都落ち
都落ち
あなたは、この世界を去るときに何を残したいのだろうか。
胸を締め付ける、夕刻。日が稜線に飲み込まれていく、そして金色の稲が波をたてる。その涼風が頬を撫でれば、夏が終わるような心地。うまく呑み込めない深呼吸を一つ、風と共に流されて、いつかの春を呼べ。椎の花が靡く、胸を強く締め付けるあの光景を。あの季節を変える風と季節に靡かれる山々を、私はこの世界に残したいのだ。
一つ息を飲み込めずに咳払いをする。満員電車の中で、空気を逃がす音さえ許されない、そんな場所でずっと昔から人と人を常識なんてもので締め付けている。
「この場所は、私のいる場所ではないのかもしない。」
一級河川を過ぎた電車、その先に大都会の喧騒の上澄みが空にも届かない癖にそこに数多く居座っている。本当に大切なのは法治国家であることではなく、情を基礎にした法治国家であること、それを忘れて今日も心を摩耗させる人々がこの河川の上を窮屈に渡ることになっている。河川を渡り切れば、地下に潜って暗い世界に投げられる。
気が付けば皆、画面に向かって鍵盤を弾くように指を動かす。リズムもなく、ただ思うままに時に悩んで音が亡くなるように。そうして今日もこの国は何とか今日を過ごす。
そうやって地続きで何かを延命する。そうやって今日も私は私の口を、私の手で塞ぐ。これが生活のためであるのかと信心する。けれど、胸の内には、あの景色が浮かぶのだ。椎の花が揺れる、まるで山が野原に見える程、綺麗で言葉に出来ない風の一筆に。
「その景色の先に誰が待っているの?」
どこからか声が聞こえてくる。これからも独り身であることは変われないのだろう。
「その景色に惹かれて、何が得られる?」
その声は私の声でない癖に、私の中から聞こえてくる。
「こういうのは、都落ちと言うのだよ。きっと世界に笑われる。」
そう言う私の中の声は震えていた。蝋燭の火に息を吹きかけられた時のように。
「世界はお前を許さない。」
その声の行く先はきっと私だった。
その声は振り払うまでもなく、波のまにまに、生きていくことにおいてきっと偶然も必然のように色めく。だから、あの声は、弱い私が、あの電車から見える河川に溺れていく音だ。
大丈夫、私は大丈夫、これからも。川に溺れて死んでも、明日大災害が来ても、ミサイルが降ってこようと、もう関係ない。この風はきっと行くべき場所を教えてくれる。
そう信じるしかないのだから、私はあの景色を残しにこの街を去る。そうして、あの場所で精いっぱいに風を待つ。
深呼吸をした、夕刻の満員電車の中、その音は誰かの不服を買ったに違いない。でも、この一呼吸はこの数年で一番迷って、消して、描いてを繰り返した葛藤の一呼吸だ。誰にも真似できない私の呼吸だ。この呼吸は、ここでは鮮やかに描けないのだから、私は好きなあの場所で生きることを決めた。今日、この満員電車の中で。
終わり
都落ち