The Quantum of the Opera

本作は某賞応募原稿(落選)です。

はじめに

 まず、この物語は限りなく実録に近いフィクションであることをお伝えしておきます。また、賞への応募にあたり文字数制限があったため、簡潔な「だ・である」調に留めることをご容赦ください。以下、私が人生で初めて小説を書くに至った経緯をご説明します。


 昨年、親友とその婚約者が行方不明になった。本編ではふたりの名前を赤石透、黒田杏としている。当然ながら仮名である。透と杏さんが交際を始めたのは去年のバレンタインデーだ。私は透からその日に告白すると事前に聞いており、吉報を我が事のように喜んだ。杏さんはすっかり透に惚れ込んでいる様子で、世の中にこんなふうに愛し合える恋人同士がいるのかと感心した。妻に対して少々申し訳ない気持ちになったほどだ。

 ふたりは同棲を始め、互いの実家を訪れ、結婚の話を進めた。しかし、付き合い始めて四ヶ月ほどで透が姿を消した。夏至を待たず杏さんもいなくなった。以来、連絡がつかない。

 私は透の両親に請われて彼らのマンションを訪れた。杏さんの両親も加わって手がかりを探した。見つけたのはベッド下に赤と黒の二通の封書。両方に領収書が入っていた。赤い方は宛名が黒田杏。発行者は『pâtisserie(パティスリー)Quantum(クォンタム)』で、店名と住所のみが印で押され、但し書きには「特製オペラケーキ(5番ボックス)」とあった。全員が首をかしげたのは、金額欄の「Fluctuation」の文字。

 そして、もうひとつの黒い封筒の両端に指をかけて寄せ、内側に空間を作って片目で覗き込んだその時、私は中にある紙の中央(金額欄)にじわりと文字が浮かび上がるのを見た。あれは決して見間違いではない。宛名は赤石透、金額欄にはやはり「Fluctuation」と書かれているが、こちらは発行者が無記載だった。領収書の日付は、私が封を開けたまさにその日だった。

 不可解なことばかりだが、私は失踪した杏さんの顔を思い浮かべ、そこに手がかりがあると直感した。違和感は最初からあったのだ。

 マンションの鍵を借りて調査を続け、私はついに透と杏さんに何が起きたのかを完全に理解した。そして、この荒唐無稽な話を世に広めなければならないと強く感じた。賞典が文芸誌掲載のコンテストに応募することにしたのはそのためである。

 しかし、私は素人だ。本編はAIを使うなどして推敲を重ねたが、理解しづらい部分があっても、それは「ゆらぎ」だと思ってほしい。読者の方々が「ゆらぎ」を放棄しないことを願っている。

『The Quantum of the Opera』

 繁華街の、とある地下小劇場へと続く階段の手前に『Eric』というバーがある。常連のほとんどは演劇人で、昭和の時代から通う客の中には名の通った演出家やプロデューサーもいるらしい。それに混じって、その夜は観劇を終えた人々が我先にとドアベルを鳴らしてEricに入っていった。年の瀬が迫り、氷点下の風が吹いて白い雪が舞い始めている。

 赤石透もそういった客の一人だった。演劇に興味はないが、親友に是非にと誘われて時間を空けた。その親友が熱を出して来られなくなった。雪の予報が出ているし帰ろうかと迷ったが、支払ったチケット代が惜しくて一人劇場に向かったのだ。無名の俳優たちによる演劇『ラ・フォッスの囁き』は「オペラ座の怪人☆座・サイバーパンク!」と銘打たれた前衛劇。脳内を爆竹で引っかき回されたような、奇妙な興奮状態を引きずったまま透はEricの扉を開けた。後ろから「すいませんね」と声がしてタクシー運転手が顔をのぞかせ、カウンター最奥の客が席を立つ。透はそこに腰を落ち着けた。

 ボウモアのソーダ割りを頼んで、ポケットに突っ込んでいたチラシを広げる。

「お一人でご覧になったんですか?」

 隣席の女性だった。しっとりした黒髪に、少々時代錯誤な真っ赤な口紅、切れ長の一重。キツそうな顔だと思ったとき、不意に柔らかい笑みを向けられ心臓が跳ねた。抗うように事務的な態度で接したものの、無駄な抵抗だった。

「実は、私、あの劇団に好きな人がいて」

 不可解なものだ。彼女が別の男に心を奪われているとわかった瞬間、恋に堕ちたことを認めざるを得なくなった。嫉妬を隠し、マティーニで淡く色づいた彼女の頬を見つめる。

 女性の名前は黒田杏。主役のファントムを演じた俳優の幼馴染で、長い片思いの末に告白して振られ、今は友人関係だという。けれど恋心は消えない。

「黒田さんなら、素敵な人がすぐ見つかるのでは?」

 杏ははにかんだ笑みを浮かべた。

「彼を見てると心が揺さぶられるんです。ドキドキしない恋のほうが長続きするって言われるんですけど、もし誰かとお付き合いしても、彼へのドキドキは消えない気がして」

「試しに誰かと付き合ってみてはどうですか? 軽い気持ちで」

「みんながそう言うんですけど……」

 帰り際に連絡先を尋ね、まずは恋の相談相手として友人ポジションを得よう。そんな画策をしながら透はグラスを傾けた。しかし、

「杏、一緒に打ち上げ行くか?」

 たったひと言でファントムは女を連れ去った。杏の瞳には熱が宿り、透への「楽しかったです」という言葉は社交辞令に過ぎない。

 透は足繁くEricに通った。『ラ・フォッスの囁き』を演じた劇団について調べ、別の劇場に再度公演を観に行った。杏と偶然を装って再会したかった。年が明け、小劇場近くの稲荷神社に参拝し、Ericに顔を出した。透の他に客はおらず、バーテンダーは年始の挨拶を口にしながらボウモアの栓を開ける。

 これまで気に留めていなかったが、ずいぶん若いバーテンダーだった。茶髪の癖っ毛に色白の童顔。クリスマスに天使のコスプレをして女性客が騒いでいたのを思い出した。酒場には不似合いな無垢な印象を受ける。

「杏さんをお待ちですか?」

 天使はボウモアのソーダ割りを透の前に置いた。透は「さあね」と肩をすくめる。

「杏さんの心は不安定です。迷える仔羊ですね。まわりのご友人も心配しています。相手がはっきり突き放せばいいのですが、あの界隈では浮き名を流してるくらいで。罪深い男です」

「同感です」

「赤石様が杏さんをお救いになっては? 新しい恋のお相手として。今夜、杏さんはあの劇団の方々の新年会に行っているはずです。ファントムと、彼の恋人もいます。同じ劇団員ですから。杏さんは平気なふりをして笑っているでしょう。新年会は、駅と反対方向にふたつ先の通りの『主旋律』というダイニングです」

 透はコートに手をかけたが、立ち上がるのを躊躇した。透は劇団とは無関係。偶然を装って声をかけたところで杏を困らせるだけではないのか。

「群れをはぐれた哀れな仔羊。狼はなぜ仔羊に優しくするのでしょう。――それは、おまえを食べるためさ!」

 演劇口調で、バーテンダーは爪を立てて襲いかかるような仕草をする。役者志望のアルバイトだろうか。

「ファントムは杏さんの幸福を奪う、強欲な狼なんです。早く連れ出してあげてください。私では無理なので」

「君は、杏さんを――」

「救いたいだけです。私自身は恋愛に興味がないのでご安心ください」

 透がわずかに腰を浮かせると、バーテンダーは「いってらっしゃい」と天使のような笑みを向ける。その笑顔に背を押され、透は外へ駆け出した。頬が切れそうな寒さの中、全力疾走する男を通行人が物珍しそうに目で追う。そして、目的地にたどり着く前に透は杏を見つけた。

 店の手前の曲がり角に、杏はひとり佇んでいる。すぐ透に気づき、頬を拭って「偶然ですね」と微笑んだ。目は赤く充血している。

「泣いてたんですか? 劇団の新年会って、Ericのバーテンダーから聞いたんですけど」

「……あ、ちょっと、居づらくなって」

「じゃあ、僕と飲み直しませんか?」

 駅近くの居酒屋で、透は親友の助言を思い出して聞き役に徹し、帰り際に杏の連絡先を手に入れた。そして、一月の間に二度、ふたりでEricを訪れた。バーテンダーは満足そうだった。

 二月の最初の金曜のことだ。透と杏は一緒にEricにいたが、ファントムの電話で杏は帰った。透はひとり残され、降りしきる雪のせいもあって客は彼だけになった。

「杏さんはまだ惑わされていますね」

 バーテンダーの言葉に、透は苦笑する。

「彼女の目にはファントムしか映っていない」

「恋は麻薬です。好きな相手のことを考えるだけで心が高揚する。次はいつ会えるだろう、今日は連絡が来るだろうか、明日にはメールがあるかもしれない。期待と失望が渦巻き、その不確実性が杏さんを苦しめているんです。不安が増せば増すほど、不意の誘いは甘美なご褒美になる。杏さんはその甘さを忘れられない」

「それは僕もですよ」

 透の自嘲を、バーテンダーは無垢な微笑で受け止めた。そして、「これを」と名刺サイズの紙を差し出す。白地に金の箔押しで『pâtisserie(パティスリー)Quantum(クォンタム)』と書かれていた。住所は番地と建物までEricと同じだが、最後に「B1 5番ボックス」とある。

「この建物に地下があったんですか?」

「招待制パティスリーです。ご用意できるのはオペラケーキのみですが、特殊製法で、その場でしかお召し上がりになれません。ご予約は必ずおふたりでとなっています」

 バーテンダーはショップカードを裏返した。「招待状」とあり、「2月14日午後9時」と日時まで記載されている。その下の限定一組という文字を見て透は眉をひそめた。

「警戒なさらないでください。金銭のお支払いは必要ありません」

「ただより高いものはありませんよ」

「店主の道楽なんです。特製オペラケーキを召し上がったお客様が幸せになってくれればいい。ただし、何もいただかないわけではありません」

 透はまた眉を寄せる。

「そんなに怖い顔をしないでください。杏さんの惑う心をお支払いいただくんです。お渡しする領収書の金額欄には『Fluctuation(フラクチュエーション)』と記載します。日本語に直訳すると『ゆらぎ』。不安や迷いを支払いという形で手放し、幸せや愛を手に入れてほしいという意味です」

「――ゆらぎ、ですか?」

 バーテンダーは透の問いかけに「はい」と頷き、天使のような笑みを浮かべる。

「人間はそもそもゆらぎやすいもの。しかし、誰かの眼差しがゆらぎを落ち着かせるのです。想像してください。赤石様が杏さんと見つめ合い、愛し合っているところを。あっ、いかがわしい意味には捉えないでくださいね。色欲に溺れては再び道を誤らないとも限りません。お互いを見つめ、お互いを尊重し、労り、病めるときも健やかなるときも――」

 透が思わず吹き出すと、バーテンダーは「もう」と血色のいい唇を尖らせる。毒気を抜かれ、透は招待状を受け取った。天使は天使なりに、杏との仲を取り持とうとしてくれているのだ。

「彼女に断られたら連絡を入れたほうが?」

「断られませんよ。二月十四日、街はチョコレートの匂いと恋人たちの囁きで溢れ、ファントムは恋人と仲睦まじい時を過ごすんです。赤石様がお誘いしなくても、杏さんはここに足を運ぶはずです」

 バーテンダーの言葉は、この時の透には確定した事実に思えた。しかし、招待状を受け取って店を出て、スマホで杏の番号を表示して逡巡する。帰りの電車の中で『pâtisserie・Quantum』を検索したが無関係なケーキ屋ばかりだ。

 親友の顔が脳裏を過り、相談しようかと思ったが止められそうでやめた。それに、妻に浮気されている男の話など役に立たない。まだ不倫と確定したわけではなく、親友の妻が別の男と腕を組んで繁華街を歩くのを、今年に入ってから二度見かけただけだ。恋人同士でも夫婦でも、愛は永遠ではない。愛は常にゆらぎ、移ろっている。

 シャワーを浴びながら、自分がそのゆらぎを利用する側だと透は気づいた。杏の心がもっと大きくゆらげば、あの男から離れるかもしれない。杏が手に入るかもしれない。

 しかし、誘って断られたら?

 迷いとともに恐れも胸にある。杏もそうだろう。彼のそばにいたい、彼に嫌われたくない、彼に振り向いてほしい。欲望には不安がつきまとい、ゆらぎ、迷う。透は杏が欲しいからこそゆらぎ、迷っている。その欲を認め、濡れ髪のまま電話をかけた。バレンタインデーの一週間前のことだった。

 透はEricで杏と待ち合わせた。pâtisserie・Quantumについては何も話さず、サプライズでおいしいチョコレートケーキを用意するとだけ伝えていた。その日、杏が透に渡した小箱は、黄緑色の包装紙に黄色のリボンの、いかにも義理チョコらしい配色だった。

 ボウモアのソーダ割りとマティーニのグラスが空になる頃、バーテンダーがCLOSEDの札をかけた。店内には数組の客が残っていたが、透と杏はバーテンダーの案内で店の奥の突き当たりの、アンティークのエレベーターに乗り込んだ。

「囚われたみたいね」

 檻のような庫内で杏が言い、エレベーターは鈍い音をたてて止まる。地下は薄暗く、降りてすぐのところに年季の入った扉があった。丸いガラス窓がついているが、中は暗い。

「ご予約の5番ボックス席です」

 バーテンダーが扉を開けて透と杏を招き入れると、ふたりは感嘆の声を漏らした。ベルベットの椅子は気品あるワインレッドで、座り心地は雲のようだ。左手に見下ろす舞台では男女が愛の歌をうたい、正面のバルコニー席でドレスの貴婦人とシルクハットの紳士が談笑している。天井の豪奢なシャンデリアが、無数の灯を揺らめかせていた。

「オペラ座ね」と杏。

「まるで本物みたいだ」

 透が口にしたそのとき……、「ゲコッ」と聞こえた。会場はざわめき、観客の視線が舞台に注がれる。

「ゲコッ……ゲコッゲコッ……」

 紛れもなくプリマドンナの口から聞こえた。狼狽した女は何か言おうとしたが「ゲコ」しか喋れない。

「続けろ!」

 誰かが声をあげる。ヒキガエルの奇妙で不穏な歌声が、会場にひどい静寂をもたらした。

 杏がハッと何かに気づいて天井を見上げ、その視線を待ちわびていたかのように揺らめくシャンデリアの灯が落下する。観客の叫びと、会場をゆらす破壊的な落下音。そして、闇が訪れた。

「黒田さん、大丈夫ですか?」

 はい……、と聞こえた気がした。彼女の気配はたしかに感じられるのに、透がいくら手を伸ばしても、そこにあるのは滑らかなベルベットの手触りだけ。

「どういうことだ!」

 透は声に怒りを乗せた。もちろんバーテンダーに向けたものだ。すると、手すりの向こうに蝋燭のような淡い光が灯り、バーテンダーが背に天使の翼をつけて現れた。先ほどの映像を引きずっているせいか、まるで宙に浮いているようだった。光は手すりの向こうに留まり、杏の姿は見えない。

「安心してください。杏さんはちゃんとこの空間にいます。ただ、とてもゆらいだ状態なんです。この蝋燭の炎のように。先日言いましたよね。迷い、惑い、悩んでゆらぐ杏さんを救えるのは誰の眼差しですか? 杏さんはあなたの隣に、いえ、あなたとともにそこにいます」

 赤石さん、と杏に呼ばれた気がした。助けを求めるように、彼女の手が触れた気がした。バーテンダーは慈愛を湛えて微笑み、それを見て透はこれでいいのだと確信する。

「オペラケーキを作りましょう。パリのオペラ座がその名前の由来とされ、七つの層は観客席を表現しているという説があります。七というのは特別な数字ですよね。ラッキーセブン、七福神、神の創造の七日間、そして七つの大罪」

 天使の声は柔らかく透きとおり、讃美歌を聞いているような心地よさだ。透は杏の存在を近くに感じ、敬虔な気持ちに包まれていた。

「傲慢――、彼の心を射止めるのは私であるべきだという傲慢」

 天使は、真っ黒なゴブレットを宙に浮いた白い皿の上に置いた。どこから取り出したのかもわからない。まるで手品だ。次に、三角フラスコを出して紫の液体をゴブレットに注いだ。

「憤怒、なぜ他の女を選ぶのかという憤怒。嫉妬、彼の隣にいる女への嫉妬。怠惰、新しい恋に向かおうとしない怠惰。色欲、きっと彼に抱かれたかったはず」

 そうして次々と液体を注いでいく。緑、赤、青、ピンク。最後に黄色と橙色のふたつを同時に出して、「強欲と暴食は、杏さんにはあまり関係ないかもしれませんね」と言いながら、天使はやはりそれをゴブレットに注いだ。

「人間はそもそも罪深い。欲望に溺れ、感情にひっかき回され、その内側は魔女の鍋のごとくごった煮の状態になっている。まさに、この混じり合った液体のように。視界は濁り、本当の愛は目の前にあるのに気づかない。カオスを抱えて正しく生きるのは難しいと、赤石様も思いませんか?」

「はい」

 透は迷いなく口にした。天使はフワリと手すりを乗り越え、5番ボックスの中にやってくる。明かりは天使の顔とゴブレットだけを照らし、甘いチョコレートの香りが空間を満たした。ゴブレットだと思っていたものは、チョコレートでコーティングされたオペラケーキだった。

「さあ、赤石様の手で杏さんを救ってください」

 手渡されたナイフを、透はオペラケーキに刺し入れる。陶器と金属のぶつかる音がし、断面にそっと隙間をつくった。すると、かすかに椅子の軋む音がし、ガス燈が灯る。透の隣で、杏が笑みを浮かべていた。これまで見たことのない深い笑みを。

「赤石さん、私、不思議な体験をしたわ。とても不確かな霧の闇を彷徨っていて、今にも消えてしまいそうな気がした。消えていたのかもしれない。ただ、赤石さんの存在をずっと感じていた。それが私を救ってくれたの」

 その瞳に、あの男を見つめる時の浮かされたような熱はなかった。しかし、また違う熱がそこに宿っている。彼女自身への確信、そして透への信頼だ。

 透は杏の手をとり、「愛してます」と曇りのない眼差しで告白した。杏は拒むことなく手を握り返す。天使は羽音をさせ、手すりの向こうへ飛び退った。

「おふたりとも、特製オペラケーキのこともお忘れなく。七つの層がすべて均一に揃い、至高の断面を描くpâtisserie・Quantum特製オペラケーキです。杏さんの心からFluctuation(ゆらぎ)が消え去ったこと、とても嬉しく思います。私の役目はこれで果たされました。杏さん、どうかお幸せに」
 
 天使は闇の中へと飛び去っていった。手すりには赤い封筒が残されており、中身は領収書だった。以前聞いた通り金額欄には「Fluctuation」の文字。宛名は黒田杏となっている。

「不安や迷いを手放したという、記念のようなものだそうです。あのバーテンダーが言っていました」
 
 杏はその文字をながめ、不思議そうに首をかしげた。

「なぜあんな不安定な状態でいられたのか、自分でもよくわからないわ。今はとても穏やかで、なんの迷いも感じない」

 ふたりはオペラケーキを食べさせあい、これからのことについて話した。暮らす場所、両親への挨拶、結婚式の日取り、新婚旅行先、子どもは何人がいいか。迷いはなかった――5番ボックスにいる間は。

 杏を送り届けて自宅に戻った透は、ふと夢から覚めた気分になった。コートのポケットから出てきた、小さな義理チョコのせいだった。5番ボックスでの出来事は酔った末の妄想ではないか――そう考えたが、杏からは「おやすみなさい、愛してる」とメッセージが届いた。

 夢ではない。しかし、杏も酔っていたため「あの夜のことは忘れて」そう言われる覚悟をした。しかし、杏は透に迷いのない愛を向けてきた。透は胸の奥のかすかな疑念から目をそらし、これで良かったのだと考えた。罪深い男に振り回されて杏が涙を流すよりよほどいい。

 童顔のバーテンダーは翌週には退職していた。透はバーの店員にpâtisserie・Quantumのことを尋ねたが、誰もが首をひねるだけだった。杏は「まるで私たちを結びつけるために地上に舞い降りた天使みたい」と言った。

 ふたりは間をおかず同棲をはじめた。杏は幼馴染からの連絡に社交辞令で応じるようになり、劇団の集まりにも行かなくなった。Ericで劇団員と顔を合わせることもあったが、隣には透がいた。

 ゴールデンウィークには互いの実家を訪れて両親に挨拶し、ふたりの左手の薬指には婚約指輪があった。結婚の準備も何の問題もなく進んでいたが、日を追うごとに透の胸の奥で疑念が膨らんでいった。

 六月半ばのある日のことだ。Ericの前で偶然ファントムと鉢合わせたのをきっかけに、透の疑念は確実なものとなった。

「あんた、杏に何をしたんだ? 変な薬やらせたり、怪しい宗教に入らせたりしてるんじゃないだろうな?」

 相手は明らかに喧嘩腰だった。「酔ってるんですか」と透は軽く受け流そうとしたが、男は強引に行く手を阻む。

「あんなのは杏じゃない。俺が子どもの頃から知ってる杏は、あんな気味悪い笑い方はしない。カルトで洗脳された知り合いがあんな目をしてた!」

「言いがかりはやめてください」

 透は逃げるように立ち去ったが、頭の中は魔女の鍋のようだった。本当はずっとゆらいでいたのだ。

 あの時の、天使の言葉への無批判な信頼はいったい何だった?
 非現実的な状況を正しいと感じる不可解な確信と、理由なく湧き上がった敬虔な気持ちは?
 バーテンダーは怪しい薬を使って自分たちを騙したのでは?

 透にはすべて疑わしく感じられた。もっとも彼を苦しめたのは杏のことだ。

 今の杏は、自分が愛した杏なのか?
 杏は本当に自分を愛しているのか?

「なぜ僕はゆらいでる?」

「人間とはそういうものです」

 ひとり言に返事があり透は顔をあげた。あの童顔のバーテンダーが、翼を背負って立って……、いや、浮いていた。

「迷える仔羊を導くのが私の使命。基本的に女性を担当しているのですが、赤石様には杏さんの件でお世話になりましたし、特別に。オペラケーキはごちそうできませんが、どうぞこれを」

 天使は黒い封筒を差し出し、透は敬虔な心もちでそれを受け取った。封はされておらず、中身を確認しようとしたら「ストップ」と天使が止める。

「その封筒の中には赤石様のゆらぎがあります。誰の眼差しでそのゆらぎを消し去るのか、よく考えてから開けてください」

 透が手元の封筒に視線を落とすとやわらかな羽音がし、顔をあげた時には天使は消えていたのだった。

おわりに

 本編をお読みになり、私の犯したふたつの罪に気づいただろうか。ひとつは比較的わかりやすい。透がベッド下に隠した黒い封筒を、私が開けてしまったことだ。

 透は自分の手で荷物をまとめ、杏さんが仕事に行っている間に出ていった。スーツケースを引いて、電車に乗り込んだところまでは足取りが掴めている。杏さんは透と連絡がつかなくなると、会社や実家、思いつく限り関係者に連絡をとり、マンション管理会社に長期不在を伝えて家を出た。マンションは完璧に片付けられてベッド下にも埃ひとつなかった。杏さんが手がかりを掴んだのかどうかはわからない。電話応対した管理会社職員によると、受け答えにおかしなところはなかったそうだ。

 これは私の憶測に過ぎないが、杏さんはあの封筒を見つけていたのではないだろうか。それを敢えてそのままにし(おそらく彼女にはそれが正しかった)、自分の領収書が入った赤い封筒を一緒に隠し置いた。

 しかし、あの黒い封筒は私の手で開けられてしまった。金額欄に「Fluctuation」という文字が刻まれ、私は、親友からゆらぐ心を奪ってしまった。彼らが音信不通でいるのは、彼らにとってそれが正しい選択だということだ。正しい道に生きるふたりならいずれ戻って来るだろう。私はその時どう接すればいいのか。私の知る親友はきっともういない。

 そろそろ、私のもうひとつの罪についても打ち明けねばならない。妻に関することだ。その罪ゆえに透と杏さんに起きたことを全て知ることができた。私と妻は、ふたりと同じ体験をしたのだ。

 私は親友の消息を探るため何度かEricを訪れ、地下小劇場にも通った。妻が見知らぬ男と仲睦まじく歩いているのを見かけたのはそんな時のことだ。透の捜索で家を空けがちにしたのが良くなかったのかと思ったが、妻の不貞はそれ以前からだった。私はそれをEricのバーテンダーから聞いた。茶髪の癖っ毛、童顔の天使から。

「奥様とあの男の関係は一昨年くらいからでしょうか。寂しかったのだと思いますが、体の関係に溺れても虚しさが募るだけです。今の奥様は迷える仔羊。道を照らしてあげないといけません」

 この先は説明するまでもないだろう。家庭は平穏だ。妻は自分の犯した罪を悔い、私に一途な愛を注いでいる。平穏な日常がここにある。しかし、かつて恋した妻の片鱗を、私はどこにも見つけることができない。それでも私は妻を愛し続ける。迷い、悩み、ゆらぎながら。

 人間はゆらぐものだ。
 ゆらぎは滑らかで自由で柔軟だ。
 ゆらがない人間とはいったい何だろうか。

 妻の凍てついた感情が私の熱で溶けることを願い、ここに筆を置くこととする。

The Quantum of the Opera

The Quantum of the Opera

親友の透はバレンタインに告白して杏さんと交際を初めた。しかし、四ヶ月後ふたりともいなくなった。 彼らのマンションを調べて見つけたのは赤と黒の二通の封筒。そこには奇妙な領収書が入っていた。 ※本作品は「はじめに」「おわりに」を含め全てフィクションです 参考:『オペラ座の怪人』ガルトン・ルルー 村松潔 訳(新潮文庫) (本文執筆人間/AI補助利用:小劇場演劇内容の提案他)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-04-23

CC BY-NC-ND
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  1. はじめに
  2. 『The Quantum of the Opera』
  3. おわりに