自分の神
書くことなどやめてしまえといつも自分に言い聞かせているのだが、その一方で書くことにいつまでもこだわっている自分もいる。どうにかして、書くことを続けよう、書くことにしがみつこうとしている自分がいる。情けない。終わらせたいのに終わらせられない。単なる未練なのか、すでに枯れかけているのにそれでも何とか散るのをためらっているだけなのか。承認欲求はすでに瀕死の病人である。さっさと息の根を止めてしまえば、楽になれるよ。私は何を書きたかったのかな。今まで書いてきたものは、うわべの陶酔を基底にしているものであり、いい加減この陶酔を動力源にして文章を捻りだすことにも限界がきていると感じていた。このまま文章を作ることを中断して、すがすがしい生を手に入れることができる気がした。やはり人と会わないと、感情は枯渇していくものらしい。精神から瑞々しさが失われ、怠惰に生きていく自分に何の恥じらいもなくなった。哲学的思索によって死をのぞこうとする行為にはいつも失敗してきた。出発点にも立てない有様で、考えるほどに死は単なる観念でしかないように思われる。むしろ文学的陶酔の方に実体性のある死が現れる気がしていた。小説的思考の中にこそ、死と交錯できる領域が存在するのかもしれない。
科学の発展によって、人々は物質的思考を担わされ、それに反逆する形で文学も豊饒化していったが、二十世紀あたりから文学も物質的思考に飲み込まれ、迷妄していったようにも見えた。信仰も祈りも希薄になっていくにつれて、文学的陶酔を維持することは困難になっていくようであった。生が強まった陶酔の中に死が現れるというのは、自分の思いこみに過ぎないのだろうか。回り続ける思考に哲也はうんざりしている。要するに俺は性のことを言っているのだろうか。欲望の充足が叶ったとき、分断された二つの世界が苦悩の果てに統合を果たすとき、そのときこそ死が最も近くにやってくるのだろうか。
快適な社会が実現して、家畜化の流れは進行していく。インターネットが張り巡らされ、SNSの浸透により人と人の間にあったものが寸断され、また新たな関係が構築されているらしい。せめて自分がこれまで書いてきた文章、自分が成してきた思考の蓄積は軽薄であったことは認めないといけない。このままではどこにも行けない。陶酔が欠如して、空虚な安楽を得るとき。閉塞した静寂が漂い、安心感は決して得られない。嘘はやめよう。自分に誠実になろう。本当は文章など書きたくないのだ。ではこれまで何のために書いてきたのだろう。自己の認識を変えていくため、他人から認められたいため。その二つだけなのではないか。しかし、本当にこう考えるのが正しいのだろうか。自分は卑しい欲望を動機として文章を書いてきたと考えるのが正しいのか。
本当に自分は卑しいのだろうか。こうやって下品さを装うことで、自分が持つ神聖さから逃避しようとしてきたのではないか。自分の中に築き上げてきた信仰がきっとあるのだろう。誰もが自分なりに、自分が所属している世界から超越したものを信じようとする態度を心の中に隠し持っているのではないか。自分なりの超越した世界観、歴史観を各々が持っているが、そういうものはあまり誰も触れたがらない。皆進んで自分が汚い人間であろうとする。己の醜さに逃げ込み、自分が矮小な存在であることにしておいた方が万事平穏なのだから。自己の中に潜む神聖なものに気づいたりすると、厄介なことになってしまう。きっと自分にも信仰はあるのだろう。なにかしら、超越したものを自分なりに信じており、その信仰に準じて自分なりに文章を書いたり、ものを考えたりしてきたはずなのだ。だが、その事実を認めることが恥ずかしくてつらいので、自分が愚かな存在であろうと自分に言い聞かせ、本当に愚かな行為をたくさんしてきた。自分の信仰とはなんだろう。そういえば、人は自分の真の神をよく隠すと言った作家がいたな。自分の神から逃げてはいけない。
自分の神