塔・・大アルカナ十六番。失敗、トラブル、落胆。タロットカードの内、最も悪い意味を持つとされる。

 どこからか響いていた。それは低い音だった。ドン、ドンと響くその音は鼓動に似ている。はたまた、人の足音にも打ち寄せる波にも似ていた。
音は暗がりの中で響いていた。暗がりは闇ではなかった。それは鉛筆で塗りつぶされた紙面のように柔らかな黒だ。薄闇はどこまでも続くようにも、すぐそこで壁になっているようにも見えた。

暗闇の中で秋彦は自らの手元に視線を落とす。白いダイニングテーブルの上には書き損じのメモと温くなったカフェオレ、使い古しのノートパソコンがあった。それに砂糖の粒が少々。
 それらひとつひとつをじっくり確認する間も音は止まず、それどころかこちらに近づいているようだった。しかしこの音は別段、秋彦を焦燥に駆らせるものではない。秋彦は脚の間に垂らした腕を怠慢な動きで持ち上げると、書き損じのメモを手に取った。ひと際大きな音がしたのはそのときだ。

 まるで落雷だった。割れるような音に鼓膜を刺されると同時に、秋彦の身体は浮き上がる。柔らかな浮遊感はほんの一瞬、今度は世界が加速するような感覚に陥る。頭で理解するより早く秋彦は青ざめた。暗闇は突如として奈落の底へと姿を変え、自らを飲み込もうとしていた。彼はきつく目を閉じ、瞼の裏の闇を見る。そして悟った。これが夢であることを。

 聞こえていたのは木製の扉を叩く音だった。秋彦が目を覚ますと、そこは奈落の底ではなく自宅だった。白いダイニングテーブルの上には書き損じのメモと温くなったカフェオレ、ノートパソコン、砂糖の結晶。振り返ると玄関扉が音に合わせて振動している。それは静かな初秋の夜だった。

 秋彦はここ最近、眠れぬ夜を過ごしていた。そこで彼は医者にかかったが確たる理由も告げられず、得られたのは二週間分の睡眠薬と安定剤だけだった。秋彦はこの事実に落胆し、2、3日分使ったあと処方薬をごみ箱に捨てた。
眠れないこと自体たいして苦痛ではない。眠れないのなら起きていればいいだけのことだ。その分、今までの倍仕事をこなしたし、より多くのことを考えた。秋彦が欲しいのは薬ではなく理由だ。自分が眠ることのできない理由。
自分のこと、家族のこと、過去の記憶や景色、音。昼夜を問わず繰り返される思考の中にいまだ手がかりはない。しかしこの結果に無力感や不安、苛立ちは少しもなかった。それどころか、この時間は秋彦の心に不思議な安らぎをもたらした。

とりわけ秋彦が癒されたのはある空想だった。とはいえ秋彦自身、これが空想に値するかどうか分からない。彼はどちらかと言えば現実主義で、幼少の頃から想像力に乏しかった。図画工作の時間など、教師から自由にしろと言われると途端に頭が真っ白になってしまうような子供だった。

 それはなるべく静かで天気のいい夜に行われる。そこではいつも音楽が流れている。この音楽というのが少し特殊で、音というより言葉に近い。頭の中を高速で流れていく情報であり、それらに再現性に乏しいリズムが合わさり生まれるものと秋彦は考える。次々生まれては消えゆく音は声や身体で表現できるものではなく、非常に緻密かつ曖昧なものであった。

 音楽が流れるのは教会である。正しくは教会のイメージを借りた張りぼてであり、それは実質どこでもない。秋彦はこの空想の建物の中を自在に覗くことができた。
 視点はまず、出入り口から始まる。通路を挟むように並んだ木製の長椅子と突き当りに棺桶がひとつ。棺桶は黒い。蓋が開いていて、その中は白い。教会には誰もいない。棺桶にもまた。
 長椅子の間を通り抜けて棺桶まで進み、教会全体を見渡す。真上、横、斜め…この視点はその日の気分次第で変わり、素早くあちこちに目をやるときもあれば同じ箇所を延々見つめる場合もあった。
 それが終わると、最後はある一点に落ち着く。自らが壇上に上がり、背後の壁と棺桶の間にいるような位置だ。視界の下半分を棺桶、上半分を教会の内装が占拠する。するとじきに現れる。秋彦は彼らを参列者と呼んだ。

参列者は秋彦の家族と友人である。横一列に並んだ顔は一様に無表情で、その身体は喪服に包まれていた。彼らは常に思い思いの持ち物を携え、棺の前に立つ。子供の頃に読み聞かせられた聖書、金属のスプーン、ドライフラワーなどの品物は、それ自体も持つ人も空想のたび異なる。ただ一人の例外である秋彦の妹を除いて。

六つ離れた妹は秋彦と違い、紙と鉛筆をやれば何時間でも一人遊びをしている子供だった。それは少女から女性になった今でも変わらず、彼女は遠い地に芸術を学びに行ったきり戻ってこない。そんな妹の持ち物は十センチ四方の折り紙だ。秋彦の空想に色は存在しないので、それらは模様と濃淡のみで表現される。彼はかつてこの紙を巡って彼女と大喧嘩した。秋彦が十にも満たない子供の頃である。

 秋彦はある日、実家の電話台から折り紙の束を見つけた。それらは様々な色と模様で飾られており、聞くと母のものだという。母はもういらないと言ったので、兄妹でこれを分けることになった。
折り紙など秋彦には縁のない遊びであったが、華美な色の束から放たれる特別感が子供心を刺激した。結果、格別美しい一枚が子供たちを争わせる。年長者に勝てる術を持たない妹は当然、この戦いに敗れた。
彼女は泣いた。慟哭と呼ぶべき勢いだった。勝者である秋彦が圧倒されてしまうほどの泣き声は、妹が疲れ果てて眠るまで続いた。
 
 これを見た秋彦は思った。妹が起きたらこの折り紙をあげてしまおうと。実際、妹があまりに突っかかるので意地になっただけなのだ。秋彦にはこの紙を手にしたところでなんの使い道もない。
しかし彼がこの折り紙を妹に譲ることはなかった。数時間経って目を覚ました彼女は紙を差し出す兄に言ったのだ。

「それ、お兄ちゃんのでしょう」

 秋彦はその場で固まった。妹はというと、それだけ告げると悲しんでいたことなどなかったかのように一人遊びを始めた。

 秋彦はこの時、言いようのない虚しさと自分を否定されたかのような悲しみを覚えた。あれが一体どういった感情なのかいまだに分からない。自分の分の折り紙を切り貼りした彼女の美しい絵を、彼は今でも鮮明に覚えている。折り紙はそれきりどこかの引き出しにしまい込まれ、二度と姿を現すことはなかった。
 喪服姿の妹は棺桶の中に折り紙を散らしていく。手元に紙の束がなくなると彼女はその場から立ち去った。あの日のように、傷ついた様子も執着も見せずに。

そうして視点は再び変わる。真上から棺桶を捉えたとき、そこで眠っているのは他でもない秋彦自身だ。

 さて、来客である。静かな初秋の夜と称したところで、秋彦にとってはいつもとなんら変わらぬ夜だった。彼の家は周辺の家屋から離れたところに位置しており、雷雨にでもならぬ限り極めて静かなのだ。家の前には持ち主も分からぬまま放置された果樹が広がり、裏地には湿地と森がある。来るものといえば郵便配達か怪しげな宗教勧誘のどちらかだ。
秋彦は玄関扉に目を移す。扉はいまだ音に合わせて揺れていた。横目に時計を確認するものの時計が七時で止まっている。

 結論として、秋彦はこの正体不明の客を迎え入れた。正しい時刻は午前一時十二分。肌寒い深夜、何故このような奇怪な客を迎え入れてしまったのか、最早彼に知る由もない。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-24

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