烏夜

第一話:破壊{1}

クセルクセスに


『海の底には、都があるのよ。』
昔、まだ目が見えていた母が崖から海を見おろしながら言った。
『でも、前にジェイムズと一緒に海に行ったとき、下には何も見えなかったよ』
母が訝しげな顔をしてこっちを見た。
『都はもっと深くにあるからよ。それに、海の中で目を開けたの?』
このお鍋が沸騰している時に漏れ出る蒸気みたいな声、そしてかすかによる眉間の皺。
私は身構えた。
『クララ、目を大事にしなさいとあれほど、、、!』
鋭い叱責のあと、母は真っ直ぐに、私の赤色の目をみた。
『太陽の色、不老不死へと導く石の色、私たちだけの色。穢れたら、神様がお怒りになってしまうわ。』

「クララ?ご飯はまだ?お皿洗ってないで、早く作ってよ。」
母の言葉でぼやけていた視界がもとに戻る。
「今作ってるから。合間にお皿洗ってるの。」
ああそうなの。母の簡素な返事が黄昏に染まった部屋に響き渡る。
母は、目が見えなくなった。だからこうして、私の行動を逐一伝えねばならなくなったのだ。そうでもしないと母は立ち上がり、私のことをまるでゾンビのようにふらめきながら探しに来る。
突然、ドアをノックする音が聞こえた。
「クララ、迎えに来たぞ」
ジェイムズだ。こんな夕食時にどうしたのだろうか。
「今日は久々の<カトリーヌ>での食事だ!
あの子、また来てるかなあ」
<カトリーヌ>とは、陸の孤島と言われるこの村にたまーに食事を提供しにやってくる人たちの組織の名前だ。
しかし、そんな話、聞いた覚えがない。
「今日がそうなの?」
ジェイムズが不思議そうな顔をする。
「朝話したじゃん。それで来るって。でも、キッチンからいい匂いがするな。気でも変わったのか?」
しばらく逡巡する。思い出した。朝洗濯物を干しに外に出たとき、学校に行く途中のジェイムズから言われたのだった。
「ごめん。すっかり忘れてた。今夕食作ってたんだけど、ちょっと待ってね。すぐ行くから。」
慌てて母の方に駆け寄り、「急な変更で悪いんだけど、今日の夕食<カトリーヌ>で食べることになったから。」と言う。
「聞こえてたわよ。また<カトリーヌ>?」
「ごめんね。これ過ぎたらまた数ヶ月後とかだろうから。」
母が聞こえるようにため息をつく。私だって、あんな衆目に晒されにわざわざ行きたくない。
「それじゃあ、<カトリーヌ>で!」
扉も閉めずに走り去っていくジェイムズの向かう先に、2つの人影が見えた。
その人影を見ないように視線を母の方に落とし、よろめく母の手を引きながら、車椅子に乗せ、<カトリーヌ>に向かった。

来訪する<カトリーヌ>のためにわざわざ飾り付けたであろう集会所のなかは、人でごった返していた。
刺さるような視線をくぐり抜けたあと、運営の人だろうか、金髪の10代前半らしき少年が壁際にもたれかかっている前の席に座った。なるべく貴婦人方のいない席を選んだつもりだったが、いいや分かっていたことだが、貴婦人方でなくても噂話は楽しいらしい。
「あの人、夫を亡くして蓄えがないのか、またウールピットの旦那に腰を振っていたらしいよ」
意地の悪そうな笑みを隠す気のないもう一人が言う。
「その振る腰が動かせないんじゃないか?」
聞こえてるのを知ってか知らずか。散々聞き慣れた言葉を言い換えているだけだった。ため息を押し殺していたところに、甲高い女性の声が聞こえてきた。
「みなさ~ん!今日はお集まりいただき、ありがとうございます!今日はなんと、前回よりも具が多めです!今年は各地で飢饉が相次ぎ、この村も例外ではないはずです。皆さん、思いっきり食べちゃってください!おかわりも今回からOKですよ!」
「おかわりOK」という言葉に子供のみならず大人からも歓声があがった。今年は豪雨のせいで村が壊滅的な浸水被害を受け、農作物の収穫高が昨年よりも著しく減っていた。どうやらこの村だけでなく、国中がそうらしかった。それなのに、具だくさんで、なおかつおかわりも自由とは。この団体はボランティアだと聞いたが、一体そんな量の食材をどこで調達してきたのだろう。
夕食をとるための列に並ぶ人が見えなくなった時点で、私は席から立ち上がりその列に並んだ。
幼い子供には2人分の料理のプレートを持つことは無理だと、ボランティアのお姉さんが席まで運ぶのを手伝ってくれた。にしても、カブ入りサンドイッチにカボチャのスープとは。普段村のなかでも質素なほうであろう私たちにとって、それは限りなくご馳走に違いなかった。母もしばらく見せなかった笑顔をわずかながらに綻ばせた。私はそれが何より嬉しかった。
いただきますと皆が口々に言うのを聞き、「私たちも食べようか」と母に言う。
母はニッコリと頷いたあと、勢いよく食べ始めた。あまりに頬張りながら食べるので、リスみたいになっているのが可笑しかった。
「食べないの?」
しばらくして、母ははっと気づいて私の方を見た。私は慌てて頬杖をつくのをやめ、
「いや、お母さんがそんなに嬉しそうなの久々に見たから、、、。」と思わず言ってしまった。
一瞬恥じらったように見せたあと、すぐさま昔のような穏やかな顔を見せ、私にほほ笑んだ。
「それじゃあ、私もあなたの笑顔が見たいわ。」
そういい、カボチャのスープから少量スプーンで掬って私の口に運んでくるこの瞬間は、安寧以外の何物でもなかった。
<カトリーヌ>に来てよかった―。カボチャのスープを口に含みながらそう思った瞬間だった。

突如まわりから、湧き上がるように咳が広がり始めた。それは徐々に激しさを増し、呼吸がまともにできないのでは、と心配するほどに高頻度になっていった。
母も例外ではなかった。
激しく咳き込み始め、時々息が詰まったような音を立てた。思わず少しのカボチャのスープを飲み込んだあと、母のもとに駆け寄った。
「大丈夫!?」
母は必死にこちらに目線を向けようとするが、もはやまともに答えられないらしかった。
ふと、母の腕に目線を落とした。その惨状に、私は視線が釘付けにならずにはいられなかった。
腕だけでない、足も首も顔までも、いたるところに水疱があった。そしてその水疱を囲うように、皮膚が黒く変色していた。
惨事はそれだけでない。次に吐血し始めたのだ。私はどうすればいいのか分からずオロオロし、必死に口から吐く血を両手で押さえていると、突然両手に負荷がかかった。
母の頭の重さだった。目を完全に閉じている。意識を失った?いや、まさか、、、
母のことに必死なせいで、自分の吐血した血が服にまで垂れていることに気づかなかった。視界は、靄がかかったように暗くなり、意識が体の深く深くへと引っ張られていく。手に力が込められなくなり、自分の手と母の頭が机に落下していくのが見えた。
ごつん、と母の頭が机にぶつかった音が鈍く鳴り響いたあと、意識が完全に暗転した。

烏夜

烏夜

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-05-19

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