06 その先の向こうに… ⑬

46

「待って」
「待ってみんな」
「渡っちゃ駄目!」
 三人が同時に声をあげていた。
 今まさに、横断歩道を渡ろうとしていた男子たちとタカコとヒカリ、そしてジンジが足を止めて振り返っていた。
「何なんだよう~」と誰かの気のない返事が返ってきた。
 それでも、三人は交差点を指差しながら、もの凄い勢いでみんなの所まで駆け寄ってくると
「見て」と叫んだ。
 そして今まさに、交差点の中では、大型トラックと営業車が擦れ違っている瞬間だった。
 全員が見ている目の前で、トラックのタイアがアスファルトに溜まっている水を跳ね上げていた。
 飛沫はモロに、営業車に被っていた。
 直後にブレーキ音が響いた。
 視界を失った営業車のドライバーが慌ててブレーキを踏んだからだ。
 営業車は、ドライバーのパニックブレーキによりタイアがロックされ制御不能となった。
 車は路面の水溜まりの上で横滑りし、みんなが渡ろうとしていた横断歩道に突っ込んだ。
 そこでガックンと揺れると、エンジンが停止した。
 その光景を目の当たりにし、みんなは言葉を失った。
 もし三人の声が止めてくれなかったら、誰かが確実に撥ね飛ばされていたところである。
 誰かどころではない、数人が巻き込まれていたかもしれなかった。
 運転席のドアが開き、男が慌てて飛び出してきた。
 男は、横断歩道の手前で立ち尽くしているみんなに向かって
「大丈夫だったか?」と怒鳴るような声を上げていた。
 一瞬で我に返ったみんなは、大丈夫です、と口々に返事をしていた。
 運転手は、みんなのところまでやって来ると、一人ひとりの顔を見て、悪かったな、と謝った。
 その後に、とうに走り去ってしまったトラックに向かって罵声を浴びせていた。
 そしてそこに、はす向かいの交番から二人の制服警察官が走ってきた。
 年配の方が、みんなと運転手に声をかける。
 もう一人は、交差点の真ん中で交通整理を始めていた。
 年配の警察官は、まずは中学生たちの無事を確認し、それから運転手に向かって二言三言の質問をした。
 警察官たちも、今のを目撃していたのだ。
 営業車の運転手に非が無いことは分かっていた。
 多分、これからも運転には充分注意するようにと、でも言ったのだろう……運転手は、警察官に何度も頭を下げたあとに、車に乗り込んだ。
 それから、若い警察官に誘導されながら、車をゆっくりと発進させ、西の橘通りへと走り去って行った。

47

「危なかったぁ~」
 ぁ~、とポンタの吐息が、他のみんなにも聞こえた。
「危っぶねぇ」「びびったぁ」
 イケピンとシンコのそれぞれが、自分の驚きレベルを誇示しながら、行ってしまった営業車の後ろ姿を追っていた。
「どうなるかと思った」
 タカコはヒカリの手を握り締めていた。
 ヒカリに、先輩痛いです、と言われて初めて慌てて手を離していた。
「ほんとに危なかったね」
 立ちすくむユウコは、声を震わせていた。
 それでも、表情は明るい。
「これで終わった……ってことでいいんだよね?」
 そのユウコの言葉に、カコは戸惑った。
 ナオも
「そうだよね、これで事故を回避できたって考えてもいいんだよね?」とユウコに倣(なら)っていた。
 ナオもそう思うの? とカコは、二人に何と返せばいいのか分からなくなっていた。
 すると二人は、その怪訝そうな顔に気付き、どうしたの? と訊いてきた。
 カコは浮かない顔をしながらやっと
「なにかが違っているような気がしてるんだけど……」と自信なげに呟いたのである。
    *
 最初に発見した営業車は、夢とは逆の方から来ていた。
 だから、まだ何かあるに違いないと思った三人は「唯一〝知ってる未来〟を利用しない手は無い」と気を緩めることはなかった。
 しかし、今回の二度目は、東の一ツ葉の方から車が来て、反対側からのトラックが交差点の中で擦れ違い――
 まさに夢の通りのことが現実となったのである。
 三人が知る、唯一の未来だった。
 そして三人の行動のおかげで、みんなが事故に巻き込まれずに済んだ。
 これの何処に、疑問視する要素があるのだろう……と二人は首を捻った。
 みんなが助かったのは確かなのである。
 そのみんなの中に、ジンジも含まれているのだ。
「なにが、違うの?」とナオが訊くと
 カコは少し考え……
「あまりにもあっけない、と思って」と答えていた。
 自分でも、なにが違うのかがはっきりと説明出来ないのである。
「あっけないって、今のが?」
 今度はユウコが、訊き返していた。
 カコは頷いた。
「でも今のは、夢の通りにことが起きそうになって、わたし達がみんなに声をかけたから事故を回避できたんだよ――」とユウコ。
 どうしてそこまで、ユウコはそうはっきり言えるの? と思いながら、そして自分の疑問を上手く伝えられないもどかしさに
「それはそうなんだけど……」とカコは、歯切れの悪い返事をかえすだけになってしまっていた。
 するとまた、ユウコがすぐに言い返してきた。
「そうなんだけど……じゃなくて、それって、事故が起こるかもしれないからって、三人で注意してたからなんじゃないの? だから車とトラックに気付けたんじゃないの?」と声をあげていた。
 怒っているように聞こえる。
 慌てたナオが、落ち着きなよ、とユウコをなだめようとした。
 しかしユウコは、聞く耳を持たずに
「どうなの?」とカコに詰め寄っていた。
 カコは、いつもの〝ユウコらしさ〟ではないのを感じながら
「それはそうなんだけど……」と二度目も言い淀みながら、助け船を求めるように、ジンジの姿を追っていた。
 ジンジはタカコとヒカリと男子たちと、カコたち三人の間に一人で立っていた。
 傘の柄を肩に乗せて、交差点の方向に目をやっている。
 そう言えば、さっきの騒動の時も、そしてその後も、ジンジは何をしていたの?
 いつものジンジなら、男子たちと一緒になって、今のことで騒いでいてもおかしく無いのに……
 事故を免(まぬが)れる?ことができてから、カコはジンジの声をまったく聞いていないことに気付いた。
 ジンジはほんとうにそこに居るの? と思いながら
「ねえ、ジンジ」とカコはその背中に呼びかけていた。
 ジンジからの反応は無かった。
 聞こえなかったのかしら?
 カコは二人に、ちょっと待ってて、と声をかけた。
「早くしてよね」とつっけんどんな、今度も普段のユウコからは絶対聞けない言葉が返ってきた。
 ナオも、目を丸くしてユウコを眺めている。
 カコは、ごめんユウコをお願い、と手でナオに頼みながらジンジの傍らに寄って行き、もう一度呼んだ。
 しかし今度も、意識がそこに無いかのように、ジンジは動かない。
 こんなに近くで声をかけているのに……とカコは手を伸ばした。
 すると逆に、ジンジの方からカコの手を取っていた。
 瞬間……
 カコは、全身に衝撃と感覚を覚えていた。
    *
 反射的に離れようとしたが、ジンジの手はカコをは離さなかった。
 カコの意識の中に、周囲の〝音〟が(どっと)流れ込んできた。
 それこそ全ての音だった。
 グラウンドを打つ雨の音、サッカーゴールや、バックネットや鉄棒など、今立っている足下のアスファルトを打つ雨の音、その雨が作った水溜まりが流れる音、そしてそれを打つ雨の音――
 木々の葉を打つ音や、雫が葉から葉へ落ちる音、地面に落ちる音、風に揺らぐ木々の幹がきしむ音や葉が擦れる音。
 交差点で待ってくれている男子たちとタカコとヒカリの話し声。
 交差点に向かって、並んで歩いているナオとユウコの話し声。
 旭東通りを行き交う車の音。
 それこそ雨粒のひとつひとつがはっきりと見え、周囲の〝音〟の全てが見えた。
    *
「危なかったぁ~」
 ぁ~と息を吐くポンタの吐息がみんなに聞こえた。
「危っぶねぇ」「びびったぁ」
 それぞれが自分の驚き具合を口にしながら、イケピンとシンコは、行ってしまった営業車の後ろ姿を追っていた。
「どうなるかと思った」
 タカコとヒカリは、抱き合うほどに驚いていた。
 そして
「ほんとに危なかったね」の声に……カコは我に返っていた。
 ユウコが笑顔で、二人のところにやって来た。
「これで〝終わった〟ってことだよね」
 どうして?
「ほんとによかったぁ」
 気付いたら、ナオも安堵の表情を見せている。
 すると男子たちから声が上がった。
「何が良かったんだよ?」
「こっちは危なかったンだぞ」
 イケピンとシンコから、笑いの文句が飛んできた。
「だからぁ、みんなが事故に巻き込まれなくて良かったってことなんの、よ」とナオが、男勝りの言い回しで返事をしていた。
 イケピンは、そんな言い方をするときもあるンだ、と不思議そうな顔でナオに目を凝らし、ふ~ん、と顎を反らした。
 シンコがユウコに、帰ろう、と優しく声をかけていた。
 ユウコは、うん、と小さく素直に返していた。
 ほら行くぞ、とイケピンはナオに、どことなく突っけんどんに言って背中を向けた。
 もちろんそれは、気持ちの裏返しで、恥ずかしさの裏返しでもあるのだとナオには分かっている。
 ナオは、イケピンを追った。
 そんな二人の背中を見ながら、ユウコはカコに
「ジンジが助かって良かったね」と囁いていた。
 その笑顔は、心の底から嬉しそうだった。
 そのユウコに、ねぇ帰ろうよ、と振り返ったナオから声をかけられていた。
 分かってるよ、とシンコの横に並んだユウコは空を見上げた。
「この雨、あしたには止んでるかなぁ?」
「そうだったらいいけどな……」
 二人はナオとイケピンの後を、追っていた。
    *
 どうなってるの? とカコは慌てて四人を追った。
 ジンジから手が離れた。
 すると突然に、音が止んでいた。
 見えていたのに……カコは足を止めてジンジに振り返った。
 ジンジが傍らにやって来て、カコの手に触れた。
 音が甦っていた。
 ジンジは、交差点の上空を覆う雲間から漏れている光に目を向けていた。
 どうしてこっちを見ないの? と声をかけようとしていたら、ジンジがカコを見た。
「手を離すよ」
 ジンジが声をかけてきた。
 事故を目撃し、避けて以来の初めての声だった。
 ジンジはカコの手を離した。
 すると――今まで鮮明に見えていた音が、再び見えなくなっていた。
 カコは困惑した。
 ジンジが手を握った。
 全ての音が、息を吹き返すように戻ってきていた。
 音が見える。

48

 辺りに目を凝らしながら、どうして? とジンジに訊ねていた。
 何故ジンジから手を離すと音が見えなくなるの?
 今度は自分から手を離してみた。
 そのとたん、音が見えなくなっていた。
 見える音が、まったく聞こえてこなくなったのである。
 状況が理解できなかった。
 学校を出たときは、一人でも見えていたじゃない……
 でも今は、手を繋いでいないと見えない。
 頭の中がこんがらがっていた。
 カコはジンジの正面に回り込んだ。
 目が逢った。
 するとジンジはどう言うわけか、カコから目を離し、交差点の空を見上げてしまった。
 カコもつられて空を見上げた。
 雲が空を覆っている。
 しかしところどころに、淡い光が差し込んでいる場所があった。
 ジンジが口を開いた。
「カコは、瘴気に囚われていたんだ」
 囚われていた……どういうこと?
「ムーンのリングだよ」とジンジは言った。
 言われてカコは、胸のリングを意識した。
 暖かさを感じられなかった。
 嘘? と胸に手を置く。
 でも実際に、カコはリングの存在を感じることができなかった。
「ムーンの力が弱まって、そこに瘴気が付け込んきて嘘を観せられたんだ」
 ムーンとユベールのそれぞれが持っている妖力の差だと、ジンジは言っているのだ。
「ユベールが音也くんでいられる時間の長さと、ムーンが乙音ちゃんでいられる時間の長さの差……ってことね」
 ジンジが頷く。
「ムーンの力が弱まってしまって、そこに(男の)瘴気が流れ込んできたんだ」
「じゃあわたしは、その瘴気で違う現実を観せられたってことなの?」
「最初のがそうなんだ」
「どうしてそんなことするの?」
 それは……とジンジは言い淀んだ。
「カコを孤立させるためだよ」
「孤立させる……なぜなの?」
 ジンジは、改めて背筋を伸ばしていた。
「男の標的はジンジくんじゃなくて、本当はカコさんなんだ」
 くん? さん?
 ジンジの左目が金色になっていた。
 カコは、その金色の目に注意を向けた。
 その中に、カコは違う何かを見付けていた。
 思わず、だれ? と訊いていた。
 ジンジは歯を見せて、苦い表情をカコに返した。
「音也くんね」
「そうです。音也です」
 ジンジの口がそう言った。
「ジンジは?」
「ここにいますよ」
 ジンジは、右目がカコの正面になるように、心持ち顔を左に向けた。
 カコは、ジンジの右の目を覗き込んだ。
 それは確かに、ジンジの瞳だった。
 その奥に、カコはジンジを発見した。
「一時的にですが、ボクがジンジくんの身体を借りてるんです」
 見た目はジンジでも、その言い回しは音也のものだった。
「そうなの?」
「学校の帰りに待ち伏せされたとき、男はボクの頭の中に思念を送って自由を奪いました。ボクも最初は抵抗しようと思ったのですが、男との力の差は歴然としていました。だったら逆に、男の思念と繋がって、ボクは男が何をやろうとしているのか探ってみようと思ったんです」
「そんな危ないことやったの?」
「でも上手くいきました」
 ジンジは笑ってカコの手を離した。
 手が離れても、音ははっきりと見えていた。
 意識を胸のリングに向けると、熱を持っているのが分かった。
 ムーンの妖力が回復したのかしら?
「ボクの方から妖力を分け与えました」と答えがあった。
 そんなことができるの? と半信半疑なカコに、ジンジは顎を引いて笑った。
「九字護身法(くじごしんほう)で食べた蟲がとても強烈だったので、母の力を借りてボクの方からムーンに妖力を送ったんです」
「くじ……?」
 言っていることが分からず、カコは首を傾げた。
「それについては落ちついたら、と言うことで」とユベールは話を続けた。
「男に頭を掴まれたとき、ボクの中に、カコさんの姿が見えました。カコさんは、バスの中に閉じ込められていました。そのまわりで、ジンジくんやイケピンくん、シンコくん、ポンタくん、ナオさんユウコさん、タカコさんヒカリさんが、カコさんを助けようとしています。でもバスは、カコさんだけを乗せたまま、そのまま走って雨の中に消えてゆきました」
「そうだったんだ。あの夢の中には、ユウコの他に、みんなもいたんだ」
「それで男の本当の目的を知ることができました。理由は分かりませんが、男の目的はカコさんなんだと……そしてそこに、ジンジくんが来てくれて、ボクを助けてくれたのです」
「音也くんがジンジを呼んだんでしょう?」
「これも賭けでした。ジンジくんがもし、ボクのリングを身につけていなかったら……ボクは助かってなかったかもしれません」
「ジンジはズボラなところがあるから」と言って、カコは心の中で笑ってしまった。
 するとジンジの方からは、妙にチグハグは笑いが返ってきた。
「助かったところまでは良かったのですが、逆に男の思念の取り込みすぎで、ボクの音也としての意識がまったく言うことを効かなくなってしまったのです」
「音也くんになることが出来なくなるってこと?」
「そんなことはありません。身体と意識が完治さえすれば、音也になることができます」
 ジンジは首を横に振った。
「でも、それでは遅すぎると思ったんです。事は急を要します。なるべく早く、男の目的を誰かに伝えなければなりませんでした。そこでジンジくんの身体(と意識)をしばらくの間借りようと思い、ジンジくんの手を噛んで、音也としての意識の〝一部〟を移したのです」
 カコはジンジの手を取った。
「ひっかき傷は治ったけど、噛み痕が鮮明に残っているのはそのせいなの? 何か関係があるの?」
 その噛み痕だけは、つい今しがた付けられたかのように鮮やかだった。
「同じ道を使って戻るのが、安全で確実なんです」
「そうなのね、意識の通路なのね。だから残してるんだ」
 ジンジは頷いた。
 この頷きかたも、どこかジンジらしくなかった。
「(ジンジが)音也くんが中にいることを知ったのはいつ?」
 今話をしているのは音也だが、その間ジンジはどうしているのだろう? とカコは右の瞳に向かって訊いてみた。
「難しい質問ですね……」
 応えたのは左の、金色の目だった。
「分かっていたのか、分かっていなかったのかはボクにも分からないんです。でも夜目が効いたり、蟲が見えたりと、普段出来ないことが出来るようになったのは、治療を手伝って思念を浴びたせいだと、母の説明でジンジくんも一応は納得したようなんですが……」
「でも、後でよくよく考えて、そんなことないな、と思ったのね。〝思念の力〟ではなく、それは〝ユベールの力〟なんだと気付いたのね……」
 そうです、とジンジは頭を掻いた。
「ことは何度もやんなきゃ、ぜったいに自分の物にならないって、いつも言ってる」
 ユベールの意識が、ジンジの身体を借りてその力を使っているんだ、とカコは理解した。
 ジンジは苦笑いした。
 今の半分は、ジンジだった。
「それじゃあやっぱり、あのときから身体の中にボクが存在するのを、感じていてたのかも知れません……」
 あのときとは、治療の翌日の午後に感じた目の違和感からを言っているのだ。
「なるほど、そうだったのね」
 カコの言葉に、ジンジは微笑んでいた。
 そして言葉を継いだ。
「何とかする」
「ジンジなの? 音也くんなの?」とカコが訊ねる。
「さぁ~」と苦笑いが返ってくる。
 今度はどっちなのか?
 カコにも測りかねた。
 するとジンジがまた言った。
「まだ終わってない。避けられないなら、こっちからゆく」
 今のは絶対ジンジだと、見える〝音〟じゃなく、カコ自身が自分に教えてくれていた。

49

 平和台方面に向かう8番バスは、昭和町交差点の北側手前にある〝昭和町バス亭〟に停車した。
 男が一人、そこでバスを待っていたからだ。
 男は傘を持たずに、パーカーのフードを目深に被って雨を凌いでいた。
 運転手にとって、今回の巡回では、その男が初めての乗客になる。
 始発からここまで、誰も乗ってこなかったからだ。
 ここに来るまで、こんなに誰も乗ってこないなんて珍しいこともあるもんだ、と運転手は思っていた。
 10年以上この仕事をやっているが、彼にとって初めての経験だった。
 どこまで無乗客の記録が伸ばせるか、どこまで誰も乗ってこないのか、後で同僚との話のネタにでもするか、と考えていたところだった。
「ここまで……だな」
 運転手は大きな声で独り言を言った。
 たまにこうやって声を出すことがある。
 マイクのスイッチを切ってさえいれば、乗客は居ないのだから、どんなに大声を出しても恥ずかしくないし、誰かに聞かれることもない。
 それが分かっているから、ストレスを発散する意味でも、大きな声を出したのだ。
「これって記録になるかもな――」
 運転手はゆっくりとバスを停め、座席横のレバーを操作して、後方にある乗り口のドアを開けた。
    *
 男は整理券を抜き取り、後部座席へ向かって移動した。
 身体から雨水が滴っている。
 運転手は、頼むから座席を濡らしてくれるなよ、と思いながら、車内ミラーを使ってその男のようすを追っていた。
 乗客が座席に座るなり、手すりに捕まるなりして、車内での安全が確認できてから、バスを発進させる。
 それが基本中の基本だからだ。
 男は、手すりに捕まって立った。
 運転手は心の中で、座ってくれなくてありがとな、と礼を言った。
 それじゃあ発車しますかね、と運転手は前方を確認した。
 先の昭和町交差点の信号が、青から黄色に変わったところだった。
 右ウィンカーを点滅させ、運転手はサイドミラーと目視で右後方の安全を確認したのちに、バスを発進させる動作に入っていた。
 直後、運転手はギョっとなった。
 今一度、ミラーを使って車内を確認したところ、男の姿が消えていたのだ。
 移動したのか? そんな筈は無い。
 運転中でも誰かが動けば気配で分かるし、車内全体を確認出来るだけの経験は積んでいるつもりだ。
 どこへ行った?
 そして再び、ギョっとなった。
 男は、運転席の横に立っていた。
 危ないですので手すりや吊り輪に捕まってください、と注意を促そうと口を開いたところで、首の後ろに違和感を感じた。
 身体が、強張った。
 バスがガタっと揺れた。
 運転手は席から落ち、通路に横倒しになっていた。
 運転手は白目を剝いていた。
 男は、運転手が転げ落ちたちときに脱げた帽子を拾って被った。
 それから、床の運転手を乗り越え、代わりに運転席に座った。
 前を見た。
「いるいる……」
 男は独りごちた。
 前方の交差点には、信号を渡ろうと数名の男女の中学生がたむろしていた。
 男は、帽子を目深に被り直し、ギアを操作し、アクセルを踏み込み、バスをゆっくりと、交差点に向かって押し出した。

50

 カコとジンジを残したみんなが、信号が変わるのを待っている。
 男子たちは、営業車とトラックのスリップトラブルの後、何度目の信号待ちだったのだろう。
 それでも、文句を言わずに待っていてくれていた。
 考えてみれば、それもおかしな話である。
 あれだけ待たされているのだ、早くしろと急かすなり、待ちきれないから先に帰る、と言い出してもおかしくない状況だった。
 それと、最初の、あのユウコの怒ったような態度……
 でも結局、ナオとユウコは、事故は回避された、と思っていて、もうこれっぽっちの疑問も持っていない。
 これも、男が降らせている雨の瘴気が関係しているのに違いないのだろう。
 信号が青に変わった。
 イケピンとシンコとポンタが、改めてみんなを見回し、すこし離れているカコとジンジにも、行くぞ、と合図を送った。
 これでやっと帰れるぞ……と男子たちは、交差点の中に足を踏み入れていた。
 直後、誰かがまた叫んでいた。
「危ない!」
 さっきの営業車が突っ込んできたときの声と同じだった。
 次に
「にげろ!」と怒りにも似た大声が発せられていた。
 ジンジはカコの手を握り締め、交差点に向かって走っていた。
    *
 昭和町バス停を出発したバスが、信号を無視して交差点に侵入してきていた。
 バスの存在は分かっていたが、反対側の信号は赤で、バスは当然止まるもんだと、全員が思っていた。
 しかもバスは、交差点の手前まではゆっくりとやって来ていた。
 そのバスが、急に加速して、信号を無視して交差点に入ってきたのだ。
 それにいち早く気付いた男子の誰かが声をあげたのである。
 ディーゼルエンジンの音を低く響かせ、バスがそこまで迫っていた。
    *
 二人を残した全員が、横断歩道を、向こう側へと走った。
 渡った方が引き返すよりも早いと、誰かの一瞬の判断だった。
 イケピンがナオ、シンコがユウコの手を引っ張って走った。
 タカコはヒカリの手をひっ掴むと、引きずるように引っ張って走った。
 そのタカコの手を掴んで、ポンタも走った。
 投げ捨てられた傘が、交差点の中でクルクルと舞っていた。
    *
 カコはバスの運転席に座っている男を見た。
 あの男だった。
 そして……やっと分かった、と言えばいいのか、思い出していた。
 夢の中で、深夜の雨の中でユウコを乗せなかったバスの運転手もあの男だったのだと……
 わたしはバスの中に閉じ込められていた。
 バスの回りで、ジンジやイケピンやシンコにポンタ、ナオとユウコ、タカコやヒカリが、バスを叩いて騒いでいる。
 わたしを助けだそうとしている。
 でもバスは、わたしだけを乗せたまま、動き出してしまった。
 みんなが後を追う。
 でも追いつけない。
 そしてバスは消えてゆく――

51

 一台の大型トラックが、一ツ葉方面に向けて、スピードを緩めることなく交差点の中へ進入して来た。
 営業車の男は、前に向き直り、前から迫るトラックを認識していた。
 トラックは交差点の真ん中で、営業車とすれ違った。
 すれ違いざま、トラックの前輪が、アスファルトの窪みに貯まった雨水を横に高く跳ね上げた。
 その雨水が、営業車に降り注いだ。
 営業車を運転していた男は、トラックからフロントガラスに浴びせられた大量の雨水で、前方が全く見えなくなったことに毒突いた。
「何だよ、この糞トラック、ちったぁ周りのことにも気きィ配ってゆっくり運転しろや――」
 運転手は、毒突きながらもアクセルを緩め、いつでもブレーキを踏めるように構えていた。
 フロントガラスに浴びせられた雨水が流れ落ち、前方の視界がはっきりすると……
「このやろうー!」
 雄叫びに近い声が、男の口から漏れていた。
 トラックをやり過ごしたと思ったのに、目の前に、右方向からバスが出現していたのだ。
 完全に、バスの信号無視だ!
 ぶつかる!
 男はバスを避けようと、左にハンドルを切った。
 瞬間、タイアが滑った。
 車が流れる。
 流れるその先に、横断歩道の手前に、男女の中学生を見た。
 ブレーキを蹴ったが、勢いで滑るタイアに効果は伝わらなかった。
 間に合わなかった。
 そして……
 渡りきった横断歩道の先で、全員が目撃した。
 最悪の事態が起こってしまった。
 避けることが出来なかった……

 ⑭へ続く……

06 その先の向こうに… ⑬

ご意見、ご感想、お待ちしています。
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syamon_jinji@proton.me

06 その先の向こうに… ⑬

カコが唯一知っている未来が、今まさに現実になろうとしていた。……ちょっと不思議な物語。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 46
  2. 47
  3. 48
  4. 49
  5. 50
  6. 51