私ハ私トシテ、死セント欲ス
一章 仙川不条理
仙川に、男が流れてゐた。だうやら、入水自殺らしい。周りの人々は關係者のやう。「あんな奴、死んで當然ぢやないか!」と神經質に喚く女、「さぞお辛かつたのだらう。仕方のないことだ。」と同情する男。その他は噂話を互ひに廣めあふ。──死人に口なしとはこのこと。彼は何をしたかつたのだらう?まだ穹は蒼く、廣い。大きく、迷惑なほどに眩しく、心地よい陽光を二度と見ることなくして水に包まれた彼は、一體どんな氣持ちであつたか。鎭魂歌をさへづる鳥〻と、死を哀しむ木〻のざわめきが、妙に耳から離れない。それどころか、私まで鎭魂歌を口にする。一體彼は彼として死ねたのだらうか?
──人〻は死を正當化するが、生を正當化することはない。故に私たちは死を望む。──
仙川の川邊で、獨り坐る。石の腰掛が、尻を傳うて冷を教へる。嗚呼、この冷なんぞ、まだ暖かいものだ。もつと冷たいものなぞ、幾らでもある。例へば、私の私に對する評價!あれは酷い。あれほどまでに不條理極まりないものなど、あるだらうか。あれが酷ければ酷いほど美を蝕む。希死念慮の深まること、底知らず。絶望に似た失つたものを抱いて日〻を生き延びるしかないのだ!
男が浮き沈み。目に燒き附いたあの光景。靜まり返る川端の草。季節は總て、ここに於ては無意味のほかならなかつた。人〻の足の下に眠る始祖、鼻先に香る終末。彼の瞳は、散大してゐた。表面に雪が積もる、霞んだ深く、奧の、網目の世界。光を受け入れるために生まれたらうに、それは機能せず。瞳も、人なのだ。私のやうな、彼のやうに、總ては同一だつた。寸分違はず、私はつまり彼だつたのか!
二章 泣いた子
「M君、M君。臥せる牀には何見ゆる……云々」
懷かしの言葉。續きは覺えてゐないが、だうやらその「M君」がまづかつたらしい。苦しさに脂汗をぢつとり浮かべ、厚い毛布から出ぬやう。減る腹何處、空滿たす。
彼は時折、意味もなく窓を眺める癖があつた。ひよと鳴く鳥を見るでもなく、むつくりとした鳥を見るでもなかつた。しかし、私は其處に何かあるやうな氣がしてならなかつた。いや、氣ではない、何かあつたのだ。その先の、いつかの、明くる日の、限りなく無に近い何か。癇癪を起こしては、深い嫌惡に陷り泣いた月夜。それから程なくして、臥せたきり溶け出してしまつた。
そして、「M君」には一人、熱心なお友達がゐた。硬い皮膚の下に、滑るやうな白の情報が詰まつてゐるお友達。彼は彼奴を酷く好いてゐた。肌身離さず持つては、見つめ合ふ。
酷い喀血にも怯さない、ただ靜かに空想に耽る「M君」の横顏と云ふのは、カンバスに閉ぢ込められたやうだつた。
また、「M君」はセザンヌを好んでゐた。あのぬろりとした繪が、堪らなかつた。果實のみ、妙に彩度の高い、目を貫いた繪。彼がもう、見ることのできなくなつた世界を、唯一つ見られた世界。ぼやけてゐるが、キツカリとした木々、瓶、人肌。彼の感じられないものを、總て感じさせたのだ。熱い體温を持ちながらも、常に足を運び續けたオペラとやらにも行かなくなつた。あんなに音の階調を樂しんでゐた「M君」も、到頭堪らなくなつてしまつて、飛び出しては一月程籠つてしまつた。お友達は、牀に散らばつた儘。
「俺は。俺は、あんなにも、かうなんだ。俺の、僕の手は、鍛冶をしてゐる。又、其れが頭に響いてゐる!」
私ハ私トシテ、死セント欲ス