映画『ハムネット』レビュー
全米で批評家協会賞を受賞した同名小説の実写化作品。シェイクスピアの四大悲劇の一つ、『ハムレット』誕生の裏側にあった大いなる悲しみをシェイクスピア自身ではなく、彼の妻、アグネスの視点で描くことで、世界的に有名な劇作家の生々しい姿と、その手によって生み出された舞台の真価にスポットを当てます。
ストーリーの展開自体は二人の出会いから始まり、家族となっていくまでの過程を淡々と映していくもので、シェイクスピアの意外な一面とか、創作秘話とか、かの人を知る者ならどこかで期待してしまうトピックについては乏しいというのが正直な感想です。しかしながら、劇中でも語られる『オルフェウスとエウリュディケ』をモチーフとして重ねると強烈な仕掛けが要所、要所に設けられており、その効果を踏まえて観ると、退屈に思えたストーリーが象徴性に富んだ景色に様変わりする。ここが本作の激推しポイントです。
例えばアグネスがしょっちゅう身を寄せる大木の根本にある洞穴。そこは森の魔女と噂されるぐらい自然の叡知に長けた彼女が故人となった母親を思い出す大切な場所なのですが、そこで真っ暗な口を開ける洞穴はオルフェウスが亡くなった妻、エウリュディケを連れ戻そうとした冥界の出入口に見立てることができます。長女の出産シーンにおいては家を抜け出し、大木の元で我が子を産もうとするアグネスの子宮口とそこに開いた洞穴を重ねれば、ぽっかりと開いた暗がりが生命の誕生とその先にある死を観客に意識させる装置として機能しているのが分かります。
それから肝心の『ハムレット』の舞台。舞台背景として描かれた森と、そこに設けられた出入口を潜り抜けて姿を現すのはかの王の亡霊とその息子、ハムレット。この事実が意味するものに覚える衝撃は映画館に身を置く人々こそ味えるものですが、そこに加えてアグネスが「お願い、振り向いて」と口にする台詞を耳にすれば、現実に演じられていたものの全てが冥界へと還り、純粋な魂の降臨がその場でリアルに行われるという舞台ならではの真髄が映像として表現されている。その奇跡に無類の涙を誘われ、舞台上のあらゆる出来事が燦々と輝き出すのを目の当たりにします。ここに覚える感動は「振り返る」いう行為を行ったのは誰であったか?という点を意識して観るとより強烈になります。ああ、そうか。夢は叶ったのか…と腑に落ちて、その後に訪れる避け難い別れに再びの涙を流すのです。
アグネスの人生を支え続けてきた自然の摂理に従えば、人間の命は儚く消えゆくばかり。けれど、舞台では、創作では、決してそうではない。存在の定義に揺さぶりをかけるこの越境にこそ舞台作家、ウィリアム・シェイクスピアの人生が詰まっていました。その痛みをこそ、アグネスの眼差しで見届けなければなかった。彼の偉大さに宿る鼓動。『ハムネット』への愛。私自身、観劇経験は決して多くないですが、ステージを始めとして、フィクションであることが丸見えの舞台でしか体験できないリアルな感覚をもっとこの身に刻みたいと強く思いました。駆け込みで観に行って良かったです。こんな名作を見逃してたら心底後悔していた。本作はTOHOシネマズを中心にまだまだ絶賛公開中。興味がある方は急ぎ、劇場へ。あまりにも正統派な一作を自信をもってお勧めします。
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