外の世界
誰も外の世界を見ていないのかもしれなかった。散文的思考でもって外の世界を見るという行為はほとんど死滅しているようであった。今では、外の世界の風景ではなく、内側の世界の風景を描写するために、文章は存在するらしかった。外の世界を知ろうとせずに、ひたすら内的世界を描いていると、次第に思考は陰惨になっていく。何事も許容することができなくなっていき、批判精神だけが旺盛になっていき、次第に批評精神は滅んでいくようである。
もう外の世界を描写することなど必要なかった。世間にはディスプレイがあふれていた。誰も彼もディスプレイを眺めていた。映像を見ることに慣れた人々は眼球を頻繁に動かす事もあまりなくなっていくようであった。眼が動かないので、外の世界も動いていない。外的世界が固定化されるに伴い、内的世界も固定化されていくようである。こうして、固定化された文章がディスプレイの上をかけめぐる。遊びがなく、鋭くて理知的な文章が氾濫している。インターネットによる言文一致が徐々に進行していた。社会に機械が入り込むにつれて、人間の思考も矯正されていくのであり、そんなことをいちいち批判したり嘆いたりしてもしかたがない。事実、今こうして自分が書いている文章も内的思考で占められている。外の世界を見ようとするのは思っている以上に骨の折れることだから。自分の頭の中で、どうでもいいことをぐるぐる考えている方がずっと楽だ。人は放っておくと観念的になる。自分にとって心地よい観念で満たされてしまうと劣化していく。今の自分もそうなっている。その傾向から脱するためには、やはり働くしかないのかもしれない。
感覚を働かすと、どうしても比喩の力に頼りたくなるのだ。内と外がつながりそうになると、感受性は活性化してしまい、思考も増長するものらしい。知覚という未知の世界が開かれたときに、人は創造に駆られるようだ。見るという行為も時代によって変わっていくのだろうか。そんなことはありえないのだろうか。都市社会でずっと生きていると、感覚を働かせる必要がない。無自覚のうちに思考は内省化していく。人々が書く文章には、内面しか描かれていない。もう皆外側に世界があることを理解していないのかもしれない。こうして、知らない間に外側の世界は滅んでいっているのだろうか。外側の世界は人間に必要なくなっていく。重要なことは、自分の内面だけなのだ。自分の内的世界だけがリアルなのである。自分の言葉のつかえにしか興味がなくなる。自分の言葉がうまく出てこない、そういうことばかりに注意が向けられる。
とにかく鋭い批評ばかりになってしまった。批評しているだけでいいなら、外側の世界はいらない。デッサンの技術を尊重しないで、いきなり心眼を得ようとする傾向がどこでも見受けられた。蛇口をひねればいくらでも水が出てくる環境で、理科に興味を持てるわけがない。相手に勝つために真実を得るのではないのだろう。真実は敗北の中にしかないのだとしたら、そう簡単につかめるものだとは思えない。
外の世界