人生への絶縁状を書くのは今日はやめた

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

人には自恃があればよい!
その余はすべてなるままだ……

    ──中原中也『盲目の秋』

  1
 1993年、ぼくは5月の春に産み落とされたのだった、したがって、ぼくは春という一季節を火のような激しさで一途にひたむきに憎みとおしてきた。
 三十になり憧れの詩人の死んだ年齢とならんで謎の達成感をもつまで、誕生日というのはまさしく災いの日付であった。──両親に申し訳ない気持はやはりあるのだけれども──毎年のその日その日を呪詛でドス黒く塗り潰す、それがぼくの生誕祭という日におけるわが異教徒儀式(サバト)だったのであって、幼少期より所有していたぼくの呪わしい想いとは、「何故生まれてきたいか否か、まえもって()かれずに産み落されたのであろう」という、感謝も喜びも可愛げも一つだってない、鼻持ちならぬ邪な(いぶか)りがそれなのだった。
 十二か十三でぼくはレイモン・ラディゲなる少年作家を知り、ある種爽快をおぼえさせる卓越した心理解剖の報告、くわえて不遜きわまる気高くも嫌味な文体にまるで陶然(とうぜん)、かれの二つしかない長編小説と『ドニイズ』──堀口大學、名訳をありがとう──などの小作品等をうっとりしながら読み耽っていた。文学を書き遺し、生誕を起点とする弧を二十で切断されるというかれの生にすぐさま憧れをもつようになって、また生きる苦しみと満たされた虚栄心・自尊心の損得勘定をかぞえた際すぐれてお得なコスト・パフォーマンスを感じもした、されば余りにあまりに閉ざされてナルシスティックなそれであるけれども、「ぼくは詩人になって、二十歳で死ぬことにするよ」という約束、星空に(ひか)る月と交わしたのだった。
 ぼくはのちに──少年期から青年期にかけてのぼくをはしかとしてカブれさせ、みごと「ほぼ無関心」という最も愛着の気持無きかたちで離縁することになる──三島由紀夫の残した少年期に関する文章を読んで、かれとぼくの憧れの酷似に口惜(くや)しさすら覚えたのだった、何故といい、かれの生死に憧れ約束を契るのは、ぼくが最初で唯一でありたかったから。
 というのもぼくは物心ついた頃からかなりの死にたがりで──遺伝も疑われるところがある──、幼少期から病的な疎外感を抱えこんでおり、幼稚園の頃は漠然と「苦しいから消えて(しま)いたい」という感情をもっていたのだけれども、小学校に入ってようやく「死」という概念を知った、さすればぼくはこんな、まだ「観念」の状態であったわが欲心に、「死にたい気持」という明瞭たる言葉の箱を与えそれに容れこみ、概念としての形を与えてしまったのだった。それはもしや「理想的に滅茶苦茶に生きてみたい」、「隣の誰かと生きたい」というポジティブといえないこともない意欲と表裏一体であったかもしれないけれども、しかし少年期のぼくはみずからのそれに、「死にたい気持」という名辞──この日常言語としての「名辞」と、詩的言語のそれの性質との違いについては、のちに或る詩人の詩性(ポエジイ)を語る際にすこし書く──を与えて閉じ込め、その本来はわけのわからない筈の観念を用い、言葉なんかにけがれちまった状態で思考するようになってしまったのだった。
 ところでぼくが自分に関することで(いささか)さの邪念なく気に入っているところが二つあって、ひとつめは髪質、陽光が射すと幾分レッド・ブラウンに照るふっくらとウェーブのかかった柔らかい巻き毛であって(これは全体の色素の薄い母と巻き毛の父の混合の血によるものであるという愛着もあるけれども、またぼくの西洋かぶれなところを説明するそれでもあるだろう、然り、抒情詩人とは、古代希臘から巻毛をふりみだしているに決まっているのだ)、もうひとつめは、ある特定の詩人への一途なる思慕である。わらわないでくれ。ぼくは、文学が好きだ。(こと)に、詩が好きだ。
 病を抱え込んだぼくが文学という病に毒を制され、べつの深刻な病人に変容したのは十一の頃であった。
 暇を持て余していたその少年、基本は図書館で借りた小説──愛読していたのは主に「ダーク・ファンタジー」、特に好んでいたのは「魔術師・吸血鬼・悪魔もの」、他は「ハンガリーや東欧の暗みのあるロマンチックで切ない昔話」であり、然り、昔からいわれているように「外れ者の子供が読む児童書の定番」である、ぼくはその伝統(というか偏見)を見事継承していたようだ──、現実逃避せしめてもらうための幻想的な画集ばかりを読んでいたのだけれど、ある日暇だったのかなんなのか覚えていないが適当に父の部屋に入ったらかれ不在、ひっそりと侵入し発見したのが、片隅によけられ古色蒼然(こしょくそうぜん)とした雰囲気を放つ「芥川龍之介小説集」なのだった。
 ぼくはそれをかるい好奇心で読みはじめたのだけれども衝撃を受けた。ここに洞察されてあった人性──これは坂口安吾がよく使った概念。人間に元より付属される、人類に共通の性質をもつ、人間の心の一領域をいうのがこの言葉なのであり、これがあるのかないのかはいまだ判っておらず、またそれは変容するものでもあるために、どう変容してゆくのか、どんな条件で変容するのかも解っていない。ぼくが執着しているモチーフの一つにこれがある、何故って、ぼくだって他の人間たちとおなじ素敵さがあるんだって、どうしてもどうしても思いたいのだから──への懐疑、エゴイズムを凝視し(あたか)も鋭い手さばきで解剖手術して往くような玲瓏(れいろう)な文章、「こんなに怖ろしい人間の真実を知っていいのだろうか」という背徳感を感じさせる内容に、「こんなに面白い本があったんだ」と心揺りうごかされる想い。「ぼくは今日からこの世界に棲もう」とまで想ったのだけれども(然り、いまその文学という洞窟に蝙蝠(こうもり)戦慄(わなな)きながら張るようにして、ぼくというディレッタントはべったりとそのなかに棲みついている)、なかでも共感をしたのが『河童』という病的な感性によって書かれた異様な小説、殊にこの部分である。

 …その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬で嗽うがひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」
 バツグはこの返事を聞いた時、てれたやうに頭を掻いてゐました。が、そこにゐ合せた産婆は忽ち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほつとしたやうに太い息を洩らしました。同時に又今まで大きかつた腹は水素瓦斯を抜いた風船のやうにへたへたと縮んでしまひました。

 まさしく生、そして人間観の通説に対するぼくの違和感を物語化・言語化していただいたと感じさせたのがこの小説なのであり、ぼくは毒に脳内をガンと打ちつけられたような心地、もっとこういうものが読みたいと想い、とりあえずは色々な作家が紹介されているような本を探そうと、図書館へ行ってみたのだった。
 ところでこれまでの文脈から外れるけれども、常に苛まれる疎外感と校内暴力・家庭内の疎外感他諸々の往復という生活、それへの辛さとの適合のため「世界は真善美であり、わたしだけは誤悪醜の種族である」という世界観をもち世界から自己を切り離したためにうまれた、「我異常者なり」というような自意識からくるいたみと切なさ、それとねじれて結びついた知的なプライドの歪みを既にしてもっていたぼくは、その少し前から図書館の児童書向けではないコーナーにいる子供の自分という姿を上から眺めて、「この領域ではひとより優れているんだ」と悦に入っていて、そういう実にじつに気味のわるいとみなされやすい傲慢な少年だったのである。
 いまでもこういうところはあまり克服できていない、というかある一面からいうと、一部分の話でいえばする気もないのだけれども、あろうことかこの悪臭のする不気味な枝先を伸ばしにのばして、何かを(つか)もうとする生き方に転換しているという薄気味わるい企みに唇を歪めているのが、現在のぼくなのである。
 ところで君が落ちこぼれであるならの話だけれども、こんな、刈りあげ磨きながら秩序の相性の点で折合の付きにくい欠点をそれなりに良い方向へ伸ばし、社会貢献的なうごきへと促そうとし、世界と綾織られなくてもいいから一条としてでも編まれようとする、そんな生き方はいかがでしょうか?
 というのもぼくの意見だけれども、幼少期の悪徳的性格はどうせ消すことは(すこぶ)るむずかしいからである、既にして病的な形で変わっていたからある程度治せる、そんな可能性もあるにはあるかもしれないけれど。しかし少なくとも、すぐには治るものではない、現在はどうにもならないと判断せざるをえないそういったものは、むしろ各々が試行錯誤によってえた道徳観念、そしてその時代性のモラルとをわが裡で相克、それと同時になんらかのかたちでの両立という関係性を作り、葛藤させ(社会のモラルに背を向ける、牙を剥くのはぼくの生きたい生き方ではないので、こちらの言葉をぼくは現在所有しえない)、良いものを求め、行動を限定させながら、現実・現在の人間関係に対応し出来るだけ綺麗に刈りながら伸ばそうとしたほうがいいのではないだろうか。
 そういう努力で磨いた個性は、すてきだとぼくはおもう。暴力を受けつづけてきたからえられうる優しさ、もしや、あると想う。だからぼくはシモーヌ・ヴェイユ思想を愛読・追究しているというのもある。悪の連鎖を、みずからの内部で断ち切り、良いものへ変えて世界に発するということ。
 暴力を受けつづけた、だからといってあなたが優しさを諦める必要はない、きっと。自分にはなにかが欠落していると自覚している、であるからあなたが他者と関わることを諦める必要だってない、きっとそうだ。
 話を戻す。
 やがてぼくはそういう本を見つけたようで、それを館内で(ページ)を適当に(めく)りめくりしながら作風や主題、写真等を眺めながら色々と面白そうな作品を書く作家を物色、さすればある刹那、忽然とわが心臓を打つ顔写真が眼に入ったのである。
 どことなく詩人らしい翳りを帯びているも、優美な詩を書きそうな甘い雰囲気がある。いわば中性的・少年的で陰翳ぶかい美貌、帽子を被った可愛らしい顔立は、男らしさに拒絶感のあった当時のぼくに(いわゆる男性の筋肉質、体毛に凄まじい嫌悪をもっていた。いまは全くない)、「こういう雰囲気になりたい」と強く想わせるものであった。
 然り。わが身を文学の沼にひきずり降ろし、いまでも殊にがしとつかんで離さぬかの詩人の詩を読んだきっかけは、かれの容姿であった。

  2
 中原中也。
 ぼくの、永遠の憧憬(アイドル)である。
 ──ところでこの写真はかれが十八の頃、かれのたくさんの友人が指摘していた「邪悪な人相」というものがまだ表出していなくてもおかしくはない──、ぼくはわが胸の高揚に素直に従い、「中原中也詩集」をこそこそと見付けどぎまぎしながら借り、帰って家で読んだのである。
 ──凄かった、凄かったというほかの言葉を、一切合切奪われた。
 まさしく、「A!(ああ!)」、という感じであった。
 これは何も冗談で大袈裟にいっているのではなく、中也の天才的な才能が、まだ社会の与える言葉に染まっていなかった少年のぼくを、かれの主張した「名辞以前」という世界へそれだけ連れ去りえたということを証明しているのではないかと想う。
 かれの主張していた、「名辞以前の詩」というわけのわからない領域へ向かう際の一条件とは、──ぼくの独自解釈でもうしわけないけれども──「言葉の箱にいれる前の、自分自身のいだく観念・情念」を「概念(概念とはある程度一般の意味と共通していなければいけない。「国語辞典」の意味と同じでなければいけない)という箱」に容れないままに、「(詩的)言語」で現すという、いわば「言葉になりえないもの・言葉にして語りえないもの・むりに他者にも伝わりえる言葉選びをして言語化すると本来のそれがあらわせないもの、それ等を一般的な言葉にするという経路をたどらせず、いわば日常言語にせず、しかし言葉にする」という抑々が矛盾しているような作業。
 そうして書かれた詩は、言葉になるまえの”心の根”に近い領域を言葉にしえているために、他者たちの深みの心で共鳴しえる。そして、その領域こそが”人性”であるかもしれないというのが、ぼくの詩観の一つである。
 けだし「詩作という方法にしか為しえない」という純粋な領域を扱いうる詩の天才による仕事、それこそが「名辞以前の詩を書く」ということだとぼくに夢想されていて、当時前述のように言語化して説明できるわけはなかったのだけれども、だからこそ歌われるがままに神経を打つような感動があったのかもしれない。
 青春の切なさ・やるせなさ、生の悲しさ、わたし自身を歪めうるものへの怒り、喪失したものへの後ろ髪引かれるような思慕、天に宿る観念的・理想的なものへの憧れ、頽廃して往く生活に立ち込む倦怠。…
 おおまかにいえば、当時受けとった主題はこんなものであるかもしれない。
 このように概念をもちいて日常言語化すれば、「ああ、若いときはあるよね」といわれるものに過ぎないのかもしれない。
 ぼくであってもいまのような概念を並べて書いたところで、何ひとつ「中原中也の詩とはなにか」を説明できたとは想えない。
 ぼくの受けとった感覚が正しいとすればだが、かれはこれ等の観念を魂の零す歌として耳を澄まし、歌いたいという意欲のままに歌い上げ、言葉にする前の状態のまま言葉にし、歌としかいいようのない言葉で遺したのだ。
 この、「心より出発した、他者の心の深みへ一途に徹る歌性」ともいうべく光と音楽、かれの詩のほとんどは字面も中身も音韻も(ことごと)く詩歌でしかなく、詩歌のほかなにものでもなく、うらっ返しても剥ぎとっても歌のほかなに一つ(こぼ)れやしない。
 たとえば主張性の高い「いのちの聲」なぞも勿論大好きであるが、『羊の歌』の始めの多いもののような、なにか古代の詠み人しらずの無名の歌にも似ている匿名性の高い、誰にだって心の根の深みにたたえているも、稀有な才覚をもった生粋の詩人にしか歌えぬ詩、そういうものに殊に憧れをおぼえているのがぼく、青津亮なのである。
 (無個性な詩を書きたい。匿名性、無名性へと墜落したい。疎外にひりつくこの鉄の頬を、ひとびとを林立させる真白のアネモネの花畑にふっくらとうずめてみたい。光と音楽の共同舞踊、あるいは共同舞踏、美術と音楽両方を言葉だけで表現し、それらをちらちらと陰影にかがよわせながらダンスさせてみたい。果ては孤独を守護したがゆえに弓吹かれるぼくの詩を、天上より降る言葉と射しちがわせてみたい)
 蜂のように不穏な音立て脳裏をブンブン飛びまわる死にたい気持を追い払うのに辟易し、毎日の被校内暴力と家庭内での疎外感を往復することに疲弊し淋しさに咽び泣く生活の裡で、ぼくはこの中也の詩編に、空に浮べた墓に寝そべるような憩いを感じた、幾度も、いくども読み返したのだった。

  地球が二つに割れゝばいい、
  そして片方は洋行すればいい、
  すれば私はもう片方に腰掛けて
  青空をばかり――
      ──「この小児」

  私はその日人生に、 椅子を失くした。
      ──『港市の秋』

 少年期の愛読書を訊かれれば「中原中也詩集です」というほかはないし、たとい今の愛読書を尋ねられても『重力と恩寵』とともに即これが喉より昇るであろう。
 然り、これはいまにも徹るそれであって、これに愛着があるというのはなにか、一途な愛というものに執着をしているのがぼくであるのかもしれない。

  3
 現代では、好きなアイドル的存在を、「推し」というらしい。
 『推し、燃ゆ』という小説では、社会に適合できない人間の嵐のような内面戦争ですりへった心が縋りつく対象を「推し」という言葉で表現していたという印象があるけれども、まあ、あれほどに劇しい感情でなくても使える言葉のようである。
 少年期のぼくにとり中原中也とは『推し、燃ゆ』の主人公の激情に負けないくらいには重たく激しい感情を向けられる存在であったのであり、なんの不信もなくぼくは一途にかれの詩と魂の美しさを信じていた。
 かれの友人が「問題行動ばかりだったあいつを純粋に愛せるのは実際に話したことがないからで、詩でしか奴を知らない愛読者が羨ましいくらいだ」のようなことをいっていた覚えがあるけれども、その言葉が完全に自慢にきこえるくらいには中也が好きで好きでしようがなかった。いまであってもすこしは僻むし、会えるものなら殴られてもいいから会いたい、ぼくは昔流行した「会いたくて会いたくて会いたくて震える」という歌詞をいちども笑わなかった。なんで笑うんだ?。
 ぼくはほんとうに、中原中也に恩があるのだ。どんなにかれがイヤな人間でも、邪悪なところがかなりある人間でも、かれの悪口を他人の口からは絶対にききたくない。なぜといい、かれの詩はぼくの死にたい幾夜幾夜を慰め、生きたい朝へと励ましつづけてくれたのだから。ひっそりと告白をする。ぼくは、誰かにとってのそんな詩を書きたい。それだけは、ぼくの詩生活15年間を貫く意欲のひとつなのである。
 中原中也の魂とは、いうなれば、気骨のある少年性である。幼稚な少年の憧れる生を死に物狂いで貫いた、気合の入ったロクデナシである。だらしなさに真剣に向き合いだらしなく生き切った、最もだらしなくないストイックな堕落者である。primitive、この言葉がこんなに似合うひとは、中原中也と無頼派とパンクロッカー以外には、そうたくさんはいない。
 一言でいうと、ロックだ。
 実際に、ロック畑にファンが多い作家のひとりであるとおもう。
 かれは、かれのできる限界ギリギリまで卑怯ではなかった──あくまで、自分自身に対しての話。
 ぼくはかれの死因を愛す。死ぬまで生き抜いたという事実を愛す。自殺ではないという事実を愛す。
 脳腫瘍が原因で30という若さでくたばったのがかれの死であるけれども、WIKI情報で申し訳ないが、その病気のおおきな原因はストレスであるらしい。むりもないだろう。かのような生を、かのような貞節の守護を、たかが人間が永くできる筈がないのだから。30でストレスが原因の脳疾患で亡くなってしまうというのは、やはり早すぎるのではないか。それくらいに強い気概と詩生活を自己に課し、それを懸命に守護した努力家であるとぼくはおもう。
 というのもかれ、まともに働いたことがないのである。ほとんど、いまの定義でいうニートであった。
 まともに労働の対価としていただいたのはランボオの訳詩集の印税くらい、本人の詩集は自費出版であるし、一時期フランス語の個人教師をしていたが暴力的で自制の効かないあの男だからだろうか、
坂口安吾いわく生徒は一人、けっきょくやっていけなかったようだ。
 あのひとはインプットでいうと鬼のような論理的思考を発揮し、古今東西の哲学書をすごいスピードで読みえる──日記を読んでください、読了がはやすぎる。分厚い哲学書というものは、10冊くらいのほかの本と併読して二週間程度で読み終わっていいものなのだろうか?──のだが、アウトプットでいうといわゆる「詩的な言葉」以外は極端に苦手なタイプ、かれは散文詩ですらなんだかへたな感じがするし、エッセイは何を言っているのかよく解らない、悪文としての味わいすら希薄、しかも「なんで俺には解るのにおまえに解んねえだ」と侮辱するタイプであることは、かれのかずかすの喧嘩エピソードで想像ができるために、教師に向いているとはとてもおもえない。小林秀雄と大岡昇平という知性をして、「あいつは異様に頭がいいことは伝わるが、なにを言っているのかさっぱり解らなかったから、あいつの思想──じつは宇宙論もあったらしい、詩にそれがどのくらい反映されているかはこの二人にも把握できないらしい──を再現するのは不可能だ」といわしめる。ぼくの推測であるけれども、かれは「日常言語」で生きていない人間だ。
 話を戻すけれども、かれがニート的な状態であったという説明でなにがいいたかったのかというと、30で躰をくたばらせるくらいのかれの苦しみは、かれによってかれへ課せられたものが殆どであるように、ぼくにはかんがえられるのだ。社会的義務というものが、それによって生活がかかっている状態というものが、一切なかった。
 詩生活。かれは自分の履歴を、それだけで表現した。
 それではそんなかれがどうやって生活費を捻出できて、おびただしい酒代・飲み屋代・遊女へ支払う代金を払えたのかというと、大病院を経営していた父からの仕送りがあったからであった。
 中也は二代つづく東大医学部卒の医師の家系であり、甚だ勉強ができたかれもまた医師になることを望まれていたが、この大病院の院長先生、「俺は詩人だから働かない」とのたまい京都や東京で遊びまわる不良息子に、毎月大金を送りつづけた。そのせいで、うろおぼえであるが大病院を経営する実家は一時期傾きかけたと読んだ記憶がある。
 父が中也への仕送りを決めた挿話が、ちょっとひどい。
 医師にさせたかったのに学業すら放棄した十代の不良息子、「俺は詩人として生きる。働かない。仕送りをしてくれ」と頼みこむも、そんな話はすぐにのめるものではない。「ダメだ」といっていた父であるが、「そんなに詩人だと自負するなら、詩をみせろ」と要求。中也、自作を披露。黙り込んで読みすすめる父。涙、頬を流るる。然り。()い詩だったのである。佳い詩だと、みぬいたのである。
 すばらしきは、けだし父の文学的素養。中原の詩才を存分に発揮させる状況をととのえた父の慧眼、日本文学史へ多大な貢献をしたといえるであろう。
 父、「中也、お前は天才だったのか」と日本文学史的に完全にまっとうでそろそろ歴史的に正しいとも断言できる評価をくだし、あろうことか、次の言葉をかれへいう。
「わかった、お前は、働かなくていい」
 とんでもない父子関係であった。
 元より長子である中也を可愛がりすぎ、甘やかしていた父であるけれども──このお坊ちゃん育ちの甘さが、また卑俗に歌われた中也の詩に甘美で品あるものを与えたともいえるとしばしば解釈されている。ちなみに一応言っとくと、ぼくも甘やかされて苦労が少なく育った自覚もかなりある──、あながちこの「天才」という息子への評価をさせた父の文学的素養も、「親ばかにすぎなかった」と信用できないわけではないのである。
 中也の父親はおなじ東大で医学を学んだ森鴎外の小説を愛読していて、若い頃は同人もやり、鴎外と手紙のやりとりまでしていた生粋の文学青年だったのである。
 中也の詩にながれるアンニュイなリリシズム、卓越した才能を見抜いたのはかれの文学史上の偉大なる功績ともいえ──ただ、ぼくの意見でいうと中也の詩編は鮮やかな才能が発見されやすいタイプの作風であるため、見抜くひとはそう少なくはないようにおもっている。実際にはやばやと若手の文学者たちに才能を見つけられ、対人関係に関する性格に甚だしい難があるのにも関わらずちやほやとされていて、それだってかれが自尊心を高めすぎた原因の一つでもありそうである。そして、その肥大化しすぎた自尊心がかれ自身をくるしめた、しかしそれもまた詩に凄み・美しさを与えたというような推測も成り立ちえる。死後に評価されたというよくみられる解釈には、ぼくは半分反対である。若手の文学者たちもふくめたくさんの天才たちと交流しえていたのは、中也が天才詩人だという評判が先にあったからでもある。一般に知れ渡ったのは、死後に雑誌が富永太郎と並べて特集しまくってからというのはそうである──、部外者のぼくなんかは「中也を詩に専念させてくれてありがとうございます」とでもいいたいくらい。
 とはいえ、イヤイヤ働きながら書いた中也の詩もそれはそれで良さそうであるけれども。ぼくはぼくの能力の範囲でこれをやります。いや、ぼくは淋しがりやが原因でむしろ無職が向いていないから、労働じたいそんなにイヤではない。

 以下の段落、女性は読まないことをおすすめします。
 それで得た金で飲み屋の女性や娼婦と遊び耽り、仕送りもすぐになくなるので友人に借金をし──とりたてに来た友人をぶん殴って追い返すという暴君っぷり、ほんとうにこういうところはどうかと思う。芸術の天才だからというのは言い訳になってほしくない。ぼくは度々ひとりごちる、「なんでこんな男を好きになったんだろう?」、と──、実家に「足りないからまた送れ」という催促は頻繁、そのくせ「おい安吾、おまえは週に何度女にありつける? 俺は週に二度しかありつけない。できれば二日にいっぺんはありつきたい、貧乏は切ない」と酒焼けと喫煙で荒れに荒れた低音のガラガラ声で呻き、およよおよよと涙をながしながら友人の坂口安吾に女性蔑視まるだしの愚痴──娼婦という職業が卑しいから蔑視しているとみなしているからではなく、「ありつく」という食事につかう際の最低な言い方から、かなりそこで働く女性をモノとしてみなし、蔑視しているほうだとぼくは判断している、これは時代性もたしかにあるかもしれないが、あの時代であってもかれよりはだいぶ女性蔑視していない男は多くいると、近代文学をこのんで読むぼくは判断するのである──をいうという、はっきりと物申させていただくならば、中也は人間的に問題がありすぎる。

  *

 他人から絶対に聞きたくないとかいいながらぼく自身がかれの悪口をけっこう書いたが、かれのいわば”男男したダメさ”というのがすこしは伝わったのではないかと思う。
 詩人であり続けるということ。これは、人間が最も人間らしく生きる道の一つであるが、また人間が人間から離れて往くというかなしい宿命と切り離すことはできないような推測が、ぼくにある。

  4
 ぼくは人間・生を憎んできたのか?──然り。
 然り、というほかはない。
 しかし憎しみとは愛と表裏一体であるという言説を、ぼくは疑いながらも支持している。人間、そして生と無関心ではいられない種というのが、文学という愛すべき杖、そして生きるための玩具と絶縁できない人間のそれではないだろうか。
 ぼくは人生というものへ絶縁状を叩きつけてやりたい気持がいまだって残っている、さすればその先にあるものはなにか?──自殺、或いは「ぼく」を生きるということ、ただこのふたつであり、ぼくは二度と前者を選んではいけない。
 後者の生き方は現代ではすこぶる難しく、たとえば坂口安吾の主張した「堕落」というのは現代社会で為すには不可能であるように疑われてならない、ギリギリ実現できるところでいうと、外れた世界で働く個人事業主なのかなくらいにはおもえるが、それも中原の生き方と比較すれば、しっかりと社会人的なそれであろう。
 中原のような、社会と結びつきながらも詩人に専念できる環境というのは、果して、いまの世にあるだろうか?
 ぼくは中原に憧れ、そのように生きたいという幼稚な感覚をもちつづけている。認めたくないものを認めない、納得できないことにはすべて言い返す、そんなパンキッシュな生き方ができたらと、いまであっても思っているのである。が、ぼくはそれをある時から捨てた、それを続けることをえらばなかった、否、えらびえなかったのかもしれない。何故といい、ぼくは生き抜いて了ったのだから。二十歳で死んでいれば、できたのかもしれない。だが、ぼくは、それをしなかったのだ。
 中年を迎えて尚、中也を読み、憧れ、人生を憎み、そして、生きつづけた。社会や他者とテンポ正しく握手をし、ささっと詩人でありたい自分にゴム毬のように戻ろうとし、されどかれの詩人性に一途に自然にあこがれていた頃の気持には、もはや戻れまい。すこしばかりは大人に、なりたくなかった大人になってしまったのだ。時々、ぼくはそれに愕然とする。かの思春期らしい違和感を忘れた自分に、ショックを受ける。それが生きるということ、それが生きるということなのだろうか。
 ぼくは生を憎んできたけれども、やがてはそこに可憐なものをみいださざるをえず、これまで死にたい気持ちをあやしながら生きてきたのだった。
 ぼくは人間を憎んできたけれども、人間に美をみいだそうとひっしで読み、書き、それくらいに人間へ愛着をもちつづけた結果、人間が生き抜こうとする姿ただそれじたいに対し俗悪の美を発見した気になって、すこしだけだけれども、なんだか気楽になっちまった。
 なぜ大嫌いだった生と人間に、それをみいだそうとした?──好きだからだ、結局は。好きで好きでしようがないから嫌いになるまで向き合い、そうであっても好きすぎたから、そういう風に考え生きてきたのかもしれない。
 だが、ほんとうは、ぼくは、絶対にいまのように気楽にはなりたくなかった。気楽にはなりたくなかった。
 中原中也のように、不幸に、或る意味の話ではあるが美しく生きたかったのに、ぼくは、それなりの幸福をつまみ食いする、醜く、不潔な生き方をずっとしてきたのだ。その半端な不潔を、どうしようもない醜を、肯定しちまったのだ。
 中也は?──つまりは、こんな、気楽になりたい気持を、ぶん殴って生きてきたのかもしれぬ。
 だから、凄いんだ。鬼なんだ、こういうひとたちは。中原中也。坂口安吾。太宰治。ぼくはこの男たちが、泣きつきたいほどに好きだ。たかが人間のくせに、宿命として人性をもっているくせに、文学に身をついやし、文学の鬼になっちまって、そうであるのに、どうかかれらの文章を読んでほしい。人間の、人間らしい、卑俗な優しさがこぼれている。
 中也は認めなくないものを「認めない」と怒鳴り散らしながらぶん殴って生きてきたが、なによりも自己のそれをぶん殴ってきて、だから病み衰えたし、大切な子供を失ってからは失意になり、それでも尚、詩人でありつづけた。ぼくは、楽になってでも三十を三百六十五日生きた。三十一、そして三十二になった。いまは三十三だ。
 中原みたいに生きるのは、ダメなことだ。心の一面ではそう想いもしつづけ、中原みたいに生きるのはダメなことだという言説を他者の口から聞いたら怒りに燃えるし、のちに家で泣き崩れるのがぼくであるのだし、嗚、ぼくは生きた、ぼくをぼくが生きた。ぼくと生を憎みながら。ぼくは生きた。詩を書いた、だからなんだ。ぼくは中原のように生きたかった。中原のような詩を書きたかった。中原くらいの詩人になりたかった。

  *

 詩と絶縁したランボオより、才能枯れて尚フランスに留まり書きつづけたヴェルレエヌのほうが、詩人として偉い──中原に、全面的に賛成。

 詩人とは時々、生きることを生きない人間であると評され、ぼくもまた、その観念を疑りながらもちつづけている。そうでありたいと時々感じながら、そうではない自分を責めることだってしばしばなのである。そして、それをめざせば社会生活・日常生活と両立できないことに、いつだって頭を抱えているのがこのぼくなのだ。
 しかし、詩人らしい詩人ほどに生きることを生きた人間も、そうたくさんはいないような気がする。詩人とは文学の鬼であり、しかし、人間として鬼になってはいない。どこまでも人間くさい、そうであるのが、ぼくの大大大好きな詩人たちである。
 詩人にとって生きるとは書くことであり、書くことは生きることであり、書きつづけるとは、ぼくにとり自殺への誘惑から躰を引き離しながら生にしがみつくということであり、ぼくにとってはたぶん、人生への絶縁状を書くことを先延ばしにする行為が詩作であるのだとおもうし、生きることそれ自体が死にたい幾夜を否定し生きることを肯定しようとする祈りそのものなのであって、それが、二十歳以降も生きてしまったぼくの人生。
 肯定。
 肯定しよう。
 だからあなたがたとえ死にたくったって、ぼくのように「自分は死ぬべきだ」というメッセージが心に深く深く刻まれていたって、あなたの、あなた固有の、あなたという一特別の一特別な存在それじたいを、苦しい幾夜をのりこえ頑張ってきた現在の実在を、ぜったいにぼくは肯定できる。
 青津亮。
 そう署名をしてでも、あなたが生きているということの俗悪の美、人間としてのかわゆらしさを肯定できる。
 ねえ、だから君も──人生への絶縁状を書くのは、今日はやめよう?

人生への絶縁状を書くのは今日はやめた

読んでくれてありがとうございました。死にたい夜に読みに来てくれたら、うれしいです。生き抜こうね。

人生への絶縁状を書くのは今日はやめた

エッセイ 自伝・詩観・中原中也について

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-04-27

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