#梓にだって,華が咲く。
#梓にだって,華が咲く。【梓編前半】
第一話
「橋の下の将棋指し」
夜の河川敷は、街に見捨てられた場所みたいだった。
橋の下。
落書きだらけのコンクリート。
湿った風。
少し離れた場所では、おじさんたちが煙草を吸っている。
西園寺初華は、コンビニ袋を片手に歩いていた。
ジャージ姿。
片手には缶酎ハイ。
橋の下の奥へ進む。
十年以上前から使われていない河川管理小屋。
最初は雨宿りのつもりだった。
今では、ほとんど部屋みたいになっている。
小屋の前まで来た時だった。
「……誰」
人影。
小さい。
女。
知らない顔だった。
ツインテールの少女が、小屋の前に座っていた。
ジャージの膝に将棋盤を乗せている。
しかも。
一人で。
初華は眉を寄せた。
「なにしてんの」
少女は顔を上げる。
ぱち、と目が合った。
暗い場所なのに、その子の目だけやけに明るく見えた。
「将棋です」
「見りゃわかる」
「なら聞かないでくださいよ」
初華は少し黙った。
なんだこいつ。
怖がりもしない。
普通、中学生の女が深夜二時の橋の下にいたら警戒するだろ。
「……あんた、誰」
「九条梓です」
「フルネーム聞いてない」
「じゃあ梓で」
軽い。
妙に。
初華は缶酎ハイを開けながら、小屋のドアを開いた。
梓がその中を覗き込む。
「うわ」
「なに」
「思ったより住んでますね」
「住んでない」
半分くらい住んでるけど。
ソファ。
毛布。
小さいライト。
棚。
充電器。
どう見ても生活空間だった。
梓は将棋盤を抱えたまま立ち上がる。
「先輩、不良なんですか」
「……は?」
「お酒持ってるので」
「違う」
「煙草の匂いもします」
「うるさいな」
初華は小屋へ入った。
梓もついてくる。
「なんで入ってくんの」
「寒いので」
「帰れば」
「帰りたくないです」
その言い方が、妙に自然だった。
初華は少しだけ視線を向ける。
梓は笑っていた。
でも、笑顔のわりに目が眠っていない。
家出だ。
なんとなくわかった。
「親は」
「さあ」
「探してるでしょ」
「どうでしょう」
梓はソファの横に将棋盤を置いた。
「先輩、ここよく来るんですか」
「毎日」
「へぇ」
「……なに」
「いや、ほんとにいる人いたんだなって」
「は?」
「都市伝説みたいな」
「意味わかんない」
梓は小さく笑った。
そのあと、将棋盤の駒を並べ始める。
カチ、カチ、と乾いた音。
初華は缶酎ハイを飲みながら、それをぼんやり見ていた。
「強いの」
「世界一です」
「は?」
「同年代なら」
真顔だった。
冗談っぽくない。
「……すご」
「でも、もう無理かもですけど」
「なんで」
梓は角を置く。
「お金ないので」
あっさり言った。
初華は少し黙る。
なんとなく、その話を深掘りしてはいけない気がした。
代わりに。
「煙草嫌い?」
と聞いた。
梓は顔を上げる。
「先輩吸うんですか」
「まあ」
「やめた方がいいですよ」
「なんで」
「死ぬので」
「人類みんな死ぬじゃん」
「屁理屈だ」
初華は少し笑った。
本当に少しだけ。
梓はその顔を見て、目を細める。
「先輩」
「なに」
「名前」
「……初華」
「初華先輩ですね」
「先輩いらない」
「嫌です」
「なんで」
「先輩なので」
変なやつ。
初華はそう思った。
でも。
悪くないとも思った。
ーー
第二話
「また来た後輩」
橋の下は、今日も湿っていた。
昼間に降った雨のせいで、河川敷の土が少し柔らかい。
西園寺初華は、コンビニ袋を提げたまま小屋へ向かっていた。
橋脚の横では、いつものおじさんたちが煙草を吸っている。
「お、嬢ちゃん」
「ん」
「今日寒ぃぞ」
「知ってる」
缶コーヒーが飛んできた。
初華は片手で受け取る。
「……どーも」
「珍しく素直だな」
「うるさい」
おじさんたちは笑った。
初華はそのまま小屋の前へ向かう。
そして。
「……は?」
いた。
昨日のツインテール。
九条梓。
今日は小屋の前にしゃがみ込み、コンビニのおにぎりを食べていた。
「先輩、おかえりです」
「なんでいるの」
「来ちゃいました」
「帰れよ」
「嫌です」
即答だった。
初華はため息をつく。
「……親泣いてるよ」
「どうでしょう」
「その返し好きだね」
「便利なので」
梓は笑う。
初華は小屋の鍵代わりにしている針金を外した。
ドアが軋む。
梓が後ろから覗き込む。
「入るな」
「まだ入ってないですよ」
「今から入る気でしょ」
「バレました?」
こいつ、妙に馴染むのが早い。
初華は少しだけ眉を寄せた。
小屋の中は相変わらず薄暗い。
ソファ。
毛布。
古い棚。
小さい冷蔵庫。
梓は昨日置いていった将棋盤を見つけると、少し嬉しそうな顔をした。
「捨ててなかった」
「勝手に置いてったんでしょ」
「先輩、優しいですね」
「違う」
初華は缶酎ハイを開ける。
炭酸の音。
梓はそれをじっと見ていた。
「また飲むんですか」
「悪い?」
「未成年」
「お前もね」
「私は飲まないです」
「偉い偉い」
「馬鹿にしてます?」
「してる」
梓は頬を膨らませた。
子どもっぽい。
でも。
その顔のまま急に静かになる時がある。
それが少し気になった。
「……今日も帰んないの」
初華が聞く。
梓は少し黙った。
それから。
「帰っても、誰もいないので」
と、軽い声で言った。
でも。
軽すぎて逆に変だった。
初華は視線を逸らす。
踏み込むな、と自分に言い聞かせた。
その時だった。
「嬢ちゃーん」
外からおじさんの声。
「煙草捨ててくかー?」
「あとで行く」
「お、今日は連れいんのか」
梓が顔を出す。
「こんばんは」
「おぉ、礼儀いいな嬢ちゃん」
「どうも」
「お前の妹?」
「違う」
「先輩です」
「へぇー」
おじさんたちはニヤニヤしていた。
初華は露骨に嫌そうな顔をする。
「……うざ」
「青春だなぁ」
「違うって」
「先輩」
「なに」
「青春ってなんですか」
「知らない」
即答だった。
梓は少し笑う。
「じゃあ今度調べときます」
「将棋だけやってろ」
「先輩も華道だけやってればいいじゃないですか」
空気が止まった。
初華の目が細くなる。
「……なんで知ってんの」
「有名ですよ。西園寺家」
梓は将棋盤へ視線を落とした。
「お嬢様学校の次期当主候補が橋の下に住んでるって、ちょっと面白いですね」
「住んでない」
「半分くらい住んでます」
否定できなかった。
小屋のライトが、ぼんやり二人を照らしている。
橋の上を電車が通った。
轟音。
そのあと。
少しだけ静寂。
梓が不意に言う。
「先輩」
「なに」
「ここ、好きです」
初華は少し黙った。
それから。
「……変なの」
とだけ呟いた。
ーー
第三話
「夜に傷は見えない」
雨だった。
橋の下は濡れない。
でも湿気だけは入り込んでくる。
小屋の屋根を叩く雨音を聞きながら、西園寺初華は古いソファへ寝転がっていた。
煙草は切れている。
買いに行くのも面倒だった。
小さいライトだけが部屋を照らしている。
ぼんやり天井を見ていた時。
ガチャ、とドアが開いた。
「寒っ……」
九条梓だった。
髪が少し濡れている。
「傘は」
「風で壊れました」
「雑魚」
「酷い」
梓は笑いながら中へ入ってくる。
最近、ノックをしなくなった。
初華はもう何も言わない。
「……学校は」
と、初華が聞く。
「行きましたよ」
「偉」
「先輩は」
「行ってない」
「でしょうね」
即答だった。
梓は制服のまま床へ座り込む。
鞄を開き、中から教科書を取り出した。
初華が眉を寄せる。
「なにそれ」
「宿題です」
「ここでやんの?」
「家だと集中できないので」
「橋の下で集中できるやつ初めて見た」
「慣れですよ」
梓はシャーペンを走らせ始める。
雨音。
紙を擦る音。
変な空間だった。
橋の下の廃小屋で、中一が宿題をしている。
初華は小さく笑う。
「先輩」
「なに」
「暇なら英語教えてください」
「嫌」
「なんでですか」
「学校嫌いだから」
「理不尽」
梓は頬を膨らませた。
そのあと。
「……先輩って、なんで学校行かないんですか」
と、不意に聞く。
初華は黙る。
雨音だけが続く。
「別に」
「別にじゃないですよ」
「面倒だから」
「嘘」
即答。
初華は少し目を細めた。
「お前さ」
「はい」
「遠慮ないよね」
「先輩が遠慮しなくていい空気出してるので」
「なにそれ」
「あと」
梓は少し視線を落とす。
「先輩、たまに消えそうなので」
初華は言葉を失った。
雨が強くなる。
橋の下へ反響する音。
梓はまた宿題へ視線を戻した。
まるで今の言葉が普通みたいに。
初華は小さく舌打ちする。
「……消えないし」
「ならいいです」
梓はそう言って笑った。
その時。
初華の袖が少しずれた。
黒いシュシュ。
その下。
一瞬だけ、白い肌に細い傷が見える。
梓の手が止まった。
でも。
何も言わない。
視線だけが静かに落ちる。
初華はすぐ袖を直した。
「見るな」
「見てません」
「嘘つけ」
「……見えました」
沈黙。
初華は煙草のない口元を苛立たしげに触る。
「昔のだから」
「はい」
「別に今はやってない」
「はい」
「……なんか言えば」
梓は少し考える。
それから。
「シュシュ、新しいの買います?」
とだけ言った。
初華は思わず笑った。
「そこ?」
「隠すなら黒以外もあった方がいいですよ」
「発想が現実的すぎる」
「大事です」
梓は真顔だった。
初華は小さく息を吐く。
説教も。
同情も。
かわいそうな目も。
何もない。
それが妙に楽だった。
雨音はまだ続いている。
橋の下だけが、夜から切り離されたみたいに静かだった。
ーー
第四話
「橋の下の元王将」
その日は、やけに人が多かった。
橋脚の近く。
いつものおじさんたちが、缶コーヒー片手に集まっている。
「……なにこれ」
初華は眉を寄せた。
「祭り?」
「違ぇよ嬢ちゃん」
おじさんが煙草を咥えながら笑う。
「今日は酒田のじっさん来てんだ」
その名前に、周囲のおじさんたちが少しざわつく。
初華は小屋の前を見る。
古い折り畳み椅子。
そこに、一人の老人が座っていた。
白髪。
無精髭。
黒いコート。
ワンカップを持ったまま、ぼんやり川を見ている。
覇気がない。
ただの酔っ払いにしか見えなかった。
「誰」
「元王将」
「は?」
「昔な」
初華は目を細める。
その時だった。
「こんばんはー」
梓が橋の下へ降りてきた。
いつものツインテール。
いつもの将棋盤。
梓は人だかりを見るなり首を傾げる。
「なんですかこれ」
「お前将棋強いんだって?」
おじさんが確認するかのように言う。
梓は普通に頷いた。
「はい。世界一ですから」
真顔だった。
一瞬静まる。
それからおじさんたちが吹き出した。
「ははは! 言うねぇ嬢ちゃん!」
「同年代なら…っ…ですけど」
「マジ顔だこいつ」
初華は少し笑う。
梓は本当に、将棋だけになると変なやつだ。
「この集まりにな、元王将の爺がいるんだよ」
おじさんAが親指で示す。
「あそこにいる酒田のじっさん」
梓が視線を向ける。
酒田は無言だった。
梓も黙る。
数秒。
「……やります?」
と、梓が言った。
初華が吹き出しかけた。
「お前さ」
梓は酒田に煽るかのように言う。
「だって将棋指しですよね?」
「まあな」
初華は酒田を見る。
酒田はワンカップを飲み干すと、小さく息を吐いた。
「帰れガキ」
「嫌です」
「生意気」
「勝てるので」
食い下がる梓に初華は止めに入る。
「梓」
「はい?」
「煽るな」
おじさんたちは大笑いしている。
酒田はしばらく黙っていた。
それから。
「……盤出せ」
と言った。
一瞬、空気が変わった。
おじさんたちが静かになる。
梓の目が少しだけ細くなる。
初華はその顔を見た。
いつもの梓じゃない。
橋の下で笑ってる後輩じゃなく。
勝負師の顔。
小屋の前へ将棋盤と小さなタイマーが置かれる。
カチ。
駒音が鳴る。
橋の上を電車が通った。
轟音。
でも誰もそっちを見ない。
梓は真っ直ぐ盤を見ている。
酒田も無言。
カチ。
カチ。
時間だけが過ぎる。
最初は余裕そうだった梓の顔から、少しずつ笑みが消えていった。
初華は将棋なんてわからない。
でも。
空気だけでわかった。
今、すごいものが起きている。
おじさんたちも喋らない。
煙草の煙だけが漂っている。
「……っ」
初めて。
梓が小さく息を呑んだ。
酒田は変わらない。
ただ静かに駒を置く。
カチ。
梓が考える。
長い沈黙。
やがて。
酒田が駒から手を離した。
梓は盤面を見つめる。
数秒。
それから。
「……引き分けです」
と、小さく言った。
橋の下が静まり返る。
「は……?」
おじさんたちが声を漏らした。
「おいおい」
「酒田のじっさんに引き分けまで持ち込むとか、ガチもんじゃねーか……」
梓は盤面を見たままだった。
「引き分けは負けです」
酒田が鼻で笑う。
「中坊が偉そうに」
「事実ですから」
「可愛げねぇな」
でも。
酒田は少しだけ笑っていた。
初華はそれを見逃さなかった。
酒田は煙草に火をつける。
紫煙が夜へ溶ける。
「……嬢ちゃん」
「はい」
「行くとこねぇなら、しばらく俺んとこ来るか」
梓が目を瞬いた。
「は?」
「弟子入りだよ」
初華も目を丸くする。
「……は?」
酒田は盤を見ながら言った。
「終盤は甘ぇ。だが筋はいい」
カチ、と駒を指で弾く。
「腐らすにゃ惜しい」
梓は少し黙った。
それから。
小さく笑った。
「……考えときます」
その横顔を見ながら。
初華は、自分でもよくわからない感情を覚えていた。
ーー
第五話
「置いていった荷物」
小屋の隅に、見慣れない袋が増えていた。
スポーツバッグ。
コンビニ袋。
将棋雑誌。
初華はそれを見下ろしたまま言う。
「……増えてない?」
「増えてますね」
梓は普通に答えた。
「なんで」
「荷物なので」
「そういう話じゃなくて」
梓は笑う。
最近、ここで笑う回数が増えた。
小屋の中は少しずつ物が増えている。
毛布。
充電器。
ペットボトル。
そして今日は、歯ブラシまであった。
初華はそれを見つけて眉を寄せる。
「……お前さ」
「はい」
「帰ってる?」
梓は少し黙った。
でも、すぐに笑う。
「ぼちぼちです」
「絶対帰ってないじゃん」
「バレました?」
「バレる」
制服もしわが増えた。
寝不足の顔。
でも梓はいつも通りだった。
将棋盤を膝に乗せ、駒を並べ始める。
カチ。
静かな音。
「酒田さんのとこ行かないの」
初華が聞く。
「考え中です」
「弟子入り」
「なんか重いじゃないですか」
「将棋は軽くないでしょ」
梓の手が少し止まった。
それから。
「……辞めろって言われたので」
と、ぽつりと言った。
初華は視線を向ける。
「誰に」
「家」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
梓は駒を動かす。
「お金ないですし」
カチ。
「将棋って、お金かかるので」
カチ。
「遠征費とか、大会費とか」
カチ。
「九条家は確かに公家の末裔でチェスや将棋の名家ですけど今はそれどころじゃないと。」
その声は軽い。
軽く言っている。
けれど最後の、─言われました、も言えぬほど言葉はつまっていた
だから余計に苦しかった。
初華は煙草を咥えたまま黙る。
「……お前、辞めたいの」
梓は初めて手を止めた。
しばらく盤面を見る。
それから。
「辞めたくないです」
と、小さく言った。
橋の上を車が走る音。
川の音。
夜風。
全部が少し遠い。
「世界一なんで」
梓は笑った。
でも。
少しだけ泣きそうな顔だった。
初華は視線を逸らす。
そういう顔、嫌だった。
見てると胸が詰まる。
「……そこ」
初華が小屋の隅を指す。
梓が瞬きをする。
「は?」
「荷物置き場」
「追い出さないんですか」
「今さら」
梓は少し黙る。
それから。
「……ありがとうございます、初華先輩」
と、小さく笑った。
その笑顔を見ながら。
初華はぼんやり天井を見る。
『─腐らすにゃ惜しい』
西園寺家なら。
奨学金でも。
後援でも。
推薦でも。
九条梓が将棋を続ける道を、作れなくはない。
それができる家だ。
嫌になるほど。
「……最悪」
初華は小さく呟いた。
自分を縛る家なのに。
梓を救えるのも、その家だった。
ーー
#梓にだって,華が咲く。