人生への絶縁状を書くのは今日はやめた
これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。
人には自恃があればよい!
その余はすべてなるままだ……
──中原中也『盲目の秋』
1
1993年、ぼくは5月の春に産み落とされたのだった、したがって、ぼくは春という一季節を火のような激しさで一途にひたむきに憎みとおしてきた。
二十代まで、誕生日というのはまさしく災いの日付であった。両親に申し訳ない気持はあるけれども、毎年のその日その日を呪詛でドス黒く塗り潰す、それがぼくの生誕祭という日におけるわが異教徒儀式であったのであり、幼少期より所有していたぼくの呪わしい想いとは、「何故生まれてきたいか否か、まえもって訊かれずに産み落されたのであろう」という、感謝も喜びも可愛げも一つだってない、鼻持ちならぬ邪な訝りがそれなのだった。
十二か十三でぼくはレイモン・ラディゲなる少年作家を知り、ある種爽快をおぼえさせる卓越した心理解剖の報告、くわえて不遜きわまる気高くも嫌味な文体にまるで陶然、かれの二つしかない長編小説と「ドニイズ」などの小作品等をうっとりしながら読み耽っていた。文学を書き遺し、生誕を起点とする弧を二十で切断されるというかれの生にすぐさま憧れをもつようになって、また生きる苦しみと満たされた虚栄心・自尊心の損得勘定をかぞえた際すぐれてお得なコスト・パフォーマンスを感じもした、されば余りにあまりに閉ざされてナルシスティックなそれであるけれども、「ぼくは詩人になって、二十歳で死ぬことにするよ」という約束、星空に燦る月と交わしたのだった。
ぼくはのちに──少年期から青年期にかけてのぼくをはしかとして被れさせ、みごと無関心という最も愛着の気持無きかたちで離縁することになる──三島由紀夫の残した少年期に関する文章を読んで、かれとぼくの憧れの酷似に口惜しさすら覚えたのだった、何故といい、かれの生死に憧れ約束を契るのは、ぼくが最初で唯一でありたかったから。
というのもぼくは物心ついた頃からかなりの死にたがりで、幼少期から病的な疎外感を抱えこんでおり、幼稚園の頃は漠然と「苦しいから消えて了いたい」という感情をもっていたのだけれども、小学校に入ってようやく「死」という概念を知った、さすればぼくはわが欲心に、「死にたい」という明瞭たる言葉の箱を与えそれに容れこんだのだった。それはもしや「理想的に滅茶苦茶に生きてみたい」、「隣の誰かと生きたい」というポジティブといえないこともない意欲と表裏一体であったかもしれないけれども、しかし少年期のぼくはみずからのそれに、「死にたい気持」という名辞──この日常的言語としての「名辞」と詩的言語としての「名辞」については、のちに或る詩人の詩性を語る際にすこし書く──を与えて了ったのだった。
ぼくが自分に関することで些さの邪念なく気に入っているところが二つあって、ひとつめは髪質、陽光が射すと幾分レッド・ブラウンに照るふっくらとウェーブのかかった柔らかい巻き毛であって(これは全体の色素の薄い母と巻き毛の父の混合の血によるものであるという愛着もあるけれども、またぼくの西洋かぶれなところを説明するそれでもあるだろう、然り、詩人とは古代希臘から巻毛をふりみだしているに決まっているのだ、ジム・モリソンを見よ! アルクマンはきっと、ふわふわの巻き毛であった)、もうひとつめは、ある特定の詩人への一途なる思慕である。わらわないでくれ。ぼくは、文学が好きだ。殊に、詩が好きだ。
病を抱え込んだぼくが文学という病に毒を制され、べつの深刻な病人に変容したのは十一の頃であった。
暇を持て余していたその少年、基本は図書館で借りた小説(愛読していたのは主に「ダーク・ファンタジー」、特に好んでいたのは「魔術師・吸血鬼・悪魔もの」、他は「ハンガリーや東欧の暗みのあるロマンチックな昔話」であり、然り、昔からしばしばいわれているように「外れ者の子供が読む児童書の定番」である、ぼくはその伝統──と云うか偏見──を見事継承していたようだ)、現実逃避せしめてもらうための幻想的な画集ばかりを読んでいたのだけれど、ある日暇だったのかなんなのか覚えていないが適当に父の部屋に入ったらかれ不在、ひっそりと侵入し発見したのが、片隅によけられ古色蒼然とした雰囲気を放つ「芥川龍之介小説集」なのだった。
ぼくはそれをかるい好奇心で読みはじめたのだけれども衝撃を受けた、ここに洞察されてあった人性への懐疑、エゴイズムを凝視しあたかも鋭い手捌きで解剖手術して往くような玲瓏な文章、「こんな怖ろしい人間の真実を知っていいのだろうか」という背徳感を感じさせる内容に、「こんなに面白い本があったんだ」と心揺りうごかされる想い。「ぼくは今日からこの世界に棲もう」とまで想ったのだけれども──然り、いまその文学という洞窟に蝙蝠が戦慄きながら張るようにして、ぼくというディレッタントはべったりと其処に棲みついている──、なかでも共感をしたのが『河童』という病的な感性によって書かれた異様な小説。殊にこの部分である。
…その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬で嗽うがひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」
バツグはこの返事を聞いた時、てれたやうに頭を掻いてゐました。が、そこにゐ合せた産婆は忽ち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほつとしたやうに太い息を洩らしました。同時に又今まで大きかつた腹は水素瓦斯を抜いた風船のやうにへたへたと縮んでしまひました。
まさしく生、そして人間観の通説に対するぼくの違和の感覚を物語化していただいたのがこの小説であり、ぼくは毒に脳内をガンと打ちつけられたような心地、もっとこういうものが読みたいと想い、とりあえずは色々な作家が紹介されているような本を探そうと、図書館へ行ってみたのだった。
ところでこれまでの文脈から外れるけれども、常に苛まれる疎外感と校内暴力・家庭内の疎外感の往復という生活、それへの辛さとの適合のため「世界は真善美であり、わたしだけは誤悪醜の種族である」という世界観をもち世界から自己を切り離しためにうまれた、「我異常者なり」というような自意識からくるいたみと切なさ、それと捩れて結びついた知的なプライドの歪みを既にしてもっていたぼくは、その少し前から図書館の児童書向けではないコーナーにいる子供の自分という姿を上から眺めて、「この領域ではひとより優れているんだ」と悦に入っていて、そういう実にじつに気味のわるい倨傲な少年だったのである。
いまでもこういうところは克服はできていない、というかある一面からいうと一部はする気もないのだけれども、あろうことかこの悪臭のする不気味な枝先を伸ばしにのばして、何かを掴もうとする生き方に転換しているという薄気味わるい企みに唇を歪めているのが三十過ぎのぼくである。ところで君が落ちこぼれであるならの話だけれども、こんな、刈りあげ磨きながら秩序の相性の点で折合の付きにくい欠点を伸ばそうとする、そんな生き方はいかがでしょうか? というのもぼくの意見だけれども、幼少期の悪徳的性格はどうせ消すことは頗るむずかしいからである──既にして病的な形で変わっていたならある程度治せるという可能性もあるかもしれないけれど──。そういうものは、むしろ各々が試行錯誤によってえた道徳観念に限定させながら、現実・現在の人間関係に対応してできるだけ綺麗に刈りながら伸ばしたほうがいいのではないだろうか。そういう努力で磨いた個性は、すてきだとおもう。暴力を受けつづけてきたからえられうる優しさ、もしや、あると想う(だからぼくはヴェイユ思想を愛読しているのもある)。
やがてぼくはそういう本を見つけたようで、それを館内で頁を適当に捲りめくりしながら作風や主題、写真等を眺めながら色々と面白そうな作品を書く作家を物色、さすればある刹那、忽然とわが心臓をどぎつく打つ顔写真が眼に入ったのである。
どことなく詩人らしい翳りを帯びているも、優美な詩を書きそうな甘い雰囲気がある。いわば中性的・少年的で陰翳ぶかい美貌、帽子を被った可愛らしい顔立は、男らしさに拒絶感のあった当時のぼくに──いわゆる男性の筋肉質、体毛に凄まじい嫌悪をもっていた、いまは全くない──、「こういう雰囲気になりたい」と胸をきゅっとさせながら強く想わせるものであった。
然り。わが身を文学の沼にひきずり降ろし、いまでも殊にがしとつかんで離さぬかの詩人の詩を読んだきっかけは、かれの御尊顔であった。
2
中原中也。
わが、憧憬である。
帽子を被った天使のようなその写真は修正がおびただしいとのちにきいたけれども、何、少年期の麗しい姿をみてとれば綺麗な顔立に生れたのはまちがいがないだろう──ところでこの写真はかれが十八の頃、なるほど未だ邪悪な人相が表出していなくてもおかしくはない──、ぼくはわが頬の紅潮と胸の高揚に素直に従い、「中原中也詩集」をこそこそと見付けどぎまぎしながら借り、帰って家で読んだのである。
──凄かった、凄かったというほかの言葉を、一切合切奪われた。
まさしく、「ああ!」、というほかはなかった。
これは何も冗談でいっているのではなく、中也の詩が、まだ社会の与える言葉に染まっていなかった少年のぼくを、かれの主張した「名辞以前」という世界へそれだけ連れ去りえたということを証明しているのではないかと想う。「名辞以前の詩を書く」というのはぼくの独自研究では「言葉の箱にいれる前の観念・情念」を「"概念"という箱」に容れないままに「(詩的)言語」で現すという抑々が矛盾しているような作業、まさしく「詩作という方法にしか為しえない」という純粋な領域を扱いうる詩の天才による仕事であって、当時そのように言語化して説明できるわけはなかったのだけれども、だからこそ歌われるがままに神経を打つような感動があったのかもしれない。
青春の切なさ・やるせなさ、生の悲しさ、わたし自身を歪めうるものへの怒り、喪失したものへの後ろ髪引かれるような思慕、天に宿る観念的・理想的なものへの憧れ、頽廃して往く生活に立ち込む倦怠。…
おおまかにいえば当時受けとった主題はこんなものであるかもしれない、このように日常的言語化すれば「ああ、若いときはあるよね」といわれるものに過ぎないかもしれない。ぼくであってもこう書いたところで、何ひとつ「中原中也の詩とはなにか」を説明できたとは想えない。
ぼくの受けとった感覚が正しいとすればだが、かれはこれ等の観念を魂の零す歌として耳を澄まし、歌いたいという意欲のままに歌い上げ、歌としかいいようのない言葉で残したのだ。この、「一途に徹る歌性」ともいうべく光と音楽の共同的なダンス。かれの詩は字面も中身も音韻も悉く詩歌でしかなく、詩歌のほかなにものでもなく、うらっ返しても剥ぎとっても歌のほかなに一つ零れやしない。たとえば主張性の高い「いのちの聲」なぞも勿論大好きであるが、なにか古代の詠み人しらずの無名の歌にも似ている匿名性の高い、誰にだって「わたし(ぼくはこれを人性の一領域、人間を林立させ、すべてのひとに睡る共通項的な心に対しつかっている。これがほんとうにあるのかどうかは懐疑的だけれども、そこがあると仮定してぼくは書いている立場である)」の魂の深みにたたえているも、稀有な才覚をもった生粋の詩人にしか歌えぬ詩、そういうものに殊に憧れをおぼえているのがぼく、青津亮なのである。
蜂のように不穏な音立て脳裏をブンブン飛びまわる死にたい気持を追い払うのに辟易し、毎日の被校内暴力と家庭内での疎外感(父は任侠道と武士道と優性思想が混ざった思想をもっていて、殴られて殴り返せない性格を含み「劣等者」は秩序のために滅びるべき、優れた強い人間だけが生きる資格があるというような考えであって、いじめられて流血しながら帰ってくるとそれで怒鳴り、自傷行為をするとぼこぼこ殴ってきたことも何回かある。しかし父にもいいところがもちろんあり、父が環境に適合するためにえた考え方でもあるため、ぼくがどうしてもこんな薄気味わるい人間であってしまうのと似たようなどうしようもなさだってあるとおもう)を往復することに疲弊し淋しさに咽び泣く生活の裡で、ぼくはこの中也の詩編に、空に浮べた墓に寝そべるような憩いを感じた、幾度も、いくども読み返したのだった。少年期の愛読書を訊かれれば「中原中也詩集です」というほかはないし、たとい今の愛読書を尋ねられても「重力と恩寵」とともに即これが喉より昇るであろう。
然り、これは三十を目前とするいまにも徹るそれであって、これに愛着があるというのはなにか、一途な愛というものに執着をしているのが青津亮であるのかもしれない。
3
現代では、好きなアイドル的存在を、「推し」というらしい。
「推し、燃ゆ」という小説では、社会に適合できない人間の嵐のような内面戦争ですりへった心が縋りつく対象を「推し」という言葉で表現していたという印象があるけれども、まあ、あれほどに劇しい感情でなくても使える言葉のようである。
少年期のぼくにとり中原中也とは『推し、燃ゆ』の主人公の激情に負けないくらいには重たく激しい感情を向けられる存在であったのであり、なんの不信もなくぼくは一途にかれの詩と魂の美しさを信じていた。かれの友人が「問題行動ばかりだったあいつを純粋に愛せるのは実際に話したことがないからで、詩でしか奴を知らない愛読者が羨ましいくらいだ」のようなことをいっていた覚えがあるけれども、その言葉が完全に自慢に聞えて、僻みながら「俺は口惜しい!」と叫びたくなるくらいには中也が好きで好きでしようがなかった(いまであっても僻むし、会えるものなら殴られてもいいから会いたい、ぼくは昔流行した「会いたくて震える」という歌詞をいちども笑わなかった)。
中原中也の魂とは、いうなれば、気骨のある少年性である。幼稚な少年の憧れる生を死に物狂いで貫いた、気合の入ったロクデナシである。だらしなさに真剣に向き合いだらしなく生き切った、最もだらしなくないストイックな堕落者である。primitive、この言葉がこんなに似合うひとは、かれと無頼派とパンクロッカー以外に、そうたくさんはいない。
一言でいうと、ロックだ。
実際に、ロック畑にファンが多い作家のひとりであるとおもう。
ぼくはかれの死因を愛す。死ぬ迄生き抜いたという事実を愛す。自殺ではないという事実を愛す。
脳腫瘍が原因で30という若さでくたばったのがかれの死であるけれども、WIKI情報で申し訳ないが、その病気のおおきな原因はストレスであるらしい。むりもないだろう。かのような生を、かのような貞節の守護を、たかが人間が永くできる筈がないのだから。30でストレスが原因の脳疾患でくたばるというのは、やはり早すぎるのではないか。それくらいに強い気概と詩生活を自己に課し、それを懸命に守護した努力家であるとぼくはおもう。
というのもかれ、まともに働いたことがないのである。ほとんど、いまの定義でいうニートであった。まともに労働の対価としていただいたのはランボオの訳詩集の印税くらい、本人の詩集は自費出版であるし、一時期フランス語の個人教師をしていたのだけれども、暴力的で自制の効かないあの男だからだろうか、安吾いわく生徒は一人、けっきょくやっていけなかったようだ(あのひとはインプットでいうと鬼のような論理的思考を発揮し、古今東西の哲学書をすごいスピードで読みえる──日記を読んでください、読了がはやすぎる──のだが、アウトプットでいうといわゆる「詩的な言葉」以外は極端に苦手なタイプ、かれは散文詩ですらなんだかへたな感じがするし、エッセイは何を言っているのかよく解らない、悪文としての味わいすら希薄、しかも「なんで俺には解るのにおまえに解んねえだ」と侮辱するタイプであることは、かれのかずかずの喧嘩エピソードで想像ができるために、教師に向いているとはとてもおもえない。小林秀雄と大岡昇平という知性をして、「あいつは異様に頭がいいことは伝わるが、なにを言っているのかさっぱり解らなかったから、あいつの思想──宇宙論があったらしい──を再現するのは不可能だ」といわしめる)。
即ちなにが云いたいかというと、かれの苦しみは、かれによってかれへ課せられたものが殆どであるとぼくにはかんがえられるのだ。社会的義務というものが、それによって生活がかかっている状態というものが、一切なかった。
それではそんなかれがどうやって生活できて、おびただしい酒代・飲み屋代・遊女へ支払う代金を払えたのかというと、大病院を経営していた父からの仕送りがあったからであった。中也は二代つづく東大医学部卒の医師の家系であり、甚だ勉強ができたかれもまた医師になることを望まれていたが、この大病院の院長先生、「俺は詩人だから働かない」とのたまい京都や東京で遊びまくる不良息子に、毎月大金を送りつづけた。そのせいで、うろおぼえであるが大病院を経営する実家は傾きかけたらしい。
父が中也への仕送りを決めた挿話が、おもしろい。
医師にさせたかったのに学業すら放棄した十代のドラ息子、「俺は詩人として生きる。働かない。仕送りをしてくれ」と頼みこむも、そんな話はすぐにのめるものではない。「ダメだ」といっていた父であるが、「そんなに詩人だと自負するなら、詩をみせろ」と要求。中也、自作を披露。黙り込んで読みすすめる父。涙、頬を流るる。然り。佳い詩だったのである。佳い詩だと、みぬいたのである。天晴、父の文学的素養。中原の詩才を存分に発揮させる状況をととのえた父の慧眼、万歳、万歳。父、「お前は天才だ」と日本文学史的に完全にまっとうでそろそろ歴史的に正しいとも断言できる評価をくだし(常識的にいうとただの親ばかを発揮したにすぎない)、あろうことか、次の言葉をかれへいう。
「わかった、お前は、働かなくていい」
とんでもない父子関係である。
元より長子である中也を可愛がりすぎ、甘やかしていた父であるけれども──このお坊ちゃん育ちの甘さが、また卑俗に歌われた中也の詩に甘美で品あるものを与えたともいえる──、あながちこの「天才」という息子への評価をさせた文学的素養も、「親ばかにすぎぬ」と信用できないわけではないのである。中也の父親はおなじ東大で医学を学んだ森鴎外の小説を愛読していて、若い頃は同人もやり、鴎外と手紙のやりとりまでしていた生粋の文学青年だったのである。中也の詩にながれるアンニュイなリリシズム、卓越した才能を見抜いたのはかれの文学史上の偉大なる功績ともいえ、部外者のぼくなんかは「中也を詩に専念させてくれてありがとうございます」とでもいいたいくらい。
とはいえ、働きながら書いた中也の詩もそれはそれで良さそうであるけれども。ぼくはぼくの能力の範囲でこれをやります。
以下の段落、女性は読まないことをおすすめします。
それで得た金で飲み屋の女性や娼婦と遊び耽り、仕送りもすぐになくなるので友人に借金をし──とりたてに来た友人をぶん殴って追い返すという暴君っぷり、どこにそんな所業を自己に許せる神経があるのかぼくにはいまいちわからない──、実家に足りないからまた送れという催促は頻繁、そのくせ「おい安吾、おまえは週に何度女にありつける? 俺は週に二度しかありつけない。できれば二日にいっぺんはありつきたい、貧乏は切ない」と酒焼けと喫煙で荒れに荒れた低音のガラガラ声で呻き、およよおよよと涙をながしながら友人の坂口安吾に女性蔑視まるだしの愚痴(娼婦という職業が卑しいから蔑視しているとみなしているからではなく、「ありつく」という食事につかう際の最低な言い方から、かなりそこで働く女性をモノとしてみなし、蔑視しているほうだとぼくは判断している、これは時代性もたしかにあるかもしれないが、あの時代であってもかれよりはだいぶ女性蔑視していない男は多くいると、近代文学をこのんで読むぼくは判断するのである。だって高村光太郎のような男性も当時いたのだから。ところで萩原朔太郎の西洋的女房と日本的女房についてのエッセイはほんとうに酷くて、あの時代でもトップクラスの蔑視を感じ──仏蘭西のボオドレールよりはましである──、女性をなんだと捉えているんだろうと想うほかはなく、「中原中也くんとの想い出」で「病んでいる人間だからこその病んでいる人間への優しさ」に感動したぼくはショックを受けた)をいうという、はっきりと物申させていただくならば、中也は人間的に問題がありすぎる。
かれの悪口ばかり書いたが、かれのいわば”男男したダメさ”というのがすこしは伝わったのではないかと思う。
詩人であり続けるということ。これは、人間が最も人間らしく生きる道の一つであるが、また人間が人間から離れて往くというかなしい宿命と切り離すことはできないような推測が、ぼくにある。
人間。生。どこまでも愛くるしく、またどうしても憎んでしまうものでもある。好きで好きでしようがないから憎みすらする、そんな心を投影されがちなのがこの二つであるだろう。ぼくは中也に対しても好意と憎しみ、そして嫌悪を感じてしまう。ぼくは基本的に人間をその人間単位で尊敬しない主義であるけれども、中原の一領域をかなり尊敬しているほうだと思う。しかしその一領域は「詩人として」という注釈をつけることをしないと成立しえないものであり、中原は当時の主流の価値観でいうまっとうな人間・生き方から堕落した人間であるというのはたしかで、やはり広い意味でいう思い遣りに欠け、残酷で、断言しえるのは幼稚きわまりない傲慢な人間であるということ、しかしどこかあたたかく、静かな優しさだって滲むような人間くさい人物であっただろう。
4
ぼくは人間・生を憎んでいるか?──然り。然り、と云うほかはない。しかし憎しみとはむろん愛と表裏一体であり、人間、そして生と無関心ではいられない種と云うのが、文学という愛すべき杖乃至玩具と絶縁できない人間のそれではないだろうか。ぼくはいまでも人生と云うものへ絶縁状を叩きつけてやりたい、さればその先にあるものはなにか?──自殺、或いはぼくを生きるということ、ただこれであり、ぼくは二度と前者を選んではいけない。
後者の生き方は現代ではすこぶる難しく、たとえば坂口安吾の云った「堕落」と云うのは現代社会で為すには不可能であるようにも思えてならない、中原のような詩人に専念できる環境と云うのは、果していまの世にあるだろうか?
ぼくは中原に憧れ、そのように生きたいという幼稚な感覚をもちつづけている、気に入らないことには中指を立て、認めたくないものを認めないと云うパンキッシュな生き方をできたらと、いまであっても思う時があるのである。が、ぼくはそれをえらばなかった、否、えらびえなかったのかもしれない。なぜと云い、ぼくは生き抜いて了ったのだから。二十歳で死んでいれば、できたのだ。だが、ぼくは、それをしなかったのだ。中年を迎えて尚、中也を読み、憧れ、人生を憎み、そして、生きつづけた。社会や他者とテンポ正しく握手をし、ささっと詩人でありたい自分にゴム毬のように戻ろうとし、されどかれの詩人性に一途にあこがれていた頃の気持はもはや戻れまい、すこしばかりは大人に、なりたくもない大人になってしまったのだ。それが生きるということ、それが生きるということだ。
ぼくは生を憎んできたけれども、そこに可憐なものをみいださざるをえず、これまで死にたい気持ちをあやし死にたい幾夜を中也や朔太郎の詩で慰めながら生きてきたのだった。ぼくは人間を憎んできたけれども、人間に美をみいだそうとひっしで読み、書き、それくらいに人間へ愛着をもちつづけた結果、俗悪の美を発見した気になって、すこしだけだけれども気楽になっちまった。
中也は?──こんな、「気楽になりたい気持」を、ぶん殴って生きてきたのかもしれぬ。中也は認めなくないものをぶん殴って生きてきたが、なによりも自己のそれをぶん殴ってきて、だから病み衰えたし、長子を失ってからは失意になり、それでも尚、詩人でありつづけた。ぼくは、楽になってでも三十を三百六十五日生きた。三十一、そして三十二になった。
中原みたいに生きるのは、ダメなことだ。そう想いもしつづけ、中原みたいに生きるのはダメなことだという言説を他者の口から聞いたら怒りに燃えるし、のちに家で泣き崩れるのがぼくであるのだし、嗚、ぼくは生きた、ぼくをぼくが生きた。それ等を憎みながら。ぼくは生きた。詩を書いた、だからなんだ。ぼくは中原のように生きたかった。中原のような詩を書きたかった。中原くらいの詩人になりたかった。
*
詩と絶縁した天才ランボオより、才能枯れて尚書きつづけた趣味人ヴェルレエヌのほうが、詩人として偉い──中原に、賛成。
詩人とは時々、生きることを生きない人間であると評され、ぼくもまた、その観念を疑りながらもちつづけている。そうでありたいと時々感じながら、そうではない自分を責めることもある。しかし、詩人らしい詩人ほどに生きた人間も、そうたくさんはいないだろう。詩人にとって生きるとは書くことであり、書くことは生きることであり、書きつづけるとは死から躰を引き離しながら生にしがみつくということであり、ぼくにとってはたぶん、人生への絶縁状を書くことを先延ばしにする行為が詩作というそれであるのだとおもうし、生きるということそのものが死にたい幾夜を否定し生きることを肯定しようとする祈りそのものなのであって、それが、二十歳以降も生きてしまったぼくの人生。肯定。肯定しよう。だからあなたの、苦しい幾夜をのりこえた現在の実在、ぜったいにぼくは肯定できる。署名をしてでも、あなたが生きたという俗悪の美、かわゆらしさを肯定できる。
だから──人生への絶縁状を書くのは、今日はやめよう。
人生への絶縁状を書くのは今日はやめた
読んでくれてありがとうございました。生き抜こうね。