【TL】灰色の不文律

教師ヒロイン/寡黙無表情男子/嫉妬不良男子/サイコパス童顔男子/キョロ充系男子/人懐っこいヤンキー/人形系美少年/姉ガチ恋クール弟/暴力/輪姦/その他未定

1

 睦海(むつみ)は元白峯学院の白基調の制服と、元光耀高校のダークカラーの制服の二分した塊を体育館の端で眺めていた。 
 彼女は昨年、光耀高校に着任し、そのままこの白峯光耀高校の数学担任になった。 
 私立白峯(しらみね)学院と公立の光耀高校が統合した。多様性を育み、教育格差を是正し、光耀高校の国際コミュニケーション学科のカリキュラムを取り入れ国際的人材育成を促進する云々……
 建前は美しく尤もらしい。だが実態はどうだ。学舎は分かれていたし、カリキュラムに変更はなかった。学期途中の統合だというのだから、生徒、教職員等は逃げる選択もなく、荒波に揉まれるほかない。
 新たな体制になってから数度目の全校集会が終わる。黒と白の塊が溶けていった。黒は蟻のようでありながら、無秩序に集団を解いているのに反して、白い連中は、2つの列を成しはじめた。この光景も3度目、4度目となると睦海も見慣れてきた。
 白峯学院は元々、大講堂で全校集会を行っていたようだが、統合したことで人数が増えたため、白峯光耀高校になってからは体育館で全校集会が行われることになった。大講堂の儀式をそのまま体育館に用いているのか。しかし彼等彼女等はまだ誰一人として退出していない。
 3度目、4度目だ。睦海も何が起こるのか分かっていた。そのうち4人の白い制服が咲き乱れるマーガレットの花道を通り抜け、体育館を出ていった。


「むっちゃん、今の見た?」
 壁にも床にもへばりついて座っている生徒が訊ねた。遅刻のために合流できず、睦海の傍に置いていた。欠伸のしすぎで眦に涙が溜まっているのが、上からはよく見える。
「むっちゃんじゃなくて、春岡先生、ね」
「うん、春岡(はろーか)先生。なんかあれ、軍隊みたいぢゃね? キモ」
 遅刻ばかりしているこの生徒は、舌を出して悪態を吐く。
「一之瀬くん。これから一緒に勉強していく仲間なんだから、ダメよ、そんなことを言っちゃ」
 一之瀬 鳳覇(あげは)の黒く染まった爪が剃り込みを掻く。開け放たれた襟元から少年の平坦な胸が見えかけ、睦海は眉を顰めて外方を向いた。
「あーあ、むっちゃんもお金持ち学校の味方して……」
 鳳覇は唇を尖らせた。
「何言ってるの。先生は光耀高校の先生です。光耀贔屓に決まってるデショ!」
 戯けると、鳳覇は吊り気味の目で睦海を見上げる。
「あ、先生がそういうこと言っていいんだ~?」
「うふふ、みんなにはナイショね」
 生徒が笑っている。


 睦海は渡り廊下の窓を一瞥した。奥まった中庭が見える。ベンチがひとつ置かれ、黒い制服の男子生徒が座って本を読んでいた。睦海の微笑に気付く由(よし)もなく、男子は紙面に目を落としている。
 睦海の視界の端に、白い制服が入ってきた。こちらも男子生徒で、ベンチに向かって歩いていく。黒い制服に声をかけたようで、読書が中断していた。白い制服が間を空けて隣に座る。遠目からでも分かる青白い手に花が握られていた。
 昼休みにまた同じ場所から奥中庭を下ろす。先程読書をしていた元光耀高校の男子生徒が弁当を食っている。隣に白い制服があった。だが、先程見た元白峯学院の男子生徒とは様子が違って見える。彼等はすでに親しい友人のようだった。
「むっちゃんセンセ~」
 睦海はベンチから目を離す。振り向くと、黒い制服が立っていた。ジャケットの釦を外し、シャツから胸が見えていた。黒く染まった爪を乗せた指がパンをいくつか握っている。鳳覇だ。
「こら。春岡先生ね。それに制服……マニキュアも!」
 外貌は典型的な素行不良児だが、その面構えは人懐こい。
「堅いなぁ」
「先生は言いましたからね。反省文50枚に増えても先生知~らない」
「おっ、先生がそういうこと言っていいんだ~? ってか春岡(はろーか)先生、何見てたん?」
 鳳覇は今し方の睦海に倣(なら)い、窓から奥中庭を覗く。校舎に日光を遮られながらも健気(けなげ)に育った木の陰にベンチが置かれている。そこで元光耀高校の生徒と、元白峯学院の生徒が仲睦まじそうに昼食を摂っている。
「ちょっと外の天気を見てただけ」
「今日、雨降るんだっけ」
「さぁ? 一之瀬くんは折り畳み傘、持ってきたの?」
「下駄箱に1コ入れてたような」
「ふふ、じゃあ安心ね。ほら、もうすぐ昼休み終わっちゃうわよ。でも、慌てて食べないこと。よく噛んで、ね」
「分かったよ、"カアチャン"」
「"お母さん"じゃありません。じゃあ、またね」


 吹奏楽部の練習が放課後の校舎を包む。元白峯学院の吹奏楽部は強豪校だったそうだ。統合したことで退部者が続出しているとは職員から聞こえてくる悲鳴だった。
 睦海は音出しを聴きながら校舎裏を歩いていた。白峯学院の構内は広く、まだすべてを把握しきれていない。部活動に遅れると嘆いていた生徒に代わり、彼女はゴミ置き場を探していたが、目的地には一向に辿り着かない。
 ゴミ袋を抱え、睦海は校舎裏に迷い込む。建物の角を曲がったとき、会話が聞こえた。
 もし白い制服が見えたならば、ゴミ置き場の場所を訊けるかもしれない。
『庶民校の制服みたいに黒くしてやろうか?』
 足を止めた。だが遅かった。白い制服が睦海の目に入る。彼女はゴミ置き場の場所を訊くべきだった。しかし彼女の頭の中は彼等の制服よりも白一面に塗りたくられてしまった。ゴミ袋の結び目に指が食い込む以外は、身体が動かなくなってしまった。複数人の白い制服を前に、ひとり生徒が転がっている様から目を逸らすこともできなくなっていた。元白峯学院の清廉と爽涼の象徴だと学校案内には記されていたジャケットに靴の跡が刻まれている。上等な生地を砂が染めている。赤いネクタイが解け、地面を這っている。
「ボクの友達 奪(と)った!」
 少女のものにも紛う高めの声が、地に伏す生徒に叩きつけられる。
「人の女も奪る、コイツの友達(ダチ)も奪る、泥棒かよ。そういえばお前ン家(ち)、貧乏だもんな」
 黒の革靴が砂色を帯びた制服に乗る。
「そろそろやめとけよ……」
「なんでこいつの味方すんの!」
 頭に新たな革靴を携えると同時に、地面を枕にした生徒の目が睦海を捉えた。カメムシのような眼に光はない。人形のような無機質な肌と、片目を覆うケロイドが、生き物なのか作り物なのか曖昧にしている。薄桜色の唇は緩むでも締まるでもなく泰然として口角に瘡蓋を添えている。
 睦海は呆気にとられ、教師としての義務を忘れていた。だが思い出す。
「何をしているの!」
 白菊のような連中の動きが止まる。吹奏楽部の音出しが構内に響き渡っている。
「あ?」
 険しい目付きが振り返った。
「ああ、ほら、面倒なことになった……」
 肩にかかるほど髪の長い生徒が鋭い目付きを身体で隠す耀高校ならば違反だ。
「なんですか、先生」
 髪の長い生徒をさらに、また別の生徒が前に割り入って隠してしまった。赤いネクタイが、優秀な成績を修めて入学したことを表している。
「お友達じゃ、ないの……?」
「……」
 赤いネクタイの男子生徒は高い位置から睦海を見下ろしていた。悪怯(わるび)れることもないが、開き直っているふうでもない。ただ、明らかに、格下のものを品定めしている眼差しだった。
「桔更(きさら)と貧乏人(こいつ)が? よせよせ」
 冷ややかな態度の生徒の後ろで、険しい目付きの生徒が鼻を鳴らす。
「足を退けて。どこのクラス? このことは、担任の先生にもしっかり報告させていただきます!」
 睦海は「桔更」と呼ばれた冷ややかな態度の生徒の脇をすり抜け、3人の生徒を押し退けた。
「あなた、大丈夫……?」
 砂色のジャケットを叩(はた)き、彼女は虐待された生徒を助け起こす。汚れた頬を拭った。
 ガラス玉を嵌め込んだに違いない眼が動く。睦海は円い鏡に映る自身を見つけてしまった。
「僕は大丈夫です」
 人形のように左右対称で、至近距離にもかかわらず毛穴ひとつ、吹き出物の兆しすら見えない。
「先生は、光耀高校の先生ですか」
 とても10代とは思えない異様に落ち着いた雰囲気の生徒が訊ねる。彼は仲間内から桔更と呼ばれていた。
「そうです。でも、どっちの先生でも、こんな暴力は許さないわ」
「……」
 桔更は昏い目を眇(すが)める。
「ハハっ! 許さないってよ、桔更。どうするぅ~?」
 険しい目付きの生徒が大袈裟な笑い声を上げた。
「……別に」
 髪の長い生徒が引き攣った微笑で桔更と睦海とを見比べる。
「先生……悪いことは言いませんよ。言わないほうがいいですよ……先生の立場的には、言わなきゃいけないんでしょうけど……」
 どれだけ生意気な態度でも、やはり子供なのだ。大人に、教師に怒られることを恐れているのだ。
「もう二度と、こんなことしたらダメだから」
 4人の顔を順繰りに見詰める。声の高い、中学生のような風貌の生徒と、三白眼の険しい目付きの生徒。それから、髪の長い生徒と、異様な落ち着きのある「桔更」という名前らしい生徒。一人ひとり、顔を覚える。
「ま、言えば? 一応(いちお)、忠告はしてやったんだし。ダハハ! でもどうなっても知~らねッ」 
 三白眼の生徒はスラックスのポケットに両手を突き入れると、そそくさと去っていってしまった。
「待ちなさい! クラスは?」
 ひとり、またひとりと解散していく。
「クラス別々なんで……、ぼくたち。先生方には"四峯(よんほう)"って言ってもらえたら伝わると思うんですけど……まぁ、やめておいたほうがいいですよ」
 髪の長い生徒だけが残った。そして強張った笑みを見せてから、他3人と同様に散っていった。
 若者というのは徒党を組みたがる。そして仰々しい名前を冠したがる。珍しいことではない。
 睦海は消えていく後姿を睨み終えると、蹂躙されていた生徒へ目を向ける。
「あなた、名前は?」
 人形の肩を抱いているようだった。生き物と接している感じがまるでなかった。息遣いすら感じられない。
「霧生(きりな)です」
「霧生……何くん?」
「霧生(きりな)瑞姫(みずき)です」
「クラスは?」
「3年S1組です」
 瑞姫と名乗った生徒は赤いネクタイを結び直す。S1組は特別待遇学生、通称「特待生」と呼ばれ、S1組は学費が全額免除になると白峯学院のパンフレットには書かれていた。
「このことは、ちゃんと保護者の方にも、担任の先生にも、お話しておくから……」
 マンホールの蓋のような瞳が睦海に転がる。
「必要ありません」
 テレビで観たことのある、人型ロボットと対峙しているかのようだった。けれども眼球の水気といい、薄桜色の唇といい、無機質とは断じられない生気も併せ持っている。
「必要ないって……どうして? 仕返しされちゃうかもって、不安なの? 大丈夫よ。学校が守るわ、あなたのこと……」
「学校は守りません」
「どうして……」
 センサーにしては生々しい両つのレンズが真っ直ぐに睦海を射抜く。
「先生も守りません」
「え……?」
 霧生瑞姫は睦海と話している途中ということも忘れたのか、すっくと立ち上がった。
「"四峯会"には逆らわないほうがいいです」
「"四峯会"って……? 生徒会みたいな?」
 風呂場の排水溝のような目が睦海を見下ろした。
「違います」
 霧生瑞姫は足元に落ちていたものを拾った。嫋(たお)やかな指先が拉(ひし)げた花を摘んでいる。花弁に潰れたしみができていた。しかしごみを拾う風情ではなかった。細い指同士で抱えている。
「花が好きなの……?」
「いいえ」
 霧生瑞姫もまた今し方の生徒たちと同様に颯爽と歩いていってしまった。



 睦海は溜息を吐いた。ベランダの手摺りに伏す。校庭ではサッカー部が声を響かせ、ボールを蹴っている。
――ああ、霧生には親がいないから。
 担任の教師の言葉に耳を疑った。霧生瑞姫という少年が天涯孤独の身であることについて、彼女は絶句したのではない。その声音に滲む嘲笑に怯(ひる)んだのだ。
――まぁ、親がいたところでね。それより春岡先生、あんまり白峯(ウチ)の事情(コト)には、首を突っ込まないほうがいいですよ。
 統合してから日が浅い。まだ認識は、白峯学院と光耀高校なのだ。すぐさま改まるものではない。部外者の指摘が耳障りに聞こえるのも無理はなかった。
「あ~」
「どしたん、むっちゃん」
 睦海は肩を跳ねさせた。ただの嘆きに返答があるとは思いもよらず、彼女は咄嗟に振り返る。彼女の斜め後ろの窓の下に、一之瀬鳳覇が尻をついて座っていた。手には学内の自販機で買ったと思しきいちご牛乳が握られている。
「いつからいたの?」
「いつからも何も、最初から。ここ、オレの特等席だもんね」
「……ああ、そう………早く帰ったほうがいいわよ。帰宅部よね」
 鳳覇は壁に背を預け、ストローを齧った。自宅と勘違いしているのかもしれない。
「なんか悩み事? 相談に乗ってやろっか? はろーかセンセ」
「結構デス」
 睦海は校庭に向き直る。
「オトナの事情(ジジョー)か」
「そ。大人の事情」
 鳳覇が笑った。睦海はその笑みを横目で捉えた。光耀高校の生徒だ。今は白峯光耀高校の生徒だ。
「白峯学院のお友達はできた?」
「全然。アイツ等オレたちと仲良くする気ないっしょ」
 ピンク色を吸い上げたストローが空気を漏らす。
「仲良くしなきゃ、ダメよ。仲良くしなきゃ……」
「ケンカしなきゃいいだけだろ。わざわざ仲良くする必要はないね。なんで? どしたん?」
 睦海は上目遣いの生徒を一瞥した。
――とりあえず、その件については分かりましたから、もういいですよ。こっちで上手く処理しときますんで。
 職員室での出来事が甦った。該当生徒の特徴すらも訊きはしなかった。思い当たる節があるというのか。
「何でもないわ。一之瀬くんのほうこそ、何かあったらすぐ相談してね。報、連、相よ」
「ホウ、レン、ソウね。放浪、恋愛、ソーラン節。オトナは大変だぃな」
――元光耀(そちら)は元光耀(そちら)、元白峯(ウチ)は元白峯(ウチ)で良くないですか。お互いあるでしょ、不文律って文化(もの)が。
 睦海の口元が緩んだ。霧生瑞姫への虐遇を認知しておきながら、元白峯学院の教師たちは気拙(きまず)げに笑うばかりだ。あの生徒は一体誰に頼ればいいのか。
「子供ほどじゃないわ」
 鳳覇は目を見開いて首を捻る。



 統合に意味などなかった。同じ校舎に2校あるだけのことなのだ。
 睦海は昨日の出来事を思い出し、踵で廊下を叩いた。
 渡り廊下に差し掛かって、彼女は立ち止まる。奥まった中庭を見下ろした。木陰とベンチに座る黒い制服の男子生徒が見えた。
「こんにちは、昨日のせんせぇ」
 彼女は窓から顔を上げた。そしていつの間にか傍に佇む小柄な男子生徒を認めた。白い制服に、赤いネクタイが映えている。高らかな声といい、幼い外貌といい、彼女には見覚えがあった。目鼻立ちと癖のある毛先に異国の影を帯びている。蜂蜜色の大きな目には媚びた輝きが揺らめいていた。
「あなた……」
「昨日のせんせぇ、飛び降りようとしてるの?」
 少女と紛う音吐(おんと)に舌足らずな喋り口が、人を侮っているかのようだった。
「するわけないでしょう、そんなこと。それより昨日のこと、しっかり先生たちには報告しておきましたから。もうダメよ、あんなことをしたら……」
 大きな飴玉を嵌めた小さな顔が傾く。
「昨日のせんせぇ、言っちゃったんだねぇ……」
「春岡先生、よ」
「分かったよ、春岡せんせぇ。他三人(みんな)にも言っておくねぇ」
 煌びやかな蜂蜜色に雲がかかる。しかし小さな唇は莞爾(かんじ)としている。男子生徒は窓へと蜂蜜玉を転がした。そして目を剥いた。唇が大きく吊り上がり、大きな瞳には焔が迸る。手摺りを握る手が慄(ふる)えている。
 睦海はその横顔に、眉を顰めた。
「あなた……」
 もし彼女が、この生徒の視線の先を探っていたならば、黒い制服の生徒のひとつ隣で腰を下ろしている元白峯学院の生徒に気付いただろう。そしてその白制服の生徒が花を握っていることにも気付いたのかもしれない。
「あははは、せんせぇ、あははは。人のモノは奪(と)っちゃダメだよねぇ」
「そうね。人の物品(もの)を奪ったらいけないわね」
「もし奪られたら、取り返していいんだよねぇ。だって、ボクのモノなんだよ?」
「ええ……でも、穏便に……」
 昨日注意した童顔の生徒は、目を剥き、眸子(ぼうし)に炎を逆巻いて、去っていった。その後姿ならば、背が低くとも端然として高校生に見えた。


 陽射しは強いが涼やかな風が吹いている。
 校庭では昼休みを余した元光耀生たちがスラックスを捲り上げてサッカーをしていた。
 睦海は体育教師に頼まれ、体育倉庫の鍵を開けに行くところだった。早々に用を済ませ、戻ろうとしたとき、彼女は足を止めた。グラウンドは低地に作られ、芝生の生い茂る斜面で囲まれている。そこに座る後姿に気を取られた。肩に届くほど髪が長い。けれども背格好から男子と分かる。
 昨日の生意気な集団だ。団体名まで付けているほど、こだわりのある編成のようだったが、彼は一人だった。
「混ざらないの?」
 後ろから声をかけると、髪の長い生徒は顔を上げた。昨日、他3人から向けられた侮蔑や嘲笑、赫怒の色はない。ただ睦海をその目に入れている。細く整えられた眉に幾分、神経質な感じがあるが、威圧的な態度ではなかった。
「ああ、昨日の……」
 そよ風が櫛を通したばかりのような髪を靡かせる。或いは髪を伸ばし、加工に励む女子生徒よりも手入れを欠かさないのかもしれない。
「春岡です」
「春岡先生か……」
「さっき、昨日すごく怒ってた子に会ったよ」
「ああ、渦織(かおる)?」
「渦織くんって言うの?」
「そう。幼馴染でさ」
 髪の長い生徒はまたサッカーに向き直る。
「君は?」
 生徒の苦笑いが戻ってくる。
「先生、本当に何も知らないんだね。まぁ、渦織知らなきゃ、おれのことも知るワケないか」
 髪の長い生徒が卑屈な響きを持って鼻を鳴らす。
「有名人……?」
「まぁまぁ。そのまでじゃないよ。おれは流希波(るきは)。ルキって呼んで」
 霧生瑞姫といい、最近の若者は何故、氏名を教えないのか。
「流希波、何くん?」
「違うよ、流希波は下の名前。先生、天然?」
「苗字は」
 のらりくらりと睦海を躱す愛想笑いが一瞬、引き攣った。
「下の名前で呼ぶと問題になるとか? セクハラだって?」
「教師と生徒よ。友達じゃないわ」
「………」
 女性的な線の細さを帯びた顔から表情が消える。
「……いいだろ、苗字なんか知らなくても。学籍番号でもメモしとく? SB3の……」
 彼も特待生のようだ。
「どうして苗字、教えたくないの」
 流希波は立ち上がった。芝生につけた尻を叩く。そしてピンバッジの刺さった緑色のネクタイを直す。指に石ころのような銀色の輪が嵌っている。頭髪も装飾品も校則違反だ。
「んー、指名手配犯だから」
 流希波は先程の童顔の生徒よりも幼い面構えを見せる。
「まぁ、調べれば分かるよ。SB3-3の07ね。別に、ここでおれの名前が分かったって、説教して終わりでしょ。色んな意味で……」
「どういうこと……? わたしは確かに光耀高校から来たけれど、今はもうそんなの関係ないでしょう。あなたが生徒なら、先生は……」
「ああ、いいって、いいって。先生も別に新任ってワケじゃないでしょ。何人もそういうの見てきたし……悪いこと言わないから、ホント、あんまり関わりなさんな。おれにも、渦織にも」
 睦海は右に左に首を傾げた。
「先生にも何か事情があったのよ……わたしは先生として、生徒が悪い方へ悪い方へ行ってしまうのは、見過ごせないわ」
 瓜実顔に飛び立つ鳥の陰が駆けていった。


 流希波が呼びに来たのは放課後のことだった。彼は無言のまま、睦海を見つけた途端に腕を掴み、元白峯学院が主に使っている新築校舎へ彼女を引き摺った。
 3年2組は特待生Aのクラスだった。
 流希波は飄々として睦海の手を放すと、廊下を戻っていった。
 睦海は教室を覗いた。
「泥棒! 泥棒! 泥棒!」
 聞き覚えのある高らかな声が室内に谺(こだま)する。
 しかし見えるのは白い制服の人集(ひとだか)りだった。張り詰めた空気のなかに、睦海は足を踏み入れる。生徒の一人が彼女に気付き、また一人と、彼女に気付く。人集りが拓(ひら)け、中心部が見えてきた。
「何をしているの……?」
 誰にともなく問うと、中心に立っていた生徒が振り返る。霧生瑞姫だった。
「何って、ナニだよ」
 ロッカーの天端に座り、膝で頬杖をついているのは、昨日にもいた三白眼の生徒だった。端には桔更と呼ばれていた生徒も無表情に座っている。
「先生が言ったんだよ、奪られたものは、取り返していいって……」
 渦織が笑っている。
 睦海は霧生瑞姫をもう一度見遣った。彼は下半身を露出し、机に擦り付けていた!

2


 睦海(むつみ)は舌を呑み込んだように言葉が出なかった。
 霧生(きりな)瑞姫(みずき)は平然とした顔で下半身を露出させていた。ケロイド以外にも、生々しいものをこの少年は持っていたのだった。嫋(たお)やかな指が頻りに動いていた。
 睦海は目を逸らす。
「あなたたち! 何をしているの。どうして誰も止めてあげないの……」
 睦海は白い制服に身を包む連中の顔を見回した。順々に目を逸らされ、顔を背けられる。
「ああ、何? 楽しんでねーヤツがいたの? 悪ぃな、気付かなかった」
 三白眼の生徒がロッカーから降りる。そして睦海の前に立った。獰猛げな物腰に、彼女は後退る。
「誰だよ、なぁ。おい!」
 三白眼の生徒が吠えた。教室が爆ぜる。睦海は肩を縮め、目を閉じた。
「こ、こんなことおかしいわ……霧生くん、やめて。そんなことをする必要はないから、一緒に保健室に行きましょう……」
 声が震える。手も震えた。しかし睦海は上着の釦を外すと、脱いで霧生瑞姫の前に掛ける。
「ダメだよ、せんせぇ。そいつはボクのモノを奪った泥棒なんだよ! 貧乏人ってホントやだ!」
「何を考えているの。こんなことをさせて。同級生でも、立派なセクハラですからね。性暴力なの。分かる?」
「ふーん。だから?」
 三白眼の生徒が引き取った。
「だったら、訴え出りゃいい。学校通さず、弁護士に"直"のほうがいいぜ。尤も、弁護士雇う費用があればな」
「ふざけないで」
「奪られたら取り返していいってせんせぇ言ったもん。ホントだもん。ボク、悪くないもん! そうだよね、玻璃坂(はりさか)くん!」
 渦織(かおる)は小さな唇を尖らせ、蜂蜜色の目を教室の隅に座ってこちらを見ている生徒に向けた。玻璃坂と呼ばれたのは、昨日、桔更(きさら)とも呼ばれていた人物だった。
「知らん」
 玻璃坂桔更は微塵も興味が無さそうに昏い目を側める。
「む~! ボク悪くない! こいつが悪いんだもん、ホントだもん!」
 渦織は霧生瑞姫に飛び掛かった。睦海は泡を食う。間に入って、渦織を止めた。小柄だがいざ触れてみると、白ジャケットの下にあるのは男子の骨格だった。止めきれず、渦織は霧生瑞姫を床に押し倒し、殴りかかる。
「やめなさい、暴力はだめ! あなたたちも見てないで、止めて! お友達じゃないの?」
 しかし白菊どもは爪先のわずかも動かそうとはしない。彼等彼女等は置物だ。
 睦海は振りかぶった渦織の細腕を制する。
「ボクの友達奪った! 許さない! 奪った! 奪った! 泥棒!」
 霧生瑞姫は暴れることなく、渦織を見ている。
「やめなさい、やめなさいったら!」
 睦海は後ろから引っ張られた。三白眼の生徒だった。片手に煙草を摘んでいる。紫煙が立ち昇っている。
「なんで煙草なんか吸ってるの!」
 彼女の喉は休むことを知らなかった。
「なんで? なんでって……誰も叱らねーから? ハハハ!」
 三白眼の生徒は腹を跳ねさせて嗤った。
「やめなさい、煙草やめて! 火を消しなさい!」
 睦海は煙草に手を伸ばした。しかし三白眼の生徒は煙草を握った手を高く掲げる。年少者といえども、体格にはすでに大差があった。睦海は高身長というわけではなかったが、低身長というわけでもなかった。成人女性の平均値近辺にいる。けれども第二次性徴を遂げた男子には敵わなかった。
「ハハハ……」
 三白眼の生徒は睦海を躱し、悠然と仰向けになっている霧生瑞姫の傍に回った。
「渦織、仇討ってやるよ」
「ぷう~!」
 未成年喫煙に悪怯れることもなく、むしろ堂々としている生徒は霧生瑞姫のジャケットの袖を捲くった。その下のシャツも捲くられ、素肌が見えた。
 睦海は息を呑んだ。目を疑った。見間違いに決まっていた。或いは錯覚を起こしている。霧生瑞姫は腕にシールを貼っているに違いなかった。丸いールを貼っているに違いないのだ。それはもしかすると、肩凝りや筋肉痛を解消するための貼付剤のはずなのだ。そのために、赤褐色を知っているのだ。けれども、霧生瑞姫の顔面にあるケロイドと似た色味をしていた。
 燦然とした煙草の先端が、ほくろのひとつもない素肌に押し付けられた。
「はははは」
 渦織は無邪気だった。三白眼の生徒も口角を吊り上げている。霧生瑞姫は無抵抗で、無表情を、自らを焼く生徒に向けているのみだった。
「あ………ああ………」
 視界が歪むようだった。身体から力が抜けていく。
「あんま人を不快にさせんなよ」
 煙草が色の白い肌から離された。円形の印に灰が残っていた。焼かれたのは他人だというのに、睦海は叫び出したくなった。だが叫ばなかった。その衝動は彼女の全身を走り回った。彼女は三白眼の生徒へ向かっていった。赤でも緑でもないストライプ柄のネクタイに掴みかかっていた。
「あなたは最低よ!」
 睦海は自身がどういう職業で、相手がどういう立場の人間なのか、まるで忘れていた。どちらが年長者で、どちらが年少者であるかも忘れていた。そして自身が何を言い、それが今後どう影響するのかもまったく考えていなかった。
 教師が生徒を突き飛ばした。
「霧生くん、保健室に行くわよ。早く!」
 三白眼の生徒が、机や椅子を薙ぎ倒し、床に転がった。やっと、白菊たちが後退る。
 睦海の頭が冷めていく。果たして彼女の華奢な腕に、そこまでの膂力(りょりょく)があるだろうか。
「うわー、痛~。骨折れたわ。全身粉砕骨折したんだけど」
 三白眼の生徒が起き上がる。
「えー、礼賛院(らいさんいん)くん、だいじょぉぶ?」
 渦織は嗤っている。しかし駆け寄ることもせず、目の前にある火傷を手の甲で叩いている。
「庶民校では、生徒は突き飛ばしていいって教育方針なんだな? おー、おー、まさに多様性だわー。元白峯(ウチ)には無ぇ教育理念だわー」
 礼賛院と呼ばれた三白眼の生徒が起き上がる。
「礼賛院くん、煙草どこぉ? まだ足らないよ。あと10コくらいつけなきゃダメだよ!」
 渦織が叫んだ。
「ご、ごめんなさい。謝るわ。礼賛院くん……だっけ」
「謝れば何してもいいってか。じゃあ、悪ぃな、霧生。はい、チャラ」
 礼賛院というらしい生徒は鼻を鳴らすと、投げ出されたままでいる霧生瑞姫の腕を踏んだ。規則正しく丸いシールの刻まれた肌が拉げる。霧生瑞姫は何も言わない。蝋人形よろしく、眉ひとつ動かさない。ガラス玉で相手を見詰めるだけだった。
「あとで保護者の方には直接連絡します。足をどかして!」
 睦海は金切り声を上げて礼賛院何某の上履き用サンダルを退かした。臙脂色だった。3年を表す。彼等は同級生だ。
「霧生くん、大丈夫……? 立って!」
 霧生瑞姫はガラス玉を睦海によこした。そして徐ろに起き上がった。貸した上着が落ち、露出したままの下腹部が彼女の眼前に曝された。だが彼女が目にしたのはこの中性的な少年を男性と決定づける部位付近に走る傷痕だった。第二次性徴を裏付ける茂みもないようだった。ほんの一瞬見えただけだった。けれども彼女の網膜には悉(つぶさ)に灼きついた。最近の傷ではなかった。変質化した皮膚がフィルムのように薄くなって塞がっていた。
 睦海は口元を押さえる。何が起きているのか分からなくなった。霧生瑞姫とは何者なのだ。礼賛院何某等の集団は、彼をどうしようとしているのか。
 保健室へ連れて行く。それ以外に何をすべきか、何を考えるべきか、分からなかった。彼女の頭のなかには蜂だの蝿だのが飛び回っていた。羽音が耳の内側から聞こえるのだった。
「ハハハ、霧生。美人女教師に舐めてもらうか?」
 霧生瑞姫は嘲笑を気にも留めていないようだった。無表情のまま制服を正す。
「ほ、保健室に、行くわよ……」
「必要ありません」
 朱肉を使った押印よりも赤く染まった円形が、シャツの袖に隠れた。さらにその上にジャケットの袖が重なる。
「だ、だめよ……痕になるから………ちゃんと、冷やさないと………」
 呼吸が乱れた。生徒の腕を掴む。肉感も骨張りもある。しかし睦海には、霧生瑞姫が生きた人間には思えなかった。しかし死体でもなかった。彼は宇宙人か、機械なのではなかろうか。
「"四峯(よんほう)会"には逆らわないほうがいいです」
 睦海の手の中から、宇宙人の腕がすり抜けていく。
「僕は帰ります」
 帰りの会直後かと思うほど、それが当然とばかりに霧生瑞姫は投げ捨てられていた鞄を背負う。
「せんせぇ」
 渦織は床を凝らしていた。そこに霧生瑞姫の影を見ているらしい。まったく体勢を崩さず、睦海に背を向けたままだった。
「何……」
「せんせぇの所為だよ。せんせぇがいっつも邪魔するから、また霧生くんにお友達奪られちゃう……玻璃坂くんのカノジョだってそうじゃん。そうでしょ、玻璃坂くん!」
 渦織は教室の隅を振り返る。玻璃坂桔更に一斉に視線が集まった。礼賛院何某も、周りを囲う白菊たちも、玻璃坂桔更の返答を待っていた。
 玻璃坂桔更は相変わらず、椅子に座り、膝を揺らしていた。
「知らん」
「玻璃坂くん、ほんとは怒ってるよ!」
「……どうでもいい」
 玻璃坂桔更は立ち上がった。教室の空気が張り詰める。睦海の肌の上を鑢(やすり)が駆け抜けていった。
「先生」
 昏い目が、鈴蘭畑の中にある雑草を見詰めている。
「はい……」
 睦海は気圧(けお)されていた。隠す余裕はなかった。
「保健室に行きましょうか」
「は?」
 睦海よりも先に、礼賛院何某の喉が爆ぜた。
「恋哉(れんや)が粉砕骨折したらしいので」
「ハハハ、確かに。せんせ~、手当てしてくれよぉ?」
 大きな掌が後ろから伸びてきた。睦海の肩を包み込む。ブラウス越しだというのに火傷しそうだった。
「ほわわ~! ボクも行く! 保健室大好き!」
 渦織は両手を広げ、飛行機の真似事をして走り回る。



 保健室までの道程を、睦海は覚えていなかった。礼賛院恋哉の手が彼女に自由を許さない。
 すれ違った教員たちも何も言わなかった。まるで上司と遭遇するように会釈をするのだった。そしてそのとき、睦海は存在していなかった。
 玻璃坂桔更が保健室の戸を開いた。
「桔更」
 先頭の玻璃坂桔更が振り返る。睦海もその昏い目の向くところを追った。流希波が佇んでいる。
「……」
 桔更は何も言わず、保健室の中に入っていく。
「るきは〜、どこ行ってたのぉ。うんこぉ?」
 渦織は恋哉の前を横切って、流希波に飛びついた。
「まぁ、ちょっと……」
「うんこだぁ!」
 年の離れた弟のようだった。きゃっきゃ、きゃっきゃと跳び跳ねている。
「んー、まぁ、そんなカンジ」
「どうせ球蹴り観てたんだろ?」
 恋哉が嗤った。睦海は愛想笑いを浮かべている流希波を窺う。目が合った。しかし逸らされる。
 保健室に入った玻璃坂桔更は、ベッドのカーテンを閉め始めた。養護教諭が部屋から出てきてすれ違う。気拙(きまず)げな目交ぜが起こった。互いに言葉はなかった。会釈を交わし合うだけだった。
「へへ……粉砕骨折した背中が痛ーぜ」
 恋哉に押され、睦海も保健室へと入らざるを得なくなった。後方で渦織と流希波も入ってきたようだった。鍵を閉めたのはどちらだろうか。
 玻璃坂桔更がベッドに腰を下ろす。昏い目に凝視され、睦海は縫針で全身の毛穴という毛穴すべてを小突かれるようだった。
「突き飛ばしたのは悪かったわ。謝ります、ごめんなさい……」
「謝って済めば警察は要らねーよなって話してんの、分かる? 先公だもん、分かるよな?」
 恋哉の高い体温が、ブラウスから離れる。肩に熱が残っている。
「で、でも、ちゃんと、謝らないと……」
「ふーん。じゃあ、裸で土下座したら許してやるよ」
 恋哉に背中を押され、睦海は前へのめる。
「何を言って……」
「裸で土下座したら許してやるって言ってんの。特大チャンスだろ」
「せんせぇ、脱ぐの?」
「そんなこと、するわけないでしょ。大人を誂(からか)わないで」
「ハハっ。マジか、今の聞いたかよ? 謝りてぇなんて嘘(ポーズ)だったんだな」
 睦海は恋哉に対峙し、後退る。
「先生」
 玻璃坂桔更が、恋哉と渦織を黙らせた。
「"僕たち"は、先生方の都合で学校が統合されて、今まで自由に使えていた教室も使えなくなったんです。部活も何気なくやっていた奴等が入って来て弱体化した……けれど、仕方ありませんね。多様性は今の時代、大切ですから。先生……多様性って何ですか。"僕たち"と光耀高校の皆さんは、多様性というほど差のある人々だということですか。価値観も文化も違う、同じ人間ではなかったということですか?」
 語気は落ち着いているというのに、口を挟む隙はなかった。昏い瞳が睦海を射抜き、最後には微笑を見せる。
「先生、"僕たち"に多様性を教えていただけませんか。貴方がたと、"僕たち"は何が違うんですか」
 玻璃坂桔更の手が、ベッドを叩いた。
 恋哉が睦海に迫る。容赦のない力加減で、彼女の腕を引いた。そしてベッドへ向かって投げた。
 睦海の受けた衝撃は、すべて布団が吸収した。スプリングが軋む。
「あ……ああ……」
 痛みはないというのに強かに打った背中が綿に沈んでいく。水の中に突き落とされたように、彼女は焦った。けれども起き上がることができなかった。真上から影に覆われ、両腕を纏められてしまった。
「な………何………何…………」
「ガキだなんだって舐め腐ってたんだろ、どうせ」
 目と鼻の先にある三白眼に爛とした炎が見えた。自身の上唇を這う真っ赤な舌に異様な生々しさがあった。
 恋哉は睦海の腕を押さえたままベッド柵の外へ回り、前身を預ける。下肢は自由なのだ。彼女は踵でシーツを蹴った。摩擦が熱を生む。焦燥もまた彼女を火照らせる。しかし粘こい汗が冷やしにかかる。
「玻璃坂くん、先がい~い?」
 渦織にはこの状況が見えていないのだろうか。はしゃいでいた。その幼いのは容貌だけではないというのか。
「好きにしろ」
 返答は先程の音吐(おんと)とはまったく違っていた。
「るきははぁ?」
「おれはいいや……」
 呑気な問いは、一体何について問うているのか、睦海には分からなかった。渦織は何の順番を決めているのか。
「礼賛院くんは~?」
「オレは後でたっぷり楽しませてもらうぜ」
 睦海は真上にいる恋哉を仰いだ。喉に浮き上がる玉が形を大きく露わにして浮沈(ふちん)する。
「じゃあ、渦織ちゃん一番!」
 視界の端から人影が飛んできた。シーツを蹴り続ける下肢に重みが乗る。渦織だった。幼い外貌が彼女の腰に跨っていた。
「何………っ?」
 睦海は辺りを見回した。養護教諭の椅子に座る昏い目がある。そして離れたところに、流希波が立っていた。視線が搗(か)ち合う。だが逸らされた。
 彼女は余所見をしている場合ではなかった。中学生よりも子供のような手がブラウスを引き千切った。釦が弾け飛ぶ。床に跳ねる音まで聞こえた。
「ああ!」
 幼い手は見た目にそぐわない力でキャミソールも破ってしまった。白地に赤い刺繍の入ったブラジャーが生徒の前に曝される。
「堅物な説教垂れてても、ブラジャーはフツーにブラジャーなんだな」
 今は嘲りも耳に入らなかった。渦織をどうにかしなければならない。
「こんなことしちゃ……だめ………っ」
 叱らなければならなかった。生徒を正しい道に戻すのが教師としての勤めである。しかし睦海の声は消え入り、威厳のひとつも込められず、むしろ導くべき相手に阿(おもね)てさえいた。
 そういう有様で、幼児的な残虐性を持った生徒が止まるはずはなかった。その手はブラジャーを引っ張った。上下に試し、捲り上げることを選んだようだ。カップが浮き、閉じ込めていた乳房が溶け出した。
「や、やめ……!」
 睦海はすぐさま下着を直そうとした。だが腕は封じられていた。よりいっそう、拘束の力が強まる。
「ひゅ~♪」
 真上で口笛が鳴った。女のか細い腕を2本締め上げておくことなど、大した仕事でもないようだった。
「教師がそんなにおっぱい大(おっ)きくしてていいのかよ?」
「牛さん!」
 蜂蜜色の目が揺れの治(おさ)まった膨らみに集中する。
 隠さなければならない。拒まなければならない。突き離さなければならない。ところが彼女には腕の自由がなかった。体温と肌理(きめ)のある枷を嵌められ、生徒の前に無防備な姿を曝し続ける。
「亜美ちゃんよりピンク色! ねぇ、見て。恵梨華ちゃんよりピンク色! 玻璃坂くん、悠愛ちゃんよりピンク色だから、見て! ね~ぇ、見て!」
 手招きをされて玻璃坂桔更はベッドの傍まで近付いてきた。そして大した関心も示さず、睦海を一瞥する。
 睦海は顔を背けた。腕はまったく動かない。
「ね、ね、ピンク色でしょ!」
 自身の手柄だと言わんばかりの燥(はしゃ)ぎようだ。桔更は覗くだけ覗くと踵を返す。そして応接用の椅子に腰掛けた。
 渦織は唇を尖らせ、聳(そび)える色付きの中心を片方ずつ摘む。
「ぃや……ぁあ!」
 痛みには至らない刺激が睦海の内側に走る。身体が跳ねた。
「せんせぇ、気持ちい~の?」
「まっさか。こんな状況で感じるワケねぇだろ」
 恋哉が代わりに答える。そうだ、この状況で性感を覚えるはずはない。
「そぉなの? 瀬里菜ちゃんより気持ちよさそぉだったのに」
 幼児の魂に火が点いたようだ。
「放し、て………っ」
 外見に見合わない器用な手付きが睦海の胸の先端を捏ねた。ただ悪戯のために抓ろうとしているのではない。淫らな意図を以って嬲っている。
「ぷにぷにが硬くなってきたよ、せんせぇ」
 小さな箇所に芯を作らされていく。踵がシーツを蹴り押す。下腹部に溜まっていく微熱を逃がす。
「んっ………んん……」
 睦海は目を瞑り、唇を噛んだ。渦織にも恋哉にも顔を背け、横面を曝す。
「せんせ~? 保健体育ですよ。渦織に教えちゃくれませんかね。アンタ、教師だろ?」
 拳を握り締める。力を込めたことも、恋哉には伝わっているのだろう。
「妃奈乃ちゃんはこうしたら、すぐあんあん言ったのに」
「ありゃ演技だろ。本気にすんなよ」
「え~。じゃあ、せんせ~も?」
 睦海は腕が動きはしないかと暴れさせてみたけれども、高校生男子のなかでも体格の良い恋哉の力には敵わなかった。
「ねぇ、せんせ~、演技なの?」
 縦縞も黒帯もない、光沢に満ち満ちた爪が、胸の先端を擽った。
「ぁ………っぅん……、っ」
「せんせぇ?」
「他の女の子たちにも、こんな、……変なこと、してるんじゃないでしょうね……!」
 睦海は渦織を睨んだ。しかし睨んだつもりでいるのは彼女だけだろう。はたから見ると、その目は潤んでいた。吊り上がっているはずの眉は引き攣っていた。
「変なコトって……? 変なコトって何? 大人ごっこ?」
 渦織は睦海の腰から腿へ尻を引くと、上半身を伏せた。よく保湿されているシュガーピンクの唇が彼女の色付いた隆起を覆ってしまった。
「んあぁッ」
 握り締め過ぎて麻痺した指が、蜘蛛の死骸よろしく萎びていた。胸にある生温かく濡れた感触を突き離したかった。睦海は身体を揺らす。しかし渦織は膨らみにしがみつき、乳呑児をやめない。
「やめて……っ、こんなこと……!」
 生徒が教師の乳を吸っている。狂気の沙汰だ。教師が生徒に授乳している。気が狂っている。
「美味しいよ……? ちょっと、汗ばんでる……」
「う、うぅ………」
 多様性とは何だろうか。玻璃坂桔更が問うていた。元白峯学院の生徒の舌も、表は質感が粗く、睦海の突起を轢き潰す。
「ぁっあっ……」
 下腹部に熱が湧く。膝が落ち着かない。身体に圧(の)しかかる生徒を振り落としたかった。身体を左右に捻る。しかし生徒は反対の乳を吸う。
「礼賛院くんもおっぱい飲む?」
「両方吸っといてか」
「あ、そっかぁ……玻璃坂くんは、おっぱい飲む?」
 渦織は起き上がり、後方へ大きく振り向いた。返答はあったのか、なかったのか。少なくとも耳を介して知るものではなかったようだ。
「るきはは~? おっぱい~」
「おれはいいよ」
 渦織は涎を塗りたくった胸粒を見下ろした。蜂蜜色は澄んでいる。とても力尽くで脱がせた女の肌を映しているとは思えない麗らかさだった。
 彼は尻で睦海を潰しながらさらに、下がっていく。乳頭を甚振っていた手が睦海のパンツを撫でた。ファスナーを開いている。
「渦織くん……!」
 睦海は目を見開いた。眦がはち切れるのではないか。
 乳呑児が乳を求めているのではなかったのだ。幼児が手慰みを求めているのではなかったのだ。
 蜂蜜色の目は細まり、シュガーピンクの唇が弧を描く。すでにそれは成体に近かったのだ。牡としての関心を持っている。
「放して、放してちょうだい………ダメよ、こんなの、……っ!」
 睦海は叫ぶ。恋哉の片手が動き、彼女の口を塞いだ。
「ぁうっ」
 逃げようとした手はすぐさま捕まえられた。他人の掌と掌が合わさり、長く力強い指に組み付かれる。

【TL】灰色の不文律

【TL】灰色の不文律

金持ち支配者貴族集団に首を突っ込んで蹂躙される女教師の話。

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2026-05-01

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