四谷シモンさん

四谷シモンさん

 5月9日、GalerieLIBRAIRIE6で開催された、「愛する芸術家たち 細江英公と6人の作家 〜金子國義,合田佐和子・澁澤龍彦・瀧口修造・野中ユリ・四谷シモン〜」に出かけた。

 美術は昔から好きだったが、近年作品を見に美術館やギャラリーに足を運ぶということはなかった。数年前までコロナ禍だったこともあるが、そこに展示されている絵画や彫像といった作品には、作者の念が無意識に投入されているし、作品自体が作者から独立して一つの命を持っているから、何作も見続けているとそれらにじっと見つめられているようで、酷く草臥れてしまうからである。だが、今回は何を置いても飛んでいかないわけにはいかなかった。なぜなら、四谷シモンさんにお会いしたかったからである。シモンさんは言うまでもなく日本を代表する人形作家であるが、私が最初にシモンさんを知ったのは人形作家としてではなく、俳優としてのシモンさんだった。
 私の好きな脚本家である向田邦子と生前タッグを組み、彼女の代表作に留まらずテレビ史上の傑作となったドラマ、「寺内貫太郎一家」を演出した久世光彦が向田亡き後、彼女の残したエッセイを元に毎年、「向田邦子新春シリーズ」として、ドラマを製作していた。そのドラマに主人公の田中裕子の相手役として、見合い相手や掛かり付けの町医者役で四谷シモンさんが毎年のように出演していた。
 ひょろっと背が高く、穏やかでやさしいインテリジェンス溢れる大人の男性や、おっちょこちょいだがどこか憎めない人当たりの良い町医者など、演じた役柄も手伝ってシモンさんは向田ドラマの作品中、誰よりも好人物以外何者でもなかった。新春には相応しくない不穏なストーリーが展開される向田ドラマの中にあって、その飄々とした独特な雰囲気のシモンさんを見ると、いつもどこかホッとしたのを覚えている。中でも秀逸だったのが、「女の人差し指」だった。
 昭和15年11月10日、紀元二千六百年の奉祝に湧き返っていたこの日、田中裕子扮する菊坂文子は家族と提灯行列に出かけた。その帰り、家族とはぐれた文子は暴漢に襲われ、ちょうど通りかかった足の悪い男・連城に助けられた。数日後、文子は彼の住むアパートを訪ねた。恐る恐るドアを開けると、連城は先日の暴漢との格闘で追った傷が化膿し、布団の中で高熱にうなされていた。文子は急いで医者を呼び、連城が回復するまで彼のアパートをしばしば訪れるようになった。最悪な形での出会いではあったが、二人は互いに心惹かれて行く。しかし、文子には海軍少尉の三村という婚約者がいた。最終的には、連城が満州へ引っ越す形で二人の交際は終わりを迎えるのだが、このドラマで見せたシモンさんの感情を抑えた淡々とした演技が、今も私の胸に残っている。
 向田邦子新春シリーズは2000年代に入って数年後、「風立ちぬ」で最終回を迎えた。それ以降、私がシモンさんをテレビで見かけることはなくなった。初めてシモンさんをテレビで見てからその後、彼が人形作家であるということを私が知ったのは果たしていつだったのか、それすらもう覚えていない。

 それから長い年月が経った。数年前、当時仲の良かった絵描きの友人から、画廊にシモンさんが来たと話を聞かされた。出掛けたいところであったが、当時はコロナ禍の真っ只中であった。一般人はおろか、死ぬとは思いもしなかった世界中の著名人たちがコロナで命を落とす中、身を守るにはステイホームに徹するしかなかった時期だった。そんな中、東京へなど出かけられる筈もない。
 このままお会いする機会もないのだろうか。そんなことを思った時期もあったが、その間もシモンさんはコツコツと創作活動を続けていたし、展覧会も開いていた。後は私の行動とタイミングだけであった。

 今年に入ってから、1998年8月8日に放送された、「土曜美の朝」が再放送された。「少女のかたち私のかたち」というタイトルで、シモンさんの回である。シモンさんの年齢など一度も考えたことはなかったが、この時シモンさんは54歳。詳しい内容は忘れたが、NHKアナウンサーの山根基世さんがシモンさんのアトリエを訪問し、そこでシモンさんの作品や製作過程を紹介したり、インタビューをするような内容だった。当時この番組を見ていないが、シモンさんにとって人形製作やドラマ出演など、力漲る時期だったのではないだろうか。
 この再放送から数ヶ月後、「愛する芸術家たち 細江英公と6人の作家」の開催を知った。
 この日、シモンさんがギャラリーにいらっしゃることを知った私は、財布の中身を確認すると取るものも取り敢えず電車に乗った。行き帰りの電車賃さえあれば十分である。財布の中身と明日のことは展覧会に行ってから帰りの電車の中で考えればいい。会いたい人にただただ私は会いたかった。

 4時少し前、ギャラリーに到着した。こじんまりしたギャラリーだったから気づかずに通り過ぎたが、引き返して中に入ると、スタッフの方が私を笑顔で迎えながら、「やっぱりここのお客様だったんですね」とおっしゃった。通りでうろうろしていた私を中から眺めていたらしい。
 中を覗くと、中央に硝子張りの大きな展示ケースがあった。そのすぐ横に置かれた椅子にシモンさんは腰をかけて、先客の方々と談笑していた。シモンさんは洒落た服に身を包み、頭にはベレー帽を被っていた。

 初めて間近で見るシモンさんの人形は、無機質で時が止まったような、それでいて見ていると途方もない時間が流れたような、何とも言い知れぬものを感じるものだった。その目は虚ろと言い切れるものではなく、正面から見ても上から見ても下から見ても斜めから見ても、どこから見ても決して視線が合うことはない。限りなく人間に近い形をしていながら、時を刻み時の中を渡り歩く人間とは相容れないという、まるで人形からの無言のメッセージのようである。これは、シモンさんが意図的に人形の目をそうしているのであるが、その配置加減は人間で言うところの歌手・研ナオコのあの目の配置である。
 昭和の美人画の第一人者といわれる岩田専太郎が、研ナオコを「絶世の美人」と称したことは有名な話であるが、わずか1ミリでも目の方向と位置を間違えるととんでもない表情になってしまう。それくらいシモンさんの人形の目の配置は絶妙である。共感という、人間同士が互いに感じ理解し合う部分を持たない、時の流れの中に置き去りにされたような、どこか諦めにも似た顔をしたもの言わぬ人形を、私はじっと見つめていた。

 一通り作品を鑑賞した私は、スタッフの方に断りを入れてからシモンさんと対面した。電車に乗っている間、向田邦子新春シリーズで初めて存在を知ったことや、「女の人差し指」が酷く印象に残っていること、伝えたいことをあれこれ思い浮かべていたが、それらの万分の一も言葉に出来なかった。今日、ギャラリーにいらっしゃるということを知って2時間かけて駆けつけたということと、向田さんのドラマを見てからずっと一目お会いしたいと思っていたことを伝えるのが精一杯だった。スタッフの方が、シモンさんは最近耳が遠くなっているので、大きな声で話すようにとおっしゃったので、私はシモンさんの耳元に顔を寄せると少しだけ声を張った。すると、「女の人差し指」の連城ではない、「いとこ同志」で演じた中井俊介のようにニッコリ笑って、「あぁそう、そんなにかけて? それはどうもありがとうございます」と物静かにおっしゃった。シモンさんの穏やかな微笑みを目の前にして、思い切って遥々出かけて来て良かったと思った。長年会いたいと思っていた人に会えたのである。こんなに嬉しいことはない。

 名残惜しい私は、シモンさんに礼を言うと、またシモンさんの作った人形をしつこいくらい眺めたり、金子國義の作品を鑑賞したりしていた。やっと会えたシモンさんの存在を、その人形と一緒に同じ空間に居たかったのである。5時半頃になると客も引けてギャラリーが静かになった。
 さっき一緒に撮った写真を見返したら、私が目を瞑っているのに気づいた。客が引いたことを幸いに、私は再びシモンさんに声をかけた。目を瞑っていたので、また一緒に写真を撮っていただけないかとお願いすると快く応じて下さった。
 帰り際、これから暑くなったり涼しくなったり季節が落ち着かないから呉々も体調に気をつけてと声をかけ、最後にまた展覧会を開いた時には駆けつけることを約束した。シモンさんは笑顔で私を見送って下さった。

 ギャラリーを後にし電車に乗っている時、初めて見た人形の感想をシモンさんに伝えていなかったことを思い出した。「少年」はシモンさんの新作である。人形作家の展覧会に来て、その感想を製作者本人が目の前にいたというに伝えずに帰って来るとは、生来のおっちょこちょいに苦笑したが、電車はもう次の停車駅である渋谷に向かって走り出していた。

四谷シモンさん

2026年5月15日 書き下ろし
2026年5月20日 「note」掲載

四谷シモンさん

人形作家・四谷シモンさんとお会いした時のこと。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-20

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