『バンコクの屋台は微笑まない』~人生を変えた一本の唐辛子!

『バンコクの屋台は微笑まない』~人生を変えた一本の唐辛子!

 1992年3月、二十三歳の向井健司は、大手商社の若手エリートとしてタイ・バンコクの土を踏んだ。日本企業が「アジアの勝者」として君臨し、バンコクの夜空を日系メーカーの巨大ネオンが独占していた時代。
 イギリス留学も経験し、有名企業に就職し、この若さで運転手付きの社用車で会社へ通う生活に、小堀は自分が「選ばれた側の人間」であると疑わなかった。
 しかし、赴任初日の夜、スクムヴィット・ソイ39の一軒の屋台で突きつけられた一皿のソムタムが、その傲慢な価値観を粉砕する。激痛のような辛さと、喉を焼く熱気、そして出所不明の水と氷。
 それは、日本の常識もエリートの教養も通用しない、剥き出しの異国の洗礼だった。
 物語は、三十余年に及ぶ英一のタイ生活を、その時々に胃袋へ流し込んだ料理の記憶と共に辿る。
 水上タクシーの排ガスにまみれた橋の下で啜るクィッティオ、ディスコ帰りに胃を休めた深夜のカオトム、ジャングルの果ての食堂で店主から突きつけられた「経済戦争」の皮肉な総括。
 そこには、笑顔の裏にしたたかな本音を隠すタイ人や、一攫千金を夢見て消えていった日本人、そして国力の陰りと共にかつての勢いを失っていく母国・日本の姿があった。
 これは単なるグルメ小説ではない。
 タイ人のいい加減さに憤り、時にその規格外の優しさに救われる。そんな日々を積み重ねながら、人生の「酸いも甘いも」をタイ料理の「辛さ」へと置き換えて生きてきた、一人の男の泥臭い生活記録である。
 三十余年の歳月は、健司から若さゆえの根拠のない自信を奪った。その代わりに彼が手に入れたのは、正解のない異国での暮らしを、そのまま笑って受け入れる「心の余裕」だった。
 定年を目前にした夜、健司は独り、自宅の台所で青パパイヤを刻む。不器用な手元でささくれ立つパパイヤは、今になっても完全には理解し合えないこの国との距離そのものだ。
 それでも彼は、あの、のたうち回るような辛さを、もう一度味わいたくなっていた。
 胃袋に刻まれた記憶は、言葉よりも雄弁に、一人の男が微笑の国で生きた証として語り始める。

プロローグ:青いパパイヤの記憶 

プロローグ:青いパパイヤの記憶 

 包丁の切れが悪くなっていた。

 細長い青パパイヤをまな板へ置き、男は刃を立てる。

 硬い皮に浅く切れ目を入れ、包丁を縦に細かく打ち込んだ。

 トントントン、と乾いた音が狭い台所に響く。

 しかし、うまくいかない。

 あの屋台の女主人は、まるで鉛筆でも削るみたいに青パパイヤを刻んだ。 

 その迷いのない手捌きには、ある種の神々しささえあった。

 だが男の手元では、ただ野菜が壊れていくだけだった。

 包丁を入れる角度が悪いのか、太さが揃わない。

 細く削いだつもりでも途中で繋がり、千切りというより、ささくれ立った木片みたいになる。

「……こんなもんか?」

 独り言を呟き、男は苦笑した。

 包丁の切れが悪いのか、それとも自分の手が鈍ったのか…。

 この歳になっても、料理だけはどうにも上達しなかった。

 若い頃は興味すらなかった。

 商社勤めで帰宅は遅く、飯は外で食うものだった。

 タイならなおさらだ。

 屋台の方が早いし安い、そして旨い。

 わざわざ自分で作る理由がない。

 結婚してからも、妻の手料理に期待したことは一度もなかった。

 タイ人の妻は料理が嫌いではないが、面倒臭がりだった。

 気分が乗れば場違いなほど手の込んだ料理を作る。

 だが乗らなければ市場の惣菜を袋ごと並べる。

 それで十分だった。

 タイでは、誰も「ちゃんとした家庭料理」など神聖視しない。

 それが妙に楽だった。

 男は青パパイヤを水へさらし、小さく息を吐いた。


 スクムヴィットの外れに借りた古いコンドミニアムは、築三十年を超えていた。

 赴任した頃には「新築高級物件」と呼ばれていた建物だ。

 あの頃、バンコクには次々と高層コンドミニアムが建ち、日本人駐在員向け雑誌には豪華な部屋の広告が並んでいた。

 今では不動産屋のチラシにも掲載されなくなった。

 エレベーターは時々止まり、廊下の蛍光灯は半分死んでいる。

 雨季に豪雨が来れば長時間の停電も珍しくない。

 非常階段には野良猫が住み着き、管理人は昼間からテレビを見ながら寝ていた。

 だが、不思議と落ち着いた。

 会社から本社勤務への打診が来たのは、二年前だった。

 役職付きで戻る道もあった。

 だが、その時にはもう日本で暮らす自分の姿が想像できなくなっていた。

 日本に家はある。

 米寿を迎えた、老いた母親だけが少し気がかりだ。

 我が妻は「私は実家の母の下で暮らすから」と言ってチェンマイへ戻ったきりだった。

 別居―。

 だが離婚でもない。

 離婚届は出していない。

 だが、もう何年も一緒には住んでいなかった。

 タイ人と日本人の夫婦には、時々そういう曖昧な終わり方がある。

 娘は南部の商業都市、ハジャイに嫁いだ。

 現地の華僑系実業家と結婚し、今ではプーケットやサムイ島でリゾート関係の仕事をしている。
 
 来月には初孫も生まれる予定だった。

 だから男はタイに残った、としておこう。

 少ない退職金と、少しばかりの貯金。

 しばらくはそれで何とか生きていくしかない。

 五十八歳。

 隠居と呼ぶには、まだ妙に体力が残っている年齢だった。

 冷蔵庫のモーター音が、湿気を含んだ夜気の中で低く唸っていた。

 窓の外では、遠くを走るバイクタクシーの排気音が聞こえる。

 スクムヴィット通りの夜は相変わらず、日付が変わっても完全には眠ることはない。

 男は流し台の横へ置かれたノートパソコンを見た。

 画面には、書きかけの文章が残っている。

『スクムヴィット・ソイ39のソムタム屋台』

 そんな題名だった。

 最初は暇潰しだった。

 定年後、何もしないのも落ち着かず、昔話でも書いてみるかと思っただけだ。

 三十年もタイに住めば、多少は人に話せるネタもあるだろう、と。

 だが不思議なことに、書き始めると仕事の記憶は出てこなかった。

 本社役員の接待。

 煙草の煙が充満する会議室。

 ゴルフ場の商談。

 夜のカラオケ。

 そんなものは、どれも似たような顔をして消えていた。

 代わりに浮かぶのは、ひたすら胃袋を搔きまわされた、どうでもいいタイ飯屋ばかりだった。

 橋の下のクィッティオ。

 深夜三時のカオトム屋台。

 古臭いホテルのカオパッド。

 汗臭いディスコ帰りのカオマンガイ。

 屋台の炭火の煙が目に刺さるガイヤーン。

 氷だらけのクロスター・ビール。

 そして、ソイ39の角にいた、あのソムタム屋台のおばちゃん……。

 男は小さなクロックを手に取った。

 石の乳鉢へ刻んだニンニクを放り込み、唐辛子を入れる。

 ライムを搾る。

 ナンプラー。

 椰子砂糖。

 干しエビ。

 コン……コンコン。

 石臼を叩く音が、静かな部屋へ響いた。

 昔、この音が嫌いだった。

 いや、正確には怖かった。

 一九九二年三月。

 二十三歳だった男は、初めてバンコクへ降り立った。

 ドンムアン空港の熱気。

 甘ったるい排気ガス。

 意味不明のタイ語。

 笑っているのか怒っているのか分からない顔。

 肌にまとわりつく熱気、湿った風。

 空港を出た瞬間、白いワイシャツが背中へ張り付いた。

 当時の若い商社マンにとって、それは出世コースの入口だったはず。

 少なくとも男は、そう信じていた。

 それが最初で最後の海外勤務。

 日本はまだ強かった。

 高速道路には日本車が溢れ、日本企業の看板が街に並んでいた。

 現地社員のタイ人たちは「日本式」を学び、日本人駐在員は高級クラブで接待を受けていた時代だった。

 男もまた、自分が“来てやった”側の人間だと思っていた。

 だが、その考えは、一皿のソムタムで壊れることになる。

 クロックを叩く。

 コン……。

 唐辛子の刺激臭が鼻を刺した。

 男は少し咳き込み、それから笑った。

「……まだ慣れねぇな」

 三十年住んでも、辛さの加減だけは分からない。

 手のひらほどのサイズの石臼をもう一度叩く。

 すると突然、あの夕暮れが戻ってきた。

 オレンジ色の空。

 渋滞。

 排ガス。

 スクムヴィット通りの雑踏。

 そして、ソイ39の角でクロックを叩いていた、日に焼けたソムタム屋台のおばちゃんの顔が、夕暮れの排気ガスの向こうにぼんやり浮かび上がった。 

 おばちゃんは、汗だくで椅子に座った若い日本人を一瞥した。
 
 タイは微笑みの国だと、誰かが言った。

 だが、目の前の女主人は目じりに不気味な笑みを浮かべ、赤い唐辛子を一本、黙って多く放り込んだ……。

 "今、思い出した、そうだったのか‥‥!”

 男の手が小刻みに良いリズムを刻み出した……。

EP1.ソイ39のソムタム屋台

EP1.ソイ39のソムタム屋台

 一九九二年三月某日。
 
 バンコク・ドンムアン空港の到着ロビー。

 自動ドアが開いた。

 向井健司は、自分が巨大な濡れタオルで顔を覆われたような錯覚に陥った。

 日本の三月の少し肌寒い気候からは想像もつかない、強烈な熱気と蒸し暑さが肌に粘りついた。
 
 到着ロビーを出ると、そこには会社のロゴが入った、白いトヨタのセダンが待っていた。

 白いワイシャツは、車へ乗り込む頃には、もう背中へ張り付いていた。

 会社のロゴの入ったサファリスーツに、一目で偽物と判るレイバンのサングラス。

 煙草を咥えた運転手が慌ててそれを捨てると、両手を併せ、眉間で拝むように白い歯を見せた。

「えーと。“サワディーカップ”……」

 機内で必死に覚えた挨拶を、外の熱気ですっかり忘れてしまった向井の口から出たのは、この一言だけだった。

 運転手のサロートは「ハイ、ハイ」とめんどくさそうに言い、向井からスーツケースを受け取りトランクへ入れると、急いで後部座席のドアを開けた。

 日本では既に型落ちしたような会社の車が、タイでは高級車としての地位をかたくなに維持している。

 向井はレースで編んだシートカバーが掛かった座席に腰を下ろした。

 まさにVIP待遇だ。

 だが、どんな会話をしていいか分からない。

 ルームミラー越しに見え隠れする運転手、サロートの勝ち誇ったような横顔が、この国の階層社会を無言で物語っていた。

 建設中の高速道路の高架下を、サロートは頻繁に車線を変えながらバンコク市内へと向かう。

 窓に映る夜空には、日本の家電メーカーの巨大な広告塔が突き刺さっていた。

 ナショナル、ソニー、東芝、三洋、日立、JVC……。

 歩道には裸電球の屋台がひしめき、日本では見たこともないトヨタのピックアップトラックが、人を満載して猛スピードで走り抜けていく。

 二十三歳、大手商社の若手海外研修生。

 バブルの余韻の中で採用された最後の勝ち組だと信じていた。

 自分は選ばれた側の人間なのだ――そんな若さ特有の優越感で、胸の奥が静かに高揚していた。

 ソイ39のコンドミニアムは、二十階建ての立派な建物だった。

 日本での独身者用ワンルームとは別世界だ。

 プールの照明が高級ホテルを思わせ、制服のガードマンが敬礼する。

 それが当時の若手の研修社員への待遇という、日本企業の恐るべき勢いであった。
 
 前任者が置いて行った、冷蔵庫の生ぬるいシンハビールを飲み干すと、腹が減った。

 時計は午後九時を回っている。

 向井は近くにコンビニくらいあるだろうと思い、外へ出た。

 だが、九二年のバンコクにコンビニなどまだない。

 夜九時だというのに歩道は仕事帰りの人々や、満員で冷房のないバスを待つ人で溢れている。

 閉店した道路沿いの店舗の前には、どこからともなく現れた屋台が無秩序に並んでいた。

 立ち上る煙が、車の排気ガスと混ざる。

 唐辛子とニンニクを炒める匂いが鼻を刺した。

「これが、噂に聞いていたバンコクの屋台か……」

 日本で散々聞かされた衛生事情が頭をよぎる中、近くで石臼を叩くような音がした。

 —コン、コン、コン。

 恰幅の良いおばちゃんが、乱暴だがしなやかな手捌きで青パパイヤを叩いている。

「ニー! ニー!」

 歯が一本抜けた満面の笑みで、店主が座れとジェスチャーをする。

「ま、いいか、まずはタイの代表料理から試してみようか」

 向井は空腹に負けてガタつく椅子に腰を下ろした。

「ワン?」

 一人か、という意味だろう、英語は通じない。

 向井は隣の客が食べているソムタムを指差し、「Same(同じものを)」と注文した。

「アオ・ペッ・マイ?」(辛くするかい?)

 意味は分からない。

 だが、ここで安易に「I don't understand - 分からない」とは言いたくなかった。

「Yes!」

 短く答えると、おばちゃんはニヤリと笑った。

 それは慈愛の微笑みではなく、獲物を罠にかけたような残酷な笑みだった。

 数分後、置かれた一皿。

 青臭さと、酸味、ニンニク、ナンプラーが融合した強烈な匂いが脳を駆け抜ける。

 コカ・コーラのロゴが入った筆箱のような容器から、わずかに油膜の残るスプーンとフォークを抜き、ポケットのハンカチで拭く。

 拭くほどに銀色の輝きを取り戻すが、それが消毒になったのかは怪しい。

 向井は一口、パパイヤだけをスプーンに取って口に運んだ。

 瞬間、頭の中が白くなった。

「ッ――!」

 辛いのではない、痛いのだ。

 舌を剣山で刺された衝撃。

 額から、まつ毛から汗が噴き出した。

 隣ではワンレンのタイ人の女性が、スレンダーなボディからは想像もつかない大きな口を開け、不味そうに、だが淡々とスプーンを運んでいる。

 不味いのではない、かといって楽しんでいる風でもない。

 まるで生きていくための「燃料」を無機質に流し込んでいるかのようだった。

 その迷いのない動作に比べ、涙目で水を煽る自分のなんと無様で、虚弱なことか!

 おばちゃんが腹を抱えて笑い出した。

「ペッ! チャイマイ?」(辛いんでしょ?)

 周囲の客、果てはワンレンの女までもが、汗だくの日本人の"洗礼”を肴に笑っている。

 屈辱的だった。

 出所不明の氷がカランと音を立てる。

 自分はこの国のルールを何一つ知らない――そう突きつけられた気がした。

 くしゃくしゃのハンカチで顔を扇ぎ、道路に溢れた車のテールランプが河のように続く夜道を戻る。

「また、明日も来るんだよ!」というおばちゃんの声はクラクションで掻き消された。

 翌朝、案の定、赴任早々に向井はトイレで悶絶した。

 胃の底が焼ける痛みに、自分の無知と慢心を呪った。

「唐辛子は一本でいい……」

 向井にとって、このフレーズがタイで覚えた最初の"生きた”タイ語だった。

「二度と、あんなものは食わない……」

 冷房の効いたオフィスで、彼は自分に固く誓った……。

(つづく)

*ソイ:大通りに面する路地のこと

EP2. 運河沿いのグリーンハウス

EP2. 運河沿いのグリーンハウス

1. 緑のトタン屋根     

 一九九二年、三月某日。
 
 向井健司にとって、タイ支社オフィスへの初出社の日がやってきた。

 午前八時三十分。
 
 オフィスは外界の混沌が嘘のように静まり返り、冷房が肌寒いくらいに効いている。
 
 自動ドア一枚を隔てた向こう側にある、スチームサウナのような湿気と熱気は、ここには一切届かない。

 向井は出発前に、日本橋の三越本店で新調したばかりの、チャコールグレーのスーツにエルメスのネクタイを当時の流行である完璧なディンプルで締めていた。

 昨夜のソムタムによる腹痛は、早朝から正露丸を四粒飲むことで無理やりねじ伏せている。

 ―おそるべし、日本の“正露丸”の威力だ。

 そこへ、社長の竹本が寝癖を残したまま、だるそうに「ふぅー」と吐息を漏らして入ってきた。
 
 昨夜の接待か、あるいは歓楽街のホステスにうつつを抜かしたままのような、生々しい“夜の残り香”を漂わせている。

 社長室の立派な応接セットには、事務所開設の際の贈答品だろうか、色鮮やかなベンジャロン焼の壺が鎮座していた。

 向井がその用途も意味も分からずしげしげと見つめていると、その傍らには一房のバナナが無造作に置かれているのが目に入った。

 高級な伝統工芸品と、剥き出しの熱帯の果実。

 その調和を欠いた光景に向井は、説明しがたい不思議な感覚に包まれながら社長を待っていた。

「おはようございます!研修生の向井、向井健司です。本日よりお世話になります!」
 
 直立不動の挨拶に対し、ゴルフ焼けした竹本は「ああ、君が向井君か、ま、死なない程度に頑張れよ!」と、バブル期の高揚感を隠そうともしない大雑把な激励を飛ばした。

 社長が席に着くと同時に、秘書のパワナーが淹れたての熱い珈琲と灰皿を持って入ってきた。

 彼女はタイ語、英語、日本語を完璧に操るという。

 向井が丁寧な挨拶をすると、彼女は氷のような微笑を浮かべ、事務的に向井の名刺の箱を向井に「あなたの名刺です、どうぞ」と一言だけ言って手渡した。

 その所作の一つひとつに、他人を寄せ付けない気品と、華麗にも冷たい響きがあった。

 社長室を出ると、教育係となる佐藤が煙草を吸いながら向井の机に座っていた。
 
 佐藤は五つ上の先輩駐在員だ。
 
 肌はゴルフ焼けなのか浅黒く、ネクタイの結び目もどこか緩い。

「お前、その格好で一日もたねぇぞ……」と意味深に笑う。

 隣の彼のデスクには、システム手帳が広げられ、四角いフロッピーディスクが散らばって、古
いPCのスクリーン上に緑色の文字が点滅している。

「ここ、お前の席だから……」

 佐藤は向井の机に置いた灰皿で煙草を消して、立ち上がった。

(この無神経な男から、一体何を学べというのか……)

 向井は、自身の嫌悪感を押し殺し、「はい、ありがとうございます」と言って席に着いた。


2. ウィチャイ部長の「ニホンゴ…ワカラナイ」

 オフィスの実質的な支配者は、タイ人部長のウィチャイだった。

 五十歳手前、色黒の二重まぶたの大きな眼、突き出た腹という黒い出目金の様な体躯の男。

 それでも会社創立以来、勤続二十年のベテランだ。

 向井は彼の前に立ち、日本式にお辞儀をし、胸の前で手を合わせる「ワイ」を添えて日本語で挨拶した。

「向井健司です。一日も早く現地の仕事に慣れ、この会社に貢献したいと考えています。宜しくお願いします!」

 ウィチャイはその大きな眼を細くして、ニコニコ顔で返答した。

  「I'm sorry, I don't understand Japanese. Too difficult...」
   (日本語はわかりません。難しい……)

 横で佐藤が苦笑いする。
 
 向井は確信した。
 
 この出目金、自分の日本語を完璧に理解している。

 向井は得体の知れない煙に巻かれたような、言いようのない戸惑いを感じていた。


3. 運河沿いのグリーンハウス

 正午。
 
 タイ人スタッフたちは、十二時きっかりに席を立ち、連れ立ってオフィスを出ていく。

「ああ、もう昼か。向井、悪い、近くで昼飯でもいいか?」

 タイ支社の英文の会社案内をめくっていた向井に話しかけて来た。

 歓迎会を兼ねた清潔なレストランを期待していた向井だったが、佐藤が向かったのはオフィスの隣、建設現場の裏手を流れる悪臭を放つ、墨色のような運河の橋の袂だった。

 南国の正午、照りつける太陽がアスファルトの熱をスーツの裾から吸い上げる。
 
 徒歩三分。
 
 橋の下に、緑色のトタンと木材で組まれた怪しげな構造物が見えた。

 通称「グリーンハウス」というらしい。

 向井は何処が”緑の家”なのか想像もできず、単に煤けた緑色のトタンで囲まれたメシ屋であって、恐らく佐藤あたりが適当に名付けたのだろうと思った。

 天井は低く、後付けの換気孔からは逃げ場のない熱気が籠もる。

 唯一、墨のように濁った運河の水面を渡ってくる風だけが頼りだった。

 メシ屋の主人は猫背で強面、髭面のイスラム系中年男性。

 店内は周辺ビルで働く従業員と、数人の日本人駐在員が既に注文を終えていた。

 ステンレスのガタつくテーブル脇では、工事現場用のような巨大な首振り扇風機が唸りを上げているだが、熱風をかき回すだけだ。

 スーツの脇には汗が滲み、ネクタイが首を締め上げる。

“アジアの食卓”ここにあり……か。

 仄かな希望と衛生感覚が麻痺するほどのカオスの中にこそ、駐在員たちが愛してやまない本物の「味」があるのだと、向井は自分に言い聞かせた。


4. 黄金の牛タン、背徳の美味

「センレック(米粉の中細麺)、大盛り二つ。コーラ一本、コップは二つ」

 佐藤が座るなり、流暢なタイ語で注文する。

 主人は無言で頷く。

 阿吽の呼吸だ。

 数分と経たずに、分厚い牛タンが乗ったクィッティオ(タイ式ラーメン)が運ばれてきた。
 
 向井は目の前の一杯に意識を集中させた。

 煮込んだ大根と空心菜の間に埋もれるように鎮座し、そこに中細麺のセンレックが微妙に絡みついている。

 スープは、日本の赤みそのような赤茶色をしているが、ところどころに牛脂が停滞している。

 一口啜れば、八角とシナモンの香りが、煮込まれた牛骨の重厚な旨味を抱きしめている。

 そして主役の牛タン。

 箸で持ち上げれば自重で繊維がほどけるほど柔らかい。

 口に含めば、弾力という言葉を忘れた肉塊が、舌の上で脂の甘みを爆発させて溶けていく。

“これが、このカオスな屋台で出される味なのか!”

 日本の焼肉屋で食べてきた整然とした「タン塩」が霞んで見える。

 この野蛮で緻密な肉の塊は、向井の正しい"牛タンの定義”を音を立てて破壊した。

「美味いだろ?本当のタイの食文化はこういうところにあるんだよ」

 佐藤はクスクスと笑いながら、向井の“陥落”を楽しんでいた。

 向井は必死にメニューの名前をメモしようとしたが、持ってきたノートは既に汗でふやけていた。


5. パワナーという名の地雷

 佐藤は、出所不明の氷が入ったコップにコーラを注ぎ、声を潜めた。
 
「あのな、向井。秘書のパワナー。彼女には絶対に手を出すなよ…」

「美しい方ですが……何かあるんですか?」

「美しいなんてレベルじゃない。これまで何人もの駐在員が彼女を口説こうとして、再起不能なまでに“玉砕”している。彼女は華僑の資産家の娘だ。暇つぶしでここにいるだけで、俺たちの給料なんて彼女にとっては端金なんだよ」

 向井の脳裏に、あの色白で華奢な妖精のようなパワナーの姿が浮かぶ。

「気に入られれば仕事はスムーズだが、一歩間違えればお前のキャリアは終わる。それからな……」

 佐藤は最後の一口をかき込み、クシャクシャの二十バーツ札を置いた。

「え、まだあるんですか?」

 向井は息継ぎをするように、出所不明の氷が入った、タイ仕様の毒々しく甘いコーラに初めて口をつけた。

「実はうちの社長、彼女を虎視眈々と狙ってるんだ」

 向井は危うく、口に含んだコーラを噴き出しそうになった。

「あの社長がですか? それは大問題に……」

「ああ、本気らしい。だが彼女の逆鱗に触れてみろ、この支店ごと吹き飛ぶぞ。お前は絶対に巻き込まれるな」


6. 名刺の肩書

 オフィスに戻ると、冷房の乾燥した空気が再び向井を包んだ。

 デスクの先に座るパワナーは、長い黒髪を弄びながら高価そうな計算機を叩いている。

 向井は佐藤から渡された書類を持って、緊張で声を上擦らせながら彼女のデスクへ歩み寄った。

「……パワナーさん、この書類のタイ語訳をお願いします」

 パワナーはゆっくりと顔を上げた。
 
 その黒く濡れた瞳は、向井が隠そうとしている動揺のすべてを見透かしているようだった。
 
 彼女は書類を受け取ると、向井のエルメスのネクタイを冷ややかに見つめ、不意に完璧な日本語で呟いた。

「牛タンの脂、ネクタイに飛んでますよ。向井さん」

 向井は、完全に自分の底を見透かされたような底寒い恐怖に絶句した。
 
 高級ネクタイに染み付いた脂の匂いとともに、向井の混迷は深まっていく。

 席に戻った向井は、彼女から渡された名刺を手に取った。

 “Sales Manager" ―営業マネジャー

 日本では肩書きすらない、新人の自分に対し、ここでは「マネジャー」という肩書が名刺に印刷されている。

 タイの格差社会の圧倒的な権力誇示の風潮を、向井は痛烈に肌で感じるのだった。

 赴任前に新調したエルメスのネクタイに付いた、牛タン麺の脂のシミを見つめながら、朝の誓いをもう一度自分自身に言い聞かせた。

「二度と、あんなものは食わない……」

EP3. クラシックプレースホテルのカオパッド

EP3. クラシックプレースホテルのカオパッド

1. 佐藤がいない日

 午後十二時十五分。

 向井健司は、オフィスのビルを出て、左折する車が途切れることのない交差点を渡っていた。

 タイの交差点は、直進信号が赤であっても左折だけは常時可能というルールが多い。

 日本とは異なる不条理な交通システムに、向井は右後ろからひっきりなしに鼻先をかすめていく車の群れに肝を冷やし、神経をすり減らしながら、なんとか大通りを渡り切った。

 この日の昼、教育係の佐藤は顧客との昼食を兼ねた打ち合わせで、朝から外出していた。

 一人で過ごす初めての昼休み。

 向井の胃壁は、到着初日のソムタムと、先日、グリーンハウスで無理やり流し込んだ「出所不明の氷入りコーラ」の余波で、未だに微かな悲鳴を上げていた。

 オフィスの隣を流れる墨色の運河からは、正午の太陽に熱せられた腐臭が立ち上っている。

 向井はあの大鍋から溢れる濃厚な牛脂の匂いと、換気孔のないトタン屋根の下の熱気の中へ、今日はという日は行く気にはなれなかった。

 運河に架かるコンクリートの橋を渡り、交通量の激しいニュー・ペッブリー通りに面した一角に、その建物はあった。

『クラシックプレースホテル』

 一九九二年のバンコク都内のホテルの中でも、それは決して最新の高級ホテルではなかった。

 数年後には、周囲に次々と建つであろう、近代的な高層コンドミニアムの波に飲まれる運命にある、少し色褪せた、しかし確かな格式を残した中規模のホテルである。

 重いガラスドアを押し開けた瞬間、向井は安堵の息を漏らした。
 
 静まり返ったロビーのフロントでは、紺色のジャケットに白いブラウスをまとった小柄な女性が、にこりと微笑んで向井に合掌(ワイ)をした。

 冷房の効いた乾燥した空気がロビーを満たし、向井の汗ばんだチャコールグレーのスーツを優しく包み込んだ。

 地階には日本の暖簾を掲げた小さな日本食料理屋「古都」があった。

 歩けば僅か五分の距離なのに、わざわざ会社の運転手を使い、十五分もかけてやって来た近隣の日本人駐在員たちが、ぞろぞろと暖簾をくぐっていく。

 日本式のおしぼり、日本の冷たい麦茶のサービス、そしてありふれた日替わり定食。

 一瞬、強烈な誘惑が向井の足を止めかけた。
 
“いや、今はタイ料理に馴染んでいくべきだ……”

 まだ日本食が恋しくなる時期でもない。

 それに、向井は佐藤や社長の竹本とも、近くの日本食レストランへランチに行ったことがあったが、どの店も一度も美味しいと思ったことがなかった。

 食材がタイ産だからなのか、それとも、どうでもいい社長や佐藤のゴルフの自慢話か、夜のホステスの話を延々ときかされるせいで不味かったのかは定かではない。

 しかし、彼らのくだらない話が、向井の塩鯖定食を一層不味くしたのは間違いではない。

 向井は「古都」の前を通り過ぎ、ロビーの奥にある、外光が大きな格子窓から差し込む、比較的空いているオープンレストランの席を選んだ。

 
2. 民族衣装の妖精

 がたつくステンレスのテーブルではなく、白い清潔なクロスがかけられた木製のテーブル。

 そこには、工事現場用の巨大な扇風機ではなく、天井で静かに回る重厚なシーリングファンが、フロアの冷気を静かに回していた。

「サワディー・カァ(こんにちは)」

 メニューを手渡してきたウェイトレスの声に、向井は顔を上げた。

 胸元に「KAEW」という名札をつけた彼女は、すらりとした細身の体躯に、タイ南部の血筋を思わせる、少し浅黒くも美しく鼻筋の通った美人だった。

 切れ上がった大きな瞳と、意思の強そうな艶やかな唇。

 向井よりは三つほど歳上だろうか、光沢のある絹で織られた、タイの伝統的な民族衣装のシワーライが、彼女の身体の滑らかな曲線を際立たせる、艶やかでセクシーな気品を放っている。

 一人だけこの衣装を身に着けた彼女は、このレストランのチーフウェイトレスだろう。

 他のスタッフはみな、白シャツに黒ズボンだ。

 オフィスのパワナーが都会的で冷徹な“地雷”だとすれば、目の前の彼女は、熱帯の木陰に咲く野生の“蘭”のような、陽気で瑞々しい美しさがあった。

 英語のメニューを開いたものの、向井の胃はまだ重い。

 クィッティオの強烈なスパイスも、ソムタムの暴力的な辛さも、今の肉体は拒絶していた。

 “Frid rice with shrimp- Khao Pad Kung (エビ炒飯)”

「よし、これだ!」

 向井にとって炒飯といえば、庶民的な中華チェーン食堂の定食のイメージが強かった。

 そして、副菜として餃子や八宝菜がないかとメニューを探してみたが、流石にそんなものはない。

 それどころか、他のページをめくっても、ソムタムを除けば向井の知っているタイ料理の名前は一つも見つけられなかった。

 向井がメニューの英語表記を指で差し、英語と怪しいタイ語で告げると、ケウは目を丸くし、それから満面の笑みを浮かべた。

「カオパッド・クン、アロイ・マーク・カァ(とても美味しいですよ)!」

 彼女のタイ語はまるでバイオリンの音色が跳ねるように聞こえる。
 
 それが心地よい異国情緒を感じさせるのだ。

 向井はメニューを畳んでケウに返しながら、胸元の名札を見て、習いたてのタイ語を試した。

「K.A.E.W……ケウさん。僕はケンジ、K.E.N.J.Iです、この近くの日本の会社に勤めています」

 まるで会社のスタッフへの自己紹介の続きのようになってしまい、向井は自分がウェイトレスを相手に真面目に名乗っていることに、少し照れ臭くなった。

 ケウは向井のタイ語が理解できたのか、それとも雰囲気で察したのか、「カァ、カァ……」と人懐っこく、しかし適当な相槌を打っていた。

 そして彼女は、最後に“コップン・カァ、コボリ……”と不思議な単語を言い残して、パントリーへ戻って行った。

“コボリ……? それってタイ語なのか” 


3. ライムの雫

 運ばれてきたカオパッドは、温かみのある純白の皿にやんわりと盛り付けされ、飾り切りされたキュウリと、半分に切られた小さなマナオ(タイのライム)が添えられていた。

 小さな器には、刻んだネギのように鮮やかな緑と赤のプリック(唐辛子)が沈んだナンプラーが添えられている。

 盛り付けはさすがにホテルのシェフの技であり、如何にも高級料理のようだ。

 向井はスプーンで焼き飯を一口運んだ。

(……優しい味だ)

 さらりと炒められたジャスミン米の香ばしさと、小エビの風味、そしてほんのり卵と絡んだナンプラーの塩気。

 それは、向井がタイに来て初めて出会った、暴力的ではない、調和のとれた“正義の味”だった。

 ケウが横で、いたずらっぽく手真似をしてみせる。

「これ、マナオ。搾って。もっとアロイ」

 さらに、あの唐辛子入りのナンプラーも少しかけろと促してくる。

 言われるままに、マナオを焼き飯の上に絞り落とし、プリックごとナンプラーを二、三滴垂らす。

 薄茶色の雫が米粒に染み込んでいく。

 再び口に運ぶと、爽やかな酸味とピリッとした辛みがナンプラーのコクを劇的に引き立て、胃の奥へと心地よく吸い込まれていった。

「アロイ(美味しい)……アロイ・マーク!(とても美味しい)」

 向井の口から、覚えたてのタイ語が連発する。

 右の親指を立てると、ケウは我が事のように嬉しそうに手を叩いた。

「そう、アロイ! あなた、タイ語、上手ですね!」

 そこからの時間は向井にとって、この国に来て最も密度の高い“タイ語の特別授業”となった。

 ケウは暇を見つけては、向井のテーブルへと歩み寄ってきた。

 彼女の英語は不器用だったが、伝えようと一生懸命な姿が愛らしかった。

「これは、プリック(唐辛子)。これは、グン(エビ)。あなたは名前は……ケンジですね?」

 向井は一つ一つの単語を現物と指差し確認をしていく。

「ケンジ……コボリ!」

「ノー、ノー! ケンジ・ムカイですよ」

 それにしても、さっきから彼女が自分のことを「コボリ」と間違えるのか、当時のタイで日本の軍人とタイの女性の悲恋を描いた大ヒットドラマ(*)があり、日本人はみんな「コボリ」と呼ばれていたという背景を、向井が知る由はまだなかった。

 向井はふやけたノートを取り出し、新しいページを開いた。

 オフィスでは使い物にならなかったそのノートに、ケウが教えてくれる言葉を、カタカナと不器用なタイ文字のスペルで書き写していく。

「これは、ナムターン(砂糖)。これは、クルア(塩)……」

 向井が昨日からの腹痛の手真似をすると、ケウは「オー、プアッ・トーン(お腹痛いの)!」と言って、本当に心配そうな顔で向井の顔を覗き込んできた。

 その距離の近さに、向井の心臓が小さく跳ねた。

 彼女は近くのカウンターから、温かいお茶(ナム・チャー)を持ってきてくれた。

「これ、飲む。お腹、良くなる」


4. 白いナプキンの上の約束

 一時間が瞬く間に過ぎ、時計の針は午後一時を指そうとしていた。

 オフィスに戻らなければならない。
 
 向井がチェックを求めると、ケウは手元にあった白い紙ナプキンに、ボールペンで流れるようなタイ文字を書き込んだ。

「これ、私の名前。『ケウ』。タイ語で『ガラス』の意味」

 彼女は、ナプキンの端に、不器用なアルファベットで『KAEW』と書き添え、向井の手元に滑らせた。

「ケンジ、またカオパッド、食べに来る?」

「……また来るよ。佐藤さんがいない時は、必ず」

 向井は、その白いナプキンを丁寧に折り畳み、エルメスのネクタイが擦れるチャコールグレーのスーツの胸ポケットへと仕舞い込んだ。

 ホテルを出ると、再びバンコクの暴力的な熱気が向井の全身を襲った。

 しかし、運河の悪臭も、排気ガスの煙も、不思議とさっきほど不快には感じられなかった。

 オフィスへの帰り道、向井の頭の中では、ケウの「アロイ・マイ・カァ?」という彼女のバイオリンの響きが、心地よいリズムを伴って何度もリフレインしていた。

 午後一時五分。

 自動ドアを通り抜け、再び冷房の効いたオフィスへ戻る。
 
 デスクの先では、相変わらずパワナーが長い黒髪を指先で弄びながら、冷徹な手付きで計算機を叩いていた。
 
 エルメスのネクタイに付いた、あの牛タン麺の脂のシミを指先でそっと隠しながら、向井は自分のデスクのPCに向かった。

 緑色の点滅する文字が、心なしか、さっきよりも鮮明に見えるような気がした。

「ケンジ・コボリか……誰なんだ?」


(*) タイ映画『クーカム』:邦題『メナムの残照』。第二次世界大戦下のバンコクを舞台に、日本軍将校とタイ人女性の悲恋を描いた同一作品である。当時の国民的人気男優が演じたため、映画やドラマ化を通じてタイでは全国的な大ヒットとなった。

EP4. コカ・レストランの銀鍋デビュー

EP4. コカ・レストランの銀鍋デビュー

1.『メナムの残照』とスラウォンの夜

 某日午後七時。

 花金の夜の帳が下りたスラウォン通りは、淫靡な色とりどりのネオンサインの洪水と、タクシーとトゥクトゥクの排気ガスの熱気で満たされていた。

 向井健司は、数日間の汗が染み込んだチャコールグレーのスーツの襟を正した。

 クリーニングに出す時間すら惜しいほど、この一週間はただ街とオフィスのカオスに翻弄され続けていたのだ。

 日本から持ってきた数少ない勝負ネクタイの結び目をぐっと引き締める。

 今夜は、タイの大手繊維メーカーの重鎮、ソムチャイ氏(五十九歳)の接待デビューの日だった。
 
 社用車の白いセダンのドアが開いた先には、重厚な店構えの「コカ・レストラン」があった。

 タイ人なら誰もが知る老舗の“タイスキ”レストランだが、下町の食堂よりははるかに高級なため、当時は特に日本人駐在員の接待の場として重宝されていた。

 店員たちも日本人対応にすっかり慣れており、中には流暢な日本語でメニューの説明ができる者もいる。

 車から降りた三人、竹本、佐藤、向井は、それぞれ襟を正しながら店へと入った。

「向井、ここはただのタイスキ屋じゃないぞ。あの秋篠宮殿下がタイをご訪問された際にも利用された名店だ。心してかかれよ」

 先を歩く佐藤が、いつになく低い声で釘を刺してきた。

 いつものヨレたシャツの面影はなく、仕立てのいい紺のスーツに身を包んでいる。

 その後ろからは、高級なコロンの香りを漂わせた竹本社長が、大物政治家のような堂々とした歩調で続いた。

 案内された二階の個室は、一階の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 
 中央の円卓には、コカを象徴する名物の真鍮製の銀鍋が鎮座していた。

 日本の土鍋とも、他店のチープな電気鍋とも違う、その重厚な銀鍋の佇まいが、老舗の格調をぐっと引き上げている。

 その横にはコカレストラン秘伝の、あの赤く濃厚な“ナムチム”(つけタレ)が並んでいた。

 やがて部屋のドアが開き、ソムチャイ氏が現れた。

 その後ろから、部下か運転手らしき男がソムチャイ氏の鞄を持って入ってきたが、それを室内の席に置くと、長居はせずにすぐさま一礼して部屋を出て行った。

 仕立てのいい生成りのサファリスーツをまとったその姿は、どこかサイアムの古き時代から続く豪商の、凄みを帯びた華僑の末裔を思わせた。

 浅黒いタイ人の肌とは異なる、うっすらと白みを帯びたきめの細かい皮膚。

 細い眼躯の奥には、同時に幾多の政変をくぐり抜けて財を成してきた一族特有の、底知れない知性がギラついている。

 タイの繊維業界を黎明期から支えてきた男特有の、圧倒的な威厳がそこにはあった。

 氏は多くの日本企業と取引を重ねてきた筋金入りの“日本通”でもある。

 向井は思わずそのオーラに気圧され、背筋を伸ばした。 

 大御所の入室を待ち構えていた竹本社長が、弾かれたように立ち上がった。

「おお、ソムチャイさん! サバーイディー・マイ・カップ(お元気でしたか)!」

 竹本社長は、バブル期の修羅場をくぐり抜けてきた男の営業スマイルを爆発させ、ソムチャイ氏の懐へ猛烈な勢いで飛び込んでいった。

 タイ式の挨拶(ワイ)で、両手を胸より高い位置できちんと合わせ、そこから両手でソムチャイ氏の右手を包み込むように熱い握手を交わす。

 さらに向井を驚かせたのは佐藤だった。

 彼はネクタイを少し緩めると、淀みのない流暢なタイ語を操り始めたのだ。

 今夜の会合の趣旨と日頃の感謝を、簡潔明瞭にソムチャイ氏へと伝えていく。

 一通り話し終えたところで、竹本社長が向井をソムチャイ氏に短く紹介し、目で自己紹介を促した。

「初めまして、私は向井健司と申します。今後とも宜しくお願いいたします」

 完璧な英語で、向井は短く、しかし堂々と自己紹介を行った。

 ソムチャイ氏は「おお、ミスター・ケンジか……」と値踏みするような鋭い視線を向けた後、表情の奥で何かを思い出すように、小さく「コボリ……コボリ……」と呟いた。

 向井の耳がぴくりと跳ねた。

「ソムチャイ様、まずはビールで乾杯しましょう。今夜は特別に素晴らしい牛肉が入っております」

 佐藤は足元の紙袋から、日本から持ち込んだ灘の銘酒とフランスワインのボトルをちらりと覗かせ、「お口に合うかわかりませんが、どうぞ」とソムチャイ氏の椅子の脇に寄せた。

 円卓には、ビールのあてとして、香ばしいタレで焼かれたペットヤーン(ローストダック)とムーデーン(チャーシュー)の皿、そして白菜の漬物にピーナッツが手際よく並べられていく。

 佐藤はこのレストランの名物メニューのエビのすり身をカリッと揚げた名物「コカエビ」が出揃ったところで乾杯の音頭を取った。

 佐藤は絶妙なタイミングで冷えたアサヒビールを注ぎ、四角いトレーに美しく並んだ高級牛肉のスライスや、新鮮な白身魚、小エビのシーフードに続き、色とりどりの野菜を、慣れた手付きで真鍮の銀鍋へと投入していった。

 具材を入れる順番、スープの温度の管理、タレに混ぜるパクチーや刻みニンニク、マナオ(ライム)の配分に至るまで、その手捌きは完璧な“鍋奉行”であり、プロの駐在員としての底力をこれでもかと見せつけていた。

(佐藤さん、ただの無神経な男じゃなかったのか……)

 オフィスでの佐藤の横柄な態度しか知らなかった向井は、自身の物差しの狭さを思い知らされた気がした。

 彼はただ、飾りのように座っていることしかできなかった。


2. タイスキの洗礼

 グツグツと湯気を立てる真鍮の銀鍋の中で、薄切りの牛肉が絶妙な色合いに変わっていく。

 それを引き上げ、コカ特有の赤いタレに絡めて口に運ぶソムチャイ氏は、和やかに竹本たちとの談笑を楽しんでいた。

「ミスター・ムカイ、だったかね」

 不意に、ソムチャイ氏が鋭い眼光を向井に向けた。

 タイ語混じりの英語だった。

「君はタイに来てどれくらいになる?」

「は、はい。まだ一か月ほどです」

 向井は緊張のあまり、声が上ずった。

 竹本社長と佐藤が、助け舟を出そうと息を吸い込むのがわかった。

 新人である向井がここで粗相をすれば、これまでの商談の空気が台無しになる。

 だが、向井の胸ポケットには、あのクラシックプレースホテルの白い紙ナプキンがあった。

 ケウのバイオリンのような声が、耳の奥でリフレインしていた。

(このまま、ただの無能な新人として終わってはだめだ!)

 向井は意を決し、先週末の記憶を手繰り寄せた。

 ケウに何度も「コボリ」と呼ばれた理由が気になり、彼はバンコクの怪しげな電脳街の露店を巡り、ようやく日本語字幕付きのタイ映画『クーカム(メナムの残照)』のVCDを探し出したのだ。

 粗い画質のテレビ画面に映し出される、直訳気味の不自然な日本語字幕。

 それを今日のために、文字通り擦り切れるほど再生して目に焼き付けてきた。

「ソムチャイさん」向井は居住まいを正した。

「タイ語はまだ拙いのですが……タイに来てから、この国の文化を少しでも知りたくて、少し前の映画『クーカム』のVCDを観ておりました」

 当時はまだ、ビデオCD(VCD)と言われる、ビデオテープをCDに焼いただけの、画質の悪い製品が主流を占めていた。

 その瞬間、ソムチャイ氏がグラスを持つ手をぴたりと止めた。

 個室の空気が一瞬で張り詰める。

 竹本と佐藤がギョッとした顔で向井を見た。

 ビジネスの場で、なぜ唐突に古い映画の話をするのか、と二人とも焦ったのだ。

「……ほう」

 ソムチャイ氏の目が細められた。

「日本人の若い君が、あの『クーカム』を観た、と言うのか?」

「はい」

 向井は真っ直ぐにソムチャイ氏の目を見つめた。

「大日本帝国海軍の小堀(コボリ)大尉と、タイ人の女性アンスマリンの悲恋に、深く胸を打たれました。最初は国籍も立場も違い、反発し合っていた二人が、最後には激しい空襲の中で心を通わせる。小堀が息を引き取る間際、アンスマリンの胸の中で呟いた『僕の心の中に、君のための天国がある』という字幕の言葉を見たとき、不覚にも涙が止まりませんでした……」
 

3. 大御所の陥落

 部屋に沈黙が暫し流れた。

 銀鍋から立ち上る真っ白な湯気が、ソムチャイ氏の顔を遮る。

 ソムチャイ氏の肩が小さく震えた。

「……コボリ」
 
 ソムチャイ氏は呟き、ふっと相好を崩した。

 厳格だったその瞳が、遠くを見るように和らいだ。

「信じられないね。今どきの日本の若者が、あのコボリの痛みを理解してくれるとは。アンスマリンが、最後にやっと『愛している』と伝えた時、コボリはどれほど救われたか……。あのドラマや映画が放映されていた時、バンコクの街から車が消えたんだ。みんな、コボリの最期を見るために急いで家に帰ったからね」

 ソムチャイ氏は、まるで我が子を見るような、温かく熱い眼差しを向井に向けた。

「ミスター・ケンジ、素晴らしい。多くの日本人は、タイにビジネスをしに来る。金を稼ぎに来るだけだ。だが君は、私たちタイ人の『心』を知ろうとしてくれた」

 ソムチャイ氏は自ら箸を持ち、銀鍋の中から、佐藤が絶妙な加減で火を通した最高の牛肉をすくい上げ、向井の小皿へと優しく取り分けた。

「食べなさい、ケンジ。これはタイの味だ。さぁ、さぁ……」

 促されるまま、向井は牛肉をコカ秘伝の赤いタレにつけ、口に運んだ。

(――っ!)

 衝撃が走った。

 唐辛子の鮮烈な辛みとニンニクのパンチ、そしてライムの酸味の奥から、パクチーの香りが鼻腔を抜ける。

 辛い、しかし圧倒的に美味い。

 これこそが、バンコクの日系企業の猛者たちを虜にし続けるタイスキの真髄だった。

 竹本社長と佐藤が、呆然とした顔で向井を見つめていた。

 百戦錬磨のソムチャイ氏が、新人の一言でここまで完璧に「陥落」したのだ。

「ミスター・タケモト、あなたは大変いい部下をお持ちですね」

 そう言ってソムチャイ氏はアサヒビールをグイと飲み干し、後ろで控えているウェイターにお代わりを要求した。


4. 黄金のクローザー“おじや”

 宴の締めくくり。

 牛肉や様々な具材、そしてスープに溶け出した旨味が限界に達した鍋に、白いジャスミン米が投入された。

 スープがひと煮立ちしたところで、佐藤が満を持して、小ぶりの牡蠣をドサリと鍋の中にぶち込んだ。

 一気に濃厚な磯の香りが立ち上る。

 佐藤は手際よく卵を回し入れ、仕上げに刻んだネギと香ばしいごま油を垂らした。

「コカ名物、特製おじや(カオトム)だ。さあ、ムカイ、君から行きなさい」

 ソムチャイ氏に促され、向井はレンゲでおじやを口に運んだ。

(……美味い)

 何重にも凝縮された肉の出汁と、牡蠣の海の滋味、そしてそれを一粒一粒の芯まで吸い込んだジャスミン米の調和。

 それは、昨夜までの向井の潔癖な胃壁を優しく、しかし強烈に肯定するような、これまた至高の“正義の味”だった。

 ハフハフと熱いおじやを頬張りながら、向井は熱気の中でたまらずネクタイの結び目を緩めた。

 向井のエルメスのネクタイには、いつの間にか特製の赤いタレのシミが一つ、新しく増えていた。

 しかし、今の向井に、初日のような惨めさはなかった。
 
 個室を出る際、ソムチャイ氏は上機嫌で竹本の肩を強く叩いた。

「ミスター・タケモト、次のプロジェクトの件、君の会社の提案を前向きに進めよう。今夜の食事は非常に愉快だったよ」

 スラウォン通りの熱気の中に再び出た時、向井は夜空を見上げた。

 排気ガスに煙る三日月は、オフィスのPCの緑色の文字よりも、ずっと明るく輝いているように見えた。

 向井は、少し汚れたネクタイを愛おしそうに指先で触りながら、清算を済ませると佐藤と竹本社長の後を追った。

「お前、あの難攻不落のソムチャイさんを落とすなんて、たいしたもんだなぁ」

 佐藤が振り向きざまにニヤリと笑って言うと、竹本社長が運転手に手を挙げながら続けた。

「じゃあ、次のゴルフコンペは、向井君のデビュー戦といこうじゃないか、はっはっは」

 社長は胸元から日本の煙草「マイルドセブン」を一本取り出し、ライターで火を点けた。

 紫煙がスラウォンの夜風に溶けていく。

 三人は迎えの車に乗り込み、深いネオンの海の中へと消えていった……。

EP5. 決死のマック!流血の五月事件!

EP5. 決死のマック!流血の五月事件!

1. 運転手が来ない朝

 一九九二年、五月。

 バンコクの容赦ない乾期の終わりを告げる熱気が、部屋の遮光カーテンの隙間から入ってきた。

 向井健司は、遠くから響く、地を幾重にも這うような低音の唸りで目を覚ました。

 時計の針は午前七時を回っている。

 いつもならスクムヴィット通りを行き交う車のクラクションの音が十五階の部屋まで届く時間だが、今朝の音の正体は違った。

 悲鳴、怒号、そして断続的に鳴り響くサイレン――。

「なんだ、朝から……」

 寝癖のついた頭を掻きながら、向井は寝室を出てコンドミニアムの階下ロビーへと降りた。

 ロビーは異様な雰囲気に包まれていた。

 いつもは眠そうにデスクに座っているタイ人の管理人が、カウンターの奥にある旧式のブラウン管テレビにかじりついている。

 画面には、激しい黒煙を上げて燃え盛る数台のトラックと、それを取り囲む文字通り「蟻の群れ」のような人間たちの姿が映し出されていた。

 テレビニュースのアナウンサーのタイ語は、いつもの穏やかなイントネーションを完全に失い、銃撃戦の実況さながらの猛烈なトップスピードで言葉をまき散らしている。

「アライ・ナ・カップ(何が起きたんだ)?」

 向井が管理人に声をかけると、彼は怯えた目で向井を振り返った。

 しかし、口から飛び出してきたタイ語の濁流を、向井の脳は一言も理解できなかった。

 記号としての言葉が遮断された世界で、ただ管理人の顔に浮かんだ、差し迫る恐怖の表情だけが、向井の皮膚にピリピリと伝わってきた。

 数人の出勤前の日本人が不安げに外を眺めている。

 向井は部屋に戻り、とりあえず身支度を整えてロビーへ降りてきた。

 午前八時半。

 待てど暮らせど、運転手のサロートが来ない。

 いつもなら十分前には社内のエアコンをガンガンに効かせた車内で待機しているはずだった。

「クソッ、会社に行かなきゃ何もわからない!」

 向井は腹をくくり、コンドミニアムの地下駐車場へ向かった。

「まさか、こんな時に自分で運転することになるとはな……」

 恐る恐るスペアキーで白いクレシーダのエンジンを回す。

 念のため、日本で用意して来た"国際免許証”を確認する。

「よし、行くか……」

 バンコクで初めての運転に、向井の足元はびくついた。

 スクムヴィット・ソイ39の狭い路地を慎重に抜ける。
 
 ペッブリー通りに出た瞬間、向井はハンドルを握る両手に冷や汗が滲んだ。

 ――車が、人が、いない。

 あの、世界最悪と称されるバンコクの殺人的な渋滞が、文字通り消えていた。

 見渡す限りの片側四車線の道路は、がらんどうの滑走路のようにひび割れたアスファルトを見せつけている。

 その不気味なほど静まり返ったソイ21(アソーク)の交差点を、赤色灯を激しく点滅させた警察のピックアップトラックが、タイヤの悲鳴を上げながら猛スピードで走り抜けていった。

 何かが決定的に壊れている。

 向井の心臓は、エンジンの回転数よりも早く、激しく早鐘を打ち始めていた。

(一体何が起きてるんだ……?)


2. オフィスで籠城

 アソークのビルに滑り込み、オフィスに一歩足を踏み入れた瞬間、向井はまるでパニック映画のワンシーンの中に放り込まれたような錯覚を覚えた。

「違います! だから、まだ社内の人間に被害は出ていません! 本社は落ち着いてください!」

 いつもは冷徹な佐藤が、灰皿にタバコの吸い殻を満杯にし、日本の本社からの国際電話にしがみついて怒鳴り声を上げている。

「そう言われても出来ないものは出来ません!」

 鳴りやまない電話。

 佐藤は机の上にあぐらをかいて、また煙草に火をつけた。

「くそ、本社の馬鹿どもが!」

 その奥では、場違いなほど滑稽な原色のゴルフウェアに身を包んだ竹本社長が、額に脂汗を滲ませながら、もう一本の回線で別の取引先に平謝りを繰り返していた。

 朝からのコンペが中止になり、そのままオフィスへ引き返してきたのだろう。

「パワナーさん、パワナーさんはまだ来てないのか?」と一人慌てふためいている。

 断っておくが、この場に勿論のこと、秘書のパワナーは来ていない。 

 後で聞いたのだが、彼女は危険を察知してとっくにプーケットの別荘に家族で避難していたそうだ。

 方々のルートから命がけで出勤してきたタイ人スタッフたちは、手持ちの小さなラジオにイヤホンをつけて、事の成り行きをひっそりと聴き入っている。

 向井はそのタイ語のラジオの情報が、限りなく事実に近い報道のはずなのに、なぜ佐藤も竹本も彼らに訊こうとしないのか不思議でならなかった。

 日本人だけでパニックを共有している姿は、どこか奇妙だった。

 昼前になると、ビル内に入居している他の日系企業の日本人駐在員たちが廊下に集まり、血走った目で情報交換を始めた。

 インターネットもSNSもない時代、生き残るための情報はすべて日本人社会の「口コミ」だった。

「軍が本格的に動いたらしい」

「スチンダー首相が非常事態宣言を出したぞ。完全に軍部が民衆を圧殺しにきてる」

「おい、もう王宮前広場や民主記念塔のあたりで、死者が百人以上出ているっていう噂だ……」

 飛び交う噂はどれも凄惨で、向井の処理能力を遥かに超えていた。

 赴任してわずか二か月に満たない身だ。

 タイの政治構造も、スチンダー首相と民衆の反政府側リーダーであるジャムロン氏の対立の構図も、向井には何も分からなかった。

 ただ分かっているのは、自分が言葉の通じない異国の暴動のど真ん中に放り込まれているという事実だけだった。

 向井は佐藤や竹本から言われるままに、手元のおぼつかないワープロで本社あての報告書を打ち、印刷しては東京本社へひたすらファックスを流し続けた。

 午後一時を過ぎると、極限の緊張状態のせいで、激しい空腹が向井を襲った。

 しかし、ビルの地下にある、頼みの綱だった日本食レストランのシャッターは、無情にも完全に下ろされていた。

 それならばと、いつもの運河沿いにある名店「グリーンハウス」へ、タイ人スタッフの通称“タロー君”を偵察に向かわせたが、そこも厚い緑色のトタン板で無骨にふさがれ、人の気配は全くなかったという。

 そう、この通称“タロー君”だが、結局彼が退職するまでその由来は聞かずじまいだった。

「向井、見ろ! 奴ら、完全にイカれちまったぞ!」

 窓際に立っていた佐藤が、新しい煙草に火を点けて向井を呼んだ。

 オフィスビルの上階から見下ろすアソーク通りには、いつの間にか黒頭巾を頭に巻いた暴徒の群れが集結していた。

 彼らは鉄パイプで信号機を破壊し、どこからか引きずってきた無数の古タイヤを道路の真ん中に積み上げている。

 そこへガソリンが撒かれ、火が放たれた。

 シュルシュルと不気味な音を立てて、真っ黒な有毒の煙が立ち上り、オフィスの窓ガラスを遮っていく。

 ガラス越しにも伝わってくる熱気と、遠くで響く民衆の怒号か、あるいは催涙剤(さいりゅうだん)の乾いた破裂音が聞こえてくる。

 向井はただ、恐怖に身をすくませるしかなかった。


3. マクドナルドへの決死隊

「おい、マックへ行くぞ!」

 古タイヤの煙を見つめたまま、佐藤が突然、執務机から車のキーをひったくった。

「は……? 佐藤さん、正気ですか! 外を見てください、暴徒がタイヤを燃やしてるんですよ! なんでこんな時にマクドナルドなんですか!」

 向井は思わず声を荒らげた。

 物見遊山で行くなら狂気の沙汰だ。

 しかし、佐藤は感情の消えた冷徹な目で向井を睨んで、一歩詰め寄った。

「バカ野郎。物見遊山でマックに行く日本人がどこにいる!」

 声色を変えた佐藤の声が、向井の脈拍を跳ね上げた。

「いいか向井、よく考えろ。ローカルのテレビもラジオも、タイ語ばかりでよくわかんねえ。タイ語のわからないお前はなおさらだろうが! だがな、スラウォン通りにあるマクドナルドはどうだ? あそこには今、西側のジャーナリスト、CNNの特派員、情報通の"ファラン”(タイ語で西洋人のこと)が間違いなく屯してる。ハンバーガーだけじゃない、情報収集を兼ねて行くんだよ、わかったか?」

 当時はまだ、バンコクで「マクドナルド」と言えば、スラウォン通りのパッポン出口にある店舗くらいしか存在していなかった時代だ。

 他にも数店舗はあったのかもしれないが、佐藤の脳裏に真っ先に浮かんだのは、西洋諸国の情報が最も早く集まるであろう、あの店舗だったに違いない。

 佐藤の冷静なロジックに、向井は二の句が継げなかった。

 その時、オフィスのドアが勢いよく開き、息を切らした初老のタイ人男性が飛び込んできた。

 向井の運転手のサロートだった。

 自宅のあるエリアから命がけで、自分のバイクを飛ばして駆けつけてくれたのだ。

「サロートさん、なんで今頃来るんだよ!」

 向井が安堵と混乱から怒りをぶちまけようとした矢先、佐藤が割って入った。

「サロート! 車、動くよな?」

 アソーク通りにも暴徒のグループが集まり始めたころ、サロートの運転で、佐藤、向井、タロー君が乗り込んだ社用車はスクムヴィット通りを西へと走り出した。

 車はラチャダムリ通りを左折、さらにラマ4世通りを右折し、スラウォン通りへと滑り込む。

 夜になればアジア随一の歓楽街として、妖しいネオンを放つパッポン通りの入り口に、目指すマクドナルドはあった。

 だが、今は夜の華やかさなど微塵もなく、真昼の乾いた熱気の中、割れたガラスの破片がシャリシャリとタイヤの下で不気味な音を立てる戦場そのものだった。

 辿り着いたマクドナルドの店内は、異様な空間と化していた。

 冷房の効いた店内の床には、昨夜から徹夜を続けたような、埃まみれの西洋人記者たちが座り込み、ハンバーガーを乱暴に貪りながら、ポータブル無線機やノートに目を落としている。

 英語、フランス語、ドイツ語が狂ったように飛び交い、緊迫した顔でデモ隊の動向を議論していた。

「スチンダー首相の命令で……軍が民衆に向けて、実弾を発砲し始めたそうだ」

 佐藤が、傍らにいたロイターの記者らしき男の会話を盗み聞きし、向井の耳元で囁いた。

「事実かどうかはわからない。だけど、ラチャダムヌン通りは完全に血の海らしい。かなりやばい状況だな」
 
 佐藤は手際よく注文した、オフィス全員分のハンバーガーとポテトフライが入った二つの大きな紙袋を向井とタロー君の胸に抱えさせ、「オフィスへ戻るぞ、急ごう!」と出口に向かった。


4. 消えたサロートと社用車

――タタタタン!

 マクドナルドの自動ドアを出た瞬間、乾いた、しかし重い破裂音がラチャダムリ方面から響いた。

 花火ではない。

 本物の銃声だ。

 直後、地を揺るがすような民衆の悲鳴が押し寄せてくる。

「サロート! 急げ、早く!」

 佐藤が叫んだ。

 しかし、さっきまで店舗の入り口の目の前にハザードランプを点けて停まっていたはずの向井のクレシーダとサロートが、影も形もなくなっていた。

「嘘だろ……俺たち置いていかれたのか!?」

 向井の脳裏に、最悪の絶望がよぎる。

 サロートが、命の危険を感じて自分たちを置いて車ごと逃げ出したのではないか。

 向井はこの映画のような緊迫感と、現実を前に心臓が口から飛び出そうだった。

「佐藤さん、反対側です!」

 タロー君が、反対車線の斜めに倒れ掛かった街路樹に隠れるように止まっている、向井のクレシーダを指差した。

 道路の反対側、いつでもUターンしてラマ4世通りへ逃げられるよう、サロートがあらかじめ車両の向きを変えて停車位置を移動させていたのだ。

 運転席のサロートは半狂乱の形相で「こっちです!早く、早く!」と激しく手を振っている。

「あの爺め、驚かせやがって!」

 佐藤が毒づきながら走り出す。

 向井もマックの袋を必死に抱えたまま、古タイヤの刺激臭に満ちた黒煙の中、道路を真横に突っ切って走った。

 足がもつれそうになりながらも、サロートが内側から開けた後部座席のドアへと滑り込む。

 バタン! とドアが閉まるのと同時に、サロートはクラッチを繋ぎ、タイヤを激しく軋ませて急発進した。

 車窓を、破壊され、へし折られた信号機が横たわる交差点がいくつも通り過ぎていく。

 車はオフィスへと這う這うの体で帰還した。

 デスクにしがみつき、冷めきったマクドナルドのハンバーガーを口に押し込んだが、向井はその味を全く覚えていなかった。

 ただ、湿ったポテトフライが喉に張り付いて、嫌な不快感だけが残った。


5. 流血の残響

 この一九九二年五月の「暗黒の五月事件」は、その後もしばらくバンコクを無法地帯へと変えていた。

 軍部を率いるスチンダー首相と、民衆の圧倒的な支持を得て軍事政権の打倒を迫るジャムロン氏の対立は激化し、街の至る所で銃声と煙が止むことはなかった。

 最終的にラーマ9世国王(前国王)の介入によって事態が収束へと向かうまで、バンコクは完全に機能不全に陥った。

(大変なところへ、来てしまった……)

 デスクの上にぽつんと置かれた、油の染みたマクドナルドの紙袋を見つめながら、向井は小さく溜息をついた。

 きらびやかな海外駐在員生活のイメージは、赴任早々、古タイヤの黒煙と銃声にあっけなく塗り替えられてしまった。

 言葉もわからず、政治の仕組みもわからない。

 そんな異国の地で、自分はこれから本当にやっていけるのだろうか。

 クーラーの冷気だけが虚しく響くオフィスの一室で、向井の胸には、言葉にできない地味で重い不安が、じわりと広がっていた。

 「パワナーさんはまだ来ないのか……」

 この期に及んで未だにオロオロしている竹本に、向井は一発ビンタをくらわしてやろうかと、その時、本気でそう思った……。

(つづく)

EP6. 爆風スランプと午前二時のカオトム

EP6. 爆風スランプと午前二時のカオトム

1. 佐藤からの誘い

 あの一九九二年五月の「暗黒の五月事件」を境に、向井と佐藤の二人の関係は親密度を増していった。

 惨状のスラウォン通りの“マクドナルド事件”を共に生き抜いたことで、佐藤は向井を一人前の戦友、そして好き後輩として認め始めた。

 暴動の傷跡が驚異的なスピードで路上から消え去り、タイのバブル経済が再び猛烈に点火した、ある金曜日の夕暮れ。

 午後八時、デスクでファックスを整理していた向井の背中に、佐藤が声をかけた。

「おい向井。仕事切り上げろ。メシ行くぞ」

「え、どこへ行くんですか?」

「いいから。美味いもん食いに行こう、それから面白いところに連れてってやる」

 佐藤の不敵な笑みに、不思議と嫌な予感はしなかった。

 あの事件以来、張り詰めていた心のワイヤーが、心地よく緩んでいくのを感じていた。

 地下駐車場から冷房の効いた社用車に滑り込む。

 佐藤はシートに深く身体を沈めると、彼の専属運転手のデーチャ―にぶっきらぼうに告げた。 

「らあめん亭!」

「クラップ!」

 当時、バンコクでまともな日本のラーメンが食べられる店は、スクムヴィット・ソイ33のこの店くらいしかなかった。

「……佐藤さん、美味いもんって、ラーメンですか?」

 高級ステーキかフレンチを期待していた向井は、思わずがっかり感を口にした。

 佐藤は「おう」とだけ言って店に入ると、座るなり「醤油ラーメン二つ、チャーシュー追加で!」と威勢よく注文した。

 運ばれてきた一杯は、驚くほど日本の“中華そば”そのものの味だった。

 店内は仕事帰りの日本人駐在員や家族連れで賑わっている。

 異国の中の、奇妙な“ニッポン”。

 しかし向井は、これが佐藤の言う“美味いもん”なのかと、喉に麺を通しながら終始疑問を拭えなかった。

 その間も佐藤は猛烈なペースでラーメンを平らげると、コップの冷水をぐいと飲み干した。

「さぁ、行くぞ」

 バンと肩を叩かれた佐藤の目は、すでに夜の“戦闘モード”に入っていた。


2. ソイ40の「Cola」と夜の(バタフライ)

 ソイの入り口で待機していた白いクレシーダに佐藤が手を挙げる。

 運転手のデーチャーは、読んでいたタイ語新聞を慌てて畳み、滑り込ませるように車をつけた。

「Cola!」

 佐藤が行き先を告げると、デーチャーは弾んだ声で「クラッポム!(かしこまりました)」と応じた。

 日系企業で働く運転手たちにとって、駐在員の夜ごとの“お遊び”に付き合う残業手当は、基本給を遥かに上回り、彼らの生活を支える給与の大半を占めていた。

 デーチャーの嬉しそうな声のトーンから察するに、佐藤はこれまで相当な時間と残業代を彼に費やしているに違いなかった。

 数分後、車が滑り込んだのは、スクムヴィット・ソイ40にあるディスコ兼ライブハウス「Cola」だった。

 一歩足を踏み入れた瞬間、床から脳天を揺さぶるような爆音の重低音が直撃する。

 フロア中央のDJブースを囲むように、小さな丸テーブルとスツールが隙間なくひしめき合っていた。

 独立したダンスフロアはなく、客たちはテーブルのわずかな隙間で思い思いに身体を揺らす

 ―若者の熱気と混沌が凝縮された構造だった。

「サワディーカー、サトーさん!」

 指定されたテーブルには、夜に舞う蝶のような華やかなミニドレスのタイ人女性が三人、派手な化粧でカクテルグラスを傾けて待っていた。

「お連れしましたよ、佐藤さん。もう少しで他の客に取られちゃうところでした‥‥ははは」

 卑屈な笑みで揉み手をしてきたのは、下請けの運輸会社で営業マネジャー、江口大輔だった。

 大口顧客の商社に勤める佐藤は、江口にとって絶対に逆らえない“最高の上客”。

 佐藤の頼みなら昼夜問わずに動き回り、こうして女たちを夜の店から連れ出してくることすら厭わない、典型的な日本の下請け根性がそこにあった。

「江口さん、いつも悪いね!」

 佐藤が両手を合わせると、江口は免罪符を得たように「いただきます!」と言って、持っていたジョッキのハイネケンを喉を鳴らして一気に飲み干した。

 向井が目を見張ったのは、最先端のディスコのテーブルの上に、およそ場違いなイサーン(東北)料理が満ち満ちていたことだ。

「おい向井、遠慮すんな。バブルのタイじゃ、これが一番の贅沢なんだよ」

 狐色に焼かれた鶏肉、脂がジクジクと音を立てているガイヤーン(焼き鳥)、香ばしい脂の甘みが鼻をくすぐるコームーヤーン(豚の喉肉の炙り焼)、ミントと唐辛子がひき肉と絶妙に絡んだナムトク(ひき肉のハーブ辛和え)。

 その傍らには、当時のステータスシンボル、「ジョニ黒」(ジョニーウォーカー・ブラックラベル) のボトルが鎮座していた。

 女たちは香水の匂いを振りまきながら、スコッチを安価なコカ・コーラでドボドボと豪快に割っていく。

 赴任当初、拒否反応を示した強烈なハーブとナンプラーの匂い……何故か全く気にならない。

 脂の乗ったコームーヤーンをフォークで刺して、ピリ辛のナムジム(タレ)につけて口に放り込む。

 ジョニ黒のコーラ割りで一気に流し込んだ瞬間、向井の脳内で何かのスイッチがパチンと切り替わった。

「う、美味い……!」

「だろ? この辛さと脂を、ウイスキーの甘みで流すんだよ。これが最高なんだ」

 佐藤がニヤリと笑う。

 ハーブの鮮烈な清涼感とウイスキーの炭酸が、あの五月事件の恐怖の残滓を、五臓六腑から一気に洗い流していくようだった。


3. サンプラザ中野と不意打ちのキス

 午後十一時、フロアの照明がさらに怪しく変わり、ステージの生バンドが交代した。

 暫くの静寂の後、聞き覚えのある激しいイントロがスピーカーから弾け飛んだ。

「――え?」

 向井はグラスを止めた。

 スポットライトの中に現れたのは、見紛うはずのないスキンヘッドに黒のサングラス。

 日本のロックバンド「爆風スランプ」のボーカル、サンプラザ中野がそこに立っていた。

 八十年代のヒットチャートを席巻した彼らも、九二年当時は国内の人気が落ち始め、アジア進出に勝負をかけていた。

 圧倒的な声量で繰り出されるメドレー。

 若き駐在員にとって、それは文字通り"青春の学生時代”を謳歌したメロディだった。

 驚くべきはタイ人客たちの反応だった。

 歌詞の意味など理解していないはずなのに、大興奮でテーブルを叩き、日本のロックナンバーに激しく腰をくねらせ跳ね踊っている。

 サンプラザ中野の独特のユーモアとジョークを交えたオーディエンスとのトークもない。

 ただ、彼はひたすら「サワディークラップ!! アイ・ラブ・タイランド!!」と連呼していた。

 その度にタイ人から大歓声が巻き起こった。

 向井の脳内でアドレナリンが全開になった。

 水割り一杯で翌朝まで頭痛を引きずる男が、なぜか今夜はハイペースで、ウィスキーのコーラ割りを煽っても全く酔いが回らない。

 心臓が激しくビートを刻み、身体が勝手に熱くなっていく。

「うお、すげえ……! 楽しい!」

 興奮が頂点に達した瞬間、向井は勢い余って、隣で踊っていた女の肩をがっしりと抱きしめてしまった。

(あ、しまった、やりすぎたか――)
 
 慌てて腕を引こうとした、その時だった。

 彼女は妖艶な笑みを浮かべて向井の首筋に手を回すと、ディスコの重低音のなかで、向井の唇にいきなり熱いキスを浴びせてきた。

 口の中に広がる、コーラと甘い口紅の混ざった味がした。

(え……!? ひょっとして彼女、俺に気があるのか……?)

 バブルの熱狂と不意の快感によって、向井の脳は完全にバグを起こしていた。

 佐藤はそれを見て、グラスを掲げながら大笑いしている。

 接待の大役を終えて安心したのか、江口はすっかり泥酔し、テーブルに思いきり突っ伏して眠りこけていた。


4. 午前二時のカオトム屋台へ

 どれほど踊り、どれほど飲んだだろうか。

 深夜二時。

 耳の奥にキーンという強烈な耳鳴りを残したまま、向井は佐藤に連れられるようにして「Cola」の重い扉を出た。

 スクムヴィット通りに出ると、雨季特有の低く湿った夜風がじっとりと肌にまとわりついた。

 昼間の殺人的な喧騒が嘘のように静まり返った大通りを、アソーク方面へとトボトボと歩く。

 薄暗い街頭の切れ目に、不自然なほど明るい蛍光灯の光がポツンと浮かび上がっていた。

 古いタウンハウスを改造した店舗の前にトタン屋根を突き出し、色褪せたプラスチックの丸椅子とステンレスのテーブルが並ぶ、ローカル食堂。

 煤けた看板には、タイ語の下に中国語で店名が書かれていた。

『阿財(アーチャイ)』――。

 創業三十年は下らない、深夜に未明まで営業している老舗の「カオトム(中華粥)」屋だった。

 ちなみにこの店は、令和の時代になった今でも、同じ場所で変わらず営業を続けている。

 店先の大鍋からは、濃厚な出汁の湯気が湿った夜空へと立ち上っている。

「おい向井、座れよ。ディスコの後は、ここで胃袋を休ませるのがバンコクっ子のルーティンだ」

 佐藤がガタつくプラスチックの椅子を引き、大きなゲップをした。


5. 午前二時のクールダウン

 揚げたニンニクと鶏出汁の混ざった湯気が顔を包む。

 運ばれてきたのは、熱々のカオトム(白粥)と、塩漬け卵、そして空心菜の強火炒め。

 爆音とアルコールで麻痺した胃壁に、その滋味がじわりと染み渡る。

「で、向井。お前、さっきタイ人の女にキスされて、ちょっといい気になったろ?」

 レンゲでお粥をすすっていた佐藤が、悪戯っぽく笑いながら突いてきた。

 向井は喉を詰まらせかけ、慌てて水を飲み込んだ。

 完全に図星だった。

「いや、それは……。急に抱きついた俺も悪かったですけど、あんなに熱烈に返されると、つい……」

「だろ? でもな、あれは江口が仕込んだ『芝居』だよ」

 佐藤は使い古された箸で空心菜を突きながら、どこか楽しそうに口に運んだ。

「江口はうちからの仕事を繋ぎ止めたいが為、とびきり気が利くプロの女たちを事前に仕込んでおいたんだよ。お前という男に惚れたんじゃなくて、お前の背後にある“わが社の看板”へのサービスさ。一番盛り上がったタイミングで不意打ちのキスを返してくるあたり、タイの女は本当に賢くて強かだよな。まあ、俺はそういうプロ意識、嫌いじゃないけどさ、ふふふ……」

 非情なからくりの話のはずなのに、佐藤の口から聞くと、不思議と嫌味がなく大人のユーモアのように響く。

 向井は半分納得しつつも、まだどこかで「でも、もしかしたら……?」と、キスの余韻に浸りながら、彼女の連絡先を訊かなかったことを悔やんだ。


6. “夜の牒”には気をつけろ

「ディスコのハイテンションなんて、その場限りの幻だからな。あんな場所での調子の良い約束なんか、仕事でも私生活でも絶対に信用しちゃダメだぞ。だから俺は、あの爆音の後に、必ずここでお粥を食うことにしてる。頭を優しくクールダウンさせるためにな」

「だから、わざわざここまで歩いたんですね」

 向井は苦笑した。

「確かに、お粥を食べていたら、少し頭が整理されてきました」

「夜はトコトン楽しめばいい。せっかくのタイ生活だからな、でも一線は超えちゃダメだぞ…」

 佐藤はそう言うと、店の前まで車を移動させて来たデーチャーに目をやった。

「現地の人間を動かすのも同じさ。説教じゃなく、相手が喜ぶ仕組みをこっちが作ってあげることだ。さあ、デーチャを待たせてる。帰るぞ」


7. 深夜二時半の覚醒

 向井は熱いお粥を最後の一口まで味わい、佐藤の言葉を噛み締めた。

 それは、佐藤自身がこれまでにバンコクの夜の街で騙され、手痛い失敗を重ねながら身に付けてきた、生々しくて、どこか温かい「活きた教科書」のように思えた。

「佐藤さんの言いたいこと、半分くらいは分かりました」

「なんだ、半分かよ?」

 佐藤は呆れたように鼻で笑った。

「ええ。残りの半分は、僕自身が一度は痛い目を見ないと、本当には理解できない気がします。でも、今日のところは、このお粥のおかげで本当に勉強になりました」

 佐藤が「そうか、ならよかった」と言いながら、財布から数枚の20バーツ札を取り出し乱雑にテーブルに置いた。

 店を出た瞬間、生暖かい夜気が一変し、雨の匂いを含んだ激しい突風がスクムヴィット通りを吹き抜けた。
 
 次の瞬間、雷鳴と共にバケツをひっくり返したような大粒の雨が降ってきた。

 バンコクに本格的な雨季の到来を告げる、激しいスコールだった。

 アスファルトに弾ける大粒の雨が、ディスコの残響も、プロの女が残していったキスの味も、すべて鮮やかに洗い流していく。

 デーチャーは手際よく傘を広げ、車のドアを開けて待っていた……。

EP7. サムイ島のクィッティオ・ムー・トゥン

EP7. サムイ島のクィッティオ・ムー・トゥン

1. ビー社長の仕込み

 ある日の午後、社長から呼ばれ応接室のソファに向かい合った。

「向井、ちょっと手土産を持って、旅行代理店のビーさんのところへ行ってきてくれ」

 社長は手元の資料に目を落としたまま言った。

「うちの現地スタッフのタローな。勤続五年で真面目で努力家だ、日本本社での研修日程を組んでやりたい。そこでパスポートと渡航ビザを手配してやってくれないか。だが今の時期、日本行きのビザの審査が厳しいようでな。ビーさんに頼み込んで、なんとか手続きを最速で通すようお願いしてきてくれないか」

 向井はすぐに動いた。

 シーロム通りにある日系企業御用達の旅行代理店を訪ねると、社長のビーが満面の笑みで迎えてくれた。

 年齢は五十歳前後だろう。

 バブル期のバンコクで修羅場を何度も渡り歩いてきたであろう、気は強そうだが、同時にどこかチャーミングな大人のタイ女性だった。

 向井が彼女のニックネームの“ビー”しか覚えていなかったのは、彼女の容姿がニックネーム通りの“蜂(ビー)”そのものだったからだ。

 小柄で丸みのある体型に、常にせわしなく動き回る細い手足、少し突き出したお尻、そして何より、人の品定めをするような鋭く丸い眼が、どことなく女王蜂を連想させた。

「マイペンライ・カァ、ムカイさん。大社長からの頼みだもの、私が最高のルートで手配してあげるわ」

 ビーはそう言ってウインクしたが、その眼は向井の視線がちらちらと左右に泳いでいるのを見逃さなかった。
 
 空いたデスクの傍らに、見慣れない若い女性が静かに座っていた。

「私の姪のワサナー。ニックネニックネームはファーよ」

 ビーに促され、その女性は恥ずかしそうに両手を合わせてワイ(お辞儀)をした。

「タイ航空に入社して、まだ二年目のCAなの。オフの日はこうして、私のお店を手伝ってくれているのよ」

 向井の心臓がぴくんと跳ね上がった。
 
 健康的でなめらかな褐色的でなめらかな褐色の肌に、吸い込まれそうなほど大きな瞳。

 タイ人にしてはやや小柄だったが、制服を着ていなくとも一目でそれと分かる、西洋人のように豊満で均整の取れたプロポーションをしていた。
 
 数週間前、ディスコ「Cola」で見た、ネオン街を舞う夜の蝶たちの派手な美しさとはまるで違う。

 南国の太陽の下でそのまま育ったような、健康的で瑞々しい野生の輝きがそこにはあった。

「はじめまして、ファーです」

 少しはにかんだ彼女の笑顔に、向井はビジネスモードの脳のギヤが、不意にニュートラルに外れるような感覚を覚えた。

 それから一週間後、ビー社長からオフィスに直接電話が入った。

「ムカイさん、ビザも航空券もすべて完璧に揃ったわよ。お礼なんていいから、今日のランチ、三人で美味しいものでも食べに行きましょう」

 指定されたスクムヴィットのベトナム料理のレストランへ向かうと、向井の期待通り、そこにはファーがビーの隣に座っていた。

 向井はこの時、生まれて初めてベトナム料理に挑戦した。

 注文はすべてビーに任せていたが、彼女が注文する間にも、向井はファーのことが気になってしょうがない。

 運ばれてくる野菜中心のヘルシーな定番メニューの味もそこそこに、向井の視線は完全に泳いでいた。

 そのため、料理の具体的な味についての記憶は、後になって思い返しても完全に白紙だった。
 
 ビー社長にどういう意図があったのかは分からない。

 ただの可愛らしい姪の身内自慢をしたかっただけなのか、それとも、日本の大手商社の若き駐在員という“優良株”を値踏みしようとしたのか。
 
 ビーは、いかに今回のビザ取得が困難であったか、そして自分がどのような人脈を駆使して成功させたかという手柄話をまくしたてていた。

 しかし、その賑やかな声の横で、時折向井と視線が合うたびに、ファーは大きな瞳を細めて小さく微笑んだ。

 彼女が時折口にする、フライト先での他愛のない失敗談や、機内で出会う奇妙な乗客の話の方が、向井にとっては遥かに興味深かった。
 
 店の外を流れるバンコクの喧騒とは遮絶された、レモングラスとミントが香る涼やかな空間の中で、二人の距離は、磁石が引き合うようにして確実に縮まっていった。


2. プロペラ機とサムイ島の大仏

 ファーはバンコクのラマ九世通り、日本人学校のすぐ近くにある、伯母のビーが所有する小さなアパートで一人暮らしをしていた。

 連絡先を交換してからは、彼女がフライトの合間にバンコクの自宅にいる夜は、どちらからともなく受話器を取るのが習慣になっていった。

 日本路線のフライトが多い彼女の話は、向井には新鮮で面白くて仕方がなかった。

 機内での日本人のいささか生真面目すぎる振る舞いや、タイ人から見れば奇妙に映るお国柄の質問に答えているうちに、気づけば深夜の長話になっている。

 受話器の向こうで、鈴を転がすように笑う彼女の声を聴く時間が、向井には楽しかった。

 そんなある日の会話だった。

「今度の連休、サムイ島へ行かない?」

 どちらからともなく、そんな話になった。
 
 一九九二年のサムイ島は、現在のような大規模なリゾート開発はされておらず、また、プーケットほどに西洋人の観光客も多くはなかった。

 素朴な島民と、静かなビーチがそのまま残る、バックパッカーたちの聖地としての面影を色濃く残している時代だった。

「サムイ島には、私の親戚が住んでいるから大丈夫」

 それが彼女なりの慎み深い「建前」であり、一緒に行くための可愛い言い訳であることは、向井にもよく分かっていた。

 だが、その一言のおかげで、向井も妙な後ろめたさを感じることなく、安心して計画を進めることができた。

 当日、二人はドンムアン空港のロビーのカフェで待ち合わせ、バンコクエアウェイズの小さなプロペラ機に乗り込んだ。
 
 高度を下げ、椰子の木がどこまでも広がる緑の島が眼下に近づいてくる。

 滑走路に着陸した瞬間、プロペラが巻き上げる乾いた南国の風が二人の頬を震わせた。

 当時のサムイ空港は、ターミナルといっても椰子の葉で葺いた屋根があるだけの、信じられないほど素朴な平屋建てだった。

 空港を出ると、予約していたホテルからの迎えが来ていた。

「Welcome, Mr. Kenji & K.Far」

 小さなホテルのロゴが入ったプラカードを掲げた、アロハシャツのスタッフが出迎えてくれた。

 向井はどことなく、その連名の表記に嬉し恥ずかしい思いを抱きながら、スタッフに二泊分の衣類が詰まったスーツケースを預けた。

 ホテルにチェックインした後、向井は近くのバイクレンタル店で小型のスクーターを借りた。

 ガイドブックに付箋紙を挟んでいた向井はそれを頼りに、ホテルのカウンターで受け取った島の地図と合わせながら見学ルートの確認をしていく。
 
 ファーは隣からその様子を覗き込み、くすくすと笑った。

「なんだか、キャプテンとのフライト前のブリーフィングみたいね」

「仕事柄、あらかじめ行動ルートを決めておかないと落ち着かなくてさ。よし、しっかり捕まってて」

「うん」

 後ろに跨ったファーの柔らかい身体が、向井の背中にぴったりと密着する。

 彼女の細い腕が向井の腰に回り、そこからドクドクと刻まれる心臓の鼓動がダイレクトに伝わってきた。

 時速四十キロ。向井はスクーターのアクセルを捻り、二人は未舗装の赤土が混ざる、海岸線の一本道を地図を頼りに走り回った。

 左手には、エメラルドグリーンに輝く広大なタイ湾の海。

 右手には、どこまでも続く椰子林の深い緑。

 バンコクの埃っぽい空気と喧騒のノイズが、潮風とスクーターの軽快なエンジン音によって、みるみるうちに脳内から洗い流されていく。

「ムカイ、あそこへ行ってみようよ」
 
 ファーが風の中で向井の肩を叩き、岬の方を指差した。
 
 島の北東部、海に突き出た小さな岬の丘の上に、そのお寺はあった。

 地元の人々が「ワット・プラヤイ」と呼ぶその寺の境内には、高さ十二メートルはあろうかという、黄金に輝く巨大な大仏(ビッグブッダ)が、青い空を背に堂々と鎮座していた。

 参道の長い階段を、バイクを降りて歩く。

 照りつける太陽で熱くなった石段を一歩ずつ登りきると、そこは遮るもののない、大パノラマが広がっていた。

「景色、すごいなぁ……」

 向井は思わずため息をもらした。
 
 潮風が、汗ばんだシャツを心地よく通り抜けていく。


3. 屋台の“肉ラーメン”

 大仏の足元をぐるりと回り、並んでいる土産物屋の賑やかな軒先を抜けたときだった。
 
 小さなお堂の壁を背にするようにして、リヤカーを改造した、小さな屋台がぽつんと佇んでいた。

 通り過ぎようとした向井の足がピタリと止まった。

 屋台の上の食材が入ったガラスケースに、一枚の白い紙が貼られていた。

 折り目のついたA4のコピー用紙。

 そこに、サインペンで書かれた日本語が並んでいた。

『肉ラーメン』

「……肉ラーメン?」
 
 向井は思わず声を漏らした。
 
 決して上手な筆跡ではないが、よく見ると、文字の下には。

「おいしいタイラーメン!」

「豚肉と血のスープ」

 と、微妙なニュアンスのキャッチコピーまで添えられている。

 おそらく、ここを訪れた日本人旅行者が、老夫婦のクィッティオの味に心打たれ、お礼代わりに書いてあげたものなのだろう。

「どうしたの?」
 
 ファーが不思議そうに顔を覗き込んできた。

「いや、あそこに日本語が書いてあってさ。なんかおもしろそうだし、食べてみない?」

「いいよ。お腹もすいてきたし」

 二人は、タイの路地裏の庭先でよく見かける、中央にチェス用のマス目が入った重い石製のテーブルと長椅子に腰掛けた。

 屋台を切り盛りしているのは、日に焼けて顔中が深い皺で覆われた老夫婦だった。

 少し腰の曲がった小柄な婆さんが麺を茹でる釜の前に立ち、いかにも頑固そうな、だが優しい目をした爺さんが配膳を担当しているようだった。

 向井はメニューにある黄色いバミー(小麦粉で作った中華麺)を選び、タイ語で注文した。

「バミー・ナーム・ソーン・クラップ!」

 婆さんは嬉しそうに白い歯を見せて頷いた。すかさず、注文の確認が飛ぶ。

「血は入れるかい?」

 婆さんが訊くのとほぼ同時に、ファーが即座に手を振った。

「マイ・カオ・カァ!」

 向井は「血」という言葉に一瞬どきりとした。

 ファーから「豚の生の血をスープのコク出しに使うのよ」と説明を聞いて、さらに身を硬くする。

 黙っていれば、婆さんは当たり前のようにレンゲ一杯の血をスープに落とし込んでしまうところだった。

 ファーの機転に救われた。

 運ばれてきたのは、血を入れずに仕上げた「バミー・ナー・ムー・トゥン(豚肉の煮込み麺)」だった。

 じっくりと煮込まれた豚骨だしをベースに、八角などの香辛料とタイの黒醤油を合わせ、何時間も煮込まれたスープは、深い琥珀色に澄んでいる。

 その上に、クタクタになるまで煮込まれた、豚の塊肉がいくつもゴロゴロと転がっていた。

 爺さんがヨロっとした足取りで、器を二つ持って、親指がスープに浸からない程度に慎重にテーブルへ運んできた。

「さぁ、お食べなさい」

 まるで孫に食べさせるかのような口ぶりに、ファーはクスっと笑った。

 向井は割り箸を威勢よく割って、スープを一口すする。

「あ……」

 特別に驚くほど美味いわけではない。

 バンコクの有名な中華飯店で食べるような洗練された味でも、スクムヴィットの「らあめん亭」のような慣れ親しんだ日本の味でもない。

 だが、この場所の空気、海から吹き上げる湿った潮風、頭上で燦然と輝く黄金の大仏、そして突き抜けるような真っ青な空。

 そのすべてがスパイスとなり、向井の味覚に、奇妙なほど温かく懐かしい味となって染み渡っていった。

「美味しいね、ムカイ」

 ファーがレンゲでスープをフーフーと吹きながら、大きな目をさらに丸くして言った。

「ああ。最高だな、これ!」

 向井は心からそう思った。


4. 爺さんの(くわ)と古い自転車

 二人が麺をすすっていると、注文を運び終えた、婆さんの旦那さんである爺さんが、おもむろに店の裏から一本の鍬を持ち出してきた。

 爺さんは黙って境内の乾いた赤土をザク、ザクと、あちこち不規則に掻き始めた。

 掘り起こすわけでも、穴を埋めるわけでもない。

 ただ、土の表面をなぞるようにして鍬を動かしている。

(一体、何をしてるんだ……?)
 
 向井とファーが不思議そうに見つめていると、爺さんは三分ほどで土掻きに飽きたのか、今度は境内の木陰に停めてあった、一台の古い自転車の前にしゃがみ込んだ。

 それは、昔の新聞配達や氷屋が乗っていたような、かなり年季の入った黒い業務用自転車だった。

 爺さんは油の切れた真っ黒なチェーンを、素手でいじり始めた。

 ガチャガチャと不器用な音を立ててチェーンを直すと、やおら立ち上がり、サドルに跨る……のかと思いきや、やはり乗らない。

 ただハンドルを握り、直したばかりの自転車を、前方へ二メートルほど「手押し」で進めた。

 そして、何かを確認するようにじっと足元を見つめると、今度はそのままバックで二メートル引き戻した。
 
 乗る気配は、一切ない。

 ただ押しては、引くだけ。

 その徹底的に不審な一連の動きが、あまりにも島のゆったりとした時間に溶け込んでいて、向井とファーは箸を止めて釘付けになってしまった。

 都会の効率主義の真っ只中で、分刻みのスケジュールに追われていた向井にとって、その爺さんの行動は、時間の概念そのものを揺るがすような奇妙な儀式に見えた。

 そのとき、お寺の古いスピーカーから、ジジジ……と歪んだノイズを立てて、境内アナウンスが流れ始めた。
 
 タイ語の、低くのんびりと間延びした年配の男性の声だった。

『――業務連絡。境内の売店のプラシットさん。寺の事務所まですぐにお越しください。繰り返します、プラシットさん――』

 向井もファーも、特に気にとめることもなく、残りの麺をすすり始めた。

 アナウンスが完全に終わり、境内に再び静かな波の音だけが戻ってくる。

 それから、たっぷりと一分ほどが経った、ちょうどその時だった。

 それまで自転車のハンドルを握ったまま固まっていた爺さんが、ふと手を止め、こちらを振り返った。
 
 そして、実にとぼけた顔で、ボソッと呟いた。

「……ワシのことだ」

 あまりのタイムラグとその間の抜けた一言に、向井とファーは一瞬の沈黙の後、同時に吹き出した。

「ぷっ……あははは!」

 ファーが堪えきれずに、お腹を抱えて笑い転げる。

 向井も喉に麺を詰まらせそうになりながら、声を上げて笑った。

 すると婆さんが、濡れた雑巾で手を拭きながら、呆れたように爺さんの背中を叩いた。

「だったら早く行きなよ、プラシット爺さん! 事務所の人が待ってるよ!」

 爺さんは「おっと、そうだった」とでも言うように頭を掻きながら、今度は本当に自転車に跨った。

 そして「ぎーこ、ぎーこ」と鈍い音を立ててペダルをゆっくりと漕ぎながら、お寺の事務所の方へと消えていった。

 婆さんも、それを見送りながら、つられて楽しそうに「ふふふ」と笑っている。

 向井の胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされていくのを感じた。


5. ワープロの約束

 麺をほとんど平らげたころ、向井は先ほどのA4の紙を指差した。

「お婆さん、この日本語の紙さ……」

「ん? ああ、これかい。ずいぶん前に日本人のお客さんが書いてくれたんだよ」

 婆さんが大鍋のスープの味を調えながら、当時を懐かしむように振り返る。

「これ、ちょっと文字が汚くて読みにくいからさ。僕、バンコクに戻ったら、会社のワープロできれいな日本語に打ち直して、新しいのを送ってあげるよ。ラミネートして、雨に濡れても破れないようにしてさ」

 ワープロで作った均整な印字なら、この島の素朴な屋台でも、もっと多くの日本人の目を引くに違いないという、向井なりの親切心だった。

「まあ、本当かい? それはありがたいねぇ」

 婆さんは顔中の皺をさらに深くして喜んだ。

「じゃあ、お店の名前と、送り先の住所を教えて。メモするから」

 向井がポケットから手帳とボールペンを取り出すと、婆さんは、何を大袈裟なという風に、のんびりと手を振って笑った。

「店の名前も住所なんていらないよ。このお寺、ワット・プラヤイの『肉ラーメンのばあさん宛』って書いて送れば、郵便屋さんがちゃんと届けてくれるさ。島のもんはみんな知り合いだからね」

「……このお寺宛、だけで?」

「そうだよ。問題ないさ」

 婆さんはそう言って、ガハハと大らかに笑った。

 向井は呆気にとられ、可笑しさが込み上げてきて手帳を閉じた。

 そうだ、ここはそういう島なのだ。

 何丁目何番地なんていう、人間の住処を細かく分類する記号など、この黄金の大仏の足元では何の意味も持たない。

 お寺に手紙を出せば、ちゃんと届く。

 そのシンプルで絶対的な信頼関係が、ひどく羨ましかった。

「あんた、いい男だね。コボリみたいだ。よし、おまけしてあげるよ」
 
 婆さんはそう言うと、手招きをして、二人が食べていた器を持ってこいと促した。

 向井とファーが器を差し出すと、婆さんは特大のレンゲで、何時間も煮込まれて、とろけるような豚の煮込み肉を大鍋の底から掬い上げ、これでもかと、二人の器にてんこ盛りに入れてくれた。

「たくさん食べな。若いんだから」

「コープクン・クラップ」

「コープクン・カァ」

 二人が同時にお礼を言った。

 新しく肉が追加されたスープからは、再び温かい湯気が立ち上り、二人の顔を優しく包み込んだ。


6. 映画のワンシーンのように

 向井は、新しく追加された肉を口に運びながら、目の前の光景をじっと見つめていた。

 真っ青な空。

 どこまでも穏やかなエメラルドグリーンの海。

 背後で静かに島を見守る、黄金の大仏の横顔。

 そして、自分の目の前で、口の周りを少しスープで茶色くしながら、嬉しそうに肉を頬張っているファーの横顔。

 向井には、自分の人生のこの時間が、まるで一本の青春映画のワンシーンのように流れていくように思えた。

 南国の光と、老夫婦の笑顔と、自分たちがその一コマの中に完璧に収まっているような、静かな充足感があった。

「ムカイ、どうしたの? 早く食べないと冷めちゃうよ」

 ファーが不思議そうに、大きな瞳を丸くして向井を見た。

「いや、なんでもない。これ、美味いなと思ってさ」

 向井は微笑み、再び箸を動かした。

 彼女との、束の間の休日。
 
 お寺の“肉ラーメン”屋台を包む、優しく素朴な味わい。

 それを二人で分け合った記憶は、向井の胸の内に忘れることのない、鮮烈な足跡を残そうとしていた。

 お代を払い、再びスクーターのエンジンをかける。

 シートに跨りハンドルを握った向井の腰に、ファーが再びその細い腕を回してきた。

「……行きましょ、いい男、コボリ……」

 走り出した瞬間、彼女の手が、先ほどよりも少しだけ強く、向井の体に引き寄せられたような気がした……。

EP8. ナコンシータマラートのカノムチンと山田長政

EP8. ナコンシータマラートのカノムチンと山田長政

1. ビー社長の仕込み

 ある日の午後、社長から呼ばれ応接室のソファに向かい合った。

「向井、ちょっと手土産を持って、旅行代理店のビーさんのところへ行ってきてくれ」

 社長は手元の資料に目を落としたまま言った。

「うちの現地スタッフのタローな。勤続五年で真面目で努力家だ、日本本社での研修日程を組んでやりたい。そこでパスポートと渡航ビザを手配してやってくれないか。だが今の時期、日本行きのビザの審査が厳しいようでな。ビーさんに頼み込んで、なんとか手続きを最速で通すようお願いしてきてくれないか」

 向井はすぐに動いた。

 シーロム通りにある日系企業御用達の旅行代理店を訪ねると、社長のビーが満面の笑みで迎えてくれた。

 年齢は五十歳前後だろう。

 バブル期のバンコクで修羅場を何度も渡り歩いてきたであろう、気は強そうだが、同時にどこかチャーミングな大人のタイ女性だった。

 向井が彼女のニックネームの“ビー”しか覚えていなかったのは、彼女の容姿がニックネーム通りの“蜂(ビー)”そのものだったからだ。

 小柄で丸みのある体型に、常にせわしなく動き回る細い手足、少し突き出したお尻、そして何より、人の品定めをするような鋭く丸い眼が、どことなく女王蜂を連想させた。

「マイペンライ・カァ、ムカイさん。大社長からの頼みだもの、私が最高のルートで手配してあげるわ」

 ビーはそう言ってウインクしたが、その眼は向井の視線がちらちらと左右に泳いでいるのを見逃さなかった。
 
 空いたデスクの傍らに、見慣れない若い女性が静かに座っていた。

「私の姪のワサナー。ニックネニックネームはファーよ」

 ビーに促され、その女性は恥ずかしそうに両手を合わせてワイ(お辞儀)をした。

「タイ航空に入社して、まだ二年目のCAなの。オフの日はこうして、私のお店を手伝ってくれているのよ」

 向井の心臓がぴくんと跳ね上がった。
 
 健康的でなめらかな褐色的でなめらかな褐色の肌に、吸い込まれそうなほど大きな瞳。

 タイ人にしてはやや小柄だったが、制服を着ていなくとも一目でそれと分かる、西洋人のように豊満で均整の取れたプロポーションをしていた。
 
 数週間前、ディスコ「Cola」で見た、ネオン街を舞う夜の蝶たちの派手な美しさとはまるで違う。

 南国の太陽の下でそのまま育ったような、健康的で瑞々しい野生の輝きがそこにはあった。

「はじめまして、ファーです」

 少しはにかんだ彼女の笑顔に、向井はビジネスモードの脳のギヤが、不意にニュートラルに外れるような感覚を覚えた。

 それから一週間後、ビー社長からオフィスに直接電話が入った。

「ムカイさん、ビザも航空券もすべて完璧に揃ったわよ。お礼なんていいから、今日のランチ、三人で美味しいものでも食べに行きましょう」

 指定されたスクムヴィットのベトナム料理のレストランへ向かうと、向井の期待通り、そこにはファーがビーの隣に座っていた。

 向井はこの時、生まれて初めてベトナム料理に挑戦した。

 注文はすべてビーに任せていたが、彼女が注文する間にも、向井はファーのことが気になってしょうがない。

 運ばれてくる野菜中心のヘルシーな定番メニューの味もそこそこに、向井の視線は完全に泳いでいた。

 そのため、料理の具体的な味についての記憶は、後になって思い返しても完全に白紙だった。
 
 ビー社長にどういう意図があったのかは分からない。

 ただの可愛らしい姪の身内自慢をしたかっただけなのか、それとも、日本の大手商社の若き駐在員という“優良株”を値踏みしようとしたのか。
 
 ビーは、いかに今回のビザ取得が困難であったか、そして自分がどのような人脈を駆使して成功させたかという手柄話をまくしたてていた。

 しかし、その賑やかな声の横で、時折向井と視線が合うたびに、ファーは大きな瞳を細めて小さく微笑んだ。

 彼女が時折口にする、フライト先での他愛のない失敗談や、機内で出会う奇妙な乗客の話の方が、向井にとっては遥かに興味深かった。
 
 店の外を流れるバンコクの喧騒とは遮絶された、レモングラスとミントが香る涼やかな空間の中で、二人の距離は、磁石が引き合うようにして確実に縮まっていった。


2. プロペラ機とサムイ島の大仏

 ファーはバンコクのラマ九世通り、日本人学校のすぐ近くにある、伯母のビーが所有する小さなアパートで一人暮らしをしていた。

 連絡先を交換してからは、彼女がフライトの合間にバンコクの自宅にいる夜は、どちらからともなく受話器を取るのが習慣になっていった。

 日本路線のフライトが多い彼女の話は、向井には新鮮で面白くて仕方がなかった。

 機内での日本人のいささか生真面目すぎる振る舞いや、タイ人から見れば奇妙に映るお国柄の質問に答えているうちに、気づけば深夜の長話になっている。

 受話器の向こうで、鈴を転がすように笑う彼女の声を聴く時間が、向井には楽しかった。

 そんなある日の会話だった。

「今度の連休、サムイ島へ行かない?」

 どちらからともなく、そんな話になった。
 
 一九九二年のサムイ島は、現在のような大規模なリゾート開発はされておらず、また、プーケットほどに西洋人の観光客も多くはなかった。

 素朴な島民と、静かなビーチがそのまま残る、バックパッカーたちの聖地としての面影を色濃く残している時代だった。

「サムイ島には、私の親戚が住んでいるから大丈夫」

 それが彼女なりの慎み深い「建前」であり、一緒に行くための可愛い言い訳であることは、向井にもよく分かっていた。

 だが、その一言のおかげで、向井も妙な後ろめたさを感じることなく、安心して計画を進めることができた。

 当日、二人はドンムアン空港のロビーのカフェで待ち合わせ、バンコクエアウェイズの小さなプロペラ機に乗り込んだ。
 
 高度を下げ、椰子の木がどこまでも広がる緑の島が眼下に近づいてくる。

 滑走路に着陸した瞬間、プロペラが巻き上げる乾いた南国の風が二人の頬を震わせた。

 当時のサムイ空港は、ターミナルといっても椰子の葉で葺いた屋根があるだけの、信じられないほど素朴な平屋建てだった。

 空港を出ると、予約していたホテルからの迎えが来ていた。

「Welcome, Mr. Kenji & K.Far」

 小さなホテルのロゴが入ったプラカードを掲げた、アロハシャツのスタッフが出迎えてくれた。

 向井はどことなく、その連名の表記に嬉し恥ずかしい思いを抱きながら、スタッフに二泊分の衣類が詰まったスーツケースを預けた。

 ホテルにチェックインした後、向井は近くのバイクレンタル店で小型のスクーターを借りた。

 ガイドブックに付箋紙を挟んでいた向井はそれを頼りに、ホテルのカウンターで受け取った島の地図と合わせながら見学ルートの確認をしていく。
 
 ファーは隣からその様子を覗き込み、くすくすと笑った。

「なんだか、キャプテンとのフライト前のブリーフィングみたいね」

「仕事柄、あらかじめ行動ルートを決めておかないと落ち着かなくてさ。よし、しっかり捕まってて」

「うん」

 後ろに跨ったファーの柔らかい身体が、向井の背中にぴったりと密着する。

 彼女の細い腕が向井の腰に回り、そこからドクドクと刻まれる心臓の鼓動がダイレクトに伝わってきた。

 時速四十キロ。向井はスクーターのアクセルを捻り、二人は未舗装の赤土が混ざる、海岸線の一本道を地図を頼りに走り回った。

 左手には、エメラルドグリーンに輝く広大なタイ湾の海。

 右手には、どこまでも続く椰子林の深い緑。

 バンコクの埃っぽい空気と喧騒のノイズが、潮風とスクーターの軽快なエンジン音によって、みるみるうちに脳内から洗い流されていく。

「ムカイ、あそこへ行ってみようよ」
 
 ファーが風の中で向井の肩を叩き、岬の方を指差した。
 
 島の北東部、海に突き出た小さな岬の丘の上に、そのお寺はあった。

 地元の人々が「ワット・プラヤイ」と呼ぶその寺の境内には、高さ十二メートルはあろうかという、黄金に輝く巨大な大仏(ビッグブッダ)が、青い空を背に堂々と鎮座していた。

 参道の長い階段を、バイクを降りて歩く。

 照りつける太陽で熱くなった石段を一歩ずつ登りきると、そこは遮るもののない、大パノラマが広がっていた。

「景色、すごいなぁ……」

 向井は思わずため息をもらした。
 
 潮風が、汗ばんだシャツを心地よく通り抜けていく。


3. 屋台の“肉ラーメン”

 大仏の足元をぐるりと回り、並んでいる土産物屋の賑やかな軒先を抜けたときだった。
 
 小さなお堂の壁を背にするようにして、リヤカーを改造した、小さな屋台がぽつんと佇んでいた。

 通り過ぎようとした向井の足がピタリと止まった。

 屋台の上の食材が入ったガラスケースに、一枚の白い紙が貼られていた。

 折り目のついたA4のコピー用紙。

 そこに、サインペンで書かれた日本語が並んでいた。

『肉ラーメン』

「……肉ラーメン?」
 
 向井は思わず声を漏らした。
 
 決して上手な筆跡ではないが、よく見ると、文字の下には。

「おいしいタイラーメン!」

「豚肉と血のスープ」

 と、微妙なニュアンスのキャッチコピーまで添えられている。

 おそらく、ここを訪れた日本人旅行者が、老夫婦のクィッティオの味に心打たれ、お礼代わりに書いてあげたものなのだろう。

「どうしたの?」
 
 ファーが不思議そうに顔を覗き込んできた。

「いや、あそこに日本語が書いてあってさ。なんかおもしろそうだし、食べてみない?」

「いいよ。お腹もすいてきたし」

 二人は、タイの路地裏の庭先でよく見かける、中央にチェス用のマス目が入った重い石製のテーブルと長椅子に腰掛けた。

 屋台を切り盛りしているのは、日に焼けて顔中が深い皺で覆われた老夫婦だった。

 少し腰の曲がった小柄な婆さんが麺を茹でる釜の前に立ち、いかにも頑固そうな、だが優しい目をした爺さんが配膳を担当しているようだった。

 向井はメニューにある黄色いバミー(小麦粉で作った中華麺)を選び、タイ語で注文した。

「バミー・ナーム・ソーン・クラップ!」

 婆さんは嬉しそうに白い歯を見せて頷いた。すかさず、注文の確認が飛ぶ。

「血は入れるかい?」

 婆さんが訊くのとほぼ同時に、ファーが即座に手を振った。

「マイ・カオ・カァ!」

 向井は「血」という言葉に一瞬どきりとした。

 ファーから「豚の生の血をスープのコク出しに使うのよ」と説明を聞いて、さらに身を硬くする。

 黙っていれば、婆さんは当たり前のようにレンゲ一杯の血をスープに落とし込んでしまうところだった。

 ファーの機転に救われた。

 運ばれてきたのは、血を入れずに仕上げた「バミー・ナー・ムー・トゥン(豚肉の煮込み麺)」だった。

 じっくりと煮込まれた豚骨だしをベースに、八角などの香辛料とタイの黒醤油を合わせ、何時間も煮込まれたスープは、深い琥珀色に澄んでいる。

 その上に、クタクタになるまで煮込まれた、豚の塊肉がいくつもゴロゴロと転がっていた。

 爺さんがヨロっとした足取りで、器を二つ持って、親指がスープに浸からない程度に慎重にテーブルへ運んできた。

「さぁ、お食べなさい」

 まるで孫に食べさせるかのような口ぶりに、ファーはクスっと笑った。

 向井は割り箸を威勢よく割って、スープを一口すする。

「あ……」

 特別に驚くほど美味いわけではない。

 バンコクの有名な中華飯店で食べるような洗練された味でも、スクムヴィットの「らあめん亭」のような慣れ親しんだ日本の味でもない。

 だが、この場所の空気、海から吹き上げる湿った潮風、頭上で燦然と輝く黄金の大仏、そして突き抜けるような真っ青な空。

 そのすべてがスパイスとなり、向井の味覚に、奇妙なほど温かく懐かしい味となって染み渡っていった。

「美味しいね、ムカイ」

 ファーがレンゲでスープをフーフーと吹きながら、大きな目をさらに丸くして言った。

「ああ。最高だな、これ!」

 向井は心からそう思った。


4. 爺さんの(くわ)と古い自転車

 二人が麺をすすっていると、注文を運び終えた、婆さんの旦那さんである爺さんが、おもむろに店の裏から一本の鍬を持ち出してきた。

 爺さんは黙って境内の乾いた赤土をザク、ザクと、あちこち不規則に掻き始めた。

 掘り起こすわけでも、穴を埋めるわけでもない。

 ただ、土の表面をなぞるようにして鍬を動かしている。

(一体、何をしてるんだ……?)
 
 向井とファーが不思議そうに見つめていると、爺さんは三分ほどで土掻きに飽きたのか、今度は境内の木陰に停めてあった、一台の古い自転車の前にしゃがみ込んだ。

 それは、昔の新聞配達や氷屋が乗っていたような、かなり年季の入った黒い業務用自転車だった。

 爺さんは油の切れた真っ黒なチェーンを、素手でいじり始めた。

 ガチャガチャと不器用な音を立ててチェーンを直すと、やおら立ち上がり、サドルに跨る……のかと思いきや、やはり乗らない。

 ただハンドルを握り、直したばかりの自転車を、前方へ二メートルほど「手押し」で進めた。

 そして、何かを確認するようにじっと足元を見つめると、今度はそのままバックで二メートル引き戻した。
 
 乗る気配は、一切ない。

 ただ押しては、引くだけ。

 その徹底的に不審な一連の動きが、あまりにも島のゆったりとした時間に溶け込んでいて、向井とファーは箸を止めて釘付けになってしまった。

 都会の効率主義の真っ只中で、分刻みのスケジュールに追われていた向井にとって、その爺さんの行動は、時間の概念そのものを揺るがすような奇妙な儀式に見えた。

 そのとき、お寺の古いスピーカーから、ジジジ……と歪んだノイズを立てて、境内アナウンスが流れ始めた。
 
 タイ語の、低くのんびりと間延びした年配の男性の声だった。

『――業務連絡。境内の売店のプラシットさん。寺の事務所まですぐにお越しください。繰り返します、プラシットさん――』

 向井もファーも、特に気にとめることもなく、残りの麺をすすり始めた。

 アナウンスが完全に終わり、境内に再び静かな波の音だけが戻ってくる。

 それから、たっぷりと一分ほどが経った、ちょうどその時だった。

 それまで自転車のハンドルを握ったまま固まっていた爺さんが、ふと手を止め、こちらを振り返った。
 
 そして、実にとぼけた顔で、ボソッと呟いた。

「……ワシのことだ」

 あまりのタイムラグとその間の抜けた一言に、向井とファーは一瞬の沈黙の後、同時に吹き出した。

「ぷっ……あははは!」

 ファーが堪えきれずに、お腹を抱えて笑い転げる。

 向井も喉に麺を詰まらせそうになりながら、声を上げて笑った。

 すると婆さんが、濡れた雑巾で手を拭きながら、呆れたように爺さんの背中を叩いた。

「だったら早く行きなよ、プラシット爺さん! 事務所の人が待ってるよ!」

 爺さんは「おっと、そうだった」とでも言うように頭を掻きながら、今度は本当に自転車に跨った。

 そして「ぎーこ、ぎーこ」と鈍い音を立ててペダルをゆっくりと漕ぎながら、お寺の事務所の方へと消えていった。

 婆さんも、それを見送りながら、つられて楽しそうに「ふふふ」と笑っている。

 向井の胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされていくのを感じた。


5. ワープロの約束

 麺をほとんど平らげたころ、向井は先ほどのA4の紙を指差した。

「お婆さん、この日本語の紙さ……」

「ん? ああ、これかい。ずいぶん前に日本人のお客さんが書いてくれたんだよ」

 婆さんが大鍋のスープの味を調えながら、当時を懐かしむように振り返る。

「これ、ちょっと文字が汚くて読みにくいからさ。僕、バンコクに戻ったら、会社のワープロできれいな日本語に打ち直して、新しいのを送ってあげるよ。ラミネートして、雨に濡れても破れないようにしてさ」

 ワープロで作った均整な印字なら、この島の素朴な屋台でも、もっと多くの日本人の目を引くに違いないという、向井なりの親切心だった。

「まあ、本当かい? それはありがたいねぇ」

 婆さんは顔中の皺をさらに深くして喜んだ。

「じゃあ、お店の名前と、送り先の住所を教えて。メモするから」

 向井がポケットから手帳とボールペンを取り出すと、婆さんは、何を大袈裟なという風に、のんびりと手を振って笑った。

「店の名前も住所なんていらないよ。このお寺、ワット・プラヤイの『肉ラーメンのばあさん宛』って書いて送れば、郵便屋さんがちゃんと届けてくれるさ。島のもんはみんな知り合いだからね」

「……このお寺宛、だけで?」

「そうだよ。問題ないさ」

 婆さんはそう言って、ガハハと大らかに笑った。

 向井は呆気にとられ、可笑しさが込み上げてきて手帳を閉じた。

 そうだ、ここはそういう島なのだ。

 何丁目何番地なんていう、人間の住処を細かく分類する記号など、この黄金の大仏の足元では何の意味も持たない。

 お寺に手紙を出せば、ちゃんと届く。

 そのシンプルで絶対的な信頼関係が、ひどく羨ましかった。

「あんた、いい男だね。コボリみたいだ。よし、おまけしてあげるよ」
 
 婆さんはそう言うと、手招きをして、二人が食べていた器を持ってこいと促した。

 向井とファーが器を差し出すと、婆さんは特大のレンゲで、何時間も煮込まれて、とろけるような豚の煮込み肉を大鍋の底から掬い上げ、これでもかと、二人の器にてんこ盛りに入れてくれた。

「たくさん食べな。若いんだから」

「コープクン・クラップ」

「コープクン・カァ」

 二人が同時にお礼を言った。

 新しく肉が追加されたスープからは、再び温かい湯気が立ち上り、二人の顔を優しく包み込んだ。


6. 映画のワンシーンのように

 向井は、新しく追加された肉を口に運びながら、目の前の光景をじっと見つめていた。

 真っ青な空。

 どこまでも穏やかなエメラルドグリーンの海。

 背後で静かに島を見守る、黄金の大仏の横顔。

 そして、自分の目の前で、口の周りを少しスープで茶色くしながら、嬉しそうに肉を頬張っているファーの横顔。

 向井には、自分の人生のこの時間が、まるで一本の青春映画のワンシーンのように流れていくように思えた。

 南国の光と、老夫婦の笑顔と、自分たちがその一コマの中に完璧に収まっているような、静かな充足感があった。

「ムカイ、どうしたの? 早く食べないと冷めちゃうよ」

 ファーが不思議そうに、大きな瞳を丸くして向井を見た。

「いや、なんでもない。これ、美味いなと思ってさ」

 向井は微笑み、再び箸を動かした。

 彼女との、束の間の休日。
 
 お寺の“肉ラーメン”屋台を包む、優しく素朴な味わい。

 それを二人で分け合った記憶は、向井の胸の内に忘れることのない、鮮烈な足跡を残そうとしていた。

 お代を払い、再びスクーターのエンジンをかける。

 シートに跨りハンドルを握った向井の腰に、ファーが再びその細い腕を回してきた。

「……行きましょ、いい男、コボリ……」

 走り出した瞬間、彼女の手が、先ほどよりも少しだけ強く、向井の体に引き寄せられたような気がした……。

EP9. 銀幕の中華街とカオマンガイ

EP9. 銀幕の中華街とカオマンガイ

1. 限界突破のカオマンガイ

 一九九三年十月、雲の低い、どんよりとした湿気がまとわりつく日曜日だった。

 向井は、ヤワラー(中華街)の西端に位置するチャルンクルン通りの交差点に立っていた。

 信号の先には、一九三三年に国王ラーマ七世の命によって建てられた、タイ初の冷房付き近代劇場『サーラーチャルームクルン劇場』がひっそりと立っている。

 直線的なラインと機能性を重視したアール・デコ様式の重厚なコンクリート外壁は、南国の烈日と激しいスコールに晒され、何度も色を塗り替えられた末のくすんだ薄茶色に変色していた。

 かつてハリウッド映画やタイ映画の黄金期を上映した高貴な栄華の残像を、街の史跡として今に留めている。

 だが、今では往年の名画がスクリーンに掛かることはなく、旅行者向けにタイの伝統叙事詩「ラーマキエン」の仮面舞踊劇などを見せる劇場になっていた。

 しかし、赴任以来、ビジネスの数字ばかりを追ってきた向井には、目の前の建物がどれほど歴史ある建造物であるかなど、全く関心がなかった。

 ただの古びた灰色の塊にしか見えていなかった。

 オフィス街のシーロムやサートンとは違い、ここには休日の静けさなど微塵もなかった。

 チャルンクルン通りは、中華街特有の、巨大なバードケージにいるような喧騒に満ちている。

 渋滞を縫うように行き交う路線バスや、トゥクトゥクの排気音と、路地裏から漂うスパイスの香りが混ざり合い、旧市街としての濃密な面影をそのまま残していた。

 軒を連ねる古い低層の木造店舗には、例外なく金や朱色で書かれた潮州語(中国の方言)の屋号が掲げられている。

 だが、劇場の向かい側から細い路地へと一歩足を踏み入れると、路地の空気は少し張り詰める。

 商店のガラスケースの向こうに並んでいるのは、衣類でも食品でもない。

 金属の鈍い光を放つリボルバー、銃身の長い散弾銃、そして黒光りする自動拳銃。

 ここはタイ随一の銃専門店街、サームヨート地区だった。

 日曜日で数件の店のシャッターは下りていたが、開け放たれた間口からは、乾いたオイルの匂いと、微かに鼻を突く薬莢の硝煙、そして独特の金属臭が漂ってくる。

 奥のほうから、誰かが試射でもしてるのだろう、パンパンと乾いた音が漏れてくる。

 護身と利権が地続きにあるタイの生々しい実態が、ごく当たり前の日常の風景としてそこにあった。

 向井は無意識のうちにシャツのボタンを一つ外した。

 ポケットには、ナコンシータマラートのタン社長から預かった、一枚の直筆の紹介状が入っている。

「バンコクへ戻ったら、チャルームクルンの向かいにいるチア兄を訪ねろ。昔バンコクに住んでた頃の幼馴染みだ、可愛がってくれと書いておく」

 タン社長のぶっきらぼうな声を思い出しながら、向井は銃器店の並びにある、壁の塗装が剥げかけた古ぼけた雑居ビルの階段を上っていった。

 薄暗いコンクリートの通路を進むにつれ、表通りの喧騒が徐々に遠のいていく。


2. 百年の脂、本物の洗礼

 一歩一歩階段を上りながら、向井は自分がここへ来た理由を頭の中で整理していた。

 バンコクに赴任して以来、小綺麗なオフィス街とスクンビットの往復ばかりで、実はこの中華街のエリアには一度も足を踏み入れたことがなかった。

 このタン社長からの紹介状は、向井にとって中華街というところへ一歩踏み入れるきっかけとなった。

 それはもっとタイの深部を知りたいという単純な好奇心と、ひょっとしたらタン社長の古い人脈から、新しいビジネスのネタや食い込める市場への足がかりが見つかるかもしれないという、商社マンとしての小さな下心があったからだった。

 三階の重い鉄の扉を開けると、そこは輪転機のインクの匂いと、漢方の羅漢果(らかんか)を煎じたような甘苦い香りが混ざり合った空間だった。

 地元の有力中国語新聞社「泰東日報」のオフィス兼自宅。

 最新のコンピューターなどはどこにもなく、使い込まれた木製のデスクにはゲラ刷りの山と、インクで汚れた真鍮の文鎮が転がっている。

「おお、来たか。タンの“友人”のコボリだな……?」

 部屋の奥からしわがれた声が響いた。

 仕立ての良い麻のリネンシャツの袖をまくり、細い老眼鏡の奥から鋭い眼光を向けてきたのが、オーナーであり編集長の老齢のチア爺だった。

 その周囲には、同年代の、いかにも一筋縄ではいかない風貌をした老華僑たちが数人、茶会でも開くかのように集まって、大きなチーク材のテーブルを囲んで中国茶の杯を握っていた。

 地元の名士たちだろう、彼らが一斉に向井をじっと見つめる。

「まぁ、座れ。タンの爺さんを口説き落としたという、生意気な日本人がどんな面をしてるかと思えば、随分と青白いガキじゃないか。腹が減っては戦はできん。まずはこっちに来て一緒に食え」

 チア爺が顎で指したテーブルの中央には、向井がこれまで見たこともないような巨大な皿に盛られた、純白の肉塊が目に飛び込んできた。

 そこから立ち上る、圧倒的な鶏の脂の香りに、向井の胃袋が不意に鳴った。

 この劇場裏の路地で、実に操業百年を誇るという老舗から、チア爺が特別に仕込ませた“カオマンガイ”だった。

 大皿に山盛りにされた、驚くほど肉厚な鶏肉が乱雑に、そして美しく並んでいる。

 向井は、緊張の糸が切れぬまま席につかされたが、目の前のご馳走に頬が緩む。

「はい、ではご馳走になります!」

 向井は促されるままにスプーンとフォークを握り、鶏肉と脂米を口に運んだ。

 その瞬間、脳天を突くような衝撃が走る。

(何だ、これは……!)

 これまでスクンビットの洗練されたレストランや、オフィスの裏の屋台で食べていたカオマンガイとは、完全に次元が違っていた。

 丸ごと蒸し上げられた鶏のゼラチン質と濃厚な脂が、スープで炊かれた米の一粒一粒を包み込み、乳白色に輝いている。

 パサつきなど微塵もない肉厚の鶏肉を噛み締めると、弾力のある皮目からジューシーな肉汁が口内で溢れ出した。

 さらに驚くべきはこの店の秘伝のタレ(ナムチム)だった。

 濃厚なタオチィアオ(大豆味噌)のコクの中に、細かく刻まれた生の生姜の辛みと、鮮烈なプリック(唐辛子)の刺激が容赦なく襲いかかる。

 その味覚を圧倒するような辛みが、逆に鶏の脂の奥深い甘みを限界まで引き出していく。

 向井は言葉を失い、ただ無我夢中で両手と口を動かし、本物のカオマンガイの持つ絶対的な旨味に、ただ夢中になって食らいついた。


3. 銀幕に隠れた「もう一つのタイ」

「ははは! いい食いっぷりだ、コボリ! 日本人のなのに、この脂と辛さから逃げないのは気に入った」

 向井が美味そうにかき込むのを見て、老人たちの表情が緩み、豪快な笑い声へと変わった。

 チア爺が濃い目に淹れた、熱い鉄観音茶を向井の杯に注ぐ。

 ここから、向井への"尋問”が始まった。

 タン社長と知り合った正確な経緯、バンコクでの具体的な仕事内容、日本の家族構成から大学での専攻に至るまで、老人たちは茶をすすりながら根掘り葉掘り聞いてくる。

 向井が一つ一つ丁寧に答えるたび、彼らは満足そうに、時に潮州語で何かを言い合うと、顔を見合わせて頷いたりしていた。

 茶の渋みで口の中の脂を流し込みながら、今度は向井が彼らの話に耳を傾けた。

 話題は自然と、彼らの目の前にある「サーラーチャルームクルン劇場」の歴史へと移っていく。

「ムカイと言ったか。お前ら若い日本人は、あの劇場をただの古い建物だと思っているだろう」

 リネンシャツのボタンを外した一人の老人、プラサーン爺が、窓の外の茶色い街並みを指差した。

 向井にはその建物が、歴史ある建造物であることさえ全く関心がなかったのだと、己の無知を心の内で省みる。

「子供の頃、あの劇場は俺たちの世界そのものだった。三〇年代、ラーマ七世が建てた頃の華やかさは格別だったよ。だがな、四〇年代になってお前たちの先祖が進駐してきた時、あの劇場は一変した。楽しみだったハリウッド映画は全て禁止され、上映されるのは日本軍の宣伝映画ばかり。俺たちはここで、銃を構えた日本兵の映像を見せられて育ったんだよ」

 向井は背筋が伸びるのを感じた。

「その後、五〇年代から六〇年代の独裁軍政の時代、街に戒厳令が敷かれて夜間外出禁止令が出た時もな、あの劇場の裏口だけは開いていたんだ。当時は映画のフィルム自体が貴重な密輸品で、最大の娯楽利権だったからな。軍政の検閲や厳しい目を盗んで裏口からフィルムを融通し合い、その暗闇に紛れて、軍の最高幹部と俺たち華僑のボスが数十万バーツの現金を直接手渡して裏の利権を動かしていたのさ。お前たちが知っているタイは、ここ二十年やそこらの、外国資本のために綺麗に“舗装”された『見世物のタイ』に過ぎんよ」

 老人たちの中には、一九六〇年代に日系企業の進出初期、タイ人第一期の「優秀な技術研修生」として日本に渡った経験を持つ者もいた。

 ソムキッド爺は当時の東京の様子を振り返り、「あのアパートの狭さと寒さは狂っていたが、日本人の規律と美意識は本物だった」と、熱を込めてほめちぎった。

 しかし、向井はその話の裏にある事実に気づき、静かな衝撃を覚えた。

 彼らは日本を純粋にリスペクトし、かつての体験を懐かしんではいるが、現在、彼らの誰一人として日系商社や日本企業と直接の取引をしていなかった。

 彼らのビジネスは、徹底して身内の華僑社会の血縁と、その強固なネットワークの中だけで完結し、巨万の富を築いているのだ。

“敬意は払うが、身内の利権には一歩も入れない”

 その目に見えない、しかし絶対的な壁の存在を、向井は突きつけられていた。

 先ほどまで脳天を突き、自分を陶酔させていたカオマンガイの絶対的な美味さに反して、口の中に残る脂の余韻が、急にひどく苦い味に感じられた。


4. 賭けゴルフと華僑のベンツ

「日本の本社から俺のとこへやってくるお偉方は、いつも綺麗なスーツを着て、免税店の袋を持って、ゴルフに誘い、仕事の話をすぐにはしない……」

 チア爺が茶杯を弄びながら、面白そうに目を細めた。

 彼はこの新聞社の経営だけでなく、バンコク郊外で食料品と衣料品の製造工場もいくつか動かす現役の実業家でもあった。

 現場の泥臭い金の動きを誰よりも知っている。

「だがな、一九七〇年代のクーデターの朝、俺たちが真っ先にしたのは、オフィスの片付けじゃない。軍の通信将校の自宅の裏口に、ベンツ三台分の現金を現物で運び込むことだ。法律が一日でひっくり返る国で、書類の正しさに何の意味がある?」

 向井は反論しようとしたが、言葉が出なかった。

 チア爺の言葉には、激動の歴史を生き抜いてきた者だけが持つ、生の重みがあった。

「お前、数年前に高級ゴルフ場で有名になった、ある華僑の男の話を知っているか?」

 テーブルの隣に座る老人、チャチャワン爺が身を乗り出して言った。

「そいつは、一打数百万円という無茶な賭けゴルフをやってな、大負けしたんだ。その場で愛車のベンツのトランクを開けて、詰まっていた現金の束をベンツごと全部相手に渡して、自分はゴルフ場から、みすぼらしい流しのタクシーを拾ってバンコクへ帰っていったんだよ」

 向井は思わず眉をひそめた。

「なんか馬鹿げた話ですね、そんな人が本当にいるなんて……」

「そう思うだろう?」

 チャチャワン爺が向井の言葉を遮るように、チア爺の膝を叩いた。

「だがな、周りの人間は誰もそいつを馬鹿だなんて笑わなかった。むしろ、その翌日から、そいつの元には何億バーツもの新しいビジネスの話が集まったんだ。なぜか分かるか?」

 向井は答えに詰まった。

「人間というのはな、本当に困った時、将来の不確実な約束なんか信用しない。目の前にある確実な『現物』と、『どれだけ大損をしても、約束通りに自分のケツを拭く男か』という一点しか見ないんだ。大損ぶっこいてタクシーで帰るそいつの引き際を見て、誰もが『こいつは、負け戦になっても仲間を置いて逃げない男だ』と確信したのさ」

 チャチャワン爺は満足そうに茶を一口すすった。

「このアジアの泥臭い市場で最後に金を動かし、本当の利権を分けるのはな、書類の見栄えじゃない。『こいつとなら、一緒に転がり落ちても裏切られない』と、相手の腹に直接納得させる、身内の信頼なんだよ」


5. 銃弾の誘いと、三十年後の追憶

 話が最高潮に達し、老人たちの笑い声が部屋に響く中、リネンシャツの胸元からパイプを取り出し、煙草をその先に差して火を点けたタヴィサク爺が、窓の外の銃器街を見下ろしながら向井に言った。

「おい、日本の若造。そんなにタイのビジネスの裏を知りたいなら、下に降りて一発撃ってみるか? なんなら、お前に手頃なリボルバーを一丁、俺の名義で買って、お前の手元に持たせてやってもいいぞ。どうだ?一丁持っとくか?」

 本気とも冗談ともつかない、悪戯っぽく楽しげな笑みが恍惚な爺の顔に浮かぶ。

 周辺の店舗に並ぶ本物の銃器の記憶が、向井の脳裏に生々しく蘇った。

 もちろん、タヴィサク爺の言葉は否定的な意味ではない。

 もしここで「欲しい」と言えば、彼は本当に自分の名義を使って、身内に対する好意として銃を融通してくれるのだろう。

 向井は一瞬、その誘いの重さに戸惑った。

「ああ……いえ、私は商社マンですので、ペンと電卓があれば十分です」

 向井が引きつった笑顔でそう答えると、老人たちは一斉に「ははは! やっぱり日本の真面目な坊やだ!」と腹を抱えて爆笑した。

 向井は適当にあしらわれ、彼らの格好の酒の肴にされたのだった。

 その瞬間、向井は奇妙な緊張感とともに、「ここは本当に、自分の知っているタイなのか」という、認識の境界線が揺らいでいくような感覚を覚えた。

——三十余年経った今だからこそ、わかる。

 あの時、タヴィサクの突拍子もない誘いに「一丁くらい持っていても良かったかな」と、ふと思うことがある。

 もちろん、タイの法律上、外国人である自分が銃を所持することは完全に違法であり、断ったのは当然の判断だった。

 もし実際にあそこで銃を受け取り、自分のものにしていたら、その後の長いタイ生活の中で一体どんな災難やトラブルを引き起こしていたか分かったものではない。

 それでも、あの剥き出しの華僑社会の洗礼に直面した記憶は、今でも鮮烈に胸に残っている。


6. 潮州語の喧騒へ

 夕暮れ時、オフィスを去ろうとする向井の手に、チア編集長が新聞紙に包まれた古い中国茶の塊を無造作に握らせた。

「またいつでも飯を食べに来い。この辺りは美味いもんの宝庫だからな」

 チア爺は不敵に笑い、向井の肩をドンと叩いた。

「ただし、次は手ぶらで来るなよ」

 ビルの階段を静かに下りながら、向井はその言葉の意味を深く反芻していた。

 チアの言う「手ぶらで来るな」とは、日本のお菓子や高級な土産物を持ってこいという意味では決してない。

 次に来る時は、ただ話を聞くだけの客としてではなく、お前自身の持ち寄る情報や、商社マンとしての新しい仕掛けを持ってこいという、対等な関係を求める華僑社会独特の挨拶なのだ。

 劇場の外へ一歩踏み出すと、旧市街はすでに濃い夕闇に包まれていた。

 そこにあったのは、冷房の効いたシーロム通りの近代オフィス街や、自分が毎日こなしている日常のルーティンとは、全く異なる世界だった。

 四方から飛び交う、激しい潮州語の怒号のような喧騒。

 屋台のコンロから立ち上る、炒め物の黒い油煙と、焦げたニンニクの匂い。

 そして、先ほどまで開いていた銃器店が一斉にシャッターを下ろしていく、重苦しい金属音が街に響き渡る。

 向井は立ち止まり、これまで見てきた、経験してきたバンコクでの生活や日常の仕事とは、まったく別次元の“もう一つのタイの顔”を垣間見たような気がした。

 随分と後になって聞いた話だが、そのゴルフの賭けで負けて、大金と乗ってきたベンツごと失った人物というのが、まさにその“チア爺”だったと知った。

 向井は喧騒渦巻く中華街の雑踏の中へと、鳴かない小鳥のように静かに吸い込まれていった……。

EP10. 鉄路の果てのジャングル料理

EP10. 鉄路の果てのジャングル料理

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1. 鉄路の果て

 一九九三年十一月。

 乾期に入ったばかりのタイ西部カンチャナブリは、雨季の名残を閉じ込めた熱帯の緑が放つ、むせるような湿気に満ちていた。

 時折、山の間から吹き抜ける乾いた風だけが、季節の変わり目を告げていた。

 総合商社・日洋物産のバンコク支店に赴任して一年半。

 二十五歳の向井は、本社の食糧部役員が来タイする際の下見を兼ねて、この地に出張して来ていた。

 新規の「さとうきび」大量買い付けプロジェクトの現地視察。

 午前中に広大な農地をめぐり、泥にまみれた大型トラクターの稼働状況を確認した向井は、社用車を走らせて泰緬鉄道の終着駅、ナムトック駅へとたどり着いていた。

 正午を少し回ったところだった。

 今夜、カンチャナブリ市内に新しくオープンした「フェリックス・ホテル」で、地元の農業組合のボスたちとの夕食会が控えている。

 それが今回、向井にとって最後のミッションだった。

「時間はたっぷりあるな」
 
 向井は時計を確認し、密かな計画に口元を緩めた。
 
 退屈な車の後部座席に揺られて引き返すのではなく、あの“死の鉄路”と呼ばれた泰緬鉄道に乗って市内へ戻る。

 それが、視察後にそのまま市内に戻らずに、この辺鄙な終着駅に立ち寄った理由だった。

「サロートさん、ここで昼食にしましょう。それからクウェー川鉄橋駅までの切符を一枚買ってきてください。私は鉄道で戻ります」

 向井が古びた駅舎を指差すと、運転手のサロートは「はぁ?」と浅黒い顔を露骨に曇らせた。

 車なら舗装された幹線道路でわずか四十分の距離だ。

 それを、エアコンもないタイ国鉄の三等列車に揺られて二時間かけて戻るという。

 効率を最優先するはずの商社マンの奇行がサロートには理解できなかったが、ただ小さく返事をして駅舎の切符売り場へと向かった。

 所要時間が二時間と言えど、実際、タイ国鉄のことだ、遅延は日常茶飯事で三時間はみたほうがよい。
 
 車窓にはサトウキビ畑が延々と続くだけで、これといった見どころもないことも承知している。

 それでも向井がこの列車への乗車にこだわったのは、駐在員仲間から聞いていた「アルヒル桟道橋」を、自らの目で確かめてみたいという強い好奇心があったからだ。

 切り立った絶壁の岩肌すれすれを、木組みの桟道の上に敷かれたレールを歩くように走るという、スリル満点のハイライトを彼は純粋に楽しみにしていた。

 泰緬鉄道は第二次世界大戦中、日本軍がビルマ(現在のミャンマー)への物資補給ルートを確保するために建設した、全長四百キロを超える鉄道。

 機械をほとんど使わず、連合軍の捕虜や東南アジア各地から集められた数十万人の労務者による強制労働。

「枕木一本に死者一人」と揶揄されるほどの、血塗られた鉄路。

 向井は古いハリウッド映画『戦場にかける橋』の舞台になったということくらいは頭に入っていたが、そこで描かれる日本軍の残虐さも、どこか現実味のない一方的な自虐感として冷ややかに受け止めているに過ぎなかった。

 悲劇の歴史に深く思いを馳せるわけでも、真摯な探求心があるわけでもない。

 彼にとってそれは、週末のゴルフやバンコクの夜遊びの延長線上にある、スリルと異国情緒を味わうための、単なる物見遊山だった。

 ナムトック駅の低いプラットホームには、午後一時ちょうどに出発する予定の、上り列車がその煤けた巨体を横たえていた。

 先頭に連結されているのは、フランスのアルストム製ディーゼル機関車。

 客車はすべて、塗装が褪せてくすんだ色の日本製の三等車両だ。

 座席は硬い木製で、背もたれはほぼ直角。

 天井で数機の扇風機が頼りなく回っているだけで、乗客は窓を限界まで全開にして熱気を逃がす。

 平日のホームに人影はまばらだった。

 駅前の赤土の道路脇に、トタン屋根の古びた屋台が数軒、真昼の陽炎に揺れていた。

 向井はハンカチで額の汗を拭いながら、ひときわ年季の入った一軒の店の前で足を止めた。 

 薄暗い店先にぼんやりと座っているのは、一人の白髪の老人だった。

 客を呼び込もうという商売っ気は微塵もない。

 ただ、静かに煙草を吹かしながら遠い山の緑を見つめている。

「向井さん、ここは『ジャングル料理屋(アーハーン・パー)』ですね」

 後ろからついてきたサロートが、消えかけた店の看板を読んだ。

「ジャングル料理……?」

 聞き慣れない言葉に向井は眉をひそめた。

 しかし、この赤土の駅前には、飯屋といえるのはその店しかなかった。

「ま、いいか。たまにはローカル料理もいいかもしれないな」

 都会の屋台メシに少し飽きていた向井は、軽い気持ちでその薄暗い店へと足を踏入れた。

 店先に居た白髪の老人は、入ってきた向井たちに一度だけ目をやったが、すぐにまた何事もなかったかのように視線を戻してしまった。

 店内の片隅に置かれた[SANYO]のラジカセからは、人生の哀愁を歌う、タイの演歌(ルーク・トゥン)が流れていた。

 民族楽器の伴奏に、日本の昭和初期のような演歌の、乾いた歌声が店内の淀んだ熱気に溶け込んでいた。

 まもなく厨房から、小柄な老女が手書きの木札のようなメニューを持って現れた。

 薄くなった髪を鮮やかな紫色に染めている。

「ハロー!オールメニュー、スパイシー・ナ!(料理は全部辛いよ!)」

 彼女は不敵に笑う。

「オーケー!マイペンライ・クラップ(大丈夫です)」

 向井は知った風なタイ語で軽く受け流し、手書きのメニューを受け取った。

 しかし、そこに並ぶタイ文字の羅列はただの記号に過ぎなかった。

 外国人向けのレストランにあるような英語表記も写真も、ここにはない。

 向井は少し怯んだ。

「サロートさん、注文はすべて任せます。美味しそうなのを適当に頼んでください、ああ、それとあまり辛くないものを…ね!」

 サロートがタイ語で身振りを加えて注文を済ますと、彼女は満足そうに厨房の奥へと消えていった。

 竹の柱にかけられた[SHARP]の古い扇風機が「グゥーン、グゥーン」と低いモーター音を響かせながら首を振っている。

 ほどなくして、厨房の奥から大きな声が飛んできた。

「あんた、ぼーっとしてないで、早くお客さんにお水を出してあげなさい!」

 その声に弾かれたように、煙草を吹かしていた白髪の老人が、のそりと重い腰を上げた。

(なるほど、どこも同じか。店の実権はあの気の強そうな婆さんが握っていて、この爺さんはただの居候みたいなものだな)

 向井は、タイの田舎にありがちな、妻の尻に敷かれて呑気に生きている老人の姿を勝手に想像し、一人クスリと笑った。

 しかし、その時の向井には知る由もなかった。

 目の前で力なく佇むその老人が、かつてこの地で繰り広げられた、あの悲惨な戦争の歴史をその身に刻んだ「生き証人」その人であることを。


2. 猪肉のゲーン・パーとウシガエル

「向井さん、ここは普通のタイ料理とは違いますよ。山で獲れた野生の肉を使うんです。大丈夫ですか?」
 
 サロートは、白髪の老人が出してきた水を避けるように、自ら冷蔵庫からペプシのガラス瓶を二本取り出し、長いストローを差して向井の前に差し出した。

 ココナッツミルクの効いた甘酸っぱいトムヤム・スープしか知らない向井にとって“ジャングル料理”という響きは単なる好奇心の対象だった。

 それがどういう代物かは、想像すらできずに……。

 やがて、白髪の老人が左の片脚を引き摺るような不自然な足取りで、食器と料理をガタガタと竹のテーブルに並べた。

 料理が入った小鍋から立ち上る異様な香りに、向井は思わず顔をしかめた。

「これは、いったい……?」

 日本の綺麗なスライス肉の「牡丹鍋」を思い描いていた、彼の浅はかな予測は一瞬で叩き潰された。

 目の前に鎮座する「ゲーン・パー(森のカレー)」は、泥のように赤茶色に濁っていた。

 スープの表面には大量の緑の唐辛子の粒と生姜の細切りが浮き、強烈なハーブと土の匂いを放っている。

 具材としてゴロゴロと転がっているのは、野生のイノシシ肉のぶつ切り。

 皮付きの肉からは、家畜ではない獣特有の硬い剛毛が、容赦なく突き出ていた。

 “や、野生すぎる…”

 向井は絶句した。

 さらに隣の小鍋を見て、目を疑った。

 雨上がりの田畑に潜むウシガエルを、真っ赤な唐辛子や強烈な匂いのハーブとともに茹で上げたスープ『トム・ウンアーン』という田舎料理だった。

 灰色に変色したカエルの肉が、ほぼ原形のままスープの表面でぬらりと光っている。

 泥臭さをねじ伏せるための凄まじい苦みのあるスパイスの香気が、容赦なく鼻腔を突いた。

(サロートめ、カエルのスープなんて一言も言わなかったぞ……!)

 心の中で運転手への恨み節が吹き出す。

 当のサロートは手慣れた手つきでカエルの身を口に運び、スプーンの上で器用に骨を外しながら、悦に入り美味そうに食べている。

 タイ東北地方出身の彼にとっては最高の故郷のご馳走なのだ。

 当然、向井はそちらには触れなかった。

 完全な拒否反応だった。

 だが、ここでゲーン・パーにすら手を付けなければ、百戦錬磨の商社マンとしての度量を見くびられる。

 向井は意を決して、赤茶色のスープをスプーンですくい、猪の肉ごと口に運んだ。

「っ……!?」

 その瞬間、口内で小さな爆発が起きた。

 噛み締めた瞬間、家畜の豚肉とは明らかに違う、生々しい獣肉の硬い繊維質が歯を激しく押し返した。

 そして、それを追うようにして襲いかかってきたのは、脳の血管が千切れるかと思うほどの、容赦のない「絶対的辛さ」だった。

 唐辛子の辛味と、タマリンドの酸味がダイレクトに口腔の粘膜を破壊する。
 
 喉が焼け付くような辛さに悶え、ペプシを半分ほど喉に流し込んだが、炭酸の刺激が傷口をさらに激しく痛めつけるだけだった。

 テーブルに両手をつき、スプーンを握りしめたままプルプルと震え、大量の汗を噴き出す。

 涙がボロボロと溢れて、耳の奥がキーンと唸る。

 胃袋に到達した猪の肉が、そこでも最後の抵抗をするように激しく痙攣を誘発する。

 向井はこの完璧なまでの敗北に、そのプライドを完全に粉砕された。

 ラジカセのルークトゥンが、向井の敗北を嘲笑うかのように、妙に明るいテンポで流れて来た。

 その無様な姿を、先ほどまで煙草を吸っていた“老店主”は、ただ静かに微笑みながら見つめていた。

 見かねたサロートが厨房へ短く何か叫ぶと、“紫夫人”が出来立てのタイ風卵焼き(カイ・ジィアオ)を運んできた。

「あんたにはこっちの方がいいかもね」と、少し哀れみの表情を浮かべて不敵に笑う。

 この日本の若造には荷が重すぎると見抜かれていたのだ。

 向井はテーブルのケチャップをたっぷりかけ、貪るように口へ放り込んだ。

 多めの油でサクサクに揚げ焼きされた卵の甘みが、胃袋を優しく包囲していく。

 タイに赴任して以来、向井は仕事帰りには路地裏の屋台を巡り、地元の激辛料理を制覇した気になっていた。

 だが、そんな浅はかな慢心は、この最果てのジャングルが放つ野生の激情と、一皿の卵焼きによって、木端微塵に打ち砕かれた。

 流石にこの本物の野生料理にだけは、完敗だった。



3. 「経済戦争」という名の無血の進駐

「……カライカ?ニッポンジン!」

 卵焼きを平らげ、ようやく息を整えた向井に向かって、それまで使い物にならないと思われていた老店主が、急にドスの利いた日本語で問いかけてきた。

 その鋭い語り口に、向井は本能的に背筋を伸ばした。

 老店主は、手元からタバコを一本抜き、向井の前に差し出した。

 ウシガエルを堪能中のサロートは、左手で遠慮 の合図を送る。

 向井は禁煙中だったが、この張り詰めた空気の中で断る気にはなれず、黙ってそれを受け取って口に咥えた。

 老店主が使い古されたライターを差し出し、カチリと火を点ける。

「ふぅー……」

 深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 胃の底の火種が、紫煙とともに引き抜かれていく気がした。

 いつの間にか、ラジカセのルークトゥンは物悲しい曲調へと変わっていた。

 二人の間に、静かな対話が始まった。

 この白髪の老店主は、ダムロンと名乗った。

 一九四〇年代、わずか二十歳の若さで、この泰緬鉄道の過酷極まる建設現場に、地元の労務者として強制的に日本軍に駆り出された生き残りだった。

 泥沼のジャングル、銃を構えた日本兵の「急げ、速くやれ!もたもたするな!」という怒号。

 蔓延するコレラ、マラリア、そして極限の飢えによって、昨日まで隣にいた仲間たちがボロ雑巾のように次々と倒れていく。

 ダムロンは、手の甲で額にある歪んだ古いあざを無意識に掻いた。

 日本兵の銃床で殴られた跡だという。

 彼は、動かなくなった仲間たちの死体を、この手で赤土に埋め続けてきた男だった。

 先ほど卵焼きを持ってきた夫人もまた、同じ現場で雑役婦として地獄を生き抜いた。

 戦争が終わったあと、二人はこの終着駅の片隅で、生き延びるために小さなトタン屋根の屋台を始めた。

 それから五十年間、ここでジャングル料理を出し続けてきたのだ。

「俺たちの一人息子はな、バンコクの大学を出て、今は日本の会社で働いている。もう、この不便な田舎には二度と戻ってこないと、正月にも顔を見せんよ」

 ダムロンは寂しげに呟き、深くため息をついた。

 ルークトゥンの哀歌が、その言葉と不気味にシンクロする。

 ダムロンは、ゆっくりと向井の対面の椅子に腰をかけると、発車を待つバンコク行きの列車へと視線を向けた。

「日本人というのはな、昔も今も変わらない。一度やると決めたら、目的のためには手段を選ばない。大本営の命令、工期厳守のためなら、現場の人間がどれだけ死のうが知ったことじゃない。あの時代の軍服を着たお前たちの先祖はまさにそうだった。……そして、今の日本の“カイシャ”というのも、ワシには全く同じに見えるがな……」

 当時の日本軍の狂気と、現代の日本企業の不条理。

 目的のために人間を使い潰す組織の仕組みは、昔も今も何一つ変わっていない。

 向井は煙草を灰皿に押し付けた。

「だがな……」

 ダムロンは微かな笑みを浮かべ、店の前に停められている一台のピックアップトラックを指差した。

 その荷台には、これ見よがしに[TOYOTA]のロゴが白く染め抜かれていた。

「日本はあの戦争には負けた。本当に無様で、酷い負け方だったな。俺たちの仲間を何万人も死に追いやって、最後は飢え死にしながら去っていった。……でもな、若造。今やこんな田舎の未舗装の道路にも、お前たちの国の車が我が物顔で走り回り、家庭に入れば、日本の電化製品や雑貨で溢れかえっている。お前たちが持ち込む『金』と『技術』の前に、今のタイ人はみんな、ありがたがって平伏しているんだ」

 ダムロン氏は別の煙草に火を点け、ゆっくりと白い煙を吐き出した。

「経済戦争では、お前たちの圧勝さ。しかも、一発の銃弾も使わずに、この国を全部、裏側からひっくり返したんだからな」

 ダムロン氏の静かな語りが、向井の胸の奥深くに重く突き刺さった。

(俺たちが今やっていることは、あの時代、軍服を着て『大東亜共栄圏』という名の幻覚を掲げ、現地人をジャングルで酷使して死に追いやった先祖たちと、一体何が違うのだろうか)

 彼らは銃と軍刀でこの国を蹂躙した。

 そして今の自分たちは、仕立ての良いスーツを着て、契約書と電卓という「新しい武器」を携え、経済協力という名の下で、この国を裏側から侵略しているに過ぎないのではないか。

 本社の役員が来れば、この凄惨な歴史の地をただの「観光ルート」として淡々と案内し、頭の中では「さとうきび」の買い付け価格をいかに安く叩くかという計算ばかりしている。

 向井は静かに立ち上がり、二人の老夫婦に向かって深く一礼した。


4. 濁流を見つめて

 ダムロンは何も言わず、カウンターの奥から、自家製の山のハーブと怪しげな木の根を漬け込んだ、琥珀色の地酒(ヤードーン)が注がれたショットグラスを差し出した。

「まぁ、これを一杯飲んでから行くがよい……」

 グラスからは、漢方薬のようなツンとした薬臭さと、鼻を刺すような酸っぱい発酵臭が立ち上っていた。

 向井はそれを受け取り、一息に煽る。

「くーっ……!」

 喉から胃袋にかけて、再びカッと熱い炎が走る。

 度数の高いアルコールが容赦なく喉を焼いてしていく。

 午後一時ちょうど。

 ナムトック駅の静かなホームに「ピーッ」と短い汽笛が響いた。

 連結器がガチャンと重い金属音を響かせると、列車は音もなくするりと動き出した。

 ヤードーンの灼熱感を胃に残したまま、向井は完全に開け放たれた窓際の席に腰を下ろした。

 だが、緩やかなカーブと列車の心地よい振動、そして例のヤードーンのきついアルコールのおかげで、向井はその地点ですやすやと眠りに落ちていた。

 やげて、列車は速度を落とし始め、何度も鋭く警笛を鳴らす音で、向井は目が覚めた。

 走る列車の右窓からは、クウェー川の深緑色のゆったりとした流れが眼下に見下ろせる。

 列車が「タムクラセー駅」を過ぎたところで、景色の緊張感は最高潮に達した。

 左側は、当時の捕虜や労務者たちが岩盤を爆破して作った、生々しい岩肌の絶壁が窓すれすれに迫る。

 列車は、木組みだけで支えられた、高さ数十メートルの桟道橋に敷かれたレールを歩くような超低速で進む。

 崩落すればひとたまりもない。

(この枕木の一本一本が、あのダムロンが埋めてきた仲間たちの死体の上に敷かれているのだ)

 ギシギシと悲鳴を上げる木組みの振動が、向井の足の裏を通じて身体に直接伝わってくる。

 向井は冷や汗をかきながら、窓枠を震える手で強く掴み続けるしかなかった。

 夕刻の光が西の空を赤く染め始める頃、列車はようやく終着のクウェー河鉄橋駅へと滑り込んだ。

 駅の駐車場には、運転席のサロートが待ちくたびれたようにシートを倒して寝ていた。

 向井がドアを叩く彼は飛び起きて、バツの悪そうな顔で後部座席のロックを解除した。

「遅くなってすまない、サロートさん。……ホテルへ行きましょう」

 向井のトーンの変化に気づいたのか、サロートは何も言わず、エンジンのキーを回した。

 今夜の夕食会の会場である「フェリックス・ホテル」は、クウェー川の流れが大きく湾曲した絶景の地に建てられていた。

 冷房の効いたあの宴会場へと向かうと、そこにはすでに、現地の利権を握るタイ人農協幹部たちが、日本の“カイシャ”がもたらす「金」を期待して、満面の笑みで待ち構えていた……。



5. パパイヤを刻む音(エピローグ)

 随分と後になって、人づてに聞いた話だが——

 あのナムトック駅のジャングル料理屋の老店主、ダムロン氏は、かつて大戦中、その真面目さゆえに日本軍の憲兵隊の雑用係を無理やりさせられていたのだという。

 戦後、日本軍が撤退すると、彼は同胞のタイ人たちから「裏切り者」と激しい罵声を浴びせられ、生まれ故郷での居場所を失った。

 そうして、この鉄道の終着駅の最果てに隠れ住むようにして、それから五十年もの間、あのジャングル料理を出し続けていたのだ。

 そして夫人に先立たれたのち、ダムロン氏は誰に看取られることもなく、ひっそりとこの世を去ったという。

 歴史の濁流に消えていった、彼もまた名もない犠牲者の一人だった。

  *

 西陽が差し込むコンドミニアムのキッチン。

 向井は我に返り、手元の包丁に目を落とした。

 手元の状況は何一つ変化はない。

 緑色の若いパパイヤの千切りには、未だに酷く苦労している。

 不器用な包丁の音だけが、静かな部屋に響いていた。

 思えば、バンコクへの到着初日、スクムヴィット通りの激しい渋滞と喧騒の中で口にした、あのソムタム屋台の容赦ない、涙が出るほどの辛さがすべての始まりだった。

 あの日から今日まで、向井はこの国の“酸い”も“甘い”も、常にその一皿一皿の料理の記憶とともに見出してきたのだ。

 そして三十余年が経った今でも、向井の胸の奥には、あのナムトック駅で喉を焼いたヤードーンの熱さが、淡い記憶とともに残り続けている。

 ふと思い立ち、向井は調理の手を止め、濡れた手をタオルで拭うと、スマートフォンの画面を開いた。

 地図アプリを起動し、記憶の糸をたどりながらカンチャナブリのナムトック駅周辺の赤土の道路を指先でなぞっていく。

 拡大していく衛生写真のなかに、一軒の小さな飯屋のマーカーを見つけた。

 トタン屋根の形は、あの日の記憶のままだ。

 レビューには英語やタイ語、数件の日本語で「本物のゲーン・パーが食べられる店」と書かれている。

 向井は、もう一度、あのジャングル料理屋に行ってみたくなった。

 あの料理の圧倒的な辛さに完全敗北した、あの場所へ。

 画面を閉じると、キッチンに再び包丁の音が戻った。

 不思議なことに、さっきまであれほど手こずっていたパパイヤを切るリズムが、今少しだけ良くなった気がした。

 包丁を動かす手元に合わせるように、彼はあの薄暗い店内で流れていたルークトゥンのメロディを、静かに口ずさみ始めていた。

「よし、来月の連休に、行ってみよう……」

(シーズン1・完)

『バンコクの屋台は微笑まない』~人生を変えた一本の唐辛子!

『バンコクの屋台は微笑まない』~人生を変えた一本の唐辛子!

一本の唐辛子が人生を変えていく! 1992年、タイ・バンコク赴任初日。エリートの自信を粉砕したのは、スクムヴィット路地裏のソムタムだった。 以来三十余年——水上タクシーの排ガス、深夜の屋台カオトム、ジャングルの食堂で突きつけられた「経済戦争」の皮肉な総括。胃袋に刻まれた料理の数だけ、男は日本人であることの意味を問い直してきた。 笑顔の裏に本音を隠すタイ人。夢を抱いて消えた日本人たち。そして静かに色褪せていく母国・日本。 定年を目前にした夜、健司は独り台所で青パパイヤを刻む。 三十年経った今も、健司にはわからない。自分がこの国を愛しているのか、それともただ——逃げられなくなっただけなのかを。胃袋だけが知っている、言葉にできなかった三十年を!

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 冒険
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-19

Copyrighted
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  1. プロローグ:青いパパイヤの記憶 
  2. EP1.ソイ39のソムタム屋台
  3. EP2. 運河沿いのグリーンハウス
  4. EP3. クラシックプレースホテルのカオパッド
  5. EP4. コカ・レストランの銀鍋デビュー
  6. EP5. 決死のマック!流血の五月事件!
  7. EP6. 爆風スランプと午前二時のカオトム
  8. EP7. サムイ島のクィッティオ・ムー・トゥン
  9. EP8. ナコンシータマラートのカノムチンと山田長政
  10. EP9. 銀幕の中華街とカオマンガイ
  11. EP10. 鉄路の果てのジャングル料理