黄色い灯りがともされている。彼はまだ泣いているだろうか? 己の不幸の中にうずくまったままか? 生きることから背を向けたままか? 
 だが灯子はもう後戻りはできないのだ。灯子は振り返るのをやめた。前に向き直り、瞳の表面に涙をためて、強い視線を鉛色の雪雲に注ぐ。
 「あした露置く 野のしじまに……」
 地区の公民館からコーラスの練習の歌声が響いて来る。仕事終わりに何時も聴いていた「アニーローリー」。この歌は叶わなかった恋の歌だと誰が言っていただろう? 
 灰色の冷たい結晶が頬に触れては解けてゆく。灯子の頬は寒気のため、薔薇の実のように赤い血の色に染まっていた。それは灯子がまぎれもなく生きていて、これから先も生きつづめなければならないことの力強い証明なのだった。

 ここに置いて宝来灯子のぬるい生活は完全に終わりを迎える。果たしてここから先、灯子の人生が実り多いものになるのか、それとも悲哀にまみれた結果と相なってしまうのか、それはまだ誰にもわからない。
                                    了

宝来灯子のぬるい生活

お読みいただいてどうもありがとうございます。今後ともより良い文章を届けられるように精進してまいります。

宝来灯子のぬるい生活

宝来灯子は高校三年のときに世界を襲った謎の大寒波から、別時空にあるレトロでノスタルジックな町、霧ヶ峰タウンへと逃れてきた。以来三年間、気の置けない仲間たちと、飲み会をしたり貴重な珈琲に興奮したりとぬるい生活を続けてきた。ずっとこんな暮らしが続くと思い込んでいた灯子だが、終わりへの足音は気付かぬうちに、灯子のすぐそばまでひたひたと迫って来ていたのだった……。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 金曜日の恒例の
  2. ようこそ霧ヶ峰タウンへ
  3. 翳りだしたぬるい暮らし
  4. 過去からの使者
  5. 灯子の告白 その顛末
  6. 再び 霧ヶ峰タウンへ
  7. 灯子の導きの星
  8. 進軍そして襲撃
  9. 裏切ったのはむしろ……
  10. カタストロフ
  11. さようなら、みんな、霧ヶ峰タウン
  12. 灯子の本当の人生は