第16回 安川加壽子記念会 第2部
第2部は、「安川加壽子先生の思い出」と題し、安川さんの門下生である井上二葉さんと高野耀子さんによる対談が行われた。この時の模様も、私の記憶とメモが正確ではないかもしれないが、それを断った上で散文ではあるが書き記しておこうと思う。
井上さんはまず、安川さんは教育者としての演奏とピアニストとしての演奏が全く違うこと、指の見事さ(ピアニストとして申し分のないという意味であると思われる)とテンポが速いことを話された。
高野さんは6歳ぐらいの時に安川さんの演奏をパリ在住の折に初めて聴き、安川さんのリサイタルは(高野さんが)日本にいなかった時期は抜けているが、最初(安川さんがまだフランスにいた1930年代、草間姓だった10代の頃)から最後(1980年初頭)まで聴いたと話された。
井上さんは安川さんと8つしか年が違わなかったが、その存在は大きく感じていた。しかし、実際の安川さんの身長はというと、自分よりも低かったので驚いたという。
いつだったか、レッスンの際、安川さんの足元を見たら、ヒールのあるスリッパを履いていた。これはステージで演奏する時、靴を履いた状態でペダルを踏むことを前提に、その感覚がステージでも変わらないように、普段からヒールのあるスリッパを履いていたのではないかと思われる。
安川さんはとにかく厳しい先生だという印象が強い井上さんだが、それに対し、高野さんには厳しい印象というのは全くなく、むしろとてもやさしい人だったという印象しかないという。同じ門下生、同級生でありながら、お二人の持たれた安川さんの印象がずいぶん違うところは、何とも興味深い。
フランス語でのレッスンはなかったが、フランス語だと母国語のようにリラックスして話されたようである。事実、安川さんは多感な時期の殆んどをフランスで過ごしたことも手伝って、日本語が余り得意ではなかったらしく、レッスン中も日本語で話そうとすると中々適当な言葉が出てこないため、しばしの沈黙が流れた。その間、生徒である井上さんは何を言われるのかびくびくしていたが、特に何か厳しく注意をされるという訳ではなかったから拍子抜けしたという。
音楽学校で学んでいる間は外での演奏は禁止された。その理由は、学校にいる時はコンクール等に目を向けず勉強一筋であれ、というのが安川さん(もしくは学校も含む)の教育方針だったようである。
お二人とも、終戦間もない1946〜47年の音楽学校入学で、物資の乏しい時代であったが、学校生活はとても楽しいものであったと、その青春時代を回想している。
対談では安川さんを語る上で、両氏の学生時代を自然に回想する形になったが、その中で井上さんは戦争の影響により、技術的な面では大変に遅れていてよく入学出来たものだと、苦笑しながら語った。その理由を明確に説明なさることはなかったが、ご本人がそう話すのであるから、それくらい技術面での遅れがあったのだろう。そのせいでショパンの「エチュード 1番」は 仕上がるまでに7週間かかり、その間、安川さんは根気強く指導してくれたという。その時のレッスンでバス(低音のことだと思う)の大切さを学んだ井上さんは、その後現在に至るまでその教えを大事にしている。
そういったマイナスからの勉強のスタートではあったが、入学試験の時にはバッハを褒められたという。その要因はハンガリー時代に指導を受けていた先生に、バッハを熱心に教わったせいである。子供が習うようなものではあったというが、割合に良く弾けていて、日本に帰国してからもバッハは豊増昇先生に教わっていた。
ショパンのエチュードにはもう一つ、苦い思い出がある。それは音楽学校の試験で演奏中、途中で止まってしまったという。この時、やはり同じ曲を演奏した高野さんの左手も止まったことを井上さんが話すと、「あら、そうだった? まぁ、あなた、嫌なことを覚えているわねぇ」と言って、高野さんは豪快にお笑いになった。高野さんは対談中、話を振られても、「耳が悪くなったから、マイクを通した人の声って良く聴こえないのよねぇ」と笑い飛ばし、隣に座った井上さんがマイクを使わず高野さんに直接話しかけるという、微笑ましいシーンもあった。
後に現代音楽やフォーレ弾きとして演奏活動を展開していくことになる井上さんだが、フォーレに関してはすべて暗譜しているという。暗譜はハンガリー時代に培ったものである。
フランス音楽は卒業までやらせてもらえず、その代わりリストのエチュードを練習させられたのは、やはり技術的な面での遅れを取り戻すための安川さんの指導だったと推察される。
一方、高野さんは技術的な面では遅れを取っていなかったのか、特に何か徹底的に練習をさせられたということはなかったらしく、井上さんがショパンのエチュードの話をしても、「私は弾いたことがない」とか、「弾けと言われてもそんなの弾けないもの」と、ケロッとおっしゃり会場をどっと笑わせていたが、それはいくら何でもご本人の謙遜というものであろう。しかし、言い換えればそれくらい、両者の技術的な面においての開きは大きかったと言うことなのだろう。
そんな高野さんは1948年、東京音楽学校3年の途中で中退し、パリのコンセルヴァトワールに留学。ピアノをリュセット・デカーブ、室内楽をジョセフ・ベンヴェヌッティに学び、コンセルヴァトワールをプリミエ・プリで卒業。その後3年間、デトモルト音楽院でハンス・リヒター=ハーザーに学び、1954年、イタリアのヴィオッティ国際音楽コンクールのピアノ部門で満場一致で優勝を果たす。これは、日本人として初めての国際音楽コンクール世界連盟登録コンクールにおいての優勝であるが、まだこの時点でそんな未来が待っているとは、高野さん自身知る由もない。
ある日のこと、井上さんが町を歩いていたら高野さんに姿勢の悪さを指摘され、映画、「マイ・フェア・レディ」のイライザではないが、本を頭の上に載せて歩き、姿勢を矯正したという。その後の井上さんの凛とした佇まいからは想像が出来ないエピソードである。
どういう意味か忘れたが、安川さんは「大分違うね」と、高野さんに対して、「もうちょっと綺麗にしてきなさい」というのが口癖だった。
井上さんは卒業試験の時(と言ってらしたと思う)ショパンの「スケルツォ 第2番」を演奏した。「随分よく覚えてるのねぇ」と、当時のことを余り良く覚えていない高野さんは、井上さんの記憶力に感心しきりであった。
後年、随分経ってからだが、井上さんは畏れ多くも安川さんに、「先生はテンポが速すぎます」と意見をしたことがあったという。生意気だと思ったが、言わずにはいられなかったのだろう。普段から慎ましく、人に意見をするような人ではないだけに、井上さんは余程そのテンポの速さが気になっていたのだろう。安川さんは、「そう?」と言うだけで、それ以上何も言及することはなかったというから、やはり安川さん自身は自分のテンポが人より速いとは微塵も感じていなかったのかもしれない。その反面、室内楽をやった時には、シューマンの「ピアノ五重奏曲」の録音で聴けるように、他の演奏家のテンポに合わせて演奏も出来る人であった。
ある演奏家の演奏会に一緒に出かけた際、あまり上手でない人の演奏を聴いても、決して悪く言うことはなく、「お疲れ様」とか、「とても興味深い演奏だった」と当たり障りなく言うだけで、それ以上は何も言わなかったという。
人の悪口を決して言わない人だったという話をしていた時に、このエピソードが沸いて出たのだが、このエピソードを聞いて、私は昔のハリウッド映画「グランド・ホテル」を思い出した。この映画には当時、MGM映画が誇る大スター、グレタ・ガルボが落ちぶれたバレリーナ、そしてもう一人の大スター、ジョン・クロフォードがタイピストという役で出演した。
撮影初日、ジョン・クロフォードがガルボに挨拶をすると、ガルボは「ご苦労様」と言った。別にガルボはジョン・クロフォードだからそう言ったわけではなかったし、その言葉に特に大きな意味もなかった。誰に対してもこんな調子のガルボだったが、真意の分からないジョン・クロフォードは激怒。ガルボを降板させるか自分が降板するか、どちらかにしろとMGMの上役に詰め寄ったという。妥協案として二人が同じ画面に映るシーンを一つも作らないということで、ジョン・クロフォードは渋々出演を承知したという話は有名である。上手く説明出来ないが、安川さんの「お疲れ様」という言葉を聞いて、安川さんの別の一面を見たような気がしたとでも言おうか。
最後に、安川さんは過去の自分の演奏を聴いて、こんなんではなかった筈だと首を傾げた時があったという。芸術家であればそれは無理もない話である。
演奏家としてキャリアをスタートさせた矢先、第二次世界大戦勃発により幼い頃から住み慣れたフランスから無念の帰国。数年後、良縁に恵まれ家庭の人となったが、空襲で家を焼かれ迎えた終戦。子供を授かり多忙の中、東京音楽学校の講師にと打診があり、悩みに悩んで引き受けた時はまだ24歳という若さである。ピアニストとして女性として人生が始まったばかりであった。人として学ぶべきこと、学ばなければいけないことがたくさんあると思っていただろうし、ピアニストとして様々な挑戦もしたかった筈である。音楽学校の講師になど収まっている場合ではなかった。
人を教える立場の人間になった以上、ピアニストとして自分が思い描く本来の演奏と、講師として生徒の手本になる演奏をしなければならないという狭間で、思い悩んだ時もあったのではないかと推察する。そのジレンマを、ピアニストとしてステージに立った時、ピアノに向かったその瞬間に講師という立場から解放され、ピアニスト・安川加壽子として文字通り、自らを解き放ち燃焼することが出来たのではないか。安川さんが誰もいない小さなレコーディングスタジオでの録音よりも、聴衆を目の前にして瞬時に反応が返ってくる演奏会を好んだのは、そういった理由があったからかもしれない。
安川さんは生前、演奏家は作曲家の意図するものを汲み取り、それに忠実に演奏しなければならないという信条を持ち、生徒にもそれを教えることに努めていた。私が思うに、それを体現していた安川さんの演奏は、皮肉と言って良いのか分からないが、安川加壽子というピアニストの持つ個性が、違った意味でより一層際立つ演奏になったのではないかと考える。
そこで重要になるのが、生まれ持ったその人のリズム感とテンポである。アンダンテやモデラートと指定があっても、呼吸をするようにピアノを奏でれば、多少の違いこそあれそれはその人のアンダンテやモデラートであり、安川さんの生きる鼓動なのである。安川さんの最大の個性は、やはりあのテンポの速さにあったと思う。
安川さんのピアノは、料理に例えるなら無添加である。余計な味付けはせず、素材の持つ本来の味を引き出したような演奏である。それは持って生まれたものと言えるのだろうが、ひねくれた見方をすれば、教育者になどならずに一人のピアニストという、ある意味責任のない立場で演奏することが許されていたら、安川さんは果たして今に聴かれるような演奏をしていただろうか。その一端を垣間見ることが出来たのが、端正でありながらも迸る熱情を抑える必要のなかった、リサイタルでの演奏ではなかったか。
記念会の帰り、特別展示されていた「安川加壽子記念資料室」を訪れた。出生から晩年までの写真、演奏会のプログラムや愛用品、国内外から授与された勲章等、激動の時代を生き74年の人生を全うした、一人の女性の生きた証があった。ピアニストとして、教育者として、家庭人として幸せな生涯を送った女性・安川加壽子の幸せが溢れていた。
遠く過ぎ去った過去、同時代を共に生きることのなかった私が、その完結した安川さんの幸せだった人生をあれこれ思い煩うことはない。そう思ったら、私の胸は心なしか軽くなった。
吹き抜けの建物の階下から、懇親会に集う門下生や関係者の声がした。誰かのスピーチが終わり大きな拍手が聴こえてきた。
没後30年を経ても、こうしてその存在と教えは継承されているのである。安川さんは幸せな女性だった。
【追記】
立派な門下生が幾人もいる中で、安川さんを直接知らない私のような者が、知ったようにあれこれ書くのもどうかと思ったが、全くの第三者の立場だからこそ気がつくこともあるのではないか。そう思い開き直って、だが最大の敬意を込めて安川さんのことを書いた。これが私が感じた安川さんのすべてではないことも最後に記しておきたい。
第16回 安川加壽子記念会 第2部
2026年5月5日 書き下ろし
2026年5月13日 「note」掲載